水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

復活の証人・・・シャローム

ヨハネ福音書20:19-23

2020年4月12日 復活日礼拝

 

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」

 20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

 20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

 20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

 20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

 

 

 金曜日、主イエスは敵にとらえられて深夜の裁判にかけられ、午前九時に十字架につけられてしまいました。あざけりと怒号のうずまくゴルゴタの丘で、主イエスは十字架に釘付けにされ、さらし者にされました。しかし、あの十字架の上で、主は「父よ。彼らをおゆるし下さい」と私たちのために祈ってくださったのです。

 3時間がたって正午になると、突然太陽は光を失ってあたりは暗闇になりました。この暗闇は遠く小アジア半島の歴史家も記録に残しているものです。恐ろしい暗闇は、神の呪いの象徴でした。すなわち、聖なる神の人類の罪に対する怒りを、人類の代表となって主イエスは十字架の上で一身に背負われたのでした。午後3時、「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と暗闇を引き裂くイエスの声が響きました。神の御子が人となって、神に呪いのうちに捨てられたのです。そのことによって、私たちが祝福を受けるためでした。イエスは「父よ。わが霊をみ手に委ねます。」というと、息をひきとられ、アリマタヤのヨセフの墓に葬られたのです。

 墓に葬られたのが金曜日の日没前のことです。その日から数えて、三日目の朝、うずうずしていた女たちは主イエスの墓へと出かけてゆきました。そのおからだに香料を塗って差し上げたいと考えたからでした。ところが、墓に行ってみると、大きな墓にふたをする石はどけられて、主のからだはすでになく、天使がいたのでした。そのことを、女たちは弟子たちに告げに行きました。弟子たちは、にわかにイエスが復活したということを信じることはできませんでしたが、女たちのあまりの熱心さに、これはただごとではないと考えて、ヨハネとペテロが墓に走ってゆきました。すると、墓はたしかに空っぽだったのです。ヨハネは、その様子から、主イエスがほんとうによみがえったのだと悟りましたが、ペテロは何が何だかわけがわかりませんでした。

 

1 恐怖

 

 主イエスが十字架にかけられて三日目の夕刻、「イエス様のおからだはどこに行ったのだろう?」「女たちがいうように、イエス様はほんとうによみがえったのだろうか。」そんなわけで、弟子たちは不安と当惑のうちにすごしていました。

 しかも、弟子たちはユダヤ人を恐れて戸を固く締めていました。それは、イエス様を殺した連中が、イエスの残党狩りを始めることを予想していたからです。祭司長や長老たちは、にっくきイエスを十字架にかけて殺しただけでは飽き足らず、イエスの弟子たちにも魔の手を伸ばしてくるかもしれませんでした。

 弟子たちは数日前まで、勇気凛凛、野心に燃え上がっていたのです。エルサレムに一週間前に入城して以来、ユダヤ当局はイエス様を論破するために、パリサイ派だのサドカイ派だのの学者たちを遣わしましたが、イエス様は彼らをやすやすと返り討ちにしてしまったからです。これから我らの大先生、イエス様は待ち望まれたメシアとして自分を宣言なさるにちがいない。そうしてダビデの王座に着いて、ローマの支配を排除して、ダビデ、ソロモン王朝の栄華を回復してくださるにちがいない。その時には、私たちも、イエス様の右大臣、左大臣、その他大出世させてくださるはずである。そういう野心でした。

 ところが、イエス様はどういうわけか、ゲツセマネの園で、むざむざ敵に対してご自分を渡してしまったのです。そして、暗黒裁判にかけられ、最後には、あのむごたらしい十字架にかけられて、処刑されてしまったのでした。

 十字架刑のむごたらしさを見ていた弟子たちは震えあがってしまいました。死の恐怖です。あのエジプト脱出のとき、ファラオのかたくなさに対するさばきとして、死の使いが家々を回って、あちこちの家で悲鳴が上がっていたとき、人々は恐怖におののいていましたそうして、戸を固く閉ざしていました。死が押し迫る恐怖です。弟子たちもまた死の恐怖の中に置かれていました。

 

2 シャローム

 

 ところが、そこにイエス様が来られ「彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」」「平安があなたがたにあるように」、というのはヘブライ語でシャロームといいます。死を恐れることはない。シャロームだよ、とおっしゃるのです。

 弟子たちは、パニックになりました。ルカの並行記事を見ると、幽霊だと思ったというのです。無理もありません。墓が空っぽになっているとは言っても、弟子たちは半信半疑だったのです。ヨハネが墓の中の、イエス様のからだをまいてあった様子について話して、イエス様は復活したはずだと言っても、半信半疑でした。いや信仰10%、残り90%は疑っていましたから、死人が出現するというなら、それは幽霊だと思ったのはもっともなことです。

 そんな弟子たちのために、イエス様はその手と足を見せました。幽霊には手や足がないというのが常識だったのでしょうか。弟子たちは恐る恐るイエス様の手のひらを見てみると、そこには長い釘で撃たれた傷がありました。衣のすそを挙げると、その足にも釘の後がありました。さらに、脇腹を見ると深々と槍の跡がありました。まちがいありません。主イエスです。

 そこで主イエスはもう一度、力強く、そしてやさしくおっしゃいました。 

20:21 「平安があなたがたにあるように。」

 復活のイエス様は、弟子たちに平安をあたえてくださったのです。

 弟子たちは失意と恐怖の中にあって、扉を閉ざしていました。

 失意というのは、自分たちの希望であるイエス様が死んで奪い取られてしまったことでした。自分たちの、うきうきするような野心的な計画も、ぜんぶ壊れてしまったことでした。そして、もう一つ失意の理由は、命を捨ててでもイエス様に従っていきますと口々に言ったくせに、いざ敵がやってくると、弟子たちはみんなイエス様を捨てて逃げてしまったことです。自分はこんなに卑怯で弱虫の情けない人間だったのかと挫折を感じ、悔やんでも悔やんでも取り返しがつかないと、がっかりしてしまったのです。

 恐怖というのは、死の恐怖です。ユダヤ当局のイエスの残党狩りが始まれば、自分たちはイエスの弟子団の中で、特選の十二人の弟子たちとして逮捕され、拷問され、処刑されることになるでしょう。その死の恐怖です。

  けれども、罪と死と悪魔に対して勝利を収めて、復活した主イエスは力強くおっしゃるのです。「シャローム。平安があなたがたにあるように。」「シャローム。平安があなたがたにあるように。」

 主イエスは、罪を死と悪魔に対して勝利して、弟子たちに、その勝利に基づく平安を与えに来られたのです。彼らの罪のすべてをあの十字架で帳消しにしました。そして、死は罪の結果人類に入り込んだ呪いなのですが、罪を帳消しにすることによって、もはや死の力をもつ悪魔は無力化されてしまいました。イエス・キリストのうちにある者は、たとい死んでも生きる者とされたのです。その肉体はいずれ滅びる日が来たとしても、それは永遠のいのちへの門です。キリスト者にとって、肉体の死とは、天国に連れて行かれて、栄光の主と共に至福のうちに暮らすための旅立ちなのです。

 だから、シャローム、平安があなたがたにあるように、です。

 

 今朝、あなたにも、主イエスはおっしゃいます。「シャローム!平安があなたがたにあるように。」

 今、世界中が新型コロナウィルスの恐怖におののいています。おののいて、部屋の中に閉じこもっています。その恐れは、結局は、死に対する恐れです。新型コロナにとらえられて死んでしまったらどうしよう、という恐れです。けれども、私たち主イエスの弟子となった者たちは、もはや肉体の死の恐怖から解放されています。

「あなたの罪は、わたしがすべて十字架の死によって解決した。罪に対する罰としての、地獄の永劫の苦しみは、私がすべてなめつくした。だから、あなたは、死を恐れることはない。死は永遠のいのちへの門なのだ。」

 主イエスは、そうおっしゃるのです。シャローム。それは、神との平和です。神の、あなたに対する怒りは去って、今や平和がもたらされたのです。

 

3 派遣

 

(1)聖霊

 主イエスは、彼ら弟子たちにシャロームを与えました。それは、神との平和です。キリストにつく者は、キリストの十字架と復活のゆえに、神との平和を持っています。死んでも死なないいのちを持っています。肉体の死の向こうには、輝かしい天の家が待っています。これは素晴らしい福音です。よき知らせです。

