Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

義人はいない、一人もいない

ローマ3:1-18

 パウロはキリストの福音を語るに当たって、初めに罪人に対して神の怒りが啓示されているのだと述べました。そして、神の前には律法を持たない異邦人も、律法を持っているユダヤ人も罪があるのだと語ってきました。神の聖なる怒りは、異邦人の罪に対しても、ユダヤ人に対しても燃えています。
 異邦人の罪は、偶像礼拝、性的不道徳、そして、神を知ることなど無益だと背を向け、ねたみや憎しみや殺意や傲慢や盗みや親不孝などのもろもろの罪を犯していることです。これらは、神の前では永遠の死罪つまりゲヘナの滅びに値するのです。かつて無神論者であった自分を振り返ると、これらの罪はまさに、私の犯していた罪ですと告白せざるをえません。
 他方、ユダヤ人たちは、律法をもっておりました。彼らは偶像礼拝はしませんでした。また、異邦人に比べるならば道徳的な生活をしています。けれども、使徒はかつて彼自身がユダヤ教徒であった経験からユダヤ人の急所をつきました。「異邦人をさばくあなたが、実は、陰では異邦人と同じことを行なっている。」と。そのありさまは、神の御目の前には異邦人の罪深さと五十歩百歩です。そのくせ、ユダヤ人は異邦人を見下しているから傲慢という罪ゆえに一層罪深いのだというのです。
 この観点からいえば、人間には、二通りしかありません。一つは聖書を知らずあからさまな罪にどっぷり浸っているので、もはや何が罪かということさえわからなくなっている状態です。偶像崇拝という罪は、その典型でしょう。偶像をを拝むことが信心深いよいことであるとさえ、人間は思うようになってしまいました。聖書という不変の基準がなければ、どこまで腐って腐っていることすらわからなくなるのです。 もう一つの道は、聖書を知っていて異邦人よりはましだと自己満足している偽善と傲慢の罪です。しかし、両者とも神さまの御目から見たら、同じような罪ある者なのです。つまり、人は、ルカ伝15章放蕩息子の譬えでいえば、親の金をふんだくって家を飛び出して放蕩に明け暮れた弟息子か、帰ってきた弟を憎み軽蔑して受け入れようとしない兄のような偽善者の冷酷な罪か、どちらかです。
 さて、きょうの所では使徒パウロは、前半ではユダヤ人の言い訳や反論を封じ込め、後半では人類は例外なくみな罪人であると論じます。

 

1.決して、そんなことはない

 異邦人をさばくユダヤ人、あなた自身は偽善者であると、鋭いナイフを首につきつけられたユダヤ人からの最後のあがきのような3つの反論があるだろうと予想して、パウロは話を進めます。
(1)第一の反論は1節2節・・・ユダヤ人のすぐれたところの意味について。


3:1 では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。
3:2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。


 これは言い換えると、「パウロよ、君のいう通りだとすると、ユダヤ人に優れたところは何もないことになり、神が定めた割礼も律法も無意味ということになるではないか。」ということです。それに対して使徒は答えます。そうではない。ユダヤ人にすぐれた所はある。だが、それはユダヤ人自身が異邦人よりも立派な生き方をしているからとか、ユダヤ人が特権階級であるからという意味ではない。そうではなく、神が一方的にユダヤ人に約束と旧約聖書をくださった恵みは優れているというのです。
 ユダヤ人の問題は割礼も律法も神の一方的恵みであることを忘れて、自らを選民として誇り、異邦人を見下していたことです。神がユダヤ人を選んだのは、彼らを誇らせるためではなく、彼らを祭司の民として彼らのうちから全人類の救い主キリストを与えるためでした。
 新約時代の私たちクリスチャンに適用するならば、私たちが洗礼を受け、聖書を与えられているのは、特権意識をもち傲慢になるためではありません。むしろ、自分のような罪ある者をゆるしてくださったキリストの愛にお応えして、神と隣人を愛する生き方によってキリストをあかしするためにこそ、私たちは洗礼を受け、聖書の御言葉をいただいているのです。

