水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

黄金・乳香・没薬

マタイ2:11

2018年12月23日 夕礼拝

 

 「そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」マタイ2:11

 

はじめに

 子どものころを振り返ってみると、一年に二回楽しみな日がありました。それは自分の誕生日とクリスマスでした。楽しみの一つはクリスマスケーキでした。当時庶民の生活においては、子どもの口にケーキが入るのは、一年にこれら二つの日にだけでした。クリスマスケーキには、白いクリームにイチゴが乗っていたり、雪にうずもれた家やもみの木やサンタのマジパンが乗っかっていたものです。うちは七人家族でしたが、母がその丸い大きなケーキを包丁で切るのをじっと見ていて、子どもたちは一番大きな一切れがどれかをよく見定めようとしたものでした。なんだか夢のようにおいしそうに見えたものですが、実際には当時のケーキはずいぶん甘いバタークリームが塗りたくられていて、すぐにおなかいっぱいになってしまって「もういい」と言ったものでした。

 そして、クリスマスのもう一つの楽しみというのは、イブの翌朝、出現していたプレゼントでした。サンタさんの出現を見届けようとして、薄目でがんばったものですが、いつも寝てしまいました。

 19歳にクリスチャンになり、やがて牧師になって結婚し、クリスチャン家庭を築くという恵みに与るようになりました。長男は小学生のとき頼まれて近所数軒を新聞配達するようになり、たまったお金で、母親や父親の誕生日にはプレゼントをくれるようになりました。そして、ある年のクリスマスが近づいたころ、まだ小学校にも上がらない長男がこう言いました。「クリスマスはイエス様のお誕生日なのでしょう。お誕生日には、そのお誕生日の人がプレゼントをもらうのに、どうしてイエス様でなくて、ぼくがプレゼントがもらえるの?」

 驚いて、はっきりと説明することができませんでした。たしかに息子が言うとおりでした。自分はクリスマスをなんだか、人間の都合、人間の楽しみのために受けることばかり考えている日にしてはいなかっただろうか。この日は、むしろキリストに自分をおささげする日であったのだと教えられたのです。

最初のクリスマス、つまり、神の御子であるイエス・キリストが地上に人となってお生まれくださったとき、はるか東の方からやってきた賢者たちはそれぞれに「黄金、乳香、没薬」というプレゼントをイエス・キリストに対しておささげしたのです。そして、この一つ一つのささげものにはイエス・キリストがどのようなお方であり、どのような使命をになっていらっしゃるのかということが表されています。

 

  • 黄金

  黄金とは、金属の中で最も尊いものです。鉄であれ、アルミニウムであれ、銅であれ、それぞれに有用ですが、どうしても酸化してさびがついてしまうものです。銀はたしかに美しく上品な輝きを発するものですが、それでもすぐに曇って黒いアクのようなものが着いてしまいますから、銀の食器や調度品はいつもきれいに管理しておくのはなかなか大変なことです。それに比べて金はさびがつくことがなく輝いています。変質しない金は、金属の中の王としての地位を保ち続けているわけです。最近のように景気が不安定になっても、金には不動の価値があるので、人気が出てきているそうです。

 東方から訪れた博士のひとりがイエス・キリストに黄金をささげたという記録は、イエスが世界の王としてこられたことを象徴しているのです。「イエス様、あなたは王様です」という博士の信仰告白であると言ってもよいでしょう。博士たちは、エルサレムにやってきて「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」と尋ねたでしょう。母マリヤに、天使が告げたことばのなかにも、「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」(ルカ1:32)とありました。イエス・キリストは王としてこられたのです。

 「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」と主イエスはあるときに宣言なさいました。主イエスはこの世界で絶対の主権をもっていらっしゃるのです。そして、私たちはイエス様を王様ですと告白するとき、イエス様に私は従いますと臣下としての誓いをすることになります。

 

 ・乳香

 次に乳香とはなんでしょうか。乳香というのは、カラン科の乳香樹の樹液です。一度だけ私もこれにさわったこと、嗅いだことがあります。この樹液は乳白色のもので、とてもよい香がします。聖書の中でかぐわしい香は、祈りの象徴とされています。

 聖書によれば祈りがささげられる相手とは、ただひとり神のみです。いかに偉大な人間であっても、ものであっても、祈りの対象としてはならないのです。人間や動物や植物や太陽などいかなる被造物も祈りの対象としてはならないというのが、聖書の戒めです。

 祈りの相手はただひとり万物の創造主である神のみです。というわけで、東方の博士のひとりが御子イエスに差し出したかぐわしい乳香は、イエス・キリストの神性つまりイエスが神であられることを表しているのです。イエス・キリストというお方は、もともと万物の存在する前から永遠の昔から存在していらっしゃる神なのです。そのお方が、二千年前、人として地上にお生まれになったのです。

