水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

あなたの救いのため  (伝道説教)

ローマ3:19-26

 

 

序 神(創造主)の実在

 私は千鳥幼稚園という教会付属の幼稚園にかよっていました。そのころはぼんやりとですが、「神様はおるんやろうな」と思っていたような気がします。けれども、卒園後は全く教会には通わなくなって、中学生のころには「いったい、神様なんているのかなあ?」と思うようになりました。高校生のころには、「神様なんかいないよ」と思うようになっていました。それは、「なんとなく」のことでした。世間のおとなたちが、神様なんかいないよと言っているので、なんとなくそう思っていただけのことです。

 「神は存在するのか?」この問いに答えるには、まず、その人がいう「神」の定義を説明してもらわねばなりません。もし、その人の言う「神」が、イザナギイザナミだとか天照大神だとかゼウスだとかいうものであるとすれば、そのような神々はもともと人間が空想したお話なのですから、空想の世界にしか存在しません。

 しかし、もし、「神は実在するのか?」と問う人のいう「神」が、天地万物を設計し創造したお方を意味しているとするならば、そういう神が実在する事実を示す証拠は、私たちの身の回りにたくさんあると聖書は教えています。

 手を出してこぶしを握ってください。それがあなたの心臓の大きさです。心臓は私たちの体中に血液を送り続けているポンプです。心臓は1分間に70回拍動し、一日におよそ10万回拍動しています。 では心臓が、一日に送り出す血液の量はどれほどでしょうか。実に8トンです。8トンのタンクローリー一杯の量を、毎日毎日体に送り出しているのです。私たちの拳ほどの小型のポンプが、生まれてこの方、ずっと寝ているときも休むことなく拍動しているのです。これは実に驚くべき事実です。

 心臓は、人間が造ったどんなポンプもまったく及びません。学者が詳しく調べれば調べるほど、心臓はきわめて精巧で丈夫な設計があることがわかってきました。一点だけ説明すると、心臓にはペースメーカー細胞があって、それによって一定の拍動を保っています。これが故障すると不整脈が起こります。今では人工のペースメーカーに交換できます。ずいぶん小型化されて4センチ×5センチの大きさです。でも神様の造られたのは1.5ミリ×0.5ミリです。人間にその仕組みが分かってきたのは、ここ数十年のことにすぎません。しかし、心臓ははるか昔から働き続けています。人間は単に神の創造のわざの不十分な真似をしたにすぎません。人間よりもはるかに知恵のあるお方が、これを設計したのです。

 あなたのいのちを今、この瞬間も支えている精巧な心臓の設計をしたお方、それが、聖書を通して私たちに語り掛けている神です。あなたに心臓を与え、今日も生かしていてくださる創造主がいるのです。

 では、このお方に対して、あなたは何をすべきでしょう。旧約聖書詩篇139篇の詩人は次のように言いました。

「 それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。

   私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって 恐ろしいほどです。

  私のたましいは、それをよく知っています。」

 そう。日々、創造主に感謝して生活すべきしょう。あなたが道を歩いていて、ポケットから財布を出したはずみにハンカチを落として、後ろを歩いていた人に拾ってもらったらなんといいますか。「ご親切にありがとうございます。」と言うでしょう。まして、心臓ばかりか、あなたのからだ全体、食べ物、空気、水、この地球、太陽すべてを用意して、提供していてくださる創造主がいるのです。このお方に感謝して生活するというのは、人間の当然の義務なのです。

 

1 律法――罪を自覚させる

 

 さて、先ほどお読みした聖書の本文に移ります。

 3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

 「律法」ということばが出てきます。私たち人間が、創造主である神に対して、日々どのように感謝して生きるか、その方法を、神が具体的に定めたものが「律法」です。旧約聖書にはたくさんの律法が記されていますが、その要約として有名な「十戒」があります。

 第一、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」

 第二、「あなたは自分のために偶像をつくってはならない」。この二つの戒めは、世界を造り、あなたに命を与え、食べ物も、空気も、水もすべてのものを日々提供して、心臓を動かしていてくださる創造主だけが神ですから、それ以外のもの、神ならぬものを神として拝んではいけませんという命令です。

 第三、「あなたは主の御名をみだりに唱えてはならない」。あなたは、たいせつな人の名はたいせつに扱うでしょう。そのように、真の神さま、イエス様の名を冗談や罵りのことばに用いてはいけません。