(2)第二の反論は、3-6節・・・・神の真実は揺るがないことについて。

3:3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
3:4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、
  「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
  さばかれるときには勝利を得られるため。」
と書いてあるとおりです。
3:5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。
3:6 絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。

 3節は、神が選んだユダヤ人のうちに不真実な人がいて、神のことばにしたがわず、偽善に陥っているなら、ユダヤ人を選んで契約を与えた神の真実は無に帰してしまったことになるのか?という問いです。 
 絶対にそんなことはないのです。申命記にあるように、神がイスラエルに与えた契約は、神に従う者には祝福を与え、従わないものには呪いを与えるという定めです。神は公正な裁きをなさいます。神が、ユダヤ人の中の不真実な人を公正にさばくとき、そのさばきによって、神の真実さが明らかになるのです。
 たとえば、ある窃盗事件の裁判において、被告が裁判官の昔の親友だったとします。もし甘い判決をくだしたら、不公正な裁判官だということです。逆に、その裁判官が被告にたいして厳正な判決がくだしたら、その裁判官は真実な裁判官だという評判になるでしょう。神が選んだユダヤ人が契約に対して不真実だった場合、その罪に対して厳格なさばきを下すならば、そのことによって神の真実があかしされるわけです。
 
(3)第三の反論は、7節・・・悪人は罪に定められる


3:7 でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。 3:8 「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか──私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。──もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。


 変な理屈です。裁判官の昔の親友が泥棒を働いて、裁判にかけられました。しかし、裁判官は友だちだからと甘くすることなく、罪を法律に照らして、公正無比な判決をくだしたとします。こうしてその裁判官は真実な人だという事実が明らかにされます。
 すると、その泥棒が裁判官に向かって「おい、俺が泥棒をしたおかげで、君は真実な裁判官だってことが明らかになったんじゃないか。だったら、俺は結局良いことをしたことになるじゃないの。どうして、良いことをした俺が有罪にならなきゃいけないの?善を現わすために、ちょっとばかり悪をしただけだよ。」めちゃくちゃな論法ですが、このように論じる者どもは当然罪に定められます。
 こうして、ユダヤ教の律法主義者からの反論をパウロは封じ込めました。

 

2.すべての人は罪人

 ここから後半です。すべての人は罪人であるという結論にいたります。
(1)義人はいない
 「では、どうなのでしょう。私たち(ユダヤ人)は他の者にまさっているのでしょうか。」パウロはもう一度言います。先には、1節で「ではユダヤ人のすぐれたところはいったい何ですか?」と問いかけ、「それはあらゆる点において大いにあります。」と答えたのに、今度は「決してそうではありません。」というのです。文脈が違います。先に「ユダヤ人にすぐれたところがある」と言ったのは、ユダヤ人は、神が彼らに割礼と律法を与えて人類救済の通り管として用いようとなさったという恵みの出来事がすぐれたことだというのでした。
 それに対して、今回の文脈は、心の思いまでも見抜かれる正義の神の前では、ユダヤ人も異邦人も例外なく、一人残らず罪人なのだということです。パウロは、異邦人もユダヤ人もすべての人は罪あるものだという主張を、旧約聖書のことばに訴えて締めくくります。私たちユダヤ人は旧約聖書を持っているから自分たちはほかの民よりも、神の御前には正しいのだと思い込んでいるが、旧約聖書は私たちについてなんと言っているだろうということで、10節から18節が記されています。すべて旧約聖書のあちらこちらからの自由引用です。
 まず結論から宣言します。10-12節。


