Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

いきいきと生きる

ヨハネ福音書4:1-26

2017年3月 苫小牧伝道礼拝

序 

昨年まで私が暮らしていた信州は、日本一の長寿県でした。理由は、きれいな空気、労働、そしてきれいな水だろうといいます。アルプスの森に注いだ雨が地下にもぐって湧き出してくる豊かな水です。苫小牧も引っ越してきて、おいしい水だなと思いました。豊かな森に恵まれているからですね。人間のからだの6割から7割は水でできているそうですから、水は私たちにとって、必要不可欠です。朝、起き抜けに水を一杯飲むという習慣だけで健康を回復したなどという人もあるくらいです。

 イエス様は、この必要不可欠な水のたとえをもって、意義深い人生について語られました。きょうはこの個所からみことばに学びます。

 「しかし、サマリヤを通っていかなければならなかった」とあります。まずこのことばに着目。 イエス様はユダヤ地方からガリラヤ地方へと弟子たちと旅をしていらっしゃいました。イスラエルの国は当時、一番南部がユダヤ、中部がサマリヤ、そして北部がガリラヤとなっておりました。ですから、普通に考えるとユダヤからガリラヤに行こうとすれば、サマリヤを通っていくということになるでしょう。けれども、ユダヤ人たちはユダヤからガリラヤに行くのにわざわざヨルダン川を渡りまして、東に迂回してペレヤ地方をとおりサマリヤを通らないでガリラヤに行くのが普通であったそうです。ですから、イエス様が「サマリヤを通っていかねばならなかった」というのは、地理的にそうであったということではありません。

 では、どういう意味でイエス様は「サマリヤを通ってかなければならなかった」のでしょうか。その理由はただ一つ。ここに登場する一人の女性に会うという、そのことのためにイエス様はサマリヤを通っていかなければならなかったのです。もちろん、この女と神様の御子であるイエス様は初対面です。しかし、イエス様の側ではこのサマリヤの女のことをよくご存知だったのです。この人に神様のくださる永遠のいのちを伝えるために、どうしてもイエスさまはサマリヤを通っていかなければなりませんでした。

 サマリヤの女というのは、決して身分の高い女性でも、道徳的に立派で名の通った人でもありません。むしろ、名もない一人の女性にすぎません。あえて名があるといえば、悪名高いという意味で近所の人たちにその名は知られていました。彼女は道徳的に問題のあったのです。けれども、イエス様はこの一人の女に会うためにサマリヤを通っていかねばならなかったのです。宗教とは人が神を探し求めることだとすれば、福音は宗教の廃棄です。神様が人間を捜し求めて来られたのです。

 

1.時は正午――女の素性

 

 さて、イエス様はサマリヤに入られるとスカルのヤコブの井戸の傍に腰をおろされました。乾燥地帯では井戸を中心に町が形成されるわけで、このヤコブの井戸も1800年ばかり水を出し続けてここに町が営まれていました。時は6時頃とありますが、現代でいえば12時、正午です。太陽が頭の真上にあって、暑い盛りでした。イエス様が井戸のかたわらにおりますと、そこに一人の女が頭に甕を載せて水を汲みにやってきました。

 井戸の水を使う生活をしたことのある方はいらっしゃるでしょうか。私の母は戦時中、父親の仕事の関係で壱岐の島に住んでおりまして、井戸水で生活したそうです。長女でしたから、一番厳しく育てられました。母に与えられた朝一番の仕事は水汲みです。井戸と台所の間を何度も行き来して水を大きなかめに入れ、これを一日の生活用水とするのです。

ところが、この女性は昼日中に井戸に出てきました。彼女は、誰にも会わないですむときを見計らって水を汲みに出てきたのでした。彼女は、後を見れば分かるように5人の男を遍歴し、今は、六人目と同棲しているという不身持な女でした。イスラエルでは純潔ということが尊ばれましたから、こういう素性の女性は軽蔑されました。それで彼女としては、人目をはばかって、真昼間に井戸にやってきたのでした。

