水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

ラケルの死、イサクの死

創世記35:16-29   

2017年3月19日 苫小牧夕拝

 

 ここには二人の親の死が記されています。ヨセフとベニヤミンの母ラケルの死と、エサウとヤコブの父イサクの死です。それぞれに親として子を思う情愛を痛切に感じさせる場面です。

 

1.ラケルの死――ベン・オニでなくベニヤミン

 

 ラケルという女性の最期を記す個所ですから、彼女の生涯を振り返って見ましょう。一言でいえばラケルは、たいへん女性らしい女性でした。ラケルはその魅力も、その短所も女性らしい女性でした。ヤコブは、そのラケルの女らしさに惹かれたのでしょう。

 ラケルの信仰という面についていえば、特筆されるような素晴らしいことは、はっきり言ってほとんど見えません。彼女はもちろん真の神を知り信じていましたが、残念ながらその信仰にはパダン・アラムの地の迷信的な部分も含まれていたようです。彼女はヤコブとともにカナンに向かう時、父親のテラフィムをくすねてきたとあります。決して誉められたことではありません。

 ラケルはヤコブとパダン・アラムの井戸で出会いました。そして、ヤコブは一目惚れして接吻し、ラケルもヤコブに好意を抱くようになりました。相思相愛の二人は七年後、結婚するのですが、こまったことに父の策略にはめられて姉レアもいっしょに結婚することになってしまいました。ラケルはヤコブに愛されましたが、それでも姉レアを激しく嫉妬しました。姉レアがヤコブの子どもを次々に生んだからです。それでラケルは結婚した当初から、ひたすらヤコブのために子どもを生むことを切実に願い、そのために涙を流したり、怒ったり、そしてついには命まで差し出したのでした。

 ラケルは夫ヤコブに愛されていることだけで満足できず、子を得ることでも姉レアに勝ちたいと願いましたが、不幸なことに、どうもラケルは多くの子どもを生めるほど丈夫な体質ではなかったようです。おそらく多産な姉レアは体格もがっしりとして牝牛を思わせるようなタイプで、ラケルはその名が雌羊を意味するように体格はきゃしゃだったのでしょう。

 そんなラケルでしたが、おそらく結婚後十数年もたって、ついに一人の男の子ヨセフを得ました。30:22‐24。どれほどの喜びだったことでしょう。ヨセフという名は「加える(アサフ)」という意味の名前で、「神様がもう一人の子を加えてくださるように」というラケルの願いがこめられた名前でした。つまり、ヨセフだけでなく、もう一人生まれますようにということです。

 そして、願いどおりに、さらに数年後、もう一人の子がラケルのおなかに宿りました。一族がヤコブの故郷に帰り着いて間もない頃のことでした。ラケルはもちろん喜んだでしょう。けれども、生来それほどからだの丈夫でなかったラケルのからだには、高齢出産はたいへんこたえました。しかも、ヤコブの一家は半分は遊牧の生活ですから、水場、草地をもとめてしばしば移動をしなければならないのが宿命でした。身重なラケルにとっては、それがたいへんだったようです。

 ベテルを旅立ち、エフラテに行く道の途中で激しい陣痛がラケルを襲いました。ヤコブは大慌てで仮の産屋を作り、出産となったわけです。産屋から何時間も何時間も聞こえ続けるラケルの苦しみの叫びがしても、男親であるヤコブがなすすべもなく、産屋の前を右に左にうろうろし、座り込んでは頭を抱えているありさまが目に浮かぶようです。

 たいへんな難産でした。長い長い時間がかかって、ようやく赤ん坊が出てきてオギャアと声を上げました。男の子でした。「心配なさるな。今度も男の子です。」と産婆さんが息も絶え絶えの母ラケルに声をかけました。

 赤ちゃんは生まれたけれど、ラケルのいのちが危ないことに気づいた産婆はヤコブを呼びました。「ご主人様、奥様が、奥様が!」ヤコブは慌てて産屋に入ってきます。すると、意識の薄くなっていくラケルが「ベンオニ(わたしの苦しみの子)・・・」とつぶやいて、息を引き取ってしまったのです。恋女房の死にヤコブがどれほど嘆いたことか、想像に余りありますが、聖書は沈黙しています。行間からヤコブの号泣が聞こえてきそうです。沈黙が、その嘆きの大きさをまざまざと表現しています。

 ヤコブは、生まれたばかりの我が子を抱いてヤコブは「ベンオニ」と呼びかけようとして、「いや」とかぶりをふって言いました。「いや、ベニヤミン!」と。その意味は、「幸いの子、わが右手の子」。最愛の妻ラケルがそのいのちに代えて生み出した子であり、その苦しみも嘆きも尋常でなかったのです。さればこそ、この子は母の苦しみを幸いにかえて生きて欲しいという父の願いでした。

 

 このベツレヘムの母ラケルの嘆きはこんな三節だけにすぎませんが、後々まで伝えられて預言者エレミヤも用い、そして、2000年後、ベツレヘムヘロデ大王によって三歳以下の子どもが虐殺されてしまったときにも、このラケルの嘆きが引用されています。

「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声、ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」(マタイ2:18)

 ラケルという名は聖書では、わが子を思い、わが子のために苦しみ嘆く母のイメージなのでしょう。 「もう一人の子を加えてください」という祈りに主はお答えになったのであり、この子と引き換えにラケルのいのちは召し上げられたのでした。ラケルの生涯は、妻として夫に子を設けることをもって貫かれ、そのためにいのちまでも差し出すことをもって全うされたのでした。

 

 アダムとエバが堕落したとき、神は女性に向かって一つの呪いのことばをかけられました。「わたしはあなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子をうまなければならない。」このことばは、すべての母となろうとする女性にかけられているのですが、ラケルにおいては最も典型的にこの苦しみが経験されたのでした。

