水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

われらの日ごとの糧を

マタイ6:11-15

 

 

11**,私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。**

12**,私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。**

13**,私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』**

14**,もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

15**,しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 

 

1 糧を

 

 あるクリスチャンのご婦人が、おかあさんの思い出をつづられた文章のなかにこんな一節がありました。「母は、国の行く末のことや世界の平和のことを祈りながら、また、裁縫をしていて見失った一本の針が見つかるようにと祈る人でした。」神様にとって大きすぎる祈りの課題はないし、また、小さすぎる祈りの課題もないのです。

 主の祈りの前半は、「御名があがめられますように、御国が来ますように、御心が天で行われるように、地でも行われますように」と、ひたすら神の栄光が表わされるようにという崇高な内容でした。ところが、後半にはいるとなんと、「きょうのご飯をください」というたいそう身近なことがらのお願いとなります。そんなこと祈っていいの?と戸惑いそうですが、いやむしろ、そのような身近なこと、具体的なことをも祈りなさいとイエス様はおっしゃるのです。神の王国ははるかかなたの理想ではなく、私たちの具体的な生活のなかに始まるのですから。

 イエス様は、尊い神の御子でいらっしゃいますが、私たちと同じように人として来てくださいました。しかも、イエス様は貧しい家を選んでお生まれになりました。生まれてすぐにヘロデ大王の魔の手を逃れて、ヨセフ、マリアとともにエジプトに逃避行さえなさったのです。やがて政治的状況が変わりナザレに戻ると、養父ヨセフは早く亡くなり、イエス様は長男として苦労なさったようですから、ひもじいということのつらさということをよくご存知でいらしたのでしょう。実際、福音書には、イエス様は空腹をおぼえたという記事もあります。そんなイエス様ですから、きっと飽食の時代の私たちよりも「きょうのご飯をください」という祈りの切実さをよく御存知です。

私たちは「御国が来ますように」とこの国にも神様の御支配がありますようにと願って、世界の為政者たちのために、官僚たちのために、また平和のためにも祈り、同時に、「今日、私たちにごはんを与えてください。」と祈り、「あの熱で苦しんでいる姉妹の病気を治してください」とも祈るのです。そのように祈ってよいです。大きなことも小さなことも、どちらも、祈るべきです。神様を私たちの四畳半に閉じ込めておくのでなく世界の平和のために祈り、為政者のために祈るべきですが、同時に、おなかが痛くなったら祈りますし、頭痛が治りますようにとも祈るのです。試験が落ち着いてしっかりできますように、よい仕事が見つかりますようにとも祈ります。

 神様はなによりも偉大な万物の主ですが、同時に、神様はたいへんやさしく細やかな配慮に満ちたお父ちゃんです。だから、私たち小さな者たちの小さな祈りを「さあ聞いてあげよう。なんでも話してごらん。」と待ちかまえていらっしゃいます。食べ物のことだけはありません。マルチン・ルターは子どもたちのための「小教理問答」でこんなふうに教えています。

「問い それでは日ごとの食物とはどんなものですか。

 答え それは肉体の栄養や、生活になくてはならないすべてのものです。たとえば、食物と飲み物、着物とはきもの、家と屋敷、畑と家畜、金と財産、信仰深い夫婦、信仰深い子ども、信仰深い召使、信仰深く信頼できる支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、またよい友達、信頼できる隣人などです。」

 

 私たちはこういうすべてのよきものを、天のお父様を信頼してくださいと求めてよいのです。むしろ求めるべきなのです。今、新型コロナウィルス肺炎のことで騒いでいますが、一面、私たちは確かに天に国籍があるので、いつ死んでもOKなのですが、もう一面、この世界に遣わされて地の塩、世の光として生きるために、新型コロナからも守っていただく必要があります。だから、「私たちを新型コロナウィルスから守ってください」と祈ってよいのです。遠慮する必要はありません。

 

2 われらの

 

 しかも、この祈りは「わたしの日ごとの糧を」ではなく「われらの日用の糧を」というお願いです。どうちがいますか?
 私ひとり満腹になればいいやというのではなくて、「私たちみんながご飯たべられますように」と祈るんだよとイエス様は諭しているのです。自分のおなかの心配をするだけでなく、まずは主にある兄弟姉妹のおなかの心配、財布の心配をして祈りなさいとおっしゃるのです。

