水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

赦し赦される

マタイ6:12-15

 

12**,私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

13**,私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』

14**,もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

15**,しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 

1 ごとく

 

 主イエスが私たちに教えてくださった祈り、主の祈りを続けて学んでいます。主の祈り全体を朗読しましたが、本日は、12節に特に耳を傾けたいと願っています。

12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

 これは神様に対する、私たちの第二の祈願です。しかも、この祈願については、イエス様は念を押すように、続く14,15節で同じ趣旨のことばを繰り返していらっしゃいます。

14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

新改訳は「負い目」(オフェイレーマタ)と「罪(違反)」(パラプトーマタ)を訳し分けていますが、隣り合わせに書かれたことですから、同じ意味でもちいられていると見るべきところです。

この箇所には翻訳上の問題があります。文語訳では「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、われらの罪をも許したまえ」となっていました。文語訳聖書では「ごとく」という比例を表すことばが入っていたのに、新改訳では訳出していないことです。ギリシャ語本文では、「ホース」つまり文語でいえば「ごとく」とか現代語でいえば「ように」という意味のことばが入っているのです。イエス様は、あなたが隣人を赦すことと天の父に赦していただくことは、比例関係にあるのだと教えているのです。「私が隣人を赦す程度に応じて、天のお父さま、私をも赦してください」ということです。逆に、「私が隣人をゆるさない程度に応じて、私を赦さないでください。」と祈っているのです。私が隣人を計るその物差しで私をも計ってくださいと祈っているのです。

 練馬で伝道していたころ、教会にKさんというご婦人がいました。「私は『われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく』と祈るたびに、心探られるんです」とおっしゃいました。その姉妹は、昔からお兄さんと馬が合わなかったそうで、自分の心の底にお兄さんに対する怒りや恨みの感情が沈殿していることに気づかされて、この祈りをするたびに毎回怖くなるとおっしゃいました。この祈りをささげるたび、同じような恐れを感じているという人が、ここにもいらっしゃるかもしれません。それは大事な恐れです。

 

 父の子どもに対する取り扱いの中で

 

 もっとも、ここでいう赦しというのは、イエス様を信じたときに神様がくださった永遠の赦しとは違います。そうでなければ、誰かを赦せない気持ちになるたびに私たちは自分がほんとうに神様の前に赦されず、地獄行きかも・・・と毎度疑わねばならなくなってしまうでしょう。恵みによって救われるのでなく、人を赦すという功績によって救われるということになってしまうでしょう。そういう誤解を避けるために、新改訳聖書の翻訳者は、「我らがゆるすごとく」の「ごとく」を訳出しなかったのでしょう。

 では、ここで父に求めている赦しとはなんでしょうか。聖書に書かれている赦しには、永遠的な意味でのさばきにおける赦しと、神様がすでにご自分の子とした者たちに対するこの世における扱いの中でのさばきにおける赦しの二つがあります。

 永遠的な意味での裁きとは、死んだら天国に入れられるが地獄に入れられるかを決める裁きです。この永遠的な意味での裁きに関しては、私たちは自分の罪を認めてイエス様を信じたときに、赦しをいただきました。信仰義認です。自分の罪を認めて、イエス様が私の罪のために十字架にかかって死んでくださったことを感謝して受け入れたら、神様は私たちを永遠に赦してくださいました。これがクリスチャン生活で踏むべき一塁ベースです。

 

 もう一つの赦し、それは、天の父の子どもに対する、この世における取り扱いとしてのさばきと赦しです。主の祈りは、「天にいます私たちの父よ」と始まります。ですから、この祈りは、神の子どもたちの、天のお父さんに向かってささげる祈りです。つまり、すでに神の子どもとしていただいたクリスチャンとしての祈りです。ですから、神のまえで永遠の罪のゆるされ、子どもとされた者として、この「私の罪を赦してください」と祈るように教えてくださったのです。

