水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

天の御座を捨てて

ピリピ人への手紙2章6-11節

2019年12月24日 苫小牧イブ礼拝

 

 

キリストは、神の御姿であられるのに、

神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、

人間と同じようになられました。

人としての姿をもって現れ、

自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。

それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、

地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、

すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、

父なる神に栄光を帰するためです。

 

 

序  

 私は幼い日神戸市須磨区の須磨教会付属の千鳥幼稚園に通ったのですが、二年目のクリスマスに「幸福の王子」の劇をしました。私の役は幸福の王子像のある町の市長さんでした。市長は町を見学に来た人々を幸福の王子像のある広場に案内して、黄金に輝き、青いサファイアの瞳をしている幸福の王子のすばらしさを自慢するのです。けれども、劇の終わり近くに、ツバメが王子の指示にしたがって、剣の束のルビーも両目のブルーサファイアもそして全身を包む黄金もはぎ取ってしまったあと、市長はふたたびやってくると、幸福の王子像を「なんとみすぼらしい。こんな像は町の恥だから捨ててしまえ」と言うのです。あまりよろしくない役柄でした。

その時から、「なぜ教会のクリスマス会で幸福の王子をしたんだろう?」 私はずっとそういう疑問を抱いていました。クリスチャンになってからも、ずっと55年ほどわからないでいたのですが、一昨年のクリスマスを控えたことわかりました。この教会には、ウィークデーに近所の子どもたちがときどき遊びにきます。遊びに来ると、牧師室に置いてある紙芝居をしてあげるのですが、その中に幸福の王子の紙芝居がありました。その日、幸福の王子のお話をしていたら、話しているうちに、意味がわかってきました。

紙芝居が終わるとクイズをしました。「この幸福の王子は誰のことを意味しているのでしょう?」するとS君という男の子が、「イエス様のことです!」と元気に答えました。そうです。幸福の王子はイエス様のことを意味していたのです。

 

1. 神の御子キリスト

 

 神の御子であるイエス様は、本来、どういうお方でしょうか。お読みした聖書箇所ピリピ人への手紙に、「キリストは、神の御姿であられるのに」と書かれています。イエス・キリストというお方は、2019年前、イスラエルガリラヤ地方にいた宗教家であるというふうに思い込んでいる人たちがいますが、それはちょっとちがいます。イエス・キリストというお方は、実は、この世に人として生まれる前、はるか永遠の昔から、そう、この宇宙が存在する前から生きておられた神の御子でいらっしゃるのだと聖書は教えているのです。ヨハネ福音書1章にイエスさまの別名として「ことば」(ロゴス)が出てきます。「ロゴス」をイエスと入れ替えて、ヨハネ福音書冒頭を読んでみると次のようになります。

「永遠のはじめに、イエスはおられた。イエスは神とともにおられた。イエスは神であった。永遠のはじめにイエスは神と共におられた。すべてのものはイエスによって造られた。造られたもので、イエスによってよらずにできたものは一つもない。」

エス様は、永遠から父なる神と共に生きておられ、イエス様はこの宇宙、太陽も、月も、地球もいっさい、そして私たち人類をも創造したのです。つまり、イエス様は永遠から永遠にいます神であり、創造主なのです。

エス様の弟子ペテロは、あるときイエス様に向かって「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白しました。また、弟子トマスは、イエス様に向かって「わたしの主、わたしの神」と告白しました。日本人は、なんでも神々にしてしまうようなものですが、ユダヤ人は、神は万物の創造主であることを、骨の髄から知っているユダヤ人です。万物の創造主以外を神とすることは、罪の中の罪、最大の罪であることを知っているのがユダヤ人です。その彼らが、イエス様と三年間寝食をともにして生きているうちに、「ああこのお方は、万物の創造主である神が人として、この世に来られたのだ」と確信するようになったのです。驚くべきことです。

 

2.天の御座を捨てて 十字架にまで

 

  しかし、天の御座におられたイエス様は、この地球に生きている私たち人間をごらんになってかわいそうに思われました。あの幸福の王子が、熱を出して「オレンジ、オレンジ」と言っている男の子、まずしい母親を見てかわいそうに思い、マッチ売りの少女をみてかわいそうに思い、屋根裏部屋で暮らす物語を書いている青年を見て助けてやりたいと思ったように、

