水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

セムからアブラムへ

創世記11章10-32節

 

1 セム系図の特徴

 

 聖書記者が系図を通して伝えようとしたことを正しく捉えるための注意点は、いつも申し上げることですが、それぞれの特徴を捉えることです。まず10節から26節のセム系図には2つの特徴があります。

(1)寿命が縮んでいく

 第一の特徴は10節から26節を見て気づくことは、寿命が急速に縮んでいるということです。セムは600年、アルパクシャデは438年、シェラフは433年、エベルは464年、ペレグは239年、レウは239年、セルグは230年、ナホルは148年となっています。大洪水の前の系図を見ると、人間の寿命はおおよそ900年が普通でした。

 これは大洪水の前に、神が仰せになったことばが現実になっていることを記録しているのです。神は大洪水の前6章3節で、「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢は百二十年にしよう。」とおっしゃいました。

 寿命を縮めることは、神の堕落しきった人類に対する裁きですが、同時に、あわれみでもあります。人間が900年も生きていた大洪水以前、人類は全く目も当てられないほど堕落しきってしまったのでした。初めて万引きをするときには、心臓がバクバクするのが、3回、5回、10回、50回、百回と繰り返すうちに何も感じなくなる。それどころか、万引きをゲームのように楽しくなってしまう。盗みにかぎらず、人殺しでも罪を繰り返すうちに良心が腐って来てしまい、人はだんだん悪魔のようになってしまいます。それを防ぐため、神は人間の寿命を短く制限されました。そういう意味で、寿命が制限されたことは裁きであり、かつ、あわれれみでした。

 

(2)テラ、アブラハムにつながる

 この系図の第二の特徴は、これはセム族からアブラハムが登場を告げるための系図であるということです。まずセムからテラへつながり、そして、テラはアブラムの父です。大洪水のあとバベルの塔の出来事があったけれども、ここでは大洪水のときに生き残ったノアの三人の息子のうちセムだけが取り上げられているのはアブラムを登場させるために他なりません。

 バベルの塔の出来事によって、人類は言語が分かれてたくさんの民族にバラバラに分裂してしまいましたが、アブラム(後のアブラハム)によってイスラエル民族が登場し、その中からイエス・キリストが登場し、イエス・キリストにあって、一つの神の国、神の民、聖なる公同の教会が形成されるのです。

 人類は神に対して反逆し、それに対して大洪水のさばきがあって寿命が縮められ、また、バベルの塔におけるさばきがあったのです。しかし、神は人間を決してお見捨てになりませんでした。滅ぶべき人間の歴史の中に救い主キリストを遣わす準備を始められるのです。

 

2.アブラムの父テラの系図

 

 続いて、26節から32節です。

(1)系図   カット 

(2)海港都市ウルの繁栄と滅亡

 26節でイスラエル民族の父アブラムというきわめて重要な名が聖書に初めて登場します。彼はイスラエル民族の始祖にあたる人物であり、新約聖書では「信仰の父」と呼ばれます。イエス・キリストアブラハム系図のうちに誕生します。

 テラは70年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。

 アブラムの父はテラでした。テラを族長とした一族は、31節にあるように、カルデアの大都市国家ウルに住んでいました。カルデアのウル、ペルシャ湾に臨むこの町は、歴史上有名な古代都市です。現在発掘されているウルはユーフラテス川が上流から運んできた土砂が蓄積して少々内陸に引っ込んでいますが、3000年前の当時は、ペルシャ湾に臨む海港都市として非常に栄え、当時世界最大の都市国家でした。

 紀元前三千年紀にはすでにウル第一王朝が始まっていて、テラやアブラムが住んでいた紀元前2000年頃はウル第三王朝の時代でした。

 当時、ウルの人口は6万5千人。街の中央にはかのバベルの塔を模したジッグラトが聳え立ち、その頂には月の女神シンを祀る神殿がありました。アブラムの父テラもこの偶像の神を拝む人であったとヨシュア24章2節に記されています。

「あなたがたの父祖たち、アブラハムの父でありナホルの父であるテラは昔、ユーフラテス川の向こうに住み、ほかの神々に仕えていた。」とあります。

 発掘者のレポートによれば、ウルの街は都市計画によって、商業地区、職人地区などに区分けされており、大通りと狭い路地があり、人々の集まる広場もありました。治水設備もあり、神殿、宮殿、個人の家々からは数万に上る粘土板に楔形文字で記された経済および法律文書が収蔵されていました。重要な建物はレンガ造りで、町全体は同じくレンガで造られた高さ8メートル、幅約25メートルの城壁に囲まれていました。また、ウルでは奴隷、農民、職人、医者、書記、神官などからなる階層があったそうです。

 

(2)テラとその息子たち 

 アブラムはそういうわけで、もともと都会人だったわけです。当時の世界で最も繁栄した都市国家ウルで生まれ育ち、仕事をしていたわけです。

 ところが、歴史書をひもとくと、紀元前2004年頃エラム人が東南のイラン高原から攻め込んできて戦争となり、この当時世界最大の都市国家ウルは滅亡してしまったことがわかっています。ちょうどこの時代にテラの一族はウルに住んでいたのです。聖書のテラ一族の記録には、このウルが滅亡に至る戦争について触れていませんが、一つの悲しい出来事が記されています。

 27テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはロトを生んだ。28ハランは父テラに先立って、親族の地であるカルデア人のウルで死んだ。 

 もしかすると、三男坊のハランの死とエラム人との戦争が関係しているのかもしれません。息子に先立たれるという悲しみを、アブラムの父テラは経験しました。また、息子のいないアブラムは、早く死んだ弟ハランの息子ロトをわが息子のようにかわいがり、ロトはロトでアブラムを父親代わりのように慕うようになります。

