水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

福音は神の力

ロマ1:16-17
2018年1月21日 主日伝道礼拝

  1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ1章16,17節) 

 

使徒パウロの手紙は、あいさつを終わって、ここで手紙の主題を提唱します。主題は、福音です。福音というのは、良い知らせグッドニュースという意味です。神様から私たちに届いた良い知らせ、それが福音なのです。

 

1.かつてパウロは福音を恥ずべきものとした
 
 今日の箇所で、使徒は「私は福音を恥と思いません。」と宣言します。なぜ、こんなことを高らかに宣言しなければならなかったのでしょう。それは、ある人々はパウロが語る福音を恥ずべきものだとしたからです。

(1)かつてのサウロ
 実は、かつてパウロ自身がキリスト教徒たちが宣伝している福音は恥ずべきものだと主張していた人でした。彼は、かつて熱心なユダヤ教の教師でその名はサウロと言いました。ユダヤ教の教師として、天地万物の創造主なる神、裁き主である神を信じていました。また、神はユダヤ人を神の民としてお選びになったのだと教えていました。神の民は、モーセが定めたさまざまな儀式を行い、道徳の基準を達成することによってこそ、最後の審判のときに、神の前に義なる者として認めていただけるのだと教えていました。 もし異邦人が、真の神に救っていただきたいならば、まずユダヤ人になる儀式である割礼を受けて、ユダヤ人と同じように様々な儀式律法・道徳律法を行なわなければいけない、そのように教えていたのです。
さらにサウロはたいへんきまじめな人間でしたから、モーセの律法だけでなく、そこからいろいろな解釈をして派生したもろもろの規則を守って生活をすることを信条としていたのです。
 そういうサウロからすると、キリストの福音を恥ずべきものでした。その理由が少なくとも三つあります。

①受肉の教え
 第一に、キリスト教徒たちが「ナザレのイエスは生ける神の御子キリストである。」と宣伝していたことです。これは、サウロにとってはとんでもないことでした。神は天地万物を創造した唯一絶対であられるのに、神にはひとり子がいて、しかも、生身の人間ナザレ村のイエスという男となって地上に下られたという点つまり「受肉」という出来事をサウロは恥ずべきことであり、唯一絶対の神を冒涜する教えであると考えたのです。

②十字架と復活
 もしイエスが聖なる神の御子であるとするならば、自分たちユダヤ教当局はイエスを裁判にかけて、最後には十字架刑にしてしまったのですから、神の前にとんでもない罪を犯したことになってしまいます。律法を神の言葉を信じて教えて来たユダヤ当局が神の前に取り返しのつかない罪を犯したことになってしまいます。これはサウロには、到底受け入れられませんでした。
 しかも、キリスト教徒たちは、イエスは、ユダヤ当局だ罪に定めて処刑したが、神がイエスは正しい者として復活させたということです。この復活の事実こそ、神がイエスが真の神の御子であるということをお認めになった明白な証拠であるとキリスト教会は宣伝しているのです。これはサウロにとって、なおのことけしからんことでした。

 サウロにとって、聖なる神に独り子がいて、それが人間イエスになったという受肉の教えは、聖なる神への冒涜と映りました。しかも、その神の御子を自分たちユダヤ教当局が十字架で死刑にしてしまったというキリスト教会の主張はがまんならぬことでした。キリスト教は、神とユダヤ教会の敵であると彼は思いました。そこでサウロは怒り狂って、エルサレム中のキリスト教徒というキリスト教徒を男も女も若者の年よりも次々に摘発し、逮捕して、牢屋にぶちこんでしまったのでした。彼はキリスト教徒が宣伝する「福音」は恥ずべきものであり、キリスト教徒は根絶やしにしなければならないと信じて疑いませんでした。

③異邦人たちも福音を恥ずべきものとした
 さらに、パウロは後にキリスト教宣教師となり異邦人に伝道していったとき、ユダヤ人だけでなくギリシャ文化圏の異邦人たちも、キリストの十字架の福音を恥ずべきものとすることを見ました。本日の週報の左下の絵を見てください。二世紀のもので皇帝の給仕養成学校に用いられたという建物の壁に残された落書きです。「アレクサメノスの拝む神」とあります。同じ学校に学ぶ同僚がクリスチャンであったアレクサメノスを十字架につけられたロバを拝む奴と馬鹿にして描いたものです。「十字架にかけられるとは極悪人だろう。だがアレクサメノスによると、キリストは何も悪いことはしなかったという。なら、悪いこともしなかったのに、十字架につけられて殺されてしまうなんて、ロバほどまぬけな奴にちがいない」というわけです。
 ローマの哲学者ケルソスはキリスト教の教理を非難して、「世界に数ある宗教の中で、キリスト教だけが十字架で処刑された罪人を神として礼拝している。」と皮肉りました。ローマ人は力を追求し、力を誇る人々でしたから、彼らにとって、イエスが十字架にかけられてしまったことは弱さと恥にすぎなかったからです。
 パウロはコリント人への手紙で、1コリント1:18「十字架のことばは、滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。・・・・それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」