神を知らず生きる目的がわらかなくなっている人、

愛する人を失って悲しみの中に暮らしている人、

神さまを知らず罪の中で打ちひしがれている人、

明日生きる希望も失っている人、

迫りくる死の恐怖におののいている人、

友だちがいなくて独りぼっちの人、

そういう私たちのことをご覧になりました。

 

幸福の王子は、自分の剣の束のルビー、自分の両目の青いサファイア、体を覆う黄金のすべてを与えてしまいました。この行動はイエス・キリストの何を意味しているのでしょう?   それはイエス様が、「神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」という行動をとられたことを意味しているのです。

幸福の王子像は人間が造った像ですから、自ら動き出すことはできませんが、万物の創造主である生ける神の御子であるイエスは、輝く天の御座を捨てて、この世に人としての性質を帯びてきてくださったのです。これが今日お祝いしているクリスマスの出来事です。

 

(生涯)

エス様は、友のない人の友となり、悲しんでいる人を慰め、悪霊に取りつかれた人々から悪霊を追い出して解放し、罪の奴隷になっている者をその支配から救い出し、病んでいる人を癒し、愛する者を失った母親を永遠のいのちの約束ゆえに慰め、死者をよみがえらせました。イエスは完全な愛と真実な生涯を送ったのです。

 

(十字架)

しかし、イエスのそうした行動は、当時の宗教家たちのねたむところとなり、ついにゴルゴタの十字架にはりつけにされることになりました。しかし、それは神のご計画の中にあることでした。すなわち、罪のない神の御子イエスが人となり、人類の代表となることによって、人類の神の前における罪の償いとするというご計画です。 「人としての姿をもって現れ、 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」私たちが神の前に背負っている罪ののろいをイエスさまが、あの二千年前のゴルゴタの十字架の上で背負ってくださったのです。罪ある私たちは人の罪を背負うことはできませんが、罪のない神の御子であるイエス様は、私たちの罪を背負ってくださったのです。

 

3.復活と昇天・着座

 

 幸福の王子は、すべてを与えてボロボロになりました。人々はボロボロになった王子像とその足元に落ちていたツバメを町の恥であるとして捨ててしまいました。しかし、神は、この世で王子とツバメをもっとも美しいものとして天に引き上げたというのが、オスカー・ワイルドの話です。

 イエス様がかけられた十字架刑は、当時の刑罰のなかでもっとも惨めなもの、最悪の刑罰であるとみなされていました。しかし、御父のみこころにしたがい、滅びゆく私たちへの愛ゆえに自らをささげた御子イエスの死は、神の目にはもっともうるわしいもの、義なる行為とみなされたのです。それゆえ天の父なる神は、御子をよみがえらせ、天の御国へと高く上げて、御子に一切の権威をお授けになったのです。

 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。

 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、

 地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、

 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、

 父なる神に栄光を帰するためです。

 

 

むすび

 イエスは、父なる神のひとり子である神です。また父の御心にしたがって万物を創造したお方です。またイエスは御父の愛のご計画にしたがい、罪ある私たちを赦すために、この世に人として来られ、十字架で苦しんで死に、よみがえられたのです。だれでもイエスを信じるなら、神の前にすべての罪を赦され、神の子どもとしての生きる甲斐のある喜ばしい人生を歩み出すことができます。それは永遠の天の御国につながる人生です。

あの紙芝居が終わった時、あのS君という小学生が質問しました。「じゃあ、先生、あのツバメは誰のことを指しているんですか?」胸を突かれました。みなさん。あのツバメは誰のことを指しているのでしょう?  あなたのことを指しているのです。あのツバメは、私のことを指しているということがわかりました。

私たちは、それぞれキリストを知る者として、キリストのお手伝いをその生涯をかけてしていくべき者として召されています。 今年中村哲さんというお医者さんが、12月4日、アフガンでテロリストの銃撃にあって亡くなりました。彼は九州は福岡の人で、日本バプテスト連盟香住ヵ丘バプテスト教会のメンバーでした。中村さんは、水が無く農業もできないで困窮している人たち、子どもたちを見て、自分の人生をささげて、医療とともに用水路を開き、キリストのお手伝いをしたのです。私たちも小なりとはいえ、キリストを知る者として、それぞれの持ち場でキリストの手伝いとして生きてまいりたいと思います。