水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

あなたの救いのため  (伝道説教)

ローマ3:19-26

 

 

序 神(創造主)の実在

 私は千鳥幼稚園という教会付属の幼稚園にかよっていました。そのころはぼんやりとですが、「神様はおるんやろうな」と思っていたような気がします。けれども、卒園後は全く教会には通わなくなって、中学生のころには「いったい、神様なんているのかなあ?」と思うようになりました。高校生のころには、「神様なんかいないよ」と思うようになっていました。それは、「なんとなく」のことでした。世間のおとなたちが、神様なんかいないよと言っているので、なんとなくそう思っていただけのことです。

 「神は存在するのか?」この問いに答えるには、まず、その人がいう「神」の定義を説明してもらわねばなりません。もし、その人の言う「神」が、イザナギイザナミだとか天照大神だとかゼウスだとかいうものであるとすれば、そのような神々はもともと人間が空想したお話なのですから、空想の世界にしか存在しません。

 しかし、もし、「神は実在するのか?」と問う人のいう「神」が、天地万物を設計し創造したお方を意味しているとするならば、そういう神が実在する事実を示す証拠は、私たちの身の回りにたくさんあると聖書は教えています。

 手を出してこぶしを握ってください。それがあなたの心臓の大きさです。心臓は私たちの体中に血液を送り続けているポンプです。心臓は1分間に70回拍動し、一日におよそ10万回拍動しています。 では心臓が、一日に送り出す血液の量はどれほどでしょうか。実に8トンです。8トンのタンクローリー一杯の量を、毎日毎日体に送り出しているのです。私たちの拳ほどの小型のポンプが、生まれてこの方、ずっと寝ているときも休むことなく拍動しているのです。これは実に驚くべき事実です。

 心臓は、人間が造ったどんなポンプもまったく及びません。学者が詳しく調べれば調べるほど、心臓はきわめて精巧で丈夫な設計があることがわかってきました。一点だけ説明すると、心臓にはペースメーカー細胞があって、それによって一定の拍動を保っています。これが故障すると不整脈が起こります。今では人工のペースメーカーに交換できます。ずいぶん小型化されて4センチ×5センチの大きさです。でも神様の造られたのは1.5ミリ×0.5ミリです。人間にその仕組みが分かってきたのは、ここ数十年のことにすぎません。しかし、心臓ははるか昔から働き続けています。人間は単に神の創造のわざの不十分な真似をしたにすぎません。人間よりもはるかに知恵のあるお方が、これを設計したのです。

 あなたのいのちを今、この瞬間も支えている精巧な心臓の設計をしたお方、それが、聖書を通して私たちに語り掛けている神です。あなたに心臓を与え、今日も生かしていてくださる創造主がいるのです。

 では、このお方に対して、あなたは何をすべきでしょう。旧約聖書詩篇139篇の詩人は次のように言いました。

「 それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。

   私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって 恐ろしいほどです。

  私のたましいは、それをよく知っています。」

 そう。日々、創造主に感謝して生活すべきしょう。あなたが道を歩いていて、ポケットから財布を出したはずみにハンカチを落として、後ろを歩いていた人に拾ってもらったらなんといいますか。「ご親切にありがとうございます。」と言うでしょう。まして、心臓ばかりか、あなたのからだ全体、食べ物、空気、水、この地球、太陽すべてを用意して、提供していてくださる創造主がいるのです。このお方に感謝して生活するというのは、人間の当然の義務なのです。

 

1 律法――罪を自覚させる

 

 さて、先ほどお読みした聖書の本文に移ります。

 3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

 「律法」ということばが出てきます。私たち人間が、創造主である神に対して、日々どのように感謝して生きるか、その方法を、神が具体的に定めたものが「律法」です。旧約聖書にはたくさんの律法が記されていますが、その要約として有名な「十戒」があります。

 第一、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」

 第二、「あなたは自分のために偶像をつくってはならない」。この二つの戒めは、世界を造り、あなたに命を与え、食べ物も、空気も、水もすべてのものを日々提供して、心臓を動かしていてくださる創造主だけが神ですから、それ以外のもの、神ならぬものを神として拝んではいけませんという命令です。

 第三、「あなたは主の御名をみだりに唱えてはならない」。あなたは、たいせつな人の名はたいせつに扱うでしょう。そのように、真の神さま、イエス様の名を冗談や罵りのことばに用いてはいけません。

 第四。「安息日をおぼえてこれを聖なる日とせよ」。仕事は大事だけれど仕事中毒になってはいけない。週に一日は、いのちを与え、健康を与え、仕事をさせてくださった創造主である神に感謝する特別な日として取り分けて、神様に感謝をささげるために教会に通う生活をしなさい。

 第五。あなたの父母を敬いなさい。親不孝はいけません。あなたは親孝行しているでしょうか。親をほったらかしにしていませんか。

 第六。殺してはならない。心の中をご覧になる神ですから、「あんなやつ死んでしまえ」という殺意も殺人です。心の中に憎しみを宿し続けていてはいけません。暗くなる前に、ゆるすことです。

 第七。姦淫してはならない。結婚関係外の性交渉を姦淫の罪です。

 第八。盗んではならない。1000円でも1万円でも100円でも、盗みは罪です。

 第九。偽証してはならない。嘘をついてはいけません。地獄に落ちます。

 第十。あなたの隣人の家を欲しがってはならない。他人の奥さん、他人の出世、他人の幸せはともに喜ぶべきであって、ねたんではいけないということです。

あなたは、生まれてから今日にいたるまで、創造主が定めたこれらの中の戒めを、間違いなく実行してきたでしょうか。破ってきたでしょうか。・・・正直に、厳密に、自らを振り返るならば、「ああ、自分は創造主なる神の前では有罪なのだ。」ということに気づくはずです。それが、3章20節の言っていることです。

 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

  私たちは、創造主の前に罪があります。十戒をぼんやりと眺めているだけならば、なんとも思わないかもしれません。けれども、これは神が私に与えた律法なのだと受け止めて、真剣に十戒を守ろうと日々意識的に努力してみれば、自分が日々、すべてを見ておられる審判者である神の前に罪に罪を重ねていることに気づくでしょう。

 私たちは自分で自分を救うことが決してできません。神の前に律法を日々実行して、その報酬として救いを得ることは不可能であり、日々十戒を破って、その報酬として滅びを得るほかないのです。

 

2.キリスト―神の贈り物としての義とそれを受け取る方法

 

 そこで、神は恵みによって、私たちを律法とは別の方法で救うことを計画されました。

(1)「今は」

  3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

 「今は」というのは、神の御子イエスが来られた後の時代には、という意味です。イエス・キリストと言う方は、およそ2000年前人となって、この世界に生まれてくださいました。けれども、実は、イエスというお方は太陽も月も地球もまだ造られる前から、父なる神とともに生きておられた、神の御子なのです。

 ヨハネ福音書の17章にあるのですが、イエスはあるときお祈りしているとき、「父よ。世界が存在する前にごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」と話されました。また、同じヨハネ福音書の最初には「初めに、ことばがあった、ことばは神とともにあった、ことばは神であった。・・・ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」とありますが、この永遠のことばロゴスと呼ばれるお方が、人となって私たちの間に住まわれたのです。それが約2千年前の最初のクリスマスの出来事です。このお方が来られて後の「今」という時代には、律法とは別の方法で救いの道が開かれたのです。

 「律法と預言者」というのは旧約聖書のことです。「神の義」ということばは耳慣れない表現です。「神との正しい関係、神との正常な関係」という意味です。ですから、「神の義が示されました」は、「神の赦しが与えられました」「救いの道が開かれました」と言い換えても、だいたい当たっています。

 まとめると、

「しかし、イエスが来られて後の今の新約の時代には、律法とは別に、しかも旧約聖書で予告されて、神の赦しがあたえられました」

――ということです。

 

(2)信仰によって・・・赦しを受ける手段

 その神の赦しという贈り物を、私たちはいったいどのように受け取ることができるのでしょうか?22節に教えられています。

 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 十戒に照らしてみると、私たちは間違いなく罪があります。自分で自分を救えません。しかし、イエス・キリストを信じるという方法によって、神の義、つまり、神の前の罪のゆるしをいただくことができます。冷たい滝に打たれるとか、燃え盛る火をくぐるとか、断食を40日間するとか、凍り付いた苫小牧ではだしでお百度を踏むとか、莫大な献金をするとか、そういう修行によるのでなく、イエス様を信じる信仰という手段によって、神の義を受け取るのです。

 イエス様がエルサレム城外のゴルゴタの丘で十字架にかかられたとき、イエス様の両隣には犯罪人たちが十字架につけられました。最初は二人とも、苦しみの中で十字架の下の人々といっしょになってイエスを罵っていました。「おまえが神の子なら自分を救い、俺たちを救ってみろ」などと言いながら。しかし、片方の男は、イエス様が十字架につけられながら、敵のために「父よ、彼らをゆるしてください」と祈るありさまを見て、ああ、この方は神の御子なのだと信じました。そして「イエス様、あなたが天の王座に着くときには、あっしのことを思い出してください」と申し上げました。するとイエス様は「きょう、あなたはわたしとともにパラダイスにいます」とおっしゃいました。彼は、何も良いことはできませんでした。イエス様に水一杯さしあげることさえできません。でも、彼が自分の罪を認めて、イエス様を信じたとき、イエス様は彼の神の御前での罪を赦して天国の約束をお与えになったのです。

 罪の赦しという贈り物は、自分の罪を認めて、イエス様を信じることによって受け取ることができます。「神の義」つまり罪の赦しは、すべての信じる人に与えられる」のです。

 

3 罪の赦しの根拠と神の義の証明

 

(1)全ての人は罪がある

 しかし、神様は正義のおかたです。なんとなく清濁併せ呑むことは決してなさいません。では、なぜイエス様を信じたら、私たちの罪はゆるされるのでしょう。その根拠はなんでしょう。それについて説明が続きます。

 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。

 

 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」ということについては、すでに説明しました。私たちは、神の前に罪を犯したので、神からの栄誉は受けられず、死後の審判の後には永遠の滅びが待っているということです。私たちは生まれながらには、神の聖なる怒りの対象です。「すべての人」ですから、そこに自分自身が含まれているということを、自覚することが大事です。それがわかり、認めてこそ、イエスによる救いがいかに大切であるかがわかるからです。

 

(2)罪の赦しの根拠

 そのように滅ぶべき者ですが、神様はなお私たちを愛してくださいました。それが「神の恵み」ということです。祝福を受ける資格がない者を、神は愛してくださるのです。それが恵みです。

 「3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 神様は、私たちが自分で自分をきよくも正しくもできず、そのままでは地獄行きなので、ただ一方的なご好意によって、神の義、罪のゆるしを差し出してくださいました。私たちに出来ることは、信仰という空っぽの手を差し出して、神の義、罪のゆるしを受け取るということです。

