Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

人間、御子の似姿

創世記1:26-2:3

コロサイ1:15,16

 

2016年4月17日 苫小牧福音主日朝礼拝

 

創世記1:26-2:3

1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

 1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。

 1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。

 1:31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

   2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。

 2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

 2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」

 

コロサイ1:15,16

「1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。 1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」

 

 

 

1 創造の六日間

 

 創造主なる神は、七日間にわけ、順序だてて世界を創造なさいました。

第一日目に光、第二目に大気と上の水と下の水、第三日目に陸地と植物

第四日目に天体、第五日目に空の鳥と海の中の生き物、第六日目に陸上動物と人間

そして第七日目は安息を宣言されました。

 この七日間をよく観察すると、第一日目の光と第四日目の天体、第二日目の大気と水と第五日目の空の鳥と海の生き物、第三日目の陸地と植物と第六日目の陸上動物と人間が対応しているのは興味深いことです。用意周到に順序立てて作られたことは確かなことです。また、早く造られたものが、後で造られるものの土台を成していることはあきらかなことです。つまり、万物のもとであるエネルギーとしての光が最初に造られたこと。また、大気や水をまず用意してから植物を造り、植物を造ったあと動物が造ったことなど、順序が逆では創造は失敗に終わったことは明らかなことです。神様は海もないのに魚を造ったり、空気もないのに人間を作ったりはなさりませんでした。人間が一番最後に造られたということは、人間はすべての被造物という環境にに最も依存して生きているものなのだということです。

 また、ある人たちはこの1日、2日という「日(ヨーム)」を地質学的な何億年という非常な長期間の区切りを意味しているのだと解釈して、現代の地質学や進化論との調和を図っています。いわゆる有神論的進化論ですが、これは非科学的です。理由は簡単で、たとえば3日目に種をもって実を結ぶ草木が造られたとあります。多くの植物は昆虫によって受粉をして花を咲かせて実を結ぶものです。ところが、その昆虫たちはいつ造られましたか?昆虫とは第6日目「はうもの」です。もし「一日」が何万年、何億年であるとすると、植物は昆虫がいないので、種を残すことができなかったはずです。

 この世界はマクロの次元から、ミクロの次元まで、人間のあさはかな知識では及びも付かない素晴らしい創造主の知恵をもって見事に組み合わされているシステムなのです。有神論的進化論者が救われていないなどというつもりはありませんが、創世記の記述と自然のありさまを観察すると、46億年もかけて偶然が偶然を生んで徐々に無秩序が秩序をなしてきたと考えることはいかにも不合理で、短い期間に被造物のシステム全体は組み上げられたと読むことが、理にかなっています。

 

2 人間と他の被造物の類似性と区別性

 

 さて、あらゆる被造物が整えられてから、一番最後に造られたのが人間です。次に人間と他の被造物との類似した面と、異なっている面とを考えましょう。

 

(1)類似性

 人間と他の被造物との類似性のひとつは、いずれも神の作品であるということです。そして、人間も他の被造物も、ともに土を材料として造られたものなのだという点においても類似しています。植物は死ねば枯れて土に帰り、動物も死ねば土に帰ります。人間もまた同じです。人間を物質的側面から見ますと、体重70キログラムの人で、水52.5キログラム、炭素12.5キログラム、カルシウム1.4キログラム、リン700グラム、イオウ175グラム、その他アルミニウム、鉄、銅など微量で、価格としては1000円程度にすぎません。あなたはいくらでしょうか。

 人間は牛や馬やネコや森の木々や鯨やホッキ貝など他の被造物と同様に、有限な被造物であって、ある時現れて、やがて土に返っていくそういう存在なのです。その意味で、人間は謙遜であるべきです。しかも、人間は最後に造られた被造物として、あらゆる被造物に依存して生きています。そういう意味で、人間は他の被造物が仲間であることを忘れてはいけません。この点を近代人は忘れて、自然界を単なる人間の都合のために好き勝手に収奪して環境破壊を引き起こしています。人間だけが神を賛美しているかのように思いあがってはいけません。他の被造物も、神の栄光を賛美しています。

