水草牧師の説教庫

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復活の証人・・・シャローム

ヨハネ福音書20:19-23

2020年4月12日 復活日礼拝

 

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」

 20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

 20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

 20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

 20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

 

 

 金曜日、主イエスは敵にとらえられて深夜の裁判にかけられ、午前九時に十字架につけられてしまいました。あざけりと怒号のうずまくゴルゴタの丘で、主イエスは十字架に釘付けにされ、さらし者にされました。しかし、あの十字架の上で、主は「父よ。彼らをおゆるし下さい」と私たちのために祈ってくださったのです。

 3時間がたって正午になると、突然太陽は光を失ってあたりは暗闇になりました。この暗闇は遠く小アジア半島の歴史家も記録に残しているものです。恐ろしい暗闇は、神の呪いの象徴でした。すなわち、聖なる神の人類の罪に対する怒りを、人類の代表となって主イエスは十字架の上で一身に背負われたのでした。午後3時、「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と暗闇を引き裂くイエスの声が響きました。神の御子が人となって、神に呪いのうちに捨てられたのです。そのことによって、私たちが祝福を受けるためでした。イエスは「父よ。わが霊をみ手に委ねます。」というと、息をひきとられ、アリマタヤのヨセフの墓に葬られたのです。

 墓に葬られたのが金曜日の日没前のことです。その日から数えて、三日目の朝、うずうずしていた女たちは主イエスの墓へと出かけてゆきました。そのおからだに香料を塗って差し上げたいと考えたからでした。ところが、墓に行ってみると、大きな墓にふたをする石はどけられて、主のからだはすでになく、天使がいたのでした。そのことを、女たちは弟子たちに告げに行きました。弟子たちは、にわかにイエスが復活したということを信じることはできませんでしたが、女たちのあまりの熱心さに、これはただごとではないと考えて、ヨハネとペテロが墓に走ってゆきました。すると、墓はたしかに空っぽだったのです。ヨハネは、その様子から、主イエスがほんとうによみがえったのだと悟りましたが、ペテロは何が何だかわけがわかりませんでした。

 

1 恐怖

 

 主イエスが十字架にかけられて三日目の夕刻、「イエス様のおからだはどこに行ったのだろう?」「女たちがいうように、イエス様はほんとうによみがえったのだろうか。」そんなわけで、弟子たちは不安と当惑のうちにすごしていました。

 しかも、弟子たちはユダヤ人を恐れて戸を固く締めていました。それは、イエス様を殺した連中が、イエスの残党狩りを始めることを予想していたからです。祭司長や長老たちは、にっくきイエスを十字架にかけて殺しただけでは飽き足らず、イエスの弟子たちにも魔の手を伸ばしてくるかもしれませんでした。

 弟子たちは数日前まで、勇気凛凛、野心に燃え上がっていたのです。エルサレムに一週間前に入城して以来、ユダヤ当局はイエス様を論破するために、パリサイ派だのサドカイ派だのの学者たちを遣わしましたが、イエス様は彼らをやすやすと返り討ちにしてしまったからです。これから我らの大先生、イエス様は待ち望まれたメシアとして自分を宣言なさるにちがいない。そうしてダビデの王座に着いて、ローマの支配を排除して、ダビデ、ソロモン王朝の栄華を回復してくださるにちがいない。その時には、私たちも、イエス様の右大臣、左大臣、その他大出世させてくださるはずである。そういう野心でした。

 ところが、イエス様はどういうわけか、ゲツセマネの園で、むざむざ敵に対してご自分を渡してしまったのです。そして、暗黒裁判にかけられ、最後には、あのむごたらしい十字架にかけられて、処刑されてしまったのでした。

 十字架刑のむごたらしさを見ていた弟子たちは震えあがってしまいました。死の恐怖です。あのエジプト脱出のとき、ファラオのかたくなさに対するさばきとして、死の使いが家々を回って、あちこちの家で悲鳴が上がっていたとき、人々は恐怖におののいていましたそうして、戸を固く閉ざしていました。死が押し迫る恐怖です。弟子たちもまた死の恐怖の中に置かれていました。

 

2 シャローム

 

 ところが、そこにイエス様が来られ「彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」」「平安があなたがたにあるように」、というのはヘブライ語でシャロームといいます。死を恐れることはない。シャロームだよ、とおっしゃるのです。

 弟子たちは、パニックになりました。ルカの並行記事を見ると、幽霊だと思ったというのです。無理もありません。墓が空っぽになっているとは言っても、弟子たちは半信半疑だったのです。ヨハネが墓の中の、イエス様のからだをまいてあった様子について話して、イエス様は復活したはずだと言っても、半信半疑でした。いや信仰10%、残り90%は疑っていましたから、死人が出現するというなら、それは幽霊だと思ったのはもっともなことです。

 そんな弟子たちのために、イエス様はその手と足を見せました。幽霊には手や足がないというのが常識だったのでしょうか。弟子たちは恐る恐るイエス様の手のひらを見てみると、そこには長い釘で撃たれた傷がありました。衣のすそを挙げると、その足にも釘の後がありました。さらに、脇腹を見ると深々と槍の跡がありました。まちがいありません。主イエスです。

