水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

ことばの真実

マタイ福音書5章33節から42節

33**,また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

34**,しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。

35**,地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。

36**,自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。

37**,あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。

 

 

 イエス様は、イエス様の弟子の生き方は、当時のユダヤ社会の宗教的道徳的指導者であったパリサイ人や律法学者の正しさに勝っていなければならないと言われて、その実例を順にあげて来られました。

 パリサイ人、律法学者たちは「殺してはならない。」と教えて、刺し殺したり撃ち殺したりする具体的な殺人を禁じました。けれども、主イエスの弟子は、人に殺意を抱き、馬鹿者と怒りを爆発させて暴言を吐いたたなら、神の前にそれは言葉による殺人であり、それはすでに神の前に人殺しをしたことになることをわきまえて、悔い改め、仲直りすべきです。

 また、「姦淫をしてはならない」とパリサイ人、律法学者は教えました。しかし、イエスの弟子は情欲をもって人妻を見るならば、神の前ではすでに姦淫を犯したのだということをわきまえなさい、ということでした。つまり、霊である神様は私たちの心の中までご覧になっているのだから、うわべでなく心を神様にきよくしていただかねばならないというのです。

 パリサイ人、律法学者の義というのは、外側に現れた行ないにおいて、律法の文言と辻褄があっていればよいという教えだけれど、イエス様は、神様はあなたの心の中をご覧になっているのだとおっしゃるのです。人殺し、盗み、姦淫、不品行などさまざまな罪は、人の心の内側から湧き上がって出てくるものですから、その心の一番深いところをきよくしないかぎりは、行いが清くなることはありません。

 本日の箇所は、その心の中から出てくる、私たちのことばの問題、誓いについてイエス様はお話になります。

 

 

1 「誓ってはならない」

 

(1)当時のユダヤ社会での「誓い」の軽々しさ

さて、主イエスは「誓ってはならない」と言われました。

33**,また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』という教えはは、当然のことでしょう。たとえば、私たちは結婚式において、「浮気をしないで誠実に夫として妻としての務めを果たします」と誓約をします。また、学校に入学するときには「真面目に学業にはげみます」と誓約書を出します。あるいは借家に住もうとするときには、「家賃をちゃんと納めます」と誓約書を求められます。あるいは教会でも、洗礼や転入会によって教会に入会するにあたっては、「聖霊様の助けによって、教会の純潔と一致と平和のために祈り、主日礼拝をささげることをはじめとして、誠実に教会員としての義務を果たします」と誓約します。偽って誓ってはならない。誓ったことを主に果たすことは大事なことです。

 

けれども、イエス様はあえておっしゃいました。「34,しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。35,地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。36,自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。」

なぜ、主イエスはこんな極端とも思えることを教えられたのでしょう。主イエスのことばを正しく理解するためには、当時のユダヤの人々が日常生活の中での軽々しい誓いの習慣と、それをある意味助けてしまっていたパリサイ人、律法学者の教えについて知らないといけません。次のことばの二重括弧内は、当時のパリサイ人、律法学者が教えていたことです。マタイ23章16ー22節。

16,わざわいだ、目の見えない案内人たち。おまえたちは言っている。『だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』

17,愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。

18,また、おまえたちは言っている。『だれでも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』

19,目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。

20,祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。

21,また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。

22,天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。

 

当時のユダヤの人々は日常会話の中で「何々にかけて誓う」と軽々しく話していました。あまりにも軽々しく、そういうことば遣いがなされていたので、パリサイ人、律法学者たちは、それは良くないなあと考えたのでしょう。「何々」によって、誓いを果たさなければならない場合と、誓いを果たす義務がない場合とを区別していたのです。その教えにしたがって、人々は「神殿にかけて」「祭壇にかけて」守るつもりもない約束をしていたということです。しかし、イエス様は、天であれ地であれエルサレムであれ、自分の頭であれ、神殿であれ、神殿の黄金であれ、祭壇であれ、祭壇のささげものであれ、何にかけて誓ったとしても、それはすべて神の前に誓ったことであるとおっしゃるのです。守るべき約束と守らないでもよい約束はなく、すべての約束は果たさねばならないのだ、守るつもりがないならば、最初から誓うなとおっしゃっているのです。要するに、「あなたがたが口から出す誓約、約束のことばは、すべて神の前になした約束なのだと。破ってよい誓いなどない」とイエス様はおっしゃるのです。つまり、ことばの真実のたいせつさを訴えていらっしゃるのです。

 

(2)正当な誓い

 では、新約聖書は一切の誓約行為を禁止しているのでしょうか。学校に入るとき、教会んになるとき、結婚をするとき、家を借りる時など私たちは大切なことがらについて、誓約書を求められますが、キリスト者はこれらに一切応じてはならないということでしょうか。そのように、解釈し、社会的不利益をあえて受け入れたキリスト者たちもいました。み言葉に対して誠実でありたいという気持ちは立派だと思います。

 けれども、主イエスが教えようとなさったのは、全面的な誓約の禁止ではないようです。新約聖書の手紙の中で、使徒パウロは、神様を証人として、誓いをしています。たとえば

2コリント1:23「私は自分のいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたへの思いやりからです。」

 こうしたところを見ると、イエス様がおっしゃる「誓ってはならない」ということは、当時のあまりにも軽々しい誓いに対することば遣いを戒めたものと判断するのが、穏当であろうと思います。「言葉の真実」がどんなに大事なことなのかということを、徹底的に教えようとされる強調表現であると理解すべきだということになるでしょう。私たちが日常生活の中で、奥さんを相手に、子供を相手に、友達を相手にする、どんな約束も、破ってよい約束などない。すべての約束は神の前の約束なのです。だから軽々しく誓ってはならない。キリスト者としては、心の中の表れとしてのことばと、その行いが一つになるように生きるべきです。ことばを軽んじてはなりません。

 

2 ウソについて

 

(1)ウソの父は悪魔である

 ところで、イエス様が、語ることばに真実に生きることが重要であると教えられた理由の一つは、ことばの不真実、つまり、嘘というものが悪魔から出たものであるからです。嘘を言うとき、人はすでに悪魔の罠に陥っているのです。ヨハネ福音書8章44節で、主イエスはおっしゃいました。

「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。

 ウソは悪魔から出ているのです。神様が人間夫婦を造られたとき、善悪の知識の木を園の中央に生えさせました。「園にあるほかのすべての木からはとって食べることは自由だけれど、この木からだけは食べてはいけない。食べたら、かならず死ぬ」と神はおっしゃいました。死とは神と分離してしまうことです。一本の木だけが留保された意図は、人間は、神様の主権の下で、おのれの分をわきまえつつ、この世界のすべてのよきものを享受しながら、幸福になることを望まれたのです。

 ところが悪魔がやってきて、人間にささやきました。悪魔は、「神はケチなのだ。実は、人間に幸せになってほしくないと思っている。」という嘘を吹き込みました。神は良いお方ではないという嘘を吹き込みました。そして、人間に神に背かせようと誘惑しました。私たちの最初の先祖は、与えられた自由意思を悪用して、神の戒めにそむいて、罪と死と悲惨の中に陥ってしまいました。その罪と死と悲惨は、今日に及んでいます。悪魔のウソのわなにまんまとかかってしまった結果です。

 