 

  では、神様が赦してくださるという赦しの根拠はなんでしょうか。私たちのまじめな日常生活、熱心な修行を根拠として救われるというのでもありません。信じることが立派だから、それを根拠として罪が赦されるわけではありません。信仰というのは、いわば空っぽの手にすぎません。また、では、何を根拠として私たちは神様の前での罪を赦してもらえるのでしょう。次のようにあります。

 神は正しい審判者です。私たちに好意をもってくださって、赦してやりたいと思っても、なんの根拠もなく赦すわけにはゆきません。それでは神の正義は満足しません。赦すべからざるものを、何に根拠もなる「まあいいよ、いいよ」という裁きをしていたら、神の正義が成り立たず、世界は壊れてしまいます。

 正義の神が私たちの罪をお赦しになる根拠は、神の御子イエスが聖なる神の怒りをなだめる「なだめの供え物」となられたことです。

3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。

 イエス様は、あの十字架の上で、その一身に私たちの罪に対する神の聖なる怒りを受けてくださいました。神の怒りを受け止めて、神の怒りをなだめてくださったのです。二千年前、神の御子イエス・キリストは、あの十字架の上で私たちのために苦しみ、私たちを罪とその呪いから救い出してくださいました。

 まとめます。

 神は私たち罪人を赦す動機はなにか?神の恵みです。

 正義の神が私たちを赦す根拠はなにか?御子イエスのなだめの供え物です。

 この神の赦しを受け取る手段はなにか?私たちがイエスを信じる信仰です。

結び

 万物の創造主は生きておられます。私たちはこのお方に、この世にあっていのちを与えられて日々生かされています。このお方にどのように応答するのかが問われるのです。

 救いの道と滅びの道が、あなたの目の前に用意されています。

 滅びの道とは、神の前での自分の罪を認めず、差し出された救い主イエス様を拒み、神の聖なる怒りを受けることです。

 救いの道は、神の前における自分の罪を認めて、イエス・キリストを私の救い主として、信じることです。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

義人はいない、一人もいない

ローマ3:1-18

 パウロはキリストの福音を語るに当たって、初めに罪人に対して神の怒りが啓示されているのだと述べました。そして、神の前には律法を持たない異邦人も、律法を持っているユダヤ人も罪があるのだと語ってきました。神の聖なる怒りは、異邦人の罪に対しても、ユダヤ人に対しても燃えています。
 異邦人の罪は、偶像礼拝、性的不道徳、そして、神を知ることなど無益だと背を向け、ねたみや憎しみや殺意や傲慢や盗みや親不孝などのもろもろの罪を犯していることです。これらは、神の前では永遠の死罪つまりゲヘナの滅びに値するのです。かつて無神論者であった自分を振り返ると、これらの罪はまさに、私の犯していた罪ですと告白せざるをえません。
 他方、ユダヤ人たちは、律法をもっておりました。彼らは偶像礼拝はしませんでした。また、異邦人に比べるならば道徳的な生活をしています。けれども、使徒はかつて彼自身がユダヤ教徒であった経験からユダヤ人の急所をつきました。「異邦人をさばくあなたが、実は、陰では異邦人と同じことを行なっている。」と。そのありさまは、神の御目の前には異邦人の罪深さと五十歩百歩です。そのくせ、ユダヤ人は異邦人を見下しているから傲慢という罪ゆえに一層罪深いのだというのです。
 この観点からいえば、人間には、二通りしかありません。一つは聖書を知らずあからさまな罪にどっぷり浸っているので、もはや何が罪かということさえわからなくなっている状態です。偶像崇拝という罪は、その典型でしょう。偶像をを拝むことが信心深いよいことであるとさえ、人間は思うようになってしまいました。聖書という不変の基準がなければ、どこまで腐って腐っていることすらわからなくなるのです。 もう一つの道は、聖書を知っていて異邦人よりはましだと自己満足している偽善と傲慢の罪です。しかし、両者とも神さまの御目から見たら、同じような罪ある者なのです。つまり、人は、ルカ伝15章放蕩息子の譬えでいえば、親の金をふんだくって家を飛び出して放蕩に明け暮れた弟息子か、帰ってきた弟を憎み軽蔑して受け入れようとしない兄のような偽善者の冷酷な罪か、どちらかです。
 さて、きょうの所では使徒パウロは、前半ではユダヤ人の言い訳や反論を封じ込め、後半では人類は例外なくみな罪人であると論じます。

 

1.決して、そんなことはない

 異邦人をさばくユダヤ人、あなた自身は偽善者であると、鋭いナイフを首につきつけられたユダヤ人からの最後のあがきのような3つの反論があるだろうと予想して、パウロは話を進めます。
(1)第一の反論は1節2節・・・ユダヤ人のすぐれたところの意味について。


3:1 では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。
3:2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。


 これは言い換えると、「パウロよ、君のいう通りだとすると、ユダヤ人に優れたところは何もないことになり、神が定めた割礼も律法も無意味ということになるではないか。」ということです。それに対して使徒は答えます。そうではない。ユダヤ人にすぐれた所はある。だが、それはユダヤ人自身が異邦人よりも立派な生き方をしているからとか、ユダヤ人が特権階級であるからという意味ではない。そうではなく、神が一方的にユダヤ人に約束と旧約聖書をくださった恵みは優れているというのです。
 ユダヤ人の問題は割礼も律法も神の一方的恵みであることを忘れて、自らを選民として誇り、異邦人を見下していたことです。神がユダヤ人を選んだのは、彼らを誇らせるためではなく、彼らを祭司の民として彼らのうちから全人類の救い主キリストを与えるためでした。
 新約時代の私たちクリスチャンに適用するならば、私たちが洗礼を受け、聖書を与えられているのは、特権意識をもち傲慢になるためではありません。むしろ、自分のような罪ある者をゆるしてくださったキリストの愛にお応えして、神と隣人を愛する生き方によってキリストをあかしするためにこそ、私たちは洗礼を受け、聖書の御言葉をいただいているのです。

(2)第二の反論は、3-6節・・・・神の真実は揺るがないことについて。

3:3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
3:4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、
  「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
  さばかれるときには勝利を得られるため。」
と書いてあるとおりです。
3:5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。
3:6 絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。

 3節は、神が選んだユダヤ人のうちに不真実な人がいて、神のことばにしたがわず、偽善に陥っているなら、ユダヤ人を選んで契約を与えた神の真実は無に帰してしまったことになるのか?という問いです。 
 絶対にそんなことはないのです。申命記にあるように、神がイスラエルに与えた契約は、神に従う者には祝福を与え、従わないものには呪いを与えるという定めです。神は公正な裁きをなさいます。神が、ユダヤ人の中の不真実な人を公正にさばくとき、そのさばきによって、神の真実さが明らかになるのです。
 たとえば、ある窃盗事件の裁判において、被告が裁判官の昔の親友だったとします。もし甘い判決をくだしたら、不公正な裁判官だということです。逆に、その裁判官が被告にたいして厳正な判決がくだしたら、その裁判官は真実な裁判官だという評判になるでしょう。神が選んだユダヤ人が契約に対して不真実だった場合、その罪に対して厳格なさばきを下すならば、そのことによって神の真実があかしされるわけです。
 
(3)第三の反論は、7節・・・悪人は罪に定められる


3:7 でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。 3:8 「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか──私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。──もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。


 変な理屈です。裁判官の昔の親友が泥棒を働いて、裁判にかけられました。しかし、裁判官は友だちだからと甘くすることなく、罪を法律に照らして、公正無比な判決をくだしたとします。こうしてその裁判官は真実な人だという事実が明らかにされます。
 すると、その泥棒が裁判官に向かって「おい、俺が泥棒をしたおかげで、君は真実な裁判官だってことが明らかになったんじゃないか。だったら、俺は結局良いことをしたことになるじゃないの。どうして、良いことをした俺が有罪にならなきゃいけないの?善を現わすために、ちょっとばかり悪をしただけだよ。」めちゃくちゃな論法ですが、このように論じる者どもは当然罪に定められます。
 こうして、ユダヤ教の律法主義者からの反論をパウロは封じ込めました。

 

2.すべての人は罪人

 ここから後半です。すべての人は罪人であるという結論にいたります。
(1)義人はいない
 「では、どうなのでしょう。私たち(ユダヤ人)は他の者にまさっているのでしょうか。」パウロはもう一度言います。先には、1節で「ではユダヤ人のすぐれたところはいったい何ですか?」と問いかけ、「それはあらゆる点において大いにあります。」と答えたのに、今度は「決してそうではありません。」というのです。文脈が違います。先に「ユダヤ人にすぐれたところがある」と言ったのは、ユダヤ人は、神が彼らに割礼と律法を与えて人類救済の通り管として用いようとなさったという恵みの出来事がすぐれたことだというのでした。
 それに対して、今回の文脈は、心の思いまでも見抜かれる正義の神の前では、ユダヤ人も異邦人も例外なく、一人残らず罪人なのだということです。パウロは、異邦人もユダヤ人もすべての人は罪あるものだという主張を、旧約聖書のことばに訴えて締めくくります。私たちユダヤ人は旧約聖書を持っているから自分たちはほかの民よりも、神の御前には正しいのだと思い込んでいるが、旧約聖書は私たちについてなんと言っているだろうということで、10節から18節が記されています。すべて旧約聖書のあちらこちらからの自由引用です。
 まず結論から宣言します。10-12節。


「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。
  善を行う人はいない。ひとりもいない。」


 私は18歳のとき初めてこの箇所を読んだときは衝撃的でしたが、すっきりしました。「あ、神さまの前では一人の義人もいない。そうなんだ。」聖書を道徳の教科書のように思って、頑張って義人にならなくてはいけないと肩いからせて読んでいたのですが、「義人はいない。ひとりもいない」と言われてしまったのでした。<私は神の目の前で罪人だ>という根本的事実が、救われるための前提です。
 「義人はいないひとりもいない」から、私たちは神さまに対して、「あの人がああしたから」とか「こうだから」と言い訳するのは無意味だとわかりました。だから「はい、ごめんなさい。たしかに私は罪人です」と認めるほかありません。
 「義人はいない、ひとりもいない」からこそ、神の御子イエス様がたった一人罪なきお方としてこの世に来られて、十字架で私たちの罪を背負ってくださらねばならないことがわかりました。
 「義人はいない、ひとりもいない」からこそ、クリスチャンになってから行うさまざまな奉仕やささげものは、「させてもらっている」こと、神さまからの恵みなんだとわかりました。だから、少しばかり奉仕ができても、誇ることではなく、かえって、主のために少しでもお役に立てて感謝ということになります。だから、心は自由です。

 