 第四。「安息日をおぼえてこれを聖なる日とせよ」。仕事は大事だけれど仕事中毒になってはいけない。週に一日は、いのちを与え、健康を与え、仕事をさせてくださった創造主である神に感謝する特別な日として取り分けて、神様に感謝をささげるために教会に通う生活をしなさい。

 第五。あなたの父母を敬いなさい。親不孝はいけません。あなたは親孝行しているでしょうか。親をほったらかしにしていませんか。

 第六。殺してはならない。心の中をご覧になる神ですから、「あんなやつ死んでしまえ」という殺意も殺人です。心の中に憎しみを宿し続けていてはいけません。暗くなる前に、ゆるすことです。

 第七。姦淫してはならない。結婚関係外の性交渉を姦淫の罪です。

 第八。盗んではならない。1000円でも1万円でも100円でも、盗みは罪です。

 第九。偽証してはならない。嘘をついてはいけません。地獄に落ちます。

 第十。あなたの隣人の家を欲しがってはならない。他人の奥さん、他人の出世、他人の幸せはともに喜ぶべきであって、ねたんではいけないということです。

あなたは、生まれてから今日にいたるまで、創造主が定めたこれらの中の戒めを、間違いなく実行してきたでしょうか。破ってきたでしょうか。・・・正直に、厳密に、自らを振り返るならば、「ああ、自分は創造主なる神の前では有罪なのだ。」ということに気づくはずです。それが、3章20節の言っていることです。

 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

  私たちは、創造主の前に罪があります。十戒をぼんやりと眺めているだけならば、なんとも思わないかもしれません。けれども、これは神が私に与えた律法なのだと受け止めて、真剣に十戒を守ろうと日々意識的に努力してみれば、自分が日々、すべてを見ておられる審判者である神の前に罪に罪を重ねていることに気づくでしょう。

 私たちは自分で自分を救うことが決してできません。神の前に律法を日々実行して、その報酬として救いを得ることは不可能であり、日々十戒を破って、その報酬として滅びを得るほかないのです。

 

2.キリスト―神の贈り物としての義とそれを受け取る方法

 

 そこで、神は恵みによって、私たちを律法とは別の方法で救うことを計画されました。

(1)「今は」

  3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

 「今は」というのは、神の御子イエスが来られた後の時代には、という意味です。イエス・キリストと言う方は、およそ2000年前人となって、この世界に生まれてくださいました。けれども、実は、イエスというお方は太陽も月も地球もまだ造られる前から、父なる神とともに生きておられた、神の御子なのです。

 ヨハネ福音書の17章にあるのですが、イエスはあるときお祈りしているとき、「父よ。世界が存在する前にごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」と話されました。また、同じヨハネ福音書の最初には「初めに、ことばがあった、ことばは神とともにあった、ことばは神であった。・・・ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」とありますが、この永遠のことばロゴスと呼ばれるお方が、人となって私たちの間に住まわれたのです。それが約2千年前の最初のクリスマスの出来事です。このお方が来られて後の「今」という時代には、律法とは別の方法で救いの道が開かれたのです。

 「律法と預言者」というのは旧約聖書のことです。「神の義」ということばは耳慣れない表現です。「神との正しい関係、神との正常な関係」という意味です。ですから、「神の義が示されました」は、「神の赦しが与えられました」「救いの道が開かれました」と言い換えても、だいたい当たっています。

 まとめると、

「しかし、イエスが来られて後の今の新約の時代には、律法とは別に、しかも旧約聖書で予告されて、神の赦しがあたえられました」

――ということです。

 

(2)信仰によって・・・赦しを受ける手段

 その神の赦しという贈り物を、私たちはいったいどのように受け取ることができるのでしょうか?22節に教えられています。

 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 十戒に照らしてみると、私たちは間違いなく罪があります。自分で自分を救えません。しかし、イエス・キリストを信じるという方法によって、神の義、つまり、神の前の罪のゆるしをいただくことができます。冷たい滝に打たれるとか、燃え盛る火をくぐるとか、断食を40日間するとか、凍り付いた苫小牧ではだしでお百度を踏むとか、莫大な献金をするとか、そういう修行によるのでなく、イエス様を信じる信仰という手段によって、神の義を受け取るのです。

