水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

義に飢え渇く者

マタイ5:6

 

6**,義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。

 

 昔、私の母が教会に行き始めたころ、「この間、増永先生がギー、ギー、ギー、ギーて言うてはったけど、ギて、なに?」と話していたのを思い出しました。当時、教会ではパウロのローマ書が説教されていて、そこで「神の義」「信仰による義」について何度か話されたのです。日本語では、ふつう正義という言葉は使ってもただ義ということばは用いませんからね。

「義」ということばには、二つの意味があります。第一は、神様がくださる賜物としての義です。第二は、キリストに対する忠誠です。この箇所は直接的には第二の意味であると思われますが、第一の神の賜物として義はその前提になるので、そちらからお話をします。

 

1 賜物としての義―神との正常な関係

 

第一の賜物としての義とは、神との正しい関係を意味しています。私たち人間は生まれながらには、神様と正常な関係ではありません。神とは天地万物の創造主であり審判者です。正義を愛し、悪を憎まれます。しかも、神は全知のお方で、私たちの心の思いも、私たちが口にしたことも、私たちが手で行ったこともことごとくご存じなのです。私たちが心に抱いた憎しみや、淫らな思いや、偽りや、盗みや利己的なことばや行動をことごとく、ご存じなのです。残念ながら、私たちは神の前には顔を上げられないような恥ずかしい罪を心に持ち、口で語り、手で行ってしまいました。ですから、神と私たちの関係は正常でない状態、つまり、不義の状態です。

不義の状態のままでは、私たちは、家出をした放蕩息子が父親に助けてもらうことができないように、天地の造り主でありいのちをくださった神様に助けていただくことができません。虚勢をはっていても、心は不安にさいなまれるのです。そして、最終的には、神と不義の状態のままでこの世を去るならば、「人には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」とあるように、死後の審判において有罪判決を受け、永遠に滅びることになってしまいます。

多くの人は、自分がこのような惨めな状態にあることを認識していません。この世にあってお金とか、仕事とか、快楽とか一時的なもので心を紛らせて、「神などいるものか」と思いこみ、神の前における惨めな自分自身を知ろうともしないのです。そうして、滅びへ滅びへと一歩一歩近づいています。

 

しかし、正義の審判者である神は、同時に愛とあわれみに満ちた天の父です。私たちをゆるし、私たちをご自分の子どもとするために、贈り物として義をくださいました。すなわち、永遠の神の御子であるイエス・キリストをこの世に救い主として遣わしてくださいました。イエス様は完全な愛の御生涯を送り、最後には十字架にかかって、私たちの罪に対する刑罰をその身に引き受けてくださいました。そして、蘇ってくださいました。イエス様は、神がくださった賜物としての義です。

「義」という文字は、我が羊を神様に捧げているという形をしていますね。これは天の神の前に私は罪ある者ですと認めて、羊をその罰のいけにえとしてささげているということを意味しています。イエス様は、神の子羊!と呼ばれます。まさにイエス様は、神が私たちの罪を赦すために遣わして下さった生贄の羊なのです。私たちが、神の前に自分の罪を認めて、イエス様がわたしのために十字架で犠牲となってくださいましたと、ただ信じるならば、私たちは神の前における義を受け取ることができます。神との正常な関係を回復していただくことができるのです。そして、神様を父と呼ぶ子どもとされて、神様の愛を喜ぶ人生を送り、この世を去る日が来ても、恐れることなく、天の御国に行くことができます。天の御国では、思う存分に神を喜び満ち足りることができます。

 

ですから、「義に飢え渇く者は幸い」なのです。神との正常な関係を求める気持ちもなく、この世の過ぎて行く空しいことに満ち足りて自己満足している人は、真の喜びを知らずに、最後は滅びてしまいますが、神様との正常な関係を求めて飢え渇く人は、ついには、神が下さった賜物としての義であるイエス様を信じて、満ち足りることができるのです。

 

2 キリストに対する忠誠

 

聖書がいうもう一つの「義」は、義であるキリストに従おうとする忠誠です。八つの祝福の第八番目に「義」ということばが用いられています。

「5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。」

 10節と11節は並行していて、同じ趣旨が繰り返されています。「義のために迫害される」とは、すなわち、「キリストのためにののしられ、迫害され、ありもしないことで悪口を浴びせられること」です。つまり、義とは「イエス様に従うこと」言い換えると、義とは主イエスに対する忠誠です。

 山上の説教のマタイ6章33節では「まず神の国神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」やはり、ここでも同じように、神様のご支配と、神様の前に正義を第一に求めなさいとという意味です。キリストへの忠誠をまず第一に求めなさいというのです。

 