 人間は、神のかたちにおいて造られたので、人間の心の中には善悪の判断基準である良心があります。ですから、何か嘘をつくと、良心の痛みを感じ、ドキドキしたりするものです。けれども、悪魔はちがいます。「悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」と主イエスがおっしゃったように、悪魔は根っからの嘘つきなので、うそをついてもなんの良心の呵責も感じないで、まるで息でもするように嘘ばかり言うのです。また悪魔は今日でも私たちの内側に、神の真実な愛を疑わせようとします。苦難のただなかにある時、悪魔は目には見えませんが、あなたの耳元で「神は、本当は悪意に満ちているんじゃないか。あなたのことを愛してなんかいないのではないか?」とささやきます。

 また、イエス様は「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。自分の宝は天に蓄えなさい。」とおっしゃいましたが、悪魔は「イエスの言うのは嘘だよ。結局、カネが一番大事なんだよ。地上に富をたくわえることが、幸福の秘訣だよ。」とささやきます。多くの人は、悪魔の誘惑に乗せられて、お金が人生で一番大事なものであるかのように思い込み、神様に背を向け真実も愛も犠牲にして、永遠の滅びに向かって歩んでいます。

 

(2)ウソの招く結果

嘘は嘘を呼ぶ

 一つ嘘をつくと、その嘘をごまかすために、さらに嘘を言わねばならなくなり、そのまた嘘をごまかすためにさらに嘘を言わねばならなくなります。もし、唇が嘘をついてしまったら、恥ずかしいことですが、すぐに「ごめんなさい。今、口にしたことは嘘です。ゆるしてください。」とストップしなければなりません。ストップしないと、嘘を嘘で上塗りし続けて、あなたの人生は一から十までウソまみれということになります。そして、そのうち、誰からも信用されず、軽蔑されるようになります。

 

②嘘は現実を見えなくさせてしまう

 嘘の恐ろしさの第二は、嘘をついていると、だまされた人ばかりか、本人までも、現実が見えなくなることです。現実が見えないので、現実に即した正しい判断と行動ができなくなってしまいます。覚せい剤の入った瓶に、「これを飲むと元気になります。」と嘘が書かれていたならば、飲んですぐは「ああ、元気になった」と感じて、それを続けているうち、その人は中毒になって、人生は破滅でしょう。

 国の経済に関していえば、国の経済指標が、ここ20年悪化しているということを示しているのに、都合の悪い数字はひたすら隠して、都合の良い数字だけ並べて、「我々の素晴らしい経済政策によって景気は良い方向に向かっています」と政府が大本営発表ばかりしていると、現実を認めないので政策を転換すべきタイミングを失い、その国の経済は転落して、ついには取り返しがつかなくなるでしょう。ウソはストップしないと、取り返しがつかなくなるのです。

 

③嘘は周囲を悲惨に巻き込む

 本人だけが嘘をついている分には、本人が信用を失うだけですみますが、その人が権力を持つ立場にあると、周囲の人々までも、その嘘に付き合わされることになってしまいます。私たちは、権力者のウソを糊塗するために、一人のまじめな大阪の公務員が公文書の改ざんを命じられて、良心の呵責から自らのいのちを断つということになったことを知っています。今も、官僚たちが、職を失わないために、権力のウソに付き合わされて、国民が見ている前で、悲惨な答弁をさせられています。

 私たちの国は、70年前うその支払う代価がいかに悲惨なものかということを経験したはずです。当時、「退却」を「転進」と言い換え、「全滅」を「玉砕」と言い換える「大本営発表」によって欺かれた国民は、旅ネズミの暴走のように破滅へ突き進んだのです。先の戦争で失われた生命は、わが国で300万人、アジアで2000万人でした。

 しかし、現代の歴史修正主義者は、こうした過去の事実をも否定するので、歴史から何の教訓もえられません。

 

④嘘つきの最後はゲヘナである

 そして、すべて偽りをいう者は、神様の前で最終的にはどうなるでしょうか。このように書かれています。「すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」ヨハネ黙示録21章6-8節

 

結論 「はい」は「はい」。「いいえ」は「いいえ」
 イエス様は、当時のユダヤ社会の中で、人々がことばの真実を失い、誓いという人生における重要なことがらに関して、ペラペラといい加減なことばの使い方をしているので、心を痛められました。それで、「誓ってはならない」とおっしゃったのです。そして、言われます。

37,あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。

 「はい」を「いいえ」と言い、「いいえ」を「はい」と言い張ることを嘘といいます。あったことをなかったことのように主張し、なかったことをあったことのようにいう「歴史修正主義」は、主イエスの道から外れた道です。

 私たち、イエス様の弟子として召された者は、「はい」は「はい」。「いいえ」は「いいえ」として生きてゆきたいと思います。

 まして軽々しく誓うことは避けましょう。人生の途上、たいせつな場面で誓約が必要なことがありましょう。その場合には、その誓約を誠実に守ることができるように、神様に祈りながら誓うことが必要です。


 今日の主イエスの教えを味わいながら思い起こしたのは、三浦綾子さんの『道ありき』の中での前川正さんのことばです。前川さんは、結核になり入院している綾子さんをたびたびお見舞いに来ました。前川さんは、帰り際に、「綾ちゃん、明日も来ます。あ、でも約束ではありませんよ。明日何が起こって来られなくなるかもしれませんから。」とおっしゃったということです。でも、前川さんは必ず来たそうです。

 自分はことばが軽いなあと改めて反省します。主イエスが教えられたように、ことばの真実に生きたいと思うものです。

 





御霊と知性

1コリント2章10節から3章3節  

 

1 御霊によって悟ること 

 

私たちは聖書を開くとき、御霊の光を求める祈りをします。御霊によらなければ、御霊の啓示された真理を悟ることができないからです。今日は、このことについて。

「2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」

 「これを」というのは、「十字架のことば」つまり、神の御子が十字架の死によって罪の贖いを成し遂げてくださったという真理です。この真理は世の始まる前から、神の内に隠されていた、奥義なのでした。この奥義は、サタンたちさえも知らず、この世の知恵の知りうるところではありません。だからこそ、サタンたちはキリストの人類救済のための贖罪のわざの手伝いをしたのです。イエスが神の御子であること、そしてイエスが十字架にかかることによって私たちが救われるという真理が理解できるのは、実に、御霊によることです。

 ペテロが始めてカイザリヤで信仰告白したときも、主イエスは、おっしゃいました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」(Mt16:17)

 

2 神のみこころを知るためには

 

「 2:11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」

 人の体重を知ったり、顔立ちを知ったりするのは外から見ればわかることです。しかし、その人の心を知るには、その人がその心を開いて話してくれてはじめて可能なことです。同様に、神のみこころを知るには、神の御霊自身によるほかありません。ここに啓示が必要であり、私たちが神のみこころを知るために御霊を受ける必要がある理由があります。

「 2:12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。」

 また、御霊について説き明かすについても、御霊のくださったことばが必要です。 「2:13 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」

 

3 人間の三つの状態

 

 以下に、人間には御霊との関係において三通りの状態があることが記されています。

第一は「生まれながらの人間」

「 2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」

 

第二は「御霊を受けている人」

 「2:15 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。 2:16 いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。」

 この第二の御霊を受けている人とは要するにクリスチャンのことですが、クリスチャンには二通りの状態があります。

 

一つは、「肉に属する人」「キリストにある幼子」です。

  「3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。 3:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。 3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」

