水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

愛は律法を満たす

マタイ5:17-20

 

2020年1月19日 苫小牧主日礼拝

 

5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

 5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

 5:19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。

 5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。

 

 

 

1 律法と預言者

 

 17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」

「律法と預言者」という表現は、旧約聖書という意味です。当時、旧約聖書は、「律法と預言者」とか「律法と預言者詩篇」というふうに呼ばれました。主イエスの大胆な言動について、敵対する人たちも、あるいはイエス様の弟子たちの中にも、「イエスは、律法と預言者つまり旧約聖書を廃棄してしまうつもりなのではないか?」と誤解している人たちがいたので、このようにおっしゃったのです。

エス様の大胆な振舞いというのは、たとえば、イエス様は安息日に忠実に礼拝を守りましたけれど、礼拝を終えると、その場で病人をいやしてやったというようなことです。律法学者たちに言わせれば、病人を癒すという行為は彼らが解釈するところの、安息日に禁じられている「仕事」であるから、イエス安息日律法を破っていると思ったわけです。けれども、イエス様に言わせれば、これこそ最も適切な安息日の守り方だったのです。本来安息日は、神を礼拝することと、隣人愛を実践する日ですから。

 また、イエス様は取税人マタイを弟子にとって、素行の悪い彼の友だち、取税人仲間、遊女たち連中とも一緒に楽しそうに食事をすることがありました。またイエス様は、遊女たちにさえ神様について伝えていました。これも律法学者の先生たちは、とんでもないことであると考えました。律法学者たちは、取税人や遊女とは口も利かないし、まして同じ屋根の下にはいって食事をするなどということは宗教的なけがれにあたるとしていました。この点でも、イエスは「律法と預言者」つまり旧約聖書を廃棄しようとしていると非難したのです。しかし、律法には異邦人といっしょに食事をするなとはありませんし、主イエスに言わせれば、旧約聖書によれば、神は罪に陥ったダビデにもあわれみを注がれたお方でした。

 また、イエス様は、選民ユダヤ人だけでなく、異邦人であっても求める人には、福音を語りましたし、病で臥せっている人があればそれが異邦人であっても癒しのわざも行なわれました。ユダヤ人、格別、パリサイ人や律法学者たちは、神の恵みはただユダヤ人にのみ特別に注がれることを信じて、教えていたのに何たることかというのです。というわけで、イエスは「律法と預言者を廃棄しようとしている」と非難したのです。しかし、旧約聖書には、神はユダヤ人だけでなく異邦人をも創造し生かしておられ、異邦人もやがてまことの神を賛美する日が来ることが書かれています。詩篇67篇を開いてみましょう。

67**篇**

1**,どうか神が私たちをあわれみ祝福し御顔を私たちの上に照り輝かせてくださいますように。セラ**

2**,あなたの道が地の上で御救いがすべての国々の間で知られるために。**

3**,神よ諸国の民があなたをほめたたえ諸国の民がみなあなたをほめたたえますように。**

4**,国々の民が喜びまた喜び歌いますように。それはあなたが公平に諸国の民をさばき地の国民を導かれるからです。セラ**

5**,神よ諸国の民があなたをほめたたえ諸国の民がみなあなたをほめたたえますように。**

6**,大地はその実りを産み出しました。神が私たちの神が私たちを祝福してくださいますように。**

7**,神が私たちを祝福してくださり地の果てのすべての者が神を恐れますように。

 

 

弟子たちの中にも、イエス様が旧約聖書を廃棄しようとなさっているのだと誤解するむきがあっただろうと思います。ですから、イエス様は弟子たちを前にして、そういう誤解をしないようにと、この山上の垂訓で、キリストの弟子、キリスト者の生き方について述べてゆくまえに、新約の聖徒として、旧約聖書、特に律法をどのようにとらえるべきなのかについておっしゃるのです。

「5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」

 2千年間の教会の歴史を振り返ると、旧約聖書を破棄して新約聖書のみを神のことばだとする異端がときおり生じました。その最初はグノーシス主義とマルキオン主義というもので、旧約のユダヤ的なものを否定して、パウロ文書の一部を重んじるという異端でした。福音書の中ではパウロとゆかりの深いルカ福音書のみを彼らは評価しました。しかし、イエス様ご自身は「わたしは旧約聖書を破棄するために来たのではなく成就するために来た」とおっしゃったのです。

 20世紀に入ってからも、旧約聖書を廃棄し、キリスト教からユダヤ的なものを捨て去ろうとした人々は、ヒトラーの時代のドイツの神学者たちでした。ヒトラーユダヤ人絶滅政策を採りましたので、キリスト教からユダヤ的なものを排除しようとしたのです。しかし、これはナンセンスなことです。イエス様はまぎれもなく民族的にいえばユダヤ人でしたから。イエス様はおっしゃるのです。「5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」

 

2 イエス様が律法を成就する方法

 

 「5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」

 イエス様は律法を成就するために来たとおっしゃいます。それはどのようにしてでしょうか?律法の要求が満たされるには、二つの道があります。ひとつは、私たちがその律法が言っていることを実行することです。「殺すなかれ」という命令に対して、「殺さない」という応答をするとき、律法の要求は満たされます。「あなたは自分のために偶像を作ってはならない」という律法の要求に対して、偶像をつくらないという応答によって、律法は満たされることになります。これがひとつ。

