水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

神を畏れて生きよ

出エジプト記1章1-22節

 

1.へブル人の危機

 

 本日から出エジプト記を味わいます。アブラハムがおよそ紀元前2000年の人で、その息子イサク、孫ヤコブと続き、ヤコブの時代に一族はエジプトへと下ります。それが1800年頃のことです。その時代からおよそ400年後が、本日から読み始める出エジプト記の出来事です。イスラエルの民のエジプト脱出の時期は、紀元前15世紀または14世紀の出来事でした。まず、出エジプト記は、モーセ誕生という出来事の歴史的背景を、1章1節から22節はていねいに記しています。

 「さて、ヤコブといっしょに、それぞれ自分の家族を連れて、エジプトへ行ったイスラエルの子たちの名は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ。 1:3 イッサカル、ゼブルンと、ベニヤミン。ダンとナフタリ。ガドとアシェル。 1:5 ヤコブから生まれた者の総数は七十人であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。」(1:1-5)

 アブラハムの孫ヤコブが、紀元前1800年頃一族を連れてエジプトの地にくだったのは、数年にわたって彼らが住んでいたカナンの地が雨が一滴もふらない飢饉のゆえでした。そんなときにも、エジプトにはアフリカの奥地のジャングルに降る雨水を集めた大ナイル川があり、水が確保されていました。それに、ヨセフが不思議な導きでヤコブの12人の息子のうち下から二番目の息子ヨセフがエジプトの宰相となってエジプト国内に莫大な食料を蓄えていて、父ヤコブと兄弟たちを迎えたてくれたからです。

 ヨセフがエジプトに連れられて行った時、エジプトの王は第16王朝のアペピ2世だったと考えられています。この王は1800年頃、第16王朝というのはヒクソス人というセム騎馬民族征服王朝で、エジプト土着の人々の王朝ではありませんでした。自分の右腕としてエジプト統治を助けてくれるヨセフ、そして、ヤコブ一族はセム系ですから親近感もあったのでしょう。王はイスラエルを厚遇したのです。それでしばらくの間イスラエル人たちは、エジプトに安住していました。やがて、「そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死」んでいきます(6節)。そして、「その子孫たちは、多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた」のです(7節)。

 

 ところが、時代がくだって社会情勢が変化してきます。「ヨセフを知らない新しい王がエジプトに起こった」(8節)とあるとおりです。王朝が交代したのです。それは、エジプトに昔から住んでいた民族が異民族のヒクソク人たちを追い出して、自分たちの王朝を復興したのです。これをエジプト新王国時代といいます。このエジプト新王国時代、エジプトは領土を拡張して世界帝国にした好戦的な王たちが起こりました。新王国時代は、異民族を追放したという民族主義的な王朝でしたから、かつてヒクソス王朝に優遇されていたイスラエルの民は、冷遇・弾圧されることになります。モーセが生まれたのは、このエジプト新王国時代、寄留するイスラエルにとっては苦難の時代のことだったのです。

 出エジプト記1章に出てくる王は、考古学者によればラメセス2世かトゥトメス3世という二つの説があり、それぞれに相当の根拠はあるのですが、私は総合的に判断してトゥトメス3世(1500BC)とするのが適切であろうと思います。王はイスラエルの民は労働力として生かしておかねばならないが、強くなりすぎると王朝にとっては危険であると考えました。とくにイスラエル人は人口が急激に増えていましたので、王の目には脅威として映ったのでした。

 「彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くといけないから。」

 そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、 1:14 粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。」(1:9-13)

 

 2 神を畏れる女たち

  しかし、このような暴君の時代にも勇気ある人たちがいました。しかも、それは屈強な男たちではなく、ヘブル人の名もなき女性たちでした。彼女たちは、神がこの世に生まれさせようとするいのちを産ませることこそ自分たちの使命であると認識していました。生まれてくる赤ん坊のいのちを奪い取ることは神に背く恐るべき罪であると認識していましたので、絶対君主の命令に背いてまでもヘブル人の赤ん坊を取り上げたのでした。

 「また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに言った。そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。

  彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」

  しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。

  そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼び寄せて言った。「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」

   助産婦たちはパロに答えた。「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」

   神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった。 助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。」(1:15-21)

 業を煮やした王は、エジプト人たちに命令しました。「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」(22節)実に鬼のような王です。

 先ほど、私は「名もなきヘブル人の女性たち」と申し上げましたが、神様はエジプトのファラオの名は伏せておいて、産婆さんたちの名をここに特筆して残させました。「シフラとプア」という名でした。シフラは日本風に言えば好ましい子と書いて、好子さん、プアは語源不明です。歴史家の目には特段価値のない名でしょうが、神の御目には特段価値ある名なのです。

 

3 『生ましめんかな』

 

 この二人の産婆さんの記事を読むと、私は必ず栗原貞子さんの詩を思い出します。

 

「生ましめんかな」

こわれたビルディングの地下室の夜だった。

原子爆弾の負傷者たちは

ローソク1本ない暗い地下室を

うずめて、いっぱいだった。

生ぐさい血の匂い、死臭。

汗くさい人いきれ、うめきごえ

その中から不思議な声が聞こえて来た。

「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。

この地獄の底のような地下室で

今、若い女が産気づいているのだ。

 

マッチ1本ないくらがりで

どうしたらいいのだろう

人々は自分の痛みを忘れて気づかった。

と、「私が産婆です。私が生ませましょう」

と言ったのは

さっきまでうめいていた重傷者だ。

かくてくらがりの地獄の底で

新しい生命は生まれた。

かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。

生ましめんかな

生ましめんかな

己が命捨つとも

 

 

 最初の女性の名をエバ、すべていのちあるものの母という名でした。女性は、男よりもいのちを尊ぶ性質があるのです。子を産むこと、育てること、家族のいのちを守る食事を用意すること。こうしたことに必要な、いのちを大切にしたいという性質を神様は女性にお与えになったのでしょう。己が命を捨てても、子どものいのちを守りたいという情熱を神は女性に授けられました。

 

結び

 歴史家たちが注目する、歴史の表舞台に立ち、歴史に名を残すのはたいてい男であり、モーセはそういう英雄の一人です。けれども、モーセが歴史の舞台に立つためには、その蔭でこのような神を畏れる勇気ある二人の産婆さんがいたのです。名もない産婆さんです。でも、神様は彼女たちの名前が聖書に残ることを望まれました。シフラそしてプアという産婆です。

 面白いことに、出エジプト記には当時の世界の最高権力者エジプトのファラオの名は記録せず、二人の産婆さんの名が記録されているのです。歴史家たちが目を付けるところと、神が目を止められるところは違うのですね。

 モーセを歴史に登場させ、イスラエルを救出し、旧約の啓示を与えるのは確かに神様のご計画でした。しかし、神のご計画はどのようにして実現していくのか。神は、ご自分の計画を遂行されるにあたって、神を畏れる者に期待し、お用いになるのです。神の計画は、それは神を信じる者たちの、信仰の行動によって実現していくものなのでした。それも神の摂理の御手のなかにあることなのです。私たちは歴史に名を残すような大きな者ではなく、小さな道端の石ころのようなものかもしれません。けれども、そんな路傍の石ころでも神を信じる勇気をもって生きるなら、神はその名を憶えていてくださいます。

   時は迫っている

ロマ13:11-14

                             

2019年1月6日 苫小牧主日朝礼拝

 13:11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。

 13:12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。

 13:13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。

 13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

 

 

1.今という時

 

「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。」と。「今」という時の時代認識と、キリスト者の生き方について教えられるところです。

 「このように行いなさい」という内容は、前に述べられた内容を指しています。つまり、12章の頭からいえば、「生活のすべてが礼拝であると心得て生きなさい」ということです。直近でいえば、「キリスト者として、まず負い目なく果たすべき義務は果たし、さらに隣人を自分自身のように愛する愛の負債を負って生きよ」ということです。

 では、「今はどのような時」なのか。この「時」は時計的な時クロノスでなく、カイロス決定的な時です。あなたは「今」がどのような時か知っていますか。パウロはいくつかの表現をもって「今」がどのような時であるかを表しています。「眠りからさめるべき時刻」また、「救いが近づいている時刻」、「夜ふけ」夜に代えて「昼」が近づいている時刻にほかなりません。それは、つまり世界の究極的な救いであるキリストの再臨と最後の審判と「新しい天と新しい地」の到来が近づいている時であるということです。

