水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

バベルの塔

創世記11:1-9

2,024年月18日 苫小牧福音教会主日礼拝

 

1 移住、レンガの発明

 

11:1 さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。

 アダム以来人類のことばは一種類でしたが、それがバベルの塔の出来事でことばが分けられたと聖書は告げています。言葉がお互いに通じなくなったために、言葉の通じる者同士が集団を作り、集団ごとに分かれて住むことになり、人類が全世界にひろがりました。創世記10章の民族表にみるノアの子孫たちの広がりは、このバベルの事件が原因であったというわけです。さて・・・

11:2人々が東の方移動したとき(第三版では「東のほうから移動してきて」)、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。

 とあります。実は、新改訳第三版までは、mikedemは「東のほうから」と訳されていました。日本語訳では、文語訳「東に」、口語訳「東に」ですが、新共同訳「東から」、聖書協会共同訳「東の方から」と見解が分かれています。27種類の英訳聖書を開くと、「東のほうから」と訳すものが12、「東のほうへ」と訳すものが15あります。まあ、半々といったところです。

辞書的にはBDBでは、fromという訳語が筆頭にあります。

 どちらが適切か?結論からいうと第三版の「東のほうから」の方がよかったと思います。理由は二つあります。第一の理由は、2節の「彼らはシンアルの地に平地を見つけて」という表現です。これは彼らがかつて平地のない場所からやって来て、このシンアルの地で平地を見つけたのだということを意味していると理解されます。シンアルの東はイラン高原の山岳地帯であり、西は平坦なアラビア砂漠ですから、東の方から移動してきたと考えるべきでしょう。

 第二の理由は、3節に、「彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた」とあることです。これは、彼らがもともと住んでいた地域は石材と漆喰が用いられていたことを示唆しています。漆喰の原料は石灰岩です。西側のアラビア砂漠には石材は乏しいのですが、シンアルの東側はイラン高原はごつごつの岩山で石材は豊かで、石灰岩の産地す。ですから、mikedemは第三版にあったように「東の方から」と訳したほうが良かったでしょう。

 彼らがわざわざイラン高原からシンアルに移住してきたのは、元住んでいた場所が住みにくかったからでしょう。シンアルの地とは、チグリス川、ユーフラテス川に挟まれたメソポタミア下流域です。二つの大河が上流から豊かな栄養を含んだ土壌を運んできて、堆積して出来た土地ですから、農業と牧畜が容易だったので、ここに世界四大文明のひとつメソポタミア文明が生まれたというわけです。

 

シンアルの地は農業にも牧畜にも便利だったので、食料を得ることは東の山岳地帯の谷あいの狭い畑に比べれば格段に容易でした。けれども、不都合なことは石が乏しいので、家を石材を積んで造るということができないことでした。ですが、次のように書かれています。

11:3彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。

ある日、彼らは粘土が乾くと石のように堅くなることに気づきました。粘土ならシンアルの三角州地帯にいくらでもあります。彼らは粘土を枠に入れて藁をツナギとしてレンガを造ることを発明しました。そして、たくさんのレンガをその地に湧いていたアスファルトを接着剤として積み上げたのでした。神様がくださった知恵で、彼らは家を造り、収穫物を格納しておく倉庫を造りました。

神の恵みによって、広い農地が与えられ、豊かな収穫が与えられ、神に与えられた知恵によって家も倉庫も与えられました。感謝なことでした。ここまではよかったのです。文明の一般恩恵としての側面です。

 

2 天に届く塔を建てよう――傲慢、権力と巨大技術

(1)思い上がり

 しかし、問題は4節の発言です。

11:4彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」

 「自分たちのために」「名を上げよう」という表現に、人間の思い上がりがはっきりと現われています。人間が理性の力で都市文明を手に入れて傲慢になるという現象は、すでにカイン族において現われていました(創世記4章のレメクの歌を参照)。人間は走る力も、腕力も弱く、闘うための牙も爪もありません。ただ頭脳、理性の力が他の動物と比べて格段にすぐれています。その点で人は傲慢になりやすいのです。神に背を向け、自ら築いた文明に恃む傲慢は大洪水でいったん打ち砕かれましたが、バベルで再び出てきたのです。「天」というのは神の住まいと考えられていましたから、「頂が天に届く塔を建て、名を上げよう」というのは、文明力で、われわれは神にまで到達することが出来るのだという人間のおごりの現われにほかなりません。「バベル」という言葉の意味は、「神の門」です。文明の力で人は神々の仲間入りをしようという意味でしょう。

メソポタミアではいくつもの都市が発掘されています。それらの都市の特色は、町の中央部にジッグラトと呼ばれる階段式のピラミッドが位置していることです。ジッグラトはその頂に小さな神殿がある巨大な偶像なのです。これらメソポタミアの諸都市のジッグラトは、最初に建てられた巨大なバベルの塔の記憶に基づいて築かれたものであると考古学者は推定しています。バベルの塔は、人間の文明の誇りの象徴であり偶像です。

 

(2)権力と技術が結びつくとき

 実際に、巨大なジッグラトを造ることが可能になったのは土木技術力があったからだけではありません。このような巨大建造物が実現可能となったのは、当時、強大な権力がシンアルの地に成立していたからです。というのは、ジッグラト建設には、莫大な富と、何十万人もの労働力を組織する強大な権力が不可欠であるからです。バベルには強力な中央集権的な国家体制、強力な王権成立していたのです。

