水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

摂理をわきまえて生きる

創世記1章1-2章3節

2016年4月10日

 

 1.造り主のみを礼拝せよ

 

 私たちが聖書を釈義するときにまず求めるのは、執筆者の意図です。つまり、執筆者が読者に何を伝えたかったのかということを探ることです。そこで、聖書釈義の一つの原則は、その聖書記者が直接的な意味で読者として想定した人々に対して何を伝えようとしたのかをまずは把握することが大事です。では、聖書記者であるモーセが想定した読者とはだれでしょうか?それは、彼がエジプトから苦心惨憺の末に連れ出し、ここまで導いてきたイスラエルの民でした。イスラエルの民はヤコブの時代以来エジプトに430年間も留まっていたのですから、相当にエジプトの宗教の影響を受けていました。今から400年前と言えば江戸時代の最初期です。エジプトは、太陽、大気、ヘビ、ナイル川、カエル、犬、フンコロガシなど何でも神々として拝む生活をしていました。エジプトは当時の世界では最高水準の文明を持っていて、ピラミッドの建設など現代から見ても困難なことを成し遂げていましたが、殊に神については偶像礼拝の迷信の闇の中にいたのです。

 創世記1章が、光、大気、海、陸地、植物、天体、魚類、鳥、昆虫、犬・猫などの動物、そして、人間について教えていることの第一は、これらはすべて神の被造物であるということです。どんなに素晴らしいものも、創造主の作品であるかぎりの素晴らしさであって、これらを創造主に代わる神々に祭り上げることは大間違いの偶像崇拝という罪です。

 「造り主こそほめたたえられるべきお方です。」

 

2.被造世界の構造

 

 では、神様はこのご自分の作品である世界を配慮し、導かれます。これを神学のことばで摂理といいます。配剤、配慮、按配などと訳せることばです。創世記1章には、神ご自身と神が造られた世界の構造があきらかにされています。神のご摂理をわきまえて私たちが生きるために、これを知ることは有効なことです。3点学びたいと思います。

 

(1)御子が世界の存在を支えている

第一にわきまえるべきことは、御子がこの世界を無から創造されたということです。父なる神の御旨にしたがって、御子は万物を創造なさったのです。そして、御子が万物を支えていらっしゃいます。したがって、御子が終わりの日にさばきを行うとき、天地万物は消え去って跡形もなくなります。御子が意志するかぎりにおいて、世界は存在しているのです。このことについて、そしてコロサイ書1章15-17節が教えています。

1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。

 1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

 1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

 先も申しましたように、この世界は有限なものであって、ただ御子イエスが許しているかぎり存在しているのです。ですから、この世界の山や川や動植物を神格化して拝むことは愚かな偶像礼拝なのです。

 

(2)世界は、多様性と統一性を帯びている

 三位一体の神が造られたこの世界は、実に、多様な被造物から成っています。「種類にしたがって」と記されていますが、私の住む北海道はこれから待ちに待った春が訪れて、次々に花々が咲き始めます。フクジュソウフキノトウに始まって、オオイヌノフグリとかナズナ、ツクシ、スイセン、クロッカス、チューリップとさまざまの花が咲き乱れます。実に多様で豊かです。

 しかも、これらさまざまな被造物はバラバラに存在しているわけではなく、互いに助け合い、全体的な一致、調和をもって生きて、生かされています。先に申しましたように、一粒のイチゴができるにしても、大きくは地球の公転と自転、小さくは土の中の微生物たちの営みがあって、一粒のイチゴが実るというふうに、宇宙全体が総動員されているのです。

この多様な世界はひとつひとつが活き活きと生かされ、そして、ひとりひとりは全体との調和のために生きていくということ。

1コリント12:25-27

 多様性と統一性という意味ある豊かな存在の原則は、ありとあらゆるものに適用されるものです。例えば、お料理ひとつ取ってみても、多様な食材がそれぞれの味わい、歯ごたえ、のど越し、香り、色彩をもっていて、それらが全体として調和して一つのおいしい料理というものができるでしょう。あるいは、音楽においても、同じ音しか鳴らさなかったら、それは音楽にはならないでしょう。一つのテーマのもとに、多様な展開がなされていて、全体が調和していてよい楽曲というものが成り立つのだと思います。あるいは、一つの俳句という世界短いといわれる詩であっても、小さなことば一つ一つが、全体として調和してその作品の世界を造っています。たとえば、

 しづかさや 岩にしみいる 蝉の声

 また、社会のあり方を考えてみると、全体主義というものがあります。これは統一性のみを偏重した社会のあり方です。一人ひとりの思想信条の自由を無視して、国家こそが全国民の生きる目的であり、いのちをささげるに値するものであるという一種の偶像崇拝です。他方、その反対が個人主義というか利己主義です。これは多様性のみを偏重して、全体のことを考えようとしない態度を意味しています。全体だけを強調すると、個の意味が失われてしまいます。個だけを強調すると世界はばらばらに断片化して、これも意味が失われてしまいます。個と全体、いいかえると、多様性と統一性、この両方があって世界は豊かな意味があるのです。三位一体の神様の造られた世界だからです。

 

3.歴史性

 

 多様にして統一的な、神の造られた多様にして統一的な世界のもう一つの知るべき特徴は、時間があるということ、その歴史性ということです。

 創世記1章は、この世界の歴史性・時間性ということについて、2つの大事なことを教えています。

 

