水草牧師の説教庫

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泉湧く人生      

詩篇84篇  2022年11月13日 苫小牧主日礼拝

 詩篇84篇の詩人は、王という立場の人であったようです。それは8,9節を見るとわかります。「油注がれた者」とは第一義的に王を意味していました。

8**,万軍の神主よ私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ耳を傾けてください。セラ9**,神よわれらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。

 しかも、万軍の主よ、と呼びかけ、「われらの盾をご覧ください」とあるところを見ると、どうやら王はいくさに赴こうとして、その前に主の家、立ち寄って祈っているようです。やはり、竪琴の名手であり詩人であったダビデその人かなあと想像されます。

 

1 詩篇84篇に一貫する主題のことばは、「主の家」です。主の家とは、新約時代の教会の予型です。

 

1節「万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。」でいう「あなたの住まい」は神殿を意味します。

2節「私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。」の「主の大庭」というのは神殿の中庭を意味しています。そこで民は礼拝をささげるのです。

4節「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。」というのは神殿に仕える祭司たちを意味しています。

5節「なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。」のシオンは神殿を中心とするエルサレムの山を指しています。

そして、10節にも「あなたの大庭」「神の家」はやはり神殿とその礼拝の中庭を意味しています。

 

 神さまの神の民に対する契約の中心は、神が神の民とともに住んでくださるということです。そして、旧約時代、神殿はその恵みの事実を象徴する施設でした。旧約時代の神殿は影であり、新約時代はその実現した本体が出現します。新約時代において現れた神殿の本体とは、主イエスのからだである教会、神の家です。

 キリストは御自分のからだが神殿であるとおっしゃいました。そして、キリストのからだとは教会です。建物のことではありません。キリストのからだである教会とは、キリスト者の礼拝共同体です。主イエスがおっしゃったでしょう。「二人でも三人でも、わたしの名によって集うところに、わたしはいる」と。このイエス様の御名によって集ったこの集いがキリストのからだであり、今この礼拝の場に、主は臨在しておられるのです。ですから、主にお目にかかりたいならば、主の名によって集う礼拝の集いに来るべきです。

 ですから、これから詩篇84篇を読み進めるにあたって主の家」とは教会のことであることを意識しましょう。

 

2 1ー3節は詩人がどれほど熱心に主の宮を慕っているかということが情熱的、詩的に表現されています。

1**,万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。2**,私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も身も生ける神に喜びの歌を歌います。3**,雀さえも住みかを燕もひなを入れる巣をあなたの祭壇のところに得ます。万軍の主私の王私の神よ。

 「万軍の主よ」と詩人は呼びかけます。肉眼と肉の耳で得た情報によれば、多勢に無勢であるけれども、万軍の主がともにいてくださるという事実のありがたさです。

 主の宮というのは、ダビデの時代であるとすると、移動式神殿である幕屋でした。主の宮には祭司が住まい、四六時中灯火をともして、そこに臨在なさる神の御声を聞いたのでした。詩人は、雀やつばめたちが、この主の宮に祭壇のそばに巣作りをするのを見て、「ああ、あのスズメや燕たちように主の臨在の近く、主の宮に住むことができたらどれほど幸いなことだろう」とうらやましくて、絶え入るばかりだと言っているのです。ダビデは欠点もありましたが、彼は実に主なる神を愛する人でした。

 私たちはどうでしょうか?身辺に何かがあると、「すぐに教会に出かけて祈ろう」と思いますか?それとも、「今は色々大変だから、落ち着いたら教会にも行きましょう」と思うのでしょうか。どちらが本当の神を愛する人でしょうか。

「万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。

私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。」

 

 「二人三人わたしの名によって集うところに、わたしもいる」とイエス様がおっしゃいました。キリスト教会の交わりの内には、主イエス様がご臨在していてくださるのです。今、キリストの名によって礼拝をささげているここは主の住まいなのです。この教会の交わりを慕い愛する人は主を愛する人です。その人は祝福を受けます。

 

3 なんと幸いな人ことでしょう

 

 次いで4節から7節で、詩人は二度にわたって「なんと幸いなことでしょう」と歌っています。

4**,なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています。セラ 5**,なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。

 詩人である王が「なんと幸いなことだろうか!」とうらやんでいるのは、「主の家に住む人たち」つまり、祭司たちのことです。王には立派な宮殿がありますが、ダビデ安息日ごとには礼拝に出かけて行く主の家に住みたいなあと感じています。祭司たちはいつも幕屋で、主なる神に仕え、主を賛美しているのです。なんと幸いなことだろうと、うらやましくてならないのです。王は、ユダ族でしたから、レビ人のように祭司になることはできませんでしたが、主の宮で主の御顔をあおぎ思いめぐらすことを、一つの願いとしました。詩篇27:4「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」