 そして、それが「夜更け」であるというのは、最後の審判と再臨と新天新地が近づいた時代には、世界はノアの大洪水の前夜のように、多くの人々が神に背を向け、愛の冷えた暗い時代となるということを意味しています。

 

 神は無から万物を創造し、人間をご自分の御子に似たものとして造り、世界を人間に治めさせて、神の栄光をあらわす生活をさせようとされました。しかし、人間は与えられた自由意志を悪用して、神に背いて自分勝手な道に歩み始めたのです。そこで、神は一度は大洪水をもって世界をほろぼしました。それでも神はノアの家族を地上に残しましたが、人類が世界に広がり増えていくとまたも神に背く歩みをはじめました。そこで、神の御子イエスは二千年前に地上に来られて、十字架と復活によって私たちの神様の御前における罪の償いを完了し、天に帰って教会に聖霊を注がれたのです。以来、教会はこのイエス様による救いの知らせを世界に宣べ伝え始めたのです。

 主の約束によれば、やがてイエス様の福音が世界中の民族国語に行き渡ったならば、そのとき、イエス様は再び天からもどって来られて、最後の審判を行なわれます。その時が「眠りからさめるべき時」です。死者はからだをもって復活し、この世に生きている私たちは一瞬にして復活のからだに変えられ、白い御座の裁きの場に出されて、大きな者も小さな者も一人一人判決を受けることになります。そして、古い天地は去って新しい天と新しい地に更新されます。そこは罪も死もなく、「正義が住む新しい天と新しい地」です。キリストによるこの上なく公正な最後の審判と、新天新地が近づいている、それが今という時です。

 

  夜更け

 

 主イエス様が再臨される前は、「夜がふけ」と呼ばれています。光が失われて闇がどんどん濃くなっていく時代だということです。光とは真理の光ですから、光がなくなると何が善であり何が悪であるかがわからなくなってしまいます。

 それをもう少し詳しくパウロは別の箇所で語っています。2テモテ3:1-5「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神を汚すもの、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。」

 よくもまあこんなに悪者のリストアップができるものだと思いますが、二つだけとりあげます。筆頭に上げられるのは「自分を愛する者」です。それは健全な自己受容ということでなく、利己的な生き方をする者ということです。次に「金を愛する者」マモニストです。「結局、カネがすべてだ」という価値観に生きている者です。苫小牧にカジノを誘致しようという動きがあります。いろいろなメリットを訴える人々がいるようですが、どんな理屈をつけても、カネのために、ギャンブル依存症でおかしくなる人、崩壊する夫婦、苦しむ子供たちが出てくることは火を見るよりも明らかです。

 さらに、主イエスが御自分が再び戻ってこられる前兆として話されたことを見ておきましょう(マルコ13章)。世界的な前兆としては、第一に偽キリストの登場。第二に、戦争と戦争の噂です。第三に、地震やききんが方々に起こるということです。教会にかかわる前兆は、第一に国家によるキリスト教徒への弾圧とそれによって背教者が出ることです。第二に、その困難のなかでキリストの福音が世界のあらゆる民族国語に伝えられることです。これが「夜は更け、昼が近づいた」と言われる時代のありさまです。

 今は、主の再臨と審判と新天新地が近づいた時代であることに気づかない人はいないでしょう。偽キリストたちは人々を惑わしています。民族戦争の頻発や、地震やききんや自然災害のことはニュースに聞かない日はないほどです。日本列島を近々巨大な地震津波が襲うと警告されてもいます。2018年を象徴する漢字は「災」だったそうです。そして、主イエスの福音は今世紀半ばには世界の民族国語に到達しつつあります。隣国の政府は、昨年からキリスト教会の弾圧を激しくするようになり、公認教会・地下教会を問わず、指導者たちは連れ去られ、会堂は破壊されています。闇は深く深くなっています。

 

.闇の業をうち捨てよう

 

 しかし、闇が最も濃くなったそのとき、主イエス様が来られてこの闇を晴らしてくださいます。暗闇でなされている悪行のすべては白日の下でさばかれて罰が与えられます。また、人目に隠れてなされた愛のわざも神様は良い物をもって報いて下さいます。そして、新しい天と新しい地が来るのです。

 私たちは、この希望によって生きるのです。クリスチャンとしての人生は、信仰によって義とされたというところから始まります。私たちは信仰によってキリストの義を受け取り、キリストにあって神の子とされました。 義と認められ、子とされた私たちは、再び来たり給う主イエスにお会いする最後の審判の時を希望をもって生きるのです。主が再びもどって来られた時に忠実なしもべとしてのこの世における生活ぶりを見て頂けるように生きよと聖書は教えます。再び戻られた主イエス様に喜ばれる生き方とはなんでしょうか。それは、全身全霊をもって神様を愛し、自分自身のように隣人を愛するという生き方です。善をもって悪に打ち勝つ生き方です。

 主イエスが再び来られるという希望を持つとき、私たちは闇のわざを捨てます。かつて神を見失って、なんのために生きているかわからないというときに、その空しさからのがれるために「遊興・酩酊」に身を沈めていたでしょう。そして、酩酊遊興にふけると、「淫乱、好色」といった破廉恥罪に陥ってしまいます。そして、「淫乱・好色」といった罪の結末は、夫婦関係、家族関係、友人関係に「争いとねたみ」をもたらしてしまっていました。しかし、キリストを信じて神との交わりのうちに入れていただき、生きる目的は神の栄光をあらわすことであると知ってから、私たちは闇のわざを捨てたのです。

 

結び キリストを着よ・・・昼間らしい、正しい生き方

 

 イエス様が来られれば暗闇は去ります。主イエスが再び来られることに希望をもつならば、その御前に出ることを思うならば、私たちの生き方は変わります。パウロは「キリストを着る」という表現で何を教えようとしているのでしょう。より具体的にはどういうことかということを思いめぐらして、「神の武具」に思い至りました。エペソ6:13-17

 6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

 6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、

 6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。

 6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

 6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

 

 「時」は迫っています。「神などいない」という風潮が地を覆い、愛は冷え人々は利己的になり、汚れたことに身を染めています。暗闇はますます深くなっています。しかし、暗闇が深くなればなるほど、光は貴重なものとなります。昨年、北海道は大停電を経験して私たちは光の貴重さということを体験しました。私たちキリスト者は、今という時代に世の光として遣わされている貴重な存在です。

 2019年を迎え、ますますその時は迫っています。悔い改めて闇のわざを打ち捨て、光の武具であるみことばの剣を帯びて、平和の福音を足にはいて福音を人々に届けましょう。そうして、祈りに励む一年間でありましょう。

   愛の負債

ロマ13:8-10

                              

2018年12月30日 苫小牧主日

 

 13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

 13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。

 13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

 

 2018年の52回の主の日を主にある兄弟姉妹たちととも礼拝を捧げることが許されたことを感謝します。今年、主の御許に引っ越した二人の兄弟姉妹がおり、じかに主にお目にかかって礼拝をささげています。天国が一層慕わしくなりました。

 また、私は病気にもならず、神様からメッセージをいただいて、毎週お伝えできたこと、説教者のために祈ってくださったことを感謝します。

 私たちは聖書の中で、もっとも順序よく書かれたローマ書から、神様の救いの計画の全貌を学んできました。まず、キリストに結ばれて罪赦され、神の子どもとされ、キリストに似た者に造り変えられていくことを1章から8章で学びました。そして、9章から11章で世界の救いの計画。12章以降は、救われた者としていかに生きるかを学んでいるところです。
 第一に、私たちの人生そのものが礼拝であること。

 第二に、キリストのからだである教会につながって生きることの大切さ。

 第三に、善をもって悪に打ち勝つべきこと。

 第四に、国家は神のしもべであるから、これを尊重し、かつ、絶対化しないことがたいせつであること。

 そして、本日は、律法と愛についてです。

 

1.律法=義務・・・無律法主義に陥るな

 

(1)律法は義務を教える

 律法というのは、人間として当然してはならないこと、果たすべき義務について教えているものです。その義務を果たさないことはすなわち罪です。律法の要約である十戒は次のように教えています。