ですが、神様は人間が律法の要求を完全には守ることができないことをご存知でしたから、「偶像を礼拝するな」「安息日をまもりなさい」「あなたの父母を敬え」「殺すな」「盗むな」などといった道徳的な律法を守れず破ってしまった場合のために、神様はもう一種類の律法を与えていました。それはいけにえに関する律法であって、律法を破ってしまった場合に定められたいけにえをささげて償いをするというものでした。イエス様は、十字架においてまことの小羊のいけにえとして御自分を犠牲とされて、私たちが律法にそむいて犯した罪の償いをしてくださり、復活してくださいました。

エス様は私たちの罪の償いを十字架でなしとげ、さらに、天にもどられて天から信じる私たちに聖霊を注いで、神様のみこころを行なう力をくださるのです。このようにして、イエス様は律法を成就なさるのです。

 

3 律法に関する二つの間違い

 

 ですが、律法の受け止め方については二つの間違いがあります。それは律法主義と無律法主義です。

(1)律法主

 律法主義というのは、数々の律法を守ることによって、神の前に点数をかせいで自分の義を立てるという考え方です。神様の前にはあなたの人生を量る天秤があって、律法を守ったら右の皿に、破ったら左の皿に分銅が置かれて行き、審判のときに右の皿が下がっていたら天国に、左が下がっていたら地獄におちるということです。この何が間違えているかというと、神様は完全なお方なので完全に守れないかぎり神様の前で義であると認められることはありえないからです。そして人間は罪があるので、人は律法を完全に守ることができないことは明白です。

ヤコブ2:10「律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。」

また、律法主義者の陥りがちな罠は、偽善と形式主義です。というのは、律法主義で完璧を目指そうとすると、いきおい律法を破ったのだけれど、守ったことにするために言葉のつじつまを合わせようとするからです。イエス様の時代にパリサイ人たちは、そういう作業を一生懸命していたようです。法律の文言のつじつま合わせというのは、国会での官僚の答弁など聞いていて、よくあることです。

 

(2)無律法主

 律法の受け止め方についての第二の間違いは、無律法主義です。自分は恵みによって救われた。だから律法などは要らないのだと思い込んで、偶像礼拝をしたり、安息日を軽んじたり、親不孝をしたり、姦淫したり、偽証をしたり、盗みを働いたりといった好き勝手な振る舞いをしても大丈夫だという考え方が無律法主義です。

 イエス様はそんなことはまったく教えませんでした。十戒は、キリスト者の義務を教えているのです。

5:19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。

 

3 キリスト者の義

 

 では、正しい律法の受け止め方とはなんでしょうか。それは、キリストがわたしのために十字架にかかってよみがえり、わたしを赦してくださいましたから、こそ神のご期待に応え、神の律法を大切にして生きていくのです。もはや律法を破ったら呪われるという恐怖からではなく、いやいやながらでなく、キリストにおいて表された神の愛に対する感謝の応答として、十戒をガイドとしてこれを重んじて生きることです。私たちは律法を守らなければ呪われるのが怖いからではなく、律法の呪いから解放された者として、愛をもって律法の要求を十二分に満たして生きることが許されているのです。それはイエスを信じる者のうちに与えられる聖霊によって、可能にされているのです。

5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。

 キリスト者の義は、律法学者・パリサイ人の義よりも勝っているのです。二つの意味で優っているのです。

それは、第一に律法を守りえなかったことにかんする償いはイエス様があの十字架の贖いと復活によって、完全に満たしていてくださるからです。キリストの義を私たちは贈り物としていただいているのです。

 

 キリスト者の義が律法学者たちの義にまさっているのは、第二に私たちは律法ののろいに対する恐怖からとか、いやいやこれを行なうのではなく、神様を愛するゆえに、自発的に神様のみこころを行なおうとするからです。律法の要諦は、全身全霊をもって神を愛することと、隣人を自分のように愛することですから、いやいやながら恐怖のゆえに奴隷的根性で律法を守ることを神様はお喜びになりません。神様は、愛をもってみこころを行なうことを、喜んでくださるのです。聖霊がそれをさせてくださいます。

 私たちは偶像崇拝をすると呪われ地獄に落ちるから偶像崇拝をしないのではなく、唯一まことの神様を愛しているから、真の神様だけを礼拝します。

 私たちは主の御名をみだりに唱えると呪われるから、そうしないのではなく、私を愛し私のためにいのちまで惜しまなかったお方のお名前ですから、私たちは心からの感謝と喜びをもってイエス様の名を口にします。

 私たちは安息日を守らないと死刑になるからこれを守るのではなく、安息日に私を愛してくださった神様に兄弟姉妹と感謝の礼拝をささげたいから、これを大事にするのです。  私たちは父母を敬わないと呪われるから父母にいやいや従うのではなく、神が立てた大切な父母ですから敬います。

 私たちは人のものをただ盗まないのではなく、生活に困窮している人たちにも進んで施しをします。 嘘をいわないだけでなく、真実を語ります。 隣人のものを欲しがらないのではなく、神がくださった恵みのゆえにいつも喜び、絶えず祈り、すべてのものに感謝して満ち足りるのです。

このように二重の意味で、私たちキリスト者の義は、神様の御目から見るときに、パリサイ人たちの義に勝っているのです。すなわち、愛をもって自発的に律法にまさる行いをする点、破ってしまった場合の罪の償いは主イエスが十二分に成し遂げてくださったことです。 神様にイエス様の十字架のゆえに罪を赦されたことを感謝しながら、神様のみこころを愛をもって十二分に実行するものでありたいのです。