水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

小さくかつ大きな者  

Ps8                    

 苫小牧福音教会では今年度の主題は礼拝です。礼拝賛美に「詩篇歌」を用いていますので、用いている詩篇歌の歌詞を数回にわたって味わう予定です。

**指揮者のために。ギテトの調べにのせて。ダビデの賛歌。

 

1主よ私たちの主よあなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。

2幼子たち乳飲み子たちの口を通してあなたは御力を打ち立てられました。

あなたに敵対する者に応えるため復讐する敵を鎮めるために。

3あなたの指のわざであるあなたの天あなたが整えられた月や星を見るに

4人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。

人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。

5あなたは人を御使いよりわずかに欠けがあるものとし

これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。

6あなたの御手のわざを人に治めさせ万物を彼の足の下に置かれました。

7羊も牛もすべてまた野の獣も

8空の鳥海の魚海路を通うものも。

9主よ私たちの主よあなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう。

 

 「小さくて大きな者」とはなにか。詩篇第8篇は、最初と最後の節に「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力に満ちていることでしょう。」と頌栄が繰り返されます。神のご栄光はどのようにあらわされるのか、どのような者を用いて神の栄光は現わされるのでしょうか。

 

1.幼子と乳飲み子たちの口

 

 神様の偉大さ、その素晴らしさ、神様の御威光を現わすために用いられる人とはどういう人でしょう。巨大企業を営む実業家でしょうか。賢い政治的手腕のある総理大臣になったなら、神様の御威光があらわされるのではないか。あるいは、自然科学者が偉大な発見をしてノーベル賞を取ったら神の御威光があらわされそうです。あるいは、素晴らしいミュージシャン、天才鼻笛奏者が神の御威光を現わすのではないか・・・というふうに、私たちは単純に考えてしまいそうです。けれども、不思議なことに、主の御名の全能、そのご威光は小さな者を通して現わされるというのです。2節。

 「あなたは幼子と乳飲み子たちの口を通して、御力を打ち立てられました。・・・」

 大政治家でもなく、大発明家でもなく、大哲学者、大神学者、天才自然科学者でもなく、天才ミュージシャンでもないのです。幼子と赤ちゃんです。これによって神に敵対する力ある者たちを滅ぼしたまうのです。これはどういう意味でしょう?

 イエスさまが詩篇第8編を引用したことがあります。

エルサレム入城と「宮清め」の事件の後、律法学者・長老たちはイエス様に抗議しました。「無知な子どもたちがホサナといって、あなたのことをあたかもメシヤ、あたかも神のごとくに賛美して迎えているではないか、とんでもないことだ」と。すると、主イエスはこの詩篇を引用なさいました。旧約聖書、律法の専門家たちに対して、イエスさまはこのことばを引用して論破したのです。

マタイ21:16 イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか。」イエスは言われた。「聞いています。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」

 律法学者たちが、無知な子どもたちと軽蔑しているけれど、神はあなたがたがいう無知な幼子たちの素直な信仰を祝福なさるのだ。誰も、子どものようにならなければ、わたしを神が遣わしたメシヤ、神の御子、キリストだとわからないし、神の国に入ることもできないのだ、とおっしゃるのです。

 また、あるとき主は祈られました。

「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。」(Mt11:25,26)

 「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち立てられました。・・・」

 神の御力を打ち立てるのは、権力や学識や富によって高ぶった人間ではなく、幼子と乳飲み子のような存在です。その意味するところは、神の御前に己の卑しさ、貧しさを認めた人間、へりくだった魂なのです。

 

2 見上げてごらん夜の星を

 

 次に詩人は、夜空を見上げます。・・・先週水曜日、老人ホーム陽だまりの樹で鼻笛で「見上げてごらん夜の星を」を吹いてきました。・・・濃紺のビロードにダイヤモンドを散らしたように、夜空にまたたく幾千万の星。寸秒違うことなく軌道上を運行する月や星星。これらを見上げるとき、詩人は自分という存在がなんとちっぽけなものかと、思わずため息が出ました。宇宙の広大さの中で、自分は塵に過ぎぬことを悟ります。昔、散歩するとよく父が、「この星空を見ていると、自分がもっている悩みとか怒りとかいうことはなんとちっぽけでくだらないことかと思うよ。」といっていました。この地球も広大無辺の宇宙のなかでは片隅の砂粒のような者でしょう。その上に現れた私という人間は、宇宙全体からみれば、一つの砂粒の上のミクロの点です。