このように肉に属するキリストにある幼児は、嫉みや争いがある人たちです。言い換えると、クリスチャンだけれども、御霊の実を結んでいないクリスチャンです。

 

 そして、キリスト者として望ましい状態は、「御霊に属する人」です。これは御霊を受け、御霊のご支配を受けている人です。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」というキリスト的品性を備えるようになった成人としてのクリスチャンです。

 このように成長成熟したいものですね。

人の知恵、神の知恵

1コリント2:1-9

 

 

1.パウロの宣教

 

「2:1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。」

パウロはご存知のようにガマリエル門下の俊才で学識のある人でしたが、彼はコリント宣教に当ってはそうした知識を用いませんでした。かえって、「 2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」

 コリント教会の場合、ギリシャ哲学の文化的背景があるだけに、いろいろと理論的・哲学的な言い回しで教えようとすれば、話が通じそうでした。しかし、実際には逆にキリストの福音がある種の哲学思想のひとつであると誤解されてしまう可能性が高かったからであろうと思われます。コリントを訪ねる前に、使徒17章でパウロは哲学の都アテネで、いささか哲学的な言い回しも用いて伝道して、あまり成果があげられなかったという苦い経験をしたからではないかと推測する説には説得力があります。

 パウロギリシャの知識人が喜びそうな気の利いた哲学のことばでなく、つい先ごろエルサレムで起こったイエスの十字架刑という事実とその意義をはっきりと単純に語ることにしたのです。

 「2:3 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。」というのは、パウロは手紙は力強いのですが、風采がさえませんでしたし、雄弁な人ではなかったようです(2コリント10:10)。しかし、そういうさえない説教者でありましたが、彼が語る十字架のことばによって、コリントの人々は目が開かれ、聖霊に導かれてイエスを主キリストであると信じたのです。

 「2:4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。 2:5 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」

 パウロが雄弁であったり、哲学者もうならせるような思弁を用いたならば、世の人はパウロの説得力や学識によってコリントの人々が救いに導かれたのだと思うでしょうが、実際にはパウロは雄弁でもなく、哲学的思弁をもちいなかったので、ただ神の力、御霊の力によって人々が回心したのだということがあかしされるのです。

 こうしたことは往々にしてあることです。ラジオ牧師羽鳥明先生の弟羽鳥純二先生の改心は、まさにそうでした。羽鳥純二先生は当時共産党赤旗」の記者、東京大学を出た理論家でしたが、共産党内の醜いどこにでもある権力闘争に失望して党をやめてお兄さんの家にひきこもっていました。ある時、伝道会があって青森から招いた伝道者がエス様の単純な十字架の福音を東北弁でお話したそうです。そして純二先生は悔い改めて救われました。

 

2.神の知恵

では、パウロは幼稚な宣教をするというのでしょうか。いいえ。そうではなく、成熟したキリスト者の間では神の知恵を語ります。「2:6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。 2:7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。」

 神の知恵とは、聖なる神の御子の十字架の死と復活によって、罪人が贖われて救われるという知恵です。その知恵は、「この世の支配者たち」にはわからないことでした。「この世の支配者たち」というのは、ユダヤの祭司長・長老たちであり、彼らがイエスを引き渡したローマ総督ピラトです。彼らは、イエスを処刑することが人類の救いの道を開くことになろうとはつゆ知らなかったのです。神に敵対するこの世の権力者たちの背後には、悪魔を頂点とする悪しき諸霊の階級をさしているという思想も聖書には見られます。

もしサタンどもが、イエスを殺すことが人類を救うことだと知っていたならば、人間どもを動かして、イエスを十字架に磔にすることはなかったでしょう。「2:8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」

 イエス・キリストの十字架による罪の贖い、罪の赦しと救い、永遠の生命というのは、人間も、人間に何倍にもまさるサタンにも思いつかないことだったのです。

 2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。

   「目が見たことのないもの、

   耳が聞いたことのないもの、

   そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。

   神を愛する者のために、

   神の備えてくださったものは、みなそうである。」

 それは、人間の説得力や学識でなく、聖霊のみわざでした。それゆえ、神のご栄光があらわされたのです。

 

結び 私たちは、「十字架と復活の福音なんて、あの人はだめでしょう。」と傲慢にも勝手な判断をして、人に福音を語ることを躊躇することはないでしょうか?不信仰です。主の御霊に信頼して、十字架のことばを宣べ伝えてまいりましょう。

十字架のことば

1コリント1:18

 

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」1コリント1:18

 

序.人類を二分することば

 なんと強烈なことばでしょうか。このことばは人類を滅びにいたる人々と、救いを受ける人々とにすっぱりと二分してしまうのです。「人類みな兄弟」ということばが好きな現代人は、「だからキリスト教は独善的なのだ」と怒り出すかもしれません。けれども、カッカする前に聖書のいう意味を冷静に聞いてみましょう。まず滅びとはなにか。次に、救いとはなんでしょうか。そして十字架のことば、神の力とは。

 

1.滅び

 

聖書でいう「滅び」とは、創造主との人格的交わりから切り離されている状態を意味しています。神との断絶です。だから、たとえ地位もお金も名誉もあって、健康で、なに不自由なく、一見楽しそうな生活としている人であっても、創造主である神に意識的に背を向けたり、あるいは神さまに無関心でいたりするなら、北斗の拳のセリフではありませんが、「お前はすでに死んでいる」のです。「あなたがたは、かつて罪と罪過のなかに死んでいた」(エペソ2:1)とも聖書は表現しています。もちろん、肉体は生きているのですが、いのちの源である神様との関係が切れてしまっているので、死んでいるというのです。

この季節、そろそろこの寒い小海でも梅のつぼみが膨らみ始めました。あのつぼみがたくさんついた枝を切って、花瓶に差して暖かい部屋においておけば、やがて美しい花が咲くでしょう。けれども、梅の実は実るでしょうか。実ったら梅干を作ることができるでしょうか。いいえ。決して花は実を実らせることなく、花は枯れてしまいます。あだ花になってしまいます。なぜですか。それは命のもとである木の幹から切り離されているからです。うわべは生きているように見えますが、実はすでに死んでいるからです。

同様に、いのちの源である神様との関係が切れている人つまり滅びている人も、うわべは生きているように見えます。むしろ、かえって神様に背を向けている人は心にむなしさと不安を抱えているので、その現実から目をそらすために、血眼になって趣味・仕事・金儲け・おしゃれ・宗教・哲学など夢中になれるものを探し回るので、一見はでに花を咲かせていたりするかもしれません。けれども、どんなに求めてもやはり空しい。いのちがないからです。どんなに美しく咲いていたとしても、それはあだ花だからです。やがて枯れて、焼かれてしまうからです。本来、すべての人は、神との人格的交流のうちに喜びと平安を得るように造られているのに、神と断絶しているからです。人の心には神以外の何者をもってしても埋めることのできない空洞があるのです。