 ①あなたには、わたしのほかに、他の神々があってはならない。

 ②あなたは、自分のために偶像を造ってはならない。

  私たちは真の神のみを礼拝する義務があります。神を礼拝せず、偶像を拝むことは罪です。

 ③主の御名をみだりに唱えてはならない。

 ④安息日をおぼえて、これを聖なる日とせよ。

 ⑤あなたの父母を敬え。

 ⑥殺してはならない。

 ⑦姦淫してはならない。

 ⑧盗んではならない。

 ⑨偽証してはならない。

 ⑩隣人のものを欲しがってはならない。

 律法は、このように神の前に人間として当然、果たすべき義務と、その裏返しとして、してはならないことを教えています。

 

(2)誰に対しても、何の借りもあってはいけません=義務を果たしなさい

 パウロは、まず「13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。」と命じます。

これは、単に借金するなということを言っているのではありません。前のところで国に対してはちゃんと税金を収めなさいと言ったように、国だけでなくだれに対しても果たすべき義務を果たせと言っているのです。ここでパウロがいう「借り」すなわち負債とは、果たすべき義務をはたしていないことを意味しています。

 神に生かされている私たち人間は、神に感謝し礼拝する義務があります。神を礼拝しないことは、罪であり神の前の負い目です。

 親は子を養育する義務があります。もし親が子どもを養育しないならば、親は子に対して負い目があることになります。

 子は父母に対しては、親孝行するという義務があります。もし子が親を敬わないならば、子は親に対して罪を犯し負い目があることになります。

 教師は学生を教え導く義務があります。もし教師が学生をちゃんと教えないならば、教師は学生に負い目があることになります。

 学生は教師に対して尊敬の義務があります。もし学生が教師を尊敬しないならば、学生は教師に負い目があることになります。

 教会員は、教会員になるとき、神様の前で、「自分の最善を尽くして主日礼拝を守り、教会の純潔と平和と一致のために、教会員としての義務を果たします」と誓約をしています。もし、それを果たしていなければ、負い目があることになります。

 神さまは、家族・社会・教会のなかで、私たちそれぞれに立場を与えて、義務を与えておられます。「誰に対しても、何の借りもあってはなりません」とは、まずは、それら様々のはたすべき義務を、誠実に果たしなさいということです。当たり前のことです。

 なんでパウロは、まずこんなことを力説するのでしょう? 恐らくそれは、「神様は恵みだけで救ってくださったのだから、クリスチャンはなんの義務も負ってはいないのだ。」と誤解している人がいたからです。いわゆる無律法主義という過ちに陥っているクリスチャンです。律法の行いを根拠として救われるという律法主義は間違いですが、逆に、恵みによって救われたからクリスチャンは何の果たすべき義務もないという無律法主義も間違いです。

 確かに、私たちは恵みによってキリストの義を根拠として救われました。だから、私たちは律法を守らないと地獄に落ちるから、怖いから律法を守るのではありません。律法が正しい神のご命令を私たちに告げており、私たちは神を愛しているから、自由人として律法を満たして生きるのです。「なんの借りもあってはなりません」というのは、積極的にいえば果たすべき義務を自ら進んで積極的に果たせということです。国家に対して、地域社会に対して、会社に対して、隣人に対して、教会に対して、それぞれ義務を積極的に果たしてこそ、私たちは自由人として生きることができます。

 最近の日本語では「義務」というのが「いやいややらされること」というふうに誤解している人が多いようです。しかし、義務とは義(ただ)しい務めです。正しい務めですから、喜び勇んで実行することです。

 

2.ただし、互いに愛しあうことについては別です。

 

 次に、「互いに愛しあうことについては別です」とはどういう意味でしょうか。今度は、律法の要求、義務ということより、次元の高い話です。「愛する」ことについては、私たちはどんなに愛したとしても隣人に対する負い目を返済しきることはできないという意味です。つまり、「私はもうあの人を十分に愛しましたから、もうあの人を愛する義務はありません。」と、見捨ててしまうということはありえないということです。「もう十分愛しましたから」といった瞬間、それはもはや愛ではなくなってしまいます。

 「愛は絶えることがありません。」とあるごとく、愛するという負い目は、返済完了することはありません。ひとたび、主によって出会いを与えられ、友情を結んだならば、生涯愛し続けることです。愛の負い目は永久です。

 紀元前千年、イスラエル王国の初期にヨナタンという王子がいました。ヨナタンは、青年ダビデが巨人ゴリヤテを倒したときに、ダビデと友情の契約を主の御前に結びました。ダビデはやがてヨナタンの父サウルの下にある軍人として頭角をあらわしてきます。そればかりか、ダビデは次の王として主がお立てになった方であるということをヨナタンは知ります。つまり、自分が将来約束されている王座にダビデが座るというのです。しかし、ヨナタンダビデに対する友情は、一分もゆるぐことがありませんでした。ヨナタンは終生ダビデに対する友情を保ち続け、自分のいのちをかけてダビデを守りました。ヨナタンが死んだ時、ダビデは嘆きました。「あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器は失せた。」(2サムエル1:26、27)

 この世には、親友のごとくにふるまっていながら、いざ自分の立場がその友情のために危うくなるといともたやすく裏切る者がいます。そして、かつての友について悪口を言って回るような恥知らずがいます。しかし、私たちは、そうはありたくありません。いかにその友とかかわりを持つことが己にとって不利になったとしても、「誰に対しても何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。」愛の負い目だけは生涯負い続けるものです。

 松原湖バイブルキャンプ教会でかつて川島牧師夫妻が奉仕をなさいました。その時に、小海町の二人の学校に上がるか上がらないかの少女がお世話になったのです。川島先生ご夫妻は体を痛めて、この地を離れてからもずっとこの二人を愛し執り成し祈り続け、励まし続けられました。やがて、少女たちは長じて一人は二十歳を越えて、もう一人は五十歳を越えて、ようやくイエス様の洗礼を受けることになりました。川島先生ご夫妻には、彼女たちに対する義務や責任はなかったでしょう。けれども、愛ゆえに祈り続けたのです。  

                                                                                                                             

3.愛は律法をまっとうする

 

 パウロは、主イエスにならって言います。「他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」主イエスは、旧約の多くの戒めを要約して神を愛せよという戒めと、隣人を己のごとく愛せよという戒めに要約なさいました。しかし、もっと正確にいうならば、愛は単なる要約ではなく、もっと高い次元のことです。全身全霊をもって神様を愛することは、第一の戒めから第四の戒めを守るよりも高い次元のことです。偶像崇拝をせず、主のお名前をみだりに口にせず、安息日を守るということだけで、イコール、全身全霊をもって神様を愛していることにはならないでしょう。でも、神様を全身全霊をもって愛している人は、偶像崇拝はせず、御名をみだりに唱えず、安息日を守ります。

 同じように、己を愛するように隣人を愛することは、十戒の第五番目から第十番目を守ること以上のことであり、かつ、第五番目から第十番目をふくんでいることです。己を愛するように隣人を愛している人は親孝行だし、殺さないし、姦淫しないし、盗まないし、偽証しないし、隣人のしあわせをねたんだりしません。

 こういうわけで、隣人を愛する人は、律法を完全に守っているのです。それは、主イエスの御生涯にはっきりと現れています。だカール・ヒルティがこんなことを言っていました。「私たちは、あの人にとって何をはかってやることが、正しいことかと考えるよりも、どうしてあげることが私があの人を愛することか、と考えるときにもっとも賢明な選択をすることができる。」

 私たちは、人に対してどうはかってあげるのが正しいことかという考え方をするとき、しばしば自分を裁き主の立場において、思い上がってしまうことがあることを、ヒルティは暗に指摘しているのでしょう。そうでなく、彼を愛するとはどうすることかと考えるのです。

 ただし、そこでいう「愛する」とはどういうことかを理解しておく必要があります。「愛」という美名で自己中心的な欲求を意味することが多いからです。この隣人愛は、どのように要約されるでしょうか。いつかも紹介しましたが、キェルケゴールのことばをもう一度紹介します。みなさん、理解して憶えてください。

