水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

はらわた痛むほどに

マルコ1:40-45

2016年5月29日 苫小牧福音教会朝礼拝

 

1 ツァラアトに冒されるとは

 

 主イエスがカペナウムから始まってガリラヤに伝道を始められたとき、ひとりのツァラアトに冒された人が、主のもとに近づいてきて言いました。

1:40 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」

 新改訳聖書第三版でツァラアトと訳されていることばは、第二版までは「らい病」と訳されていましたが、第三版では、いろいろと議論をした結果、旧約聖書のヘブル語のままツァラアトと記すことに変更されました。それは、聖書の記述を研究してきた結果、ツァラアトがらい病を意味していなかったことがわかってきたからです。新共同訳聖書では、「重度の皮膚病」と訳されていますから、私個人としてはそれにならうのがよかったのではないかと思っていますが、新改訳はツァラアトとしました。レビ記に「壁にツァラアトが現われる」という記述がありますから、それを皮膚病というわけには行くまいということで、重度の皮膚病という訳語が避けられたそうです。

また、壁がらい病になるわけがありませんし、ツァラアトに冒されて手が雪のように真っ白になったという記述がありますが、これもライ病の症状とは異なっていますから、ツァラアトがライ病でないことは確かなことです。そんなわけで、新改訳はツァラアトとと原文ヘブル語のまま記述することにしました。

 それはそれとして、当時、ユダヤ社会ではツァラアトにおかされることには、病気によって肉体的苦しみだけでなく、社会的にも宗教的にも苦しみがともなっていました。というのは、レビ記13章に詳しく記されていますが、このツァラアトに冒された人は宗教的にけがれたものと見なされ、礼拝に出席するため会堂に出入りすることからも、社会生活からも隔離されなければならないと定められていたからです。ツァラアトに冒されると、家族からも引き離されてしまったのです。人々は病気の感染を恐れるとともに、宗教的穢れに染まることを恐れたのでした。

 彼は社会から隔離され、家族からさえも隔離されて生活しなければなりませんでした。そして、神からも見放された者たちとして差別されたのです。人はもともと、神への愛と隣人愛の中で生きるように造られたのに、神からも人からも遠ざけられてしまい、ひとりぼっちというのはどれほどのことでしょうか。私たちクリスチャンは、かりに友人に見放され、家族にも見放されてしまうことがあっても、神さまだけはいっしょにいてくださるという望みがあるでしょう。しかし、彼は、その望みさえ失せていました。どれほど寂しかったでしょう。

 

 この人は、宗教的に汚れたものであることを自覚していましたから、言いました。「お心一つで私はきよくしていただけます。」「癒していただけます」というのでなく、「きよくしていただけます」と彼は言っています。自分は穢れている。穢れていて、人に近づくことも、神に近づくことも相応しくないような存在であると自覚しているのです。

 けれども、彼はイエスさまは、他の偉い律法学者の先生たちとは違って、自分が近づいても避けて逃げようとはなさらないし、石を投げようともなさならない。イエス様が意志してくださるならば、この私もきよくしていただけるに違いないという信仰をもって、イエス様に近づき、そして、声をかけたのでした。

 しかも、「おこころひとつで」と彼は言いました。何が何でも、是が非でもというのではなく、「主よあなたが望んでくださるならば」という主イエスの意志を信頼して委ねるという信仰をもってイエス様に申し上げたのでした。彼の肉体はツァラアトに冒されていましたが、その魂には神の前にへりくだった信仰を持っていたことがわかります。

 

2 はらわた痛むほどに

 

 ツァラアトにかかった人が近づいてきたら、当時の社会ではみなが逃げてしまいました。特に、律法学者・パリサイ人ギたちはツァラアトにかかった人を神にのろわれた者としてということ忌み嫌いました。ツァラアトの人に触れたら、自分も宗教的に穢れているとみなされてしまうからです。しかし、主イエスはひざまずく彼から逃げようとなさいませんでした。

 

(1)主イエスは「深く憐れんだ」とあります。

  1:41 イエスは深くあわれみ手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」

 1:42 すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。

 「深く憐れんだσπλαγχνισθεὶς」ということばは、「スプランクニゾマイ」ということばで、「はらわた震わされて」というスプランクとは「はらわた」という意味のことばです。スプランクニゾマイというのは、直訳すれば「はらわたする」という意味のことばです。私たちも、あまりにも深い悲しみを経験すると食事がのどを通らなくなったりします。スプランクニゾマイは、日本風、中国風に言えば「断腸の思い」です。中国の故事に昔、ある川を兵士が小舟でくだっておりましたら、岸に小猿がおりましたので、兵士たちはその小猿をつかまえて舟に載せました。ところが、それを見て血相を変えて母猿が岸辺を走って追いかけてきたのです。兵士たちは、岸をぎゃーぎゃー叫びながら追いかけてくる母猿をからかっていましたが、百里(中国の一里は400メートルだから、40000メートル、40キロメートル)も追いかけてくるので哀れになって小舟を岸につけると、母猿は舟に飛び乗り小猿に駆け寄りますがばたりと絶命してしまいました。この先が実証主義の中国らしいのですが、「いったいどうしたのか?」と兵士たちは母猿を解剖すると、母猿のはらわたがずたずたに千切れていたというのです。まさに断腸です。母猿がわが子を思うその悲しみ思いがあまりにも強かったので、その腸がずたずたになってしまったことがわかりました。深い嘆き悲しみを断腸の思いというわけです。

 イエス様は、この人を見て、彼がツァラアトという恐ろしい病を発病して以来、その病にさいなまれ、世間から差別され、愛する家族からさえも引き離されて、礼拝の場からも遠ざけられて、ひとりぼっちで生きてきた日々を思われて、はらわたの痛めるように深い深いあわれみをかけられたのでした。

 

(2)手を伸ばし、彼をさわって・・・暖かさ

 主イエスは「手を伸ばし、彼をさわった」とあります。主イエスは「光、あれ」とおっしゃって万物を創造した神のおことばご自身です。主のことばには権威があって、無から万物を造りだすことまでもできるお方です。もし、「きよくなれ」というご命令をお与えになるならば、それだけで、このツァラアトにかかった人はきよくなり、その病はいやされたはずです。こうして触る必要はなかったのです。しかし、主イエスは手を伸ばして、彼を触られたのです。

 主イエスの手にからだをふれられて、彼はびくっとしたでしょう。「けがれています。さわってはなりません。」と叫びそうになったでしょう。人の手が彼に触れたのは一体何年、何十年ぶりのことでしょう。彼の皮膚病がツァラアトであると祭司によって判明し、その宣告を受けてから、彼は母の手も妻の手も子どもの手に触れてもらうことすらできなくなっていたのです。人の手の温かみということを、ずっと忘れてしまっていた、彼のからだでした。そういう彼の悲しみに主イエスはご存知でしたから、あえて、その手を伸ばして彼のからだに触れてくださったのです。主の手がふれて暖かさが伝わってきたとき、彼のからだだけでなく、長年の寂しさに冷え切っていた魂までも暖められました。

 

3 祭司に見せなさい・・・社会的復帰・礼拝の生活への復帰

 

 男のからだがすっかりきよくなり、あかるい表情になったのをごらんになった主イエスは大事なことを二つおっしゃいました。

 ひとつは、

 1:43 そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。

 1:44 そのとき彼にこう言われた。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。

「祭司に見せよ。そして人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのそなえ物をしなさい」これは、彼の礼拝の生活・社会生活への復帰のための手続きでした。当時のユダヤ社会では、ツァラアトの診断をして宣言をする仕事は祭司が担当していましたから、彼がツァラアトから解放されたことについて宣言をすること、そのきよめられたことを確認する儀式を行うことは祭司にしてもらうことでした。ですから、「祭司に見せなさい」と主イエスは命じたのです。

主イエスのこの男性への癒しは、病気のいやし、心のいやしだけでなく、社会生活・礼拝の生活への復帰をともなうものであったのだということがよくわかります。実にこまやかな配慮に満ちた主イエスです。

 

私たち人間は、もともと神と隣人との交わりのうちに生きるものとして造られました。「人間」は人の間と書くように、孤立してでなく、神とともに生き、隣人の愛のうちに生きるものとして生きるものです。しかし、神に背いたときから、人は隣人との関係にうまく行かなくなり、自分自身ともうまく行かなくなりました。

この人に見られる主イエスの救いの業は、人間を肉体だけでなく、その本人の心の問題だけでなく、その社会的な面で、そして、なにより礼拝者としての生活の面でも、十全な意味で人間として生かしてくださるものなのだということがよくわかります。

 

4 主のみこころを悟らなかった人 

 

 最後に、主イエスは不思議な戒めを彼にお与えになったことに注目しておきたいと思います。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。」それは、彼に、ツァラアトからきよめてくださったのはイエス様であるということを誰にも言ってはならないと釘を刺されたということです。普通、たとえば病院だとか整骨院だとかだと逆でしょう。口コミでどんどん良い評判がひろがることを望むのではないでしょうか。けれども、主イエスは誰にも言うなとお命じになったのです。

 なぜでしょう?人は病気が治ったと聞けば、病気が治ることのみを求めてイエスのもとにゾロゾロと集まってくるけれども、そういう動機でイエスのもとに来る人は、それよりはるかに重要な自分の神様との関係には無関心になっているからです。肉体の病が癒されることよりもはるかに大事なことは、神様との関係の回復です。

神様なんかどうでもいいから、病気を治してくれ。病気を治してくれたら、神様がいると信じてやってもいい、という傲慢不遜な人々がいるものです。イエス様は、そういう人々がこの世には山ほどいて、そういう人々によって、福音宣教がかえって妨げられることをご存知だったのです。

 肉体の病は辛いものです。ただのぎっくり腰だって、風引きだってたいへんです。癒されるものなら癒されたいものですし、事実、主はいやしてくださいます。けれども、もっと大事なことがあります。それは、キリストの福音によって、神との関係が修復されることです。なぜなら、神との関係が修復されることがないならば、かりに一時的にからだは元気になっても、永遠のほろびに陥ってしまうからです。たとえ全世界を手に入れても、自分の永遠のいのちを損じたらなんの徳があるでしょう。

