Miz牧師の説教庫

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神の正義の証明

ロマ3:25-31                    

2018年3月25日 受難週主日

  3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

 3:26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

 3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。

 3:28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。

 3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。

 3:30 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。

  3:31 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。

 

                                    

 

 今週は受難週で、次の主の日は復活節です。本日は、特に主イエスの十字架の意味を深く味わい、感謝を新たにするときとしたいと思います。主イエスの十字架の受難と死という出来事の意味といえば、私たちの罪の償いを身代わりにするためであったということを私たちは知っています。本日の聖書箇所でいえば、3章26節の末尾に「イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」とある通りです。

 しかし、主イエスの十字架の受難と死には、もうひとつ非常に重要な意味と目的があったことを本日のローマ人への手紙は教えています。それは「神の正義の証明」ということです。 

 

1 主の十字架は神の正義の証明である 

 

 テレビや新聞で凶悪犯罪のニュースを見聞きすると、「神さまがいるならば、なんでこんなに悪人たちが放置されているのだろう?神さまはいないんじゃないか?」というふうにふと感じる人がいます。実は、昔から、このような疑問にとりつかれて、神様に疑念を持つひとがいました。この疑問は、神は正義のお方であって、全能者なのだから、悪者が野放しにされているように見えるのは納得できないという意味です。こういう難問を考えて論じるのを神義論とか弁神論と言います。

 中世の神学では哲学的な考え方で、この難問に挑んで「悪は善の欠如したすがたである」というふうに答えたそうです。けれども、神様はこの疑問に対して抽象的な哲学的な理屈で答えるのではなく、あのゴルゴタの丘に立てられた御子イエスの十字架の事実によってお答えになったのです。

 ローマ人への手紙25、26節には神がキリストによる罪の贖いをこの世にお示しになった目的が二つ書いてあります。

「神は、このキリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。

  • それは、御自身の義を表すためです。というのは、今まで犯されてきた罪を神の忍耐をもって見逃して来られたからです。それは、今の時に御自身の義を表すためであり、こうして神御自身が義であり、また、
  • エスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」

 先週私たちは「イエスを信じる者を義と認めるため」に、イエス様が私たちの身代わりとして十字架で神の怒りを受けられたということを学びました。イエス様が私たちの罪を背負ってくださり、私たちを罪の呪いとしての永遠の滅びから救ってくださいました。

 イエス様の十字架の出来事にはもう一つの目的があるのだと聖書は述べています。それは、「神御自身の義を表すためである」と書かれています。「表す」(ενδεικνυμι)ということばは、「証明する」とも訳されることばです。神様は、御子イエスさまを十字架におかけになって、罪に対する神の怒りのなだめの供え物として歴史の中に公に示されました。それが、どうして神が正義のお方であることの証明であるというのです。どういうことでしょうか?

 この歴史を振り返れば実に数えきれないほどに多くの罪が犯されてきました。アダムとエバの神への反逆に始まり、その息子カインは弟アベルを殺害してしまいました。以来、人間は、その唇をもって神をののしり、あるいは人を憎み傷付け、あるいは人を欺き、その手をもって盗みを働き、姦淫を犯し、殺人を犯し続けてきました。けれど、表に現れた罪は氷山の一角にすぎないでしょう。 人の心の中では、さらに数かぎりない悪徳がうず巻いています。

 ある人たちはそういう世界を見て、「この世界にはこんなに罪が満ちているのだから神などいるはずがない」と断じ、また「神がいたとしてもそれは正義の神ではありえない」と論じたりするのです。全能の神が実在するならば、どうしてこのような罪が放置されているのかと言うのです。

 けれども、しばしばそういうことを論じる人は自分自身を振り返ることを忘れています。自分の心が、自分の唇が、自分の手足が犯した罪を数えあげるならば、自分自身もまた罪人の仲間であると認めざるをえないでしょう。それなら、ほんとうは、「神が正義のお方であるならば、どうして神は、この私を生かしておくのだろうか?罪に定め罰して即座に地獄行きにしてしまわないのだろうか。放置なさるのだろうか?」と疑問をいだき、「私をすぐ今地獄に落としてください」と言わねばならないのが、私たちの実態です。