「人を愛するとは、その人が神を愛することができるように助けてやることであり、人に愛されるとは、私が神を愛することができるように助けられることである。」

 自分を勘定に入れず、ただその人が神様を愛することができるように助けるには、何をすればよいのか?と祈り考え、行動するのです。もしかすると、その結果、自分は相手に疎まれるかもしれません。それでも、もしそれが相手がほんとうに神様を愛することに役立つことであるならば、そのように行動する。ほんとうの愛というのは、時にはそういう厳しさをふくむものです。

 

むすび

 今日、キリスト者の生き方について二つのことを学びました。

 第一は、天に国籍を持つクリスチャンとして、私たちはこの世にあっても、この世にしばられない神のしもべ、自由人です。キリストにある自由人として生きるために、私たちはこの世に負い目を負わぬために積極的に義務を果たしましょう。義務をなおざりにして借りを造ってはいけません。

 第二は、クリスチャンとしてさらに高い次元です。それは、愛することです。「人を愛するとは、その人が神を愛することができるように助けてやることであり、人に愛されるとは、私が神を愛することができるように助けられることである。」

                                               

 

黄金・乳香・没薬

マタイ2:11

2018年12月23日 夕礼拝

 

 「そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」マタイ2:11

 

はじめに

 子どものころを振り返ってみると、一年に二回楽しみな日がありました。それは自分の誕生日とクリスマスでした。楽しみの一つはクリスマスケーキでした。当時庶民の生活においては、子どもの口にケーキが入るのは、一年にこれら二つの日にだけでした。クリスマスケーキには、白いクリームにイチゴが乗っていたり、雪にうずもれた家やもみの木やサンタのマジパンが乗っかっていたものです。うちは七人家族でしたが、母がその丸い大きなケーキを包丁で切るのをじっと見ていて、子どもたちは一番大きな一切れがどれかをよく見定めようとしたものでした。なんだか夢のようにおいしそうに見えたものですが、実際には当時のケーキはずいぶん甘いバタークリームが塗りたくられていて、すぐにおなかいっぱいになってしまって「もういい」と言ったものでした。

 そして、クリスマスのもう一つの楽しみというのは、イブの翌朝、出現していたプレゼントでした。サンタさんの出現を見届けようとして、薄目でがんばったものですが、いつも寝てしまいました。

 19歳にクリスチャンになり、やがて牧師になって結婚し、クリスチャン家庭を築くという恵みに与るようになりました。長男は小学生のとき頼まれて近所数軒を新聞配達するようになり、たまったお金で、母親や父親の誕生日にはプレゼントをくれるようになりました。そして、ある年のクリスマスが近づいたころ、まだ小学校にも上がらない長男がこう言いました。「クリスマスはイエス様のお誕生日なのでしょう。お誕生日には、そのお誕生日の人がプレゼントをもらうのに、どうしてイエス様でなくて、ぼくがプレゼントがもらえるの?」

 驚いて、はっきりと説明することができませんでした。たしかに息子が言うとおりでした。自分はクリスマスをなんだか、人間の都合、人間の楽しみのために受けることばかり考えている日にしてはいなかっただろうか。この日は、むしろキリストに自分をおささげする日であったのだと教えられたのです。

最初のクリスマス、つまり、神の御子であるイエス・キリストが地上に人となってお生まれくださったとき、はるか東の方からやってきた賢者たちはそれぞれに「黄金、乳香、没薬」というプレゼントをイエス・キリストに対しておささげしたのです。そして、この一つ一つのささげものにはイエス・キリストがどのようなお方であり、どのような使命をになっていらっしゃるのかということが表されています。

 

  • 黄金

  黄金とは、金属の中で最も尊いものです。鉄であれ、アルミニウムであれ、銅であれ、それぞれに有用ですが、どうしても酸化してさびがついてしまうものです。銀はたしかに美しく上品な輝きを発するものですが、それでもすぐに曇って黒いアクのようなものが着いてしまいますから、銀の食器や調度品はいつもきれいに管理しておくのはなかなか大変なことです。それに比べて金はさびがつくことがなく輝いています。変質しない金は、金属の中の王としての地位を保ち続けているわけです。最近のように景気が不安定になっても、金には不動の価値があるので、人気が出てきているそうです。

 東方から訪れた博士のひとりがイエス・キリストに黄金をささげたという記録は、イエスが世界の王としてこられたことを象徴しているのです。「イエス様、あなたは王様です」という博士の信仰告白であると言ってもよいでしょう。博士たちは、エルサレムにやってきて「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」と尋ねたでしょう。母マリヤに、天使が告げたことばのなかにも、「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」(ルカ1:32)とありました。イエス・キリストは王としてこられたのです。

 「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」と主イエスはあるときに宣言なさいました。主イエスはこの世界で絶対の主権をもっていらっしゃるのです。そして、私たちはイエス様を王様ですと告白するとき、イエス様に私は従いますと臣下としての誓いをすることになります。

 

 ・乳香

 次に乳香とはなんでしょうか。乳香というのは、カラン科の乳香樹の樹液です。一度だけ私もこれにさわったこと、嗅いだことがあります。この樹液は乳白色のもので、とてもよい香がします。聖書の中でかぐわしい香は、祈りの象徴とされています。

 聖書によれば祈りがささげられる相手とは、ただひとり神のみです。いかに偉大な人間であっても、ものであっても、祈りの対象としてはならないのです。人間や動物や植物や太陽などいかなる被造物も祈りの対象としてはならないというのが、聖書の戒めです。

 祈りの相手はただひとり万物の創造主である神のみです。というわけで、東方の博士のひとりが御子イエスに差し出したかぐわしい乳香は、イエス・キリストの神性つまりイエスが神であられることを表しているのです。イエス・キリストというお方は、もともと万物の存在する前から永遠の昔から存在していらっしゃる神なのです。そのお方が、二千年前、人として地上にお生まれになったのです。

 日本では少しなにか人より秀でていると「神」とか言います。けれども、イエス様が生まれたイスラエルでは、そうではありません。天地の創造主、天地万物の主権者以外には、決して祈ってはならないし、礼拝をささげてはならないというのは、聖書の世界における第一の戒めなのです。そういう聖書の世界であることを前提にして、このクリスマスの記事を見ると、異様なことが書かれているではありませんか。東方から来た博士たちは、「幼子の前にひれ伏して拝んだ」と書いてあります。そして、祈りの象徴である乳香を幼子にささげたのです。これはいうまでもなく、この馬小屋のイエス・キリストが神であられるということを表しているのです。

エスはなにか立派な業績があったから神とあがめられるようになったわけではありません。イエスは人として地上に生まれたそのときから、神としてあがめられたのです。

 

・没薬

 

 黄金は、イエス・キリストが王であることを表わし、乳香はイエスが神であられることを表わしました。母マリヤとヨセフにしてみれば、黄金といい、乳香といい、贈り物として受け取るのはすばらしいことだと感じたでしょう。やはり、天使が告げたとおり、この子は神が人となられたお方として、王として救い主として来られたのだと厳かな喜ばしい思いがしたにちがいありません。

 東の国の博士が差し出した三番目の贈り物である没薬とはミルラと呼ばれ、死体の防腐剤として用いられたものでした。エジプトでミイラを作るときにもちいられたそうです。たいへん高価なものだったという点では、黄金や乳香と同じです。没薬はほかに胃薬などにもなったといわれるものですが、福音書のなかで実際に没薬が用いられている場面を見てみると、それはイエス様が十字架にかけられて、死後、葬られた場面です。ニコデモがイエスが埋葬されるときに30kgもの没薬を持参したとあります(ヨハネ19:39)。

 確かに、イエス・キリストは、王です。そして、神です。では、王であり神であるイエス様が、なぜわざわざ私たちが住むこの世界に来られたのでしょうか。それは、十字架に磔にされて激しく苦しんだ後に、死ぬためでした。飼い葉おけの中の赤ん坊は、クリスマスの出来事から33年後、もっともむごたらしい処刑の方法十字架にかかって死ぬことになっていたのです。それは、私たちの神の前での罪をあがなうためでした。赤ん坊のイエス様のもとに没薬がささげられたという出来事は、イエス様の地上における罪のあがないという使命を暗示していたのです。

 「ちいさな手」というクリスマスの賛美があります。

 