 ラケルはたいへん女性らしい女性であると申しました。それは必ずしも良い意味ではありませんでした。しかし、ラケルの女性らしさは、この死の瞬間の嘆きのなかで最も輝いたともいえます。我が子を地上に生み出すために、おのれの命さえも危険にさらし、あるいはあえて差し出すという女性のみがなしえる犠牲的愛ですラケルは女性としての弱さもたくさんもった女性でしたが、子のためにいのちを犠牲とするという母の愛の典型的な姿をもあらわしたのです。

  地上において最も神の愛に近い姿をしているのが、母の愛であるといわれます。子のためであれば、自分のいのちも進んで差し出すような愛。そこに、私たち罪人のためにいのちをお捨てになったキリストの愛に似たものがあるのです。ラケルの嘆きと死は、そういう意味ではキリストの十字架の受難の型でした。

 

2.イサクは「高齢のうちに、満ち足りて」死んだ(新共同訳)

 

 27-29節.イサクは180歳にして主のもとに召されました。29節のことばは、翻訳によってやや異なる。

新改訳では「イサクは息が絶えて死んだ。彼は年老いて長寿をまっとうして自分の民に加えられた。彼の子エサウとヤコブが彼を葬った。」

口語訳では「イサクは年老い、日満ちて息絶え、死んで、その民に加えられた。その子エサウとヤコブとは、これを葬った。」

新共同訳では「イサクは息を引き取り、高齢のうちに満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子のエサウとヤコブが彼を葬った。」

 ここでは新共同訳を採りたい。「満ち足りて」と約されるサベーアということばは、満足させる、満ちたらせるということ。

 息子たちが仲たがいをしていたときには、イサクはたいそう心配したでしょう。自分の親としての至らなさが、こういう結果を生んだことを思えば、毎日毎日、慙愧の念にさいなまれたことでしょう。しかし、今や「イサクは満ち足りて死んだ」とあります。それは、二人の息子エサウとヤコブとが仲直りをし、二人で自分を見送ってくれるからです。イサクとリベカが何かをしたのではありません。彼ら夫婦は子育てについていろ失敗が多かったのです。しかし、ただ、神様がヤコブをこの地に連れ戻してくださり、ただ神様が二人を仲直りさせてくださったのです。神の恵みというほかありません。彼は神の恵みによって満ち足りていたのです。

 イサクとリベカ夫婦は、父は兄エサウをえこひいきし、母は弟ヤコブをえこひいきしました。そこに彼らの子育て、兄弟関係つくりには大きな過ちがありました。そのために息子たちが仲たがいをして、弟息子は家出同然になってしまったのです。しかし、こうした親の過ちにもかかわらず、神様は最後にこの二人の息子たちに和解を恵んでくださいました。もし二人が憎み合っているという状態のまま、イサクが世を去らねばならなかったとしたら、それはほんとうに残念なことだったでしょう。心残りだったでしょう。しかし、主がこの二人に和解を恵んでくださったので、これは父イサクにとって何よりの慰めでした。まさにイサクは満ち足りて死んだのです。

 

 親として世を去るときに、一番気がかりなのは子どもたちの行く末のことです。親孝行は人間にとって神がお与えになった義務です。親があなたのことが心配で死んでも死にきれぬようなことのないように生きることはたいせつなこと。特に親の心配の一つは、子どもたちが仲良く生きて欲しいということでしょう。親は自分が生きている間は、なんとか保たれている子どもたちであっても、自分が去った後にはどうなることかと心配で仕方ないというケースも少なくありません。

 小海で会堂を建ててくださった大工の棟梁とお話をしていたら、ご自分には二人の息子がいるけれども、弟は大工になるが、兄貴には大工は決してさせないと言われました。それは先代の家訓だそうです。兄弟が同業者となるならば、いずれ利害をめぐる醜い争いが起こりかねないからです。親はこんな風に配慮、心配をするものです。 事実、親の葬式のときに財産の相続争いを始める親不孝な子どもたちはいくらでもいます。

 「あなたの父母を敬え」と十戒の第五番目にありますが、その実践の一つは兄弟仲良くするということです。神を愛しているというならば、兄弟とけんかして親を悲しませてはいけません。キリストを信じているというならば、姉妹同士が陰口を言い合うようでは親の心はどれほど悲しむことでしょう。近くに住む兄弟もいるだろう、遠くに住む姉妹もいるかもしれない。もし恨まれるようなことが思い当たったら、先にクリスチャンになったあなたの方から和解することが義務です。これが神様から皆さんへの今週の宿題である。

 

結び

 幼い頃から仲の悪かった息子たちの数十年ぶりの和解をみて、心満ち足りて世を去ったイサクの幸いな最期。自分のいのちと引き換えに、我が子を生み出したラケルの壮絶な最期。一見すると、ずいぶん異なる二つの死の姿ですが、子を思う親の死の姿として尊いものだと思います。そして、いずれにもそこには父なる神が、子としてくださった私たちに対して注いでくださっている愛の姿の影がほのみえるのです。

 「愛は神から出ているのです。」とありますから、すべての愛は神の賜物なのです。もちろん人間の愛は、不完全で小さく罪のしみさえもこびりついているようなものにすぎませんが、それでも神の愛の影なのです。

 我が子のためにいのちを投げ出した母ラケルの愛は、神から注がれている愛の影を見るのです。私たちのために十字架にいのちを投げ出してくださった御子イエス様の愛を。

 不完全な父イサクは、我が子たちの仲たがいに晩年心痛め続け、ついに恩寵によって子たちの和解をみて満ち足りて世をさりました。子どもたちが互いに愛し合って生きることを切望する父なる神の愛を思わされます。