 詩人は「なんと幸いなことでしょう!」と繰り返します。「その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人です。祭司ではない自分は神殿に住むことはできないけれども、その力が主にあり、心の中にはシオンへの大路があるならば、その人は幸いです。シオンというのはエルサレム神殿のある山ですから、やはり神殿を指しています。 我力でがんばって生きているのでなく、主を自分の力として生きている人。心はいつも主の家、教会に向かっている人は幸いだというのです。

 

4 泉湧く人生

 

 主を力とし、主の宮、教会へと心が常に向いている人は、たとい試練をくぐることがあっても、その人生で素晴らしいことがあります。6節7節

6**,彼らは涙の谷を過ぎるときもそこを泉の湧く所とします。初めの雨もそこを大いなる祝福でおおいます。7**,彼らは力から力へと進みシオンで神の御前に現れます。

 苦戦するかもしれませんが、きっと勝利に導かれるということです。人生の中でも戦いがあります。私たちも「涙の谷」をすぎなければならないことはあります。けれども、クリスチャンはその「涙の谷」を泉が湧く所となります。池というのは、外から入ってくる水をためているくぼ地にすぎません。しかし、泉というのはその底からこんこんと水を湧き出させているものです。主イエスは言われました。ヨハネ4章14節「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」つまり、池は受けるばかりの人生ですが、泉はあふれる人生であり、他者をうるおす人生です。私たちの人生には、涙の谷間を通る時があります。しかし、イエス様と共に歩むならその涙の谷間が、あふれるいのちの泉となるというのです。

 ・・・どういうことだろうかと思いめぐらすうち、2コリント1章のパウロのことばを示されました。「4,神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」

 イエス様を信じるあなたはきっと経験したことがおありでしょう。堪えがたい苦しみの中にあるとき、イエス様の十字架を見上げるならば、「ああ、イエス様も苦しまれたのだ」と、不思議にその苦しみと悲しみが慰められたということがあるはずです。そして、苦しみの中で十字架の主イエスに出会った人は、他の同じような苦しみの中にある人を慰めることができます。「涙の谷」は泉わきでるところと変えられます。だから「主の家」、教会の集いを恋い慕うクリスチャンは幸いです。受けるより与えるほうが幸いであり、慰められるよりも慰めるほうがさいわいです。主の家で、十字架の主の慰めを受けるとき、私たちはほかの苦しみの中に置かれている人の慰めとなるでしょう。

 

5 そして、神殿で、王は、万軍の主に向かって祈り、耳を傾けてくださいと乞い求めます

8**,万軍の神主よ私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ耳を傾けてください。セラ 9**,神よわれらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。

 詩人は王です。今、戦いのために戦地に赴こうとしています。しかし、彼は戦に自分の力、武器、作戦によって勝てるとは思ってはいません。万軍の主が共にいてくださってこそ、この戦に勝利できることを彼は確信していました。ですから、神殿で、主なる神に向かって祈るのです。

9**,神よわれらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。

 主がともにいてください。主が油を注いて王として立てた、この王である小さな私の盾に目に留めてくださいと、せつに祈るのです。

 そして、この賛美の最後に歌い上げます。

10**,まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。

私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。**

 

 どんな贅沢な調度品に囲まれた王の宮殿でご馳走を食べ、多くの家臣団にかしずかれて過ごす千日よりも、この主の家、神殿で神のお顔を仰ぎ見て、賛美をささげて、祈りをささげるこの一日の方がはるかに勝っている。自分は悪人たちの天幕の奥の豪華な座に座るよりも、たとえ門番でもよいから、神の家にいたいというのです。今の時代でいえば、どんな豪邸にいるときよりも、主にある兄弟姉妹と礼拝を捧げる教会にいるときが幸せです、ということです。

 

  • 頌栄

主の宮をこよなく大切に思い、慕い求める王である詩人は、いのちを的にする戦地に赴くまえに、主の宮を訪ねて祈り、主がわたしの太陽であり、主がわたしの盾であるという確信にいたって、平安を得て、勇気を与えられて出陣します。そうして、最後にもう一度「なんと幸いなことでしょう」と謳い上げて結びます。「11**,まことに神である主は太陽また盾。主は恵みと栄光を与え誠実に歩む者に良いものを拒まれません。**12**,万軍の主よなんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は。」

 

結び 私たちの人生にも戦いがあります。しかし主の家に主日ごとに集い、新しい週の戦いに主が伴ってくださることを祈りましょう。主が共にいますならば、あなたの通った辛かった涙の谷は、泉湧くところとなり、あなたに出会う渇いた人たちを潤すことになります。