水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

異邦人宣教とイスラエルの救い

ローマ10:16- 11:14

 

 パウロ旧約聖書を引用しつつ、異邦人宣教とイスラエルの救いについての神さまの計画について説いてゆきます。

 

1.キリストの福音は届いた

 

 福音とはなんでしょうか?「神の御子イエスの名を呼ぶ者はだれでも救われる」です。「イエス様、助けてください!」と叫ぶならだれでも救われるのです。むずかしい律法や教理に通じていなくても、「イエス様、助けてください。」と名を呼べば、その人は神の前に無罪を宣告されて、神の前に赦していただき、神の子とされ、永遠のいのちをいただけるのです。ゴルゴタの丘で、イエス様の傍らにいた片方の犯罪人は、「イエス様、あなたが御国の位に着くとき、私を思い出してください」と言って、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」とお約束をいただきましたが、反対側の犯罪人は、最後までイエス様を受け容れず罵って滅びました。すべての人が福音を聞いて信じ従うわけではありません。

10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。

 しかし、このようにイエス様を呼ぶことができたのは、イエスの弟子たちが、「イエス様こそ、あなたの救い主、あなたの王です。イエスの名を呼びなさい」とイスラエルの国中に福音を聞かせ、福音を満たしたからでした。

 10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

 宣教師パウロは、行く先々で安息日ユダヤ教の会堂で、ウィークデーは町の広場でキリストの福音を伝え続けてきました。「イエスこそがキリストです。救い主です。」と。その結果、何が起こったでしょう。「使徒の働き」を読んでみてわかることは、キリストの福音を聞くと、信じる人と信じない人とに二つに分かれたということです。信じなかった人々には聞こえなかったのかというと、そんなことはありません。

 10:18 でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」

 とあるとおり、たしかに聞こえたのです。しかし全ての人が信じたわけではなく、神の選びの民が信じて救われたのです。イエス様の羊はイエス様の声を知っているのです。ですから、イエス様の声である福音で呼ぶことが大事です。だれが神の選びの民であるかは、人間にはわかりません。ただ神様だけがご存知です。ですから、私たちクリスチャンがすべきことは、なんとしても全ての人に「イエス様の名を呼べば救われる」という良い知らせ、福音を響かせることです。私たちは、苫小牧に「イエスの名を呼ぶものは誰でも救われる」という声を響き渡らせる責任があります。北海道に、日本全土に「イエスの名を呼ぶものは誰でも救われる」と伝える任務があります。ですから、同盟教団の国内開拓伝道に参加していくのです。また地の果てまで「イエスの名を呼ぶ者はだれでも救われる」と、伝える責任があります。

 

2.異邦人伝道とイスラエルの救い

 

 使徒パウロは異邦人への使徒として、イエス様から使命を受けました。パウロはもともとイスラエルでなく、タルソというところで生まれ育ったディアスポラユダヤ人でした。小アジア半島の中南部キリキヤ州にある町です。そこではヘレニズム世界の共通語であるギリシャ語が話されていましたから、彼は自由自在にギリシャ語を話せました。また、生まれながらのローマ市民権をもっていましたから、それも世界宣教に有利でした。しかし、パウロは自分の同胞イスラエルの救いを願ってやみませんでしたから、パウロの感情からいえば、異邦人伝道などしていないで、イスラエルの人々に伝道したいところですが、イエス様がパウロに異邦人への伝道の使命を告げたのです。

 ところで、イスラエルの民は、異邦人の救いについてまったく知らなかったのでしょうか。そんなことはない、旧約聖書イザヤ書にちゃんと神は異邦人を救うご計画について啓示されているのだとパウロは指摘します。

10:19 でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者(異邦人)のことで、あなたがた(イスラエル)のねたみを起こさせ、無知な国民(異邦人)のことで、あなたがた(イスラエル)を怒らせる。」

10:20 またイザヤは大胆にこう言っています。

   「わたしは、わたしを求めない者(異邦人)に見いだされ、

   わたしをたずねない者(異邦人)に自分を現した。」

 

 「民でない者」「無知な国民」とは異邦人のこ、つまり、アブラハムの血筋でなく、真の神を知らないで石や木を刻んで造った偽りの神々、偶像を拝み、ただただ何を食べるか、何を飲むか、何を着るかということにしか関心がなかった私たち外国人たちのことです。そういう異邦人がパウロが宣べ伝えたイエスを信じて救われ、まことの神の民となって、偶像を捨て、万物の創造主である神を礼拝するようになったのです。神の栄光をあらわす生活をするようになったのです。

 イスラエルの人々は、異邦人たちがイエスを信じて神の民となる様子を見て、驚きました。そして、妬みを感じ、「なんということだ!なぜ、律法も知らない守らない異邦人が救われて、神をたたえているんだ。真の神は私たちイスラエルのものではないか!」と怒ることになるというわけです。このように旧約聖書イザヤ書にすでに、神は「神を求めず尋ねもしない異邦人にご自分を表すことを予告しておられたのです。しかし、イスラエルはそれを見落としていたのでした。

 そして神に選ばれながら神に反抗するイスラエルの民については、次のように旧約聖書は預言していました。

 10:21 またイスラエルについては、こう言っています。

   「不従順で反抗する民(イスラエル)に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」

 

 「イエス様の名を呼ぶだけで救われる」と福音はまず、イスラエルに伝えられました。神は不従順なイスラエルに胸を痛めながら手を差し伸べたのです。

 

3.「残された者」

 

 では、福音は異邦人に向かって語られることになり、イスラエル民族はもう神に見捨てられたのでしょうか。そうではないとパウロは語ります。そもそも、パウロ自身イスラエル民族なのですから、イスラエル民族がみな神に見捨てられたなどろいうことはないのです。 11:1 すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。

