水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

   時は迫っている

ロマ13:11-14

                             

2019年1月6日 苫小牧主日朝礼拝

 13:11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。

 13:12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。

 13:13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。

 13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

 

 

1.今という時

 

「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。」と。「今」という時の時代認識と、キリスト者の生き方について教えられるところです。

 「このように行いなさい」という内容は、前に述べられた内容を指しています。つまり、12章の頭からいえば、「生活のすべてが礼拝であると心得て生きなさい」ということです。直近でいえば、「キリスト者として、まず負い目なく果たすべき義務は果たし、さらに隣人を自分自身のように愛する愛の負債を負って生きよ」ということです。

 では、「今はどのような時」なのか。この「時」は時計的な時クロノスでなく、カイロス決定的な時です。あなたは「今」がどのような時か知っていますか。パウロはいくつかの表現をもって「今」がどのような時であるかを表しています。「眠りからさめるべき時刻」また、「救いが近づいている時刻」、「夜ふけ」夜に代えて「昼」が近づいている時刻にほかなりません。それは、つまり世界の究極的な救いであるキリストの再臨と最後の審判と「新しい天と新しい地」の到来が近づいている時であるということです。

 そして、それが「夜更け」であるというのは、最後の審判と再臨と新天新地が近づいた時代には、世界はノアの大洪水の前夜のように、多くの人々が神に背を向け、愛の冷えた暗い時代となるということを意味しています。

 

 神は無から万物を創造し、人間をご自分の御子に似たものとして造り、世界を人間に治めさせて、神の栄光をあらわす生活をさせようとされました。しかし、人間は与えられた自由意志を悪用して、神に背いて自分勝手な道に歩み始めたのです。そこで、神は一度は大洪水をもって世界をほろぼしました。それでも神はノアの家族を地上に残しましたが、人類が世界に広がり増えていくとまたも神に背く歩みをはじめました。そこで、神の御子イエスは二千年前に地上に来られて、十字架と復活によって私たちの神様の御前における罪の償いを完了し、天に帰って教会に聖霊を注がれたのです。以来、教会はこのイエス様による救いの知らせを世界に宣べ伝え始めたのです。

 主の約束によれば、やがてイエス様の福音が世界中の民族国語に行き渡ったならば、そのとき、イエス様は再び天からもどって来られて、最後の審判を行なわれます。その時が「眠りからさめるべき時」です。死者はからだをもって復活し、この世に生きている私たちは一瞬にして復活のからだに変えられ、白い御座の裁きの場に出されて、大きな者も小さな者も一人一人判決を受けることになります。そして、古い天地は去って新しい天と新しい地に更新されます。そこは罪も死もなく、「正義が住む新しい天と新しい地」です。キリストによるこの上なく公正な最後の審判と、新天新地が近づいている、それが今という時です。

 

  夜更け

 

 主イエス様が再臨される前は、「夜がふけ」と呼ばれています。光が失われて闇がどんどん濃くなっていく時代だということです。光とは真理の光ですから、光がなくなると何が善であり何が悪であるかがわからなくなってしまいます。

 それをもう少し詳しくパウロは別の箇所で語っています。2テモテ3:1-5「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神を汚すもの、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。」

 よくもまあこんなに悪者のリストアップができるものだと思いますが、二つだけとりあげます。筆頭に上げられるのは「自分を愛する者」です。それは健全な自己受容ということでなく、利己的な生き方をする者ということです。次に「金を愛する者」マモニストです。「結局、カネがすべてだ」という価値観に生きている者です。苫小牧にカジノを誘致しようという動きがあります。いろいろなメリットを訴える人々がいるようですが、どんな理屈をつけても、カネのために、ギャンブル依存症でおかしくなる人、崩壊する夫婦、苦しむ子供たちが出てくることは火を見るよりも明らかです。