 そこで、主は、弟子たちにこの十字架と復活の福音を携えて行け、と派遣なさるのです。派遣するにあたっては、聖霊を彼らをお与えになったのでした。  

20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

 神の息とは、神の霊です。イエスの息は聖霊です。弟子たちは、弱い者でした。主イエスについて行きたいと願い、たとい死ななければならないとしても、私はついていきますと言いながら、イエス様を見捨てた者たちでした。そんな彼らが、これから後は、ユダヤ教当局に逮捕され、拷問を受けるようなことがあっても、大胆にキリストの十字架の福音を語り続けました。彼らは、明らかに変貌しました。弟子たちは、死をも恐れずに宣教して、新約の時代の教会の礎を築き上げたのでした。彼らの殉教の血は、教会の種となったのです。

 何が彼らを変えたのでしょうか。主イエスの復活の事実と、主イエスがお与えになった聖霊です。

 

(2)天国の鍵の権能

 聖霊をお与えになって、弟子たちに主イエスが語られたことは、弟子たちが築く教会に、天国のカギを託すという内容です。

 20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

 この十一人の弟子だけのことではありません。教会に対して、イエス様は、この天国のカギを託されたのです。教会は、「悔い改めて、イエスをあなたの罪と死からの救い主として信じなさい。」と宣言します。この宣教に対して、「私は確かに神の前に罪があります。イエス様を信じます。」と告白する人に対しては、「あなたの罪は赦されました。」と教会は宣言します。その人の罪は赦されて、天国の門が開かれます。そのあかしとして、洗礼を授けます。

 

 しかし、キリストの福音を聞いても、「私は罪を認めません。イエスなんて信じないよ。」という人の神の前での罪はそのまま残ります。

 

結び

 イエス様は、弟子たちに、そして世世の教会に、この苫小牧福音教会に、天国のカギを託してくださっているのです。人々は、失望の中にいます。また死の恐怖の中にいます。それは肉体の死の向こうに永遠の滅びが待っているからです。

 しかし、私たちは、復活のイエス・キリストがくださったシャロームの中にいます。神との平和を持っています。この善き福音を喜び、そして、復活の証人として生きてまいりましょう。

 

赦し赦される

マタイ6:12-15

 

12**,私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

13**,私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』

14**,もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

15**,しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 

1 ごとく

 

 主イエスが私たちに教えてくださった祈り、主の祈りを続けて学んでいます。主の祈り全体を朗読しましたが、本日は、12節に特に耳を傾けたいと願っています。

12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

 これは神様に対する、私たちの第二の祈願です。しかも、この祈願については、イエス様は念を押すように、続く14,15節で同じ趣旨のことばを繰り返していらっしゃいます。

14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

新改訳は「負い目」(オフェイレーマタ)と「罪(違反)」(パラプトーマタ)を訳し分けていますが、隣り合わせに書かれたことですから、同じ意味でもちいられていると見るべきところです。

この箇所には翻訳上の問題があります。文語訳では「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、われらの罪をも許したまえ」となっていました。文語訳聖書では「ごとく」という比例を表すことばが入っていたのに、新改訳では訳出していないことです。ギリシャ語本文では、「ホース」つまり文語でいえば「ごとく」とか現代語でいえば「ように」という意味のことばが入っているのです。イエス様は、あなたが隣人を赦すことと天の父に赦していただくことは、比例関係にあるのだと教えているのです。「私が隣人を赦す程度に応じて、天のお父さま、私をも赦してください」ということです。逆に、「私が隣人をゆるさない程度に応じて、私を赦さないでください。」と祈っているのです。私が隣人を計るその物差しで私をも計ってくださいと祈っているのです。

 練馬で伝道していたころ、教会にKさんというご婦人がいました。「私は『われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく』と祈るたびに、心探られるんです」とおっしゃいました。その姉妹は、昔からお兄さんと馬が合わなかったそうで、自分の心の底にお兄さんに対する怒りや恨みの感情が沈殿していることに気づかされて、この祈りをするたびに毎回怖くなるとおっしゃいました。この祈りをささげるたび、同じような恐れを感じているという人が、ここにもいらっしゃるかもしれません。それは大事な恐れです。

 

 父の子どもに対する取り扱いの中で

 

 もっとも、ここでいう赦しというのは、イエス様を信じたときに神様がくださった永遠の赦しとは違います。そうでなければ、誰かを赦せない気持ちになるたびに私たちは自分がほんとうに神様の前に赦されず、地獄行きかも・・・と毎度疑わねばならなくなってしまうでしょう。恵みによって救われるのでなく、人を赦すという功績によって救われるということになってしまうでしょう。そういう誤解を避けるために、新改訳聖書の翻訳者は、「我らがゆるすごとく」の「ごとく」を訳出しなかったのでしょう。

 では、ここで父に求めている赦しとはなんでしょうか。聖書に書かれている赦しには、永遠的な意味でのさばきにおける赦しと、神様がすでにご自分の子とした者たちに対するこの世における扱いの中でのさばきにおける赦しの二つがあります。

 永遠的な意味での裁きとは、死んだら天国に入れられるが地獄に入れられるかを決める裁きです。この永遠的な意味での裁きに関しては、私たちは自分の罪を認めてイエス様を信じたときに、赦しをいただきました。信仰義認です。自分の罪を認めて、イエス様が私の罪のために十字架にかかって死んでくださったことを感謝して受け入れたら、神様は私たちを永遠に赦してくださいました。これがクリスチャン生活で踏むべき一塁ベースです。

 

 もう一つの赦し、それは、天の父の子どもに対する、この世における取り扱いとしてのさばきと赦しです。主の祈りは、「天にいます私たちの父よ」と始まります。ですから、この祈りは、神の子どもたちの、天のお父さんに向かってささげる祈りです。つまり、すでに神の子どもとしていただいたクリスチャンとしての祈りです。ですから、神のまえで永遠の罪のゆるされ、子どもとされた者として、この「私の罪を赦してください」と祈るように教えてくださったのです。

 たとえば、ある人に二人の息子がいたとします。あるとき、兄息子が父親が丹精してきた高価な五葉松の盆栽をいじっていて枝を折ってしまったとします。「おとうさん、ごめんなさい」と彼が言うので父は赦してやりました。ところが、翌日この兄息子が大事にしているプラモデルを、弟息子が遊んでいて壊してしまいました。兄息子はかんかんに怒って、弟を赦そうとせず「おまえとは絶交だ」と宣言したとします。

 そのようすを見ていた父親は兄息子になんというでしょう。「なぜ弟を赦してやらないのだ。お前が弟を赦さないように、お父さんもおまえを赦してやらない。お前とは絶交だ。」といって、おとうさんは兄息子としばらく口をきかなくするのです。兄息子に、赦すことの大切さを教えるためです。兄息子は悲しくなって、やがて弟を赦してやり、お父さんとの交わりを回復するわけです。

 主の祈りで言っている、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」というのはそういう、地上において父なる神の、子供たちへの取り扱いにおけるさばきと赦しの話です。すでに神の子どもとしていただいた私たちを、父なる神様はこのように取り扱って、赦しあうようにと望んでおられるのです。私たちは、人を赦すにしたがって、どれほどの犠牲を支払って天の父が自分を赦してくださったのかということを悟り、イエス様の十字架がどれほどありがたいものであるかを知るのです。逆にいうと、もしあなたが人を赦さないでいると、私たちは自分が神様の愛を実感できなくなり、平安を失います。自分は神様に赦されていないと感じ、天国に自分は行けないのではないかという思いにさえとらわれます。しかし、赦すとき、天のお父様が私を赦してくださったんだなあという喜びと感動が帰ってきます。神を愛することと、隣人、特に主にある兄弟姉妹を赦すことは、切っても切れない関係にあるのです。

 

3 人を赦さないことは、祈りの妨げとなる

 

 イエス様は、神様は私たちの祈りに聞いて下さるということを、何度も教えてくださいました。今年の目標のみことばも、「いつでも祈るべきであって、失望してはならない」です。また、ヨハネ伝には「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」(ヨハネ15:7)とあります。「何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」とはすごい約束ですね。素晴らしい約束ではありませんか。天地万物を所有していらっしゃる神様が、私たちが欲しいものを何でも与えようとおっしゃるのです。