 ロマ書は答えます。このように多くの罪が放置されてきたわけは、神の忍耐のゆえです(25b)。

「というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」

 とあります。生殺与奪の権をもつ神様は、私たち一人一人が、神が造られた世界を罪で汚し、神の御心を悲しませるのですから、これを滅ぼしてしまう権限をお持ちです。ちょうど陶器師が、練り上げ焼き上げた陶器が自分の気にいらないものであったら、これを壊してしまう権利を持っているように。けれども、神様はあわれみ深いお方ですから、私たちと世界を即座に滅ぼすことはなさいませんでした。忍耐をもって、多くの罪を見逃して来られたのです。

 しかし、罪がどんなにたくさん犯されていても、それを最後の最後まで見逃し続けるならば、神が正義の審判者であるということが疑われることになりましょう。実際、先に言ったように、この世の中には自分の罪は棚に上げて「この世は罪に満ちている。それゆえ神はいないのだ。いたとしても、それは正義の神ではないのだ。」などと論じる人々がいます。そこで神は、御自分が正義のお方であるということをこの歴史の中に証明し、宣言なさることにしたのです。

 ある裁判官が正義の裁判官であるということは、どういうことから明らかになるでしょうか。一つには犯された罪に対して、罰を与えること、つまり、公正な償いを要求することによってです。もう一つは、悪を滅ぼし罪を正し、その統治する世界に正義をもたらすことによってです。

 神はこの世に満ち満ちる罪に対して、どれほどの罪の償いを要求なさったでしょうか。それは、尊い神の御子が人となって地上にくだられ、十字架において私たち罪人が犯した数々の罪に対する恐るべき呪いを受けて死ぬという罪の償いでありました。神が要求なさったのはこの宇宙全体よりも価値のある償いでありました。きよい罪のない神の御子を犠牲として要求されたのです。この十字架の出来事は、神が、清濁合わせのむようなお方ではなく、まことに燃えるような正義の裁き主であることを明らかに証明し、宣言しているのです。

 

 もう一つ、神の正義がキリストの十字架によって証明されたというのは、御子の流された血潮によって、悪魔の力決定的に打ち破ったからです。今もこの世には悪が満ちています。けれども、それは悪魔の断末魔の叫びです。キリストの十字架と復活によって、悪魔は決定的な打撃を受けたのです。

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブ2:14、15)

やがて御子イエスが再び来られるならば、世界にはあまねく正義が公然と満ちる日が来ます。その約束が、御子の復活によって証明されたのです。こうして、神が正義のお方であり、この神様が造られた世界に罪が犯されるのを放置はなさらず、正義をもたらされるのだということが宣言されたのです。

                                                                                              私たちは、御子イエスの十字架の出来事というと、人の救いのためであったということにのみ焦点を当てて捕らえがちです。しかし、御子イエスの十字架の出来事は、私たち人間の救いのためだけではなく、神が正義であることの証明なのです神様のこの万物の歴史に対する計画のなかでは、神の正義証明るという計画のなかに私たち義と宣言るということが含まれているのです。 

 

  主の十字架によってこそ、神の恵みの栄光が現れ(27-30節)

 

 第二点です。            

 「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。」この誇りとは何の誇りでしょう。それは律法を行う者が持つ誇りです。神さまのさばきにおいて、「私は立派に律法を守ってきました、あなたに責められるところは何一つありません」胸を張るような、ばかげた誇りです。なぜ馬鹿げているかといえば、人間は神のきよい御目から見れば、ことごとく罪があるからです。結局、神の前では律法は偽善者をつくるのみです。

 パウロによれば、人間は、罪については二通りしかありません。第一は罪をあからさまに犯して、人間というのはこういうものだよと罪にあぐらをかいてしまうことです。第二は罪を犯さずに道徳的に生きようと賢明に努力するのですが、そのまじめな努力のすえに、「私は正しい。あいつらよりもよほどまともな人間である」と誇りをもって、人をさばく罪です。実際には、神の御目の前で罪のない人はいないのに。 要するに、人間は、罪を犯してこれに慣れてしまうか、偽善に陥るかのいずれかであるというディレンマのなかにあるのです。

