水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

さあ、主の家に!

詩篇122

                                                                               

 

都上りの歌。ダビデによる

 

 122:1 人々が私に、

  「さあ、【主】の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。

 122:2 エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。

 122:3 エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。

 122:4 そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。

  イスラエルのあかしとして、【主】の御名に感謝するために。

 122:5 そこには、さばきの座、ダビデの家の王座があったからだ。

 122:6 エルサレムの平和のために祈れ。

  「おまえを愛する人々が栄えるように。

 122:7 おまえの城壁のうちには、平和があるように。

  おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」

 122:8 私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。

  「おまえのうちに平和があるように。」

 122:9 私たちの神、【主】の家のために、

  私は、おまえの繁栄を求めよう。

 

 

 お読みした詩篇122篇は今年の元旦礼拝でともに味わった箇所です。元旦礼拝に参加された兄弟姉妹にとっては、今年二回目のメッセージということになります。それでも、どうしてももう一度話すべきだと導かれたのは、教会総会に先立って、2018年度の目標のみことばとして与えられたその意味を確かめるためです。説教原稿はもちろん新たに準備しなおしました。またこの二か月、詩篇122篇をともに歌って過ごしてきました。

 旧約時代におけるエルサレムと神の家である神殿は、新約時代における教会を指さしています。

Ⅰテモテ 3:15. 「それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」 

この一編をそのように味わってまいりたいと思うのです。

 

1.さあ、主の家に!

 

 さて、詩篇は120篇から134篇まで「都上りの歌」と表題が付けられています。神の家、エルサレム神殿に詣でた巡礼たちをイメージして、これらは編まれています。120篇は遠く異郷ケダル・メシェクにあっての神の都エルサレムへの望郷の叫びでした(120:5,6)。メシェクというのは、黒海カスピ海の間の地域で、初場所で優勝した栃ノ心のふるさとジョージアあたりです。ケダルは小アジア半島の北部。これらの地にから巡礼が都エルサレムへと上っていくという設定です。

 次に詩篇121編は「私は高い山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは天地を造られた主からくる」と始まる有名な一篇です。これはエルサレムに上っていく巡礼の荒野の旅路で、前途に立ちはだかる岩山を見上げての歌でした。そして、本日の122編。これは巡礼者が、いよいよ都に入った感激の場面です。

 

 都エルサレムは山の上にあります。その山は、父祖アブラハムがひとり子イサクを捧げたというあの山です。祭りのシーズンになると世界から集まってくる巡礼者が多すぎて、到底エルサレムの城壁内の宿屋では収容しきれません。そこで、当時巡礼たちは、そのふもとにテントを張って一夜の宿を取りました。

 そして、まだ夜が明けそめる前に、床から起き出てきます。遠足の朝みたいです。とても夜明までは待って居られません。はるか異郷の地で夢にまで見た神の都エルサレムです。巡礼たちは粛々と旅装を整えますが、胸のうちからは喜びが湧きあがってきます。そして、サンダルのひもを結んで、「さあ。主の家に参りましょう!」となります。

1節。人々が私に、「さあ。主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。

 

<適用>

 二千年、いや三千年、今日までこの巡礼者たちの喜びは、繰り返されてきました。キリストの時代が来たって、主の家は教会となりました。 主の日の朝ごとに、私たちはたがいに声をかけ合いましょう。「おはようございます。さあ。主の家に参りましょう!」「『いざ、主の家にぞわれら行かん』と人々いうとき、われ喜びぬ。」です。

 メシェクとトバルではありませんが、この異郷国日本にあって、まことの神を知らぬ人々に囲まれた生活の中で、キリストを信じる者として緊張を強いられた日々の中、ああ、神の家に行きたいと思ったことが何度あったことでしょう。主の日の礼拝の朝。「さあ、主の家に参りましょう!」と玄関から聞こえる声のなんと喜ばしいこと!

 

2.教会、信仰告白「よくまとめられた町」

 

(1)エルサレムの門で

 巡礼たちは、一気に、エルサレムの丘を押し登り、すでに門のうちです。

2節「エルサレムよ。私たちの足は、お前の門のうちに立っている。」

 ここにいう「立っている」は、「立ち続けている」「立ち尽くしている」という意味のことばのかたちです(Qal,オーメドート、アマドの分詞) 。巡礼たちは、門に入ると感激のあまり、目を瞠り、そこに立ち尽くしているのです。異郷での戦いが厳しく旅路の苦労がたいへんだったからこそ、なおのこと神の都の門に立ちえた喜びが大きいのです。

 一週のこの世での戦いを終えて、教会の門に立つとき、こんな感動をもつ。この世での戦いが熾烈であったればこそ、今ここに立つことの感動も深いのです。

 「エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。」主の日が来るごとに、こんな感動をもって教会の玄関を潜るものでありたいと思います。