そして、創造主など関係ないという生きかたを選んだ人は、やがて必ず訪れる肉体の死後も、自らが望んだように、神から隔絶されたむなしい、たましいの渇きの場所である死者の国に永久に住むことになります。金持ちとラザロの話を以前に学びましたが、神を恐れぬ金持ちはよみに落ちたとき、彼はのどが渇いて渇いてしかたなくて、たとえ一滴の水でもよいから、この渇いてひりひりする舌にたらして欲しいと願ったとあります。あの渇きはなんだろうと思いめぐらすと、きっと魂のかわきを意味しているのでしょう。あの金持ちは、この世にあっては神に背を向けて、金儲けに狂奔し、贅沢三昧をすることで魂の渇きをごまかすことができたのですが、地獄にはビタ一文もって行くことはできません。人は、未来永劫つづく渇きの炎の中に落とされてしまうと、もはやごまかしはきかず、その魂の渇きはいやしがたいのです。いっそ死んでしまいたいのですが、すでに死んでしまっているので死ぬこともできません。

滅びとは、いのちの源である神との断絶であるゆえに死であり、それは、底知れずむなしく、かわくことなのです。

 

2.救い

 

 では、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1:18)ということばの「救い」とはなんであると聖書は語っているでしょうか。

救いとは、神との断絶を意味する「滅び」とは反対に、神とともに生きる人生を意味しています。その人はもしかすると経済的に豊かかもしれないし、あるいは貧しいかもしれません。立派な肩書きや地位があるかもしれないし、まったくないかもしれません。健康であるかもしれないし、病気かもしれません。そんなことは救いの本質とは関係がないことです。お金や才能や地位や健康はあったらよいことですが、もしそれが与えられているならば、それをどんなふうに神を愛し隣人を愛するために活用するかを神様の前に責任を問われるわけです。それはともかく、救いとは、創造主である神と人格的な交流のある生活なのです。救われた人は、万物の創造主である神が自分とともにいてくださって、人生を守り導いてくださることを確信しています。

たしかにクリスチャンの人生にも嬉しいこと楽しいことばかりでなく、つらいこともあります。けれども、神とともに生きる「救われた人生」には充実感平安喜びがあるものです。

神とともに生きる人生に充実感です。むなしくありません。神に背を向けた滅びた人生は、あだ花なのでむなしいものですが、神とともに生きる人生は、途上に嵐の日や日照りの日がかりにあったとしても、最後には必ず天国で実りが収穫できるからむなしくありません。「彼らのよい行いは彼らについていくからである。」と黙示録にあります。私たちのこの世における神を愛し隣人を愛するためにした、小さな行いも、神様は覚えていて「よくやった。よい忠実なしもべだ。」とほめてくださいます。

また神とともに生きる人生には平安があるというのは、大船に乗った心地とでもいえばいいでしょうか。万物の創造主にして支配者であるお方が、私のことをご自分の瞳のように守って人生を導いていてくださるのですから、たとえ今病気であったり貧しかったり、あるいはかりに死ぬことがあっても、最終的に決して悪いようにはなさることがありえないからです。時には、自分の人生設計がうまくいかなくて、大きな挫折を経験することがあるかもしれませんが、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださる」と知っているから、平安があるのです。

それにしても、救われた人にも、いずれは死が訪れます。『人には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている』からです。しかし、その死も、救われた人にとってはまた益なのです。同盟教団教理問答43番

キリスト者のさばきとは何ですか。

答え 神の御前で、キリストによる無罪が言い渡され、永遠に神とともに生きることが許されるためのさばきです。」

すばらしいでしょう。その日、私たちは生まれてこの方、心につぶやいたこと、口で言ったこと、手で行なったことを逐一調べ上げられ、目の当たりにさせられて、自分はなんと多くの罪を犯してきたことかと愕然とするでしょう。神様のためにした行いがなんと少なかったなあとがっかりし、「ああ私には地獄こそふさわしい」と思うかもしれません。けれども、神はおっしゃるのです。「たしかにあなたはこれらの罪を犯してきたが、あなたはイエス・キリストを信じていた。あなたの罪の罰は、すでにイエス・キリストが背負って死んだのだ。あなたはもう許されている。安心して永遠の祝福に入りなさい。」

ですから、キリスト者にとってはまさに「 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」この世での使命を果たし、走るべき道のりを走り終えれば、天国の栄光の義の冠が待っているのです。

 

 3 十字架のことばは神の力

 

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」1コリント1:18

 

では、人類を二分してしまう「十字架のことば」とはなんでしょうか。それは、「神の御子イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架に死んでくださり、三日目によみがえられた。」という福音のことです。

最初の人が堕落して以来、すべての人には罪があります。嘘をついたり、人の幸福をねたんだり、人の悪口を言ったり、神などいるものかと暴言を吐いたり、盗んだり、人のものを欲しがったり、親不孝したり、配偶者以外の異性に情欲をいだいたりと、私たちは日々罪を積み重ねており、その罪が神と人とを断絶させているのです。神様は、十戒でお命じになりました。

「第一.あなたには、私のほかに他の神々があってはならない。

第二.あなたは自分のために偶像を造ってはならない。

第三 あなたは、主の御名をみだりに唱えてはならない。

第四 安息日をおぼえてこれを聖なる日とせよ。

第五 あなたの父母を敬え。

第六 殺してはならない。

第七 姦淫してはならない。

第八 盗んではならない。

第九 あなたはあなたの隣人に対し偽証をしてはならない。

第十 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

 

生まれてから死ぬまでこれらの戒めをすべて守りきった人のみが、神の御前に罪のない人ということができます。もし人が自分の力で、これらの戒めを生まれてから死ぬまでに守りきることができたなら、その人は神とともにある天国にはいることができます。あなたはどうですか。ところが、このたった十の戒めさえ守れた人は、人類の歴史上たった一人の例外を除いてほかにいないのです。

パウロという人は、まじめなユダヤ人の家庭に生まれたきまじめで優秀な人でした。彼は律法についてはパリサイ派で、人から後ろ指さされるようなことはただの一度もしていないと言えるほどでした。けれども、ある日パウロは自分にはどうしても守れない戒めがあることに気づいたのです。懸命に努力しても、いや努力すればするほど破ってしまう戒めがあることに気づいたのです。それは第十番目の戒め「隣人のものを欲しがってはならない。(むさぼってはならない)」でした。彼は次のように言っています。

「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。

 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。」(ローマ7:7-10)

パウロは日夜「第十 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」と律法を胸に唱えて努力しましたが、努力すればするほど、自分の内側からむさぼりが噴出してくる恐ろしい罪の現実を知ったのです。人の力は人を救えないと知ったのです。

私たち人間はアダム以来、みな罪を犯してきました。どんなにがんばって、どんなに努力し、どんなに修行しても、こんな人間としてあたりまえのたった十個の戒めさえ守り通すことができないのです。なんと惨めなことでしょうか。人間の力では、どのようにしても、自分を罪とその呪いから救い出すことはできないのです。

 

けれども、人にはできないことを神がしてくださいました。神様はそんな罪に打ちひしがれた私たちを哀れんでくださいました。哀れんでなんとかして救ってやりたいと思ってくださいました。そこで、2000年前、神の御子キリストが地上に人として来られました。イエス様は、私たちには決してできないことを実行なさいました。つまり、愛に満ちた完全なご生涯を送り、すべての戒めをまっとうされたのです。その上で、イエス様は十字架にかかってくださいました。私たちが、犯した数々の罪の呪いをその身に背負うためです。十字架上に釘付けにされたキリストは祈られました。「父よ。彼らを赦してください。彼らは自分でなにをしているのかわからないのです。」