詩篇148

148:3 主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。

 148:4 主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。

 148:5 彼らに【主】の名をほめたたえさせよ。

  主が命じて、彼らが造られた。

 148:6 主は彼らを、世々限りなく立てられた。主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。

 148:7 地において【主】をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。

 148:8 火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行うあらしよ。

 148:9 山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。

 148:10 獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。」

 

 また、人間は神の前に徹底的に謙遜であるべきです。他の被造物と同じように、有限であり、神が許してくださるかぎりにおいて存在しているにすぎないのですから。神は、全被造物に対して、絶対的な主権をもち、生殺与奪の権をもっていらっしゃいます。私が以前住んでいた信州小海町に世界的に著名な陶芸家池端さんという知り合いがいました。引越しの時もはなむけにマグカップのペアをくださいました。陶芸家は粘土を練り上げて、形をつくり、乾かして三日三晩、釜に入れてこれを焼き上げます。そうして焼き上げた上でこれは気に入らないと、惜しげもなく打ち壊してしまいます。創造者は、その被造物に対して絶対の主権をもっているのです。私たちは、神の前に有限な被造物です。神の前にへりくだるべきです。

 

(2)人間と他の被造物との区別性

 しかし、人間は他の被造物とは決定的に異なる点があると、聖書は同時に教えています。それは、26-28節に記されているところです。類似と区別の両方を見るということは、先週、統一性と多様性という世界の基本構造から学んだことでした。人間と他の被造物との区別性とはなんでしょうか?

1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

 1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 人間の他の被造物との決定的な区別は、人間だけが神のかたちにしたがって造られたという点です。他の被造物にしても、創造主の作品である以上、そこに創造主の影が落ちています。たとえばモナリザという絵には、ダビンチの個性が表れているというように。ローマ書が「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる」(ローマ1:20)というように、野に咲く一輪の花、夜空にめくるめく星星にも神様の影は投じられています。けれども、人格的な神のかたちにおいて造られたのは人間だけです

 

 では、「神のかたち」とは何を意味しているのでしょう。聖書はなんと教えているのでしょう。新約聖書はこの「神のかたち」は、三位一体の第二の人格である御子イエス・キリストなのだと解き明かしています。コロサイ1:15

「 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」

 だから、この創世記1章26節で神は「われわれ」とおっしゃっているわけです。父なる神は、御子と相談をなさったわけです。そうして、御子の似姿として人間を創造なさいました。人間はもともと、御子のかたちにしたがって創造され、善悪の知識の試練を経て完成され、神の国を相続するものとして造られたのでしょう。

 人間は本来、御子キリストをモデルとして造られました。そして、御子は父なる神と瓜二つですから、御子に似たものであるということは、とりもなおさず父に似た者であるということです。アダムが神様に背いて以来、その人間に刻まれた神のイメージは壊れてついてしまったのですが、それでも、人間は本来、キリストに似た者としての影を残しています。人は人を憎み続けると、目が黄色くなるのだそうです。それは人を憎むと脳に毒素が発生して、発生した毒素が肝臓にたまるので、黄疸になるからです。もし人間が悪魔に似た者として造られていたら、人を憎めば憎むほど体調がよくなるでしょう。けれど実際には、人間は人を愛し、人を赦すときに、健やかな心とからだでいることができるのです。ということは、人間は、やはり、憎むためでなく、愛するために造られているということを意味しています。人間は、愛の神、キリストの似姿として造られているのです。なんとありがたいことではありませんか。

 

3 神と人との区別性

 