(2)悪いことばは、人殺しにまでエスカレートする
 罪は、どんなふうにエスカレートしていくのかが次に記されています。まず、ことばの罪について13-14節。


3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」
  「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」

 ことばはあなたの人生を左右します。国と国との条約はことばによります。私たちが家を買うような大きな契約をするときもことばによります。結婚の誓いもことばによります。争いもことばによります。ことばは人生の舵です。
 そういう大切なことばが悪用されると悲惨なことになります。嘘をついて他人を罠に陥れたり、悪い噂を立てたりするのです。呪いと苦さをもって人を非難する罪です。聖書はことばを非常に重んじます。ことばは大きな船の舵のようなものです。小さな舵が巨大な船を右に左にと動かします。あなたが心につぶやくことば、あなたが口にすることばが、あなたの精神を支配し、あなたの人生を支配することになります。
 もし今欺きのことば、毒のあることば、呪いのことばがあなたのうちにあることに気づいたら、今すぐに神様の前にそれを告白して、捨てて、赦しきよめていただかねばなりません。あなたの心に悪い言葉を住まわせてはいけません。暗くなるまで放置しては放置してはいけません。さもなければ、悪魔があなたを支配するチャンスを得ることになります(エペソ4:26,27)。欺き、毒、のろい、怒り、苦さに満ちた言葉を心に住まわせたままでいると、それはやがて口から飛び出して、平和を破壊します。それは家庭を破壊し、友情を破壊し、教会を破壊し、人殺しにまで発展してしまうこともあります。もしそれが責任ある大統領とか総理大臣のことばであれば、戦争を引き起こし、何万人もの人が傷つき命を失うことになります。15-17節。


3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、
3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」
 

 そして、18節は、あらゆる罪と悲惨の根っこの問題は神への恐れの欠如です。


3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

 人の顔色を見て恐れたり、自分の将来の生活がどうなるのだろうと恐れたり、地震津波原発事故を恐れたりはしても、肝心の神に対する恐れが欠けているのが、的を外れた人間のありさまです。本来、万物の創造主である神をこそ私たちは畏れるべきです。生殺与奪の権をもっておられるのは、神なのです。神が、人間をご自身に似た人格的存在としてお造りになり、神を畏れ、神に誠実に応答して生きることが、人間の本来の姿です。
 しかし、多くの人は神に背を向けて、たいせつなことばを軽々しく使い、その言葉に操られるようにして、自分の人格と人生を破壊しています。神を畏れていないからです。

結び
 きょうは少しいろいろと学びました。3点確認します。
 第一は、ユダヤ人の不真実によって、神の真実が揺るがず、かえって神は不真実な者たちを正しくさばくことにおいて、ご自分の真実、公正さを明らかになさいます。

 第二は、神の前で義人はいない一人もいないという事実です。あなたは自力では救われえないのです。ただ神の恵みによって救われるのです。自分の罪を認めてイエス様にすがりましょう。私たちの奉仕も献金も救われるためではありません。恵みによって救われたことに対する感謝と喜びの表現です。

 第三に、私たちの罪の中でも、特にことばの罪に警戒すべきです。悪いことばが、争いを引き起こし、ついには人殺しや戦争にまでエスカレートします。だから、もしあなたの心の中に、神を軽んじ人を呪うような悪い言葉を見つけたら直ちに、神様の前に悔い改めて、罪を捨てることです。悪魔にチャンスを与えてはなりません。
 私たちは、神を畏れて生きてまいりましょう。

心の割礼

ローマ2:17-3:2

 

1.ユダヤ主義者の偽善

 昔、保健体育の授業のなかで水難救助の話を聞いたことがあります。だれかが池でおぼれて「助けて―!」と叫びながらアップアップと暴れているのを見つけても、すぐに飛び込んで助けようとしてはいけないというのです。近づくとしがみつかれて、一緒に沈んでしまうからです。もう暴れることもできなくなって、力尽きたと思ったら、さっとうしろから近づいて救うのだそうです。自分では自分を救えないとわからないと、恵みは働かないのです。使徒パウロが、異邦人の罪、ユダヤ人の罪を徹底的に論じるのは、人間は決して自分で自分を救うことができないことを私たちに悟らせるためです。

 ローマ人への手紙1章後半でパウロは、異邦人が神の御前では滅びに値する罪があることをあからさまにしました。2章にはいると、そういう異邦人たちを獣に等しい連中だと軽蔑している誇り高いユダヤ主義者たちを取り上げました。たしかに、ユダヤ人であるあなたは真の神を知っており、神のくださった律法を持っている。だが、「あなたは」神の前に正しい生活をしているのかということを問います。2章でパウロは、「ユダヤ人は」と客観的・一般的な問いかけでなく、「あなたは」と問いかけることで、きびしく迫るのです。
「ですから、すべて他人をさばく人よ、あなたは・・・さばくあなたが、それと同じことを行なっている」(1)「あなたは自分は神のさばきをまぬかれるのだとでも思っているのですか。」(3)etc...パウロは、自分自身ユダヤ人ですから、ユダヤ人が抱えている霊的な問題性のことが誰よりもよくわかっていました。そして、なんとか同胞ユダヤ人も悔い改めてほしいと願っていましたから、その迫りは激しいのです。 まず17-20節においても「あなたは」とパウロは迫ります。ここでは、ユダヤ人たちの誇り高さが表現されています。


2:17 もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、
2:18 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、
2:19 20 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、


 あなたはユダヤ人であり律法を持っていることに満足し、神を誇りとしている。たしかにあなたは異邦人のように石や木や動物を拝んだりなどしていない。それであなたは、異邦人たちを盲人に見立てて自分たちは彼らを導く役割を持っているとか、愚かな異邦人たちを幼子にたとえて彼らをしつけるのは自分たちユダヤ人だという優越感をもっていますねというのです。
 意外なことかもしれませんが、当時のユダヤ教は異邦人伝道に熱心で、主イエスも彼らに向かっておっしゃいました。「偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸を飛び回」っている、と。たしかに、旧約聖書出エジプト記19章には、イスラエル国には「祭司の王国」として世界の諸民族の祝福の基となることが告げられています。彼らを通して、異邦人は神の祝福を受けるのです。ですから、彼らが異邦人伝道に熱心であったこと自体は良いことです。ユダヤ人たちは、ヘレニズム世界そしてローマ帝国が成立すると、東はペルシャ、西はイスパニアにいたる世界に広がって各地にユダヤ教の会堂を造り、礼拝を始めました。ユダヤ教の宣教によって異邦人の中には、先祖伝来拝んできた多神教の神々などというものがいかにも人間が作り出したものにすぎないことがわかり、旧約聖典に啓示された世界の創造主である神が真の神であると信じて、改宗する人々が起こったのです。
 けれども、イエス様は続けておっしゃいました。「海と陸を飛び回って、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にする・・・」(マタイ23:15)と。どういうことでしょう?せっかく改宗した異邦人たちは、あなたのようなユダヤ教徒たちの宗教生活の実態を知るようになると、あなたの偽善に倣って偽善的な宗教生活に陥っているではないかというのです。

 

2:21 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。 2:22 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。 2:23 律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。 2:24 これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。


 イエス様のエルサレム神殿での「宮きよめ」の事件に、この残念な実態がよく表れています。いよいよエルサレムに入城なさったとき、主イエスはまず神殿に行かれ、異邦人の庭にはいりました。エルサレム神殿は一番奥から祭司の庭、イスラエルの庭、女性の庭、そして、異邦人の庭となっていました。主イエスが一番外側の異邦人の庭で見たのはなんでしたか。異邦人たちが礼拝の庭は、ひっきりなしに荷車をガラガラ引いて近道するために横切る商売人たちがいました。彼らは神殿の外側を通ると遠回りなので、近道をしていたのです。また両替人やいけにえのための動物やハトを売る商売人にたちが、「これはいい品だよ。やすくしとくよ。」とか言ってうるさくしていたのです。
 「異邦人の庭」というのは、異邦人改宗者たちの礼拝の場です。はるばる外国から過ぎ越しの祭りに天地の創造主をあがめにやってきた、異邦人改宗者である巡礼たちは、厳かな気持ちでエルサレム神殿まできたのに、そこは「強盗の巣」だったのです。せっかく異郷世界の中で、真の神を信じる一大決心をして回心した異邦人たちでしたが、その本山であるエルサレム神殿にやってきて失望しました。「なんだこれじゃあ、ゼウス神殿やアポロン神殿と何もかわらないじゃないかと。」長野県の善光寺とか、浅草の帝釈天みたいなものです。その庭には、イカ焼きとかお好み焼き綿あめとか金魚すくいとかいろいろ屋台が出ていて、にぎやかなもんです。「聖書の宗教は天地の創造主をあがめる真理だと思っていたけれど、所詮こんなものなのか。」と異邦人改宗者たちは思ったことでしょう。「神の名はあなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」という状況です。商売人たちを神殿内に入れることを許可していたのは、ユダヤ教の祭司や長老たちです。主イエスは、あのとき非常にお怒りになって、両替人やいけにえのハトを売って商売している連中を神殿から追い出しました。

 

2.心の割礼こそ

 

 そして、使徒ユダヤ人が誇りとしている割礼について語ります。割礼とは、紀元前二千年ころアブラハムの時代に、神様が神の民のしるしとして定めた儀式です。創世記17章に記されています。

17:9 ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。 17:10 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。 17:11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。 17:12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。 17:13 あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。 17:14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」

 ユダヤ人の男児は、生まれて8日目に割礼をほどこされました。また、血統的にユダヤ人でなく外国人であっても、割礼を受ければ神の民ユダヤ人とされるわけです。これが旧約時代における神の民のしるしでした。新約時代における洗礼式にあたる契約の印だということになります。ただ、割礼は女性にはほどこされなかったという点は洗礼とちがいますけれども。
 しかし、とパウロは言うのです。割礼を受けて私は神の民の一員でございますと胸を張っていても、もし神があなたに与えてくださった律法をないがしろにしているならば、神の民としての値打ちがないではないか、と。

2:25 もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。

 十戒は、偶像崇拝の禁止、安息日を守れ、父母を敬え、殺すな、盗むな、偽証するな、むさぼるなと言ったことを命じています。神の民であるなら、せめて十戒を守るべきです。それなのに、あなたは異邦人を「律法を知らないみじめな連中だ」とさばきながら、実は、「盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫し、偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめているのですか」というのです。パウロがなぜこんなことを言えるのかと考えてみれば、パウロはサウロと呼ばれた時代、熱心なパリサイ人として、ユダヤ教の祭司や教師たちの生活の実態を知っていたからであろうと思います。サウロ自身は、まじめ人間でしたが、ユダヤ教の祭司や律法学者の中にはこういう不埒な人々もいたのでしょう。真の神を知っていて、割礼という神の民のしるしを受けていて、真の神から律法をいただいていて、しかも人にはそれを教えている。それなのに、実は、その律法をあなどる生活をしている実情に対して、彼は憤りを感じていたのです。
 そこでさらにパウロはひっくり返して言います。