私たちは罪に対する自分の無力を認める必要があります。そして、ただ神が成し遂げてくださったイエス・キリストによる罪の贖いを感謝して受け取るのです。そのとき、私たちは神の御前に罪を赦され、神とともに生きる永遠のいのちを得るのです。

人の力は、人を救うことはできませんただ神の力が私たちを罪と滅びから救うのです。十字架のことばは、神の力なのです。

 

これが、十字架のことばです。この十字架のことばを聞いて、あなたはどう思うのでしょうか。「なんと愚かなことだ。」と思うでしょうか。それとも、「なんとありがたいことばではないか。」と思うでしょうか。十字架のことばは滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける者にとっては神の力なのです。

勝利者キリスト

マタイ4:1-11

 

1**,それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

2**,そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。**

3**,すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」**

4**,イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」**

5**,すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、**

6**,こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」**

7**,イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」**

8**,悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、**

9**,こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」**

10**,そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」**

11**,すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。 

 

1 二人のアダム

 

ヨハネから洗礼を受けたあと、いよいよ福音宣教スタート!と思いきや、そうではなくイエス様はユダヤの荒野に行かれました。ユダヤの荒野は、石切り場のような風景がえんえんと続いているという感じの赤茶けた岩砂漠で、ところどころに潅木が生えているだけです。昼は厳しい日差しが容赦なく照り付け、夜はしんしんと冷え込みます。ところが、「4:1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」とあります。イエス様が悪魔の試みに遭うことは、御霊の導き、つまり、父なる神のみむねだったのです。父なる神のご計画の中で、イエス様は悪魔の試みに遭うということを救い主としての任務とされたのです。

 イエス様が経験なさった試みは、救いの歴史の中の位置づけますと、最初の人アダムが受けた試みと「対」の出来事でした。エス様は、父なる神様の前で、人類の代表です。ですから、イエス様は「第二のアダム」と呼ばれることもあります。アダムは人類の代表として悪魔の試みを受けて破れましたが、イエス様は人類の第二の代表として悪魔の試みに遭い勝利を収めたのです。人は、アダムという代表に属するか、あるいは、イエス・キリストという代表に属するか、二つにひとつです。生まれながらには人は第一のアダムに属していますから、実際、すべての人はアダム以来の罪の性質を受けて生まれてきます。いわゆる原罪です。結末は滅びです。しかし、人生の途上でキリストの福音と出会い、受け入れるならば、キリスト・イエス様に属する者となって永遠のいのちに入れられるのです。

 

 ところで、アダムとイエス様は人類の代表として悪魔の試みにあったという点では共通していますが、試みに遭われた環境はずいぶんと違っています。アダムは、この上なく快適なエデンの園で、善悪の知識の木を例外として、どの木からでも滋養たっぷりのおいしい木の実をとって食べて良いとされていました。他方、イエス様のほうは40日間断食なさったあと、じりじり太陽が照りつける炎天下、あるいは、砂嵐が吹きすさぶ荒野で、食べ物などまるで見当たりません。

 これは堕落前と堕落後の、人間の置かれている環境のちがいを象徴しているのでしょう。堕落前、アダムは最善の環境にあり、あえて罪を犯す必要もなく、自由意志をもって神に対する服従を選ぶには有利な立場にありながら、あえて罪を犯しました。

アダムが堕落したとき、神様は、アダムにおっしゃいました。「土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。土地はあなたに対していばらとアザミを生えさせる・・・」、被造物世界もまたのろわれた状態になってしまったのです。イエス様が試みを受けるためにいらっしゃった荒野は、こうしたアダムの堕落以来のろわれた被造物世界を象徴しているのです。しかし、エス様は、こうした最悪の環境で、悪魔のこころみに勝利を得られたのです。イエス様は勝利者です。

 

2 肉の欲への試み

 

 悪魔の誘惑は肉の欲、目の欲、虚栄心に対するものでした。まず肉の欲に対する試みです。

 「2**,そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。

3**,すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」

4**,イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」

 悪魔は意地悪です。人がおなかがすいて、なにか食べたいなあと思っていると、それに付け込んでくる。お金がない、お金がほしいと思っているとそれに付け込んでくるのです。ヤコブ書1章に、「14**,人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。15**,そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」とあります。悪魔はまず、肉体的・物質的な欲求を悪魔は攻撃しました。エデンの園で最初の人アダムの妻に対する場合は、禁断の木の実は「それは食べるのによく・・・」と書かれています。食欲をそそられたのです。悪魔は、イエス様に対して言いました。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」

 イエス様の答えは、旧約聖書申命記の引用でした。しかし、注意してください!この二重括弧の中です。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』というのは、「パンはもちろん必要だけれど、聖書もまた大事ですよ」という意味ではありません。そのように誤解している人がとても多いようですが、少し考えてみてください。「パンも必要だけど、聖書も必要です」などと返事をしたら、悪魔は「そうだろう。腹が減った今必要なのは、聖書でなく、パンだ。だから、石をパンに変えろと言っているんだよ。」とさらに誘惑するだけのことでしょう。

エス様は申命記を引用して何を言おうとし、また悪魔はそれを聞いて退散したのでしょうか。イエス様が引用なさった申命記のその箇所の前後を見る必要があります。申命記8章2、3節。

「2**,あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。**

3**,それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」

 かつて、イスラエルの民が荒野を旅した40年間、彼らは荒野で何を食べて生活したのでしょうか。あのとき神様はことばをもって作られたマナという不思議な食べ物をもって彼らを養われたのです。ですから、イエス様が悪魔を論破なさったことば、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」の真の意味は、「人はパンだけで生きるのではなく、神がことばをもってつくられたマナによっても生きて行けるよ」という意味にほかなりません。つまり、神様は、神様を信じて従う民には、物質的・経済的な必要をも不思議に満たして、生かしてくださるのだという意味にほかなりません。つまりは、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」という約束と同じ意味です。そのように言われたからこそ、悪魔はすごすごと退散したのです。

 どんな場合でも、イエス様を信じて神さまを第一にして生きていくことです。そうすれば、イエス様は必ずあなたの経済的・物質的な必要も満たしてくださいます。だから、大胆にイエス様にしたがってまいりましょう。 悪魔の物質的誘惑に打ち勝つ秘訣は、神に信頼して神の国とその義を第一に求めることです

 

3 目の欲への試みと正しい聖書解釈原理

 

 次に目の欲に対する誘惑です。

 5**,すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、**

6**,こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」**

7**,イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」

 「目の欲」というのは好奇心です。「高いところから飛び降りてみたい」という風な危険に対する好奇心を悪魔がくすぐったのです。好奇心で身を亡ぼす人たちが今日でもいるではありませんか。麻薬・覚せい剤をやったらどんな風になるんだろう、占いをやってみたいな、ちょっと浮気してみたいな・・・などと、というのも好奇心です。そんなことをしたら、身を滅ぼすかもしれないし、人を傷つけるかもしれないとわかっていて、それでも人がその罠に足を踏み入れてしまうのは「目の欲」への悪魔の誘惑に敗れたせいです。アダムの妻の「目の欲」に対して悪魔が誘惑したときは、禁断の木の実は彼女の「目に慕わしかった」と表現されています。あなたも、この種の悪魔の誘惑を経験したことがあるでしょう。

