水草牧師の説教庫

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神の国の福音

マルコ1章14-20節

2016年4月24日 苫小牧主日礼拝

 

1:14 ヨハネが捕らえられて後、イエスガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。

 1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。

 

 イエス様は弟子たちに「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」とおっしゃいました。その漁師の網である「神の国の福音」についてお話します。

 

1 神の国の福音

 

(1)福音

 バプテスマのヨハネが捕らえられました。領主ヘロデ・アンテパスの姦通罪をおおっぴらに厳しく糾弾したことに対して、報復されたのです。神の救いのご計画という観点からいうならば、ヨハネが捕らえられ、そのキリストの到来を予告する活動が止められたことは、旧約時代が終わって、キリストの時代の到来したことを意味しています。

 主イエスは、神の国の福音を宣言しました。「時が満ち、神の国は近くなった、悔い改めて福音を信じなさい。」

 ところで「福音」とはなんでしょうか。福音とはeuangelion良いeu知らせangelionです。多くのクリスチャンは福音とはなんですか?と聞かれると、「イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死んで三日目によみがえって、私たちに罪のゆるし、永遠のいのちをくださった、という知らせです」と答えるでしょう。正解です。ヨハネ3章16節、1コリント15章に書かれているとおりです。「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」すばらしい知らせ、まさに福音です。

けれども、福音はさらに縮めることができます。実際、イエス様が「悔い改めて福音を信じなさい」と宣言したとき、「私はこれからあなたがたの罪のために十字架にかかって死んで三日目によみがえります」と説明したでしょうか。いいえ。イエス様が神の国の福音を宣言なさったとき、その内容として語られたことは、「神が約束された救い主は、このわたしです。」ということです。福音とは、イエス・キリストです。

私たちはイエス様がどのようにして信じる私たちをお救いくださるのか、その方法を厳密に知らなくても、「イエス様、私を救ってください。」と心から叫ぶなら救っていただけます。救うのは生きているイエス様ですから。「主の御名を呼ぶものは誰でも救われる」とあるとおりです。もちろん、主イエスが、私たちを愛し、そのいのちを十字架上で捨ててまで私たちの罪を償ってよみがえってくださったということを知れば、ますます確信は深まるのですから、そうしたことを学ぶのは有益なことですが、あえて「最小限このことだけ」と福音のエッセンスを言えば、「主イエスを信じなさい」だけです。ピリピの牢屋で今まさに自分の首に剣をあてて自殺しようとする看守が、「どのようにしたら救われるのでしょうか」とパウロに問うたとき、パウロは「主イエスを信じなさい。」と答えたでしょう。福音とは主イエスです。

 

2 王の支配

 

(1)神の国

では、主イエスが宣言された「神の国は近づいた」とはどういう事態でしょうか。 「国basileia」とは王国という意味です。ですから、「神の国」とは、神の王的支配ということです。「神が王として支配してくださるときが近づいた。だから、悔い改めてイエス・キリストを信じなさい」ということです。

「御国が来ますように」と私たちはいつも祈ります。そして、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈ります。みこころが地で行われること、つまり、神のご支配が実現することが「神の国が来る」ということです。

アダムの堕落以来、地には悪い力が働いていて、神の御心がなり、神の支配がなされることを邪魔しています。悪い力とは、悪魔と世と肉です。悪魔とは神様に背いた天使、古い蛇のことです。世とは、神様に背を向け、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢をすべてとする世的な価値観です、そして、肉とは私たちの内側にあって神に背こうとするアダム以来の堕落した利己的な性質のことです。そういう妨害にもかかわらず、「神のみこころが成りますように、神のご支配、神の国がきますように」と私たちは祈るのです。

 

(2)みこころが成る、御国が来るとは

では「神の支配が来る」すなわち「みこころが成る」とはどういうことでしょう。「みこころ」とはなんでしょうか?有限な人間に無限の神のみこころがわかるわけがないというのは、一つの見識です。しかし、聖書は有限な人間にも知ってよいこととして、神が私たちにみこころを教えてくださいました。とはいえ、こんな分厚い聖書、どのように神のみこころを知ることができるでしょう。

エス様は、神のみこころの要点を律法学者との問答において明らかにしてくださいました。マルコ12:28-31

12:28 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」

 12:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。 12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

 12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

要するに、神のみこころが成る、神の支配(王国)が来るとは、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』というご命令と『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』というご命令が実現される状態を意味しています。神への愛と隣人愛とが実行される場、その中核は教会という礼拝共同体ですから、福音書のなかでは、教会と神の国が同じ意味で使われているところもあります。「神の国あなたがたのただ中にある」(ルカ17:21)と主イエスはおっしゃいました。主イエスが来られ、神を愛したがいを愛し合う群れが誕生したら、そこに神の国はあるのです。教会にはいろいろ欠けがあります。世間の人の教会に対する基準は厳しいものがあります。でも、それでも教会には神の国があります。私はかつて、神を知らずにむなしいところを生きていました。十九のときはじめて教会に行って、この世にまことの神を愛し互いのために祈りあう、そういう人々がいるのだ、と驚きました。神の国はあなたがたのただ中にある」のです。