 すると、今日に限って井戸の傍らに見知らぬユダヤ人の男が、腰をおろしています。そして、言いました。「水を飲ませてください。」そこで彼女は言いました。「あんたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤ人の女のあたいに飲み水をくださいなんていうのさ?」ユダヤ人はサマリヤ人とは付き合いをしなかったのです。この女の化粧とか髪の結い上げ方とか身なりを見れば、問題ありげであることは、明白でした。

「あんたたちが嫌っているサマリヤ人、しかも、その中でも、きたならしいものでもみるようにいつもあたしのことなんか鼻にもかけないくせに、どうして声をかけるのさ?」と彼女は言うわけです。

 

2.飲んでも渇く水

 

 するとイエス様は不思議なことをおっしゃいました。10節。

「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

ついさっき、「水をくれ」と言いながら、「わたしは水を持っているよ、求めるならばあげようか。」とおっしゃるのです。しかも、その水は「生ける水」であるというのです。

 でも、この女はイエス様のいう「生ける水」というのがただの物質的な水のことだと思い込んでいるので、とんちんかんなことを言います。11,12節。

4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。

 4:12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」

 

 そこでイエス様は、「生ける水」とは、物質的な水のことを言っているのではないことを明らかにされます。13節14節。

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。

 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 

 イエス様は物質としての水をきっかけとし、そこから飛躍して、ご自分が与えようとしている神とともに生きる聖霊に満たされた人生のすばらしさ、意義深さについて話していらっしゃるのです。いのちの水とは、イエスを信じる者に与えられる聖霊を意味しています。他方、「この水を飲むものはだれでも渇きます。」とイエス様がおっしゃるのは、ちょうどサマリヤの女があの男、この男と渡り歩いてきたそのむなしい人生を象徴しているようです。

 彼女は「この人ならば、あたしのことを幸せにしてくれるにちがいない。」と甘い夢を抱いて最初の結婚をしました。けれども、現実の結婚生活はそんなに甘いものではありませんでした。半年が経ち一年も経つと、「こんな人じゃあたしは幸せにしてもらえない」と、わかれてしまいました。   けれども、しばらく一人でいると、また心の渇きを感じます。「誰かあたいをかわいがってくれないかしら。」と思っていると、今度こそ素敵な男を見つけました。「前の男はだめだったけれど、今度はあたしのことをかわいがってくれるにちがいないわ。」と彼女は、二人目の男といっしょに暮らし始めるのです。けれども、二カ月、三ヶ月、半年たつと、「こんな男なら、前の人のほうがましだったわ。」と思い始めます。そして、また別れてしまいました。  もう男はこりごりだと思ってしばらくいるのですが、またしばらくすると所在無く、「誰かあたいのことを愛してくれないかしら。」と渇きを覚えるようになるのです。・・・・こんなことを繰り返しているうちに、今は六人目の男と暮らしているのです。

 「この水を飲むものは誰でもまた渇きます。」と主イエスがおっしゃる通りでした。

 イエス様が井戸水にたとえておっしゃろうとするのは、世の与える満足です。この女性は男の愛によって満足を得ようとしましたが、決して満たされることはありませんでした。・・・わたしは本日の聖書の箇所を思いめぐらしていたら、明け方にふと頭のなかに「こんな女に誰がした・・・」という終戦直後に流行った、あの歌の一節が浮かんできました。あの歌には悲惨な時代の背景があってのことなのですから、簡単に片づけられるとは思っていませんが、とにかく自分がこんな女になってしまったのは、あの男のせいだ、この戦争のせいだ、あの親のせいだ、あの先生のせいだ・・・とみな人のせいにしていると、そのひとは自分の責任はとらなくてよいので気楽かもしれませんが、結局、依存的で奴隷的な生き方をしていくほかないことになってしまいます。他人に過度に期待し、依存するから、相手にうるさがられてしまう。そして裏切られたと思って失望し恨み続けるという生き方なのです。これは恋愛にかぎらないことで、あの人のせいで自分はこうなった、この社会のせいで自分はこうなたと、「こんな女に、こんな男にだれがした」と嘆き続ける奴隷的な不自由な生き方になってしまいます。

