水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

愛は律法を満たす

マタイ5:17-20

 

2020年1月19日 苫小牧主日礼拝

 

5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

 5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

 5:19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。

 5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。

 

 

 

1 律法と預言者

 

 17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」

「律法と預言者」という表現は、旧約聖書という意味です。当時、旧約聖書は、「律法と預言者」とか「律法と預言者詩篇」というふうに呼ばれました。主イエスの大胆な言動について、敵対する人たちも、あるいはイエス様の弟子たちの中にも、「イエスは、律法と預言者つまり旧約聖書を廃棄してしまうつもりなのではないか?」と誤解している人たちがいたので、このようにおっしゃったのです。

エス様の大胆な振舞いというのは、たとえば、イエス様は安息日に忠実に礼拝を守りましたけれど、礼拝を終えると、その場で病人をいやしてやったというようなことです。律法学者たちに言わせれば、病人を癒すという行為は彼らが解釈するところの、安息日に禁じられている「仕事」であるから、イエス安息日律法を破っていると思ったわけです。けれども、イエス様に言わせれば、これこそ最も適切な安息日の守り方だったのです。本来安息日は、神を礼拝することと、隣人愛を実践する日ですから。

 また、イエス様は取税人マタイを弟子にとって、素行の悪い彼の友だち、取税人仲間、遊女たち連中とも一緒に楽しそうに食事をすることがありました。またイエス様は、遊女たちにさえ神様について伝えていました。これも律法学者の先生たちは、とんでもないことであると考えました。律法学者たちは、取税人や遊女とは口も利かないし、まして同じ屋根の下にはいって食事をするなどということは宗教的なけがれにあたるとしていました。この点でも、イエスは「律法と預言者」つまり旧約聖書を廃棄しようとしていると非難したのです。しかし、律法には異邦人といっしょに食事をするなとはありませんし、主イエスに言わせれば、旧約聖書によれば、神は罪に陥ったダビデにもあわれみを注がれたお方でした。

 また、イエス様は、選民ユダヤ人だけでなく、異邦人であっても求める人には、福音を語りましたし、病で臥せっている人があればそれが異邦人であっても癒しのわざも行なわれました。ユダヤ人、格別、パリサイ人や律法学者たちは、神の恵みはただユダヤ人にのみ特別に注がれることを信じて、教えていたのに何たることかというのです。というわけで、イエスは「律法と預言者を廃棄しようとしている」と非難したのです。しかし、旧約聖書には、神はユダヤ人だけでなく異邦人をも創造し生かしておられ、異邦人もやがてまことの神を賛美する日が来ることが書かれています。詩篇67篇を開いてみましょう。

67**篇**

1**,どうか神が私たちをあわれみ祝福し御顔を私たちの上に照り輝かせてくださいますように。セラ**

2**,あなたの道が地の上で御救いがすべての国々の間で知られるために。**

3**,神よ諸国の民があなたをほめたたえ諸国の民がみなあなたをほめたたえますように。**

4**,国々の民が喜びまた喜び歌いますように。それはあなたが公平に諸国の民をさばき地の国民を導かれるからです。セラ**

5**,神よ諸国の民があなたをほめたたえ諸国の民がみなあなたをほめたたえますように。**

6**,大地はその実りを産み出しました。神が私たちの神が私たちを祝福してくださいますように。**

7**,神が私たちを祝福してくださり地の果てのすべての者が神を恐れますように。

 

 

弟子たちの中にも、イエス様が旧約聖書を廃棄しようとなさっているのだと誤解するむきがあっただろうと思います。ですから、イエス様は弟子たちを前にして、そういう誤解をしないようにと、この山上の垂訓で、キリストの弟子、キリスト者の生き方について述べてゆくまえに、新約の聖徒として、旧約聖書、特に律法をどのようにとらえるべきなのかについておっしゃるのです。

「5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」

 2千年間の教会の歴史を振り返ると、旧約聖書を破棄して新約聖書のみを神のことばだとする異端がときおり生じました。その最初はグノーシス主義とマルキオン主義というもので、旧約のユダヤ的なものを否定して、パウロ文書の一部を重んじるという異端でした。福音書の中ではパウロとゆかりの深いルカ福音書のみを彼らは評価しました。しかし、イエス様ご自身は「わたしは旧約聖書を破棄するために来たのではなく成就するために来た」とおっしゃったのです。