 しかし、あの男性は、イエス様のおっしゃることをちゃんと聞くことができませんでした。嬉しすぎて、この出来事を町中にいい広め始めたのです。その結果、主イエスは表立って町に入ることが出来ず福音をつたえることができませんでした。残念なことです。

 1:45 ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中に入ることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。

 男は良かれと思ったから一生懸命に宣伝して回ったのです。しかし、私たちに大事なことは善かれと思うことを一生懸命にすることではなくて、主が善いとなさることを行うことなのです。神がよしとなさらなくても、私がよしとしているのだから、それが言いのだというのは、たいへんわがままな態度です。自分がよかれと思うことでなく、神様が善しとされることをみことばに学び、実践する者となりたいと思います。

 

結び

 本日のまとめです。主はあわれみふかいお方なのだということを私たちは深く学びました。主は、誰も知らないあなたの痛みをも、ご存知でいらっしゃるのです。

 そうして、人が触れることのない、振れることを望まないような、あなたの醜くけがれたところまでも、手を触れてあなたを清くし、あなたの暗く冷え切った心に愛の暖かさを注いでくださいます。

 主よ。私を清くしてください。冷え切った私のたましいに、あなたの暖かい愛を注いでくださいと祈りましょう。

第一の使命

マルコ1:29-39

 

2016年5月22日 苫小牧主日

 

1:29 イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブヨハネを連れて、シモンとアンデレの家に入られた。 1:30 ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。 1:31 イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。

 

  1:32 夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。 1:33 こうして町中の者が戸口に集まって来た。 1:34 イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をいやし、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。

 

  1:35 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。 1:36 シモンとその仲間は、イエスを追って来て、 1:37 彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております」と言った。 1:38 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」

 1:39 こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。

 

1 安息日の過ごし方・・・神を愛し、隣人を愛する

 

 主イエスは、安息日にカペナウムの会堂での礼拝と宣教を終えると、すぐに弟子としたばかりのヤコブヨハネを連れてシモンとアンデレの家を訪問しました。ところが、シモンの家では彼の姑が床についていて、熱でうなされていたのです。

 イエス様はそれを知ると、ごく当たり前のように、彼女に近寄って手を取って起こすとたちどころに熱はひいて元気になってしまいました。元気になった姑は、これは嬉しい、これは感謝ということで、イエス様と弟子たちをもてなしたのでした。

 1:31 イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。

 イエス様にとっては、これが安息日のもっとも適切なすごし方でした。つまり、会堂に集って兄弟姉妹たちとともに神に礼拝をささげ、次に、兄弟姉妹の家を訪ねて安否を問い、もし具合が悪い人がいたら病の癒しであれなんであれ愛の行いをするということです。そもそも、神様が与えてくださったたくさんの命令の中で一番大事な命令は、

12:30『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

そして・・・

 12:31 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

この二つです。安息日は、まさにその神への愛と隣人愛を実践する日ですから、主イエスは会堂で礼拝をささげ、かつ、熱病で苦しんでいる姉妹を癒されたのでした。私たちは日ごろ、自分の生活のこと自分の仕事のことだけで汲々としていがちなものですから、神様は安息日を定めて、本来、人間が神によって造られた目的を思い起こさせてくださるのです。安息日とは、神への愛と隣人愛を具体的に表現する日です。

私は学生時代に教会に通い始めたころ、礼拝が終わると即座に帰るようにしていました。「礼拝で賛美をささげ神のことばを聞けば、それでいい。家に帰ってしなければならない勉強がある」と思っていたのです。ところがある日、私にその教会を紹介してくれた白石君が言ったのです。「水草、きょうもすぐ帰るんか。交わりも奉仕なんだよ。」私は目が開かれました。「交わりも奉仕」ということばに、です。一週間それぞれの場で生活をしてきて、久しぶりに会う主にある兄弟姉妹たちとうどんをすすりながら交わり、安否を問い合うことは、主にお仕えする奉仕なのです。

 シモンの姑は、主イエスに癒してもらって、ただちに主イエスと弟子たちをおもてなしする奉仕をしました。神の愛を受けたなら、その愛に具体的な兄弟姉妹に仕えるご奉仕をもって応答する。そういう生き方をしたいものです。私たちは、イエス様によって神様からの愛を受けましたから、その愛に応答して、神を礼拝し、兄弟姉妹の必要のために耳を傾け、具体的に愛を表わして生きていくのです。私たちもそのことを意識して、七日に一度の主の日をすごしたいものです。

 

2 砂糖にアリが群がるように

 

 さて、イエス様が熱病に苦しむシモンのしゅうとめをたちどころに癒したという噂は、カペナウムの町中にたちまちに広がってゆきました。広がってゆきましたけれども、その噂を聞いても人々はすぐにはイエス様のもとに集まっては来ませんでした。

「1:32 夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。 1:33 こうして町中の者が戸口に集まって来た。」

 「夕方になった。日が沈むと・・・」と書いてあります。町中の人々は、日が沈むのを待っていたのです。日が落ちて、イエス様と弟子たちがもうそろそろ寝る準備をしようかというときになってから、ドヤドヤとイエス様のところに人々が集まってきたのです。なぜでしょうか?この日が安息日であったからです。

 十戒の第4番目に、「安息日にはどんな仕事もしてはならない」という戒めがあります。そこで、当時、ユダヤ教当局は「何が仕事にあたるのか?」ということを厳密に検討いたしまして、千数百の「仕事」にあたる行為をリストアップしていました。そうして、そのなかに病気の治療行為も含まれていました。だから、イエス様にすぐにも病気を治して欲しいのはやまやまだけれど、ユダヤ当局の先生たちに見つかったら安息日違反として告発されるかもしれないから、それを避けようとしたのです。

 「日が沈んでから」というのは、当時、ユダヤの暦においては、日没から日没が一日であるという定めがあったので、日が落ちたら安息日は終わったからです。人々は、日が西の山の端に隠れたとたん、我先にと主イエスのところに病人や悪霊にとりつかれた人々を連れてきました。

 ちなみに、ヨーロッパの中世・近世には、すべての病気が悪霊によるものであるという極論が流行してしまいます。その後、近代の合理主義の影響によって、そもそも悪霊などというものは存在しないのだから、悪霊を原因とする疾患はないというこれまた反対の極論が流行して、今日にいたっています。人間にとって中庸というのは、とてもむずかしいことのようです。しかし、聖書はたいへんバランスがとれていて、疾患のなかには肉体的・精神的なことが原因である場合があるが、ある疾患については悪霊を原因とするものがあると教えているわけです。

 主イエスは肉体的精神的原因でもって病気になっている人々をいやしました。また、悪霊が原因で苦しんでいる人々については、彼らから悪霊を追放しました。イエス様は、肉体も精神もお造りになったお方ですから、これを治療することは容易なことです。また、悪霊はイエス様の権威の下にあるものですから、その権威をもって彼らを追い出すのも容易なことです。

「 1:34 イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をいやし、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。」

 ひとつ気になるのは、イエス様が「悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。」というのは、どういう意味であるかということです。イエス様は癒しを行っても、それが宣伝されることを好みませんでした。メシヤの秘密と言われます。理由はよくわからないのですが、少なくともここで言えることは、イエス様は悪霊によってご自分が神の御子キリストであることを証言してほしくなかったということです。

 

3 伝道と社会的責任

 

 このようにして、イエス様のカペナウム宣教の第一日目の安息日と、日没から始まった癒しの数時間はすぎました。いわば開店と同時にいきなり満員御礼でしたから、弟子たちは興奮してしまいました。シモンとアンデレはかつてバプテスマのヨハネのもとで弟子であったわけですが、こんな勢いで人々が集まってくるのを見たのははじめてでした。ヨハネは癒しの奇跡を行ったという記録はどこにもなく、ただひたすら「悔い改めなさい。神の国が近づいた」と宣教してまわったのでした。それでも反響があったのは事実ですが、イエス様の癒しと悪霊追い出しの反響の比ではありません。人々のニーズが多すぎて答えきれないほどの大反響です。人々は深夜になってしまったので、やむなく帰って行きましたが、弟子たちには、これは大成功だと思われました。

 朝になると、ガヤガヤという声で目が覚めました。町の人々が噂を聞きつけて、さらにたくさん集まってきていたのです。弟子たちは「これは大成功じゃないか。一日にしてこれほどの人々が獲得できるとは。」と思いました。けれども、肝心の主イエスがそこにはいらっしゃいません。いったい、どこに行ってしまわれたのでしょう?