 神様は私たち人間を自由な存在として造られました。ほんとうは、同じ出来事に出くわしても、ある人は右の道を選び、ある人は左の道を選ぶ自由があるのです。

 

3.生ける水

 

 この女性に対して、イエス様は「生ける水」(いのちの水)である聖霊を与えようとおっしゃるのです。イエス様のくださる聖霊にはいくつかの特徴があります。

(1)聖霊を受けるものは決して渇くことがない

 この女性は、男性に依存しました。人間はどんなに良い人でも限界があり、罪があります。人間に期待しすぎると、きっとがっかりさせられる日が来ます。お互い、罪ある限界のあるものであることをわきまえ、受け入れあって生きることが大切です。ほんとうに私たちを満たすのは永遠のお方だけなのです。

 人間とは、とても不思議な存在です。人間のからだは有限な物質からできています。ところが有限なものの塊にすぎないはずの人間は、絶対、無限、永遠へのあこがれを持っているのです。ソロモンはまた言っています。「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」

永遠への思いというのは、言い換えると変わることのない人生の意義を求めているということです。しかし、この世にあるどんなものの永遠のものを求めても、それは必ず空しくなるのです。なぜなら、この世にあるものはどれもこれも有限で、永遠不滅のものではないからです。男女の愛はうつろいます。親の愛さえも有限です。人間の手がける事業もやがて壊れます。子どもも巣立つ日が来ます。

けれども、主イエスはおっしゃいました。

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。

 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 

主イエスが与える水は、渇くことのない人生を与えるのです。むなしくならない、永遠に意義ある人生を与えようと主イエスはあなたにおっしゃるのです。

 

(2)聖霊は泉となってあふれる

 主イエスが与えるという聖霊のもう一つの特徴は、その人のうちで泉となりあふれて、周囲の人々を潤すことです。イスラエルには、二つの湖があります。北にあるのがガリラヤ湖で、レバノン山脈に降った雨が地下水となってこんこんと湧き出ています。魚が豊富なので漁業は ガリラヤ地域の基幹産業となっています。このガリラヤ湖の水があふれてヨルダン川を南へ南へと下ってゆき、そしてユダヤ地方の死海に注ぎます。この死海は、海抜マイナス405メートルという世界で最も海抜の低いところにある湖です。当然のことながら水は注ぎ込むばかりです。結果、この湖にはヨルダン川をはじめとするいくつかの川が運んでくる塩分が蓄積して、塩分30パーセントの塩水になっています。海水は3パーセントですから、どれほど濃いかわかりますね。当然、魚もなにも住むことはできない死の湖になってしまっています。

 これはサマリヤの女を象徴するようです。サマリヤの女は、飲んでも渇き、そして常に「誰かが私を愛してくれないかしら」「だれか私を幸せにしてくれないかしら」という常に求めるものでした。サマリヤの女は、愛されることばかり考えていました。いったん不幸になると「これはあの人がけちだから」とか「あいつが乱暴だから」という風に被害者意識のなかに暮らすことになるのです。

 しかし、イエス様のくださる永遠のいのちの水は、その人のうちでこんこんと湧き出す泉となります。それはちょうど底が抜けてしまった池の下に突然水脈が開けて、こんこんと湧き出すようなものです。そのように神様を知り、神様と人格的な交わりを持つことができるようになると、あなたの人生はこんこんと湧き出す泉のようになります