ひときわ輝く 星のひかりが
小さな馬屋を照らした
冷たい風 心まで貫く この世界に

罪の重さを知った私は
心震わせて 向かった
小さな灯りともる
あなたのいるその部屋へ

あなたは今この中に
飼い葉桶で眠っている
そっと触れた 小さな手は
私のため 傷つくことを知ってるのに
やさしく握り返した
私に微笑みながら

この新しい賛美歌のことばを味わうとき、あたかも自分が2000年の時を超えて、ユダヤベツレヘムの厩に出かけて行き、飼い葉おけに眠るあかんぼうのイエスに出会っているような気持ちになります。その歌詞の折り返しの部分に、次のようにあります。

「そっと触れた小さな手は、わたしのため傷つくこと知ってるのに、やさしく握り返した。わたしにほほえみながら。」

赤ちゃんのイエス様のやわらかい手に、私がそっと触れると、赤ん坊のイエス様は微笑んで私の手をやさしく返してくれたというのです。その手には、後に、私の罪のために十字架に釘付けにされることになっているのです。でも、その手で、やさしく握り返したというのです。まるでこう語りかけるように。

「だいじょうぶだよ。ぼくは、あなたの罪を身代わりに背負うために生まれてきたんだから。」

 

王であり、神であるイエス様は、いとも小さな赤ん坊としてへりくだりのきわみの姿で私たちのところに来てくださいました。永遠から永遠にいます神様のひとり子は、あなたを赦すためにこの世の来られたのです。恐れる必要はありません。「神などいらない」などと虚勢を張る必要はありません。

「私は神様のまえに罪を犯している罪人です。どれほど、神様に盾突き、また、人を傷つけてきたかわからないほどです。どうぞイエス様の十字架の苦しみと死のゆえに私をゆるしてください」と、主イエスのまえに祈りましょう。

 クリスマスは、私たちが主イエスに自分のもっともたいせつなものをプレゼントする日です。しかし、それに先立って、イエスさまはご自分のいのちを私たちにプレゼントしてくださったのです。


小さな手

 

国家:神のしもべ

ローマ13:1-7

2018年12月16日 苫小牧主日礼拝

13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
13:2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
13:3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。
13:4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。
13:5 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。
13:6 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。
13:7 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。

 

1.国家は世俗領域における権威である

 「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげなさい。これこそあなたがたの理にかなった礼拝です。」ということばから始まった、神のみこころにかなうキリスト者としての礼拝的人生の勧めを私たちは学んでいます。今日は、その第三番目のポイントです。第一のポイントははキリストの体である教会に結ばれて生きることでした。第二のポイントでは、ノンクリスチャンで迫害してくるような人々に対しては、個人的には復讐せずさばきは神にゆだねて、善をもって悪に打ち勝ちなさいということでした。そして、本日、第三のポイントは「上に立つ権威」というものをどのように理解して生活すべきかということです。
 聖書は二つの領域における権威について教えています。一つは霊的領域における権威です。イエス様は、霊的領域における権威を教会にお与えになりました。「16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。 16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ16,18,19)教会には天国の鍵が託されています。霊的領域における権威は教会に与えられており、教会における最高の権威は聖書にあります。

 では、ローマ書13章がいう「上に立つ権威」とは何を意味しているかというと、それは世俗的領域における権威である国家を意味しています。それは4節に「剣を帯びている」とあることから明らかです。つまり、警察権を託された上に立つ権威と言えば、国家以外ありません。そういうわけで、この箇所は私たちは世俗領域における権威である国家について、どのように理解し、また、どのように行動すべきかということを教えています。ローマ書が書かれた当時でいうならば、ローマ皇帝が最高の上に立つ権威でした。また、皇帝が派遣した地方総督たちも上に立つ権威でした。
 本日の箇所から、第一に上に立つ権威は神のしもべであること。第二に、上に立つ権威の務めとその限界について。第三にキリスト者としてどう生きるかについて学びます。

 

2.国家の起源

 まず、使徒は国家の起源について語っています。1節。

13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

 国家は神を起源としているというのです。これは不思議なことばではないでしょうか。当時の帝国における最高権力者はローマ皇帝ネロです。ネロは58年頃には、まだ暴君というふるまいは始まっていませんでしたけれども、もちろんキリスト者ではありません。未信者の権力者です。けれども、未信者である皇帝であっても、それは神による「上に立つ権威」であるとローマ書は教えているのです。国家というのは、13章4節に書かれているように、剣という強制力を帯びています。国家は、警察、法律、裁判所、刑務所をもっていて強制的に人をしたがわせる権限をもっている組織なのです。なぜ、神さまはこの世を統治するために、国家という機構を定められたのでしょうか。
 それは、人間はアダム以来堕落してしまい、みな自己中心なものとなってしまったので、もし権力というもの、警察というものがなければ、この世界は狼と狼が食い合うような世界、弱肉強食の世界になってしまうからです。「北斗の拳」の世界です。あれは199X年世界核戦争が起こって、世界中の国家が崩壊したのち、暴力が支配する世界になってしまったという想定だそうです。残念ながら、神に背いた後の人間世界というのは、警察権力がなければ、こんな状態にまで堕落してしまうものなのです。そこで、神様は、摂理を働かせて「上に立つ権威」権力者をお立てになったのです。
 日本の戦国時代から安土桃山時代、江戸時代への流れを見ればわかるように、秀吉も家康も、もとは戦争の上手なリーダーたちで戦上手で下剋上の世界で頂点に座りました。が、いったん権力の座につくと「下剋上はいけません」と社会の秩序を定めます。刀狩をして、国が刀つまり武力を独占して、反乱がおきないようにします。こうして社会に秩序が誕生するわけです。そういうプロセスを神様は、摂理をもって導かれるのです。神さまは、こうして「上に立つ権威」、国家というしもべを用いては社会に一定の秩序を保っておられるというわけです。

 

3 国家は神のしもべである

 

(1)神のしもべであるから尊重する
 この世の中がヤクザがしたい放題するような弱肉強食になってしまわないために、神さまは摂理によって国家制度というものをお立てになりましたから、私たちは基本的に国家の権威を重んじるべきです。パウロは2節から4節で次のように教えています。

13:2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。 13:3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。

 たとえば、無謀な運転をすれば、取り締まりにあって、罰金を取られるわけですし、安全運転をずっとしていれば、ゴールド免許をもらったり、表彰状をもらったりすることもあるでしょう。


13:4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。


 こういうわけで、「上に立つ権威」は神様がお立てになったものです。どの権威であっても基本的に、どろぼうや殺人や偽証は罪であるというふうな法律を立てて、罪を取り締まっているわけです。ですから、神様の立てた権威として重んじることがたいせつなのです。逆に、上に立つ権威を軽んじて、反逆するならば、罰を受けることになります。
 私たちクリスチャンは、たしかに「私たちの国籍は天にあります」という通り、優先順位としては天の国籍が優先する神の民です。けれども、天に国籍を持ちながらも、地上に派遣されているものとして、この国の上に立つ権威をも、尊重する必要があるのです。

(2)神のしもべであるから絶対視してはいけない
 次に国家の限界についてです。上に立つ権威つまり国家は、神のしもべですから私たちはこれを尊重すべきですけれども、神ではなく神のしもべにすぎないことも私たちはわきまえておかねばなりません。このことはとても大事な認識です。というのは、人間はすぐに被造物を絶対視して神格化するからです。そうするときに、本来、神が造られた良いものが害をになります。神様が造られたものはみな良いものですが、それを神様のように大事にしすぎると、偶像崇拝になり、害になるのです。たとえば、食べ物は神様がくださったよいものですが、暴飲暴食すれば病気になるでしょう。それと同じです。国は神様がさだめた大事な働きをするものですが、国家主義化すると悲惨なことになります。国は警察権力や法律や裁判所や刑務所という強制力をもっていますから、暴走すると大変なことになるのです。
 過去の歴史を振り返ると国家権力は絶対化されてきたことがしばしばありました。聖書の中にも、そうした実例が記録されています。バビロンのネブカデネザル王は、自分を象徴する巨大な黄金の柱を建造して、諸国の民にこれを拝ませました。そして、これを拝もうとしないダニエルの友たちを迫害しました。古代ローマ帝国の時代には、ローマ皇帝が神格化されて各地に皇帝の偶像が安置されて、これを拝むことが強制されました。そうした状況は313年のミラノ勅令が発令されるまで続いたのです。わが国でもほんの七十年前に天皇が神格化された類似の状況がありました。現代でも、隣の国々で自らを絶対化した大統領や主席といった人々がいて、キリスト者たちは弾圧下にあります。
 国家は神のしもべですから、その「しもべ」としての分をわきまえつつ、務めを果たすとき、有益な働きができます。週報の祈りの課題の欄に、「為政者がその分をわきまえて、平和を作り、格差を是正する善政を行なうように」という祈りの課題を載せているのは、このローマ書13章に基づいているのです。
 どうして国家はときどき、このように暴走するのでしょうか。それは、上に立つ権威=国家権力が、分をわきまえないで傲慢になり、サタンの影響を受けて、国民の心の中にまで介入したからです。