 

2.今、パウロは福音を恥としない

 

 ところが、今、サウロ改めパウロは「私は福音を恥とは思いません」と高らかに宣言するのです。なぜでしょうか?理由は二つあります。

(1)復活のキリストがパウロを捕えたからです
 第一は、イエス・キリストパウロを捕えたからです。サウロがキリスト教徒へと回心した経緯を説明しなければなりません。彼は都エルサレムキリスト教会を弾圧しつくしました。それゆえキリスト教徒たちは、もうエルサレムには住めないので地方の町々へと移住して行き、その先々で、ナザレのイエスは神の御子でありキリストであると伝えて回ったのでした。ユダヤキリスト者たちは当初、異邦人にまで伝道することには抵抗感があったようですが、エルサレム教会が弾圧されたことによって、彼らはユダヤとサマリヤとガリラヤばかりか、飛び地であったダマスコにまで逃げていき、そこでキリストの福音を広げてまわったのでした。ユダヤ教当局からすれば弾圧は逆効果でした。
 そこでサウロは、当局から許可を得て、エルサレムはるか200キロメートル北方のダマスコまでキリスト教会弾圧のために、出張したのです。ところが、ダマスコの城壁の門の外にまで来たとき、突然、天からの光が彼をめぐり照らし、パウロは地面に倒れてしまいます。すると、彼の耳に「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか?」という声が聞こえました。サウロが、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、街にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことがわかります。」(使徒9章)
 サウロは、自分はとんでもないことをしていたと知ったのです。自分は神様のためにと必死になってキリスト教徒たちを迫害していたけれど、実は、ナザレのイエスは本当に神の御子であり、キリスト教徒たちは真の神の民なのだと、わかったのです。彼は悔い改めてイエスを信じ回心を遂げました。そして、彼は主イエスから、異邦人への使徒という使命を与えられて、世界中の人々に、「イエスこそ神の御子キリストである」と宣伝することになりました。将棋でいえば、イエス様は相手の飛車を取り上げて、自分の持ち駒として世界宣教を始められたのです。彼は最強の迫害者でしたが、今度は最強のキリスト教の宣教師となって八面六臂の働きを展開するのです。
 まず、この出来事が、サウロが福音を恥じませんという理由です。ユダヤ教の教師は旧約聖書の複雑で精緻な解釈をもって、キリストの福音を否定するかもしれない。また異邦人の哲学者は高度な哲学用語をもって、キリストの十字架のことばを嘲るかもしれない。しかし、キリストは死んだ思想や理屈ではなく、今も生きて働かれる神です。その圧倒的力をもってパウロを捕えたのです。神の国は屁理屈でなく、神の力です。

 

(2)福音は神の力だからです
 さて、ローマ書1章16節でパウロは「私は福音を恥としない!」と叫んで、その理由について語ります。
 「というのは(γαρ)福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力(であるから)です。」
 福音は力である。当時の世界にはプラトンアリストテレスストア派エピクロス派だと、いろいろな哲学や道徳が流行っていました。パウロアテネを訪れてアクロポリスの丘に行った時にも、人々は朝から晩までそこで哲学論議をしていたのです。今日でもソクラテスプラトンアリストテレスの哲学書は大学で研究され続けています。しかし、人はどんな道徳を聞かされ、哲学を勉強しても、人は罪と死と永遠の滅びから救われることはできません。たとえばカントが言ったように、「人間はほかの人を手段としてではなく目的として行動すべきである」という教えは立派です。そうありたいと願います。けれども、そうすべきだとわかっていても、そうできないのが罪ある私たち人間です。道徳や哲学は人間のことばです。人間のことばは無力です。
 しかし、福音は、神の力です。救いを得させる神の力、デユナミスです。岩を打ち砕くダイナマイトの語源です。1:4で「大能」と訳されたことばです。死者の中から死を打ち破って復活をしたキリストの力です。福音は、人間の考えたありがたい教えではありません。福音は、罪と永遠の滅びから実際に私たちを救出する、神の力なのです。福音は罪人を永遠の滅びから救い、死者をよみがえらせる神の力なのです。実際、心からイエスさまの福音を信仰をもって受け入れたならば、生きる力のない人が生きる力を与えられて歩み始めるのです。そして、死の向こうの神の裁きと滅びを恐れる必要はなくなって、平安をもって死の淵も越えて行くことができます。
 しかも、その福音は「ユダヤ人を初め、ギリシャ人にも信じるすべての人にとって」とあります。ギリシャ人とはユダヤ人以外の異邦人の代表という意味ですから、結局、「信じるすべての人にとって」福音は神の力なのです。民族の差別、男女の差別も、職業も、いっさいの差別なく、福音は信じるすべての人にとって救いを得させる神の力なのです。