 続いて29,30節には、テラの三人の息子たちの結婚のこと、そして、アブラムの妻サラが不妊の女であったことが触れられています。サラが赤ちゃんを産めないからだであった事実は、この後、アブラムの生涯と彼に対する神の約束と深くかかわってきます。

 

(3)約束の地へ旅立つ

 そして、31節
31**,テラは、その息子アブラムと、ハランの子である孫のロトと、息子アブラムの妻である嫁のサライを伴い、カナンの地に行くために、一緒にカルデア人のウルを出発した。

 なぜテラとその一族はウルを出発したのでしょうか。それには先に紹介したエラム人のウル攻撃と2004年の滅亡、そしてテラの三男坊ハランの死という悲しい出来事が背景としてはありました。

 エラム人の攻撃が激しさを増す状況下、テラは一族の命をあずかる族長として重大な決断を迫られることになります。このウルの城壁内に留まってエラム人と戦うのか。もし、それでこのウルがエラム人の手に落ちてしまったら、たとい生き残ったとしても、新しい支配者エラム人によって自分たちは奴隷の身分に落とされてしまうでしょう。テラは悩みました。

 

 そうしたとき、テラは長男のアブラムが、「お父さん。お話があります。」と言いました。「なんだ?」と聞けば、息子は「私は主なる神の声を聞きました」と言うのです。使徒の働き7章2、3節でステパノのことばに、「私たちの父アブラハムハランに住む以前、まだメソポタミアにいたときに、栄光の神が彼に現れ、『あなたの土地、あなたの親族を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。』と言われました。」とあります。神のことばを聞いたのはテラではなく、アブラムでした。ですがアブラムは親族を置いて自分だけが出かけるのでなく、父テラに「お父さん。わたしは神の御声を聞きました。神の約束の地、カナンにまいりましょう」と進言したと推測されます。

 そこで、テラは決断をします。「さあ、我々は住み慣れたウルの町ではあるが、座して滅亡を待つよりも、ウルの国を出て、カナンの地に行こうではないか。」と。

 

(4)テラは約束の地に達せずハランにとどまり、そこで死ぬ

 テラは一族郎党を引き連れてユーフラテス川のほとりをさかのぼって行きました。旅程1000kmの長旅です。ようやくユーフラテス川の源流域にある都市国家ハランに到着しました。考古学者たちは、ハランの地を発掘して、見事な遺跡を発見しました。このハランの遺跡からウルと同じくテラが拝んでいる月の女神シンを祀った神殿もありました。

 テラはアブラムに言いました。「アブラムよ、一族が暮らしていくためには、さらにはるかな見知らぬ地カナンまで行く必要はないではないか。ここハランの地で十分だろう。」と言って、ここに留まることを決めてしまったのでした。アブラムとしては不本意でしたが、とりあえず父に従ったのです。

 そうして、テラはこの地で生涯を閉じたのでした。

31**,テラは、その息子アブラムと、ハランの子である孫のロトと、息子アブラムの妻である嫁のサライを伴い、カナンの地に行くために、一緒にカルデア人のウルを出発した。しかし、ハランまで来ると、彼らはそこに住んだ。**

32**,テラの生涯は二百五年であった。テラはハランで死んだ。

 

 ウルの地が危険になってくる状況の中で、一族の長テラは長男のアブラムから「神の約束の地はカナンである」と聞かされ、出発を促されました。そしてテラは族長としてカナンに移住しようという決断をして、一族を率いて行きました。

 けれども、実のところ、テラは息子アブラムが拝む神だけでなく、月の神シンをも拝んでいた二心のテラは単に一族が平穏無事に暮らせる場所を求めていただけでした。アブラムの信じる天地万物の創造主である唯一の神を求めてはいなかったのです。ハランに着いてみれば、ここでもウルの都で拝んだシンの神殿があるではありませんか。それで、テラはこのハランに留まることにしてしまったのでした。テラは、神の御旨に聴きしたがう人生を選択したのではなく、自分たちの生活の都合のために、息子アブラムから聞いた神の召しのことばをつまみ食いをしただけでした。中途半端に彼の生涯は終わってしまったのです。彼は、この世のもので満腹してしまったので、真の神の王国を得ないまま、世を去ってしまったのでした。

 

結び

 神の国を求め始めながら、途中で心変わりして、神の用意された永遠のいのちを得るに至らず、結局滅びてしまう人がいます。妻にさそわれ、夫にうながされ、息子に兄弟に、友だちに誘われて、聖書を読み始めたり、教会を訪ねて見たけれど、中途で投げ出してしまうという方がときどきいます。また、生活上、難題を抱えてイエス様のもとに来て一時期は熱心だけれど、解決が一応つくと、さっさとイエス様を忘れ去ってしまう方がいます。

 種まきの譬えでいうならば、土の薄い所にまかれた種はすぐに芽を出しましたが、日が照り付けるとすぐに枯れてしまいました。神のことばを聴いて、喜んですぐに信じるのだけれど、試練がやって来ると、すぐに投げ出してしまう人です。

 また、茨の中にまかれた種は土は良かったので芽を出し、ある程度育ちましたが、いばらが生え伸びてそれをふさいでしまったので、花を咲かせ実を結ぶにいたりませんでした。この世の欲のせいです。神様とこの世の欲の二心でいるならば、そういうことになります。二人の主人に仕えることはできないのです。

 せっかく主の召しを受け、神の国を求めるチャンスをいただいた私たちは、二心を捨てて、ひたすらに神の国を求めてそれぞれの生涯を全ういたしましょう。主は近いのです。