 

(2)よくまとめられた町

 さて巡礼の目は、目の前に広がるエルサレムをながめてほうっと息をつきます。旅してきた岩がごろごろした荒野とは、なんという違いでしょう。行き交う人々の生き生きとしたありさま、軒を連ねる家々。荒れ地を長旅をしてきた巡礼にとっては、エルサレムの光景は新鮮です。

3節。「エルサレム。それはよくまとまられた町として建てられている。」

 「よくまとめられた」というのは英語の訳ではコンパクトです。バビロンのような巨大な威容はないけれど、小ぶりだけれどよく秩序だった美しい街の姿です。キリストの教会には、この世とは違った「よくまとめられた町」として一つのコンパクトな聖なる秩序があるはずです。使徒は言いました。「ただすべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい。」(1コリント14:40)それは、この世のように権力と剣による秩序ではなく、神を恐れ神を愛する者のうちにある、御霊の一致による秩序、信仰告白の一致による調和です。神の教会には、そういう「よくまとめられた」姿です。自由と言って放縦に走らず、秩序といって形式主義に陥らない神の家の姿です。それが、神を恐れ、神を愛する者たちの教会のありかたです。

 

3.礼拝=神の民の証

 

 しばし門に立ち尽くし、町を眺めていた巡礼は、今度は門を出入りする往来見回します。すると、自分と同じような巡礼者の波が、続々と門をくぐって行くいくことにあらためて気付きます。それぞれの言葉や身なりで、ああはるばるやって来た老若男女なのだと分かります。自分たちと同じように北方からやって来たであろう色白の人々もいれば、アフリカかアラビアから来たのであろう日焼けした人々もいます。若い人もいれば、年とった人々もいます。子供、男、女、貧しい身なりの人、立派な身なりの人、遠くから近くから各地から、各様にこの都エルサレムに、集ってきたのです。

  身なりも、言葉も、男女も、年令も、色々様々だけれど、目指してきた所は一つです。それは、「神の民イスラエルのあかしとして、主の御名に感謝するため」です。「ことばに色に違いあれど、御民のおがむ主ひとりなり」です。礼拝を捧げるためです。そうです。礼拝こそ、イスラエルが神の民であるということのなによりのあかしなのでした

4節。「そこに、多くの部族、主の部族が、登ってくる。イスラエルのあかしとして、主の御名に感謝するために。」

 

<適用>                                                                    

 新しいエルサレムである教会。集う者たちも様々です。年寄りも居れば、中年もいる、若者も、幼子もいる。男も女も、富むものも貧しいものも、日本人も、アメリカ人も、韓国人も、モンゴル人も、中国人も、マレーシア人も、キリストにあっては一つの神の家族です。まさしく「ことばに色に違いあれど、み民のおがむ主ひとりなり」です。聖なる公同の教会です。

 私たちは、なぜ主の日ごとに教会につどうのか。それは、神の民としてのあかしのため、主の御名に感謝するためです。礼拝するためです。そうです、礼拝こそ、私は神の民ですという何よりのあかしなのでした。この世では目にも留められないような小さな存在であったとしても、天地の主を礼拝するということ、これこそクリスチャンのクリスチャンたるしるしです。クリスチャンとはまことの神を礼拝する民のことです。

 そして、私たちが、一つ所に集い、神を心から喜び、神を感謝している姿。そこに、この世の人々は「神は生きておられる」というあかしを見るのです。肉による家族や世の人々を相手に、どんな「キリスト教弁証論」をこねるより、あなたが神の民の中で、まことの神を礼拝することにいのちをかけ、そのことで感謝に満ちている。その姿を見る人は、あの教会の集いのうちには、この世にはないなにか素晴らしいもの、なにか不思議なものがある、神は生きておられると、認めるのです。

 

4.ダビデの王座

 

 また、都エルサレムは神礼拝の中心であると同時に、地方では裁き切れない問題が持ちこまれて、ここで賢明な決裁のなされる場でした。エルサレムには、王の座があり、その裁定がなされたのです。旧約聖書にソロモン王のもとにひとりの赤ちゃんをめぐって裁きを求めて来た二人のやもめの姿が描かれている記事があるでしょう。父ダビデの王座についたソロモンは見事な裁きをなしました。

5節。「そこには、さばきの座、ダビデの家の王座があったからだ。」 

<適用> 

 この世の生活で、職場のこと、家庭のこと、地域のことで多くの問題をかかえ、解決のできないことに苦悶しているなかで、一週を過ごして後に迎えた主の日の朝。ところが、その悩みが、礼拝で主を見上げ、御言葉に耳を傾けているうちに、嘘のように解決していた、そういう経験があるでしょう。教会にはまことの王であるキリストのみ座があるからです。説教者が聖書といういのちのことばを忠実に説き明かすとき、不思議に生けるキリストが、私たちの心を照らし、私たちの悩みを氷解させるのです。