2:26 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。
2:27 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。
2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。


 パウロは異邦人に伝道をするようになり、異邦人の生活ぶりを知るようになりました。悔い改めてイエス・キリストを信じた人々が、割礼など受けなくても、神を愛し隣人を愛する立派な神の民らしい生活をしているのを見るようになりました。もし、割礼というしるしを受けていなくても、神を畏れ、隣人を自分のように愛して神の律法にかなう生活をしている異邦人がいたら、その人こそまさに神の民ではないかというのです。それは、聖霊によって新生した人のことです。

 

3.ユダヤ人であること割礼⇒クリスチャンであり洗礼を受けていることの意義

 そして、第三のポイントに進みます。3章1節です。

3:1 では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。

 割礼を受けていても、神の民としての実質が生活の中に伴わないユダヤ人たちをパウロは非難してきました。こういう議論をしてゆくと、ふつう、ユダヤ人のすぐれたところなどないし、神の民の印である割礼にはなんの益もないと続きそうです。ところが、パウロの答えはさかさまです。

3:2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。


 ユダヤ人たちが、神の民のしるしである割礼を受けていながら、律法に背く生活をしているからといって、割礼を受けていること、神の言葉である律法を授かっていることが意味のないことにはならないというのです。割礼も律法も、神様が彼らに与えてくださったすばらしい祝福であることに変わりはありません。ただ、彼らは神から授かった祝福を無駄にしてしまっていることが問題なのだということです。
 
 新約の時代の神の民、クリスチャンに適用してみましょう。新約の時代、割礼にあたる儀式は洗礼です。父と子と聖霊の名による洗礼を受けても、クリスチャンとして、神のことばに従って実を結んでいなかったら、洗礼はなんの値打ちがあるのでしょうか?洗礼を受けていながら、神を愛することと、隣人を自分自身のように愛することにおいて実を結んでいないなら、クリスチャンである値打ちがあるでしょうか。洗礼を受けていながら、肉の行いに走って、御霊の実を結んでいないとすれば、クリスチャンとなった甲斐がありません。
 しかし、洗礼やクリスチャンであることの値打ちがないわけではありません。パウロの論理にしたがっていえば、クリスチャンのすぐれたところ、洗礼の益は、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に神の言葉である聖書がゆだねられています。神のことばを託されていることは、実に、驚くべき恵みであり特権です。その大いなる特権を無駄にすることがないように、私たちは神を愛し、神の言葉である聖書のことばに親しみ、忠実にしたがう生き方をして主のために実を結ぶものでありたいと思います。
 今年ももう2月まで来ました。この二か月間を振り返って、クリスチャンとしての日常生活はどうだったでしょうか。神の国とその義を第一に求める、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)という実りある生活を送ることができたでしょうか。そうは行かず、肉の思いと行いにとらわれたことがあったでしょうか。聖餐式を前に神様の前にひとりになって、自らを振り返りましょう。もし欠けがあったならば、それを主に告白して、悔い改めて聖餐にあずかりましょう。
 3月、主の日をたいせつにし、聖書通読に励み、この新しい月、神さまに応答して主のために実を結ぶ生活をしてまいりましょう。

さあ、主の家に!

詩篇122

                                                                               

 

都上りの歌。ダビデによる

 

 122:1 人々が私に、

  「さあ、【主】の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。

 122:2 エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。

 122:3 エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。

 122:4 そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。

  イスラエルのあかしとして、【主】の御名に感謝するために。

 122:5 そこには、さばきの座、ダビデの家の王座があったからだ。

 122:6 エルサレムの平和のために祈れ。

  「おまえを愛する人々が栄えるように。

 122:7 おまえの城壁のうちには、平和があるように。

  おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」

 122:8 私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。

  「おまえのうちに平和があるように。」

 122:9 私たちの神、【主】の家のために、

  私は、おまえの繁栄を求めよう。

 

 

 お読みした詩篇122篇は今年の元旦礼拝でともに味わった箇所です。元旦礼拝に参加された兄弟姉妹にとっては、今年二回目のメッセージということになります。それでも、どうしてももう一度話すべきだと導かれたのは、教会総会に先立って、2018年度の目標のみことばとして与えられたその意味を確かめるためです。説教原稿はもちろん新たに準備しなおしました。またこの二か月、詩篇122篇をともに歌って過ごしてきました。

 旧約時代におけるエルサレムと神の家である神殿は、新約時代における教会を指さしています。

Ⅰテモテ 3:15. 「それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」 

この一編をそのように味わってまいりたいと思うのです。

 

1.さあ、主の家に!

 

 さて、詩篇は120篇から134篇まで「都上りの歌」と表題が付けられています。神の家、エルサレム神殿に詣でた巡礼たちをイメージして、これらは編まれています。120篇は遠く異郷ケダル・メシェクにあっての神の都エルサレムへの望郷の叫びでした(120:5,6)。メシェクというのは、黒海カスピ海の間の地域で、初場所で優勝した栃ノ心のふるさとジョージアあたりです。ケダルは小アジア半島の北部。これらの地にから巡礼が都エルサレムへと上っていくという設定です。

 次に詩篇121編は「私は高い山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは天地を造られた主からくる」と始まる有名な一篇です。これはエルサレムに上っていく巡礼の荒野の旅路で、前途に立ちはだかる岩山を見上げての歌でした。そして、本日の122編。これは巡礼者が、いよいよ都に入った感激の場面です。

 

 都エルサレムは山の上にあります。その山は、父祖アブラハムがひとり子イサクを捧げたというあの山です。祭りのシーズンになると世界から集まってくる巡礼者が多すぎて、到底エルサレムの城壁内の宿屋では収容しきれません。そこで、当時巡礼たちは、そのふもとにテントを張って一夜の宿を取りました。

 そして、まだ夜が明けそめる前に、床から起き出てきます。遠足の朝みたいです。とても夜明までは待って居られません。はるか異郷の地で夢にまで見た神の都エルサレムです。巡礼たちは粛々と旅装を整えますが、胸のうちからは喜びが湧きあがってきます。そして、サンダルのひもを結んで、「さあ。主の家に参りましょう!」となります。

1節。人々が私に、「さあ。主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。

 

<適用>

 二千年、いや三千年、今日までこの巡礼者たちの喜びは、繰り返されてきました。キリストの時代が来たって、主の家は教会となりました。 主の日の朝ごとに、私たちはたがいに声をかけ合いましょう。「おはようございます。さあ。主の家に参りましょう!」「『いざ、主の家にぞわれら行かん』と人々いうとき、われ喜びぬ。」です。

 メシェクとトバルではありませんが、この異郷国日本にあって、まことの神を知らぬ人々に囲まれた生活の中で、キリストを信じる者として緊張を強いられた日々の中、ああ、神の家に行きたいと思ったことが何度あったことでしょう。主の日の礼拝の朝。「さあ、主の家に参りましょう!」と玄関から聞こえる声のなんと喜ばしいこと!

 

2.教会、信仰告白「よくまとめられた町」

 

(1)エルサレムの門で

 巡礼たちは、一気に、エルサレムの丘を押し登り、すでに門のうちです。

2節「エルサレムよ。私たちの足は、お前の門のうちに立っている。」

 ここにいう「立っている」は、「立ち続けている」「立ち尽くしている」という意味のことばのかたちです(Qal,オーメドート、アマドの分詞) 。巡礼たちは、門に入ると感激のあまり、目を瞠り、そこに立ち尽くしているのです。異郷での戦いが厳しく旅路の苦労がたいへんだったからこそ、なおのこと神の都の門に立ちえた喜びが大きいのです。

 一週のこの世での戦いを終えて、教会の門に立つとき、こんな感動をもつ。この世での戦いが熾烈であったればこそ、今ここに立つことの感動も深いのです。

 「エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。」主の日が来るごとに、こんな感動をもって教会の玄関を潜るものでありたいと思います。

 

(2)よくまとめられた町

 さて巡礼の目は、目の前に広がるエルサレムをながめてほうっと息をつきます。旅してきた岩がごろごろした荒野とは、なんという違いでしょう。行き交う人々の生き生きとしたありさま、軒を連ねる家々。荒れ地を長旅をしてきた巡礼にとっては、エルサレムの光景は新鮮です。

3節。「エルサレム。それはよくまとまられた町として建てられている。」

 「よくまとめられた」というのは英語の訳ではコンパクトです。バビロンのような巨大な威容はないけれど、小ぶりだけれどよく秩序だった美しい街の姿です。キリストの教会には、この世とは違った「よくまとめられた町」として一つのコンパクトな聖なる秩序があるはずです。使徒は言いました。「ただすべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい。」(1コリント14:40)それは、この世のように権力と剣による秩序ではなく、神を恐れ神を愛する者のうちにある、御霊の一致による秩序、信仰告白の一致による調和です。神の教会には、そういう「よくまとめられた」姿です。自由と言って放縦に走らず、秩序といって形式主義に陥らない神の家の姿です。それが、神を恐れ、神を愛する者たちの教会のありかたです。

 

3.礼拝=神の民の証

 

 しばし門に立ち尽くし、町を眺めていた巡礼は、今度は門を出入りする往来見回します。すると、自分と同じような巡礼者の波が、続々と門をくぐって行くいくことにあらためて気付きます。それぞれの言葉や身なりで、ああはるばるやって来た老若男女なのだと分かります。自分たちと同じように北方からやって来たであろう色白の人々もいれば、アフリカかアラビアから来たのであろう日焼けした人々もいます。若い人もいれば、年とった人々もいます。子供、男、女、貧しい身なりの人、立派な身なりの人、遠くから近くから各地から、各様にこの都エルサレムに、集ってきたのです。

  身なりも、言葉も、男女も、年令も、色々様々だけれど、目指してきた所は一つです。それは、「神の民イスラエルのあかしとして、主の御名に感謝するため」です。「ことばに色に違いあれど、御民のおがむ主ひとりなり」です。礼拝を捧げるためです。そうです。礼拝こそ、イスラエルが神の民であるということのなによりのあかしなのでした

4節。「そこに、多くの部族、主の部族が、登ってくる。イスラエルのあかしとして、主の御名に感謝するために。」

 

<適用>                                                                    

 新しいエルサレムである教会。集う者たちも様々です。年寄りも居れば、中年もいる、若者も、幼子もいる。男も女も、富むものも貧しいものも、日本人も、アメリカ人も、韓国人も、モンゴル人も、中国人も、マレーシア人も、キリストにあっては一つの神の家族です。まさしく「ことばに色に違いあれど、み民のおがむ主ひとりなり」です。聖なる公同の教会です。