 けれども、その前に条件があります。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」という条件です。イエス様のことばが私たちの中にとどまっているというのは、「私たちがイエス様のおっしゃったことを聞き流さないで、従っているならば」という意味です。もし私たちがイエス様のおことばを聞き流したり、反逆したりしていながら、いろいろお願いしても神様はそんな祈りには聞いて下さらないと言われているのです。

 特に、私たちの祈りの妨げになることがある、とイエス様は教えてくださいました。それは人を恨んでいることです。イエス様はこうおっしゃっています。

「22**,イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。23**,まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。24**,ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。**

25**,また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」(マルコ11:22-25)

 

 「山に向かって海に入れ」というのは、巨大で常識的にはかなえられないような祈りの課題であっても、神様がかなえてくださるということの譬えです。そのような祈りの課題でも、すでに得たと信じたらかなえられると教えられたのです。しかし、その祈りを妨げることがあります。その祈りが、神様に届かなくするものがあります。それは、祈るあなたが誰かを恨んでいることです。あなたの心が誰か隣人への恨みで汚されているならば、神様は、あなたがどんなに熱心に切望したとしても、その祈りをお聞きにならないのです。

 ですから、赦すことです。神様がどれほど自分を赦してくださったのかを思い出しましょう。あなたの罪のために、御子イエスを十字架ののろいにあわせてまで、あなたを赦してくださったのです。

 

結び

 今週は受難週、そして、本日は聖餐式です。主イエスは、あのゴルゴタの十字架の上で、あなたの罪のために苦しみ、死んでくださいました。それは、あなたの罪が神の前に赦されるためです。

 赦しましょう。どれほど、神様が自分を赦してくださったのかということに思いをいたしましょう。十字架で侮辱と激痛と呼吸困難に耐えながら、「父よ。彼らを赦してください。」と祈ってくださった、主イエスを見上げましょう。そのとき、赦すことができるようになります。

 

 

われらの日ごとの糧を

マタイ6:11-15

 

 

11**,私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。**

12**,私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。**

13**,私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』**

14**,もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

15**,しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 

 

1 糧を

 

 あるクリスチャンのご婦人が、おかあさんの思い出をつづられた文章のなかにこんな一節がありました。「母は、国の行く末のことや世界の平和のことを祈りながら、また、裁縫をしていて見失った一本の針が見つかるようにと祈る人でした。」神様にとって大きすぎる祈りの課題はないし、また、小さすぎる祈りの課題もないのです。

 主の祈りの前半は、「御名があがめられますように、御国が来ますように、御心が天で行われるように、地でも行われますように」と、ひたすら神の栄光が表わされるようにという崇高な内容でした。ところが、後半にはいるとなんと、「きょうのご飯をください」というたいそう身近なことがらのお願いとなります。そんなこと祈っていいの?と戸惑いそうですが、いやむしろ、そのような身近なこと、具体的なことをも祈りなさいとイエス様はおっしゃるのです。神の王国ははるかかなたの理想ではなく、私たちの具体的な生活のなかに始まるのですから。

 イエス様は、尊い神の御子でいらっしゃいますが、私たちと同じように人として来てくださいました。しかも、イエス様は貧しい家を選んでお生まれになりました。生まれてすぐにヘロデ大王の魔の手を逃れて、ヨセフ、マリアとともにエジプトに逃避行さえなさったのです。やがて政治的状況が変わりナザレに戻ると、養父ヨセフは早く亡くなり、イエス様は長男として苦労なさったようですから、ひもじいということのつらさということをよくご存知でいらしたのでしょう。実際、福音書には、イエス様は空腹をおぼえたという記事もあります。そんなイエス様ですから、きっと飽食の時代の私たちよりも「きょうのご飯をください」という祈りの切実さをよく御存知です。

私たちは「御国が来ますように」とこの国にも神様の御支配がありますようにと願って、世界の為政者たちのために、官僚たちのために、また平和のためにも祈り、同時に、「今日、私たちにごはんを与えてください。」と祈り、「あの熱で苦しんでいる姉妹の病気を治してください」とも祈るのです。そのように祈ってよいです。大きなことも小さなことも、どちらも、祈るべきです。神様を私たちの四畳半に閉じ込めておくのでなく世界の平和のために祈り、為政者のために祈るべきですが、同時に、おなかが痛くなったら祈りますし、頭痛が治りますようにとも祈るのです。試験が落ち着いてしっかりできますように、よい仕事が見つかりますようにとも祈ります。

 神様はなによりも偉大な万物の主ですが、同時に、神様はたいへんやさしく細やかな配慮に満ちたお父ちゃんです。だから、私たち小さな者たちの小さな祈りを「さあ聞いてあげよう。なんでも話してごらん。」と待ちかまえていらっしゃいます。食べ物のことだけはありません。マルチン・ルターは子どもたちのための「小教理問答」でこんなふうに教えています。

「問い それでは日ごとの食物とはどんなものですか。

 答え それは肉体の栄養や、生活になくてはならないすべてのものです。たとえば、食物と飲み物、着物とはきもの、家と屋敷、畑と家畜、金と財産、信仰深い夫婦、信仰深い子ども、信仰深い召使、信仰深く信頼できる支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、またよい友達、信頼できる隣人などです。」

 

 私たちはこういうすべてのよきものを、天のお父様を信頼してくださいと求めてよいのです。むしろ求めるべきなのです。今、新型コロナウィルス肺炎のことで騒いでいますが、一面、私たちは確かに天に国籍があるので、いつ死んでもOKなのですが、もう一面、この世界に遣わされて地の塩、世の光として生きるために、新型コロナからも守っていただく必要があります。だから、「私たちを新型コロナウィルスから守ってください」と祈ってよいのです。遠慮する必要はありません。

 

2 われらの

 

 しかも、この祈りは「わたしの日ごとの糧を」ではなく「われらの日用の糧を」というお願いです。どうちがいますか?
 私ひとり満腹になればいいやというのではなくて、「私たちみんながご飯たべられますように」と祈るんだよとイエス様は諭しているのです。自分のおなかの心配をするだけでなく、まずは主にある兄弟姉妹のおなかの心配、財布の心配をして祈りなさいとおっしゃるのです。

うちだけトイレットペーパーがあればと利己的な願いをするのでなく、私たちみんなトイレットペーパーをと祈るのです。そうしたら、バカな買いだめはしないでしょう。また、自分のためだけでなく、今入院加療中の兄弟姉妹のためにも祈るのです。コロナ騒ぎで、人間の醜い自己中心性が暴露される時代です。自重しましょう。

 

 また、これは私たちの目に入る兄弟姉妹たちだけでなく、もっと視野を広げて祈りなさいということの求めでもあります。私たちの教会では、毎月第一主日、国際飢餓対策機構のためのカンパを続けています。私たちの国の中でも格差がどんどん広がる経済政策が行われていますが、諸外国では毎日、毎時間、餓死している人たちがいるというのが現実です。カンパをすることもよいことですが、よい政治が行われるようにという祈りも大事なことです。富が偏在することによって、片方は食べ物を食べないで捨てており、片方はひもじくて石ころをかじっているこの世界を、公正なものにしていく良い国際政治が行われる必要があります。政治家たちが、良心をもって知恵をもって愛をもって、正しい政治を行うように祈ることも、「われらの日ごとの糧を」から教えられることです。

 

 食べ物だけではありません。先ほどルターの祈りの紹介をしました。わたしたちがともに生きていくためには、それは肉体の栄養や、生活になくてはならないすべてのものです。たとえば、食物と飲み物、着物とはきもの、家と屋敷、畑と家畜、金と財産、信仰深い夫婦、信仰深い子ども、信仰深い召使、信仰深く信頼できる支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、またよい友達、信頼できる隣人などです。」といったすべてのものが必要です。

 聖書はとくに、信頼できる支配者、よい政府を求めて祈りなさいと勧めています。

「そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。**

2**,それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。**

3**,そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。」(第一テモテ2:1,2)

 

 主イエスが荒野で悪魔の試みにあったとき、悪魔が「一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、こう言った。「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。だから、もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる。」(ルカ4章5-7)と誘惑しました。権力者というのは、たいへんな職務なのです。悪魔は権力者を手中に収めれば、さまざまな悪いことができるので、彼を誘惑するのです。ですから、聖書は私たちに権力者のために願い祈りとりなす必要があるというのです。彼らが悪魔の手に落ちれば、私たちは平安で落ち着いた生活をすることができなくなります。