 日本では少しなにか人より秀でていると「神」とか言います。けれども、イエス様が生まれたイスラエルでは、そうではありません。天地の創造主、天地万物の主権者以外には、決して祈ってはならないし、礼拝をささげてはならないというのは、聖書の世界における第一の戒めなのです。そういう聖書の世界であることを前提にして、このクリスマスの記事を見ると、異様なことが書かれているではありませんか。東方から来た博士たちは、「幼子の前にひれ伏して拝んだ」と書いてあります。そして、祈りの象徴である乳香を幼子にささげたのです。これはいうまでもなく、この馬小屋のイエス・キリストが神であられるということを表しているのです。

エスはなにか立派な業績があったから神とあがめられるようになったわけではありません。イエスは人として地上に生まれたそのときから、神としてあがめられたのです。

 

・没薬

 

 黄金は、イエス・キリストが王であることを表わし、乳香はイエスが神であられることを表わしました。母マリヤとヨセフにしてみれば、黄金といい、乳香といい、贈り物として受け取るのはすばらしいことだと感じたでしょう。やはり、天使が告げたとおり、この子は神が人となられたお方として、王として救い主として来られたのだと厳かな喜ばしい思いがしたにちがいありません。

 東の国の博士が差し出した三番目の贈り物である没薬とはミルラと呼ばれ、死体の防腐剤として用いられたものでした。エジプトでミイラを作るときにもちいられたそうです。たいへん高価なものだったという点では、黄金や乳香と同じです。没薬はほかに胃薬などにもなったといわれるものですが、福音書のなかで実際に没薬が用いられている場面を見てみると、それはイエス様が十字架にかけられて、死後、葬られた場面です。ニコデモがイエスが埋葬されるときに30kgもの没薬を持参したとあります(ヨハネ19:39)。

 確かに、イエス・キリストは、王です。そして、神です。では、王であり神であるイエス様が、なぜわざわざ私たちが住むこの世界に来られたのでしょうか。それは、十字架に磔にされて激しく苦しんだ後に、死ぬためでした。飼い葉おけの中の赤ん坊は、クリスマスの出来事から33年後、もっともむごたらしい処刑の方法十字架にかかって死ぬことになっていたのです。それは、私たちの神の前での罪をあがなうためでした。赤ん坊のイエス様のもとに没薬がささげられたという出来事は、イエス様の地上における罪のあがないという使命を暗示していたのです。

 「ちいさな手」というクリスマスの賛美があります。

 

ひときわ輝く 星のひかりが
小さな馬屋を照らした
冷たい風 心まで貫く この世界に

罪の重さを知った私は
心震わせて 向かった
小さな灯りともる
あなたのいるその部屋へ

あなたは今この中に
飼い葉桶で眠っている
そっと触れた 小さな手は
私のため 傷つくことを知ってるのに
やさしく握り返した
私に微笑みながら

この新しい賛美歌のことばを味わうとき、あたかも自分が2000年の時を超えて、ユダヤベツレヘムの厩に出かけて行き、飼い葉おけに眠るあかんぼうのイエスに出会っているような気持ちになります。その歌詞の折り返しの部分に、次のようにあります。

「そっと触れた小さな手は、わたしのため傷つくこと知ってるのに、やさしく握り返した。わたしにほほえみながら。」

赤ちゃんのイエス様のやわらかい手に、私がそっと触れると、赤ん坊のイエス様は微笑んで私の手をやさしく返してくれたというのです。その手には、後に、私の罪のために十字架に釘付けにされることになっているのです。でも、その手で、やさしく握り返したというのです。まるでこう語りかけるように。

「だいじょうぶだよ。ぼくは、あなたの罪を身代わりに背負うために生まれてきたんだから。」

 

王であり、神であるイエス様は、いとも小さな赤ん坊としてへりくだりのきわみの姿で私たちのところに来てくださいました。永遠から永遠にいます神様のひとり子は、あなたを赦すためにこの世の来られたのです。恐れる必要はありません。「神などいらない」などと虚勢を張る必要はありません。

「私は神様のまえに罪を犯している罪人です。どれほど、神様に盾突き、また、人を傷つけてきたかわからないほどです。どうぞイエス様の十字架の苦しみと死のゆえに私をゆるしてください」と、主イエスのまえに祈りましょう。

 クリスマスは、私たちが主イエスに自分のもっともたいせつなものをプレゼントする日です。しかし、それに先立って、イエスさまはご自分のいのちを私たちにプレゼントしてくださったのです。


小さな手