 実は、主イエスはまだ暗いうちに起き上がって、荒野で一人祈っていらっしゃったのです。

「1:35 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」

何を祈っていらしたのでしょう?おそらく、こういうことでしょう。「カペナウムの人々は、病の癒し、悪霊からの解放をもとめて、どんどんわたしのところに集まって来ます。人々の必要はとても大きいのです。かわいそうな者たちがたくさんいます。わたしはカペナウムにとどまって彼らの病の癒し、悪霊からの解放のために、働き続けるべきでしょうか。しかし、父よ、あなたのみこころはなんでしょうか?」

父は言われました。「いや。彼らを後にして、次の町へ行き、ガリラヤ全土に福音を宣べ伝えなさい。」ですから、シモンと仲間がイエス様を探しに来て、たくさんの人があなたを探していますと言った時、主イエスはおっしゃいました。

 1:38 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」

 1:39 こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。

 

 主イエスが父なる神から、この世に遣わされて行った宣教のわざは、福音を告げ知らせることと、病気・悪霊つきを元気にしてやることでした。今風にいえば「伝道と社会奉仕」というこの二つです。弟子たちもまたペンテコステの後に、キリストの福音を宣べ伝えると同時に、やもめへの配給を行いました(使徒6章)。当時の社会では、やもめとみなしごがとても多く、その貧困問題があったのです。恐らく結婚年齢が男性のほうが女性よりも10以上という習慣があったので、必然的にやもめが多くなったのではないかと思われます。

 古代から中世にかけての教会の歩みにおいても、伝道と社会奉仕が果たされてきました。古代のローマ教会の執事ラウレンティウスについて有名な逸話があります。ローマ当局はキリスト教会がとても盛んにやっているので、教会の財産を調査しました。そのとき、ラウレンティウスは、「みなしごややもめたちこそ、教会の財産です。」と言ったそうです。

 ずっと時代はくだって近代、イギリスで産業革命が起こり、機械で毛織物が大量に生産できるようになり、綿羊をたくさん飼うようになりました。それで、農地が囲い込まれて生活できなくなった人々が、大量にマンチェスターやロンドンなどの都市部になだれこみスラム街ができ、治安が悪くなりました。英国最暗黒の時代と呼ばれる時代です。この時代、もっとも効果的な社会改良運動を展開したのは、ジョン・ウェスレーたちのメソジスト運動でした。伝統的英国国教会は、急激に膨らむ人口、広がるスラムを横目で見て、手をこまねいていましたが、ウェスレーは町に出て彼らに福音をのべつたえて救いへと導き、同時に、彼らに組み会と呼ばれる相互扶助の会を作らせて、社会福祉の働きを展開したのでした。

 キリスト教会が社会改良から手を引くようになったのは、その後、共産主義運動が盛んになったためだそうです。当時の共産主義運動は、無神論に立ち「宗教はアヘンである」としてキリスト教を非難したので、「社会問題にかかわると、共産主義の影響を受けて、信仰がおかしくなる」ということで、教会は伝道だけしていようということで手を引くようになったのでした。しかし、そういう態度はまちがいであったということを認めたのが、1974年のローザンヌ誓約でした。キリスト者には、伝道と社会的奉仕という二つの任務がある。この二つを切り離してはいけないという悔い改めの声明文です。主イエス以来、教会は伝道と社会的奉仕の両方を果たしてきたのです。

 しかし、もう一つ大事なことがあります。それは、伝道と社会奉仕の優先順位です。福音書がはっきり告げていることは、教会の任務としては伝道が第一で、社会的奉仕は第二だということです。それは、福音の価値の絶対性・緊急性・永遠性ゆえです。ここをまちがえてはなりません。主イエスはおっしゃいました。

 「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」

 目の前に病気を治して欲しい、悪霊を追い出して欲しいという人たちはたくさんいました。やさしいイエス様としては、彼らに同情します。けれども、父のみこころは福音をまずこのガリラヤ全土の町々村々に宣伝えよということでした。主イエスは、父の命令にしたがったのです。

 

結び

 現代の日本のキリスト者にも、主は二つの任務を与えていらっしゃいます。伝道と社会的奉仕です。自分に何ができるだろうかと考えるかもしれませんが、伝道とは第一に「主イエスを信じなさい、そうすれば救われます」と伝えることです。第二に、信じる人が起きたらキリストのからだの中でともに成長することです。そのために、当面、6月21日(火曜日)に苫小牧市民文化交流センター(アイビープラザ)で行われる世の光ラレーに家族、友人、知人を誘いましょう。また、私の願いとしてはこの地域でも福音新聞をつくって定期的に配りたいと思っています。福音をこの地に満たすのです。イエス様の十字架の意味を知らない人が一人もいないようにするのです。

 社会的奉仕ということは、まずはみなさんが月曜から土曜まで遣わされている家庭で、地域で、またこの国の国民として、神様の愛と正義のみこころを行うことです。たとえば、7月には国政選挙があります。聖書ローマ13章によれば、国家の務めとは、社会秩序の維持と、経済格差の是正の二つです。「この国に神の正義と愛が実現する政治が行われるにはどの人を、どの党を選ぶべきですか?」と祈って、選挙権を行使することです。また、祈って心備えていれば、何かなすべきことについてチャレンジを主がそなえてくださるでしょう。

キリストの権威

マルコ1:21-28

 

2016年4月15日 苫小牧主日礼拝

 

1 安息日、カペナウムの会堂で

 

1:21 それから、一行はカペナウムに入った。そしてすぐに、イエス安息日に会堂に入って教えられた。

 主イエスガリラヤでの宣教活動の中心はカペナウムでした。湖に臨むガリラヤの中心地でした。主イエスは、この地を拠点としてガリラヤ全土、湖の向こうのゲラサ人の地、また、北方のツロ、シドンといった地域でその3年間の公生涯のほとんどをすごされました。安息日、このカペナウムの会堂に主イエスは出かけられました。

 安息日というのは、天地の創造において、神が万物を6日間で創造した後の一日休まれたという創世記1章の出来事を起源としています。人間は、神の御子の似姿として造られた存在として、神が七日目に休まれたように、休むというのです。安息日は、人間が神の似姿として人間らしく生きていくために、神が定めてくださったたいせつな日です。安息日に休みを取らなければ、人間は人間らしさを失っていってしまいます。

 人間が人間らしく生きるというのはどういうことか?それは、人間が造り主である神を愛し、その神が自分を愛してくださったように隣人を愛するという生き方をすることです。人間は神を愛し隣人を愛する者として造られましたから、そのように生きるとき、人間は人間らしくなることができます。そういう安息日ですから、主イエスは、いつものように会堂に礼拝に出かけてゆかれました。

 主イエスは、安息日のほんとうの守り方について、この後、ユダヤの宗教家たちと対立していくことになります。それは人間を非人間化するような安息日に関する誤解との戦いであったともいえるでしょう。

 

2 権威ある教え

 

 しかし、この日は特別の日でした。イエス様がカペナウムで初めて公の伝道生涯をスタートする、その日であったからです。私は東京都渋谷の会堂(シナゴーグ)に出かけたことがあります。シナゴーグでの礼拝というのは、律法の朗読と詩篇を歌うことにほとんどが費やされます。というのは、エルサレム神殿とちがって、そこには神殿的な施設・調度品というものがまったくなくて、律法と詩篇を朗読するのは、その群れの長老さんのような立場の人々であるらしく、しっかりと訓練されて朗々とみことばを読んでいました。

 律法の教師であるラビが来ると、会堂の管理人は彼を説教壇に立たせることができます。主イエスはそのようなお立場でこの日、説教壇に立ったわけです。具体的なその説教の内容はここにしるされてはいませんが、

 1:22 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

 と書かれています。

 「権威ある者のように教える」とはどういう意味でしょう?単にどうどうとしているというようなことではありません。声がでっかい、態度がでかいということではありません。当時の律法の先生たちは、権威ない者のようにおしえたのです。つまり、「律法には、かくかくしかじかという戒めがあります。この解釈として、高名なラビホニャララは、このように解き明かします。また、別の高名なラビホニョロロは、あのように説明しています。われわれとしては~」というふうのです。

 ところが、主イエスは大胆にも、そういういわゆる権威あるラビたちのことばを引用してどうのこうのという議論をなさいませんでした。いえ、それどころではありません。モーセの律法を重んじつつも、モーセの律法を越えた権威がご自分にあることをしばしばほのめかすような話し方をなさったのです。たとえば、マタイ福音書の山上の垂訓を見て見ましょう。マタイ福音書5章です。

 

 5:21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 

5:27 『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

 

5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

 

 二重括弧の中はモーセの律法とそれに主イエス当時の権威あるラビたちの解釈を含んだ教えです。「しかし、わたしはあなたがたに言います。」と主イエスはおっしゃいます。ラビはともかく、モーセの言葉の権威とはつまり神のことばである旧約聖書の権威です。それに対して、「しかし、わたしはあなたがたに言います。」というのです。これは実に驚くべきことです。人間には許されないことばです。もし、私が「聖書はこのように教えている。しかし、わたしは言う・・・」と言ったら、それは人間としての分をわきまえない偽教師です。すぐに説教壇からひきずりおろさねばなりません。

 主イエスがおっしゃりたいのはこういうことです。「わたしはかつてはモーセを通して、『殺してはならない』と教えたけれど、この新しい時代にあって、わたしは新たな教え、またその正しい解釈を伝えよう。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」ということです。 また、「わたしは旧約時代においては、『姦淫してはならない』とだけ教えたが、その真意は、誰でも情欲をもって女を見るものはすでに姦淫を犯したのだ」

 つまり、主イエスは、ご自分の口から出ることばは、神のことばとしての権威を持っていることを自覚しておられたのです。そして、旧約時代の人々から、今や新約時代における神のことばをあなたがたに語ろうとおっしゃっているのです。

 その場にいた人々は非常に驚きました。驚きましたが、なぜイエスがそこまでの権威をもった教え方をなさるのかは、この段階においてはよくわかっていなかったようです。もし、わかっていたならば、ただではすまなかったのです。イエスの教えかたは、自らを神と等しくする教え方だったからです。

 

3 主イエスの権威

 

 皮肉なことですが、主イエスの神としての権威をその場にいた人間たちよりもはるかによく知っている者が、そこにいました。悪霊です。悪霊というのは、自らいと高き方のようになろうと思い上がって堕落した天使の一群のなかの下級の霊たちのことです。そのボスはサタンとか悪魔と呼ばれます。彼らは、人間が知っているよりも霊の世界のことを善く知っていますから、当然、イエスが神の御子キリストであることを知っているのです。知っているのですが、決して、悔い改めることをしないで、神に敵対する者たちです。

 1:23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。

 1:24 「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」

 主イエスの宣教の初期には、このような悪霊による攻撃がしばしば見られます。後半になってくると、イエスに敵対する者たちはむしろ律法学者、パリサイ人たちに変わって行きます。

 現代の日本では比較的悪霊の働きは表面的には見えませんが、インドネシア、フィリピン、タイなどに派遣された宣教師たちは、あからさまな悪霊の攻撃という不思議な現象を体験したことを聞かせてくれることがあります。恐らく現代日本では合理主義とか唯物主義とかをもって、悪魔は日本人の目をふさいでしまうのが得策であると考えているのでしょう。