 私たちは、なぜ主の日ごとに教会につどうのか。それは、神の民としてのあかしのため、主の御名に感謝するためです。礼拝するためです。そうです、礼拝こそ、私は神の民ですという何よりのあかしなのでした。この世では目にも留められないような小さな存在であったとしても、天地の主を礼拝するということ、これこそクリスチャンのクリスチャンたるしるしです。クリスチャンとはまことの神を礼拝する民のことです。

 そして、私たちが、一つ所に集い、神を心から喜び、神を感謝している姿。そこに、この世の人々は「神は生きておられる」というあかしを見るのです。肉による家族や世の人々を相手に、どんな「キリスト教弁証論」をこねるより、あなたが神の民の中で、まことの神を礼拝することにいのちをかけ、そのことで感謝に満ちている。その姿を見る人は、あの教会の集いのうちには、この世にはないなにか素晴らしいもの、なにか不思議なものがある、神は生きておられると、認めるのです。

 

4.ダビデの王座

 

 また、都エルサレムは神礼拝の中心であると同時に、地方では裁き切れない問題が持ちこまれて、ここで賢明な決裁のなされる場でした。エルサレムには、王の座があり、その裁定がなされたのです。旧約聖書にソロモン王のもとにひとりの赤ちゃんをめぐって裁きを求めて来た二人のやもめの姿が描かれている記事があるでしょう。父ダビデの王座についたソロモンは見事な裁きをなしました。

5節。「そこには、さばきの座、ダビデの家の王座があったからだ。」 

<適用> 

 この世の生活で、職場のこと、家庭のこと、地域のことで多くの問題をかかえ、解決のできないことに苦悶しているなかで、一週を過ごして後に迎えた主の日の朝。ところが、その悩みが、礼拝で主を見上げ、御言葉に耳を傾けているうちに、嘘のように解決していた、そういう経験があるでしょう。教会にはまことの王であるキリストのみ座があるからです。説教者が聖書といういのちのことばを忠実に説き明かすとき、不思議に生けるキリストが、私たちの心を照らし、私たちの悩みを氷解させるのです。

 

5.神の家のために祈ろう

 

 こうして後半は巡礼たちの都のための祈り、都の人々のための祈りと祝福へと展開してゆきます。

 エルサレムとは、「神の平和」という意味です。神の都はすべからく平和の都であるのです。また、そうあるようにと巡礼たちは祈ります。国民全体の平和と繁栄とは、この都エルサレムにおいて、正しい神礼拝がなされ、かつ正しい王によるさばきがなされるかどうかにかかっています。都での神礼拝が乱れ、都の王座が正しい裁きをしなくなるならば、国民全体が乱れ、罪に陥り、神の怒りを被ることにもなりましょう。ですから、都を訪れた巡礼たちは、神の民の礼拝の中心、統治の中心たるエルサレムの平和と祝福のために祈るのです。そして、都のために祈り、都を愛する者たちは神の祝福を受けて栄えるのです。

6節。「エルサレムの平和のために祈れ、

        おまえを愛する人々が栄えるように。

        おまえの城壁のうちには、平和があるように。

        おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」

<適用>

 新約の時代、私たちはエルサレムを新しいエルサレムである教会に適用して読むべきところです。もしあなたが、教会の平和と繁栄のための祈りは、その人自身の祝福となって帰ってきます。教会を愛する人は栄えるのです。私たちは洗礼のとき、あるいは転入会のとき、「教会の純潔と一致と平和のために努力することを誓います」という誓いをもって神の家族に結ばれました。

 今年、教会の平和と繁栄のためにさらに祈りましょう。奉仕者のためにさらに祈ってください。自分の生活や困難のためばかりでなく、今年もっと教会の平和と繁栄のために祈ってください。説教者がみことばに生き、みことばを語ることができるように、ぜひ祈ってください。

 

 そして、神の家である教会のうちに平和があることは、兄弟姉妹、友人の祝福にもなるのです。私人が8節で「おまえのうちに平和があるように」という「お前」はエルサレム、神の家のことです。

8節。「私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう『おまえのうちに平和があるように。』」

9節。私たちの神、【主】の家のために、

  私は、おまえの繁栄を求めよう。」

                                                                  

 私たちはさらに互いの、平和と祝福のために祈り続けるものでありたいのです。この御言葉が与えられて、今年は、もっともっと祈りを充実する年としたいと願っています。水曜日の朝夕の祈祷会が祝福されますように。また、会堂のお掃除の前後、会計、各部各委員会の前後、あらゆる機会に祈るものとなりましょう。個人の生活の中でも、聖書を開き、日々祈りましょう。自分と家族のために祈ることも大事ですが、教会のために祈りましょう。牧師が健康を守られその働きをまっとうできるためにも祈ってください。

 巡礼はその都の礼拝の中心の「主の家」のためにいのったように、私たちは礼拝の中心、教会の平和と繁栄のためにさらに祈ってください。

 

(結び)

 かくて、詩篇122編は閉じます。

私たちは、詩篇122篇を苫小牧福音教会の教会賛歌として用いたい。

七日ごとに訪れる主の日の朝ごとに、あの巡礼の感動を新たにするものでありたい。

「さあ。主の家に行こう!」とたがいに声を掛け合う者たちでありたい。

さあ、主の家に行きましょう」と家族や近所の人にも声をかける者となりたい。

私たちの感謝にあふれた礼拝が、キリストのあかしとなることを願いたい。

 

そして、教会の平和と繁栄のため、互いのため、そして、御言葉に仕える者のためさらにさらに豊かに祈る者でありたいのです。

 

 

 

詩篇歌122篇

 

いざ主の家にぞ われら行かんと 人々いうとき

われ喜びぬ ああエルサレムよ われらの足はなが門のうちに立ち続けたり

 

主のやからはみな上り来たりて イスラエルのよき証のために

主の御名に向かい感謝をささぐ かしこにダビデの御座あるゆえに

 

エルサレムのため平安祈れ なんじを愛する者らは栄え

なが垣のうちに平安ありて なが宮のうちに栄えあれかし

 

今わがはらから わが友のため 汝の安きをわれは祈らん

われらの神なる主の家のため 汝の幸いわれは求めん

 

(日本基督改革長老教会詩篇抄集』より。)

 

<注>今回の説教は、教会総会に先立っての説教でした。内容的には、小畑進牧師の都上りの歌の説教の色濃い影響を受けているなあと、われながら思います。

道・真理・いのち

ヨハネ14:1-7

  14:1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
14:4 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
14:5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」

1.心を騒がしてはなりません・・・・死に対する恐怖

(1)歴史の事実
 お読みしたのは、まもなくイエス様が弟子たちのもとを去り、十字架に向かおうとしているとき、最後の晩餐の席上での、弟子のひとりトマスとの対話の場面です。まず、この出来事の日付を確認しておきます。歴史学者・聖書学者・天文学者の研究を調べてみると、この最後の晩餐の日付は西暦でいえば33年4月2日のようです。十字架にかかられるのは、その翌日です。
このように日付とを確認するのは、イエス・キリストは仏教の阿弥陀さんとか大日如来などのように空想上の宗教的存在ではなく、歴史上の現実のお方であることをまず憶えていただきたいからです。イエスは私たちが住んでいる時間と空間の中に実在していたお方であり、聖書に記されている出来事はいわゆるフィクションではなく、歴史の事実です。聖書は詩篇や雅歌といった部分を除いて、大半は文学書や哲学書ではなく、過去実際に起こったことが書かれている歴史書です。

(2)状況
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」と主がおっしゃるように、この時、弟子たちは心を騒がし恐れていました。なぜなら、彼らは主イエスの口ぶりや態度から、主が弟子たちのもとを去り、死ぬ覚悟でいらっしゃることを感じ取っていたからです。14章の冒頭には「さて、過ぎ越しの祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので・・」と書かれています。また、晩餐の席上ではイエス様が弟子たちの足を洗ってくださり、そのあと、「わたしがあなた方にしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(14:15)と遺言のようなことをおっしゃるのです。
 さらに、主イエスは「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」(21節)と、ご自分が裏切られて、死に至るのだと驚くべき予告しておられます。
 そして36節では「わたしが行く所に、あなたは今はついてくることができません。」とおっしゃり、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」と言われました。主イエスが、弟子たちのところを去って父のもとにゆくべき時が、今や刻々と迫っていると、弟子たちはひしひしと感じ、心騒がしていたのです。
それで、主イエスは「あなたがたは心を騒がしてはいけません。神を信じ、またわたしを信じなさい」とおっしゃいました。3年間、どんなときにも主に付き従って来た弟子たちとしては、不安でなりません。イエスさまがいなくなってしまうならば、自分たちが抱いて来た望みはどうなってしまうのか?と恐れを抱いているのです。また、イエスさまが裏切られて、敵に渡されてしまうということになれば、自分たちだってただでは済まないだろうとおもわれました。

 

(2)死が怖い理由
 実は、この「心を騒がしてはなりません」以下の聖書のことばは、しばしば葬儀の場面でも朗読されるところで、葬式の式文にも採用されています。愛する者を失った遺族を慰め、力づける主イエスのことばとして読まれるわけです。 弟子たちが恐れていたのも、死によって愛するイエス様から引き離されるということでした。また、それだけでなく、自分たちが主イエスの弟子であるということで、自分たち自身も当局に逮捕されて処刑されるかもしれないという恐怖もありました。死はすべての希望を奪い去ってしまうのです。

 人はなぜ死を恐れるのでしょうか?この世の愛する人々との別離があるので、寂しいから、というのは理由の一つでしょう。しかし、それがすべてでしょうか?そうではありません。愛する人々などこの世にはいない天涯孤独な人であっても、よほど特殊な人でない限り死を恐れます。なぜ人は死を怖がるのでしょう。
 私の父は、私が洗礼を受けた後、49歳のときに教会に通い始め、朝拝、夕拝に出ては、熱心に説教を聞いていました。しかし、なかなか信じることができないでいました。そんな父にとって、尾山令仁先生が書かれた二冊の本が役に立ったそうです。一つは『キリスト教一問一答』という本で、宗教とは、聖書とは、神とはといった項目を筋道を立てて、論理的に答えている本でした。父はこの本を会社の行き帰りに3回も4回も5回もボロボロになるほどまで読んでいました。もう一冊が『死への備え』という本でした。父が50歳で洗礼を受けたときの証で、「私はこの本を読んではじめて実感として自分には救いが必要であること、イエス・キリストという救い主が必要であることがわかりました」と話していました。
 人は死に不気味なものを感じます。それは、死の向こうに何か恐るべきものが待っているという予感があるからです。「死んでしまえば、火葬場で燃やされて大半は煙になり、残りの骨は墓に入れられておしまいだ」と口先では威勢よく言って、自分にいくら言い聞かせても、実は、死後にただならぬことが待っていることを人は感じています。
 実際、死後の体験というものをした人々は、自分の肉体から自分の霊魂は離れたという共通した証言をしています。ただ、そういう体験を証言する人々は生還した人々ですから、その先どういうことが待っていたのかということについては、沈黙するほかないのです。
 死後に何があるかということについて、正確に知っているのは誰でしょう?それは、この世界とともに死後の世界をも造り、これを支配している神だけです。その神が、はっきりと聖書を通して「人間には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル9:27)と教えているのです。 その時、私たちは一人一人、神の法廷に立たされて、生前にその手で行ったこと、その口でしゃべったこと、その心に思ったことのすべてを、神によって吟味されることになるのです。そこで永遠の死に当たる罪について、ローマ書1章はこのようにリストアップしています。
「ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、 1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、 1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。 1:32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定め」がある。
 このリストを読んで、あなたは神の前に一つの罪もありませんか。残念ながら、思い当たる節のない人はいないでしょう。つまり、このリストだけ見るならば、死後、天国にあなたの住まいはないということです。親鸞聖人が自分の心が汚れ果てている現実を見つめて、「地獄は一定、住処ぞかし」と嘆いたのはもっともなことでした。