 祈りの課題は、彼らが悪魔の誘惑から守られ良い政治を行うように。彼らも罪人ですから、悔い改めて救われるように、ということです。特に、今の世界は自分勝手にふるまう権力者たちがはびこっています。私たちは、彼らのためにとりなし祈らなければなりません。

 

3 日ごとの

 

 また、「日ごとの糧を」という願いです。以前は「日用の」と訳されていましたが、子どもが日曜日のごはんだと思ってしまうようなので、「日ごとの」と改めたようです。向こう1年分でなく、向こう一か月分でもなく、一日の糧を求めているのです。私たちは、一日一日生かされているのですから、今日という日を主を見上げて精一杯に生きるのです。

 

 でも一か月分、一年分と買い占めたいという思いを持つ人たちがいます。なぜでしょう。二つ理由があると思います。一つは心配だからなのでしょうね。でも、そうする人がいると、結果として、全然食べるもののない人が出ることになります。一生かかっても決して使えないほどの富を独占することによって、結果として多くの人たちを飢えさせてしまいます。

 原因は、心配、思い煩い、取り越し苦労です。「われらの日ごとの糧を今日も与えたまえ」だといえるでしょう。主イエスは続くところで、おっしゃっています。25節―27節。そして34節。

 25**,ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。

26**,空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。**

27**,あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。・・・・・

34**,ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

 

 天の父に生かされている神の子どもなのですから、心配しないで、今日という日を、主を見上げて一生懸命に生きましょう。

 

 私たちが日ごとの糧をと祈らないもう一つの理由は、私たちが傲慢であるからだと聖書は教えています。。**ヤコブ書4章

13**,「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。**

14**,あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。**

15**,あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。**

16**,ところが実際には、あなたがたは大言壮語して誇っています。そのような誇りはすべて悪いことです。**

17**,こういうわけで、なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。

 

 

結び

 天の父にとって、大きすぎる祈りの課題はありません。また小さすぎる祈りの課題もありません。この国のために、また、主にある兄弟姉妹のために、また、自分の仕事、子ども、孫、生活の糧のために、すなおに天の父に求めて歩んでまいりましょう。

11**,私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。**

 

ほんとうの祈り

マタイ6:5-8

 

また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。

あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。

ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。

 

 

 ほんとうの祈りと題するからには偽りの祈りがあるのです。イエス様は、偽善者の祈りおよび異邦人の祈りとの対比によって、本当の祈りとはなにかを明らかにしてくださいました。

 

1 偽りの祈り

 

6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

 

 ここでは施しと祈りと断食が、ユダヤ教徒の敬虔なわざとして記されています。いずれも、それ自体としては良いことですけれども、それを人目につくように行うことで尊敬を得ようとする、その心根がさもしいと主イエスはおっしゃるわけです。

 主イエスは「祈るときには、偽善者のようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂やとおりの四つ角に立って祈るのが好きだから」とおっしゃいました。しかし、人の前で祈ること、また、公の集会で代表して祈ることを禁じているわけではありません。イエス様は、他のところで二人でも三人でもともに祈る祈り、集会における祈りについて教えていますし、聖書の中には祭司や王の公の集会における共同の祈りがいくつも記されています。また、主イエスの大祭司の祈りと呼ばれる長い祈りがヨハネ福音書15章には記されています。

むしろ、大きな集会では、大きな声ではっきりとみなさんにわかるように祈ることは大切なことです。学生のころ、私は声があまり通らないので、よく恩師朝岡茂先生から、「水草君。公の祈りは、胸をはって腹の底から声を出すようにしなさい。そうでないと、みんながアーメンといえないよ。」と注意を受けたものです。

 ではイエス様は、偽善者たちの祈りの何が間違っているとおっしゃったのでしょうか。それは、祈るときの意識を置くべき中心点が間違っているとおっしゃっているのです。祈るときの意識の中心点はどこにおくべきでしょうか?それは天の父なる神様です。天の父を愛し、天の父との交わりをすることが祈りの中心点であるのに、イエス様が偽善者たちが祈るのをご覧になると、その心は天の父に向かっておらず、人間に向けられているのがわかって、胸が悪くなってしまったのです。立派なことばで堂々と祈りを捧げながら、彼らは薄目を開けて「ああ、私の祈りを聞いて、人々は感動しているぞ。『ああ、なんて敬虔ですばらしいお祈りだろう』とため息をついているぞ。」などと心の中でつぶやいているのが、耳のよいイエス様にはすべて聞こえていたのです。

 ただし、「意識の中心点」という言い方をしたのは、代表の祈りの場合、中心ではないけれども、端っこのほうには、ともに祈っている兄弟姉妹への配慮が必要であるからです。明瞭な発声で、その場のTPOにふさわしい祈りをささげなければ、兄弟姉妹は心からアーメンということができません。TPOというのは、時と場所とその時祈る理由ということです。例えば、礼拝の開会における祈りは、開会にふさわしい内容であることが大切ですし、説教の後の応答の感謝祈りの場合には、説教に表された神のみ旨に応答し、感謝と献身をあらわすものであることがたいせつです。

 しかし、人前での祈りであっても、やはり意識の中心点は、今、祈りをささげている相手である父なる神であって、人間ではありません。

 

2 密室の祈り

 

 公の祈りが父なる神に向かう真実な祈りであるための前提は、その人の日常生活に祈りがあることです。祈りの祭壇がちゃんと毎日の生活で大事にされていることです。密室とか、静思の時とか、デボーションとか呼ばれますが、とにかく日々の生活の中心に、まず一人神様の前に出て、神のみこころを聴き、そして、神に向かって語るときを確保することが大切です。

 ですから、主イエスは「6:6 あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」とおっしゃいました。

 密室の祈りというのは、誰が見ているわけでも聴いているわけでもありません。ただ神と私との二人きりのときです。どれほどの時間を、神様との交わりに割いているかを知っているのは神様とあなただけです。三浦綾子さんがどこかに書いていらっしゃいますが、この神様と二人きりのときを持ちたいと思うのは、恋人が二人きりになりたいと思うのと同じように、自然なことです。

主イエスは多忙な伝道生活の中で、しばしば、弟子たちを離れてさびしいところに独り退いて祈っていらっしゃいました。

「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。」マルコ1:35

「群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。」マタイ14:23

 主イエスにとって、この荒野での父との交わりこそ、その力の源泉でした。主イエスはしばしば荒野に退いて祈られましたが、何を祈られたかはほとんど隠されています。

 個人の祈り、密室の祈りは、神様の前に徳を積むための手段、修行ということではなく、愛の父との人格と人格の交わりであり、クリスチャンの日常生活の力の源泉です。車にたとえたら、密室の祈りはガソリンスタンドです。そこで渇いた霊に潤いをいただいて、エネルギーをつめこんでこそ、日常生活のなかでクリスチャンとしての思いとことばと行動が可能となります。

 密室で隠れたところで聞いていてくださる父なる神の前では、私たちは何の取り繕うこともいりません。そもそも、全知全能のお方の前で取り繕っても無駄なことです。ありのままの姿で出て、魂を注ぎだして祈るのです。親にも、子にも、夫にも、妻にも、聞かせることがない、魂の悩みも悲しみも傷も恥も、すべて父なる神様の前では打ち明けてお祈りするのです。

 忙しさにかまけ、あるいはテレビに時間を取られて、父との交わりの時を犠牲にしていると、当座はなんということもなくても、結局は、すべてが空回りしていることにやがて気がつくでしょう。家庭生活も、仕事も、教会生活もうわべだけのものとなって、力と喜びを失ってしまうことになります。神様との交わりとしての密室の祈り、荒野の祈りは命の源泉に顔を突っ込んでごくごくと飲むことなのですから、それなしに生活していて、クリスチャン生活に実りがあることはないのです。

 

 アブラハムの生涯を味わっていて、12章と13章で気づいたことがあります。それは、アブラムが神様の召しを受けてカナンの地に到着した直後のことです。彼はカナンの地に到着すると、すぐにそこに祈りの祭壇を築いて神様を礼拝しました。けれども、しばらくすると激しい飢饉がカナンの地を襲いました。アブラムは不安になって周囲の人々を見ると、みんなこぞってエジプトに食料を求めて避難して行くのです。アブラムは、約束の地をあとにしてそこで一族を連れてエジプトにくだります。しかし、エジプトが近づくにつれて彼は臆病風に吹かれてしまいます。そして、妻に「お前は美女だからエジプト人たちは、おれをねたんで殺すだろう。だから、おれをおまえの兄だと言って、おれをかばってくれ」と頼むのです。はたして、エジプト人は美女サライに目を留めて、エジプトの王の大奥に彼女を入れてしまうのです。