 けれども、詩人の神に対する驚きは、宇宙に対するよりもはるかに大きいのです。詩人の肉眼が見るのは星空ですが、霊の眼は、星空をつきぬけてその星空を造った主なる神を見るのです。しかも、神にとって、星空を創造されることなど造作ない事、チョチョイのチョイといって出来上がった「指のわざ」にすぎないではないかと歌います。その偉大な創造主がどうして私ごときに目をとめて下さるのだろうか。不思議です。

「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心にとめられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」

 まことの神の前に立つ時、私たち人間は、まず自分の存在の小ささを思い知らされるのです。これが人間の第一の智恵です。

 

 ところが神に背を向けた近代科学文明は、人間をたいそう傲慢に、そして、愚かなものにしてしまいました。科学の力によって人間はなんでもやることができると人間は思い上がってきました。偉大な物理学者とされている英国のスティーブン・ホーキング Hawking 博士が、Grand Design の中で「宇宙の誕生に創造者の手は必要ではない、それは物理法則にしたがって、自然発生した」。重力の法則をはじめとする物理法則によれば、無から有が生じるのは不思議ではない。むしろ存在しないことより、存在することのほうが自然なのだ、これがホーキング発言の要旨なのだそうです。

 神様を知っている小学生なら、大天才と言われるホーキングに質問するでしょう。

ホーキング博士。じゃあ、重力の法則を初めとする物理法則は誰が造ったの?」と。

神様を畏れない傲慢な知性と文明は、バベルの塔に象徴されるように、実に愚かなのです。

 

 私たちは知恵を活用して文明を築くことはよいことです。そのために、神様が私たちを神のかたちとして知恵をくださり、「地を従えよ」「地を耕し、守れ」とお命じになったのですから。しかし、文明や科学に酔っ払ってはなりません。人間の知識と文明を神のごとくに思いこんでこれを偶像として拝んではならないのです。あらゆる偶像崇拝と同じように、文明崇拝・科学崇拝は、目先の得は約束しても最終的に人間に不幸をもたらすのです。実際、今、物理学の最先端の知識が核兵器を造りだして、地球上の生き物を存続の危機に陥れています。

 人間が造りあげた文明など、実は、神の御目から見るならばお粗末なものです。あのバベルの塔にしても、ホーキングの宇宙論にしても、この大宇宙を指先でちょいちょいと創造し治めていらっしゃる神の御目から見るならば、浅はかなものです。人間は、神様の御前に出て、自分の愚かさ、小ささをよくわきまえることこそが人間の第一の知恵です。

「主を恐れることが知識の初めである。」(箴言1章7節)

 

.神を知ると人間の偉大さがわかる

 

 しかし、こんなにちっぽけな塵にすぎない私という人間を、全宇宙を治めていらっしゃる神様は心に留めて下さるのですから不思議ですと詩人は歌います。「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心にとめられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」そればかりか、二千年前には、みずから人となってこの世界に来てくださり、十字架の死をもって罪までもあがなってくださったことはもっと不思議です。なぜ、こんなにも神様は人間に心をとめてくださるのでしょうか。

 そういう詩人の神様への問いかけに対して啓示されてきたのは、5-8節です。

5**,あなたは人を御使いよりわずかに欠けがあるものとし

これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。**

6**,あなたの御手のわざを人に治めさせ万物を彼の足の下に置かれました。**

7**,羊も牛もすべてまた野の獣も**

8**,空の鳥海の魚海路を通うものも。**

 背景にあるのは、もちろん創世記1章に記される人間の創造における神の御言葉です。

「我々は我々に似るように人を造ろう。そして、彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」

 新改訳2017では5節を「み使いより」と訳していますが、第三版までは「神より」と訳していました。創世記1章と照らし合わせて「神より」と訳したほうがよいように思います。