 C.S.ルイスが『悪魔の手紙』という書物の巻頭に書いているのですが、「悪魔は二種類の人々を歓迎する。ひとつは、悪魔に不必要なまでに深い関心を持つ人々である。もうひとつは、悪魔などいないという人々である。悪魔は、魔法使いと無神論者を大歓迎するのだ。」ですから、私たちは聖書が教えるところまで悪魔についての知識を得るべきですが、それ以上に悪魔に変に興味をもつべきではありません。

日本で言うと、私くらいの世代までは啓蒙主義・唯物主義の影響の強い世代であると思いますが、かつて新人類と呼ばれた世代から以降は、むしろ占いとかオカルトなどに心開く世代となっています。唯物主義にも、魔術的なものも、悪魔の罠です。私たちは聖書に立たねば欺かれます。

 

 さて、主イエスに叫んだのは悪霊に取り付かれた、いわゆる憑依された人でした。日本で昔からいう「犬つき」とか「きつねつき」と呼ばれる憑依現象です。今日でも占いと降神術とかいった今風に言えばチャネリングなどオカルティズムにこると、悪霊によってこういう症状を呈する人々がいます。非常に危険なものです。

 主イエスは悪霊をただちにしかりつけて黙らせて、彼から追放してしまいました。

 1:25 イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。

 1:26 すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。

 私たち不通のクリスチャンが行う悪霊追放のわざの場合、「黙れ、この人から出て行け」と言っても、悪霊は決して出てゆきません。「イエス・キリストの御名によって命じる。黙れ、この人から出て行け」と言って追い出すのです。悪霊はたとえば私が命じても、「なんでおまえの言うことなど聞く必要があるのか」としか答えません。しかし、ナザレのイエス・キリストの御名に権威があるからです。これは世界中共通していることです。主イエスは、国籍も文化も超えて、お方です。アメリカでの悪霊も、インドネシアでも、アフリカでも世界中あらゆるところにおいて、悪霊どもは、主イエス・キリストの権威ある御名には聞き従わざるを得ないのです。天においても地においても、主イエスに一切の権威が与えられているのです。

 こうしてイエスの評判はたちまち広がりました。

 1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」

 1:28 こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。

 

結び キリストの権威

 きょうは、主イエス・キリストが神としての権威、父なる神と等しい権威をもつお方であることをみことばから学びました。

①第一に、主イエスは、ご自分の教えが旧約聖書に等しい権威があることをご存知でした。今や新しい時代が訪れたから、旧約時代に勝る福音の時代の教えをなさったのです。

エホバの証人や、この世の影響を受けた神学者や聖書学者と呼ばれる人々は、なんとかしてイエスをただの愛の人だとか宗教家だとか考えたがるのです。けれども、主イエスはご自分が神の御子であり、神からいっさいの権威をさずかっていることを自覚なさっていました。私たちは、イエス様を神とひとしい権威あるお方として礼拝します。

「わたしには、天においても地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28:18)

 

②キリストが神性をおびた聖なるお方です。図らずも悪霊がそのことを証言してくれました。悪魔と悪霊たちは、キリストの権威を前にして恐れおののいています」。おののきながら反発しています。つまり、神と悪魔は対立しているわけではありません。そういうのを二元論といいます。聖書は二元論は教えません。聖書は、悪魔さえも神の支配のもとに置かれているのです。イエス・キリストの御名には、民族文化国語を超えて権威があります。今悪魔の活動を許容していらっしゃるとしても、最終的にはそうした悪魔の仕業さえも善用なさるのです。

 

 私たちは、これほど偉大なお方を、主としていただいているのです。そのことをどれほど実感しているでしょうか。私たちのいのちは、主イエスの御手の中にあります。主の許しがなければ、悪魔さえも私たちに手出しすることはできません。どんな試練も死さえも、いかなるものも、主の御手から私たちを奪い去ることができるものはありません。

 私たちの人生には照る日も曇る日も嵐の日も、あるでしょう。教会の歩みでもそうです。今、嵐の中にあるという思いの方もいるかもしれません。けれど、キリストは権威をもって、悪魔の仕業をうちこわし、そして、勝利を収めてくださいました。

 

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」ヨハネ16章33節

 

人間をとる漁師

マルコ1章16-20節

2016年5月8日 苫小牧主日礼拝

1:16 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。 1:17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」 1:18 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

 1:19 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。 1:20 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

 

 

序 ガリラヤ地方

 主イエスが御在世当時イスラエルの国は、南がユダヤ地方、真ん中がサマリヤ地方、そして北がガリラヤ地方と呼ばれました。国の中心は、都エルサレムのあるユダヤ地方であり、主イエスが育ったガリラヤ地方のナザレは、日本で言えば東北地方か北海道にあたる地域です。しかし、ガリラヤ地方は、乾燥地帯であるユダヤ地方に比べて豊かな森があり、「緑したたるガリラヤ」と呼び習わされます。讃美歌にキリストの生涯を歌った一曲があります。

「みどりも深き若葉の里 ナザレの村よ ながちまたを 心きよらに 行き交いつつ 育ちたまいし人を知るや」

ガリラヤ地方はなぜそれほど緑に恵まれているか。それは北方のヘルモン山に降った雨や雪が伏流水となって地面にもぐりこみ、それがあふれ出てくるガリラヤ湖があるからです。ガリラヤ湖の面積は、北海道でいえば網走の近所のサロマ湖くらいのものです。そこで獲れる魚はペテロの魚と呼ばれるティラピアという白身魚がおいしいものです。イスラエル旅行に出かけたら、肉でなく魚がおすすめだと言われます。肉は血抜きが完璧でパカパカの草履のようだそうです。

主イエスガリラヤ湖のほとりを歩いているとき、最初に弟子として召したのは、このガリラヤ湖の漁師たち、シモン、アンデレ、ヤコブヨハネでした。漁業はガリラヤにおける基幹産業でした。彼らの社会的な位置というのは、いわば、苫小牧における王子製紙の社員たちみたいなものと言えばよいでしょうか。

 

1 主イエスは予め彼らを知っていた

 

(1)シモンとアンデレはイエスに会ったことがあった

 さて、主イエスはシモンとアンデレに「わたしについて来なさい」と呼びかけました。この言い回しは、当時の、律法の教師ラビが人を弟子としてとろうというときの決まったせりふだったといわれています。それにしてもマルコ福音書だけを読んでいると、彼らは通りかかった見知らぬ人イエスからいきなり「わたしについて来なさい」といわれて、網を捨てて従ったというように見えて驚いてしまいます。日本の子どもだったら、「知らないおじさんに『お菓子食べるか?』と声かけられても、ついていっちゃだめよ。」としつけられていますから、ついていかないでしょうね。それなのに、シモンとアンデレという青年は立ち上がってついていってしまいました。

実は、彼らはイエス様と初対面ではありませんでした。ヨハネ福音書の記事によれば、以前、シモンとアンデレの兄弟はユダヤ地方でバプテスマのヨハネの弟子でした。アンデレは、預言者ヨハネがイエスを指差して、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊!」と叫んだので、イエスについていき、兄シモンをも主イエスのもとに連れてゆきました。そして、シモンも主イエスと一晩過ごしてさまざまのお話を聞いてお交わりがあったのでした。

 その後、バプテスマのヨハネが逮捕・投獄され、シモンとアンデレは失意のうちに故郷のガリラヤに帰って、家業である漁師の生活にもどっていたのでした。彼らは師と仰いだヨハネを失い、自分たちの生きる目標を見失ってしょんぼりしていていましたが、脳裏から、ヨハネが主イエスを指差して言った「見よ。神の小羊」ということばが離れることはありませんでした。彼らのあとに召しを受けるヤコブヨハネにも似た事情があったのか、漁師仲間としてシモンとアンデレからイエスについて教わっていたと考えられます。

 そこに、主イエスもまたユダヤ地方を離れてガリラヤにもどってこられ、そして漁師にもどっていた彼らに声をかけたのでした。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」

 

(2)主イエスは彼らを知っていた

シモンは後にペテロというニックネームをいただき、主イエスが復活して聖霊を注がれて初代キリスト教会が始まって後は、エルサレム教会の重鎮となります。アンデレはペンテコステの後に、小アジア、スキタイそして黒海からヴォルガ川にそってロシア方面にキリストの福音を伝えに言ったとオリゲネスが書きとめています。

ヤコブ使徒の働きによると、ヘロデ・アグリッパのもとで処刑され、十二使徒のうち最初の殉教者となっています。ヨハネヨハネ福音書と三つの手紙と黙示録の記者となり、老いてのち、愛の使徒と呼ばれる人となっています。ヤコブヨハネはイエス様から「ボアネルゲ」つまり雷の子というあだ名を付けられていますから、生来、気性の荒い人たちだったのでしょう。また一説によると、イエスが彼らに「わたしについてきなさい」とおっしゃったときに、親父さんを捨ててさっさと行ってしまったので、後ろからお父さんが「この大馬鹿者!!」と雷を落としたからではないかとも言います。だとすると、ボアネルゲは「雷親父の子」ということになります。

しかし、主イエスは、彼らがイエスを知る前に、弟子としてお召しになる彼らのことをあらかじめご存知でした。ユダヤヨルダン川のほとりで知ったというのではなく、はるか前からのことでした。それこそ、母の胎内にやどったときから、いや、母の胎に宿る前です。あの若い日の預言者エレミヤは言っています。

 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、

   あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、

   あなたを国々への預言者と定めていた。」エレミヤ1:5

 福音の宣教者への召しというのは、主イエスの主権に属することです。人間が志す前に、主の側のご計画があります。主は「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、任命したのです。」とおっしゃったでしょう。

 

2 人間をとる漁師の務め

 

さて、主は伝道者を表現するに当たって「人間をとる漁師」というおもしろい表現をおもちいになりました。それは、呼びかけられた彼らにとって一番な身近な譬えであったからでしょう。もし彼らが農夫であれば、世界の畑から収穫をする農夫にしてあげようとおっしゃったかもしれません。

 