アブラムがこんな臆病風に吹かれて男の風上にも置けないような行動を取ったのはなぜでしょうか。あの旅立ちの日には、あれほど勇敢でさっそうとしていたアブラムは、なぜこれほど臆病になってしまったのでしょうか。じっくりその個所を読むと、飢饉が襲ったとき、彼は祭壇のところに行って主の前に祈ったと記されていないことに気づきます。彼は、約束の地に到着して最初は祭壇を築いたけれども、そのあとは祭壇をお留守にして、忙しく働いていたのです。そして飢饉がやってくると、神の約束を捨てて崩れててしまったのです。ですから、神様によって救われてエジプトからまた約束の地カナンに戻ると、アブラムは、あの最初の祈りの祭壇のところに来て、ひれふして悔い改めて祈ったのでした。

 あなたの生活の中心には何があるでしょうか。仕事でしょうか、趣味でしょうか。あなたの生活の中心に祈りの祭壇を築くことが、実りある生活の秘訣です。生活の中で、祈りの祭壇を築くことをほかの何よりも優先すべきです。朝一番にテレビのスイッチを入れない、新聞を最初に開かない。まず祈る、みことばを開くことです。社会生活をしていれば、私たちを不安にさせることが満ちています。この頃はほとんどのニュースが新型コロナウィルス肺炎で埋め尽くされています。たしかに世界の光、地の塩として生きていくために、これらのことを知ることも大事ですが、しかし、ニュースを聞く前にまず神様の御声に耳を傾けるべきです。そうしてこそ、世の光、地の塩として社会的な責任をも果たしていくことができるでしょう。

 

3 ほんとうの祈り

 

 神に祈ること、祈りの祭壇を生活の中心とすることの大切さを学んできて、次に、その際の本当の祈りとはなにかについて、異教徒の祈りとの違いをもって教えられます。7節と8節に進みます。

6:7 また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。

 異邦人のように同じ言葉をただ繰り返すというのは、たとえば、「******」を100回唱える、1000回唱え、万回唱えると功徳があるなどという異教的な祈りを指しているのでしょう。どうやらイエス様の時代には祭司や律法学者のなかにも、このような異教的な風習としてなにか同じ言葉を繰り返して行けば、功徳を積むことになるのだという異教的な教えが入り込んでいたことをうかがい知ることができそうです。

 異教ではなぜ自分でも何を意味しているかわからないようなことばをただただ繰り返すということをするのでしょうか。それは、異教徒は、聖書のことばをもって語りかけてくださり、また、私たちの語ることばに耳を傾けてくださる、生ける人格的な神を知らないからです。何かの意味不明の呪文の神秘的な力、魔力によって、何事か不思議を体験しよう、欲望をかなえようというのが、異教の祈りです。

 イエス様は、このような同じことばの無意味な繰り返しといった呪文のような祈りをしてはいけないとおっしゃったのです。それは、祈りはパッパッパと短いことが肝心だといっているのではありません。主イエスさまは、荒野に退かれると長い時間、父なる神との交わりをもっていらっしゃいました。格別、ゲツセマネの祈りは2時間から3時間ほどにも及ぶ長い祈りでした。またアブラハムがソドムのためにとりなし祈った祈りも、相当長い祈りでした。人格的な交わりをするためには、それ相当の時間もかかるでしょう。ささっと報告して、ささっと終わりというのでは交わりになりません。愛する人とならば、ずっと一緒にいたいと思うでしょう。神様を愛していれば、同じことです。

 イエス様が、ここで『同じことばを繰り返すな』とおっしゃるのは、私たちの父なる神は、生けるご人格でいらっしゃるのだから、まずは父のみことばを読んで、味わって、そうして普通にお話をするように、父なる神様にお話をすればよいとおっしゃりたいのです。

 

6:8 ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。

 ここを最初読んだときには、「なんだ、それなら、なんでお祈りなどする必要があるんだろう」と思う方が多いようです。異教の祈りは、確かに「家内安全商売繁盛 パンパン」とか「どこそこ大学に合格できますように パンパン」というふうに、何かを手に入れるためにお願いをするというものでしょう。

 ほんとうの祈りとはそんなものではありません。たとえば、あなたが子どもでお父さんがいるとします。日ごろはお父さんをまったく無視して生活していながら、ただ何か欲しい物があったときだけ、「自転車を買ってくれ」「プレステを買ってくれ」というだけだとしたら、こんなに失礼なことはないでしょう。お父さんは自動販売機ではないのです。祈りにおいて、お願いをしてよいのです。ですが、お願いだけではいけません。祈りとは父なる神様との人格的な対話ですから、まず、心を白紙にして、その日、聖書によって神様がお話になることを読んで耳を傾けることです。それから、その神様を賛美することです。そうして、自分の思いのたけを神様に全部ありのままに申し上げて、そのなかで、「このようなものが必要なので、よろしくお願いします」と申し上げるのはよいことです。

父親はだいたい子どもがその時期にどんなものが必要であるかは知っているでしょう。知っていますが、子どもから求められて与えることに、愛の交わりの喜びを感じるものです。父なる神は、人間の父親以上に子どもである私たちの必要をよくご存知です。ですが、私たちが祈って求めることを願っていらっしゃいます。祈りのうちには、愛の交わりがあるからです。

 

結び

 本日はほんとうの祈りについて学んできました。二点確認して結びます。

 

 第一に、祈りにおいて、意識の中心は人間ではなく、父なる神様に向けることが大事だということです。人々にどんなふうに感動的に聞かせようか、などといった邪念は捨てて、父なる神に向かって、祈ることです。しかし、共同の祈りとして代表でささげる場合にはそこにいるみんなが心からアーメンといえるように、はっきりと的をしぼって祈りましょう。

 

 第二に、ほんとうの祈りとは、生ける神との人格的な対話です。

 それは非人格的なもの、マジナイのようなものではありません。修行でもありません。

 それは、生ける神様に対するお話ですから、ただ一方的に報告することではなく、耳を傾けるときがたいせつです。

 

 第三に、私たちの個人生活の中心に、祈りの祭壇があるでしょうか。もしかして、カナンの地にやってきてしばらくして忙しさにかまけて祈りの祭壇をおろそかにして崩れかけていたことがあるとしたら、立て直しましょう。生活の端っこに祈りを押しやっていたとしたら、生活の中心に祈りを据えなおすことです。朝起きたら、祈りの時間をまず第一にすることです。父なる神様との交わりを、一日の一番のときに確保するように生活全体を立て直すことです。

 

「私のことばに耳を傾けてください。

   主よ。私のうめきを聞き取ってください。

 私の叫ぶ声を耳に留めてください。

   私の王、私の神、私はあなたに祈っています。

 主よ。朝明けに私の声を聞いてください。

   朝明けに私はあなたの御前に備えをし、仰ぎ望みます。」

詩篇5:1-3

 幕屋に主の栄光

Ex.40:32-38  ヨハネ1:1-2、14-18

 

32**,会見の天幕に入るとき、また祭壇に近づくとき、彼らはいつも洗った。主がモーセに命じられたとおりである。**

33**,また、幕屋と祭壇の周りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうしてモーセはその仕事を終えた。**

34**,そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。**

35**,モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。**

1 影

 

 紀元前15世紀、イスラエルの民はエジプトにおいて奴隷としての苦しみを経験していました。そこで神様はモーセという人物を召して、イスラエルの民の救出のために派遣されるのです。モーセは当時80歳。かたくなで残酷なエジプトの王ファラオとの長い交渉の末、神様の十の災害に、かたくななパウロも折れて、ついにイスラエルの民は解放されたのです。

 神様は、ご自分が解放したイスラエルの民のうちに住まわれます。幕屋つまりテント式神殿とは神の住まいです。もちろん天地万物の主が、小さな幕屋に住むというのは畏れ多いというか、不思議というか、奇妙なことですが、神様は神の民にご自分の臨在を示すために、あえて地上に幕屋をつくりそこに臨在を表されることになさったのです。

 私たちがここ苫小牧福音教会の会堂で礼拝するときにも、主なる神の御臨在が事実ここにあるのです。主イエスは「二人でも三人でも私の名において集まるところにはわたしもその中にいる」(マタイ18:20)とおっしゃいました。

