水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

  旧約から新約へ

マルコ1:1-8

                                                               

2016年4月3日 苫小牧福音教会主日朝拝

 

1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。

  1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。

   「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。

 1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。

   『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」

 

 そのとおりに、 1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

 1:5 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。 1:6 ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 1:7 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。 1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊バプテスマをお授けになります。」

 

 

序 

 本日から、マルコ福音書を味わってまいります。苫小牧福音教会着任にあたり、聖書のどの巻からみことばを説き明かし始めようかと考え祈りました。主イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしをとおしてでなければ、誰一人父の御許に行くことはできません」と仰せになりましたから、イエス様を知るということが父なる神を知ることです。そこで、まずは福音書からイエス様のみことばをいただこうと思います。 夕礼拝では創世記を開いてまいります。これは、聖書全体の土台としてです。

 さて、福音書は4つあり、ヨハネ福音書を除く3つマタイ、マルコ、ルカは共通の事件を三つの記者の目から見ています。共観福音書と呼ばれることを多くの方がご存知でしょう。同じ事件でも、朝日、毎日、読売、あるいは北海道新聞とか苫小牧民報で観点が違うので、それらを比べると立体的にその出来事が理解できるというメリットがあります。また、それぞれの特種記事を見ると、それぞれの福音書記者の特色を知ることができます。また共観福音書が多様であって一つであるというのは、いかにも三位一体の神様の啓示の書らしいところです。とにかく、基本はマルコ伝として、適宜、他の福音書を参照しつつ味わって行きたいと思っています。

 

1. 神の子イエス・キリストの福音のはじめ

 

 さて、マルコ福音書は最初に「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」とあります。福音euaggelionとは「良い知らせ」という意味です。神様からの良い救いの知らせが、マルコがみなさんに伝えようとしていることであるというのです。マルコという人はせっかちな人だったようで、「すぐ」ということばを多用します。1章10節、12節、18節、21節、23節、28節、29節、42節、43節をごらんください。そのせいか、マルコ伝は四福音書の中で一番短く、かつ、マタイ伝、ルカ伝、ヨハネ伝にある、クリスマスの出来事を記しませんでした。しかし、イエスは神が人となられたお方なのだというクリスマスの真理を、ひとこと「神の子イエス・キリスト」という表現だけですませています。

 マルコとしては、読者が主イエスのおことばを読み、主イエスの行動を見れば、まちがいなくこのお方は神の子であることがわかると確信しているのでしょう。とにかく速く筆を進めて、主イエスの行動を見せたい、主イエスのことばを聞かせたい、そういう気迫が伝わってくるのが、このマルコ伝1章のすばやい筆の運びです。

 

2.旧約時代最後の預言者ヨハネ

 

(1)旧約と新約の連続性と非連続性

 神の救いのご計画は大雑把にいって、旧約時代と新約時代とに分けられ、神の御子イエスが人として世に来られる前を旧約時代、来られて後を新約時代と呼びます。旧約時代は古い契約の時代、新約時代は新しい契約の時代です。

 バプテスマのヨハネ新約聖書に登場しますが、旧約時代最後の預言者です。旧約の役割は、罪に落ちて滅びの中にある人間を救うために、神が遣わしてくださるメシヤ(キリスト)の到来の準備をすることでした。旧約とは古い契約で、「神に背いてしまった人間に対して、神様が将来、罪と死から人類を救い出すキリストを遣わす」という約束です。旧約聖書は、預言や儀式や歴史を通して、メシヤの到来を告げていました。ヨハネはその旧約の仕事の仕上げをした人です。ですから、ヨハネの言葉や行動には旧約時代の預言者のメッセージが集約されています。

 

(2)いでたち

 ヨハネのいでたちは6節。「らくだの毛で織った物を着て、腰には皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」旧約聖書には、キリスト到来の前に神様は預言者エリヤのような預言者を派遣されるという預言がありました。エリヤとは、炎の預言者と呼ばれる人物で、恐るべきハンマーのようなメッセージをもって当時偶像崇拝に陥り、さまざまの罪にまみれたアハブ王とその世代に悔い改めを求めた預言者でした。ヨハネのいでたちは、炎の預言者エリヤのイメージにぴったりと重なります。また、いでたちだけでなく、その雰囲気もメッセージも峻厳なものでした。エリヤは偽りの神々を礼拝する王国に対する神の怒りを告げ、国に大干ばつと飢饉をもたらしました。彼自身も涸れてしまいそうな小川のほとりでかつかつ水をなめ、カラスのくわえてくる肉で命をつなぎました。また、バアルの預言者たちと対決して、彼らをことごとく滅ぼしてしまいました。厳しく禁欲的なイメージは荒野で叫ぶ声ヨハネに通じるところがあります。