ペテロもヨハネヤコブもイエスの最初の弟子たちはみなイスラエル民族です。神がイスラエル民族を見捨てたわけではないのです。

 そうして、パウロは今度は旧約聖書列王記に記録されているエリヤと神との問答のことばを引用します。エリヤの時代、お妃イゼベルが持ち込んだバアル崇拝というものが国中に蔓延し、イスラエル国内は霊的暗黒状態の中にありました。人々は、聖書に啓示された創造主を礼拝しつつ、同時に、バアルに仕えていたのです。エリヤの目から見ると、もう国中には真の神を信じる人は自分以外にはいないように見えました。

 11:2 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。

 11:3 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」

すると神様はおっしゃいました。

 11:4 ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」

 

 バアルにひざをかがめない、真の礼拝者たちが7000人残っているのだとおっしゃるのです。この事例から、パウロは、今の時代も「恵みによって残された者」がいるのだというのです。一見すると、イスラエル人はみなイエスを拒んだように見えるがそんなことはない。数はわずかであっても、残された者がいるのです。

 11:5 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。

 

4.恵みによって救われる

 

 ただし、救いは恵みによるのです。「残された者」も、神の「恵みの選びによって残された者」なのです。律法の行いによって神の前の義を獲得しようと追求したイスラエルの多くの人々は、律法主義の罠である欺瞞に陥って結局、神の前に義を獲得できませんでした。神さまが恵みによって救おうとして、イエス様を救い主として遣わしましたが、一部の選ばれた人はイエスを信じましたが、多くのイスラエルの人々は、イエスにつまずいて頑なになってしまったのです。「律法の行ないではない。ただ、イエスの名を呼ぶのだ」という福音を聞かされて、心かたくなになってしまったのです。

 11:6 もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。

 11:7 では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。

 11:8 こう書かれているとおりです。

   「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」

 11:9 ダビデもこう言います。

   「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。

 11:10 その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」

 

 では、ほとんどのイスラエルの民がイエス様につまずいた結果、何が起こったのでしょうか。それによって、異邦人へと福音が伝えられることになったのです。彼らの違反、失敗は、異邦人伝道、世界宣教へとつながったのです。

 そして、パウロは期待しているのです。異邦人伝道が進んで、ぞくぞくと救われていくのを見て、イスラエルの民が妬みを起こすことを。妬みを起こして、イスラエルの民もまたイエス・キリストに立ち返ることをパウロは期待しているのです

 

 11:11 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。

 11:12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。

 11:13 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。

 11:14 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。

 

 

5  神の国の譬え

 

 イエス様は、ブドウ園の譬えで、この神様の不思議なご計画について話されたことがあります。

 20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。

 20:2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。

 20:3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。

 20:4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』

 20:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。

 20:6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』

 20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』

 20:8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』

 20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。

 20:10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。

 20:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、

 20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』

 20:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。

 20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。

 20:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』

 20:16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」

 

朝早くから働いている労務者たちとは、イスラエルの民のことです。そして、五時ころにやってきた人たちとは異邦人のことです。朝早くからきた労務者はどうすればよかったのでしょうか? 5時からやってきた人たちに、「よかったねえ。お給料もらえて。」とともに喜べばよかったのです。けれど、彼らは怒りました。

イスラエルの民はモーセの時代から神から律法を授かって、自分たちは神の民であるという思いをもって、律法を守ることに四苦八苦してきました。ところが、イエス様が来られて、「イエスの名を呼ぶものはだれでもすくわれる」という福音が、異邦人に時聞かされる時代がやってきました。すると、イスラエルは怒って心かたくなにしたのです。

20:15に主人が、 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』とあるように、救いはもともと、恵みによるものなのですイスラエルの民も律法をまもったから救われるわけではなく、恵みによって救われ神の民とされたのだから、神とともに生きるガイドラインとして律法を守りなさいと言われていたのです。神の民とされ、神とともに生き、神の律法を守ることができたら、それも恵みなのです。ところが、律法を守ることで救われるという考えに陥ってしまいました。そうすると、律法を守っていることが誇りになり、律法を守らないでいたのに神の憐れみを受けて救われた人がいると腹を立てるということになったわけです。あの放蕩息子の兄が、弟が帰ってきたのを父が手放しで喜んだことに腹を立てたように。

 

結び

 主にある兄弟姉妹。私たちのことに適用してきましょう。長年イエス様を信じて信仰生活をしてきた兄弟姉妹はイスラエルの立場、長年イエス様に背を向けて、最後にイエス様を信じた人は異邦人の立場です。

 私たちは、もう一度、「救いは恵みによる」という真理をかみしめましょう。

 若い日に、イエス様の福音を聞いて救われたのは恵みです。イエス様を知って、長年、忠実に教会生活をして、忠実に十分の一のささげものをしてきて、さまざまな奉仕をしてくることが許されたとしたら、それもまた恵みなのです。

 イエス様の福音を「そんな馬鹿な事」と言って、拒んできたけれど、年をとって、病に倒れて何もできなくなって、何もささげるものもなくなって、ついに病床で地獄に落ちるのが怖くなって「イエス様、わたしを助けてください」と呼んで救われたなら、それもまた恵みです。 

 イエス様を信じて救われたことは恵みです。救われて、主に忠実に奉仕の生活をしてきたこと、これも恵みです。私たちは、恵みだけで生きるのです。だから、何も誇る必要はありません。また、ひがむ必要もありません。ただただ、主に感謝し、ともに喜んで生きていればよいのです。これが、福音的な生き方というものです。