 たとえば、ある人に二人の息子がいたとします。あるとき、兄息子が父親が丹精してきた高価な五葉松の盆栽をいじっていて枝を折ってしまったとします。「おとうさん、ごめんなさい」と彼が言うので父は赦してやりました。ところが、翌日この兄息子が大事にしているプラモデルを、弟息子が遊んでいて壊してしまいました。兄息子はかんかんに怒って、弟を赦そうとせず「おまえとは絶交だ」と宣言したとします。

 そのようすを見ていた父親は兄息子になんというでしょう。「なぜ弟を赦してやらないのだ。お前が弟を赦さないように、お父さんもおまえを赦してやらない。お前とは絶交だ。」といって、おとうさんは兄息子としばらく口をきかなくするのです。兄息子に、赦すことの大切さを教えるためです。兄息子は悲しくなって、やがて弟を赦してやり、お父さんとの交わりを回復するわけです。

 主の祈りで言っている、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」というのはそういう、地上において父なる神の、子供たちへの取り扱いにおけるさばきと赦しの話です。すでに神の子どもとしていただいた私たちを、父なる神様はこのように取り扱って、赦しあうようにと望んでおられるのです。私たちは、人を赦すにしたがって、どれほどの犠牲を支払って天の父が自分を赦してくださったのかということを悟り、イエス様の十字架がどれほどありがたいものであるかを知るのです。逆にいうと、もしあなたが人を赦さないでいると、私たちは自分が神様の愛を実感できなくなり、平安を失います。自分は神様に赦されていないと感じ、天国に自分は行けないのではないかという思いにさえとらわれます。しかし、赦すとき、天のお父様が私を赦してくださったんだなあという喜びと感動が帰ってきます。神を愛することと、隣人、特に主にある兄弟姉妹を赦すことは、切っても切れない関係にあるのです。

 

3 人を赦さないことは、祈りの妨げとなる

 

 イエス様は、神様は私たちの祈りに聞いて下さるということを、何度も教えてくださいました。今年の目標のみことばも、「いつでも祈るべきであって、失望してはならない」です。また、ヨハネ伝には「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」(ヨハネ15:7)とあります。「何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」とはすごい約束ですね。素晴らしい約束ではありませんか。天地万物を所有していらっしゃる神様が、私たちが欲しいものを何でも与えようとおっしゃるのです。

 けれども、その前に条件があります。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」という条件です。イエス様のことばが私たちの中にとどまっているというのは、「私たちがイエス様のおっしゃったことを聞き流さないで、従っているならば」という意味です。もし私たちがイエス様のおことばを聞き流したり、反逆したりしていながら、いろいろお願いしても神様はそんな祈りには聞いて下さらないと言われているのです。

 特に、私たちの祈りの妨げになることがある、とイエス様は教えてくださいました。それは人を恨んでいることです。イエス様はこうおっしゃっています。

「22**,イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。23**,まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。24**,ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。**

25**,また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」(マルコ11:22-25)

 

 「山に向かって海に入れ」というのは、巨大で常識的にはかなえられないような祈りの課題であっても、神様がかなえてくださるということの譬えです。そのような祈りの課題でも、すでに得たと信じたらかなえられると教えられたのです。しかし、その祈りを妨げることがあります。その祈りが、神様に届かなくするものがあります。それは、祈るあなたが誰かを恨んでいることです。あなたの心が誰か隣人への恨みで汚されているならば、神様は、あなたがどんなに熱心に切望したとしても、その祈りをお聞きにならないのです。

 ですから、赦すことです。神様がどれほど自分を赦してくださったのかを思い出しましょう。あなたの罪のために、御子イエスを十字架ののろいにあわせてまで、あなたを赦してくださったのです。

 

結び

 今週は受難週、そして、本日は聖餐式です。主イエスは、あのゴルゴタの十字架の上で、あなたの罪のために苦しみ、死んでくださいました。それは、あなたの罪が神の前に赦されるためです。

 赦しましょう。どれほど、神様が自分を赦してくださったのかということに思いをいたしましょう。十字架で侮辱と激痛と呼吸困難に耐えながら、「父よ。彼らを赦してください。」と祈ってくださった、主イエスを見上げましょう。そのとき、赦すことができるようになります。