 

(3)ヨハネの位置づけ・・・王の先触れ 

 さてヨハネについて、2、3節は言います。

 「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、

    あなたの道を整えさせよう。

  荒野で叫ぶ者の声がする。

    『主の道を用意し、

    主の通られる道をまっすぐにせよ。』」

 「わたし」は父なる神。「使い」はヨハネ。「あなた」は神の御子イエス・キリストです。よって、2節は「父なる神は、ヨハネをイエスの前に使わし、イエスの道を整えさせよう」ということです。

 「主の道を用意する」というのは、王様がおいでになる前に、その前にやってきて人々に王を迎える準備をさせる先払いの働きです。江戸時代、参勤交代で大名行列が通る前に、先触れが派遣されて、不埒な者がいないかを確かめ、道を整えさせました。前任地の信州の南佐久郡野辺山あたりは天皇陛下の保養に通られる場所があったので、先触れが出ていました。では、先触れであるヨハネが王なるイエス・キリストにお会いするために人々にさせた用意とはなんでしょうか。

 

2.罪の悔い改め(4、5節)

           

 ヨハネのメッセージは「みなさん。待ちに待った救い主が訪れましたよ。喜びましょう。」というものではありませんでした。マルコ1:4、5

 

1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。 1:5 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

 彼が説いたのは罪の悔い改めでした。もう少し詳しくその内容を並行記事のルカ3:7-14で見て見ましょう。

3:7 それで、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。 3:8 それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。 3:9 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」

 3:10 群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」

 3:11 彼は答えて言った。「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」

 3:12 取税人たちも、バプテスマを受けに出て来て、言った。「先生。私たちはどうすればよいのでしょう。」

 3:13 ヨハネは彼らに言った。「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」

 3:14 兵士たちも、彼に尋ねて言った。「私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」

 

 11-14節に見るように、ヨハネが人々に求めたことは、特に高邁な道徳ではありません。自分のもっている二枚の服や食べ物を全部持っていない人にやりなさいというのでなく、余分があるならほどこしなさいというのです。税金を肩代わりしてやりなさいというのではなく、決められた以上の税金を取ってはいけない、つまり、盗んではいけないというのです。また兵士は力にものを言わせて恐喝をするなというのです。ここに見るように、バプテスマのヨハネの要求は「当たり前」のことです。人間として当たり前の道徳というのが、律法です。旧約時代の預言者のメッセージは二つあって、第一は、悔い改めて律法に立ち返れということでした。

 しかし、私たちは、人間として当たり前のことが出来ないほどに堕落しているというのが現実です。十戒でいえば、万物の創造主以外のものを神としてはいけない。偶像を作ってはいけない。神の名をみだりに唱えてはいけない。安息日を守って神を礼拝しなさい。あなたの両親を敬いなさい。殺してはならない。浮気をしてはならない。盗んではならない。偽証をしてはいけない。隣人のものを欲しがってはいけない。・・・観念的に受け止めるだけのときは、これらの要求は当たり前のことだと思います。けれども、実際に、自分が聖なる神から要求されていることとして本気で取り組んでみると、実行できておらず、罪を犯していることがわかるものです。

 世田谷中央教会の役員さんを長く務めた今仲さんという方がいました。この方は戦時中は大陸で将校として部下を指揮し、戦後はある大きな会社で部下を従えて、世間的に言って立派な方であり、ご本人も自分はそれなりの立派な人間であると自負していました。ところがある時奥さんが教会に通うようになってクリスチャンになり教会に誘いますが、今仲さんは行きませんでした。ですが、キャンプならばということで松原湖BCに参加しました。その時のメッセンジャーは安藤仲市牧師でした。安藤牧師は十戒について、ひとつひとつ懇切丁寧に説明しました。それを聴き終わったとき今仲さんはこう思ったそうです。「自分はかなり正しい人間だと思い上がっていたが、十の戒めのうち十ことごとく、私は今までの人生で破ってきてしまったのだ。」・・・そうして今仲さんは悔い改めて主イエスを罪からの救い主と信じて、新しい人生にはいったのです。私たち人間は、当たり前の正しいことができなくなっている。それが罪の現実であり、律法はその罪の現実を私たちに明らかにするのです。そうして、自分は漠然と正しい人間だと思いあがって私たちが悔い改めてイエス様に近づく手伝いをするのです。