 とはいえ、人間は神ではありません。人間はキリストにあって神に似た者として造られましたが、区別があります。類似性とともに、区別性を認識することが肝心です。

神と人間はどこが違うでしょうか。まず、先にも言ったとおり、神は創造主であって、私たち人間はその被造物なのだということです。画家が自分の絵に対して絶対の主権をもつように、陶芸家が土を練り上げてつくった自分の作品に絶対の主権を持つように、神は私たち被造物である人間に対して絶対の主権をもっておられます。この世に私たちを生まれさせ、この世にある年数の人生を与え、御心に従ってこの世から引き上げて、私たちの人生に審判をなさる。創造主である神は、私たちに対して主権をもっていらっしゃいます。

また、神は無限ですが、人間は有限な存在です。時間的には神は永遠者であり、人間はあるとき現れてある時消え去るべきものです。空間的には、神はあまねくいずこにもいらっしゃるお方で、神はアンドロメダの星のかなたにも、この会堂にも同時に臨在なさることがお出来になります。しかし、私たち人間は苫小牧にいて、同時に札幌にいるということができません。知性ということでいえば、神はすべてをご存知つまり全知のお方ですが、私たち人間には知性はあってもそれはごく限られたことを知るにすぎません。人間はたしかにキリストにあって神に似た者として造られたのですが、有限な存在です。

真の神は無限の人格でいらっしゃいますが、私たち人間は有限の人格なのです。その人格性というところで、私たちは神様と共通していて、私たちの祈りを神は確かに聞き届けてくださいます。また、神様は私たちにみことばをもって語りかけてくださいます。しかし、私たちには神のみこころを知り尽くすことは決してできません。御国に入って後もそうです。私たちは己の分をわきまえるべきです。

まとめれば、真の神は無限の人格的創造主であり、私たちは有限な人格的被造物ということです。

 

4 安息日の目的

 

2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

 2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

 万物は6日間で造られましたが、神は世界は6日間で完成したと言わず、第七日目の安息をもって完成したと宣言なさいます。神は七日目を安息の日として定め、創造のわざを休まれました。神が七日目は休まれたので、キリストにあって神の似姿として造られた私たちもまた七日に一度を神の前に憩う日とするのです。旧約時代は週の第七日目、新約時代は週の第一日目というちがいはあるものの、七日に一度ということでは同じです。

 この日、神の前に兄弟姉妹とともに神を賛美しみことばを聞くことによって、私たちはキリストの似姿として、キリストの姿を目指して、一歩前進するのです。この安息日をないがしろにすると、私たちは神を見失い、したがって、神の似姿である自分がどういう存在であるかを見失ってしまいます。主の日に、神の御前にでるとき、私たちは本来の自分の姿がどんなものであるのかを思い出して、人間性を回復するのです。

 

むすび 

アウグスティヌスは『告白』の冒頭に有名な祈りを書いています。

「あなたは、わたしたちをあなたに向けて造られたので、わたしたちの心は、あなたのうちに安らぐまでは平安を得ないからです。」

人間は神に立ち返るときに初めて平安を得るのです。それは、神が私たちを、神のかたちである御子において、ご自分の似姿として造ってくださったからです。人は神でないものに、自分の平安の拠り所を求めようとします。それは、あからさまな偶像礼拝であったり、人間の造った宗教であったり、あるいは仕事であったり、お金であったり。けれども、創造主である神は私たちをご自分に似たものとして造られたので、私たちはまことの神のうちにのみ、平安を得ることができるのです。

私たちはキリストにあって、創造主に立ち返ることが許されたものたちです。このキリストにある創造主の交わりにある平安に生き、そして、あかししてまいりたいと思います。

また、もし創造主のうちにある平安を知らない方が、この中にいらっしゃるなら、おすすめします。次のように祈ってください。

「私はあなたにいのちをいただきながら、あなたに背を向けた人生を歩んできました。今、その罪を悟りました。この罪のために救い主イエスをくださったことを感謝して受け入れます。」

 このように心から祈るならば、この世の誰も何者も与えることの出来ない平安を、造り主があなたに与えてくださいます。