 

5.神の家のために祈ろう

 

 こうして後半は巡礼たちの都のための祈り、都の人々のための祈りと祝福へと展開してゆきます。

 エルサレムとは、「神の平和」という意味です。神の都はすべからく平和の都であるのです。また、そうあるようにと巡礼たちは祈ります。国民全体の平和と繁栄とは、この都エルサレムにおいて、正しい神礼拝がなされ、かつ正しい王によるさばきがなされるかどうかにかかっています。都での神礼拝が乱れ、都の王座が正しい裁きをしなくなるならば、国民全体が乱れ、罪に陥り、神の怒りを被ることにもなりましょう。ですから、都を訪れた巡礼たちは、神の民の礼拝の中心、統治の中心たるエルサレムの平和と祝福のために祈るのです。そして、都のために祈り、都を愛する者たちは神の祝福を受けて栄えるのです。

6節。「エルサレムの平和のために祈れ、

        おまえを愛する人々が栄えるように。

        おまえの城壁のうちには、平和があるように。

        おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」

<適用>

 新約の時代、私たちはエルサレムを新しいエルサレムである教会に適用して読むべきところです。もしあなたが、教会の平和と繁栄のための祈りは、その人自身の祝福となって帰ってきます。教会を愛する人は栄えるのです。私たちは洗礼のとき、あるいは転入会のとき、「教会の純潔と一致と平和のために努力することを誓います」という誓いをもって神の家族に結ばれました。

 今年、教会の平和と繁栄のためにさらに祈りましょう。奉仕者のためにさらに祈ってください。自分の生活や困難のためばかりでなく、今年もっと教会の平和と繁栄のために祈ってください。説教者がみことばに生き、みことばを語ることができるように、ぜひ祈ってください。

 

 そして、神の家である教会のうちに平和があることは、兄弟姉妹、友人の祝福にもなるのです。私人が8節で「おまえのうちに平和があるように」という「お前」はエルサレム、神の家のことです。

8節。「私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう『おまえのうちに平和があるように。』」

9節。私たちの神、【主】の家のために、

  私は、おまえの繁栄を求めよう。」

                                                                  

 私たちはさらに互いの、平和と祝福のために祈り続けるものでありたいのです。この御言葉が与えられて、今年は、もっともっと祈りを充実する年としたいと願っています。水曜日の朝夕の祈祷会が祝福されますように。また、会堂のお掃除の前後、会計、各部各委員会の前後、あらゆる機会に祈るものとなりましょう。個人の生活の中でも、聖書を開き、日々祈りましょう。自分と家族のために祈ることも大事ですが、教会のために祈りましょう。牧師が健康を守られその働きをまっとうできるためにも祈ってください。

 巡礼はその都の礼拝の中心の「主の家」のためにいのったように、私たちは礼拝の中心、教会の平和と繁栄のためにさらに祈ってください。

 

(結び)

 かくて、詩篇122編は閉じます。

私たちは、詩篇122篇を苫小牧福音教会の教会賛歌として用いたい。

七日ごとに訪れる主の日の朝ごとに、あの巡礼の感動を新たにするものでありたい。

「さあ。主の家に行こう!」とたがいに声を掛け合う者たちでありたい。

さあ、主の家に行きましょう」と家族や近所の人にも声をかける者となりたい。

私たちの感謝にあふれた礼拝が、キリストのあかしとなることを願いたい。

 

そして、教会の平和と繁栄のため、互いのため、そして、御言葉に仕える者のためさらにさらに豊かに祈る者でありたいのです。

 

 

 

詩篇歌122篇

 

いざ主の家にぞ われら行かんと 人々いうとき

われ喜びぬ ああエルサレムよ われらの足はなが門のうちに立ち続けたり

 

主のやからはみな上り来たりて イスラエルのよき証のために

主の御名に向かい感謝をささぐ かしこにダビデの御座あるゆえに

 

エルサレムのため平安祈れ なんじを愛する者らは栄え

なが垣のうちに平安ありて なが宮のうちに栄えあれかし

 

今わがはらから わが友のため 汝の安きをわれは祈らん

われらの神なる主の家のため 汝の幸いわれは求めん

 

(日本基督改革長老教会詩篇抄集』より。)

 

<注>今回の説教は、教会総会に先立っての説教でした。内容的には、小畑進牧師の都上りの歌の説教の色濃い影響を受けているなあと、われながら思います。