 しかも、今回悪魔は、イエス様を誘惑するにあたって、旧約聖書を引用しています。6節の二重括弧『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』というのは、旧約聖書詩篇91篇11,12節の引用です。イエス様が旧約聖書の引用をもって、第一の試みに耐えたので、今度は悪魔は「俺だって・・・」と旧約聖書を引用したのです。悪魔は聖書をよく知っていて、曲解へと私たちを導こうとするのです。

 これに対して、イエス様は、正しい聖書解釈に基づく引用をもって、悪魔を撃退しました。「あなたの神である主を試みてはならない」と。これは申命記6章16節の引用です。

 

 ここには、正しい聖書解釈の根本的原理が記されています。聖書解釈学という学問があって、たとえば、<前後の文脈をわきまえなさい。書かれた時代の文脈をわきまえなさい。また、歴史書か、書簡か、預言か、詩かといったジャンルをわきまえて解釈しなさい。いろいろな翻訳を比較しなさい。>などという解釈の技術が教えられています。これらはもちろん大切なことです。しかし、どんな解釈技術よりもはるかにたいせつなことがあります。聖書解釈においてもっとも大事なことは、神様を愛し、神さまを礼拝する目的をもって聖書を読むという心の態度です。神様に反逆する心の態度で聖書を読んでも正しく理解はできません。悪魔がしたように、神様を試みる思いで聖書を読んでも正しく理解することはできないのです。イエス様は、「あなたの神である主を試みてはならない」とおっしゃいました。神様を愛し信頼せずに聖書をいかに読んでも無駄、いや有害なことです。

 人のおもな目的とは、神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことですから、まして、聖書を読むときの心の態度は、へりくだって神に愛し信頼していることが肝心です。目の欲に対する誘惑に勝利する秘訣とは、神への信頼です。

 

4 権力欲・虚栄心にかんする誘惑

 

 第三に、権力欲あるいは虚栄心(暮らし向きの自慢)に対する誘惑です。悪魔は人としてのイエス様に不思議な幻をもって、世界中の国々の王国の栄耀栄華のありさまを見せました。当時西はローマ皇帝ティベリウス)の宮殿、東は大漢帝国(後漢光武帝)が栄えていました。 4:8 悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、9こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」

権力の座というものは魅力的なものなのでしょう。政治家なら大統領に、総理大臣に、官僚ならば事務次官の椅子、経団連の会長、法曹なら最高裁判事となって、人を支配する力を持つということです。奥様たちの暮らし向きの自慢についていえば、東京なら調布の高級住宅街に住み、車はメルセデスロールスロイス、夫が大企業の営業部長であることとか、軽井沢に別荘がありますとか、まあ、そんな自慢をしたいという欲求、それが虚栄心です。「虚栄」というのは、読んで字のごとく「むなしい栄光」です。神の前では無価値な栄光です。

本物の栄光というのは、神の前で賞賛されるものです。それは、神様がそれぞれに与えてくださった持ち場立場タラントにしたがって、どれだけ神を愛し、隣人愛の実践をしたかということが問われるのです。どんな地位につこうと構わないし、どれほど財産を持とうとそれ自体罪ではありません。ですが、そういう地位や富を任された人は、それらをどれだけ活用して、神を愛し隣人を愛するために活用したかが、死後、神様の前で問われるのです。ただ自分の欲のために高い地位を利用し、富をたくわえたとしたら、神の前では、恥ずべきことです。だから、虚栄はまさにむなしい栄えなのです。

 悪魔は、今日でも拝み屋や宗教を用いて、権力欲・虚栄心につけいって「私を拝むならば、権力の座、虚栄に満ちた地位も思いのままですよ。」と誘惑しているではありませんか。人々は、神社やあやしげな拝屋のところにいって、「ライバルを追い落として私が社長になれますように。」「お金持ちと結婚できますように。」「優勝できますように。」などと拝んでいるのです。実際、歴代のごうまんな皇帝や王や総統や大統領や宰相たちは権力を手に入れるために、悪魔にたましいを渡した人々です。彼らは悪魔が落とされる火の池に永遠に苦しんでいます。

 しかし、イエス様はこうした悪魔の誘惑に対しても、正しく解釈した聖書のみことばをもって勝利を得られました。「4:10下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」悪魔の権力欲・虚栄心をくすぐる誘惑に対する勝利は、イエス・キリストにあって、まことの神のみを礼拝するということによってのみ得られるものです。

 

むすび

 荒野の40日間の試みにおいて、イエス様は第二のアダムとして悪魔の試みにみごとに勝利を収めてくださいました。かつて、アダムがエデンの園で誘惑に負けてしまいましたが、このたびイエス様は勝利を収めたのです。それは、真の神を信頼しきって満足し、真の神のみを礼拝する者としての勝利でした。

 キリストは、第二のアダムとして悪魔に対してすでに勝利されたので、私たちがキリストを信じ、キリストにつくならば、わたしたちは信仰によって悪魔に対する勝利者となっているのです。

 それと同時に、私たちはすでに悪魔に対する勝利を得たものとして、日々の生活のなかで、キリストの足跡に倣いましょう。私たちも天の父にまったく信頼しきって、肉の欲、目の欲、虚栄心への誘惑を退けて、真の神のみを礼拝し、勝利者として歩みましょう。

 「平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」ローマ16:20

悪魔も知らなかったこと

 しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。
 この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。(1コリント2:6-9)

  ここで「奥義のうちにある隠された神の知恵」とは、1章30節がいうようにキリストとキリストの十字架による贖罪の業を意味している。「キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。」とあるとおりである。知恵はギリシャ語でsofiaというが、これは七十人訳聖書箴言8章に登場する「知恵sofia」(ヘブル語でホクマー)である。箴言8章を読めば、その知恵とは、万物の創造にさきだって神とともにあり、万物の創造を手伝ったお方を指している。キリストは、永遠の神の御子であり、万物の創造に携わったお方である。

 1コリントの文脈では、知恵とは「十字架につけられたキリスト」(2:2)を指している。つまり、1章18節「十字架のことばは滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」とあるように、神の知恵である神の御子イエス・キリストは、十字架に辱めの死を経験して後、よみがえられることによって、私たちに救い(義と聖めと贖い)となってくださった。

 永遠の神の御子が、十字架にかかられることによって、私たちに救いをもたらすという神のご計画・知恵は、「世界の始まる前から」のものであった。だから、この計画を知るのは、世の始まる前から存在した神のみであって、我々よりもはるかに多くの知識を持つ天使たちも知らず、堕落したみ使いであるサタンとその手下の霊たちも知らかなった。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないもの」と言われている。

 「この世の支配者たち」は、神の御子イエスが十字架にかかって私たちを罪から救い出すという知恵を知らなかったとある。「この世の支配者たち」とは、ユダヤのサンヘドリンの議員たち、そしてピラトやヘロデたちを指しているように見える。だがそれだけでなく、「この世の支配者たち」はヘロデたちの背後にいて、彼らを操ったサタンと悪しき霊たちを意味していると思われる。この世の支配者たち」という言い回しは、ヨハネ12:31、同14:30、エペソ2:2と関係、類似している。