(1)沖合いに出る

漁師は、沖合いの漁場に出て網を下ろして、魚をとり、そして港に帰ってきます。そのように、福音の宣教者が遣わされる沖合いの漁場は「この世界」です。まだイエスさまによる救いを知らない人々がいる世界です。マタイ伝の28章では「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を」とあり、マルコ伝の末尾には「全世界に出て行って」とあり、ルカ伝には「エルサレムから始まってあらゆる国の人々に」とあります。

漁師が岸辺に座っていて網をつくろってばかりいるだけでは一匹の魚もとれません。同じように書斎で聖書の研究をしているだけでは、誰一人救いに導くことはできません。「漁場に出て行って」、網を下ろすことが必要です。この世に、教会の外に、この世の人々にあらゆる手を尽くして、福音の網を投げることが必要です。漁の上手下手はありましょうし、それ以前に、漁場のよしあしがあることも事実ですが、とにもかくにも遣わされたところに出て行って網を投げることが必須です。教会堂の主の日の説教壇でなく、外の人々に福音を伝えるのです。

エス様のみことばの御用を見てみると、「宣べ伝えた」ケーリュッソーということばと、「教え」ディダスコーという二つのことばが出てきます、「宣べ伝え」というのは未信者にむかって「悔い改めてイエス様を信じなさい」と語ることです。他方、「教え」はすでにイエス様を信じた人に向かってイエス様の弟子として成長することを促すみことばです。ですから、原則的には教会の外で福音を宣べ伝え教会の中では教えを語るのです。

私たちはみことばを毎週聞くことができますが、苫小牧にもまだまだイエス様の十字架の福音の意味を知らないという人が山のようにいます。私たちは何とかして、教会の外の人たちに、イエス様の福音を届けなければなりません。

 

(2)網を下ろす

では、沖合いに出て下ろす網とはなんでしょうか?伝道者が下ろす網は福音です。そして、キリストの福音という網によって捕らえられ集められたお魚の群れが教会です。ポール・マイネアという人が書いた、『新約聖書における教会のイメージ』というおもしろい本があります。代表的には、教会のイメージとして「神の民」「キリストのからだ」「生ける石の神殿」「キリストの花嫁」「オリーブの木」「ぶどうの木」などといったものが挙げられています。そして、それぞれに意味があります。が、そのなかの一つに「福音という網で捕らえられた魚たち」があります。

私たちはそれぞれに浮世という海の中で、小さな魚の群れのなかの一匹のように、群れが右に向かうなら自分も右に、群れが左に向かうなら自分も左にと、この世の流れにあわせていたものですが、ある日、キリストの福音という網に捕らえられました。私の罪のために、神の御子が人としてきてくださり、十字架の死と復活をもって私の罪を償い、救ってくださったという、あの福音にとらえられたのです。

 

漁師が魚を港に持ってくるように、人間をとる漁師は福音の網によってとらえた人々を主イエスの御許に連れてきます。大きい魚も小さな魚もいるでしょうし、年寄りの魚も若い魚もいろいろですが、みんなで、永遠の港へと行くのです。

 

3 伝道者への召しは絶対・・・網を、舟を、父を置いて従う

 

 主イエスから「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と声をかけられると、シモンとアンデレは「すぐに」網を置いて主イエスにしたがいました。そのあと、漁師仲間であったヤコブヨハネは、やはり「すぐに」舟も、そこにいた父も雇い人も後にして主イエスについていきました。職業も、財産も、親までも、後にして主イエスにしたがったのです。

1:19 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。 1:20 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

 彼らも主イエスのことばにただちに応じて、立ち上がりました。網だけでなく、網と、父と雇い人と舟も残して主イエスについていったのです。彼らは、仕事も財産も親さえも後ろにおいて、主イエスにしたがったのでした。網つまり彼らの職業を捨て、父を後にしてついていったのです。こんなことがありえるのだろうかといぶかる人もいるでしょう。

 主イエスのおことばには力があります。二千年来、主イエスから伝道者への召しのことばを受けた人は、同じように立ち上がってきました。今日でもそうです。主イエスの福音のありがたさを知らされたとき、他のそれまで価値あるものとして大事にしていたもの、しがみついていたものが、さしたる価値のないものになってしまいます。主イエスが福音の宣教のために伝道者を呼び出される召しは絶対的なものです。漁師であれ、商売であれ、ビジネスマンであれ、大工さんであれ、看護師であれ、医師であれ、教員であれ、それぞれの職業は、神が創造において定められた文化命令・労働命令に対する応答として意味がある働きです。泥棒とか人殺しというような、それを行うこと自体が罪でないかぎり、すべての職業は神の前にそれなりに一般恩恵にかんする職務として意義あるものです。

 けれども、キリストの福音の宣教という特別恩恵のための職務への召しがあったときには、それらすべてを後にしてでも立ち上がることを主イエスは要求なさいます。

 また、「あなたの父母を敬え」というのは、神ご自身が十戒の中で人間として生きる道においてとても重要なこととしてお定めになったことです。十戒を前半と後半に分けるなら、前半は神への愛、後半は隣人愛の戒めですが、その後半の筆頭が「あなたの父母を敬いなさい」です。けれども、もし福音宣教のために伝道者として立つことを、主イエスがあなたをお召しになったならば、たとえ親が反対したとしても、立ち上がらねばなりません。伝道者としての召しは絶対のものなのです。それは、福音の絶対性ゆえです。福音を受け入れるか、それとも、拒否するかによって、人の永遠の運命は決定するのですから、福音にはなにものにも換えがたい絶対の価値があります。

 こうした伝道者への召しは、今日でも同じようになされています。私が神学校に入ったときにも、同期生の中には、安田生命をやめてきた人、小児科医を廃業してきた人、父親に勘当されて夏休みにも帰る家のない人たちがいました。主から伝道者の召しを受けるならば、人はすべてを置いて立ち上がらなければなりませんし、また、立ち上がらざるを得ないのです。

 

結び

適用1 若くしてイエス様の救いにあずかった人は、それは特別な恵みなのです。多くの人は人生の多くをすごしてから真の神を知り、「もっと早く、イエス様を知っていたら、違った人生があったのに」と思うのですから。あなたには、「もしかしたら、主イエスはこの自分を福音の宣教者としてお召しになっているのではないか?」とまじめに考えて祈る義務があります。パウロがいうように、「福音を語らないではいられない。」という福音を聞いていない人々に対する負債感というのが、伝道者としての召しのしるしの一つです。

あなたに、もし福音を伝えなければという負債感があるならば、もしかしたらあなたも伝道者に召されているのかもしれません。だとすれば、主にみこころを求めてそのように祈るべきです。そして、主が自分を伝道者として召していらっしゃるのではないかと思うならば、まず牧師に相談してみてください。召しは主観的な面だけでなく、客観的な面から確認する必要があります。

適用2 牧師・宣教師への召しは一部の信徒に与えられるものです。しかし、キリストの証人としての召しはすべてのキリスト者に与えられています。「あなたがたのうちにある希望について説明を求められたら、説明する用意をしておきなさい。」とペテロは命じています。「キリストの救いってどういうことなんですか?」と質問されたら、「アワアワ」としか答えられないのではいけません。あなたは準備ができているでしょうか。その準備は、すべてのクリスチャンがしておかねばなりません。自分の身に起こったことを、お話するのです。自分はイエス様を知る前は、こうでした。それが、あるときに救い主イエス様を受け入れたら、心持はこんなふうになり、生活はこんなふうに変わりました、とお話すればいいのです。<使用前、使用、使用後>みたいな順序で、単純に自分にイエス様がしてくださったことをお話するのです。

 

 主はあなたにも言われます。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」

神の国の福音

マルコ1章14-20節

2016年4月24日 苫小牧主日礼拝

 

1:14 ヨハネが捕らえられて後、イエスガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。

 1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。

 

 イエス様は弟子たちに「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」とおっしゃいました。その漁師の網である「神の国の福音」についてお話します。

 

1 神の国の福音

 

(1)福音

 バプテスマのヨハネが捕らえられました。領主ヘロデ・アンテパスの姦通罪をおおっぴらに厳しく糾弾したことに対して、報復されたのです。神の救いのご計画という観点からいうならば、ヨハネが捕らえられ、そのキリストの到来を予告する活動が止められたことは、旧約時代が終わって、キリストの時代の到来したことを意味しています。

 主イエスは、神の国の福音を宣言しました。「時が満ち、神の国は近くなった、悔い改めて福音を信じなさい。」

 ところで「福音」とはなんでしょうか。福音とはeuangelion良いeu知らせangelionです。多くのクリスチャンは福音とはなんですか?と聞かれると、「イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死んで三日目によみがえって、私たちに罪のゆるし、永遠のいのちをくださった、という知らせです」と答えるでしょう。正解です。ヨハネ3章16節、1コリント15章に書かれているとおりです。「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」すばらしい知らせ、まさに福音です。

けれども、福音はさらに縮めることができます。実際、イエス様が「悔い改めて福音を信じなさい」と宣言したとき、「私はこれからあなたがたの罪のために十字架にかかって死んで三日目によみがえります」と説明したでしょうか。いいえ。イエス様が神の国の福音を宣言なさったとき、その内容として語られたことは、「神が約束された救い主は、このわたしです。」ということです。福音とは、イエス・キリストです。

私たちはイエス様がどのようにして信じる私たちをお救いくださるのか、その方法を厳密に知らなくても、「イエス様、私を救ってください。」と心から叫ぶなら救っていただけます。救うのは生きているイエス様ですから。「主の御名を呼ぶものは誰でも救われる」とあるとおりです。もちろん、主イエスが、私たちを愛し、そのいのちを十字架上で捨ててまで私たちの罪を償ってよみがえってくださったということを知れば、ますます確信は深まるのですから、そうしたことを学ぶのは有益なことですが、あえて「最小限このことだけ」と福音のエッセンスを言えば、「主イエスを信じなさい」だけです。ピリピの牢屋で今まさに自分の首に剣をあてて自殺しようとする看守が、「どのようにしたら救われるのでしょうか」とパウロに問うたとき、パウロは「主イエスを信じなさい。」と答えたでしょう。福音とは主イエスです。

