老後を賢く生きる
老後を賢く生きる 南牧村老人会
19990525
はじめに
三年前から、家の近くに小さな畑を借りて、いろんな種をまいてお百姓のまねごとをしています。けれど、なにしろ経験がありません。今年四月なかば、ねぎを植えました。土を一杯かけてやれば元気だろうと思って、家内とふたりでせっせと土を深く掘ってねぎを植えたのです。ところが、十日ばかりすると、よその畑のねぎは元気なのに、うちの畑のねぎはつぎつぎとしおれてきたのです。「どうしてでしょうねえ?」と福山牛乳のおじさんに見てもらいました。「こりゃあだめだよ。ねぎを植える時は、又のところまで土をかけちゃいけない。かけると腐ってしまう。又の下まで土をかけて、土用までに土寄せを二回して、土用になったら土をうんとかけてやればいい。」と教わりました。経験がない、無知というのは恐ろしいものです。以来、福山牛乳さんには畑のことをいろいろと教わっています。
こんなわけで、私はまるでお百姓仕事には経験がないのです。私は、自分の人生の経験ということからいえば、みなさんのわずか半分や三分の二ほどではないでしょうか。戦争中や戦後やさまざまな所を通って来られ、ご苦労なさったみなさんに比べると、戦後生まれの私の経験や苦労など足下にも及びません。ですから、正直なところ、こんな私が、みなさんに何かをお教えするなどおこがましいな、と感じているのです。格別、「老いを賢く生きる」と言っても、私はまだ老人になったことがないのですから。
ところで、先日、私よりも若い方の講演を聞きました。リハビリの専門の楽しい先生でしばしば老人ホームなどでもお話するそうです。この先生の場合、リハビリの知識と経験については、誰よりも通じているから講演者として意味があるのでしょう。そこで、もし私が皆さんにお話して意味があるとすれば、鼻たれ小僧の乏しい経験談などではなく、牧師として聖書に記されていることがらを、わかりやすくお分かちするほかあるまいと思いました。きっと、ご依頼くださった方もそういう事を期待していらっしゃると思います。 そこで、今日は、いただきました「老後を賢く生きる」という演題に沿って、聖書からなるべくわかりやすくお話をしたいと思うのです。特に、老使徒パウロという人物のことばをひもとくかたちでお話したいと思います。
お渡ししたプリントに、聖書で老後に関する生き方を記した個所を何か所か引用してみました。
1.外なる人は衰えて・・・(伝道者12)
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(2コリント4:16)
使徒パウロとはキリスト教界の初代宣教師で、神様に豊かに用いられた人です。この手紙は彼が相当年を取って後に、コリントという町にある教会にあてて書いた手紙です。年を取ってあっちもこっちも身体が弱ってくると、段々心細く勇気がなくなります。ついつい引っ込み思案になります。使徒パウロの場合、目に病があって、視力がだんだん失われつつありました。しかし、彼は「私は勇気を失いません」といいます。それは「外なる人は衰えても、内なる人は日々あらたにされているからだ」というのです。「外なる人」とは、この肉体のことです。「内なる人」とは霊のことです。外なる人は、確かに年を取るにつれて衰えていきます。肉体の衰えについて、聖書は次のように描いています。
(1)老化と死
朗読 伝道者12:1-8、13、14
2節「太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。」(年を取ると、白内障になってだんだんとものがよく見えなくなり、涙腺が故障して始終涙が出て止まらない。)
3節「その日には、家を守る者は震え(手が震える)、
力ある男たちは身をかがめ(背骨が曲がる)、
粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ(歯が抜けて少なくなって)
窓から眺めている女の目は暗くなる。」
4節「通りのとびらは閉ざされ、臼を引く音も低くなり(耳が遠くなり)、
人は鳥の声に起き上がり(やたら目覚めが早くなり)、
歌を歌う娘たちはみなうなだれる(自慢の美声もしわがれてくる)。」
5節「彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる(坂道で息切れをしてふうふういっている)。
アーモンドの花は咲き(髪は白くなり)、
いなごはのろのろ歩き(足取りものろのろとなり)、ふうちょうぼくの花は開く(性欲が減退する)。
だが人は永遠の家へと歩いて行き(つまり、死に向かっていき)、嘆く者たちが通りを歩き回る(葬列の嘆き)。
6節。「こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ(金の器とは灯火皿のことで、銀のひもはそれをつるすひも。灯火はいのちの象徴で、灯火が消えてしまうことは死を意味する。)
