水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

聖餐―主の死といのちに与る―

1コリント11:23-29

2019年5月19日 苫小牧主日

私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエス渡される夜、パンを取り、

感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」**

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。**

したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。**

だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。

  説教で語られる神のことばは見えません。しかし、聖餐は見えて、食べることができ、飲むことができる神のことばです。つまり、頭だけでなくからだで私たちが福音を味わえるようにと定められたのが聖餐です。聖餐のうちには、イエス様がくださった私たちの救いの中心点が表現されています。

 

1 新しい契約

 

  主イエスは、「この杯は、わたしの血による新しい契約です」とおっしゃいました。神様が、ご自分の民と結んでくださった契約です。多くの日本人にとって契約というのは、不動産の売買をしたり、保険に入ったりするときに渡された、細かくて読むことができない不親切な説明書というイメージがあるかもしれません。でも、聖書では、契約というのは人格と人格の間に結ばれるたいせつな約束です。契約は、創造主である神が、人間が被造物であるにもかかわらず人格的な存在として認めて重んじていてくださるあらわれです。

神は人に対して、創造の契約、ノアの契約、アブラハム契約、モーセ契約、ダビデ契約と契約を結んでくださり、それらが、イエス様の新しい契約において、成就するのです。

 これらの契約の主題は、「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」です。つまりインマヌエル、言い換えると、「神の家族の一員となり、神とともに生きる人生」です。私たちは生まれながらには、自分が何のために生まれて来たのかわかりません。自分の存在意義がわかりません。昔、藤村操という人は「ああ人生不可解」と言って自殺したそうです。けれども、あなたを造ってくださった神様が、「あなたは独りぼっちではない。わたしがあなたの神だ。私につながって生きていくのだ。」とおっしゃるのです。それが契約です。洗礼を受けて神の家族となり、神を礼拝し、神の愛を喜びながら、この世界に神のみこころが成るようにと働いていくのです。これは、今の世だけでなく、次の永遠の御国でのことです。御国に迎えていただいて、神を賛美し、柔和な心で神のみこころにしたがって御国を治めていくのです。

 この契約の与えている約束にあずかるための条件は、おのれの罪をみとめて、神の御子イエスの十字架と復活を信じることです。

 神さまの契約には「しるし」が伴います。創造の契約には善悪の知識の木、ノアの契約には虹、アブラハム契約には割礼でした。主イエスが定められた新しい契約のしるしは、パンとぶどう酒です。このしるしを見て、味わって、主のくださった契約をしっかりと思い起こすのです。

 

2 主イエス渡される夜」・・・死

 

 主イエス・キリストが聖餐式を定めた時は、「渡される夜」でした。紀元30年4月の「過ぎ越しの祭り」の夜のことでした。過ぎ越しの祭りとは、およそ紀元前1400年に起こった一つの歴史的出来事を記念する祭りであり、ずっとユダヤ人たちはこれを守り続けてきたのでした。

 紀元前1400年ころ、ユダヤ人の先祖はエジプトにおいて、奴隷にされ、男の子は皆殺しにされるというひどい迫害にあい、また激しい強制労働の憂き目にあっていました。そのときに神様はモーセを指導者として立ててユダヤ人を解放しようとされました。モーセはその交渉にエジプトの王のもとに出かけました。真の神である主がイスラエルの民を解放し、礼拝をさせよと命じていらっしゃる、とモーセは王に告げました。しかしエジプトの王はどこまでも頑固にこれを拒みましたので、神はエジプトを十の災害をもって打ちました。その第十番目の災害というのは、これから神様からエジプト全土に死の使いが遣わされる。その死の使いが各家を訪れると、その家の長子はみな死ぬというのです。しかし、救われる方法が一つだけ神様から告げられました。それは子羊を殺し、その血を玄関の両の柱とかもいに塗るならば、死の使いはその家の前を過ぎ越していくということでした。それは、イスラエルの男子を皆殺しにしようとしたエジプトに対する神の怒りでした。

 いよいよその夜が訪れ、エジプト全土は長子に死なれた悲しみにおおわれました。しかし、玄関の柱と鴨居には子羊の血が塗られていたユダヤ人たちの家々は守られました。

 この出来事の後、ユダヤ人たちはエジプトを脱出します。神様はユダヤ人たちにシナイ山で契約をお与えになります。それは神様の民として十戒を代表とするもろもろの戒めを守って生きるべきこと、それに従えなかったときにはいろいろないけにえをささげなさいということでした。そのかずかずの犠牲は、やがてキリストが来られてなしとげられるいけにえの目に見える預言だったのです。これが古い契約つまり旧約です。