  イエス様を信じると、その人の内側、その一番深いところに泉が開けます。そして、愛されることばかり求めていた人が、むしろ愛することを望むようになります。被害者意識に縛られて奴隷のようにしていた人が、むしろ主体的に責任をもって自由人として生きていくことができるようになります。それは責任ある自由人の誕生ということもできます。環境に心縛られ、人に心縛られていた人が自分で自分の人生に勇気をもって進もうとするようになるのです。

 

4.生ける水(聖霊)を受けるには

 

(1)自分の罪を認める

 さて、サマリヤの女はイエス様がおっしゃる生ける水が欲しくなりました。飲んだら二度と渇くことのない水、あふれて周囲の人々までも潤す水、そのいのちの水がほしくなりました。彼女の中では、イエス様のおっしゃることが半分わかり、半分は単に物質的な水のことと思われるようなあいまいさですが、ともかく彼女は「その水をください」(15)と言ったのです。

 そうしますと、イエス様は「さあ、どうぞ。飲みなさい。」とおっしゃったかというとそうではありませんでした。イエス様は何をおっしゃったか。「あなたの夫をここに呼んできなさい。」(16)とおっしゃったのです。彼女が隠しておきたい人生の恥部、その罪を指摘なさったのです。彼女はしどろもどろに「私には夫はありません」と言いましたが、イエス様は全部ご存知で、彼女がしてきたことをおっしゃいました。

 

 イエス様がくださる生ける水は実にすばらしい水です。聖霊です。それは飲めばほんとうにたましいを潤し、もはや渇くことがないのです。もうあれやこれやむなしいものを求める必要はありません。それどころか、この水を飲めば周囲をも潤すような人生を送ることができるのです。 けれども、それをいただくには準備をしなければならないとJesus様はおっしゃっているのです。準備とは、主の御前に自分の罪を認めて告白することです。あの人が、この人が、というのは横において、「神様の前で私の罪は」と考えるのです。

 あなたにはこのサマリヤの女のような問題は、あるいはないかもしれません。けれども、人には誰にも言えない、自分でも認めたくないような罪や弱さがあるものです。それをイエス様の所にもってくることです。

 

(2)イエス様を救い主、神の御子と信じて受け入れる

 このあと礼拝の場所をめぐってのちょっと面倒な問答があります。ユダヤ人はエルサレム神殿で礼拝を捧げるのが正統であるといい、サマリヤ人はゲリジム山で礼拝をささげると言ってきた。今日はくわしく立ち入って説明することはしません。

肝心な点だけ申しますと、エス様の時代、新約時代が来たからには、地球上の特定の場所ではなく、世界中で、霊とまことによる礼拝がささげられるのだとおっしゃるのです。

つまり、エス様が来られ、世界中の民族が肌の色や言葉や国籍を超えて、真の神様を礼拝する時代が来たのだとおっしゃっているのです

 その宣言があまりにもすごい内容なので、こんなことを宣言する権限があるのは、数千年待ち望まれた救い主キリストだけだろうと女は思いました。25節。するとイエス様はこともなげに「あなたと話しているこのわたしがそれです。」とおっしゃったのです。私がその救い主キリストであるとおっしゃるのです。

 まことの神は、万物の創造主でありますから、日本の神、アメリカの神、イタリヤの神、インドの神がいるわけではありません。すべての民族国語を超えて、すべての民族をおつくりになったお方が、真の神であり、世界中の人々がこのお方にこそ礼拝するときが来ているのです。イエス様は、そのことを宣言する救い主です。

 

むすび

 イエス様から聖霊をいただくために必要なことは、結局、己の罪を認めて、イエス様こそ救い主キリストであると信じることにほかなりません。イエスさまは神様の前に「ごめんなさい」という人のために十字架にかかって償いをしてくださり、その償いが成し遂げられたことの証拠として三日目に復活されました。神様の前にごめんなさいと頭をさげ、イエス様という救い主をありがとうございますと受け取るならば、あなたも、永遠のいのちへの水が、腹の底から湧き上がってくる素晴らしい人生に入ることができます。