みずがめは泉のかたわらで砕かれ滑車は井戸のそばでこわされる(水もいのちの象徴。死の荒涼としたありさまの描写)。」
ゾクゾクするような老化の現実を見据えた文章です。この筆者自身、老人になってその老いの現実を見据えて書いているのです。外なる人は衰え、最期は死に至ります。
(2)死の先
しかし、これで終わりではありません。死の先を語るのが聖書です。
「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る。空の空。伝道者は言う。すべては空。」(12:7)
聖書のことばヘブライ語では人のことをア-ダ-ムと言い、土のことをアーダマーといいます。聖書の神は創造主である神です。神様は人間を土から造られたからです。しかし、人は単なる土人形ではありません。神様は、これにいのちの息(霊)を吹き込んでくださいました。こうして人は生きる者となりました。やがて私たちの肉体は土に帰る時がやってきますが、霊はこれをくださった神様の御許に帰ることになるのです。そして、神様の御前で私たちは裁きを受けることになります。
「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざを裁かれるからだ。」(12:14)
ですから、希望をもって生き抜くためには、私たちは神様にお目にかかる用意をしておかなければなりません。なんの用意もしないでいきなり、審判者である神様の法廷に引き出されたら、びっくり仰天、あわててしまうでしょう。
2.内なる人は日々新たに(2コリント4:16-19)
(1)前向きに生きる
さて、パウロの手紙にもどります。私は、この老いた使徒パウロのことばを見ると、なんと雄々しく前向きな人生だろうと思うのです。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」すばらしいことばではありませんか。パウロは老いて死を目前にしながら、なお前向きなのです。まず、老いてなおこの前向きの姿勢でいられるのはすばらしいことです。
山形のT牧師が老人ホームに招かれてお年寄りにお話をしたそうです。この先生は珍しい人で、手品をするプロ級の腕を持った人ですので、まず前座として手品をしました。でも、いくら手品をしてみても、おじいさんおばあちゃんたちは、何が起こったのかを見ているだけで、ちっとも感激してくれません。そこで、この牧師は内心がっかりしながらお話にはいりました。「さて、では次にお話をしましょう。題は『元気で長生きして、ぽっくり死ぬ方法』」と言いました。すると、先程まで眠そうにしていたご老人たちがみんな身を乗り出して、聞いてくださったそうです。そうでしょうね。
「元気で長生きして、ぽっくり死ぬ方法」、その心の持ちようとはなんでしょう。T牧師に言わせれば、それは、新しいことに挑戦する心、言い換えると、前向きの心を持ち続けるということです。
金さん、銀さんという双子のおばあちゃんが、以前TVに出ていました。そこで若いレポーターがいたずら心を起こして、金さんと銀さんをゲームセン(ゲームセンター)に連れていったのです。そう、パロとかリッチランドなどにある、あれですね。そしたら、金さん、銀さんどうしたと思いますか。ふたりとも夢中になってゲームに興じているのです。「そうか、これが若さの秘訣、ぼけない秘訣なんだなあ。」と感心してしまいました。どうも金さん、銀さんのほうが私よりも若いかもしれないななどとも感じたのです。みなさんはどうでしょう。「なにを馬鹿なことをしている。こんな年して、今さらゲームなんかばかばかしい。恥ずかしい。」というでしょうか。
青年とは、前を見て新しいことに挑戦する心を持っている人のことです。老人とは、後ろを振り返って、「あの頃は良かったなあ」と思っている人です。そういう意味では、かりに二十代でも「十代はよかった」などと後ろを振り返ってばかりいる人は、もう老人ですし、かりに八十代でも九十代でも、新しいことへの興味を持ち続けている人の魂は青年です。戦後のキリスト教界の指導者に安藤仲市牧師という方がいたのですが、この方はよく「四十、五十は鼻たれ小僧。男盛りは七八十。」とおっしゃり、「胸に燃えるヴィジョンがあるかぎり青年である。」ともおっしゃいました。安藤先生はかつて日本が軍靴で踏み荒らしたアジアに、キリストの愛の福音を広めることをビジョンとしていたのです。たしかに安藤先生は、使徒パウロと同じように死の瞬間まで青年でした。
自分の枠を決めてしまって、新しい事に挑戦する心を失うと老いていくのです。引っ込み思案はやめましょう。引っ込み思案は小ボケの始まりだそうです。新しい事に挑戦しましょう。例えば、畑仕事も、毎年毎年春はナス、ネギ、トマト、ジャガイモといった決まったものしか作らないというのではなく、何か聞いたことも食べたこともないけれど、ズッキーニとかカラーピーマンとかルバーブとか見たこともないような、新しい野菜の種でも蒔いて、新しい工夫をしてみましょう。