ヨハネ12:31「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」

エペソ2:2「 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」

 たしかに悪魔とその手下どもが、もしイエスを十字架にはりつけにすることが、神が罪人を救うための方法であると知っていたなら、彼らは権力者たちを動かし、イスカリオテ・ユダを動かしてイエスを十字架に磔にすることは決してなかっただろう。十字架のことばは、滅びに至る人々、その背後の滅びる霊たちにとっては愚かなのである。 しかし、御霊を受けた者たちには、神の力であり、神の知恵なのである。

 私たちは十字架の福音を何度も聞かされ、何度も話しているために、それがサタンも知らなかった「隠されていた奥義」であることを忘れているかもしれない。しかし、万物の創造に与った知恵である神の御子が人として世に来られ、辱めをものともせずに十字架にかかって苦しみ死んで、罪人の罪を担われたというのは、実に、驚くべき神の知恵であることをもう一度思い起こし感謝したい。

 ちなみにC.S.ルイスは『ライオンと魔女』を、この1コリント書2章を背景として物語を書いている。そこには、「世の始まる前からの掟」が出てくる。「犯された罪はその償いのために死を要求する」という掟が刻まれた石舞台があり(これは律法をさす)、これは魔女も知っていた。しかし、「誰か罪なき者が罪を犯した者のために死ぬならば、復活が起こり、石舞台は割れる」というのが、「世の始まる前からの掟」である。キリストを象徴するライオン、アスランは、罪を犯したエドモンドの身代わりとなって、魔女によって石舞台で殺されたが、アスランは復活して石舞台は割れてしまったのである。

終着駅に着く前に

2020年1月26日苫小牧主日礼拝

21**,昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。**

22**,しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。**

23**,ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、**

24**,ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。**

25**,あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。**

26**,まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。(マタイ5:21-26)

 序

 イエス様が来られた1世紀のイスラエルの国は、旧約聖書の律法にもとづく神政政治を行なっていました。そうしたユダヤ社会でしたから、社会の指導者たちは律法にかんする知識をもっている人々で、律法学者たちは尊敬される務めを果たしている人々だったのです。パリサイ人というのは、そうした律法の解釈の一つの学派で、モーセの律法を厳格に守るべきであると考える人々で、伝統主義者でした。彼らは、民の中に位置していて、民の中にあって道徳的宗教的に指導をしていました。

 

1 イエス様の権威  「しかし、わたしはあなたがたに言います。

 

21、22a 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」

 ここで「殺してはならない」というのはモーセ十戒の第六番目の戒めです。モーセ十戒とは、モーセが考え出したことではなく、紀元前1400年頃、神様がモーセを通して、神の民に与えた人としての生き方です。イスラエル民族は、この神のことばである律法を土台として国家と社会を形成しました。紀元前1000年頃から400年間ほどが王国の時代で、この王国時代にイザヤ、エレミヤ、ホセア、エリヤ、エリシャなど多くの預言者が出現しましたが、預言者たちは律法と別に新しいことを告げたのではありません。旧約時代の預言者たちは、ひたすら悔い改めてモーセの律法に立ち返れと教えたのです。偶像崇拝と不道徳な社会になってしまっている君たちは、悔い改めなければ、神はこの国を滅ぼしてしまうぞ、悔い改めよと言ったのです。預言者たちは律法にまさることを教えようとしたわけではなく、そこに立ち返れと教えたのです。イスラエルの民は、しかし、預言者たちのいうことを聞かず、結局紀元前6世紀にはその国は滅ぼされてしまいました。

 イエス様が来られたころには、イスラエルは一応復興したもののローマ帝国の属国でした。律法学者たちが、旧約聖書の律法を民に教えていたのです。「『殺してはならない』という神の戒めが何を意味しているかというと、大学者のA先生はこのように教え、学者のB先生はこのように教えています。私としてはB先生の言うように解釈するのが正しいと思います。」というふうな教え方をしたようです。

 ところが、イエス様はおっしゃるのです。「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」つまり、「A先生の説はこうで、B先生の説はこうで、C先生の説はこうです。わたしはB先生を支持する」というふうに教えるのではなく、イエス様は「わたしはこう教える」とおっしゃるので、弟子たちはびっくりしたのです。マルコ伝には「人々はその教えに驚いた。イエスが律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」(マルコ1:22)とあります。主イエスは、律法の制定者である神としての権威をもって、山上の説教をなさったのです。しかもイエス様は、神としての権威をもって、福音の時代の神の民の生き方についての戒めを告げたのです。「旧約時代には、あのようにモーセを通して教えておいたが、これからの福音の時代が来たからには、わたしは、これからはこのように教えるからよく聞きなさい」とおっしゃったのです。イエス様は、律法を定め、それを更新する神の権威をお持ちなのです。

 

 2 神は、心と唇のことばを聞いて裁かれる

 

 では、イエス様の教えと、昔の人々の教えとそれを踏襲する律法学者たちの教えはどのように違うのでしょうか。
 22**,しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 律法学者たちは、実際に、行動として実際に人を殺すならば、それは殺人罪に当たるということを教えていました。今日の日本の法律でもそうです。ナイフであれ、けん銃であれ、毒殺であれ、とにかく外に現われた行動によって、人の命を奪って初めて殺人罪という罪が成立して、裁判所で裁判が行われます。パリサイ人、律法学者たちは、「心の中で人のことを憎むこと」「口で人を罵ること」は問題にしませんでした。

 ところが、イエス様は「殺してはならない」という戒めは、実際に人を殺さなくても、まず心の中で人を怒り、憎み、殺意を抱くならば、神の前では殺人を犯したことになるのだとおっしゃるのです。さらに、その唇で人に向かって「能無し」とか「ばか者」というものは、神様の前ではすでに殺人という罪を犯したのです。ここには数十人の殺人者がいるでしょう。神さまの御前に出たとき「私は人殺しなどという大それた罪はおかしていません。」と断言できる人は、この地球上に一人もいないのです。

 神さまは霊ですから、あなたが心の中のつぶやくことばを聞いていらっしゃいますし、私たちが口にする言葉も当然聞いて、記憶にとどめていらっしゃいます。

 なぜ神さまは、私たちが隣人を憎み、殺意を抱くことをこれほどまでにお怒りになるのでしょうか。それは神さまは愛であり、愛である神さまは、本来、私たち人間を憎みあうために造られたのではなく、私たちが互いに赦し合い、愛し合うために造られたからです。愛である父と子と聖霊の神さまは、わたしたちをご自分の似姿、尊い存在としてとして造ってくださいました。それは私たちが地上にあって互いに愛することによって、神さまの栄光を現すためです。ですから、私たちが憎み合うことは、神さまをたいへん悲しませ、そして怒らせることなのです。

 ところが、なんとこの地上には神さまを怒らせ、悲しませることが多いことでしょうか。

神様の目からご覧になると、私たち人間の世界は日常的に親が子を殺し、子が親を殺し、兄が弟を殺し、妹が姉を殺し、近所の人同士も表面的に取り繕いながらも、心の中では殺し合いをしているのです。恐ろしい世界です。そうして、「心の中で人を憎たらしいと思うのは自由だ」とか、「ことばで怒りをぶつけること程度は大した問題ではない」などとうそぶいたりしているわけです。しかし、心の中にあることばが口に出てくるのであり、口で罵ることばは、やがてその人を突き動かして取り返しのつかないことをしでかすことになるのです。

