水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

ことばの真実  (第九戒)

出エジプト20:16、イザヤ6:5-7

 

序 ことば

 <ゾウーヒトーゴリラーネズミ>というと何の順番かわかりますか?脳の重さの順序です。平均するとゾウは4500グラム、ヒトは1400グラム、ゴリラは450グラム、ネズミは1.5グラムという順番だそうです。ゾウの方がからだが大きいとはいえ、人間よりも脳が重いというのはちょっと悔しい。

 でも、体重との比率でいえば圧倒的に人間の脳が重いにちがいないと思われます。ところが、体重との比率からいうと、ネズミの脳が一番重いのです。ネズミに負けた!悔しいですね。

 確かに、人間の脳はいろいろな動物の中で重い部類に入るのですが、人間の脳における最大の特徴はその重さではありません。人間の脳をほかの動物の脳と比べたとき、極端に発達しているのは、大脳皮質の言語中枢なのだそうです。人間というのは、ことばを使うという点において、ほかの動物と異質の存在であるということができます。

 そうだとすると、創世記1:27に「 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」とある「神のかたち」とは、言語を用いることができるという点であると理解することも出来るでしょう。ですから、神様は、私たちに聖書という書物をもってご自分の御旨を伝えてくださり、私たちは神様にことばをもって祈ることができるのです。

 また言語は、私たちが他人と、また神様とコミュニケーションを取るための手段であるだけでなく、ものを筋道たてて考えるための手段でもあります。大体8歳から10歳までに言語中枢の基礎的なプログラムは出来上がりますから、母語を正確に用いることができるように修練することが、その先の学力・思考力の基礎になります。

 私たちは、ことばを用いるという点で神と似たものとして造られているのですから、どれほど言葉を大切にしなければならないでしょう。言葉を軽んじてはいけないし、嘘をついたり悪口をいうなど悪用してはいけないのです。ことばを悪用することは、私たちをご自分のかたちとして造ってくださった神様を辱めることにあたるからです。

 

1.裁判において

 

さて、第九の戒め、「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。」出エジプト20:16)は、ことばに関する戒めです。狭い意味では裁判における証言にかんするものです。裁判では、目撃者の証言が重要です。ほとんどの裁判においてその証言に基づいて被告の罪状が確認されて、罪状に基づいてどのような刑罰が適切であるかが決められるのですから、証言が真実であることが裁判が正しく行われるための条件です。

 そこで、律法によれば証言者が一人では証言が真実だとは認められないことになっていました。証言者は必ず二人以上で、その複数の証言者たちの証言がぴったり一致したときに初めて、証言としての力を持ちます。

申命記19:15 「いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」

 

 このように裁判における証言は慎重に扱われたので、当然ながら、偽証という罪はたいへん厳罰に処せられました偽証人は、自分が被告を陥れようとしたのと同じ罰を受けなければならないと定められました。たとえば律法では、「しかし、重大な傷害があれば、いのちにはいのちを]与えなければならない。(出エジプト21:23)と定められていましたから、もしAという人が「BさんがCさんを殺すのを私は目撃しました」と証言したならば、Bさんは死刑にあたると証言したわけです。ですから、もしAの証言が偽りであることが判明すれば、Aは死刑とされました。このようにして、偽証を防止する対策がとられたのです。申命記19:16‐21

16**,悪意のある証人が立って、ある人に不正な証言をする場合には、17**,争い合うこの二人の者は主の前に、その時の祭司たちとさばき人たちの前に立たなければならない。18**,さばき人たちはよく調べたうえで、もしその証人が偽りの証人であり、自分の同胞について偽りの証言をしていたのであれば、19**,あなたがたは、彼がその同胞にしようと企んでいたとおりに彼に対して行い、あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。20**,ほかの人々も聞いて恐れ、再びこのような悪事をあなたのうちで行うことはないであろう。21**,あわれみをかけてはならない。いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を。」(申命記19:16‐21

 