  出エジプト記は二部構成になっており、第一部は1章から18章で、内容はエジプトの縄目からの解放をテーマとし、第二部19章以降は神とともに生きる生活の基準としての律法と、神の住まいである幕屋の建設という内容になります。つまり、ここは大事な点ですが、まことの神様のくださる救いとはまず罪の縄目からの解放であり、つぎに神とともに生きる生活であります。新約時代のことばでいえば、義認と聖化といえばよいでしょうか。

 そして、お読みした個所はこの第二部の最後、幕屋が完成した場面です(33節)。

33**,また、幕屋と祭壇の周りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうしてモーセはその仕事を終えた。

そして、幕屋(ミシュカン、LXXスケーネー) が完成すると、雲が会見の天幕をおおいました。この雲は神様の臨在が出現するときに現れる栄光(カボード、LXXドクセース)の雲です。神様のあまりにも著しい臨在のために、モーセその人さえも会見の天幕にはいることができなかったのです。34,35節

34**,そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。**

35**,モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。

  

2 本体――キリストの受肉

 

 さて、「旧約は新約の影、新約は旧約の本体」とへブル人への手紙にあります。旧約は新約のある事柄を指差しているモデル、予表です。

 この紀元前1400年における出エジプトにおける幕屋の出来事は、それ自体驚くべきことですが、実は、それから1400年後に起こる、さらに驚くべき出来事を指差していました。それは主イエスの御降誕です。ヨハネ福音書1章1-2、14.

1**,初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。**

2**,この方は、初めに神とともにおられた。**

 

14**,ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。**

  「ことば」と呼ばれる神は、永遠からいますお方であり、万物の造り主であります。そのお方が、人となって私たちの間に住まわれたのです。注目すべきことに、ここで「住まわれた」と翻訳されていることばは、スケノオーといいまして、幕屋スケネーの動詞の形をしています。つまり、「ことばは人となって、私たちの間に幕屋を張られた」ということなのです。記者ヨハネはあきらかに、出エジプト記の末尾の幕屋完成の記事を意識して、この箇所を書いています。1400年前、神がモーセに命じて造らせたあの幕屋に、神の栄光が現れた、あの出来事は、永遠のことばなるお方が人として地上に幕屋を張ったことを予告していたのだ、とヨハネは言いたいのです。モーセの見た栄光は、ヨハネが見ている栄光を指さすものでした。

 万物の創造主が、地球のイスラエル民族のうちに幕屋を張らせて、そこに臨在を表されたというだけでも畏れ多いことなのに、なんとイエス・キリストにあって万物の創造主は人となって地上に下られたのでした。そして、神の民うちに幕屋を張られたのです。

 

3 受肉の意味

 

 永遠にいます偉大な神のことばがどうして、わざわざこの地上に来られたのでしょう。

 昔読んだデンマークキルケゴールという人のたとえを思い出しました。正確には覚えていませんが次のような話です。「あるところに王がいた。この王は一人の庶民の娘を愛するようになった」とキルケゴールは、神が人となられたという奇跡の中の奇跡の理解を求めて語ります。王は一人の町の娘を愛するようになりました。けれども、王は考えました。「わたしが王として彼女に、愛を告白したとしても、彼女はただ、わたしが王であるから、ただ恐れて、『はい』と受け入れるだけのことだろう。それでは真実の愛は育つまい。そこで、王は王としての身分を隠し、一人の青年としての姿をとり、この娘に求婚し、愛を育てていくという話です。

 そのように神様は私たちとの間にある創造主と被造物、無限者と有限者という隔てを乗り越えて愛を注ぎ、私たち人間と愛の交わりをするために、この世に人として幕屋を張られたのです。

 旧約の時代に、神がアブラハムの子孫イスラエルの民に幕屋をもって、臨在をあらわされたことは大いなる恵みでした。けれども、新約の時代、永遠の神の御子が、人となって私たちのうちに住んでくださったことは、さらに大きな恵みでした。

16**,私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。

17**,律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 

 私たちは、御子イエスの愛のご生涯を福音書に見るとき、そのお言葉、そのご人格を通して、神は、こういう愛のお方であったのだと、如実に知ることができるようになったのです。

18**,いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 生きることには悩みや悲しみや苦しみがともなうものです。もし神様がはるかなきよい天におられるだけで、私たち地上に悩むものを見下げていらっしゃるとすれば、私たちの祈りは聞かれないでしょう。けれども、イエス様は神であられながら、貧しい大工の家庭に生まれ、貧しきうれいも、生きる悩みもすべて私たちと同じように経験してくださったのです。ですから、私たちがどんな祈りをすることをも喜んで耳を傾けて聞いてくださるのです。

 これがモーセが幕屋を神様のご命令にしたがって建設したとき、神の栄光の雲があらわれたという事件が指差していた本体です。あの予言的出来事は、イエス・キリストにあって成就したのです。私たちは、恵みの上に恵みを注がれた時代に生きている神の民として、神と御子のご愛に応えて、神を愛して生きるものとなりたいと思います。

 

 

父の眼差しのもとで

マタイ6:1-4

 

1**,人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。**

2**,ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。**

3**,あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。**

4**,あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

  

1.人に見せるための善行

 

 「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。」とイエス様はおっしゃいました。この後、施しと祈りと断食と続きますが、これら三つは当時のユダヤ人社会のなかで、敬虔なユダヤ教徒が果たすべき善行とされていました。施しは、聖書を背景とする今日のユダヤイスラム、欧米のキリスト教社会では、経済的余裕のある人々にとって義務とされています。大金持ちでありながら、病院や学校や施設などに多額の寄付をするというふうな社会的な貢献をしないと、守銭奴として軽蔑され、非常に不名誉なこととされてしまいます。日本では慈善的な寄付行為というのは、あまり一般的ではありませんでしたが、阪神大震災以来、そのような社会的な変化が生じてきました。

経済にいささかでも余裕のある人が、貧しい人に施しをするという行為それ自体は神に喜ばれるよいことです。旧約聖書箴言にも、次のようにあります。

「14:21**,自分の隣人を蔑む者は罪人。貧しい者をあわれむ人は幸いだ。」

「14:31 弱い者を虐げる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。」

「17:5 貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。人の災難を喜ぶ者は罰を免れない。」

「22:2 2**,富む者と貧しい者が出会う。どちらもみな、造られたのは主である。」

「28:27 貧しい者に施す者は不足することがなく、目をそらす者は多くののろいを受ける。」

 

  あの金持ちとラザロのたとえで、金持ちが地獄であのように苦しむわけは日本人にはわかりにくいでしょうが、律法を背景としている社会ではあたりまえのことです。金持ちが地獄で苦しんだわけは、彼がなにか犯罪に手を染めたからではありません。門前の乞食に食べるものを施すという富裕な者が当然はたすべき義務を果たさなかったからです。

 けれども、その施しが、人に見せるためになされる偽善になることがしばしばあるとイエス様は、指摘なさいます。もしそうなら、慈善でなくて偽善になってしまいます。それはさもしいことです。

「6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」

 

 アーノルド・ベネットという人の本に「ファイブタウンズ物語」というのがあって、そこにサー・ジョシャファットという大変成功した実業家が登場します。彼は英国で最大級の食器工場を持っていて、薄利多売方式で大もうけをするのですが、従業員には最低限の賃金しか支払わないのです。けれども、一方で彼はファイブタウンズの病院や学校には多額の寄付をするのです。町の人々は彼の慈善ならぬ偽善にあきれて、彼の慈善=偽善の記念として、彼の肖像画を送るのです。いかにも偽善者的な顔をした彼の肖像画を。彼はそれを捨てるわけにもゆかず、泥棒に頼んで盗んでもらおうと画策する・・・そういう話です。慈善文化というものがある社会では、慈善活動がひとつのステイタスシンボルになるのですね。そして、それはえてして偽善に堕することがある。イエス様は、それを警告なさっているわけです。日本の場合は、慈善文化そのものがないので、これからの課題かもしれません。

ともかくエス様は、そういう偽善をたいそう嫌われました。聖書とくに福音書を読んでいてわかるのは、神様は真実なお方ですから、偽りというものを非常に嫌われるということです。偽善者がうわべをいかに美しく取り繕っても、神様の目から見ると、それは白く塗られた墓のようなもので、表面はきれいに見えていても、中身には穢れたものがいっぱいなのです。

 偽善の恐ろしさは、うわべを美しく整えているうちに、人をだますだけでなく、いつの間にか自分の中の邪悪な罪に気づくことができなくなって、神様の前に自分は正しいと思い込んで、ついには悔い改められなくなってしまうことです。そうして自分たちの偽善を暴く神の御子イエス様を、かえって激しく憎んでついに殺してしまうということまでも、パリサイ人や律法学者や祭司長たちはしてしまったのです。これは実に愚かしいこと、悲惨なことです。偽善は自らを滅ぼしてしまう魂の癌です。

 

 けれども、偽善になってはいけないと意識しすぎると、結局、なすべき善をすることができなくなります。電車に乗って座っていたら、おばあちゃんが来たら「譲ってあげよう」と思うのですが、みんなが見ているのに気付いたら「これは偽善ではないか」と悩んで、席を譲ることができないということだと、何にもなりません。どうすればよいのでしょう。それは意識する視線を改めることです。

 

2.報いを期待してはいけないのか?