 

2 王の支配

 

(1)神の国

では、主イエスが宣言された「神の国は近づいた」とはどういう事態でしょうか。 「国basileia」とは王国という意味です。ですから、「神の国」とは、神の王的支配ということです。「神が王として支配してくださるときが近づいた。だから、悔い改めてイエス・キリストを信じなさい」ということです。

「御国が来ますように」と私たちはいつも祈ります。そして、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈ります。みこころが地で行われること、つまり、神のご支配が実現することが「神の国が来る」ということです。

アダムの堕落以来、地には悪い力が働いていて、神の御心がなり、神の支配がなされることを邪魔しています。悪い力とは、悪魔と世と肉です。悪魔とは神様に背いた天使、古い蛇のことです。世とは、神様に背を向け、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢をすべてとする世的な価値観です、そして、肉とは私たちの内側にあって神に背こうとするアダム以来の堕落した利己的な性質のことです。そういう妨害にもかかわらず、「神のみこころが成りますように、神のご支配、神の国がきますように」と私たちは祈るのです。

 

(2)みこころが成る、御国が来るとは

では「神の支配が来る」すなわち「みこころが成る」とはどういうことでしょう。「みこころ」とはなんでしょうか?有限な人間に無限の神のみこころがわかるわけがないというのは、一つの見識です。しかし、聖書は有限な人間にも知ってよいこととして、神が私たちにみこころを教えてくださいました。とはいえ、こんな分厚い聖書、どのように神のみこころを知ることができるでしょう。

エス様は、神のみこころの要点を律法学者との問答において明らかにしてくださいました。マルコ12:28-31

12:28 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」

 12:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。 12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

 12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

要するに、神のみこころが成る、神の支配(王国)が来るとは、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』というご命令と『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』というご命令が実現される状態を意味しています。神への愛と隣人愛とが実行される場、その中核は教会という礼拝共同体ですから、福音書のなかでは、教会と神の国が同じ意味で使われているところもあります。「神の国あなたがたのただ中にある」(ルカ17:21)と主イエスはおっしゃいました。主イエスが来られ、神を愛したがいを愛し合う群れが誕生したら、そこに神の国はあるのです。教会にはいろいろ欠けがあります。世間の人の教会に対する基準は厳しいものがあります。でも、それでも教会には神の国があります。私はかつて、神を知らずにむなしいところを生きていました。十九のときはじめて教会に行って、この世にまことの神を愛し互いのために祈りあう、そういう人々がいるのだ、と驚きました。神の国はあなたがたのただ中にある」のです。

また、教会の中だけでなく、私たちの家庭に、社会に、この職場に、地域に、この国に、この世界に、神を愛する愛と、隣人を自分自身のように愛する愛が実現していくときに、「神の国がそこに来ている。そこにみこころが成っていく」ということができるわけです。

個人生活についていえば、「御国が来ますように。みこころがなりますように。」と祈るとき、「私は心を尽くしてあなたを愛します。あなたがくださった、この夫、この妻、この父、この母、この兄弟を愛します。困っている隣人を愛します。」という決心をするのです。ですから、主の祈りにおいては、「私たちの日ごとの糧を与えてください」と自分の空腹だけでなく隣人の空腹のためにも祈り、また、「私に負い目のある人を赦します」という決心をするのです。私が、他の人々の幸せを祈り、他の人々の自分に対する負い目をゆるすとき、神の国はそこに来ていて、また、みこころが地に成っているのです。

 

3 悔い改めて福音を信じなさい

 

でも、決心し頑張ったら実行できるなら苦労はありません。頑張って実行できるなら、律法で十分でしょう。頑張ってもできないからこそ、神様は私たちに福音であるイエス様をくださいました。

 

(1)悔い改めて福音を

主イエスは「悔い改めて福音を信じなさい」とお命じになりました。自分がどんなに頑張り努力しても実を結べないことを認めて、つまり、神様が恵みによってくださった救い主キリストを信じなさいということです。人は、アダムが堕落して以来、みな自力救済主義者となってしまいました。自分の努力、自分の頑張りで、道徳を、神の戒めを守って、自分の義を立てることが出来るという風に思うようになったのです。アダムが巻いたイチジクの葉っぱの腰覆いは、その象徴です。いちぢくの葉っぱでも、ほんの少しの間は己の恥を隠すことができましょうけれども、数時間もすればそれはしおれて枯れてしまうものです。同じように、私たちも頑張れば、しばらくの間は、あの罪、この罪を犯さないことができますが、しばらくするとまた同じ罪をおかします。人間の努力による自力救済の試みもそのようなものです。パウロは「むさぼってはならない」という罪が入ってきたとき、自分はつくづく罪人だなあとわかって、神様の前に降参したと告白しています。

悔い改め、方向転換が必要です。自分の頑張りで神の前に自分の義を立てるのではなく、キリストにある神の恵みを受け取るという方向転換をするのです。「私はお手上げです。降参です。救い主イエス様を信じます。」と神様に申し上げるのです。「私はだめな人間です。あなたの戒めを守れないのです。決定的に罪があるのです。あなたの恵みによるほか、救われようがありません。イエス様を信じます。感謝します。」という生き方への転換です。自力から恵みへ、頑張りから感謝へと転換するのです。

 

(2)「すでに」と「いまだ」の間に生きる

エス様は、「御国がきますように」と祈るように教えてくださりながら、もう一方で「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)とも教えてくださいました。つまり、私たちは、神の国の「すでに」と「いまだ」の間に生きている者です。

すでにキリストが来られ、キリストが勝利をえてくださいました。しかし、キリストのご支配は私たちの生活のうちで、社会の中で、まだ完遂されているわけではありません。日々、自分の自己中心の性質と、この世と、サタンとの戦いがあります。完全な御国の到来は主イエスの再臨のときです。

しかし、そうして日々「御国がきますように」と祈りつつ、私たちの生活を日々主のご支配にゆだねていくとき、あなたの周りにだんだんと神の国が拡大していくのです。

あなたの時の使いかたを、神の国の民らしく整えるなら、あなたの周りに神の国が実現していきます。あなたのお金の使い方を、神を愛し隣人を自分自身のように愛するために用いるなら、そこに神の国はひろがります。あなたの隣人に対する態度と言葉を、神を愛し隣人を愛することばとするなら、そこに神の国は来ています。あなたの住む地域社会、この国において、神への愛と隣人への愛が実現するとき、御国はひろがっていくのです。

生活の全領域に、神様を愛し、隣人を自分自身のように愛する選択をしていきましょう。そこに神の国は広がってゆきます。そうしながら、主イエスが再びおいでになって、御国が来ますようにと祈り続けるのです

 

神の国が来るためには、贖罪的生き方をすることが大事なんだ」と広瀬薫先生という友人がよく話をします。贖罪的生き方とはどんな生き方を意味するのか?と私は彼に聞きました。すると、広瀬先生はちょっと考えて、「人が捨てたごみを、それはあいつが捨てたのだから、あいつの責任だと放っておくのではなくて、自分のごみとして拾うという生き方だよ。と教えてくれました。イエス様は私たちの罪をご覧になって、それはお前の罪だ、お前が地獄でその罰を受けなさいとおっしゃらないで、まるで自分の罪であるかのようにして十字架で背負ってくださった。あのことに倣うんだよ。」と。

そうして生きていくときに、あなたの周りにも、神の国がひろがって行くのです。新しい一週間に歩みだします。あなたの周りにも神の国がきますように。

 第二のアダムとして――荒野の試み

マルコ1:12,13

2016年4月17日 苫小牧主日朝礼拝

 

「1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。

 1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。」マルコ1:12,13

 

 

 

1 第一のアダムと第二のアダム

 

 罪人の友となるための洗礼を受け、天から聖霊を受けて、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と父の愛の言葉を受けて、主イエスの公生涯はスタートしました。希望に胸を膨らませて、主イエスの宣教は始まったかのようです。

 ところが、父がくださった御霊は、イエスを思いがけない道へと追いやられます。イエスを荒野の試練へと投じるのです。マタイは平行記事で、「御霊はイエスを・・・導いた」ということばを用いるのに対して、マルコ伝は「追いやった」ということばを用いています。マタイが古今調ならマルコは万葉調です。御霊は父の御霊ですから、主イエスを荒野に追いやったというのは、主イエスの胸のうちに父の御心として、メシヤとしてまずは荒野に行けというメッセージが届いたということを意味しているのでしょう。メシヤとして、まずは荒野に出かけてサタンの誘惑と戦えというのが父のご計画でした。

 どういうことか?