 

3.上に立つ権威の務め

 

 では、上に立つ権威の基本的務めとはなんでしょうか。一つ目は4節に記されています。

 「彼らは無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神にしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。」

 先ほど話した国の「剣の権能」です。今日のことばでいえば、司法です。ヤクザの跳梁ばっこを防止するための権能です。これが、国家というものに与えられている基本的権能なのです。神学では「剣の権能」と呼ばれてきましたが、近代の社会学用語では「暴力装置」とか「暴力の独占」などと呼ばれます。秀吉は刀狩をしましたが、まさに暴力の独占ということです。剣によって、社会秩序を保つのです。人を銃で傷つけるとか脅すとか、人を拉致、監禁すること、あるいは殺害することなどは、普通はしてはいけないことです。けれども、神様は国家権力に、悪を防止するための務めのために、剣を託しているわけです。法律、警察、検察、裁判所、刑務所これが剣の権能です。

 国家に神様が託しているもう一つの務めは、6、7節に記されています。

13:6 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。 13:7 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。

 国のもう一つの務めとは税金を集めて、これを公平に国民に再配分することです。つまり、税金で公共の道路をつくったり、橋を造ったりします。あるいは、いろいろな事情で生活に困窮している人々を助ける福祉施策をします。また国民みんなが教育を受けることができるように、予算を立てて学校を立てたり補助金を出したりしています。また税金で警察官を雇ったり裁判官を雇ったりして、社会の秩序を維持します。水道のような生きるために必要不可欠なものは、税金で維持しなければなりません。
 もし、国というものがなくて、税金という制度がなければ、私たちは全部自分でやらなければなりません。金持ちが自分のために道路を造って、俺しか通っちゃダメなどと言われたら困ってしまいます。経済活動をまったく放置すれば、富んで、貧しい者はいよいよ貧しくなるばかりですから、徴税して、富を平等に配分する、これが国の務めです。まとめにしていえば行政ということができるでしょう。
 また、政府が、この行政をえこひいきして、自分の友だちにだけ手厚く集めたお金を配分しないで、公正に配分するために、法律が必要です。こうした法律を立てる働きを立法といいます。司法、立法、行政という世俗的領域における働きを、神様は国に託しているわけです。

 

4.キリスト者としてどう生きるか

 以上のように、世俗的領域において、上に立つ権威である国家は神がお立てになったしもべであることを学びました。そのしもべとしての働きとは、司法・立法・行政ということができます。神様は国家をご自分のしもべとして立てましたから、私たちキリスト者はこの日本で、どのように生きるべきでしょうか。

(1)「神のしもべ」である国家を尊重すること
 現代は、権威を軽んじる傾向の強い時代です。けれども、キリスト者は個人としては聖書が言うように、上に立つ権威を尊重するという姿勢を持つべきです。では世俗的領域において、日本での最高の上に立つ権威とはなんでしょうか?総理大臣でしょうか?ちがいます。最高裁長官でしょうか?ちがいます。国会議長でしょうか?ちがいます。天皇でしょうか?ちがいます。彼らの上ある権威は「日本国憲法」です。そして、日本国憲法の上には「国民の総意」があります。ですから、最高の権威は「国民の総意」です。

     世俗領域の序列
1.「国民の総意」
2.日本国憲法
3.統合象徴担当天皇 と 実務担当三権(国会・内閣・最高裁
4.個々の国民

 一方、自らが権威あるたちば、たとえば警察官とか役人とかになった場合には、「神のしもべ」「国民のしもべ」公僕として、その業務を果たすべきです。

 

(2)神の前の良心をもって為政者を選挙すること

 国の務めは、「国民の総意」と憲法の下にあるものとして分をわきまえて、剣の権能をもって社会の秩序を維持し、集めた税金を公平に分配し格差を是正することですから、国がその務めを正しく果たしているのかをしっかりと見ておくことが必要です。そして、正しく選挙に参加することです。
 しかも、「国民の総意」は選挙によって表現されますから、私たちは国民あるいは町民・村民としては日本国憲法くらいは通読し、選挙においてはよく祈って良心にしたがって投票する責任があります。

 

(3)為政者のために祈ること
 1テモテ2:1「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝が捧げられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」
 サタンは国家を暴走させたいのです。イエス様がお生まれになったとき、ヘロデ大王は自分の王座が脅かされることにおびえて、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の子供たちを皆殺しにしました。黙示録12章を見るとヘロデ大王の背後にサタンが働いていたと書かれています。権力が暴走すると、強制力をもっているからたいへん悲惨なことになります。ですから、私たちは権力者が、その分をわきまえて謙遜に、社会の秩序の維持と、富の公平な再分配と、適切な法律によって、その働きをなすように真剣に祈る必要があるのです。 

敵を祝福する

ローマ12:14-21

序  「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげなさい。」と始まった、礼拝としてのクリスチャン人生に関する勧めが続きます。前回は教会生活についてでしたが、今回は社会との関係、クリスチャンでない人たちとの関係について教えています。未信者の家族、職場、地域社会、学校の人たちです。しかも、パウロが想定するクリスチャンでない人たちというのは、特にキリスト教を嫌って迫害する人たちです。そういう人たちがいる社会で、クリスチャンである私たちはどのように生きていくのか。パウロの伝道者としての生涯を見れば、彼は常にユダヤ教の弾圧の下で宣教をし、後にはおそらくローマ帝国の弾圧したで殉教しましたから、彼がそういう意識をもっていたのは、当然なことでした。
「11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。』(2コリント11:24,25)
 新約聖書におさめられたパウロの手紙の多くは獄中で記されたものです。彼は自由なときには伝道活動をし、牢屋に入るとペンをとって(正確には口述筆記)伝道活動をしたのです。そう考えると、敵がパウロを牢屋に入ってくれたからこそ、彼は多くの手紙を書き残すことになり、二千年間のキリスト教会は、神のことばを受け取ることができたのです。神さまのなさることは不思議です。ハレルヤです。
 
1.迫害者に対して

 パウロが手紙を書いている相手は、まだ見ぬローマの教会の兄弟たちです。手紙が書かれたのは、キリスト紀元58年ですから、ローマ帝国当局からの迫害は、この時にはさほどのものではありませんでした。しかし、当時のローマ皇帝はネロでした。この手紙が書かれてから6年後の64年にはネロは、ローマの大火を引き起こして、その責任をキリスト教徒たちになすりつけて、弾圧に乗り出しました。そんなことが可能となったのは、すでに急速にふえていたキリスト教徒たちに対して、敵意を抱く人々がローマの社会の中に徐々に増えていたからであろうと思われます。そういう人々は、キリスト教徒にその信仰のゆえに非難したり、意地悪をしたりしていたわけです。
 そういう人々にどのように対処するのか?それがこの箇所の課題です。現代でも中国や北朝鮮ではクリスチャンたちはたいへんな目に遭っていますが、私たちの国日本では、そんなことはありません。とはいえ、神様を愛して生きて行こうとするときに、あなたもきっと無理解な社会との間に軋轢を感じたでしょう。迫害やいじめにあうこともあったのではないでしょうか。
 パウロは、クリスチャンはただ我慢しなさいというのではなく、勝利の道を教えます。これがポイントです。しかし、その勝利とはこの世の人々がいう勝利ではなくて、主イエスにならう勝利、十字架の勝利です。どうすれば、あなたを迫害する人、ゆえなく苦しめる人々に勝利できるのでしょうか?聖書は命じます。
「12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」
 自分に悪を成す人に対して悪いことを仕返しするとき、私たちは、勝利を得ているのでしょうか。結局、自分も悪いことをして、悪人のペースに巻き込まれ支配されてしまって、神の前に罪を犯してしまったのです。敗北です。しかし、神様を見上げて「父よ。彼らをゆるしてください。彼を祝福してください。」と祈るとき、私たちは主イエスにあって、勝利者です。悪者に調子を合わさせられるのでなく、神のペースに生き、キリストの足跡に従っているからです。