 前の章で、シンアルに現れたニムロデという人物を見ました。彼は「地上で最初の権力者」でした。彼は、チグリス、ユーフラテス川の下流域シンアルの地から始まって、上流域へと進出して版図を拡大してゆき、莫大な富と軍事力とを蓄えて行ったとあります。ニムロデかあるいはその後継者は、自己神格化の象徴がこのバベルの塔でした。

 創世記は、技術には二面性があと教えています。技術が神の意志に服して用いられるならばノアの箱舟のように人類と世界の救いのために用いられるのです。これが第一面。しかし、人間がに反逆して技術を誇るようになるとそれは偶像となって人間社会を混乱に陥れるというもう一面です

 

 現代に目をやりましょう。歴史上、科学的理論の成果を工業規模での技術に統合した初めての例は、マンハッタン計画による原子爆弾の製造でした。原爆製造は、個々の研究所や大学や企業のなしえることではありませんでした。国家主導して、新たな法律を立て、産業界に莫大な資金をもたらし、情報を厳しく統制することによってのみ可能な巨大な事業でした。国家権力と科学技術と産業界が結びついた成果である原子爆弾は、1945年8月6日に広島に投下され、8月9日に長崎に投下され、その年の12月末までに二十数万人のいのちを奪い、さらに、その後も多くの人々が原爆症で苦して殺してきました。

 戦後、核兵器の材料プルトニウムを作るための道具である原発技術は、巨大な利権を生む国家プロジェクトとなりました。何兆円という莫大な費用、学会と経済界・産業界の共同、法律の整備、自治体との折衝、教育界とマスメディアを用いて「原発安全神話」で国民を洗脳して、反対派を黙らせることは、国家権力がかかわってこそ可能なことでした。

 原子に閉じ込められた莫大なエネルギーを取り出して発電に、また戦争に用いるのは、あたかも地球上に太陽を作り出すような技術です。人類の科学技術の誇りです。しかし、それは取り返しのつかない悲惨と混乱をもたらすことを、私たちは広島・長崎として福島で見たのです。

 しかもなお、人類は核兵器の脅威に怯えながら、懲りることを知りません。現在、南海トラフ地震の東の震源の真上である静岡県御前崎市には、浜岡原子力発電所が位置しています。ヨーロッパはロシアの核兵器に脅かされています。ああ、傲慢は滅びに先立つのです。

 

3 神の裁きと救いの展望

(1)神の裁き―混乱

 しかし、神は権力と巨大技術が結びついた人間の思い上がりを打ち砕かれます。まず人間の思い上がりに対して皮肉な書き方がされています。

「11:5そのとき主は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。」

 塔を建てた権力者は、「(神の住まいである)天に届く塔を建てたぞ」と誇らかにしていましたが、偉大な神の御目から見れば、そんなものはわざわざ天から降りきて見なければ見つけることができない程度のものだったという皮肉です。人間が誇る巨大文明など、全宇宙を無から創造して治めておられる神の前では無きに等しいのです。

 神は、人間がこれ以上傲慢になって身を滅ぼさないために、言葉をもって人類を分けてしまわれたのです。いかにも神様のエレガントな知恵です。

6,主は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。7,さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」

8,主が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。

 バベルは、「神の門」という意味ですが、むしろ、バベルは「バーラル」つまり「混乱」なのだ、聖書記者は皮肉な説明を加えています。高慢は滅びに先立つのです。

 

(2)救いの展望

 神は傲慢な人類をことばを分けることによって、分裂させました。それは人類が強大な権力の下に徒党を組んで神に反逆し、悪魔的悲惨に陥らないためです。

 しかし、創世記12章以降で、神は諸民族のうちセムの子孫アブラハムを選び出し、彼の子孫からキリストが出現して、王なるキリストのもとにひとつの神の民つまり聖なる公同の教会が作り出されることになることが啓示されて行きます。

 救いは神の御子が人となって、十字架の死にまで従われたという謙遜のきわみの御業によって実現しました。高慢は悪魔から出ますが、神の御子は謙遜の究極的実践をもって、私たちに神との和解をもたらしてくださいました。

 二千年前、主イエスは十字架の死と復活のわざを終えて、天の玉座に着くと、父のもとから聖霊を注いて、世界のあらゆる民族からご自分の民を集め始められました。言葉も文化も多様ですが、一つの御霊によって一つの神の民つまり聖なる公同の教会が歴史の中に造られてて来て、今日にいたります。

 

結論 3点

1.神様は私たちをご自分に似た者として創造してくださったので、私たちには理性があり、自然界にはないものを作り出し文明を築くという他の動物にはできないことをします。しかし、傲慢になってはなりません。文明を偶像としてはなりません。謙遜であるというのは、積極的には感謝を忘れないということです。

 

2.格別、剣の権能を託された権力者と科学が結びつくときに、その結果は取り返しのつかない悲惨ですから、注意していなければなりません。戦後その科学と政治の癒着の危険性に気づいた湯川秀樹達科学者たちは「日本学術会議」を形成したのですが、今は、戦争を知らない世代の科学技術の軍事転用を望む人々によって批判の的にされています。

 

3.神は言語を分けて、多くの民族に分かれました。しかし、神は二千年前神の御子キリストを遣わされて、十字架と復活をもって贖いの業を成し遂げ、聖霊を注ぎ福音宣教によって世界に広がる聖なる公同の教会を作って来られたのです。私たとも、聖霊に満たされて福音に生き、福音を隣人にこの世界に伝えてゆきましょう。