水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

キリストの権威

マルコ1:21-28

 

2016年4月15日 苫小牧主日礼拝

 

1 安息日、カペナウムの会堂で

 

1:21 それから、一行はカペナウムに入った。そしてすぐに、イエス安息日に会堂に入って教えられた。

 主イエスガリラヤでの宣教活動の中心はカペナウムでした。湖に臨むガリラヤの中心地でした。主イエスは、この地を拠点としてガリラヤ全土、湖の向こうのゲラサ人の地、また、北方のツロ、シドンといった地域でその3年間の公生涯のほとんどをすごされました。安息日、このカペナウムの会堂に主イエスは出かけられました。

 安息日というのは、天地の創造において、神が万物を6日間で創造した後の一日休まれたという創世記1章の出来事を起源としています。人間は、神の御子の似姿として造られた存在として、神が七日目に休まれたように、休むというのです。安息日は、人間が神の似姿として人間らしく生きていくために、神が定めてくださったたいせつな日です。安息日に休みを取らなければ、人間は人間らしさを失っていってしまいます。

 人間が人間らしく生きるというのはどういうことか?それは、人間が造り主である神を愛し、その神が自分を愛してくださったように隣人を愛するという生き方をすることです。人間は神を愛し隣人を愛する者として造られましたから、そのように生きるとき、人間は人間らしくなることができます。そういう安息日ですから、主イエスは、いつものように会堂に礼拝に出かけてゆかれました。

 主イエスは、安息日のほんとうの守り方について、この後、ユダヤの宗教家たちと対立していくことになります。それは人間を非人間化するような安息日に関する誤解との戦いであったともいえるでしょう。

 

2 権威ある教え

 

 しかし、この日は特別の日でした。イエス様がカペナウムで初めて公の伝道生涯をスタートする、その日であったからです。私は東京都渋谷の会堂(シナゴーグ)に出かけたことがあります。シナゴーグでの礼拝というのは、律法の朗読と詩篇を歌うことにほとんどが費やされます。というのは、エルサレム神殿とちがって、そこには神殿的な施設・調度品というものがまったくなくて、律法と詩篇を朗読するのは、その群れの長老さんのような立場の人々であるらしく、しっかりと訓練されて朗々とみことばを読んでいました。

 律法の教師であるラビが来ると、会堂の管理人は彼を説教壇に立たせることができます。主イエスはそのようなお立場でこの日、説教壇に立ったわけです。具体的なその説教の内容はここにしるされてはいませんが、

 1:22 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

 と書かれています。

 「権威ある者のように教える」とはどういう意味でしょう?単にどうどうとしているというようなことではありません。声がでっかい、態度がでかいということではありません。当時の律法の先生たちは、権威ない者のようにおしえたのです。つまり、「律法には、かくかくしかじかという戒めがあります。この解釈として、高名なラビホニャララは、このように解き明かします。また、別の高名なラビホニョロロは、あのように説明しています。われわれとしては~」というふうのです。

 ところが、主イエスは大胆にも、そういういわゆる権威あるラビたちのことばを引用してどうのこうのという議論をなさいませんでした。いえ、それどころではありません。モーセの律法を重んじつつも、モーセの律法を越えた権威がご自分にあることをしばしばほのめかすような話し方をなさったのです。たとえば、マタイ福音書の山上の垂訓を見て見ましょう。マタイ福音書5章です。

 

 5:21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 

5:27 『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

 

5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

 

 二重括弧の中はモーセの律法とそれに主イエス当時の権威あるラビたちの解釈を含んだ教えです。「しかし、わたしはあなたがたに言います。」と主イエスはおっしゃいます。ラビはともかく、モーセの言葉の権威とはつまり神のことばである旧約聖書の権威です。それに対して、「しかし、わたしはあなたがたに言います。」というのです。これは実に驚くべきことです。人間には許されないことばです。もし、私が「聖書はこのように教えている。しかし、わたしは言う・・・」と言ったら、それは人間としての分をわきまえない偽教師です。すぐに説教壇からひきずりおろさねばなりません。

 主イエスがおっしゃりたいのはこういうことです。「わたしはかつてはモーセを通して、『殺してはならない』と教えたけれど、この新しい時代にあって、わたしは新たな教え、またその正しい解釈を伝えよう。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」ということです。 また、「わたしは旧約時代においては、『姦淫してはならない』とだけ教えたが、その真意は、誰でも情欲をもって女を見るものはすでに姦淫を犯したのだ」

 つまり、主イエスは、ご自分の口から出ることばは、神のことばとしての権威を持っていることを自覚しておられたのです。そして、旧約時代の人々から、今や新約時代における神のことばをあなたがたに語ろうとおっしゃっているのです。

 その場にいた人々は非常に驚きました。驚きましたが、なぜイエスがそこまでの権威をもった教え方をなさるのかは、この段階においてはよくわかっていなかったようです。もし、わかっていたならば、ただではすまなかったのです。イエスの教えかたは、自らを神と等しくする教え方だったからです。

 

3 主イエスの権威

 