 

 イエス様御在世当時のユダヤでは、この1400年前の故事にちなんで過ぎ越しの祭りが行われていました。この祭りの時には、人々は過ぎ越しの食事として子羊をいけにえとしてほふり、食事をしたのです。イエス様とお弟子たちもまた、エルサレムのある家の二階の広間で過ぎ越しの食事をしました。その席上でイエス様は、この聖餐式という新しい契約の時代の教会における一つのたいせつな儀式をお定めになったのです。

 なぜ、イエス様は「渡される夜」つまり「過ぎ越し祭りの夜」にわざわざこの聖餐式をお定めになったのでしょうか。それは、今まさにちょうどあの過ぎ越しの子羊のように、人々の罪の贖いのためのいけにえとして、ご自分が数時間後には逮捕され十字架にかけられ殺されようとしていると自覚しておられたからにほかなりません。

神さまは「あなたは私の民また子どもとなり、わたしはあなたの神また父となる」とおっしゃいますが、その障害物となるものがあります。私たちが、聖なる神様の民となるための障害物とは、私たちの罪です。私たち人間にはみな神様の前では罪があります。そして、罪から来る報酬は死です。つまり、罪の問題が処理されないままでは、人は肉体の死の後に神様の御前に引き出されて、罪の呪いとして地獄の永遠の炎に焼かれなければなりません。神の御子であるイエスさまは、私たちの受けるべき罰を身代わりに引き受けて十字架で苦しんで死んでくださるために、地上に人となって来てくださいました。

旧い契約の時代における過ぎ越しの羊のいけにえは、来るべきキリストの十字架の身代わりの死を目指さしていました。そして、新約時代(新しい契約の時代)における聖餐式は、すでに地上に来られたキリストの十字架の死を振り返りつつ、守るのです。旧約時代、新約時代という、この救いの歴史の真中に、主イエスキリストが私たちの罪のためにいのちをお捨てになった十字架が立っているのです。聖餐式で、私たちは、主の十字架の死を覚えるのです。「あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせる」とあるとおりです。

 

3 パンとぶどう液――命

 

 しかし、もう一方で、聖餐式は、主イエスの復活のいのちを覚える時でもあります西方教会の伝統では聖餐式はおもに主の死を覚えるときですが、東方教会ギリシャ正教ロシア正教など)では聖餐式は主の復活を覚えることが中心です。

 イエス様は聖餐式にパンとぶどう液をお用いになりました。当時のユダヤ人にとって、もっとも身近な食べ物です。日本でいえば、ごはんとお茶にあたるもので、特別なものではありません。食べるという行為、飲むという行為をもって、イエス様の十字架の出来事は表され、味わわれるのです。なぜでしょうか。

 けさ、みなさんは食事をしてこられたでしょう。昨日も食事をされたと思います。生まれてから死ぬまで、私たちはずっと食べたり飲んだりして生きていきます。なぜか。食べないと死んでしまうから、飲まないと渇いてしまうからですね。食べることは、生きることと直結しています

 イエス様がくださった救いを私たちが身をもって味わうために定められた聖餐の儀式が、食事の儀式であるのは、エス様の救いが私たちの生命にかかわるものであるからです。私たちがご飯を食べたり水を飲んだりしなければ死んでしまうように、私たちはイエス様を信じてイエス様につながっていなければ死んでしまうのです。そのことをよく表現するために、聖餐式で食べたり飲んだりするのです。

 イエス様は五千人給食の出来事の後おっしゃいました。

「53**,イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。**

54**,わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。**

55**,わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。**

56**,わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。**

57**,生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」

(ヨハネ6:53-57)

 イエス様はまさにいのちなのです。イエス様のうちにこそ、いのちがあります。それは神と共に生きるということです。私たちはイエス様を通してのみ、真の神とのいのちの交わりに入ることができます。またイエス様は、この最後の夜にぶどうの木の話をされました。ヨハネ福音書15章に記録されています。「5,わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。**

6**,わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。**

7**,あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。**

8**,あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」(5-8節)