 

2.天の家を備えるお方

 そこで、主イエスは、主との別離を恐れ、自らの死を恐れて心騒がせている弟子たちに対しておっしゃいました。  14:1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」 なぜ、死を恐れなくてよいと主イエスはおっしゃることができるのでしょうか。それは、主イエスが主イエスを信じる者のために天の住まいを用意するために、天の父のもとに行くからです。 
「14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
 主イエスを信じる者たちのためには、主イエス様が、ちゃんと天の住まいを用意していてくださるのです。そして、用意がきちんとできたら迎えに来てくださるのです。だから、イエス様を信じる者は死を恐れる必要がありません。地上における務めが終わったら、イエス様が至福の御国に連れに来てくださいますから、どんなおうちかなあと楽しみに待っていればよいのです。

 では、イエス様は、どうしてこのようなだいそれたことを言う資格があるのでしょう。イエス様は、人類の歴史の中で、ほかの誰も決して言うことのできないことを宣言しました。


14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」


 人類史上最も偉大な思想家を三人挙げなさいといえば、多くの人は、インドのシャカ(ゴータマ・シッダールタ)と、ギリシャの哲人ソクラテスと、中国の孔子をあげるでしょう。   
 ソクラテスが真理を探し求めてみて知ったのは、「私は何も知らない」という事実でした。そこで当時のギリシャで知者と呼ばれる人々を次々に尋ねて回りました。すると、実は誰一人、真理を知る人はいませんでした。ただソクラテスが彼らと違っていたのは、彼らは自分は知っていると思い込んでいましたが、ソクラテスは自分は知らないことを知っていたという一点でした。これを「無知の知」といいます。
 孔子も「知らないことを知らないとする、これが知るということだ」と言いました。また弟子たちから「死とはなんですか?」と問われた時には、孔子は「いまだ生を知らず。いわんや死をや。」と答えました。
 シャカは、真理を探し求め、ついに見つけ出したのは、人生は所詮、苦しみのかたまりであり、人が老いて、病気になって、死ぬものなのだあきらめなさいだとしました。あきらめたら若くあろう、病気になるまい、死にたくないなどという執着がなくなった分、少し気が楽になる、ということです。シャカは死後についてはまったく教えませんでした。
 真理はわからないことだけはわかる。人生は苦しみに満ちている。死はわからない。これが人類史上最大の思想家たちの到達点です。偉大な思想家が、いわば下から上に向かって懸命に父なる神に到達する道を探したり切り開こうとしたけれども、誰一人到達することはできません。神は無限にきよく、無限に偉大なお方ですから、有限であり、かつ、罪ある人間がどんなに頑張っても到達できないのは当然のことです。
 ところが、イエス様はなんとおっしゃいましたか。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」とおっしゃるのです。イエス様のお言葉は、人間が修行を重ね、探求して、ついに到達したことばでないことが一目瞭然でしょう。これは上からのことば、神のことばです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」 イエス様が「わたしが道である」とおっしゃった意味は、続いて「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われたことからわかるように、イエス様だけが父なる神様への道、言い換えれば、死の淵をこえて天国への道なのだという意味です。なぜなら、イエス様は父の御許から来られた神の御子であるからです。
 イエス様は世界が存在する前から、父なる神とともに生きておられる神の御一人子です。イエス様はこのあと、こうおっしゃっています。ヨハネ17:5 「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」 人間が真理を求め神を求めたのではありません。神の御一人子でいらっしゃるお方が、私たち人間を求めてくださったのです。哲学者たちのように下から上に探求したのではなく、上から下に下ってこられたのです。有限の者が無限の神を求めても決して到達できないので、無限のお方が有限な人間の性質をおびてへりくだって来てくださったのです。そして、有限な私たちにわかる言葉をもって真理を語り、私たちに神は愛であることをおしえてくださいました。有限な私たちも、イエス様の愛と正義の生き方、イエス様のおことばの真実を聖書に見るときに、父なる神がどのようなお方であるかを見ることができます。主イエスは弟子のトマスに向かっておっしゃいました。 「14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」


3 主はどのように天の住まいを備えてくださったのか 
 
 最後の晩餐の席上、主イエスは、「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」とおっしゃいました。どのように備えてくださったでしょう。この時から三時間ほど後、イエス様はゲツセマネの園で当局によって逮捕され、ユダヤ議会の法廷にかけられました。イエスを有罪とするためにさまざまな偽証がありましたが、どれもちぐはぐで証拠にはなりませんでした。そして、最後にイエス様がユダヤの法廷で死刑判決を受けた理由は、ただ一点でした。それは、イエス様がご自分を神と等しくしたという事実でした。そのあと、ローマ総督の法廷を経て、イエスは十字架刑に処せられました。
 十字架にはりつけにされると十字架の下の人々はイエスを嘲りました。しかし、苦しい息の下で、主イエスは「父よ。彼らをゆるしてください。彼らは自分で何をしているのかわからないのですから。」と祈られました。そのとき、さきほどまでイエスを罵っていたイエスの隣の罪人がイエスに言いました。「イエス様。あなたが天の御国の王座に着くときには、あっしのことを思い出してください。」すると主イエスは、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいる。」
 イエス様の十字架の死は、私たちが父なる神の前に背負っているすべての罪の呪いを、身代わりとなって背負うためでした。そして、信じる者を罪の呪い、地獄の滅びから解放してくださるためでした。
こうして、神の御子であるイエス様が、私たち有限な人間と無限の父なる神とをつなぐ唯一の道をなり、イエスを信じる人々に天の国の住まいを準備してくださったのです。

 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

まとめ 

 神様と私たちを隔てているのは、二つのことです。
 第一は、神は無限であり私たちは有限者にすぎないという事実です。第二は、神は聖なる汚れなきおかたであるのに対して、私たちは心の想いと、ことばと、行いにおいて汚れた罪人であるという事実です。
 イエス様は、道であり、真理であり、いのちであるお方として、この二つの隔ての問題を解決してくださいました。
  第一に有限な人間が無限の神を求めても求め得ないので、神に等しい神の御子であるイエス様が、有限な人としての性質をおびて私たちのところにきてくださいました。それで、私たちは御子イエス様を見ることをとおして、父なる神を見ることができます。第二に、御子は私たちの罪を十字架の死と復活をもって処理してくださいました。ですから、私たちは神の前における自分の罪を認めイエス様を私の救い主として受け入れるならば、罪ゆるされて父なる神のもとに行くことができるのです。 
道であり真理でありいのちであるイエス・キリストをあなたも信じてください。そして主が、十字架の苦しみを受けることによって用意してくださったすばらしい永遠の住まいに迎えられるその日を楽しみにして生きる人生をともに歩みましょう。

 

造り主に帰れ

ローマ1:18-32
  1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。 1:19 それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。 1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
1:21 それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。 1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、 1:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
  1:24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。 1:25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
  1:26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、 1:27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
  1:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、 1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、 1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
1:32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。

 

1.自然啓示によって創造主なる神を知る(18-20節)

(1)明らかである
 まことの神は天地万物の創造主であり、ご自分のことを被造物を通して私たちに明らかにしていらっしゃいます。19,20節


1:19 それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。 1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。


 神さまがご自分とその御心を現わす働きを啓示といいます。神さまは、この啓示のために二つの方法をお用いになります。一つは、神の被造物つまりいわゆる自然をとおしてお与えになることで、自然啓示とか一般啓示と呼ばれます。もう一つは超自然啓示とか特別啓示で、預言者にことばが与えられたこと、イエス様が人として来られたこと、そしてそれらを聖霊による聖書に霊感されたこと奇蹟的な方法による啓示です。ここでパウロが言っているのは自然啓示の方です。創造主が実在すること、そして神様がどれほどの力と知恵とに満ちたお方であるかということは、宇宙や森の木々や動物や人体などをよく観察すれば、あまりにも明白なことであるとパウロは教えているのです。
 今日は、人間の体、特に耳をとりあげてみましょう。

①耳の構造全体図を見てください。耳たぶから鼓膜までを外耳、鼓膜から耳小骨のあるところが中耳、そしてその奥の蝸牛と三半規管があるところが内耳です。
②音は空気の振動です。その振動が外耳を通って鼓膜に到達して、鼓膜を揺らします。この鼓膜の揺れを、耳小骨が蝸牛に伝えるのですが、耳小骨が非常によくできています。耳小骨はツチ骨、ヌタ骨、鐙骨からできていますが、振動を伝えるためには固定されていてはいけないので、宙ぶらりんにつるされています。しかし、同時に、頭をグラグラしたらそれで取れてしまってはいけないのでしっかり固定されています。しっかり固定されていながら、固定されていてはいけないという絶妙のバランスで耳小骨はぶら下がっていて、三つの骨の組み合わせで鼓膜の振動を増幅して蝸牛に伝えます。
③蝸牛の大きさはワイシャツのボタンほどしかありません。しかし、その中は精巧を極めています。管の中は、三つの部屋に分かれていまして、空気の振動はグルグルと一番奥まで入って、またグルグル回って出てきます。
④その振動を電気信号に変えて脳に送るのがコルチ器です。コルチ器の蓋膜(がいまく)と呼ばれる部分は振動を受け止めてブルブルとかすかにふるえますと、蓋膜にむかって伸びて0.1ミクロン~0.4ミクロン離れている有毛細胞に触れたり離れたりすると、150ミリボルトの電気が流れたり切れたりします。この電気信号が脳に送られて、脳はその音を受け止めて理解するという仕組みです。