 ところが、福音書を読めばよくわかりますが、神は、傲慢と偽善という罪を特に嫌われます。主イエスのご生涯を見る時に、主イエスが憎まれた罪のうち最大のものは殺人でも盗みでも姦淫でもありませんでした。それは偽善の罪でした。「忌まわしい者だ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のような者です。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨やあらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は正しそうに見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」(マタイ23:27、28)

 罪にまみれているか、それとも、偽善の仮面をつけるかのというこの、どうしようもない谷底からどのようにして私たちは救われうるのでしょうか?

 「行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(27b)

 神は、罪と偽善というジレンマにある人間に、救いは行いによらず、信仰による道を神は用意されました。そこに誇りはありえません。信仰によるということは、どういうことかというと、「私はほんとうに惨めな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」ということです(7:24)「私は乞食です。しかし、お恵みを感謝します」ということです。信仰とは乞食が差し出す手です。乞食はただ「おありがとうございます」というでしょう。 恵みにより、信仰によってキリストの義を受け取ったなら、そこに誇りはありえません。ただ神への感謝と賛美があるのみです。こうして、神さまは私たちはあからさまな罪さと偽善とのジレンマから救い出されたのです。ただ感謝するほかありません。

 神さまの御子が私たちの罪を背負って十字架で死んでくださったということ、これだけが律法を持つユダヤ人も、律法をもたない異邦人もともに救うために、神がお選びになった方法です。まことの神は天地万物の創造主である神なのですから、それはユダヤ人だけの神ではなく、あらゆる民族国語の人々にとってまことの唯一の神です。この神が、律法によらず信仰によって義と認めるという救いを用意なさったのは、まことに当然です。(29、39節)

 3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。

 3:30 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。

 そもそも、神様の救いの計画のなかにおいて、恵みによる救い、信仰によって義と認められるという一本の道によって、罪人は罪人らしくただ神に栄光をお返しすることになるのです。罪ある私たちは、恵みによって救われました、すべての栄光は神にお返しします、と主を賛美するのみです。

 

3.恵みによる救いは律法を確立する

 

 最後に使徒パウロは「それでは、私たちは信仰によて律法を無効にすることになるのでしょうか。」と問いかけ、自ら「絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」と答えます。

 パウロが、救いが人間の行いを根拠とせず、ただイエス様の十字架の贖いを根拠とする恵みによるのだとキリストの福音を伝えると、ユダヤ主義者たちは「恵みによって救われたのだから、十戒を守ってまじめに生きる必要はない。罪を好きなだけ犯そうではないかということになるではないか。パウロはとんでもないことを教えている」言って非難しました。

 しかし、というようなことは現実には起こりませんよ、とパウロは続けます。恵みによる救いはなぜかえって律法を確立することになるのでしょうか? 無代無償で救われたら、人はどうして十戒を前よりも熱心に満たそうとするのでしょうか? それは、エス様を信じて、神との関係が正常化された人は、神と聖霊による交わりをいただけるようになるからです。聖霊によって新しく生まれた人は、内側から造り変えられて、喜んで主に従う生活をする人になるのです。十戒を守る程度では飽き足らず、喜んで神のみこころを行なう人になるのです。盗んでいた人は、むしろ、自分の手で働いて貧しい人々にほどこしをする人になります。人を憎んでいた人は、敵をも愛する人に変えられます。こうして律法の行ないによらず、神の一方的な恵みによる救いは、かえって律法を確立することになるのです。 そして、一切は自分の行いではなく、神の恵みによるのだという喜びとともに、神に栄光をお返しするのです。

 

まとめ

 この歴史の中に、御子イエスの十字架が公にされたことによって、神の義は勝利しました。すなわち、十字架によって神がいかに正義に満ちたかたであるかということが証明され、かつ、キリストの十字架によって悪魔の力が打ち破られたからです。

 そして、私たち人間が自分を縛っていた行いに関する誇りも消えて、ただ神に感謝をおささげし栄光をお返しすることができるようになったのです。主イエスの十字架こそ、神の義の勝利なのです。