 

 では、報いを期待してはいけないのでしょうか。報いを期待しての施しをすることは、サモシイことであるという考え方は、私たちの中にもあるでしょう。「お駄賃を期待してお手伝いをするのはさもしいことですよ。見返りを期待しないで、お手伝いをしなさい。」と、こんなふうに躾けられたという方が多いのではないかと思います。わたしもそうでした。 あるいは、「今度のテストで数学で90点以上取れたら、ファミコン買ってよ。」とか言われたら、親はいい点を取ってほしいなあとか思いながらも、「なにを言っているの。勉強するのは、あなた自身のためでしょ。」とか、哲学的な親なら「数の世界の美を見出したこと自体の喜びに感動すべきではないか。」とかいうでしょう。

 何か報いを期待してよいことをするというのは、さもしいことだというふうに私たちは感じるわけです。

 昔、ドイツのケーニヒスベルクという町にインマヌエル・カントという哲学者がいました。彼はたいへん生真面目な人で、自分を律して生活をしていたそうです。町の人たちは、カント先生が散歩をしてくるのにあわせて自分の時計を合わせなおしたという有名な話があります。

このカント先生は、善と呼ばれている行いには二通りあって、ひとつは仮言命法であり、もうひとつは定言命法があるといいました。仮言命法は、「お駄賃があげるから、お手伝いしなさい」という場合です。定言命法のほうは、「人がほめてくれようとほめてくれまいと、貧しい人に施しをすることは人間として正しいことであるから施しをしなさい」ということだということになります。定言命法は、「何かの報いのために」などという目的がなく、それ自体が正しいことなので、無上命題とも呼ばれます。

クリスチャンには真面目な人が多くて、キリスト教はご利益宗教ではないと言って、なんだかカント風にキリスト教的な生き方を考えている場合があります。それは、なんの報いも求めず、正しいことは正しいから行うという生真面目で、高潔な生き方です。確かにあのヨブの「主は与え、主は取りたもう。主の御名はほむべきかな。」という驚くべき信仰告白があることは事実です。でも、常にそうかというとそうではありません。ヨブだって、最後には主から豊かな報いをいただいているではありませんか。

いったい何人の人が、いっさいの報いを期待しない生き方だけで生きていくことができるのでしょうか。「何の報いも期待せず、ひたすら善は善であるがゆえに善をなすのだ」というこの教えに、誰が従うでしょう。そして、「何か報いを期待する心が生じたら最後、その行いは本当の善ではない、不純な行いなのだ。」と言われたら、私たちは実際にはなんの施しもやる気がなくなってしまうでしょう。それで、ある人たちは、「カントの無上命法は無力命法だ」と揶揄します。無上命法には、人を善へと励ます力がないからです。

 

3.天父の眼差しの下で

 

 山上の説教のこの箇所をよく読んでみると、イエス様はカントがいうようなしかつめらしい定言命法を教えてはいらっしゃるわけではないことに気づくでしょう。たしかに、イエス様は、人に見られたくて、人からの賞賛を得たくて善い行いをしてはいけませんとおっしゃいました。右手のしている施しを左手にさえ知らせるなとまでおっしゃいました。では、「誰も見ていず誰もほめてくれなくて、だれもご褒美をくれなくても、なすべきことをなしなさい」と、本当にイエス様は教えていらっしゃるでしょうか?そうではありません。

 「6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。(中略)・・・6:4 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 」

 イエス様は、「『天におられるあなたがたの父』『あなたの父』が、あなたの施しに対して与えて下さる報いに期待していいよ。人々のこの世での賞賛でなく、あなたの天の報いに期待して、施しに励みなさい。」とおっしゃっているのです。そうです。クリスチャン生活とは、誰も見ていなくてもそれ自体善であるからなさねばならぬというような堅苦しい修行や道徳ではありません。キリスト者の信仰生活とは、生きておられる愛の人格的な父なる神との交流なのです。

 私たちの父なる神は、この上なく真実な愛のお方でいらっしゃり、また、私たちの魂の奥底まで見通していらっしゃるお方ですから、この父なる神が見ていてくださる事を意識しているならば、私たちはさもしい了見で「施し」をすることもないでしょう。同時にまた、私を愛し、私のために御子イエス様のいのちさえも惜しまなかった天の父に喜んでいただきたいという動機から、善い業に励むのです。

 

 一番大事なことは、生きておられる私たちの天の父が見ておられることを意識して生活することです。

 もうずいぶん前のことですが、ムーディーの科学映画というので、砂漠の世界を見たことがあります。砂漠の風景が映り、それがどんどん絞られてゆき、一粒の砂の世界が大写しになるのですが、その砂から一輪の花が咲いているのです。それは1ミリにも満ちませんが、じつに見事な造形でした。人知れず咲いて、そして人知れずかれて行くのです。しかし、天の父がその砂漠の一輪の花をご覧になっているのです。

誰の目にとまるわけでもありませんが、天の父が見ていてくださる。そのことを覚えて、この週もそれぞれの場で花を咲かせてまいりましょう。

 

結婚の尊さ

マタイ5章27-―32節 創世記2章18-24節 27**,

『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。**

28**,しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。**

29**,もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。**

30**,もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。**

31**,また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。**

32**,しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。

 

 

 

  私たちの遣わされた日本社会では、性道徳が崩壊しています。最近3人の子どもをもつ男優の不倫事件について報じられ大騒ぎです。奥さんと子どもを傷つけ、本人は芸能界を干され6億円の賠償金を出演CMのスポンサーから求められるとのことです。さらに腐り果てているのは政府官界です。官房長官の腹心である補佐官は京都に公務で出かける際、浮気相手の女性官僚を連れて行ったことが指摘されましたが、何ら処分されませんでした。芸能界や政界など目立つ人々の不道徳は、多くの人の知るところですから、社会全体を不道徳で汚すことになります。

 残念ながらこの世は、性的不道徳で汚れています。イエス様は、この世の中に、私たちを派遣して、「あなたがたは地の塩です」「あなたがたは世の光です」とおっしゃいます。そしていかに生きていくのかを教えてくださいました。特に、パリサイ人、律法学者たちのいう表面的な正しさに勝る、真の正しさが求められているのだということで、主イエスは6つの律法の理解を取り上げられました。今回は、二つ目「姦淫してはならない」三つ目「妻を離縁する者は離縁状を与えよ」についてのお話です。

 両者に共通していることは、ともに結婚に関する戒めであるという点です。結婚という制度が、神の前では尊いものであるということを前提として、これを壊してしまう姦淫という罪と離婚の問題が取り上げられています。ですから、あらかじめ結婚という制度がどのような意味で神の前に尊いものであるかということを振り返ってから、二つの律法についてお話するのが適切でしょう。

 

1 結婚の尊さ

 

(1)神が定めたゆえに

 結婚そしてそこから始まる家庭は、人間が自分たちの都合で考え出したものではありません。結婚という制度をお定めになったのは、人間をお造りになった神なのです。

創世記2章18-24節

18**,また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」**

19**,神である主は、その土地の土で、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って、人のところに連れて来られた。人がそれを何と呼ぶかをご覧になるためであった。人がそれを呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった。**

20**,人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた。しかし、アダムには、ふさわしい助け手が見つからなかった。**

21**,神である主は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。**

22**,神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。**

23**,人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」**

24**,それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

 

 