(2)死を前にして、なおも前向きに
老いるという現実はさびしいものです。ですが、老いてなお前向きということでは、使徒パウロはさらにすごいことばを残しています。それこそ、金さん銀さん以上です。
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(2コリ4:16)
肉体は衰えても、内なる人は、昨日より今日、今日より明日のほうがどんどん新しくなる、若くなるというのです。どうして使徒パウロは、老いて後、こんなにも力強く、こんなにも前向きなのでしょうか。それは、使徒パウロは主イエスキリストに対する信仰によって、死の向こうに永遠のいのちの希望、復活の希望をしっかりと持っていたからです。
2コリント5章1~5節朗読
幕屋というのは、テントです。テントに数年も暮らしていたらぼろぼろになってくるでしょう。雨もりがしたり、破れたりしてきます。みなさんのうちにテント暮らしの人はいないと思います。もし、テントしか住む家がないならば、不安ですよね。でも、テントがいよいよぼろくなって使い物にならなくなったら、立派な本建築の家に引っ越してきなさいと準備してくれている人がいるとするならば、安心です。その日が楽しみでしょう。
地上の幕屋はだんだん朽ちていきます。地上の幕屋とは「外なる人」のことです。年を取るとあっちもこっちもガタが来始めます。親しいご老人が、「病院にいくと、医者はすぐ『ああ。ばあちゃん、それは『老人性~』だよ。』と目でも耳でも手でも足でも、頭でもどんな病気でも「老人性ナントカ」と名前をつけられておしまいですよ。いやんなってしまう。」と話していました。年を取ってこの外なる人、ぼろぼろになっていくテントしかなくて、引っ越す先がないならば、それは死ぬことが不安なのは当然です。
でも、使徒パウロは希望に燃えていました。なぜかというと、「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても(つまり肉体の死がやってきても)、神のくださる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない天にある家です。」パウロはこの肉体が用済になって地上の生涯が終わったら、天国に行って本建築である復活のからだを受けるという希望がありました。だから、地上の幕屋が壊れるとき、死の時が恐ろしくはないのです。むしろ楽しみなのです。「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」
使徒パウロが最期の最期まで、若く、前向きだった秘訣はここにありました。すなわち、使徒パウロは死のかなたに輝く希望を抱いていたということです。
私の恩師に朝岡茂牧師という方がいます。この先生の死は希望に満ちていました。朝岡先生は、死の床で「教会は万歳です。イエス様が見える。イエス様が見える。」といって、天に召されて行ったのです。
3.いつまでも残るもの--神にお会いする備え
(1コリント13:4-14:1抜粋)
こういうわけで、聖書が教えるところでは、老いを賢く生きるためには、ちゃんと肉体を去って神様の御前に行く備えをする必要があるのです。神様の御前に出ることが希望に満ちているならば、それこそ最期の息を引き取る瞬間まで、私たちは前向きに生きることができます。神様にお会いする時、裁判があります。裁判官は、私たちが生まれてこの方心の中で考えたことも、口でいった言葉も、手で行なったことも全部ご存じの神様ご自身です。
伝道者の書には「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る。・・・神は善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざを裁かれるからだ。」とありました。
使徒パウロも「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあって、した行為に応じて報いを受けるのです。」(2コリント5:10)と言っています。
私たちは審判者におめにかかる用意をすること、造り主の目に価値ある生き方をすることが、聖書がいう知恵ある生き方、賢い生き方ということになります。
(1)地獄の沙汰は金次第ではない
新約聖書のなかに「貧乏人ラザロと金持ち」というイエス様が話されたことがあります。ルカ福音書16:19-31