 イエス様がエルサレム城外のゴルゴタの丘で十字架にかかられたとき、イエス様の両隣には犯罪人たちが十字架につけられました。最初は二人とも、苦しみの中で十字架の下の人々といっしょになってイエスを罵っていました。「おまえが神の子なら自分を救い、俺たちを救ってみろ」などと言いながら。しかし、片方の男は、イエス様が十字架につけられながら、敵のために「父よ、彼らをゆるしてください」と祈るありさまを見て、ああ、この方は神の御子なのだと信じました。そして「イエス様、あなたが天の王座に着くときには、あっしのことを思い出してください」と申し上げました。するとイエス様は「きょう、あなたはわたしとともにパラダイスにいます」とおっしゃいました。彼は、何も良いことはできませんでした。イエス様に水一杯さしあげることさえできません。でも、彼が自分の罪を認めて、イエス様を信じたとき、イエス様は彼の神の御前での罪を赦して天国の約束をお与えになったのです。

 罪の赦しという贈り物は、自分の罪を認めて、イエス様を信じることによって受け取ることができます。「神の義」つまり罪の赦しは、すべての信じる人に与えられる」のです。

 

3 罪の赦しの根拠と神の義の証明

 

(1)全ての人は罪がある

 しかし、神様は正義のおかたです。なんとなく清濁併せ呑むことは決してなさいません。では、なぜイエス様を信じたら、私たちの罪はゆるされるのでしょう。その根拠はなんでしょう。それについて説明が続きます。

 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。

 

 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」ということについては、すでに説明しました。私たちは、神の前に罪を犯したので、神からの栄誉は受けられず、死後の審判の後には永遠の滅びが待っているということです。私たちは生まれながらには、神の聖なる怒りの対象です。「すべての人」ですから、そこに自分自身が含まれているということを、自覚することが大事です。それがわかり、認めてこそ、イエスによる救いがいかに大切であるかがわかるからです。

 

(2)罪の赦しの根拠

 そのように滅ぶべき者ですが、神様はなお私たちを愛してくださいました。それが「神の恵み」ということです。祝福を受ける資格がない者を、神は愛してくださるのです。それが恵みです。

 「3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 神様は、私たちが自分で自分をきよくも正しくもできず、そのままでは地獄行きなので、ただ一方的なご好意によって、神の義、罪のゆるしを差し出してくださいました。私たちに出来ることは、信仰という空っぽの手を差し出して、神の義、罪のゆるしを受け取るということです。

 

  では、神様が赦してくださるという赦しの根拠はなんでしょうか。私たちのまじめな日常生活、熱心な修行を根拠として救われるというのでもありません。信じることが立派だから、それを根拠として罪が赦されるわけではありません。信仰というのは、いわば空っぽの手にすぎません。また、では、何を根拠として私たちは神様の前での罪を赦してもらえるのでしょう。次のようにあります。

 神は正しい審判者です。私たちに好意をもってくださって、赦してやりたいと思っても、なんの根拠もなく赦すわけにはゆきません。それでは神の正義は満足しません。赦すべからざるものを、何に根拠もなる「まあいいよ、いいよ」という裁きをしていたら、神の正義が成り立たず、世界は壊れてしまいます。

 正義の神が私たちの罪をお赦しになる根拠は、神の御子イエスが聖なる神の怒りをなだめる「なだめの供え物」となられたことです。

3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。

 イエス様は、あの十字架の上で、その一身に私たちの罪に対する神の聖なる怒りを受けてくださいました。神の怒りを受け止めて、神の怒りをなだめてくださったのです。二千年前、神の御子イエス・キリストは、あの十字架の上で私たちのために苦しみ、私たちを罪とその呪いから救い出してくださいました。

 まとめます。

 神は私たち罪人を赦す動機はなにか?神の恵みです。

 正義の神が私たちを赦す根拠はなにか?御子イエスのなだめの供え物です。

 この神の赦しを受け取る手段はなにか?私たちがイエスを信じる信仰です。

結び

 万物の創造主は生きておられます。私たちはこのお方に、この世にあっていのちを与えられて日々生かされています。このお方にどのように応答するのかが問われるのです。

 救いの道と滅びの道が、あなたの目の前に用意されています。

 滅びの道とは、神の前での自分の罪を認めず、差し出された救い主イエス様を拒み、神の聖なる怒りを受けることです。

 救いの道は、神の前における自分の罪を認めて、イエス・キリストを私の救い主として、信じることです。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」