 行動をきよくしたいならば、心の中に呟くことばを清くしなければなりません。そして、行動を正しくしたいならば口にすることばを、正しくしなければなりません。心の中、唇で話すことばが、あなたを動かすことになるのです。言葉は大きな船の舵です。小さな舵が大きな船を右に左に動かすように、あなたが心にあることば、あなたが口でいうことばが、あなたの人生を右に左に動かすのです。

 

.終着駅に着く前に

 

(1)神礼拝と隣人関係

 次に、イエス様は、そんな私たちに、神に礼拝をささげることと、隣人愛との関係は、切っても切れない関係にあるんだよと教えます。礼拝とは、神さまへの愛の表現であり、神さまへのささげ物をするということは、神さまへの愛と献身の表現です。ところが、イエス様は「あなたたちが神さまにささげ物をしようとするとき、だれか身近な者にうらまれていることを思い出すことはないか?」と問われるのです。

マタイ 5:23-24

23**,ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、24**,ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。

 

 このように命令なさったのです。「人に恨まれており、仲たがいしているような状態のまま、ささげ物をしたって、わたしはそんなささげ物は受け取らないよ」と神さまはおっしゃるわけです。なぜでしょうか?・・・神を愛することと、隣人を愛することとは密接不可分であるからです。

第一ヨハネ4章20,21節

「20**,神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。21**,神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。」

  

(2)終着駅に着く前に

 エス様はこのように神さまとの和解と隣人との和解のたいせつさをお教えになり、続いて、私たち一人一人の一生というものは、訴えられて汽車に乗っているようなものであると教えられたのです。汽車が終着駅に到着すると、「終着、聖なる裁判所前!」ということになります。

マタイ 5:25-26

25**,あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。26**,まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。

 長野県小海町で伝道していたとき、Sさんというおばあちゃんとの出会いがありました。農家のおばあちゃんで、若いときはたいへん力持ちの働き者だったそうです。でも、とっても、きつい人で、そのお嫁さんのTさん話をうかがうと、「それはたいへんだったですねえ」というほかないほどでした。Tさんは、若い日に聖書を読むようになっていたのですが、洗礼にはいたらないまま結婚をしました。でも結婚してまもなく、「私は教会に行きたい」というと、お姑のさださんに聖書を捨てられてしまったのです。それから30年後、私が小海に開拓伝道にはいって、Tさんは洗礼を受けました。

 その後、私はそのSばあちゃんの住む離れを訪問するようになりました。訪問して話をして、「賛美歌を歌ってあげましょう」というと、「実は、わたしゃ若いときには教会に通っていたことがあるだよ。だから讃美歌を知っているだよ」と、ハーモニカで「いつくしみ深き」とか「主よみもとに」など讃美歌を吹いてくれました。Sさんは隣の群馬県の富岡製紙場に十代に集団就職して働いていたことがあり、その工場の前には教会があって、女工さんたちはみんな日曜日になると教会にいって讃美歌を歌うのを楽しみにしていたのです。そこを出ると東京の文京区のあるお屋敷にお手伝いさんになったら、そのおうちがクリスチャンだったそうです。けれども、嫁いできた家が天台宗の檀家総代の家だったので、そのことは封印して数十年いらしたそうです。そして、

 何度かかよってお話をするうちに、Sばあちゃんは、1月のある日、わたしについてイエス様の名を呼ぶようになられました。「イエス様、わたしを助けてください。」とご自分で祈るようになられました。そういう祈りをされて間もない日の夜、お嫁さんであるTさんにたいせつなときを持たれたそうです。 その夜、Sさんは、お嫁さんのTさんと二人だけのとき、いろいろなことを話されたそうです。そして、「若いときは、きつくあたって悪かったなあ。」とお詫びをされたそうです。Tさんは、「そんなことないよ。ばあちゃんのおかげで、わたしはたくさんのこと教えてもらったから、感謝しているよ。ありがとう。」と応じられたそうです。

 イエス様を受け入れられたとき、聖霊様がSばあちゃんの心のうちに、新しい創造のわざをなさったのでした。聖霊が働かれると、人はかたくなな魂が打ち砕かれて自分の罪を悟り、悔い改めの実をむすぶようにしてくださるのです。平和をつくる神の子どもとしての実を結ぶように新しい創造がなされるのです。実際、Tさんと和解という平和の実をむすぶことができたのです。Sばあちゃんは、洗礼を受け、二か月後に天に召されました。その記念礼拝を前に、孫娘のYさんから手紙をいただきました。

 

水草先生
 祖母の洗礼、祖母と母の言葉少なくも豊かな交わり、安らかな死と、大きな恵み
を下さった神様を誉め讃えます。
 生前何度も訪問していただき、洗礼へ導いて下さったこと、本当にありがとうご
ざいます。母が時々様子を伝えてくれましたが、祖母は水草先生との交わりや賛
美を本当に喜んでいたとのことです。重ねて感謝します。
 18日に記念礼拝を持って下さること、嬉しく思います。
・・・・
 洗礼後の祖母は私や、特に母に会いたがり、・・・母との交わりを喜んでいたようです。昏睡に入る前も、会いたい人の名をただ「T」としか言わなかったそうです。イエス様がよくわからないらしいと聞いていたのですが、あれだけ嫌っていた母をあんなに慕うことに、祖母には本当に聖霊が注がれたのだと思いました。ぶつかったりしながらも祖母に誠実を尽くし続け、親族に辛くあたられても祝福を祈り続ける母の姿は、美しかったです。私は初めて母を心底美しいと思いました。神様はこのような姿を「礼拝」として、「生きたささげもの」として喜んで下さるのではないかと思いました。祖母の件は、母の姿から学ぶという恵みをも私に届けてくれました。
 小海での礼拝が豊かに祝福されるよう、お祈りしています。

                            S.Y」

 

むすび

 私たち一人一人の人生は、聖な法廷に向かって毎日毎日歩いている道行です。「人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることがさだまっている」と聖書にある通りです。

 私たちは、聖なる法廷に出るために二つの備えをしなければなりません。それは第一に神さまとの和解です。私たちは生まれながらに、神さまの怒りを受けるべき者たちです。神さまに造られながら、神様を無視して、自分の力で生きられると思い上がって生きています。これが根本的な罪なのです。しかし、イエスさまが和解のために来られ、私たちに代わって十字架でのろいをうけてくださいましたから、主イエス様を信じ受け容れることです。そうすれば、神さまと和解できます。

 聖なる法廷へのよき備えの第二は、隣人と和解をすることです。あなたが人生のなかで隣人の胸につきたてた言葉の刃、隣人に対して抱いた憎しみや怒りには、いろいろな理由や言い訳もあるでしょう。けれども、どんな言い訳をしたとしても、聖霊様が心に住んでおられるなら、あなたの良心に対してささやかれます。「あなたは恨まれているんじゃないのか。あなたは、あの人を傷つけた。あなたは、そのままで神の法廷に出ることができるのか?」と。

そういう御霊の示しがあったならば、へりくだって和解をすることです。私たちは、本来、憎み合い、傷つけあうためにともに暮すようにされているのではなく、互いに愛し合い、助け合うためにこそ生かされているのです。

 さだばあちゃんのクリスチャンとしての地上の生涯は短く、二ヶ月にも満たないものでした。けれども、この短い期間にさださんは、聖なる法廷にでる準備をきちんとして、召されて行かれました。私たちはどうでしょうか。今夜、主が迎えに来られたならば、あなたは聖なる法廷に出るための備えができていますか。