 ぶどうの枝はぶどうの幹につながっていれば実を実らせることができます。しかし、枝がぶどうの幹から離れていれば、当座、花芽はつけていても、あるいは花は咲いても実は実りません。あだ花になってしまいます。イエス様につながっていない人生でも、当座、花は咲いているように見えるかもしれません。派手な生活をしたり、地位や名誉も得られるかもしれません。けれども、実は決して残らないのです。また、イエス様につながっていなくても、たとえば酒でも飲んで騒げば、目先、楽しい快楽にふけることができるかもしれません。けれども、その騒ぎのあとのやりきれない空しさは覆いようがないのです。その喜びが本物でないからです。そこには、いのちがないからです。

 

 では、イエス様のいのちにつながった人生とはどういうことか。イエス様が十字架にかかって私の罪の身代わりとなってくださったゆえに、私は地獄の裁きを免れたということ。もう一つは、イエス様が十字架に死なれて三日目によみがえられたゆえに、私もまたイエスさまの復活のいのちにあずかっているということです。イエス様は、私たちの罪のために死んでくださっただけではありません。クリスチャン生活は、罪を赦していただいたばかりでなく、日々、神さまを交わる生活です。神の栄光をあらわすというすばらしい目的のある人生です。隣人を愛し仕えるという人生です。日々、みことばを読み人生の導きをいただくことのできる人生です。死の向こうの地獄のさばきから解放されましたから、死の恐怖から解放された人生です。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という実りを主が与えてくださる人生です。天国の待っている人生です。

 

 聖餐式でパンを食べ、ぶどう液を飲むとき、私たちは主イエスの死といのちに与るのです。まず私たちはイエス様の死と罪の赦しを感謝します。赦され難いものが赦していただけたからです。 そして、イエス様の復活のいのちを味わうのです。私たちは復活したイエス様と、つながった者として、永遠のいのちに生きるのです。

 

4 ふさわしいということ――自己吟味

 

 最後に27節から30節にかけて気になることを使徒パウロは言っています。それは聖餐にあずかる「ふさわしさ」ということです。ふさわしくないままで聖餐にあずかるならば、その人にとって聖餐は祝福にならないで逆に呪いとなってしまいます。だから、自己吟味をちゃんとして、悔い改めて聖餐式に与りなさいという勧めです。

 宗教改革カルヴァンは問答書で次のようにいいます。

 

問い358 何を自らかえりみるべきですか。

答え 自分が、イエス・キリストの真の肢体であるかどうかについてであります。

 

問い359 どんな印によって、それを知ることができますか。

答え 真実な信仰と悔い改めをもっているかどうか、また真実な愛をもって隣人たちを愛しているかどうか、そして憎しみにも、恨みにも、不和にも決して汚されていないかどうかということであります。

 

 神様に対しては真実の信仰と悔い改め、隣人に対しては愛があるかという吟味です。あってはならないものは、憎しみ、恨み、不和ということです。それを残したままでは、聖餐はあなたの身に呪いを招きます。では、今、自分のなかに信仰と愛とが十分あるだろうかどうだろうか、自分は憎しみを抱いているという現実があればどうすればよいのでしょうか。問答書は続きます。

 

問い360 しかし完全な信仰と愛が求められるのですか。

答え どちらも見せ掛けでない、まったきものであることが極めて必要であります。しかし非難の余地のないような、それほどの完全さを持つことは、人間の間ではありえないでありましょう。したがって、まったく完全でなければ何人もこれを受け得ないとすれば、聖晩餐が制定されても空しいことになるでありましょう。

 

 完全な信仰と完全な愛があればそれはすばらしいことですが、そんなものを持っている人間はいない。だとしたら、聖餐式にあずかることのできる信者は一人もいないことになってしまうというのです。

 ですから、今、自己吟味をして、自分のなかに神様に対する不信仰があったり、罪が示されたならば、それを認めて、告白することです。この私の罪がイエス様を十字架にかけてしまったということを認めて、悔い改めることです。そうして、イエス様から生きる力をいただいて新しい歩みを始めることです。

 聖餐にあずかる人のふさわしさとは完全無欠な信仰と完全無欠な愛の完全さではありません。聖餐にあずかるふさわしさとは、神様と隣人に対する己の罪を謙虚に認め、主の前に赦しを乞い、またイエスさまの十字架と復活を信じる信仰です。