 

3.イエス様のわざ

 

 旧約最後の預言者ヨハネのメッセージのもう一つの内容は、キリストに関することです。旧約の預言者たちのメッセージは、第一に律法に立ち返り罪を自覚せよということであり、第二は来るべき救い主キリストを長い指をもって指差すことです。

 ヨハネはイエス様に比べたら、「自分はくつのひもをとく値打ちもない」といいました。「くつのひもを解く」とは、当時奴隷の仕事でした。その仕事にも値しないと言ったのです。イエス様と自分を比べたら「月とスッポン」自分はスッポンですと言いました。これは言い換えると、新約が月なら、旧約はスッポンだというのです。その理由はなにかといえば、「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊バプテスマをお授けになります。」ということです。

 キリストは「聖霊と火のバプテスマをお授けになる」ということが、ヨハネに勝っているはどういうことでしょうか。旧約時代には、ただ約束として将来キリストがこられて人類の罪の贖いをしてくださるのですよ、ということがあっただけで、神の霊は一握りの特別の職務にあずかる人々にだけ注がれただけです。しかし、新約の時代には、約束されたキリストが十字架と復活によって罪の贖いを実際に成し遂げて、天の父なる神の右に着座して、そこから、すべての信徒に注がれるという意味です。旧約時代、聖霊はパラパラと降るにわか雨でしたが、十字架と復活をもって、私たちを罪から贖われた主イエスは、天の父なる神のみもとから、聖霊を土砂降りの雨です。旧約時代は、王や祭司や預言者にときおり神の霊がくだってその奉仕をしました。しかし、新約時代にはすべてキリストを信じる者たちに注がれました。預言者ヨエルに書かれています。

 

 2:17 『神は言われる。

    終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。

    すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

  2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、

    わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

 

 旧約の律法(ヨハネ)は私たちに罪を認めさせ、自分で自分を救うことができないことを知らしめるだけでした。あなたは神の前に死に値する罪人だ、と。しかし、新約にあってイエス様は、聖霊をすべての信じる者に注いでくださり、罪を自覚させるだけでなく、新しいいのちをくださるのです。旧約時代、律法は石の板に刻まれていたものでした。その石の板も創造主が人間にたまわった正義の基準であるという意味では実にすばらしいものではあります。人間は、何が正しいのか、悪いのかすら、堕落後わからくなっているのですから。

 しかし、新約時代、キリストは聖霊によって、私たちの心の板に神の戒めを記してくださいました。だから、私たちは外側から規制されて無理やり主に従うのでなく、内側から自発的に主のみこころを行いたいと願うようになります。聖霊によって新しく生まれるのです。旧約時代に対して、新約の時代の聖徒の特徴は、その御霊の自由、大胆に主に近づくことができます。さらに、「息子も、娘も、青年も、老人も、しもべも、はしためも」誰でも救われた喜びのゆえに、預言するようになるのです。つまり、すべての信徒が自分で聖書を読み、自分の唇をもって神を賛美し、自分の唇をもってキリストをあかしすることが出来る時代、それが新約時代です。

 

結び

 律法あるいは旧約は、人間として当たり前の基準を明示することによって、私たちに自分の罪を悟らせます。自分の神の前には死にあたいする罪の現実をさとって、私たちが主の前に悔いるためです。

 その上、新約の時代になって、主イエスが、私たちにくださった救いは、人間の想像をはるかに超えた、すばらしいものです。私たちは、罪を悟らされるばかりでなく、主イエスの十字架と復活による救いを獲得し、さらに、聖霊の自由をもって、しかも自分勝手でなく主のみこころを行う者として、内側から変えられていくのです。私たちが輝いているのではなく、主イエスの輝く栄光を反映する者として、だんだんと造りかえられていくのです。そうして、主のあかし人として生きることができるのです。

 この幸いなキリストの福音をあかしするお互いとして、成長してまいりたいと願います。