 私たちは、神の前における自分の罪を認めてイエス様を信じると、神様との関係が正常化されて、神様に生かされて生きる人生を歩み始めます。それは、ライフラインがつながったというようなことです。そして、ただ恵みによって救われた者として、なんとかしてイエス様の足跡をたどって生きてゆきたいと願う者となります。イエス様が、病の人を癒し、友のない人の友となり、愛の実践をされたように、愛の人生を生きて行こうと思うようになります。イエス様が、偽善的な社会指導者たちの顔色をうかがうようなことをせず、どんなときにも、どんな人に対しても、正しいことを語られたように、私たちも人のご機嫌取りでなく、神を愛し神を畏れて真実に生きてゆきたいと願うようになります。そういうキリストに倣う生き方を切望するようになります。

 イエス様を信じても、なお自分自身のうちに罪の性質がしつこく残っていることに、私たちは驚き、また、がっかりします。洗礼を受けたのに、なぜ自分はこんな卑しいことを考えてしまうのか、なぜ愛を実践できないのかと、毎日、がっかりします。けれども、ガッカリしながらも、毎日、神の前に罪を告白してゆるされた者として、正しい生き方をすることに飢え渇くようになります。イエス・キリストを愛しているので、少しでもイエス様のようになりたいと願うのです。

 そのように、イエス・キリストに従い、その足跡をたどって行くキリスト者は幸いだよ、とイエス様は祝福してくださるのです。

 

 「義に飢え渇く」とは「イエス・キリストに従うことに飢え渇くこと」であり、「正義の道を進む主イエスに従って、正義の道を歩んで行くことを切望すること」です。水がなければ生きていけない、食べ物がなければ死んでしまうように、「義に飢え渇く」とは、キリストに従うことなしには生きている甲斐がないというほどに、「キリストに従うことを切望していること」です。

 キリストに従うとはどういうことでしょうか。イエス様は弟子たちにおっしゃいました。「わたしについてきなさい。」キリストに従うとは、キリストの後についていくことです。その足跡に倣おうと懸命について行くことです。

 

3 贖罪的生き方

 

 以上、「義」とは「神との正常な関係」という第一の意味と、義であるキリストに従おうとする忠誠という第二の意味があります。私たちは、ただ無代無償でキリスト・イエス様を信じて、神とともに生きる人生に招かれるならば、今度は、キリスト・イエス様の弟子として主なるキリストにならう生き方をするのです。そういう人は幸いです。

 主イエスは、伝道と社会的奉仕を実践なさいました。主の弟子である私たちも、二つの実践によって、主イエスに倣いたいと思います。イエス様は、神の国の福音を宣べ伝えました。そのように、私たちは「イエス様はあなたの罪のために十字架にかかって、よみがえられた救い主です。」と十字架の福音を宣べ伝えます。あらゆる国の人々に宣べ伝えます。

(1)福音を伝える

今日、私たちができることはなんでしょうか。伝道に関しては、私たちは身近な人々にキリストの福音を証し続けることです。『苫小牧通信』を毎月作成していますから、ご近所、お友だちに挙げてください。また、同盟教団の国内宣教献金にも協力しましょう。再来週の火曜日には山形で開拓伝道をしている吉持先生ご夫妻が報告に来てくださいます。

 

(2)社会的奉仕

 もう一つは、弟子として贖罪的な生き方とは社会正義がなされるように、奉仕することです。イザヤ書58章6節と7節は告げています。「6**,わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。7**,飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。」

戦前の日本では、女性の人身売買を公認する制度が、文明国では類のない「公娼制度」として江戸時代から300年以上続いていました。そのために女性は遊郭から逃げ出しても警察に連れ戻されました。当時は、政府とヤクザが癒着して、女性たちを食い物にしていたのです。そういう遊郭は、日本の都市部の各地にありました。

しかし、キリスト者山室軍平を指導者とする救世軍では明治33年から、キリストの十字架の福音を宣べ伝えると同時に、身売りされた女性を助けるため「廃娼運動」をはじめました。遊郭が並ぶ通りで、救世軍が「逃れの場」であることを知らせるチラシをまき、女性の解放を訴えました。救世軍の活動に対して遊郭側はヤクザによる襲撃で対抗しました。このような事件が報道され、対処せざるを得なくなった政府はついに女性の意思に反する監禁を禁止する規則を発布したのでした。

「悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕」いたのです!
 日本同盟基督教団にも、ミッドナイトミッションと言って、戦後も救出された女性たちを保護する働きをする施設が千葉にありました。私たちも社会正義が実現するために出来ることはなんでしょうか。

また、私たちの教会でも行っている国際飢餓対策機構によるカンパも社会正義のための大事な奉仕です。世界の死亡第一原因は飢餓なのです。9億2500万人が飢餓状態にあり、7分に一人命を落としています。

 

むすび   満ち足りるから

 「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」と主イエスは祝福してくださいました。キリストにあって義と認められた私たちは、神のみこころが成るために、福音をあかしすること、社会的奉仕をすることにしましょう。

 地上での働きに限界を感じ、義に飢え渇く思いがするときがあります。しかし、義に飢え渇く者たちが満ち足りる日が来ると主イエスはおっしゃいます。主が戻られて、新しい天と新しい地を実現されるとき、そこは正義が行われる地となるのです。希望を胸に、伝道と社会的奉仕に励みましょう。