ここを見てはっきりとわかることは、地獄の沙汰は金次第ではないということです。門前の貧乏人ラザロが死んだ時、だれも彼を葬ってもくれなかったようです。けれど、神様の御使いは神様を慕い愛しているラザロを天国に連れていってくれました。一方金持ちが死んだというときは、たいそうな葬式がなされ町の名士たちが集まりました。日本風に言えば、長々しい院号のくっついた戒名が誇らしげに付けられ、黒御影の巨大な墓も用意されたのです。
私の実家は神戸なのですが、神戸と言えば広域暴力団山口組の本部があるところです。神戸の地方裁判所の目の前に山口組の事務所があるのです。もう十数年まえ、山口組の三代目組長田岡さんという人が死にましたが、そのとき組は田岡さんのために、院号付きの長々しい最高の位の戒名を買ったのです。しかし、ふざけてはいけない。地獄の沙汰は金次第ではありません。神様にワイロは通用しません。神様は公正な審判者です。
金持ちが死んだあと目が覚めると、そこは地獄でした。地獄の沙汰は金次第ではないのです。別に金持ちが悪いというのではありません。そうではなく、イエス様がおっしゃったのは「自分のために蓄えても、神の前に富まない者はこのとおりです。」ということです。門前に飢えて苦しんでいる人がいるというのに、それを見殺しにしてしまうようならば、その金は呪われた富なのです。なぜ神様は、世の中に富む人と貧しい人をいさせるのかといえば、より多く持つ人が、貧しい人と富を分かち合う愛の交わりが生まれるためなのです。それなのに、あの金持ちは自分のために蓄えて、門前で人が餓死するのを見殺しにしたのです。神はそんな金持ちを地獄に落とされました。
(2)いつまでも残るもの-信仰・希望・愛--神様の前に持っていけるもの
肉体の死の向こう、審判者である神様の前にまで持っていけるものとはなんなのでしょう。肉体が朽ち果てても、いつまでも残るものとはなんなのでしょう。いつまでも残るもの、それは、信仰と希望と愛です。
1コリント13章 抜粋
「愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、
自分の利益を求めず、
怒らず、
人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。愛を追い求めなさい。」
地上の富や名声や社会的地位などは、死後、神様の前になに一つ持って行くことはできません。 私たちは、肉体を離れても、私たちが神様の前に持っていけるもの、いつまでも残る信仰と希望と愛をこそたいせつにしなければなりません。それこそ、「老後の賢い生き方」です。
信仰と希望とはなんでしょう。それは、イエス様に対する信仰と、その信仰に基づく、永遠のいのちへの希望です。私たちは心の思いと言葉と行動において、多かれ少なかれ罪のあるものです。(嘘をついたこと、脱税であれ、なんであれ盗みをしたこと、人の悪口を言ったこと、人を憎んだこと、)だから、このまんまで神様の法廷に引き出されたら、まちがいなく有罪判決を受けてしまいます。
どうすればよいでしょう。裁判では弁護士というのがつくものですね。神様は私たちのためにすばらしい弁護士を送ってくださいました。それが神様のひとり子であるイエス・キリスト様です。イエス様は、二千年前地上に来られて、なんと私たちのために、十字架の上で身代わりに私たちの受けるはずの地獄の呪いを受けてくださったのです。そしてよみがえられたのです。ですから、イエス様を信じていれば、神様の法廷でイエス様があなたのことを弁護してくださいます。「この被告水草修治は確かに有罪です。人を憎んだこともあり、小さいころお母さんのヤクルトを盗み飲みしたこともあります。けれど、この被告水草修治の身代わりに、私がすでに十字架で苦しみました。償いは完了しております。」と。
私はイエス様を信じてイエス様に弁護士を依頼してありますので、神様の法廷では無罪がもう確定しているのです。ですから、使徒パウロと同じように死のかなたに希望をもっています。地上の使命を終えて、あちらに行くその日が楽しみです。
もう一つの準備。それは、愛です。お金や屋敷や社会的地位や立派な墓石などは、神様の前に持って行くことはできません。けれど、信仰と希望とともに、愛の行ないは神様の前に持っていくことができます。神様は、私たちを天国に迎えてくださってから、地上で行なった愛のわざに対してご褒美をくださいます。
「愛は寛容であり、愛は親切です。」
相手をありのまま受け入れること。相手を変えてやることが親切と思ってはいけない。相手をありのまま受け入れ、かけは自分が補ってあげようという心。
「また人をねたみません。」
「愛は自慢せず、高慢になりません。」
「礼儀に反することをせず」
ありがとう、ごめんさない、どうぞというエチケットをたいせつに、年をとったらなおのこと身だしなみもたいせつに。
「怒らず、人のした悪を思わず」
人の(夫、嫁、だれでも)その失敗を数えないこと。
「不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」