また、教会の中だけでなく、私たちの家庭に、社会に、この職場に、地域に、この国に、この世界に、神を愛する愛と、隣人を自分自身のように愛する愛が実現していくときに、「神の国がそこに来ている。そこにみこころが成っていく」ということができるわけです。

個人生活についていえば、「御国が来ますように。みこころがなりますように。」と祈るとき、「私は心を尽くしてあなたを愛します。あなたがくださった、この夫、この妻、この父、この母、この兄弟を愛します。困っている隣人を愛します。」という決心をするのです。ですから、主の祈りにおいては、「私たちの日ごとの糧を与えてください」と自分の空腹だけでなく隣人の空腹のためにも祈り、また、「私に負い目のある人を赦します」という決心をするのです。私が、他の人々の幸せを祈り、他の人々の自分に対する負い目をゆるすとき、神の国はそこに来ていて、また、みこころが地に成っているのです。

 

3 悔い改めて福音を信じなさい

 

でも、決心し頑張ったら実行できるなら苦労はありません。頑張って実行できるなら、律法で十分でしょう。頑張ってもできないからこそ、神様は私たちに福音であるイエス様をくださいました。

 

(1)悔い改めて福音を

主イエスは「悔い改めて福音を信じなさい」とお命じになりました。自分がどんなに頑張り努力しても実を結べないことを認めて、つまり、神様が恵みによってくださった救い主キリストを信じなさいということです。人は、アダムが堕落して以来、みな自力救済主義者となってしまいました。自分の努力、自分の頑張りで、道徳を、神の戒めを守って、自分の義を立てることが出来るという風に思うようになったのです。アダムが巻いたイチジクの葉っぱの腰覆いは、その象徴です。いちぢくの葉っぱでも、ほんの少しの間は己の恥を隠すことができましょうけれども、数時間もすればそれはしおれて枯れてしまうものです。同じように、私たちも頑張れば、しばらくの間は、あの罪、この罪を犯さないことができますが、しばらくするとまた同じ罪をおかします。人間の努力による自力救済の試みもそのようなものです。パウロは「むさぼってはならない」という罪が入ってきたとき、自分はつくづく罪人だなあとわかって、神様の前に降参したと告白しています。

悔い改め、方向転換が必要です。自分の頑張りで神の前に自分の義を立てるのではなく、キリストにある神の恵みを受け取るという方向転換をするのです。「私はお手上げです。降参です。救い主イエス様を信じます。」と神様に申し上げるのです。「私はだめな人間です。あなたの戒めを守れないのです。決定的に罪があるのです。あなたの恵みによるほか、救われようがありません。イエス様を信じます。感謝します。」という生き方への転換です。自力から恵みへ、頑張りから感謝へと転換するのです。

 

(2)「すでに」と「いまだ」の間に生きる

エス様は、「御国がきますように」と祈るように教えてくださりながら、もう一方で「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)とも教えてくださいました。つまり、私たちは、神の国の「すでに」と「いまだ」の間に生きている者です。

すでにキリストが来られ、キリストが勝利をえてくださいました。しかし、キリストのご支配は私たちの生活のうちで、社会の中で、まだ完遂されているわけではありません。日々、自分の自己中心の性質と、この世と、サタンとの戦いがあります。完全な御国の到来は主イエスの再臨のときです。

しかし、そうして日々「御国がきますように」と祈りつつ、私たちの生活を日々主のご支配にゆだねていくとき、あなたの周りにだんだんと神の国が拡大していくのです。

あなたの時の使いかたを、神の国の民らしく整えるなら、あなたの周りに神の国が実現していきます。あなたのお金の使い方を、神を愛し隣人を自分自身のように愛するために用いるなら、そこに神の国はひろがります。あなたの隣人に対する態度と言葉を、神を愛し隣人を愛することばとするなら、そこに神の国は来ています。あなたの住む地域社会、この国において、神への愛と隣人への愛が実現するとき、御国はひろがっていくのです。

生活の全領域に、神様を愛し、隣人を自分自身のように愛する選択をしていきましょう。そこに神の国は広がってゆきます。そうしながら、主イエスが再びおいでになって、御国が来ますようにと祈り続けるのです

 

神の国が来るためには、贖罪的生き方をすることが大事なんだ」と広瀬薫先生という友人がよく話をします。贖罪的生き方とはどんな生き方を意味するのか?と私は彼に聞きました。すると、広瀬先生はちょっと考えて、「人が捨てたごみを、それはあいつが捨てたのだから、あいつの責任だと放っておくのではなくて、自分のごみとして拾うという生き方だよ。と教えてくれました。イエス様は私たちの罪をご覧になって、それはお前の罪だ、お前が地獄でその罰を受けなさいとおっしゃらないで、まるで自分の罪であるかのようにして十字架で背負ってくださった。あのことに倣うんだよ。」と。

そうして生きていくときに、あなたの周りにも、神の国がひろがって行くのです。新しい一週間に歩みだします。あなたの周りにも神の国がきますように。