 そこで主イエスはもう一度、力強く、そしてやさしくおっしゃいました。 

20:21 「平安があなたがたにあるように。」

 復活のイエス様は、弟子たちに平安をあたえてくださったのです。

 弟子たちは失意と恐怖の中にあって、扉を閉ざしていました。

 失意というのは、自分たちの希望であるイエス様が死んで奪い取られてしまったことでした。自分たちの、うきうきするような野心的な計画も、ぜんぶ壊れてしまったことでした。そして、もう一つ失意の理由は、命を捨ててでもイエス様に従っていきますと口々に言ったくせに、いざ敵がやってくると、弟子たちはみんなイエス様を捨てて逃げてしまったことです。自分はこんなに卑怯で弱虫の情けない人間だったのかと挫折を感じ、悔やんでも悔やんでも取り返しがつかないと、がっかりしてしまったのです。

 恐怖というのは、死の恐怖です。ユダヤ当局のイエスの残党狩りが始まれば、自分たちはイエスの弟子団の中で、特選の十二人の弟子たちとして逮捕され、拷問され、処刑されることになるでしょう。その死の恐怖です。

  けれども、罪と死と悪魔に対して勝利を収めて、復活した主イエスは力強くおっしゃるのです。「シャローム。平安があなたがたにあるように。」「シャローム。平安があなたがたにあるように。」

 主イエスは、罪を死と悪魔に対して勝利して、弟子たちに、その勝利に基づく平安を与えに来られたのです。彼らの罪のすべてをあの十字架で帳消しにしました。そして、死は罪の結果人類に入り込んだ呪いなのですが、罪を帳消しにすることによって、もはや死の力をもつ悪魔は無力化されてしまいました。イエス・キリストのうちにある者は、たとい死んでも生きる者とされたのです。その肉体はいずれ滅びる日が来たとしても、それは永遠のいのちへの門です。キリスト者にとって、肉体の死とは、天国に連れて行かれて、栄光の主と共に至福のうちに暮らすための旅立ちなのです。

 だから、シャローム、平安があなたがたにあるように、です。

 

 今朝、あなたにも、主イエスはおっしゃいます。「シャローム!平安があなたがたにあるように。」

 今、世界中が新型コロナウィルスの恐怖におののいています。おののいて、部屋の中に閉じこもっています。その恐れは、結局は、死に対する恐れです。新型コロナにとらえられて死んでしまったらどうしよう、という恐れです。けれども、私たち主イエスの弟子となった者たちは、もはや肉体の死の恐怖から解放されています。

「あなたの罪は、わたしがすべて十字架の死によって解決した。罪に対する罰としての、地獄の永劫の苦しみは、私がすべてなめつくした。だから、あなたは、死を恐れることはない。死は永遠のいのちへの門なのだ。」

 主イエスは、そうおっしゃるのです。シャローム。それは、神との平和です。神の、あなたに対する怒りは去って、今や平和がもたらされたのです。

 

3 派遣

 

(1)聖霊

 主イエスは、彼ら弟子たちにシャロームを与えました。それは、神との平和です。キリストにつく者は、キリストの十字架と復活のゆえに、神との平和を持っています。死んでも死なないいのちを持っています。肉体の死の向こうには、輝かしい天の家が待っています。これは素晴らしい福音です。よき知らせです。

 そこで、主は、弟子たちにこの十字架と復活の福音を携えて行け、と派遣なさるのです。派遣するにあたっては、聖霊を彼らをお与えになったのでした。  

20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

 神の息とは、神の霊です。イエスの息は聖霊です。弟子たちは、弱い者でした。主イエスについて行きたいと願い、たとい死ななければならないとしても、私はついていきますと言いながら、イエス様を見捨てた者たちでした。そんな彼らが、これから後は、ユダヤ教当局に逮捕され、拷問を受けるようなことがあっても、大胆にキリストの十字架の福音を語り続けました。彼らは、明らかに変貌しました。弟子たちは、死をも恐れずに宣教して、新約の時代の教会の礎を築き上げたのでした。彼らの殉教の血は、教会の種となったのです。

 何が彼らを変えたのでしょうか。主イエスの復活の事実と、主イエスがお与えになった聖霊です。

 

(2)天国の鍵の権能

 聖霊をお与えになって、弟子たちに主イエスが語られたことは、弟子たちが築く教会に、天国のカギを託すという内容です。

 20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

 この十一人の弟子だけのことではありません。教会に対して、イエス様は、この天国のカギを託されたのです。教会は、「悔い改めて、イエスをあなたの罪と死からの救い主として信じなさい。」と宣言します。この宣教に対して、「私は確かに神の前に罪があります。イエス様を信じます。」と告白する人に対しては、「あなたの罪は赦されました。」と教会は宣言します。その人の罪は赦されて、天国の門が開かれます。そのあかしとして、洗礼を授けます。

 

 しかし、キリストの福音を聞いても、「私は罪を認めません。イエスなんて信じないよ。」という人の神の前での罪はそのまま残ります。

 

結び

 イエス様は、弟子たちに、そして世世の教会に、この苫小牧福音教会に、天国のカギを託してくださっているのです。人々は、失望の中にいます。また死の恐怖の中にいます。それは肉体の死の向こうに永遠の滅びが待っているからです。

 しかし、私たちは、復活のイエス・キリストがくださったシャロームの中にいます。神との平和を持っています。この善き福音を喜び、そして、復活の証人として生きてまいりましょう。