 皮肉なことですが、主イエスの神としての権威をその場にいた人間たちよりもはるかによく知っている者が、そこにいました。悪霊です。悪霊というのは、自らいと高き方のようになろうと思い上がって堕落した天使の一群のなかの下級の霊たちのことです。そのボスはサタンとか悪魔と呼ばれます。彼らは、人間が知っているよりも霊の世界のことを善く知っていますから、当然、イエスが神の御子キリストであることを知っているのです。知っているのですが、決して、悔い改めることをしないで、神に敵対する者たちです。

 1:23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。

 1:24 「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」

 主イエスの宣教の初期には、このような悪霊による攻撃がしばしば見られます。後半になってくると、イエスに敵対する者たちはむしろ律法学者、パリサイ人たちに変わって行きます。

 現代の日本では比較的悪霊の働きは表面的には見えませんが、インドネシア、フィリピン、タイなどに派遣された宣教師たちは、あからさまな悪霊の攻撃という不思議な現象を体験したことを聞かせてくれることがあります。恐らく現代日本では合理主義とか唯物主義とかをもって、悪魔は日本人の目をふさいでしまうのが得策であると考えているのでしょう。

 C.S.ルイスが『悪魔の手紙』という書物の巻頭に書いているのですが、「悪魔は二種類の人々を歓迎する。ひとつは、悪魔に不必要なまでに深い関心を持つ人々である。もうひとつは、悪魔などいないという人々である。悪魔は、魔法使いと無神論者を大歓迎するのだ。」ですから、私たちは聖書が教えるところまで悪魔についての知識を得るべきですが、それ以上に悪魔に変に興味をもつべきではありません。

日本で言うと、私くらいの世代までは啓蒙主義・唯物主義の影響の強い世代であると思いますが、かつて新人類と呼ばれた世代から以降は、むしろ占いとかオカルトなどに心開く世代となっています。唯物主義にも、魔術的なものも、悪魔の罠です。私たちは聖書に立たねば欺かれます。

 

 さて、主イエスに叫んだのは悪霊に取り付かれた、いわゆる憑依された人でした。日本で昔からいう「犬つき」とか「きつねつき」と呼ばれる憑依現象です。今日でも占いと降神術とかいった今風に言えばチャネリングなどオカルティズムにこると、悪霊によってこういう症状を呈する人々がいます。非常に危険なものです。

 主イエスは悪霊をただちにしかりつけて黙らせて、彼から追放してしまいました。

 1:25 イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。

 1:26 すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。

 私たち不通のクリスチャンが行う悪霊追放のわざの場合、「黙れ、この人から出て行け」と言っても、悪霊は決して出てゆきません。「イエス・キリストの御名によって命じる。黙れ、この人から出て行け」と言って追い出すのです。悪霊はたとえば私が命じても、「なんでおまえの言うことなど聞く必要があるのか」としか答えません。しかし、ナザレのイエス・キリストの御名に権威があるからです。これは世界中共通していることです。主イエスは、国籍も文化も超えて、お方です。アメリカでの悪霊も、インドネシアでも、アフリカでも世界中あらゆるところにおいて、悪霊どもは、主イエス・キリストの権威ある御名には聞き従わざるを得ないのです。天においても地においても、主イエスに一切の権威が与えられているのです。

 こうしてイエスの評判はたちまち広がりました。

 1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」

 1:28 こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。

 

結び キリストの権威

 きょうは、主イエス・キリストが神としての権威、父なる神と等しい権威をもつお方であることをみことばから学びました。

①第一に、主イエスは、ご自分の教えが旧約聖書に等しい権威があることをご存知でした。今や新しい時代が訪れたから、旧約時代に勝る福音の時代の教えをなさったのです。

エホバの証人や、この世の影響を受けた神学者や聖書学者と呼ばれる人々は、なんとかしてイエスをただの愛の人だとか宗教家だとか考えたがるのです。けれども、主イエスはご自分が神の御子であり、神からいっさいの権威をさずかっていることを自覚なさっていました。私たちは、イエス様を神とひとしい権威あるお方として礼拝します。

「わたしには、天においても地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28:18)

 

②キリストが神性をおびた聖なるお方です。図らずも悪霊がそのことを証言してくれました。悪魔と悪霊たちは、キリストの権威を前にして恐れおののいています」。おののきながら反発しています。つまり、神と悪魔は対立しているわけではありません。そういうのを二元論といいます。聖書は二元論は教えません。聖書は、悪魔さえも神の支配のもとに置かれているのです。イエス・キリストの御名には、民族文化国語を超えて権威があります。今悪魔の活動を許容していらっしゃるとしても、最終的にはそうした悪魔の仕業さえも善用なさるのです。

 

 私たちは、これほど偉大なお方を、主としていただいているのです。そのことをどれほど実感しているでしょうか。私たちのいのちは、主イエスの御手の中にあります。主の許しがなければ、悪魔さえも私たちに手出しすることはできません。どんな試練も死さえも、いかなるものも、主の御手から私たちを奪い去ることができるものはありません。

 私たちの人生には照る日も曇る日も嵐の日も、あるでしょう。教会の歩みでもそうです。今、嵐の中にあるという思いの方もいるかもしれません。けれど、キリストは権威をもって、悪魔の仕業をうちこわし、そして、勝利を収めてくださいました。

 

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」ヨハネ16章33節