 さらに、主イエスが御自分が再び戻ってこられる前兆として話されたことを見ておきましょう(マルコ13章)。世界的な前兆としては、第一に偽キリストの登場。第二に、戦争と戦争の噂です。第三に、地震やききんが方々に起こるということです。教会にかかわる前兆は、第一に国家によるキリスト教徒への弾圧とそれによって背教者が出ることです。第二に、その困難のなかでキリストの福音が世界のあらゆる民族国語に伝えられることです。これが「夜は更け、昼が近づいた」と言われる時代のありさまです。

 今は、主の再臨と審判と新天新地が近づいた時代であることに気づかない人はいないでしょう。偽キリストたちは人々を惑わしています。民族戦争の頻発や、地震やききんや自然災害のことはニュースに聞かない日はないほどです。日本列島を近々巨大な地震津波が襲うと警告されてもいます。2018年を象徴する漢字は「災」だったそうです。そして、主イエスの福音は今世紀半ばには世界の民族国語に到達しつつあります。隣国の政府は、昨年からキリスト教会の弾圧を激しくするようになり、公認教会・地下教会を問わず、指導者たちは連れ去られ、会堂は破壊されています。闇は深く深くなっています。

 

.闇の業をうち捨てよう

 

 しかし、闇が最も濃くなったそのとき、主イエス様が来られてこの闇を晴らしてくださいます。暗闇でなされている悪行のすべては白日の下でさばかれて罰が与えられます。また、人目に隠れてなされた愛のわざも神様は良い物をもって報いて下さいます。そして、新しい天と新しい地が来るのです。

 私たちは、この希望によって生きるのです。クリスチャンとしての人生は、信仰によって義とされたというところから始まります。私たちは信仰によってキリストの義を受け取り、キリストにあって神の子とされました。 義と認められ、子とされた私たちは、再び来たり給う主イエスにお会いする最後の審判の時を希望をもって生きるのです。主が再びもどって来られた時に忠実なしもべとしてのこの世における生活ぶりを見て頂けるように生きよと聖書は教えます。再び戻られた主イエス様に喜ばれる生き方とはなんでしょうか。それは、全身全霊をもって神様を愛し、自分自身のように隣人を愛するという生き方です。善をもって悪に打ち勝つ生き方です。

 主イエスが再び来られるという希望を持つとき、私たちは闇のわざを捨てます。かつて神を見失って、なんのために生きているかわからないというときに、その空しさからのがれるために「遊興・酩酊」に身を沈めていたでしょう。そして、酩酊遊興にふけると、「淫乱、好色」といった破廉恥罪に陥ってしまいます。そして、「淫乱・好色」といった罪の結末は、夫婦関係、家族関係、友人関係に「争いとねたみ」をもたらしてしまっていました。しかし、キリストを信じて神との交わりのうちに入れていただき、生きる目的は神の栄光をあらわすことであると知ってから、私たちは闇のわざを捨てたのです。

 

結び キリストを着よ・・・昼間らしい、正しい生き方

 

 イエス様が来られれば暗闇は去ります。主イエスが再び来られることに希望をもつならば、その御前に出ることを思うならば、私たちの生き方は変わります。パウロは「キリストを着る」という表現で何を教えようとしているのでしょう。より具体的にはどういうことかということを思いめぐらして、「神の武具」に思い至りました。エペソ6:13-17

 6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

 6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、

 6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。

 6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

 6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

 

 「時」は迫っています。「神などいない」という風潮が地を覆い、愛は冷え人々は利己的になり、汚れたことに身を染めています。暗闇はますます深くなっています。しかし、暗闇が深くなればなるほど、光は貴重なものとなります。昨年、北海道は大停電を経験して私たちは光の貴重さということを体験しました。私たちキリスト者は、今という時代に世の光として遣わされている貴重な存在です。

 2019年を迎え、ますますその時は迫っています。悔い改めて闇のわざを打ち捨て、光の武具であるみことばの剣を帯びて、平和の福音を足にはいて福音を人々に届けましょう。そうして、祈りに励む一年間でありましょう。