 神様が、人間が堕落する前に定めてくださった制度は三つあって、それは安息日、仕事、そして結婚(家庭)です。神様を安息日に礼拝し、仕事をし、家庭を営むということは、人間にとって最も基本的で大事なことなのです。結婚というものが、人間が自分の都合のために適当に決めた制度であるならば、適当にこれをやめてしまっても大した問題ではないでしょうが、結婚は人間が決めたことでなく神が定めた尊い制度です。

 

 

(2)結婚の三つの目的

 聖書によれば、結婚の定めの目的は三つあります。

第一の目的、もっとも大事な目的は、夫婦の愛の交わりを通して、キリストと教会の愛の交わりを予表することです。創世記1章27節に「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」とあるように、父子聖霊の三位一体の愛の交わりの神様は、人間をご自分の似姿として造ってくださいました。ですから、神に似たものとして造られた夫婦もまた、愛の交わりをするように造られているのです。特に、聖書の中でキリストと教会の関係は花婿と花嫁になぞらえられているように、夫婦はその結婚生活・家庭建設をもって、終わりの日のキリストと教会のうるわしい交わりを予表する務めがあります。その夫婦を見た人々が、キリストと教会のまじわりはこのようなものなのだなあと感じるような、そういう夫婦であることが求められているわけです。それは、夫は妻をキリストが教会を愛されたように愛し、妻はキリストに従うように夫にしたがうことです。

 

結婚の第二の目的は、神様が最初の夫婦を「産めよ。ふえよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記2:28)と祝福して言われているように、子孫を繁栄させて、神様の被造物を治め、文化を形成させる目的を果たすことです。地を治めて文化を形成することを文化命令といいますが、一人ではこの広い地球の上では成し遂げることができません。神さまは人間の子孫が増え広がらせて、文化命令の遂行することを計画なさったのです。

 

 しかし人間が堕落してしまったので、結婚にはもう一つ、第三の目的が加わりました。それは、「不品行を防止するためです。」とパウロがコリント人への手紙の中に記している通りです。第一コリント7章9節「しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。」

 

 

2 姦淫してはならない

 

(1)不品行と姦淫

 このように、結婚という制度は神の尊い定めであるので、これを破壊してしまう姦淫という罪はとても重大な罪なのです。聖書においては不品行(ポルネイア)と姦淫という罪を区別しています。不品行という罪は未婚の男女がみだらな関係を持つことであって、それはもちろん罪ではありますが、死刑にはあたりませんでした。若い男女が結婚する前に性的関係をもってしまった場合には、必ず賠償をして、そして、結婚をしなさいと旧約の律法には定められています。罪ではありますが死刑ではなかったのです。

しかし、姦淫の罪を犯してしまった場合には、その男女は死刑と定められていました。姦淫は配偶者を持っている人が、配偶者を裏切って、他の異性と性交渉を持つことを意味しています。ですから、姦淫は夫婦関係を破壊し、家庭を破壊してしまう点で、不品行よりも大きな罪なのです。結婚・家庭というものは、神が創造の時につくられた尊い定めですから、これを破壊する罪は死刑にあたる重罪であるとされたのです。

なぜそれほど結婚は尊いとされたのでしょうか。それは結婚は、花婿キリストと花嫁教会のうるわしいきよい愛の交わりを予表するものであるからです。ですから、既婚者が配偶者を裏切って他の異性と性交渉を持つ姦淫は、聖書の中で偶像崇拝の譬えとして用いられています。姦淫は、花婿キリストと花嫁である教会とのきよい愛の交わりを汚す重大な罪なのです。

 

(2)情欲

 さて、イエス様が姦淫という罪についておっしゃることばには、特別に独身の賜物の与えられた男性でないかぎり恐れおののくと思います。

27**,『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。**

28**,しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。**

 パリサイ人、律法学者は具体的に外に現われた行動にならないかぎりは姦淫を犯したことにはならないと教えていました。今日でも、人間の間の裁判ではそういうことです。心の中において犯した罪に関しては、人間はさばくことはできませんし、人間がさばいてもいけません。イエス様は、この言葉によって、「あなたがたは、罪は人間に対して犯すことだと思っているようだが、そうではない。あなたが罪を犯すときには、聖なる神の御前で犯しているのだ。」とおっしゃっているのです。神は霊ですから、私たちの心の中の動き、私たちの心の中のけがれをご覧になっているのです。私たちは神を恐れなければなりません。

 この心の中の姦淫の罪に対処する方法について、イエス様は次のようにおっしゃいます。

29**,もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。**

30**,もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。

 

これはいわゆる誇張法であって、ありのままに受け取るべきことばではありません。あなたがもし実際に、もし右目が罪を犯したので右目をえぐり取ってしまっても、いや両目をえぐり取ってしまっても、なお罪を犯してしまう自分を見出すことでしょう。では、この誇張法をもって、イエス様は何を教えようとされるのでしょうか。それは、この姦淫の罪については、もし誘惑を内側に少しでも感じたならば、決然とその人、その場を離れる態度を取るべきであるということです。誘惑に直面し、誘惑と戦おうとするのではなく、誘惑から離れることです。ヤコブの息子ヨセフが、エジプトの高官の妻から誘惑されたとき、彼は「どうしてご主人に対し、神に対して罪を犯すことができましょう。」と言い放って、その場を立ち去りました。

私が青年時代から指導されたのは、<個室、車の中など、異性と二人きりにならないようにしなさい。やむを得ない状況の場合は、ドアを開けて話すとか、その状況について妻に伝えておきなさい。あるいは車の場合は、隣の席には配偶者以外は座らせず、後部座席にすわってもらうといった配慮をすることです。うちでは妻と娘以外、隣席にすわる女性はロダだけです。

 

 

3 離婚問題

 

 次に結婚を破壊する離婚について、イエス様は次のように教えました。 

31**,また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。**

32**,しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。

 

 『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』ということばは、当時の律法学者たちの、旧約聖書申命記24章1節「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ云々・・・」を、男の都合中心に読み誤った教えです。このような教えがなされていたので、当時のユダヤの男たちは一般に、「自分の妻が気に入らなかったら、離縁状さえ渡せば、離縁する権利がある」と思っていたようです。 主イエスの弟子たちも、イエス様の教えが離婚を非常に厳格に禁じることだったので、「結婚に関して男の権利がそんなものなら、結婚しない方がましですよ」と言い放ったことが福音書の他の箇所に記録されています。つまり、ユダヤ社会は戦前の日本のように、男尊女卑の傾向の強い社会で、夫の権利だけが強く、妻の権利はほとんど顧みられないという状況でした。そこで、旧約時代、モーセはそれでは男の身勝手であるということで、せめて離縁状だけは渡すようにという、女性を保護するための手続きを命じたのでした。

 そして「もし夫が、妻に恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり・・・」ということばの「恥ずべきこと」とは何を意味するのかについて、例えば料理が下手だとか、病弱だとか、掃除が下手だとか、しわが寄って来たとか、なんでもいいから、夫からみて「恥ずべきところ」があったら、任意に追い出すことができるということだと解釈する有名な学者もいたのです。女性は、たいへん立場が弱かったのです。

 けれども、イエス様は、そうではなく、神が二人を結ばれたのだから、離縁をしてはいけないと教えたのです。結婚は、キリストと神の民を交わりを予表し、文化命令を遂行するために子どもを産み育てるための聖なる定めです。これを壊してしまう離婚を禁止したのです。

 だた、例外として「恥ずべき理由」があるとすれば、それは「淫らな行い」だけだとおっしゃったのです。つまり、姦淫の罪を犯した場合は、例外として離婚が許容されるのだとおっしゃったのです。 姦淫という罪は、一つ目の戒めに戻りますが、このように聖なる結婚をも破壊しうる恐るべき罪なのです。なぜなら、それは配偶者を裏切ることを意味しており、神が建てた家庭を破壊してしまう行為であり、そして、終末におけるキリストと花嫁の麗しい交わりをもはやその夫婦が予表することが出来なくしてしまう行為であるからです。

 

結び

 「あなたがたは地の塩です」「世の光です」と主イエスは私たちをこの世に派遣してくださいました。この世界は、何が正しく清いことであるのかということも分らなくなっています。ますます、そのようになっていくことでしょう。そうした何が正しいかわからなくなった時代であるからこそ、キリストを信じる者たちのきよい生き方が必要であり、神様に期待されています。神が建てた結婚、そして家庭という制度を、神の前に尊ぶ生き方をしてまいりたいと思います。