 キリストが経験された、この荒野での試みは、人類の歴史のなかで特別の意味のある試みでした。それは、エデンの園における最初の人アダムがサタンから受けた試みと対応した出来事でした。最初の人アダムは、人類の代表として、エデンの園においてサタンの試みを受け、そして、その誘惑に破れてしまいました。これに対して、人としてお生まれになった神の御子イエスは、人類の第二の代表つまり第二のアダムとして、サタンの試みを受けて勝利を得てくださったのです。

 第一のアダムと第二のアダムの置かれた状況には類似点と相違点があります。類似点とは、両者ともに人類の代表としての人間であったということです。アダムは私たちの先祖であり、私たちの代表でした。アダムが根っこであり、私たちはその根から出ている大木の枝の先の葉っぱのようなものですから、生まれながらには私たちはアダムに属しています。ですから、もしアダムがあの善悪の知識の木におけるサタンの試みに勝利していたとすれば、その後の人類はその祝福にあずかるはずでしたが、実際には、彼がサタンの試みに敗れたので、罪の呪いとしての死が人類のなかに入ってきました。死の本質とは、いのちの源である神との分離を意味しています。

アダムの子孫はすべてアダムの罪を受け継いでいますから、その中からは罪からの救い主は出ようがありません。そこで、神はご自分の御子イエスを第二のアダム(人類の代表)として立ててくださいました。そして、主イエスはサタンの試みに会われたのでした。主イエスがサタンの試みに勝利すれば、主イエスに属する者たちはサタンに対して勝利をした者として祝福にあずかるのです。

第一のアダムと第二のアダムである主イエスの相違点とは、第一のアダムはエデンの園というこの上なく好条件においてサタンの試みにあったのに対して、第二のアダムである主イエスは荒野という非情な悪条件においてサタンの試みに会ったということです。第一のアダムはエデンの園の一本の木以外、どの木からでも食べてよいという条件でしたが、第二のアダムである主イエスは、水を手に入れることすら困難な環境で試みに会われたのです。アダムは彼の堕落以前のよい環境の元におかれてそこでサタンの試みに会いましたが、主イエスはアダムが堕落し被造物全体も悲惨な状況に陥った後の環境のなかでサタンの試みにあったわけです。

しかし、悪条件における試みであったにもかかわらず、主イエスは、サタンの試みに対して勝利を獲得なさったのです。「私はすでに世に勝ったのです。」

 

2 サタンの誘惑・・・肉の欲、目の欲、虚栄

 

 マルコは気が短い人だったのか、サタンの誘惑の内容については全部省略してしまっていますので、私たちは創世記3章のサタンの誘惑の記事と、マタイ福音書の誘惑の平行記事を比較して見てみましょう。サタンの誘惑は、いずれにおいても、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢(虚栄)」(1ヨハネ2:16)に関するものでした。

創世記3:6

「3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く目に慕わしく賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」

 「食べるのによい」というのは肉の欲に対する誘惑でした。肉体的・物質的な欲求です。「目に慕わしい」というのは好奇心に対する誘惑でした。好奇心が問題だというのは、たとえば「とんでもないことになることはわかっているけれど、マリファナをやってみたらどうなるんだろう?」というふうなことです。「賢くするという」というのは、サタンが「あなたは神のように目が開け神のようになる」といわれたことに対応しているのです。「神にしたがう必要などない。私が私の神なのだ」という傲慢・虚栄心ということです。

 

 他方、主イエスが第二のアダムとして荒野であった試みの記事はマタイ福音書4章3-10節にあります。まず、肉の欲に対する誘惑です。

4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」

 これに対して主イエスは次のように答えて勝利しました。

 4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

 第二に好奇心に対する誘惑です。

 4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」

  これに対して主はこう答えました。

 4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」

 第三に虚栄・暮らし向きの自慢にかんする誘惑です。

 4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、 4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

これに対して主イエスは次のように答えて勝利を得ました。

 4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」

 主イエスは、このように、第二のアダムとして、つまり主イエスを信じる者たちの代表としてことごとくサタンの誘惑に対して勝利を得られたのでした。主イエスは、サタンに対する勝利者となられたのです。

 主イエスの勝利の秘訣はなにか?みことばで答えたから、とよく言われます。けれども、サタンは第二の試みでは旧約聖書詩篇のみことばを引用してイエスを誘惑したのです。サタンは聖書をよく知っています。ただみことばを引用すればサタンに勝てたというわけではなく、全身全霊をもって神を愛するという心の態度で、聖書を理解しておられたので、サタンに勝利することができたのです。

 

3 私たちはどう生きるか

 

(1)まず第二のアダムに属する者となる

 主イエスが受けた試練は、先に申しましたとおり、第二のアダムとして受けられた試練でした。神の前に、二人の人類の代表者がいます。一人は、土から造られた第一のアダムです。もう一人は、天から下り人となってくださった第二のアダム、イエス・キリストです。人は第一にアダムに属するか、第二のアダムに属するかで、その人に対する神の取り扱いが決まるのです。

 第一のアダムは、エデンの園におけるサタンの誘惑に敗れてしまいました。それゆえに、第一のアダムに属する人は永遠の滅びに定められます。人は生まれながらには、すべて第一のアダムに属しています。

 しかし、第二のアダムである主イエスは、荒野におけるサタンの試練に勝利を獲得してくださいました。主イエスはすでにサタンに対する勝利者です。ですから、第二のアダムに属する人は、サタンの圧制から解放され、神との交わりをもち、永遠のいのちに入るのです。サタンは「腹いっぱいごちそうを食べて肉の欲を満たし、麻薬でもギャンブルでも好奇心を満たし、高級車に乗ってブランドものを着こんで暮らし向きの自慢(虚栄心)を満たすことが、人生のすべてだよ。真理だの、生きる目的だの、永遠の運命だの、神だのしちめんどうなことは考えてもなんの役にも立ちはしない。」と人間を欺いて、自分と同じく永遠のゲヘナに引きずり込もうとするのです。

 あなたは永遠の滅びと永遠のいのちのどちらを希望しますか?永遠の滅び、神との分離を望む人はイエスを拒否していれば、第一のアダムに属するものとして滅びにいたります。しかし、永遠のいのちを希望する人は、イエスこそ神の御子であり、私の救い主であると信じることが必要です。「私はイエス様を罪からの救い主として信じます」と受け入れ、キリストにつくものとなった証しである洗礼を受けることです。

「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)とあるとおりです。

 

(2)すでに勝利した者としての、世における戦い

 そして、世にあってキリストに属す者として、キリストの後について生きていくことです。キリスト者の人生にも時折、試練があります。主イエスは「主の祈り」のなかで「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」と祈りなさいと教えてくださいましたから、あえて試練を求めるべきではありません。私たちは弱い者です。

 けれども、神様は、私たちの霊的な必要のために、試練をお与えになることがあります。また、ヨブ記によれば、神がサタンに許可を与えることさえあります。私たちは、そうした試練をどのように受け止めればよいのでしょうか。聖書は、神様は試練を手段として私たちを、さらにキリストに似た者へとつくり変えていってくださるのだと教えています。

「1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。 1:3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。 1:4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

 

「1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、 1:7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」(1ペテロ1:6,7)

 日本には「艱難なんじを玉にす」ということばがありますが、聖書でいう試練はそういうこととはちょっと違います。艱難汝を玉にするというのは、幾多の試練をへてだんだんと強く鍛えられていくというふうなことでしょう。だんだんと自信満々になっていくというのが、日本風にいう試練でしょう。

けれども、神が私たちの成長のためにくださる試練は、むしろ、試練のなかで今まで自分が傲慢であったことを知らされて、砕かれて、ますます神様にのみ信頼して生きる者とされていくということです。放蕩息子が、父親の財産をふんだくって飛び出していって、やりたい放題自信満々でやっていたけれど、やがてお金がなくなり、そこに大飢饉が襲ってきて、我に立ち返り、悔い改めて、父のもとに帰っていきました。あれも試練です。また、旧約の聖徒たち、アブラハムヤコブ、ヨセフ、モーセダビデといった人々の生涯は試練につぐ試練でした。多くの試練をもちいて、神様はご自分の器をご自分にふさわしくつくり変えてゆかれました。

今、あなたも何か試練のなかをくぐっている途上かもしれません。それは、神様があなたを愛し、あなたを御子の姿へと近づけて行かれるプロセスです。ですから、神様の愛を見失わず、忍耐することがたいせつなことです。艱難、忍耐、練達、希望です。

すでに、勝利は私たちのものなのです。なぜなら、私たちの主、第二のアダムであるキリストがサタンに勝利をおさめてくださったからです。主イエスの勝利にあずかった者として、この世における信仰者のたたかいを戦い抜いてゆきましょう。主イエスはすでに勝利を得てくださったのです。

 

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

  旧約から新約へ

マルコ1:1-8

                                                               

2016年4月3日 苫小牧福音教会主日朝拝

 

1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。

  1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。

   「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。

 1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。

   『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」

 

 そのとおりに、 1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

 1:5 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。 1:6 ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 1:7 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。 1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊バプテスマをお授けになります。」

 

 

序 

 本日から、マルコ福音書を味わってまいります。苫小牧福音教会着任にあたり、聖書のどの巻からみことばを説き明かし始めようかと考え祈りました。主イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしをとおしてでなければ、誰一人父の御許に行くことはできません」と仰せになりましたから、イエス様を知るということが父なる神を知ることです。そこで、まずは福音書からイエス様のみことばをいただこうと思います。 夕礼拝では創世記を開いてまいります。これは、聖書全体の土台としてです。

 さて、福音書は4つあり、ヨハネ福音書を除く3つマタイ、マルコ、ルカは共通の事件を三つの記者の目から見ています。共観福音書と呼ばれることを多くの方がご存知でしょう。同じ事件でも、朝日、毎日、読売、あるいは北海道新聞とか苫小牧民報で観点が違うので、それらを比べると立体的にその出来事が理解できるというメリットがあります。また、それぞれの特種記事を見ると、それぞれの福音書記者の特色を知ることができます。また共観福音書が多様であって一つであるというのは、いかにも三位一体の神様の啓示の書らしいところです。とにかく、基本はマルコ伝として、適宜、他の福音書を参照しつつ味わって行きたいと思っています。

 

1. 神の子イエス・キリストの福音のはじめ

 

 さて、マルコ福音書は最初に「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」とあります。福音euaggelionとは「良い知らせ」という意味です。神様からの良い救いの知らせが、マルコがみなさんに伝えようとしていることであるというのです。マルコという人はせっかちな人だったようで、「すぐ」ということばを多用します。1章10節、12節、18節、21節、23節、28節、29節、42節、43節をごらんください。そのせいか、マルコ伝は四福音書の中で一番短く、かつ、マタイ伝、ルカ伝、ヨハネ伝にある、クリスマスの出来事を記しませんでした。しかし、イエスは神が人となられたお方なのだというクリスマスの真理を、ひとこと「神の子イエス・キリスト」という表現だけですませています。

 マルコとしては、読者が主イエスのおことばを読み、主イエスの行動を見れば、まちがいなくこのお方は神の子であることがわかると確信しているのでしょう。とにかく速く筆を進めて、主イエスの行動を見せたい、主イエスのことばを聞かせたい、そういう気迫が伝わってくるのが、このマルコ伝1章のすばやい筆の運びです。

 

2.旧約時代最後の預言者ヨハネ

 