 いかがでしょうか?耳がどれほど精巧に設計され、造られているかがわかるでしょう。外耳道、鼓膜、三つの耳小骨とそれを宙づりにしている靭帯、コルチ器、有毛細胞、これらの仕組みの一か所でもなければ音はまったく聞こえません。見事な設計であり、非常にすぐれた設計者がいることは明々白々なことです。
 まさに、「 1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」
 耳だけでもこんなに精巧に仕組まれています。しかも、私たちのからだは耳だけではなく、目も口も脳も手足も、消化器官も、そして心臓や肺も骨も筋肉も血管も神経も、見事にまちがいなく、組み合わせられて一人の人体ができあがっています。これを設計し、組み立ててくださっている神は、なんと知恵に満ちたお方でしょうか。

 

(2)弁解の余地はない
 人には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることがさだまっているので、あなたにも必ず神の聖なる法廷に立つ日がやってきます。そのとき、「私は創造主はいるということを知らなかったのです。体も世界も、偶然にこんなぐあいにできているのだと思っていました。だから礼拝も感謝もしませんでした。」と弁解する人にはかもしれません。すると、その時、神様は、おっしゃるでしょう。「わたしは、あなたの体の精巧な仕組みの一つ一つ、耳、目、心臓、手足、物事を考える脳の力などありとあらゆる作品を通して、私が生きていること明らかに示してきた。だれも教えてくれなかったなどという弁解の余地は、君にはない。」 

 

2.神の怒りの啓示・・・偶像崇拝

 けれども、パウロがここで言わんとしていることは、これほど弁解の余地のないほど明らかな啓示にもかかわらず、不思議なことに、多くの人が神に礼拝し、感謝して生活をしないで、正反対のことを行なっているということです。そして、その神に背を向けた人間の滑稽なばかりに悲惨なありさまこそが、実は、神の怒りの啓示なのだということです。

1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。

 神の怒りの啓示は、人間の三つのかたちで現われています。第一は偶像崇拝です。
21-25節

1:21 それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。
1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
1:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
  1:24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
1:25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。


 「彼らは自分は知者であるといいながら、愚かな者となり」というとき、パウロの念頭にはアテネのアレオパゴスのことが浮かんでいたでしょう。ギリシャの都アテネは、今日まで哲学の都と呼ばれます。そこにソクラテスプラトンアリストテレスといった哲学者たちが出現し、その哲学の伝統はパウロの時代にも脈々と続いていました。彼らの哲学は近代・現代の哲学にまで受け継がれています。彼らこそ知者という人々です。けれども、パウロがアレオパゴスに行くとその広場にはたくさんの偶像の神々がまつられていて、それにいけにえを捧げて、恭しく祈りをささげているようすを見たのです。パウロは、憤りをおぼえました。「彼らは知者であるといいながら、まさに愚かな者となってしまっている」というのは、そのことです。現代日本でも同じではありませんか。たとえば、東京大学に合格するために一生懸命勉強してとても難しい数学の問題を解くことができるようになった学生が、何がまつられているかすら知らない神社に行って合格祈願をする。不思議なことです。 
 「いや偶像崇拝なんてかたちだけですよ」と弁解する人がいるでしょう。本当にそうでしょうか?偶像でもお守りでも、いったん手に入れてしまうと、怖くておいそれとごみ箱に捨てて処分できなくなってしまうのです。ただの木とか紙にすぎないのに、その木片や紙切れをポイっと捨てると、もしかして罰が当たるのではないか?と心の底で思っているからです。
 石や木の偶像やお札を怖がり、心とらわれている、その愚かな有様が、天地万物の造り主であるまことの神の怒りの現れなのです。まことの神をないがしろにするならば、人は自らの哲学や自然科学の成果を誇りながら、愚かなことをするようになるという、その見本なのです。

 

3.自己喪失  26-27節―――人と動物の区別、男女の区別がわからなくなる

 造り主である真の神に背を向けた人間に対して神の怒りが啓示されています。26,27節には、造り主を見失った人は、自分自身をも見失ってしまう、その姿が描かれています。神を喪失した者は、自己を喪失するのです。

1:26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、 1:27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。

 造り主である真の神を見失うと、人は自分自身が何者であるかがわからなくなります。本来、「(神は)神のかたちにアダムを創造し、男と女とに彼らを創造された」(創世記1章27節)とあります。人間の尊厳の根拠とは何でしょうか?人は、人格的な神の似姿であることです。それゆえに、人には尊厳があり、ほかの動物たちと区別されます。そして神が人を男と女とに区別されたので、男は男であり、女は女です。
 しかし、造り主である神を見失うと、人は人間であることの尊厳の根拠を見失い、ほかの動物との区別がわからなくなります。ギリシャ神話の中にも、下半身が馬で上半身が人間であるケンタウロスという生き物が登場するでしょう。また、動物と人間の区別がわからない世界では獣姦なども行われるのです。現代の日本人のほとんどは、人間とほかの動物たちとの区別がよくわからなくなって、人間はせいぜい頭の良いチンパンジーだと思い込んでいます。そういう風に学校でもNHKでも国民を教育しているのです。公教育でもって、そんなふうに人間の尊厳を根本から否定することを教え、人間の生きる目的について考えることもしないようにしむけておいて、日本では若者の性道徳がどうにもならなくなっているとか、自殺が世界一多いのはなぜだろう?と言っているのです。しかし、それは必然の結果なのではないでしょうか。人は考えているように生きるものです。子供のころから、「君はチンパンジーだよ」と思想を注入し続けるなら、人はチンパンジーのような生き方をするようになります。でも実際には人はチンパンジーではなく、神の似姿ですから生きる目的を考えたりして悩んで死んでしまったりするのです。

 さらに、造り主である神を見失うとき、人間は男と女の区別がわからなくなります。神が男と男と定め、神が女を女と定めたことを知らないからです。旧約聖書におけるソドムとゴモラがそうでしたし、古代ギリシャでも、古代インドでも、日本でも、とにかくまことの神を見失った世界には、動物と人間、男と女の区別がわからなくなってしまうという状況が生じるのです。これは神の怒りの啓示であると聖書は語るのです。

 

4 もろもろの罪  28-31節

 そして、神に背を向けた人間世界にドロドロとうずまくもろもろの罪のリストが挙げられますが、その初めに28節で注目すべきことばがあります。

1:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

 28節によると、「神を知ろうとしたがらない」と訳されているのは、「神を彼らの真の知識に入れるのは適当でない」、つまり、「神など知っても無意味だとする」という人々は、「良くない思い」を抱くようになります。「よくない思い」は、さまざまな具体的罪となってあらわれます。なぜでしょうか?人は、考えたように行動するからです。思想は、その人の生き方を左右するのです。正しい思想を持てば、人は正しく行動しますが、悪い思想を持てば、悪い行動をするのです。「神など要らない」という思想を持てば、29-31節のような悪い行動が出てくるのです。なぜなら、神こそ正義と愛の源だからです。


1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、 1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、 1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。


 そして、こうした神に背を向けた思想をもち、神の御心に背いた生活をする人々は、神の前に死罪つまりゲヘナの永遠の滅びに陥ることになります。

 

1:32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。

 


 
結び
 人体を観察し、この自然界の見事な仕組みを見れば、これを造られたとてつもない知恵を持つ方が実在することは、明白な事実です。このお方が、聖書をとおして私たちに語っているのです。
  神は本来私たち人間をご自分の似姿として造り、私たちと人格的交わりのうちに生きるものとしてくださいました。私たちは、神と交わるならば、神の力と愛と正義にみちた命に生かしていただけますが、このお方に背を向ければ、無力と情け知らずともろもろの醜い罪が生じ、そして最後には永遠の滅びに陥ります。
 もし、これまで創造主なる神を信じていなかったという方は、今悔い改めて、神に立ち返りましょう。神は、あなたを招いておられます。また、すでに創造主なる神に招かれて新しい人生に生きている方は、ますます真の神を礼拝し、日々感謝に満ちた生活をしましょう。

福音は神の力

ロマ1:16-17
2018年1月21日 主日伝道礼拝

  1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ1章16,17節) 

 

使徒パウロの手紙は、あいさつを終わって、ここで手紙の主題を提唱します。主題は、福音です。福音というのは、良い知らせグッドニュースという意味です。神様から私たちに届いた良い知らせ、それが福音なのです。

 

1.かつてパウロは福音を恥ずべきものとした
 
 今日の箇所で、使徒は「私は福音を恥と思いません。」と宣言します。なぜ、こんなことを高らかに宣言しなければならなかったのでしょう。それは、ある人々はパウロが語る福音を恥ずべきものだとしたからです。

(1)かつてのサウロ
 実は、かつてパウロ自身がキリスト教徒たちが宣伝している福音は恥ずべきものだと主張していた人でした。彼は、かつて熱心なユダヤ教の教師でその名はサウロと言いました。ユダヤ教の教師として、天地万物の創造主なる神、裁き主である神を信じていました。また、神はユダヤ人を神の民としてお選びになったのだと教えていました。神の民は、モーセが定めたさまざまな儀式を行い、道徳の基準を達成することによってこそ、最後の審判のときに、神の前に義なる者として認めていただけるのだと教えていました。 もし異邦人が、真の神に救っていただきたいならば、まずユダヤ人になる儀式である割礼を受けて、ユダヤ人と同じように様々な儀式律法・道徳律法を行なわなければいけない、そのように教えていたのです。
さらにサウロはたいへんきまじめな人間でしたから、モーセの律法だけでなく、そこからいろいろな解釈をして派生したもろもろの規則を守って生活をすることを信条としていたのです。
 そういうサウロからすると、キリストの福音を恥ずべきものでした。その理由が少なくとも三つあります。

①受肉の教え
 第一に、キリスト教徒たちが「ナザレのイエスは生ける神の御子キリストである。」と宣伝していたことです。これは、サウロにとってはとんでもないことでした。神は天地万物を創造した唯一絶対であられるのに、神にはひとり子がいて、しかも、生身の人間ナザレ村のイエスという男となって地上に下られたという点つまり「受肉」という出来事をサウロは恥ずべきことであり、唯一絶対の神を冒涜する教えであると考えたのです。

②十字架と復活
 もしイエスが聖なる神の御子であるとするならば、自分たちユダヤ教当局はイエスを裁判にかけて、最後には十字架刑にしてしまったのですから、神の前にとんでもない罪を犯したことになってしまいます。律法を神の言葉を信じて教えて来たユダヤ当局が神の前に取り返しのつかない罪を犯したことになってしまいます。これはサウロには、到底受け入れられませんでした。
 しかも、キリスト教徒たちは、イエスは、ユダヤ当局だ罪に定めて処刑したが、神がイエスは正しい者として復活させたということです。この復活の事実こそ、神がイエスが真の神の御子であるということをお認めになった明白な証拠であるとキリスト教会は宣伝しているのです。これはサウロにとって、なおのことけしからんことでした。