目には目、歯には歯、手には手、足には足、いのちにはいのちです。偽証が、どれほど重い罪であるかがよくわかりますね。神は真実のお方ですから、偽りを忌み嫌われるのです。真実の神様は、私たちにことばの真実を求めていらっしゃるのです。

 

2.日常生活への拡張

 

 最近、裁判員制度というのが出来て、一般国民も裁判に参加するような時代になりました。とはいえ、日本の場合、私たちの多くはこの世の法廷で証言をするような機会は一生のうちにほとんどないでしょう。しかし、つぎの世の聖なる法廷には一人の例外もなく被告として出廷して証言することになります。「人には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」からです。

では、聖なる法廷ではどのようなことが問われるのでしょう。「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。」(2コリント5:10)とありますが、今日は特にことばについて言われていることに注目しましょう。主イエスはその裁きにおいては、私たちがこの世で口にしたことばの一つ一つについて各々その責任が問われるとおっしゃいました。

マタイ12:36「 36**,わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばremaについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。37**,あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」

 なんとこれほどまで神様は、私たちに自分の語ったことばremaに重い責任を問われるのです。レーマは語られたことばです。「その口にするあらゆるむだなことばについて」とあります。いったい、これほどの慎重さや責任感をもって私たちはことばを発しているでしょうか?文章に書くことばは重いけれど、話すことばは消えてしまうのであるいは軽く見ているかもしれません。けれども、口から発せられたことばも神の前では消えていないのです。

 「あらゆるむだなことば」と言われるのは、どういうことばでしょうか。「無駄な」と訳されていることばアルゴンは、「不注意なcareless」「効果のないineffective」「役に立たないuseless」といった意味ですが、主の最も大切な神への愛と隣人愛の戒めの観点からいえば、「無駄なことば」とは、要するに、神を愛することに反し、そして隣人を愛することに反することばの全てです。ですから、神様をけがし、神様を怒らせ、神様を悲しませるようなことばであり、また、隣人を苦しめ、失意落胆させたり、あるいは隣人の評判を落とす悪い噂を立てることや、偽りを言うことなどを意味していることになりましょう。こういう「無駄なことば」について、終わりの日には私たちは神様の前で一つ一つ申し開きをしなければならないのです。

 

3.ことばの真実

 

 神のみことばに照らすとき、私たちは自分の唇がけがれていることを認めないではいられないのではないでしょうか。預言者イザヤは嘆きました。

「ああ。私は、もう滅びている。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる」(イザヤ6:5私訳)

私たちキリスト者は、時々、神様の前で誓約をしますが、その誓いのことばに誠実でありたいと願います。あなたは洗礼のときに約束したことを守っているでしょうか。あるいは結婚式のときに、神のみ前に約束したことを誠実に守っているでしょうか。

ことばは人を慰め励ますために与えられているのに、人を傷つけ意気消沈させてしまうことばを語ってしまう。あるいは、井戸端会議で、そこにいない人について欠席裁判をして、貶めたことはないでしょうか。アウグスティヌスは修道会の規則の中に、「そこにいない人を貶める発言をしてはならない」と定めたそうです。ところが、修道士が話し合っていてもそういう欠席者について悪い噂を言う人々がいました。そのようなときには、アウグスティヌスは無言の抗議として静かにその席を立ったそうです。

 私たちはみことばに照らすときに、自分の唇が汚れていることを認めざるをえません。預言者イザヤのように、この唇を神様の御霊の熱い火によって焼いていただいて殺菌してもらわねばなりません。イエス様の十字架の血潮によってきよめてくださいと祈らねばなりません。

 

 悔い改めた上で、積極的に主のために正しい証言者、ことばの真実に生きる者となりたいと願います。最後にことばに関する薦めをエペソ書4章から二つ取り上げておきましょう。

 第一は、偽りを捨て、真実を語るということです。

エペソ4:25 「ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。」

第二は、徳を養い、恵みを与えることばを語ることです。

エペソ4:29 「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。」

 神様を愛すること、隣人を愛することにおいて励みとなるようなことば、それが徳を養い恵みを与えることばです。