「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。
  善を行う人はいない。ひとりもいない。」


 私は18歳のとき初めてこの箇所を読んだときは衝撃的でしたが、すっきりしました。「あ、神さまの前では一人の義人もいない。そうなんだ。」聖書を道徳の教科書のように思って、頑張って義人にならなくてはいけないと肩いからせて読んでいたのですが、「義人はいない。ひとりもいない」と言われてしまったのでした。<私は神の目の前で罪人だ>という根本的事実が、救われるための前提です。
 「義人はいないひとりもいない」から、私たちは神さまに対して、「あの人がああしたから」とか「こうだから」と言い訳するのは無意味だとわかりました。だから「はい、ごめんなさい。たしかに私は罪人です」と認めるほかありません。
 「義人はいない、ひとりもいない」からこそ、神の御子イエス様がたった一人罪なきお方としてこの世に来られて、十字架で私たちの罪を背負ってくださらねばならないことがわかりました。
 「義人はいない、ひとりもいない」からこそ、クリスチャンになってから行うさまざまな奉仕やささげものは、「させてもらっている」こと、神さまからの恵みなんだとわかりました。だから、少しばかり奉仕ができても、誇ることではなく、かえって、主のために少しでもお役に立てて感謝ということになります。だから、心は自由です。

 

(2)悪いことばは、人殺しにまでエスカレートする
 罪は、どんなふうにエスカレートしていくのかが次に記されています。まず、ことばの罪について13-14節。


3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」
  「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」

 ことばはあなたの人生を左右します。国と国との条約はことばによります。私たちが家を買うような大きな契約をするときもことばによります。結婚の誓いもことばによります。争いもことばによります。ことばは人生の舵です。
 そういう大切なことばが悪用されると悲惨なことになります。嘘をついて他人を罠に陥れたり、悪い噂を立てたりするのです。呪いと苦さをもって人を非難する罪です。聖書はことばを非常に重んじます。ことばは大きな船の舵のようなものです。小さな舵が巨大な船を右に左にと動かします。あなたが心につぶやくことば、あなたが口にすることばが、あなたの精神を支配し、あなたの人生を支配することになります。
 もし今欺きのことば、毒のあることば、呪いのことばがあなたのうちにあることに気づいたら、今すぐに神様の前にそれを告白して、捨てて、赦しきよめていただかねばなりません。あなたの心に悪い言葉を住まわせてはいけません。暗くなるまで放置しては放置してはいけません。さもなければ、悪魔があなたを支配するチャンスを得ることになります(エペソ4:26,27)。欺き、毒、のろい、怒り、苦さに満ちた言葉を心に住まわせたままでいると、それはやがて口から飛び出して、平和を破壊します。それは家庭を破壊し、友情を破壊し、教会を破壊し、人殺しにまで発展してしまうこともあります。もしそれが責任ある大統領とか総理大臣のことばであれば、戦争を引き起こし、何万人もの人が傷つき命を失うことになります。15-17節。


3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、
3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」
 

 そして、18節は、あらゆる罪と悲惨の根っこの問題は神への恐れの欠如です。


3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

 人の顔色を見て恐れたり、自分の将来の生活がどうなるのだろうと恐れたり、地震津波原発事故を恐れたりはしても、肝心の神に対する恐れが欠けているのが、的を外れた人間のありさまです。本来、万物の創造主である神をこそ私たちは畏れるべきです。生殺与奪の権をもっておられるのは、神なのです。神が、人間をご自身に似た人格的存在としてお造りになり、神を畏れ、神に誠実に応答して生きることが、人間の本来の姿です。
 しかし、多くの人は神に背を向けて、たいせつなことばを軽々しく使い、その言葉に操られるようにして、自分の人格と人生を破壊しています。神を畏れていないからです。

結び
 きょうは少しいろいろと学びました。3点確認します。
 第一は、ユダヤ人の不真実によって、神の真実が揺るがず、かえって神は不真実な者たちを正しくさばくことにおいて、ご自分の真実、公正さを明らかになさいます。

 第二は、神の前で義人はいない一人もいないという事実です。あなたは自力では救われえないのです。ただ神の恵みによって救われるのです。自分の罪を認めてイエス様にすがりましょう。私たちの奉仕も献金も救われるためではありません。恵みによって救われたことに対する感謝と喜びの表現です。

 第三に、私たちの罪の中でも、特にことばの罪に警戒すべきです。悪いことばが、争いを引き起こし、ついには人殺しや戦争にまでエスカレートします。だから、もしあなたの心の中に、神を軽んじ人を呪うような悪い言葉を見つけたら直ちに、神様の前に悔い改めて、罪を捨てることです。悪魔にチャンスを与えてはなりません。
 私たちは、神を畏れて生きてまいりましょう。