 

2.教会の一致


 続いて、15、16節で教会の一致のたいせつさが語られます。
「12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
12:16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」
 外の人々に対することが語られている文脈なのに、突然教会について語られるのはなぜでしょうか。クリスチャンでない社会の人々に対するクリスチャンのなによりの証は、教会が互いにへりくだり、愛し合い、一致しているという事実であるからです。主イエスもおっしゃいました。「あなたがたが互いに愛し合っているならば、世はあなたがたをわたしの弟子だと認めるのです。」
 キリスト教に対して悪意を抱いている人と言うのは、多くの場合、キリスト教会に対して偏見を抱いているものです。私自身もかつてそうでした。けれども、実際に教会を訪ねて、その交わりにはいってみると、そこにはなんともいえない麗しいもの、この世にない、そよ風が吹いているような愛の交わりを見たのです。
 世の人々の集まりというのは、たいてい誰が偉いかということで、暗い争いがあるものです。利害関係があり、派閥があり、ドロドロしたものがありがちなものです。こちらでいい顔しておいて、陰では悪口を言っているような、そんな醜いものがありがちなものです。もし、教会の交わりの中に、そんなものがあったなら、世の人々は「あの人たちはキリストの弟子ではないよ」という権利があるのです。しかし、教会が一つ心で、互いにへりくだって、尊敬しあう愛の交わりがあるならば、世の人々は、そこにこの世にはないものを見出します。振り返ってみると、私は、初めて訪ねた教会にそういう交わりを見たのです。赤ん坊、小学生、学生たち、おじさん、おばさん、おじいさん、おばあさん・・・いろいろな人がいましたし、話をすれば別にかしこまっているわけではなく、堅苦しくもなく、自分を飾ることのない、気楽で、誠実な人たちの交わりでしたが、そこには世にはないものがあることを私は感じました。 それは、キリストを中心として、お互いの人格を尊重しあう交わりであったということです。
 私が教会に行き始めて、しばらくたったとき、増永牧師が手紙をくださいました。その手紙に、先生は「私は、水草君という友人が与えられたことを心から嬉しく思っています」と書いてくださいました。私の父母の世代の人です。その人が、若造の私を「友人」と呼んでくださったのです。こんな経験は、小学校以来一度もしたことがありませんでした。教会における人間の関係は、世にない不思議なまじわりです。その中心に、イエス様がいらっしゃるからです。

 

3.悪に対して善をなせ

 

 そうして、もう一度話は迫害する世の人々に対する行動のあり方に戻ります。


「12:17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。 12:18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」

 もう一度いいます。敵が悪いことをしたら悪いことをし返すというのでは、相手の奴隷です。サタンの罠にはまって、罪を犯したのです。私たちはキリストにあって、自由な王とされたのです。自由な王として、神様に相手の祝福を祈りながら、何をしてあげるのがよいかを考えるのです。具体的には、まずは、その人の祝福を祈ることです。あなたの悪口を言って回る人がいたならば、「神様、あの人を祝福してください。」と祈るのです。そうすると、天の窓が開きます。
 「あの人を祝福してください」というのはとても良い祈りです。私たちが、身の回りに困った人、自分にとって不都合な人がいた場合にしがちな祈りは、「あの人をああしてください。こうしてください。」という祈りです。その「ああして、こうして」というのは、自分にとって不都合な相手の欠点を取り除いてくださいという内容でしょう。経験的に言って、こういう祈りは、多くの場合聞かれません。「あの人のためになることを思って祈っているんです」というふうな言い訳を私たちはしますが、たとえば「あの人があんな悪口を言わないようにしてください」というような祈りには、敵意や恨みがこめられていることが多く、恨みとか敵意を込めた祈りを、きよい神様は聞いてくださらないのです。恨みは醜いものですから、神さまはその手の祈りのことばは敬遠なさるのでしょう。(マルコ11:23-25参照)

 だから、いろいろと嫌な思いをさせられたなら、その人のために「彼女を祝福してください。」と祈ることです。天の窓が開かれて、神様が最善のものをもって、その人を祝福してくださいます。

4.神の怒りにまかせる

 

 ただし、刑事罰に当たるような悪事をなしてくるような人がいた場合には、どうすべきでしょうか。放置しておいてよいのでしょうか。そういう問題の場合には、神の怒りにまかせることです。
「12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
 クリスチャンが復讐せず、神の怒りに任せるというのは、具体的には、次の13章に出てくる「上に立てられた権威」にゆだねるということです。私たちは個人的に復讐をしようとすると、怒りが大きくなっていて適正な処罰ができません。そのために、神は世の権威を立ててくださいました。そうした悪事に関しては、警察や裁判所に訴えればよいのです。犯罪を放置することは、社会的によくないことですし、また、犯罪を犯している本人にとっても不幸なことです。ですから、公に訴えればよいのです。
 しかし、個人としてはどこまでも、悪に対しては善を報いるという道で生きていくのがキリストのしもべの道、神の子どもの道です。自由な王道です。
12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
 なにかいやなことをされたら、「よし。あの人を祝福してください。どんないいことで仕返しをしてやりましょう。」と自由な心で祈るのです。「彼の頭に燃える炭火を積む」とはどういう意味でしょう。誰かがあなたに悪いことをしたのに、あなたがその人のために祝福を祈り、よいことをはかってあげるならば、その人は、自分のした悪を恥じいって顔が赤くなってしまうという意味です。

 

適用
 私たちは、王なるキリストに結ばれた王です。自由人です。悪魔の支配は私たちに及びません。イエス様が、罪人の中にあって勇敢に歩み、十字架の上でさえ憎しみに支配された奴隷となることなく、敵のために自由な心で祈ったように、私たちも敵の祝福を祈りましょう。
 あなたの周囲にあなたに対して意地悪な人がいるでしょうか。あなたに悪意をもって接する人がいるでしょうか。どうすればよいでしょう。
 毎朝、「彼を、彼女を、神様祝福してください」と祈ることから始めましょう。毎朝毎朝「彼を祝福してください。」と祈るのです。
 そうしていると、自分のほうが心が変えられてきます。そして、相手も心が変えられるのです。相手を変えようとするのでなく、自分が敵を祝福するのです。すると天の窓が開きます。神様は摂理の御手を働かせて、あるいは、御霊の導きをもって、思いがけない素晴らしいことをしてくださいます。

キリストのからだに生きる

ローマ書12章3-13節

 

 12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

 12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、

 12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

 12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。

 12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。

 12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。

 

  12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。

 12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

 12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

 12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

 12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

 

 前回、パウロは「あなたがたの人生を丸ごと聖なる生きたささげものとして、神にささげること、それこそ、理にかなった礼拝である」と語りました。私たちは、生活の全領域で、主をあがめる生活をするのです。それは、具体的には生活の中心がキリストのからだである教会にすることによって可能になることです。ですから、続いてパウロは教会生活について語っていきます。

 

1.キリストのからだ

 

(1)キリストのからだに連なることが大切です

 パウロはここで、教会はキリストのからだであることを教えています。教会がキリストのからだであるということは、どんなことを意味するのでしょうか。

 12章4節「一つのからだには多くの器官があって云々」とか5節「大勢いる私たちもキリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに各器官なのです」

 私たちの信仰生活の具体的な中心は、やはり何といっても教会です。教会を離れて、自分の人生をまるごとキリストにささげた生活をすることは、絵空事になってしまいます。キリストのからだである教会につながり、そのキリストのからだから栄養分を供給されてこそ、私たちの具体的な信仰生活は育ちます。そのために心得るべきことを今日の箇所は教えています。

 自分で聖書を読んで聖書を研究すれば、それでいいと考える人がいるかもしれません。でもそれでは、どこまで行っても聖書研究者に留まることでしょう。キリスト者つまりキリストのいのちに満たされて、神に喜ばれる実を結ぶ生活をすることはできません。いろいろ理屈はあるでしょうが、なんだかんだ言っても、教会を離れて実際に主にある豊かな喜びといのちに満ちた信仰生活を送れるかと言ったら送れません。必ず、この世の価値観にのみ込まれてしまいます。