 

3.神の義を信仰によって受け取る

 使徒パウロは17節に続けて語ります。
「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されているからです。その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」
 ここには、これからパウロが詳しく教えようとするキリストの福音のポイントがこの上なく簡潔に書かれています。注目すべきことばは二点。一つは「神の義」、もう一つは「信仰」です。

(1)神の義
 聖書でいう「義」とは、神と人の正常な関係を意味しています。神と人とが正常な関係にあるとは、どういうことか。神様は万物を創造し、人間をご自分に似た人格的存在として造って、ご自分と豊かな愛の交わりのうちに生きることを期待していらっしゃいます。あなたがもし神様に日々感謝と礼拝をささげ、神様の期待にしたがって生きているとすれば、それは神様との関係が正常である、義であるということです。
神との関係が義ではないと、人は神の存在すら疑い、神様に感謝することも礼拝することもしません。できません。神に頼らず、知恵と力で生きていると思ったり、神に背を向けて生きるのがカッコいいなどと思い込んでいます。あるいは、真の神を見失ったので、真の神に代えて石を刻んだ神々の像に礼拝をささげたり、木を刻んだ神々の像に感謝をささげたりして、ご利益を期待します。真の神との関係が、このような異常な状態にあることを、不義といい罪というのです。新約聖書における罪ということばは、ギリシャ語で的外れということばがしばしば用いられますが、まさに、感謝すべきお方に感謝せずに自分が偉いのだと傲慢になったり、礼拝すべき真の神に礼拝せず石や木を刻んだ偶像を拝んでいるというのは、まさに的を外れた状態です。

さてでは、ここまで説明を聞いてみて、あなたと神との関係は、義でしょうか、あるいは不義でしょうか? もし義の状態にあるならば神様に感謝することです。もし、不義の状態にあるとすれば、それはたいへんなことです。義なる状態を回復しなければ、ほんとうの平安と喜びは得られませんし、人には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっておりますから、不義のままでこの世を去るならば、永遠に滅びてしまいます。

 しかし、ここでパウロはいうのです。「福音のうちには神の義が啓示されている。」それは、「神からの義」と訳すこともできます。神が贈り物としてとして、あなたに差し出している義が福音のうちには示されています。人間が、修行をして、頑張って神様の前になにか立派なものを積み上げて獲得する「人間の義」ではありません。神様から差し出されているギフトとしての義があるのです。それが「神の義」です。
 神の御子イエス・キリストは、この神の義をあなたにプレゼントするために、この世に来られました。神であられながら、人としての性質を帯びられ、三十三年の完全な愛のご生涯ののちに、あの十字架にかかって三日目に甦り、私たちの罪に対する罰をことごとく受けつくしてくださいました。キリストご自身が神の義、神様からの贈り物としての義であると言い換えても良いのです。

(2)信仰に始まり信仰に進ませる
 この神からの義であるキリストを、あなたがまだ受け取っていないならば、ぜひ受け取る必要があります。どのようにして受け取るのでしょうか。信仰によって受け取るのです。「信仰から信仰に」とあるのは、終始一貫して神の義は信仰によって受け取るものであるということです。神の義は徹頭徹尾、贈り物なのだというのです。脚注の訳は「その義はただ信仰による」と記しています。
 信仰によるというのは、「行いによらない」ということです。修業や善行によって人は神様からの義をいただくことができるわけではありません。修業や善行によって、神様の御前で自分は正義の人ですと言えるようになれるわけではありません。神の義は贈り物です。贈り物はどのようにして手に入れることができますか。代金を支払ってもらえるわけではありません。贈り物は、その贈り主を信頼して、ありがとうございますといっていただくほかないのです。

<むすび>
私は福音を恥としません。この世の道徳や宗教や教育は立派で美しくても、神の聖なる法廷では無力です。しかし、福音は実際に罪人を救い出す神の力だからです。
 人間は、ほかのことはともかく、自分の罪に対しては実に無力で、自分の力で罪から離れ、神様との関係を正すことなどできません。けれども、いや、だからこそ神からの義が福音のうちに啓示されました。福音は神の力です。神の義であるキリストを、あなたも信仰によって受け取ってください。