(1)旧約と新約の連続性と非連続性

 神の救いのご計画は大雑把にいって、旧約時代と新約時代とに分けられ、神の御子イエスが人として世に来られる前を旧約時代、来られて後を新約時代と呼びます。旧約時代は古い契約の時代、新約時代は新しい契約の時代です。

 バプテスマのヨハネ新約聖書に登場しますが、旧約時代最後の預言者です。旧約の役割は、罪に落ちて滅びの中にある人間を救うために、神が遣わしてくださるメシヤ(キリスト)の到来の準備をすることでした。旧約とは古い契約で、「神に背いてしまった人間に対して、神様が将来、罪と死から人類を救い出すキリストを遣わす」という約束です。旧約聖書は、預言や儀式や歴史を通して、メシヤの到来を告げていました。ヨハネはその旧約の仕事の仕上げをした人です。ですから、ヨハネの言葉や行動には旧約時代の預言者のメッセージが集約されています。

 

(2)いでたち

 ヨハネのいでたちは6節。「らくだの毛で織った物を着て、腰には皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」旧約聖書には、キリスト到来の前に神様は預言者エリヤのような預言者を派遣されるという預言がありました。エリヤとは、炎の預言者と呼ばれる人物で、恐るべきハンマーのようなメッセージをもって当時偶像崇拝に陥り、さまざまの罪にまみれたアハブ王とその世代に悔い改めを求めた預言者でした。ヨハネのいでたちは、炎の預言者エリヤのイメージにぴったりと重なります。また、いでたちだけでなく、その雰囲気もメッセージも峻厳なものでした。エリヤは偽りの神々を礼拝する王国に対する神の怒りを告げ、国に大干ばつと飢饉をもたらしました。彼自身も涸れてしまいそうな小川のほとりでかつかつ水をなめ、カラスのくわえてくる肉で命をつなぎました。また、バアルの預言者たちと対決して、彼らをことごとく滅ぼしてしまいました。厳しく禁欲的なイメージは荒野で叫ぶ声ヨハネに通じるところがあります。

 

(3)ヨハネの位置づけ・・・王の先触れ 

 さてヨハネについて、2、3節は言います。

 「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、

    あなたの道を整えさせよう。

  荒野で叫ぶ者の声がする。

    『主の道を用意し、

    主の通られる道をまっすぐにせよ。』」

 「わたし」は父なる神。「使い」はヨハネ。「あなた」は神の御子イエス・キリストです。よって、2節は「父なる神は、ヨハネをイエスの前に使わし、イエスの道を整えさせよう」ということです。

 「主の道を用意する」というのは、王様がおいでになる前に、その前にやってきて人々に王を迎える準備をさせる先払いの働きです。江戸時代、参勤交代で大名行列が通る前に、先触れが派遣されて、不埒な者がいないかを確かめ、道を整えさせました。前任地の信州の南佐久郡野辺山あたりは天皇陛下の保養に通られる場所があったので、先触れが出ていました。では、先触れであるヨハネが王なるイエス・キリストにお会いするために人々にさせた用意とはなんでしょうか。

 

2.罪の悔い改め(4、5節)

           

 ヨハネのメッセージは「みなさん。待ちに待った救い主が訪れましたよ。喜びましょう。」というものではありませんでした。マルコ1:4、5

 

1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。 1:5 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

 彼が説いたのは罪の悔い改めでした。もう少し詳しくその内容を並行記事のルカ3:7-14で見て見ましょう。

3:7 それで、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。 3:8 それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。 3:9 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」

 3:10 群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」

 3:11 彼は答えて言った。「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」

 3:12 取税人たちも、バプテスマを受けに出て来て、言った。「先生。私たちはどうすればよいのでしょう。」

 3:13 ヨハネは彼らに言った。「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」

 3:14 兵士たちも、彼に尋ねて言った。「私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」

 

 11-14節に見るように、ヨハネが人々に求めたことは、特に高邁な道徳ではありません。自分のもっている二枚の服や食べ物を全部持っていない人にやりなさいというのでなく、余分があるならほどこしなさいというのです。税金を肩代わりしてやりなさいというのではなく、決められた以上の税金を取ってはいけない、つまり、盗んではいけないというのです。また兵士は力にものを言わせて恐喝をするなというのです。ここに見るように、バプテスマのヨハネの要求は「当たり前」のことです。人間として当たり前の道徳というのが、律法です。旧約時代の預言者のメッセージは二つあって、第一は、悔い改めて律法に立ち返れということでした。

 しかし、私たちは、人間として当たり前のことが出来ないほどに堕落しているというのが現実です。十戒でいえば、万物の創造主以外のものを神としてはいけない。偶像を作ってはいけない。神の名をみだりに唱えてはいけない。安息日を守って神を礼拝しなさい。あなたの両親を敬いなさい。殺してはならない。浮気をしてはならない。盗んではならない。偽証をしてはいけない。隣人のものを欲しがってはいけない。・・・観念的に受け止めるだけのときは、これらの要求は当たり前のことだと思います。けれども、実際に、自分が聖なる神から要求されていることとして本気で取り組んでみると、実行できておらず、罪を犯していることがわかるものです。

 世田谷中央教会の役員さんを長く務めた今仲さんという方がいました。この方は戦時中は大陸で将校として部下を指揮し、戦後はある大きな会社で部下を従えて、世間的に言って立派な方であり、ご本人も自分はそれなりの立派な人間であると自負していました。ところがある時奥さんが教会に通うようになってクリスチャンになり教会に誘いますが、今仲さんは行きませんでした。ですが、キャンプならばということで松原湖BCに参加しました。その時のメッセンジャーは安藤仲市牧師でした。安藤牧師は十戒について、ひとつひとつ懇切丁寧に説明しました。それを聴き終わったとき今仲さんはこう思ったそうです。「自分はかなり正しい人間だと思い上がっていたが、十の戒めのうち十ことごとく、私は今までの人生で破ってきてしまったのだ。」・・・そうして今仲さんは悔い改めて主イエスを罪からの救い主と信じて、新しい人生にはいったのです。私たち人間は、当たり前の正しいことができなくなっている。それが罪の現実であり、律法はその罪の現実を私たちに明らかにするのです。そうして、自分は漠然と正しい人間だと思いあがって私たちが悔い改めてイエス様に近づく手伝いをするのです。

 

3.イエス様のわざ

 

 旧約最後の預言者ヨハネのメッセージのもう一つの内容は、キリストに関することです。旧約の預言者たちのメッセージは、第一に律法に立ち返り罪を自覚せよということであり、第二は来るべき救い主キリストを長い指をもって指差すことです。

 ヨハネはイエス様に比べたら、「自分はくつのひもをとく値打ちもない」といいました。「くつのひもを解く」とは、当時奴隷の仕事でした。その仕事にも値しないと言ったのです。イエス様と自分を比べたら「月とスッポン」自分はスッポンですと言いました。これは言い換えると、新約が月なら、旧約はスッポンだというのです。その理由はなにかといえば、「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊バプテスマをお授けになります。」ということです。

 キリストは「聖霊と火のバプテスマをお授けになる」ということが、ヨハネに勝っているはどういうことでしょうか。旧約時代には、ただ約束として将来キリストがこられて人類の罪の贖いをしてくださるのですよ、ということがあっただけで、神の霊は一握りの特別の職務にあずかる人々にだけ注がれただけです。しかし、新約の時代には、約束されたキリストが十字架と復活によって罪の贖いを実際に成し遂げて、天の父なる神の右に着座して、そこから、すべての信徒に注がれるという意味です。旧約時代、聖霊はパラパラと降るにわか雨でしたが、十字架と復活をもって、私たちを罪から贖われた主イエスは、天の父なる神のみもとから、聖霊を土砂降りの雨です。旧約時代は、王や祭司や預言者にときおり神の霊がくだってその奉仕をしました。しかし、新約時代にはすべてキリストを信じる者たちに注がれました。預言者ヨエルに書かれています。

 

 2:17 『神は言われる。

    終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。

    すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

  2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、

    わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

 

 旧約の律法(ヨハネ)は私たちに罪を認めさせ、自分で自分を救うことができないことを知らしめるだけでした。あなたは神の前に死に値する罪人だ、と。しかし、新約にあってイエス様は、聖霊をすべての信じる者に注いでくださり、罪を自覚させるだけでなく、新しいいのちをくださるのです。旧約時代、律法は石の板に刻まれていたものでした。その石の板も創造主が人間にたまわった正義の基準であるという意味では実にすばらしいものではあります。人間は、何が正しいのか、悪いのかすら、堕落後わからくなっているのですから。

 しかし、新約時代、キリストは聖霊によって、私たちの心の板に神の戒めを記してくださいました。だから、私たちは外側から規制されて無理やり主に従うのでなく、内側から自発的に主のみこころを行いたいと願うようになります。聖霊によって新しく生まれるのです。旧約時代に対して、新約の時代の聖徒の特徴は、その御霊の自由、大胆に主に近づくことができます。さらに、「息子も、娘も、青年も、老人も、しもべも、はしためも」誰でも救われた喜びのゆえに、預言するようになるのです。つまり、すべての信徒が自分で聖書を読み、自分の唇をもって神を賛美し、自分の唇をもってキリストをあかしすることが出来る時代、それが新約時代です。

 

結び

 律法あるいは旧約は、人間として当たり前の基準を明示することによって、私たちに自分の罪を悟らせます。自分の神の前には死にあたいする罪の現実をさとって、私たちが主の前に悔いるためです。

 その上、新約の時代になって、主イエスが、私たちにくださった救いは、人間の想像をはるかに超えた、すばらしいものです。私たちは、罪を悟らされるばかりでなく、主イエスの十字架と復活による救いを獲得し、さらに、聖霊の自由をもって、しかも自分勝手でなく主のみこころを行う者として、内側から変えられていくのです。私たちが輝いているのではなく、主イエスの輝く栄光を反映する者として、だんだんと造りかえられていくのです。そうして、主のあかし人として生きることができるのです。

 この幸いなキリストの福音をあかしするお互いとして、成長してまいりたいと願います。