 奈良に住む姉がうどんの麺をつくる製麺工場でパートで働いていました。機械がガチャンガチャンと麺を切って行くのですが、そこに指を挟んで切ってしまいました。急いで指の先をビニル袋に包んで医者に行き、手術をして神経もつなぎ治りました。もしちょん切れた指を話したままだと、指はどうなりますか。死んでしまいます。指が体から離れると死ぬのです。その人は指をすぐにビニルで包んで病院に連れて行けば医者が神経をつないで、また動くようになりました。からだにつながると命が流れ込むのです。

 クリスチャンの信仰生活というのは、頭の中で考えているだけの抽象的観念的なものではなく、具体的でいわば肉体的なものです。ともに賛美をささげ、ともにご飯を食べ、ともに汗を流して奉仕し、ともに遊び、ともに笑い、ともに祈り、ともに泣く、そういうものです。そこに命があります。真の神は人格的な神であられて、父と子は聖霊にある愛の交わりのうちに生きておられます。永遠から永遠に向かって、父と子と聖霊は、たがいに愛を注ぎあい、互いに喜んで、ともに働いて生きておられます。教会は、三位一体の神の作品ですから、この教会の交わりのうちにあって、神のいのちを経験するのです。

 

(2)教会は、他の誰でもなくキリストをかしらとする。

 「キリストのからだ」ですから、かしらはキリストです。ほかの誰でもありません。教会のかしらは、パウロでもペテロでもアポロでもなく、ローマ教皇や国王でもなく、牧師でも役員でもなくキリストです。

 私たちクリスチャンが親しくなるには、私たち一人一人がイエス様と親しくなる必要があります。それは、ちょうど傘の中央にイエス様がいらして、私たち一人ひとりはその他のところにいるのです。私たちクリスチャンの兄弟姉妹が親しくなるというのは、私たち一人一人が、イエス様にことばを学び、また祈り、主の日を忠実に聖別する生活をているならば段々とイエス様と親しくなってきます。そうすると、私たちはまた兄弟姉妹互いにの距離が縮まってきます。キリストを抜きにした交わりではこうは行きません。 キリストを中心として、キリストをとおして、私たちはほんとうの意味で親しくなることができます。キリストがそこにおられたら恥ずかしくてできないような交わりや会話があってはなりません。

 

  • 私たちは自分に与えられた賜物をもって、互いに奉仕をして教会を建てあげます

 キリストにあって一つにされた私たちは単にぼんやりとしているため、また、ただ受けるために召し集められたのではりません。キリストのからだには使命があり、働きがあります。私たちのからだに、手足、鼻、口、目、胃袋、腸、肺、心臓、すい臓、腎臓、肝臓・・・とさまざまの器官があり、全体として助け合って、一つの仕事をするように、キリストのからだとして結び合わされた私たちにも、それぞれの働きがあって助け合って一つの仕事ができる者です。私たちのからだの器官には、なにもしないお客さんはありません。今日、このように礼拝ができるためにも、多くの兄弟姉妹たちが、さまざまの分担して準備をしてきたのです。

 キリストのからだに結び合わされてともに奉仕する上で大事な原則があります。それは己の分をわきまえつつ、積極的に奉仕せよということです。まず、分をわきまえることです。

 12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

 手には手の分、足には足の分、鼻には鼻の分、耳には耳の分、口には口の分があります。それを越えてはならないということを、私たちのからだの各器官は知っています。そのように、私たちの教会に連なっているお互いとして、その分をわきまえることがたいせつだということです。そうしないと、争いや分裂が起こって、イエス様のからだを引き裂くことになります。

 そして、賜物を積極的に用いて奉仕しなさいということです。

 12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
 12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。

 12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。

 それから、すこし飛んで13節
12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

 会堂清掃、説教、教会学校の先生、礼拝賛美とそれを支える奏楽、礼拝のプロジェクター、礼拝受付、慈善的な働き、教会を治める務め、会計の務め、訪問して励ます働き、看板掲示、昼食の準備、見えるところの働き、見えないところの働きなど様々の働きが教会にはあります。また、13節の「聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい」というのは、初代教会では大事な奉仕でした。当時はパウロとかアポロとかバルナバなど巡回伝道者がぐるぐるあちらこちらの教会を巡回してみことばの勧めをするという方法がとられていましたから、そうした巡回伝道者を家に泊めて世話をするという奉仕者がいてこそ、それが可能となったわけです。また、先日の小海キリスト教会の兄弟姉妹の訪問にあたっての交わり会のために、愛のご奉仕や指定献金をしてくださり、ほんとうに小海の兄弟姉妹は感激していました。

 また、年を取ってからだが動かなくなってきたならば、そうしたさまざまな奉仕が主にあって一致してささげられるように、陰でとりなし祈るという大事な働きがあります。どの働きも大事です。何一つ欠けてはいけません。私たちのからだの器官です。

 

3.教会生活の心得いくつか

 

  12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。

 12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

 12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

 12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

  ローマ書12章9節から13節には、教会生活のもろもろの心得が出てきます。順不同ですが、三点確認しておきましょう。第一は愛、第二は勤勉、第三は希望

 

(1)愛について

まずは、キリスト教会の生き方は愛ですが、その愛について三つのことが勧められます。

12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。

 12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

 ひとつは愛には偽りがあってはならないということです。愛ということばは美しいことばなので、いろいろな使われ方をするので、「大好きだという感情」が愛であると誤解する人もいます。聖書がいう真実の愛とはなんでしょうか?「愛するとは、相手が、神を愛することができるように助けることです。また、愛されるとは、自分が神を愛することができるように助けられること」です。

 また、真実の愛はなれなれしいものではなく、相手への尊敬を伴うものです。「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思う」ことです。相手が目上であれば当然ですが、そうでなくて、子どもであっても、イエス様は「子どものようにならなければ、あなたがたは神の国に入れない」とおっしゃったのですから、尊敬すべきことがあるのです。根本的に、相手は自分の所有物ではなく、神の作品であり、神のものであるという意識が、その尊敬の根本です。人は神の作品であり、神の所有ですから、こちらの思い通りにならないからといって嫌悪してはなりません。相手が相手であることを尊重するのです。

 

(2)勤勉で怠らず

 12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

  この御言葉は、本田弘慈先生がいつも色紙に書いて下さったものです。恵みによって救われたのだから、何もせず怠け者でいなさなどと聖書は決してすすめません。恵みで救われたからこそ、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えよ。」です。私が神戸の東須磨教会でイエス様を信じたあと、宣教師の先生たちと知り合いになりました。その中にオリナ・リン先生という美しい銀髪の先生がいらっしゃいました。先生はカベナンター書店というキリスト教書店を担当していらして、絶えず働いていらっしゃいました。時間を決して無駄にせず、主から託されたときたいせつにされたのです。やがて、主が迎えに来られたら、私たちは主の前に、自分の主のための奉仕の人生の精算するのです。自分の欲のために蓄えたものは地に置き去りにしてゆくほかありません。しかし、主を愛し、主がくださった兄弟姉妹を愛し、主がくださった務めのために、怠りなく働き、霊にもえて働いたならば、それが天の宝として罪たくわえられています。

 

(3)希望

12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

  初代教会当時、弾圧が段々と厳しくなって行きました。パウロの時代にはユダヤ教当局からの弾圧です。パウロ自身、キリストのゆえにむち打ちにあったり、何度も投獄されたりしました。後には、ローマ帝国当局が皇帝崇拝を国民に強要するようになったので、皇帝の偶像を拝まないクリスチャンたちは処刑されることさえあったのです。

 そうした困難の中で、彼らを支えたのはやがて主イエスが再び来られ、永遠の神の国が到来するという希望でした。その希望を抱いて、祈りに絶えず励んだのです。

 

結び

 キリストの十字架と復活による償いを根拠として、私たちは罪赦され、神の子どもとしていただきました。神の子どもとして、神の子どもらしく、立派に生きていくポイントを学びました。

 第一は、キリストのからだである教会に連なることです。ちょんぎれた指にならないことです。そして、キリストのからだの器官として、与えられた賜物を出し合って、キリストの使命を果たしていくことです。

 第二は、真実の愛、勤勉、再臨の希望をもって生きることです。