 物理的次元でいうならば、こんなに小さく卑しい、土から作られた私たちですが、神は私たちをご自分の似姿、御子のかたちに似せて造って下さったのです。物理的、空間的にはいかにも小さな自分ですが、神の似姿というかぎりにおいて私たち人間は偉大なものです。地を治めるために立てられているのです。そのように詩人は思い直すのです。私がいかに小さな者であっても、造り主である神の似姿に似た者であるかぎり、私には尊厳があり責任があるのだと分かったのです。

 私たちは人間として、自分の偉大さと自分の小ささとを同時に知らねばなりません。いずれの知識が欠けてもいけないのです。ブレーズ・パスカルは言いました。

「人間に自分の悲惨さを知らせないで偉大さだけを教えることは危険なことである。また人間に自分の偉大さを知らせないで自分の悲惨さだけを教えることはさらに危険なことである。しかし、人間に自分の偉大さと同時に悲惨さを知らせることはたいへん有益なことなのである」と。

 実は、パスカルを初めとして17世紀に近代自然科学の原理を築いた人々は、実は、ことごとく神を畏れる人々でした。地動説を初めて唱えたコペルニクスは司祭でしたし、ケプラーは司祭の子どもでしたし、ガリレオ・ガリレイも敬虔なキリスト者でした。彼らは万物の創造主なる神を畏れていたからこそ、近代自然科学の土台を築くことができました。ガリレオ・ガリレイスウェーデン王妃クリスティナあての手紙に次のようなことばを残しています。

「聖書も自然も、ともに神の言葉から出ており、前者は聖霊の述べ給うたものであり、後者は神の命令によって注意深く実施されたものです。(中略)神は、聖書の尊いお言葉の中だけでなく、それ以上に、自然の諸効果の中に、すぐれてそのお姿を現わし給うのであります」

 「自然は、創造主なる神がロゴス(ことば・理性)をもって造った作品である。だからこそ、神の似姿にしたがって理性を与えられた人間は、これを読みとることができる」とケプラーガリレオパスカルたち近代自然科学の根本原理です。創造主が造られた世界なのだから、太陽系を成り立たせている原理も、ピサの斜塔から物が落ちる原理も共通であると考えられたので、近代物理学は成立したのです。

 しかし、17世紀の科学者たちは神を畏れる人々でしたが、18世紀、19世紀、20世紀過ぎていくうちに、科学を神格化し、ついには、神などいないという人々が増えてきました。そして、傲慢になりながら、実に、自分で自分を惨めな者にしてしまっています。進化論や唯物論の影響の下で、ほとんどの日本人はチンパンジーよりも少しばかり智恵のあるサルにすぎないと思いこんでいます。ですから、人間としての道徳的責任というものがわからず、現代人は単なるオスとメスのようにふるまっています。あるいは人間を精巧なコンピュータを備えたロボットにすぎないと教える学者たちもいます。故障したロボットは廃棄処分にされるように、役に立たない人間は生きている意味がないというのが科学を偶像化した結論です。

 人間は土から作られたちっぽけな存在です。しかし、同時に、偉大な存在です。それは人間が神の似姿として造られたからです。この原点に帰らねばなりません。神の似姿として造られたところに、人間の価値と尊厳の根拠があるのです。人間は、ロボットでもなければサルでもありません。人間は神の似姿です。

 

結び

  私たちは創造主である神の似姿です。神を見上げ、神を恐れ、神を愛しているかぎりにおいて、私たちは神の似姿として十分に生きることができます。神を離れてしまうならば、私たちはサルかロボットに成り下がってしまいます。

 神の御前に卑しい己、神の御前にいかにも小さな己を自覚する者こそ、全地を治めるのにふさわしいものです。ただ神の御前で己がいかに小さくはかない者であるかを認めるとき、私たちは同時に自分は神の似姿として尊厳ある者だと知ります。そのとき、神はその人を通して力を打ち立て給うのです。 あなたの子どもに、お孫さんに、「君は、偶然生じてきた宇宙のゴミではない。ロボットでも、サルでもない。君は、神様の似姿として造られた尊い存在なんだよ。」と教えてください。