 サウロにとって、聖なる神に独り子がいて、それが人間イエスになったという受肉の教えは、聖なる神への冒涜と映りました。しかも、その神の御子を自分たちユダヤ教当局が十字架で死刑にしてしまったというキリスト教会の主張はがまんならぬことでした。キリスト教は、神とユダヤ教会の敵であると彼は思いました。そこでサウロは怒り狂って、エルサレム中のキリスト教徒というキリスト教徒を男も女も若者の年よりも次々に摘発し、逮捕して、牢屋にぶちこんでしまったのでした。彼はキリスト教徒が宣伝する「福音」は恥ずべきものであり、キリスト教徒は根絶やしにしなければならないと信じて疑いませんでした。

③異邦人たちも福音を恥ずべきものとした
 さらに、パウロは後にキリスト教宣教師となり異邦人に伝道していったとき、ユダヤ人だけでなくギリシャ文化圏の異邦人たちも、キリストの十字架の福音を恥ずべきものとすることを見ました。本日の週報の左下の絵を見てください。二世紀のもので皇帝の給仕養成学校に用いられたという建物の壁に残された落書きです。「アレクサメノスの拝む神」とあります。同じ学校に学ぶ同僚がクリスチャンであったアレクサメノスを十字架につけられたロバを拝む奴と馬鹿にして描いたものです。「十字架にかけられるとは極悪人だろう。だがアレクサメノスによると、キリストは何も悪いことはしなかったという。なら、悪いこともしなかったのに、十字架につけられて殺されてしまうなんて、ロバほどまぬけな奴にちがいない」というわけです。
 ローマの哲学者ケルソスはキリスト教の教理を非難して、「世界に数ある宗教の中で、キリスト教だけが十字架で処刑された罪人を神として礼拝している。」と皮肉りました。ローマ人は力を追求し、力を誇る人々でしたから、彼らにとって、イエスが十字架にかけられてしまったことは弱さと恥にすぎなかったからです。
 パウロはコリント人への手紙で、1コリント1:18「十字架のことばは、滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。・・・・それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」

 

2.今、パウロは福音を恥としない

 

 ところが、今、サウロ改めパウロは「私は福音を恥とは思いません」と高らかに宣言するのです。なぜでしょうか?理由は二つあります。

(1)復活のキリストがパウロを捕えたからです
 第一は、イエス・キリストパウロを捕えたからです。サウロがキリスト教徒へと回心した経緯を説明しなければなりません。彼は都エルサレムキリスト教会を弾圧しつくしました。それゆえキリスト教徒たちは、もうエルサレムには住めないので地方の町々へと移住して行き、その先々で、ナザレのイエスは神の御子でありキリストであると伝えて回ったのでした。ユダヤキリスト者たちは当初、異邦人にまで伝道することには抵抗感があったようですが、エルサレム教会が弾圧されたことによって、彼らはユダヤとサマリヤとガリラヤばかりか、飛び地であったダマスコにまで逃げていき、そこでキリストの福音を広げてまわったのでした。ユダヤ教当局からすれば弾圧は逆効果でした。
 そこでサウロは、当局から許可を得て、エルサレムはるか200キロメートル北方のダマスコまでキリスト教会弾圧のために、出張したのです。ところが、ダマスコの城壁の門の外にまで来たとき、突然、天からの光が彼をめぐり照らし、パウロは地面に倒れてしまいます。すると、彼の耳に「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか?」という声が聞こえました。サウロが、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、街にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことがわかります。」(使徒9章)
 サウロは、自分はとんでもないことをしていたと知ったのです。自分は神様のためにと必死になってキリスト教徒たちを迫害していたけれど、実は、ナザレのイエスは本当に神の御子であり、キリスト教徒たちは真の神の民なのだと、わかったのです。彼は悔い改めてイエスを信じ回心を遂げました。そして、彼は主イエスから、異邦人への使徒という使命を与えられて、世界中の人々に、「イエスこそ神の御子キリストである」と宣伝することになりました。将棋でいえば、イエス様は相手の飛車を取り上げて、自分の持ち駒として世界宣教を始められたのです。彼は最強の迫害者でしたが、今度は最強のキリスト教の宣教師となって八面六臂の働きを展開するのです。
 まず、この出来事が、サウロが福音を恥じませんという理由です。ユダヤ教の教師は旧約聖書の複雑で精緻な解釈をもって、キリストの福音を否定するかもしれない。また異邦人の哲学者は高度な哲学用語をもって、キリストの十字架のことばを嘲るかもしれない。しかし、キリストは死んだ思想や理屈ではなく、今も生きて働かれる神です。その圧倒的力をもってパウロを捕えたのです。神の国は屁理屈でなく、神の力です。

 

(2)福音は神の力だからです
 さて、ローマ書1章16節でパウロは「私は福音を恥としない!」と叫んで、その理由について語ります。
 「というのは(γαρ)福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力(であるから)です。」
 福音は力である。当時の世界にはプラトンアリストテレスストア派エピクロス派だと、いろいろな哲学や道徳が流行っていました。パウロアテネを訪れてアクロポリスの丘に行った時にも、人々は朝から晩までそこで哲学論議をしていたのです。今日でもソクラテスプラトンアリストテレスの哲学書は大学で研究され続けています。しかし、人はどんな道徳を聞かされ、哲学を勉強しても、人は罪と死と永遠の滅びから救われることはできません。たとえばカントが言ったように、「人間はほかの人を手段としてではなく目的として行動すべきである」という教えは立派です。そうありたいと願います。けれども、そうすべきだとわかっていても、そうできないのが罪ある私たち人間です。道徳や哲学は人間のことばです。人間のことばは無力です。
 しかし、福音は、神の力です。救いを得させる神の力、デユナミスです。岩を打ち砕くダイナマイトの語源です。1:4で「大能」と訳されたことばです。死者の中から死を打ち破って復活をしたキリストの力です。福音は、人間の考えたありがたい教えではありません。福音は、罪と永遠の滅びから実際に私たちを救出する、神の力なのです。福音は罪人を永遠の滅びから救い、死者をよみがえらせる神の力なのです。実際、心からイエスさまの福音を信仰をもって受け入れたならば、生きる力のない人が生きる力を与えられて歩み始めるのです。そして、死の向こうの神の裁きと滅びを恐れる必要はなくなって、平安をもって死の淵も越えて行くことができます。
 しかも、その福音は「ユダヤ人を初め、ギリシャ人にも信じるすべての人にとって」とあります。ギリシャ人とはユダヤ人以外の異邦人の代表という意味ですから、結局、「信じるすべての人にとって」福音は神の力なのです。民族の差別、男女の差別も、職業も、いっさいの差別なく、福音は信じるすべての人にとって救いを得させる神の力なのです。

 

3.神の義を信仰によって受け取る

 使徒パウロは17節に続けて語ります。
「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されているからです。その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」
 ここには、これからパウロが詳しく教えようとするキリストの福音のポイントがこの上なく簡潔に書かれています。注目すべきことばは二点。一つは「神の義」、もう一つは「信仰」です。

(1)神の義
 聖書でいう「義」とは、神と人の正常な関係を意味しています。神と人とが正常な関係にあるとは、どういうことか。神様は万物を創造し、人間をご自分に似た人格的存在として造って、ご自分と豊かな愛の交わりのうちに生きることを期待していらっしゃいます。あなたがもし神様に日々感謝と礼拝をささげ、神様の期待にしたがって生きているとすれば、それは神様との関係が正常である、義であるということです。
神との関係が義ではないと、人は神の存在すら疑い、神様に感謝することも礼拝することもしません。できません。神に頼らず、知恵と力で生きていると思ったり、神に背を向けて生きるのがカッコいいなどと思い込んでいます。あるいは、真の神を見失ったので、真の神に代えて石を刻んだ神々の像に礼拝をささげたり、木を刻んだ神々の像に感謝をささげたりして、ご利益を期待します。真の神との関係が、このような異常な状態にあることを、不義といい罪というのです。新約聖書における罪ということばは、ギリシャ語で的外れということばがしばしば用いられますが、まさに、感謝すべきお方に感謝せずに自分が偉いのだと傲慢になったり、礼拝すべき真の神に礼拝せず石や木を刻んだ偶像を拝んでいるというのは、まさに的を外れた状態です。

さてでは、ここまで説明を聞いてみて、あなたと神との関係は、義でしょうか、あるいは不義でしょうか? もし義の状態にあるならば神様に感謝することです。もし、不義の状態にあるとすれば、それはたいへんなことです。義なる状態を回復しなければ、ほんとうの平安と喜びは得られませんし、人には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっておりますから、不義のままでこの世を去るならば、永遠に滅びてしまいます。

 しかし、ここでパウロはいうのです。「福音のうちには神の義が啓示されている。」それは、「神からの義」と訳すこともできます。神が贈り物としてとして、あなたに差し出している義が福音のうちには示されています。人間が、修行をして、頑張って神様の前になにか立派なものを積み上げて獲得する「人間の義」ではありません。神様から差し出されているギフトとしての義があるのです。それが「神の義」です。
 神の御子イエス・キリストは、この神の義をあなたにプレゼントするために、この世に来られました。神であられながら、人としての性質を帯びられ、三十三年の完全な愛のご生涯ののちに、あの十字架にかかって三日目に甦り、私たちの罪に対する罰をことごとく受けつくしてくださいました。キリストご自身が神の義、神様からの贈り物としての義であると言い換えても良いのです。

(2)信仰に始まり信仰に進ませる
 この神からの義であるキリストを、あなたがまだ受け取っていないならば、ぜひ受け取る必要があります。どのようにして受け取るのでしょうか。信仰によって受け取るのです。「信仰から信仰に」とあるのは、終始一貫して神の義は信仰によって受け取るものであるということです。神の義は徹頭徹尾、贈り物なのだというのです。脚注の訳は「その義はただ信仰による」と記しています。
 信仰によるというのは、「行いによらない」ということです。修業や善行によって人は神様からの義をいただくことができるわけではありません。修業や善行によって、神様の御前で自分は正義の人ですと言えるようになれるわけではありません。神の義は贈り物です。贈り物はどのようにして手に入れることができますか。代金を支払ってもらえるわけではありません。贈り物は、その贈り主を信頼して、ありがとうございますといっていただくほかないのです。

<むすび>
私は福音を恥としません。この世の道徳や宗教や教育は立派で美しくても、神の聖なる法廷では無力です。しかし、福音は実際に罪人を救い出す神の力だからです。
 人間は、ほかのことはともかく、自分の罪に対しては実に無力で、自分の力で罪から離れ、神様との関係を正すことなどできません。けれども、いや、だからこそ神からの義が福音のうちに啓示されました。福音は神の力です。神の義であるキリストを、あなたも信仰によって受け取ってください。