(1)今日という日は特別の日である

 第一は世界には始まりがあり、終わりがあるという事実です。聖書を知らなかったギリシャやインドといった世界では歴史というものが意識されていませんでした。どちらも、時間を円環の永遠として考えていたといわれます。円環ですから始まりもなければ終わりもなく、同じことの繰り返しなのだというのです。円環の上には特定の点が存在しませんから、今日という日は特別な意味のある日ではないということになります。伝道者の書の冒頭に記されたソロモンのことばは、歴史を始め、これに終止符を打つ神を見失った人の「すべてがむなしい」という感慨を述べています。

1:4 一つの時代は去り、次の時代が来る。

   しかし地はいつまでも変わらない。

 1:5 日は上り、日は沈み、

   またもとの上る所に帰って行く。

 1:6 風は南に吹き、巡って北に吹く。

   巡り巡って風は吹く。

   しかし、その巡る道に風は帰る。

 1:7 川はみな海に流れ込むが、

   海は満ちることがない。

   川は流れ込む所に、また流れる。

 1:8 すべての事はものうい。

   人は語ることさえできない。

   目は見て飽きることもなく、

   耳は聞いて満ち足りることもない。

 1:9 昔あったものは、これからもあり、

   昔起こったことは、これからも起こる。

   日の下には新しいものは一つもない。

 1:10 「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。

 しかし、聖書は第一目に世界が始まったことを教えています。そして、その歴史には最後の審判があって終わりが来ると教えています。つまり、円環ではなく一つの線分としての歴史観が聖書の歴史観です。一つの線分の上では、すべての点は特定の点です。そのように線分的歴史観においては、2016年4月10日という「今日」という日は二度とやってくることのない特別な日です。創造のプロセスを観察すると、それがわかります。神はこの世界を、「世界あれ」とおっしゃって1度に造らないで、「夕があり朝があった」と繰り返して7日にわけて造られました。全能の神の力をもってすれば、もちろんこの世界を、「世界あれ」とおっしゃって一瞬のうちに造ることもおできになったのですが、神様は、1日目に光、2日目には大気と上の水と下の水つまり生み、3日目には陸地と植物、4日目には月星太陽、5日目には海の生き物と空飛ぶ生き物、そして、6日目には陸上の動物と人間を造られたのです。神様はこの記述をとおして、この世界には歴史性があるのだと教えていらっしゃるのです。

 

(2)繰り返しつつ終末に向かって前進する

 創世記1章が時について教えている第二のことは、時は始まりと終わりがあるのですが、それは単純な直線ではなくて、繰り返しつつ前進するつまり螺旋的な構造をしているということです。それは、神様が月と太陽と地球の回転を時計となさったことから来ています。

1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。 1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。

 一週間の始まりの主の日、私たちは神様の前に新しい気持ちになって、「よし今週こそ」と何か目標を立てたりします。けれども、一週間がたちまたも成果を上げることができず、しょんぼりしてしまいますが、また主の日を迎えて悔い改めて再出発するということを繰り返しつつ、前に少しずつ進んでいきます。それが一ヶ月という単位、1年という単位でもそうです。

 たしかに2016年という年は、主イエスが治めておられるこの歴史において、ただ一度しかない年です。また、今日というのもまた歴史のなかでただ一度かぎりの一日なのです。そのことを覚えれば厳しい緊張感をもって、この日を無駄にせぬように、この1年を無駄にせぬようにすごさねばという気持ちになります。あなたの人生においても、この日は、ただ一度きりです。一日一日、主イエスにお目にかかる日が近づいています。

 しかし、一日を失敗して終わってしまったとき、一晩休んで目を覚ましたとき、「いざ、もう一度」とやり直すことが許されている。悔いの多い一年であったとしても、新しい年を迎えて、今年こそとやり直すことを主は許していてくださるのです。ピリリとした厳しさとともに、失敗したなら悔い改めてやり直せばよいとおっしゃる主の慈しみを覚えます。

 

まとめと適用

 私たちは有限な人間であり、その知性も有限なものですから、神様の摂理のすべてを理解できるわけではありません。けれども、神様が教えようとしていらっしゃるところまでは知ることができますし、知るべきです。

 三位一体の神様の造られた世界そして、私たちの人生は、多様にして統一的な世界であることを学びました。私たちは多様性と統一性の両立ということのたいせつさを、教会生活でも、日常生活の営みにおいても弁えて生きてゆきたいと思います。そして、時をわきまえて生きるということです。

 しかも、この世界は歴史的世界であり、私たちの人生もまた歴史的なものです。それは始まりがあり、終わりがあるということです。今日という日は二度と来ないという緊張感、しかし、失敗したらもう一度やり直しなさいという慰めに満ちた、神のご支配の下における人生です。

 主にお仕えする人生の選択に迷うとき、三つの問いを神様の前で問うことをお勧めしたいと思います。

 第一は、私にもできることはなんでしょうか?ということです。神様が、あなたをキリストのからだのうちにお召しになった以上、あなたにも必ずできることがあります。

 第二は、私にしかできなことはなんでしょうか?ということです。神様は、一人として同じ人間をおつくりにはなりませんでした。だから、あなた特有のものがあるでしょう。

 第三に、今ならばすることができるけれど、10年後にはできなくなることはなんだろうかと考えることです。私たちは歴史的な存在です。年をとれば出来なくなることがあるのです。