水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

安息日の目的  (第四戒)

出エジプト記20:8‐11

 

8**,安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。**

9**,六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。**

10**,七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。**

11**,それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

 

序  十戒の第4番目が「安息日」の定めであり、十戒を前半を神への愛、後半を隣人への愛と区別するならば、前半の最後の戒めとなります。

 「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」という「聖なるものとする」というのは、神の所有されるものとして分ける、区別するという意味です。広い意味では、神様が万物を造られ、7日間すべてを造られたのですから、7日間すべては神様のものなのです。しかし、その7日間の中で一日は特別の意味で神様のものなのだということです。だから、他の日から区別して格別大事にしなさいということです。

 では、どのように区別するのか。

 

 

1 六日間働いて

 

 週一日を働かないで聖別するためには、あとの6日間働く必要があります。日本は労働を尊ぶ文化ですが、世界の多くの国々では労働をいやしいもの、できればしないで済ませたいものとするものがあります。地中海文明では、労働は奴隷のすることであり、自由人は哲学・芸術・戦争をするものだとされていました。、ギリシャ語ではポロス、ラテン語ではラボール、フランス語ではトラバーユ、英語ではレイバーというのは、みな労働という意味とともに苦役という意味があります。

 労働は苦役だと考える人たちは、エデンの園について誤解をしています。エデンの園でアダムとイブはゴロゴロしていても食べていけたけれども、園から追い出されて働かなければならなくなったという誤解です。実際には、創世記1章と2章の人間の堕落前に、神様は人間に労働を命じていらしゃいます。

2:15 神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。

 神が6日間働いて万物を創造なさったように、本来、神の似姿として造られた人間が、神に倣って6日間働いて世界を管理するという素晴らしく光栄な務めなのです。仕事はあらずもがなの苦役ではありません。

11**,それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

 

 

 ただし、聖書は労働のもう一面をも述べています。創世記3章です。アダムが神に背いた時から、本来祝福であった労働に苦しみが加えられました。

3:18**,大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。**

19**,あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。

 

 仕事をすることによって、私たちは気持ちよく生きがいを感じることができますが、反面、仕事によってストレスを抱えて体を壊してしまうということもあります。本来、祝福であった労働に、呪いが加わったのです。

 

2 安息日の目的

 

(1)神に生かされて生きていることを思い出す

 こうした苦役となった労働から解放され、神のかたちに造られた者として本当の意味での労働をするためには、安息日が有効です。私たちは働きづめに働いていると、いつの間にか、自分の力で自分は生きているのだというふうに傲慢になります。また、くたびれてしまいます。

 しかし、七日間に一度、神の前に休み、神に感謝をささげて神を賛美するとき、神様に生かされて私は生きているんだということを実感して、神様に感謝することができます。神様に栄光をお返しすることができます。何のために生きているのか、何のために働いているのかということを思い起こして、正気に返ります。

 人間は、すぐに神でないものを神として祭り上げる恐れがあります。仕事中毒は、仕事を偶像化しているのです。仕事は神の賜物であり祝福ですけれども、どんなによい賜物も、それ自体を絶対化してしまえば、それは偶像崇拝です。偶像崇拝者は、結局は悲惨なことになってしまいます。たとえば仕事に打ち込みすぎて、からだを壊したり、夫婦関係をなおざりにして家庭を壊したり、果ては過労死したりするのです。仕事を偶像化してはなりません。

 安息日を聖なるものとすることによって、仕事崇拝・仕事中毒という悪魔の罠を逃れて、仕事の主人として自由になることができます。

 

(2)神を愛する

 では安息日に何をするのでしょうか。どのように安息日を過ごすべきでしょうか。二つのことが書かれています。一つは、神を愛すること、一つは隣人を愛することです。

 安息日は、神が所有する特別な日、聖なる神の所有なさる日であることをわきまえて、神様に悔い改め、礼拝、賛美しましょう。教会に集い、聖書を開き、賛美をささげ、感謝のささげものをするのです。

 (3)隣人を愛する

 安息日の定めには、10節に「あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も 」と書かれています。安息日は、あなた自身や家族だけでなく、当時は家畜のように好き勝手に働かせるのが当たり前とされていた人々にも、休みが与えられる日なのです。それは、「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ」にかなったことです。

 そういう神への愛と隣人愛の日ですから、安息日は、日ごろ、仕事にかまけてお見舞いに行くことのできない病人を見舞いに行ったり、友人や親に手紙を書いたり、その人のために祈ったりして過ごすことがふさわしいのです。

 (4)人間=神の似姿の回復

  仕事ばかりして、仕事が偶像になると、人は神を忘れ、隣人を忘れてしまいます。そして、非人間化してまいます。神のかたちに造られた存在である人間ですから、神のかたちにふさわしく生きるものでありたいものです。

 安息日は人間回復の日です。神の似姿として造られた人間が神の似姿を回復するのです。けれどもイエス様の時代、その安息日を偶像化するようになってしまった人々がいました。安息日に「してはいけない仕事」とは何だろうということで、安息日にしてはいけない仕事の定義を山ほど上げました。安息日は、それで窒息日のようになって、本来の意義を失ってしまいました。

 私たちは安息日を消極的に「しない日」でなく「神を愛し隣人を愛する日」として受けとめることが大切です。

 

3 週の第一日に移された

 

 ユダヤ人たちは安息日安息日は旧約時代には、週の終わりの日でしたが、新約時代には週の初めの日に移されました。それは、イエス様の復活を記念のためです。

ヨハネ20章

 1**,さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。

 19**,その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」

 

 旧約時代、聖なる出来事は週の終わりの日に起こると相場が決まっていましたから、主イエスが週の初めの日をお選びになって復活し、週の初めの日を選んで、弟子たちに現れたことは意外なことだったので、特筆されています。そうして、キリスト教会では週の初めの日に、神の前に集うようになっていきました。

 

結び

 私たちは神に似せて造られた者です。

 神が6日間、しっかり働いて万物を造られたように私たちも神に倣って6日間誠実に働きましょう。

 神が週の一日は安息日とされたように、そして、主の日に復活されたように、私たちも週に一日、主の日に神の前で休みましょう。神を愛し、隣人を愛する聖別された日として、この安息日を過ごすのです。

 こうして、神の似姿、神の御子の似姿が私たちのうちにも回復されてゆきます。