うちだけトイレットペーパーがあればと利己的な願いをするのでなく、私たちみんなトイレットペーパーをと祈るのです。そうしたら、バカな買いだめはしないでしょう。また、自分のためだけでなく、今入院加療中の兄弟姉妹のためにも祈るのです。コロナ騒ぎで、人間の醜い自己中心性が暴露される時代です。自重しましょう。

 

 また、これは私たちの目に入る兄弟姉妹たちだけでなく、もっと視野を広げて祈りなさいということの求めでもあります。私たちの教会では、毎月第一主日、国際飢餓対策機構のためのカンパを続けています。私たちの国の中でも格差がどんどん広がる経済政策が行われていますが、諸外国では毎日、毎時間、餓死している人たちがいるというのが現実です。カンパをすることもよいことですが、よい政治が行われるようにという祈りも大事なことです。富が偏在することによって、片方は食べ物を食べないで捨てており、片方はひもじくて石ころをかじっているこの世界を、公正なものにしていく良い国際政治が行われる必要があります。政治家たちが、良心をもって知恵をもって愛をもって、正しい政治を行うように祈ることも、「われらの日ごとの糧を」から教えられることです。

 

 食べ物だけではありません。先ほどルターの祈りの紹介をしました。わたしたちがともに生きていくためには、それは肉体の栄養や、生活になくてはならないすべてのものです。たとえば、食物と飲み物、着物とはきもの、家と屋敷、畑と家畜、金と財産、信仰深い夫婦、信仰深い子ども、信仰深い召使、信仰深く信頼できる支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、またよい友達、信頼できる隣人などです。」といったすべてのものが必要です。

 聖書はとくに、信頼できる支配者、よい政府を求めて祈りなさいと勧めています。

「そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。**

2**,それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。**

3**,そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。」(第一テモテ2:1,2)

 

 主イエスが荒野で悪魔の試みにあったとき、悪魔が「一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、こう言った。「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。だから、もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる。」(ルカ4章5-7)と誘惑しました。権力者というのは、たいへんな職務なのです。悪魔は権力者を手中に収めれば、さまざまな悪いことができるので、彼を誘惑するのです。ですから、聖書は私たちに権力者のために願い祈りとりなす必要があるというのです。彼らが悪魔の手に落ちれば、私たちは平安で落ち着いた生活をすることができなくなります。

 祈りの課題は、彼らが悪魔の誘惑から守られ良い政治を行うように。彼らも罪人ですから、悔い改めて救われるように、ということです。特に、今の世界は自分勝手にふるまう権力者たちがはびこっています。私たちは、彼らのためにとりなし祈らなければなりません。

 

3 日ごとの

 

 また、「日ごとの糧を」という願いです。以前は「日用の」と訳されていましたが、子どもが日曜日のごはんだと思ってしまうようなので、「日ごとの」と改めたようです。向こう1年分でなく、向こう一か月分でもなく、一日の糧を求めているのです。私たちは、一日一日生かされているのですから、今日という日を主を見上げて精一杯に生きるのです。

 

 でも一か月分、一年分と買い占めたいという思いを持つ人たちがいます。なぜでしょう。二つ理由があると思います。一つは心配だからなのでしょうね。でも、そうする人がいると、結果として、全然食べるもののない人が出ることになります。一生かかっても決して使えないほどの富を独占することによって、結果として多くの人たちを飢えさせてしまいます。

 原因は、心配、思い煩い、取り越し苦労です。「われらの日ごとの糧を今日も与えたまえ」だといえるでしょう。主イエスは続くところで、おっしゃっています。25節―27節。そして34節。

 25**,ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。

26**,空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。**

27**,あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。・・・・・

34**,ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

 

 天の父に生かされている神の子どもなのですから、心配しないで、今日という日を、主を見上げて一生懸命に生きましょう。

 

 私たちが日ごとの糧をと祈らないもう一つの理由は、私たちが傲慢であるからだと聖書は教えています。。**ヤコブ書4章

13**,「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。**

14**,あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。**

15**,あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。**

16**,ところが実際には、あなたがたは大言壮語して誇っています。そのような誇りはすべて悪いことです。**

17**,こういうわけで、なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。

 

 

結び

 天の父にとって、大きすぎる祈りの課題はありません。また小さすぎる祈りの課題もありません。この国のために、また、主にある兄弟姉妹のために、また、自分の仕事、子ども、孫、生活の糧のために、すなおに天の父に求めて歩んでまいりましょう。

11**,私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。**