 20世紀に入ってからも、旧約聖書を廃棄し、キリスト教からユダヤ的なものを捨て去ろうとした人々は、ヒトラーの時代のドイツの神学者たちでした。ヒトラーユダヤ人絶滅政策を採りましたので、キリスト教からユダヤ的なものを排除しようとしたのです。しかし、これはナンセンスなことです。イエス様はまぎれもなく民族的にいえばユダヤ人でしたから。イエス様はおっしゃるのです。「5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」

 

2 イエス様が律法を成就する方法

 

 「5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」

 イエス様は律法を成就するために来たとおっしゃいます。それはどのようにしてでしょうか?律法の要求が満たされるには、二つの道があります。ひとつは、私たちがその律法が言っていることを実行することです。「殺すなかれ」という命令に対して、「殺さない」という応答をするとき、律法の要求は満たされます。「あなたは自分のために偶像を作ってはならない」という律法の要求に対して、偶像をつくらないという応答によって、律法は満たされることになります。これがひとつ。

ですが、神様は人間が律法の要求を完全には守ることができないことをご存知でしたから、「偶像を礼拝するな」「安息日をまもりなさい」「あなたの父母を敬え」「殺すな」「盗むな」などといった道徳的な律法を守れず破ってしまった場合のために、神様はもう一種類の律法を与えていました。それはいけにえに関する律法であって、律法を破ってしまった場合に定められたいけにえをささげて償いをするというものでした。イエス様は、十字架においてまことの小羊のいけにえとして御自分を犠牲とされて、私たちが律法にそむいて犯した罪の償いをしてくださり、復活してくださいました。

エス様は私たちの罪の償いを十字架でなしとげ、さらに、天にもどられて天から信じる私たちに聖霊を注いで、神様のみこころを行なう力をくださるのです。このようにして、イエス様は律法を成就なさるのです。

 

3 律法に関する二つの間違い

 

 ですが、律法の受け止め方については二つの間違いがあります。それは律法主義と無律法主義です。

(1)律法主

 律法主義というのは、数々の律法を守ることによって、神の前に点数をかせいで自分の義を立てるという考え方です。神様の前にはあなたの人生を量る天秤があって、律法を守ったら右の皿に、破ったら左の皿に分銅が置かれて行き、審判のときに右の皿が下がっていたら天国に、左が下がっていたら地獄におちるということです。この何が間違えているかというと、神様は完全なお方なので完全に守れないかぎり神様の前で義であると認められることはありえないからです。そして人間は罪があるので、人は律法を完全に守ることができないことは明白です。

ヤコブ2:10「律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。」

また、律法主義者の陥りがちな罠は、偽善と形式主義です。というのは、律法主義で完璧を目指そうとすると、いきおい律法を破ったのだけれど、守ったことにするために言葉のつじつまを合わせようとするからです。イエス様の時代にパリサイ人たちは、そういう作業を一生懸命していたようです。法律の文言のつじつま合わせというのは、国会での官僚の答弁など聞いていて、よくあることです。

 

(2)無律法主

 律法の受け止め方についての第二の間違いは、無律法主義です。自分は恵みによって救われた。だから律法などは要らないのだと思い込んで、偶像礼拝をしたり、安息日を軽んじたり、親不孝をしたり、姦淫したり、偽証をしたり、盗みを働いたりといった好き勝手な振る舞いをしても大丈夫だという考え方が無律法主義です。

 イエス様はそんなことはまったく教えませんでした。十戒は、キリスト者の義務を教えているのです。

5:19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。

 

3 キリスト者の義

 

 では、正しい律法の受け止め方とはなんでしょうか。それは、キリストがわたしのために十字架にかかってよみがえり、わたしを赦してくださいましたから、こそ神のご期待に応え、神の律法を大切にして生きていくのです。もはや律法を破ったら呪われるという恐怖からではなく、いやいやながらでなく、キリストにおいて表された神の愛に対する感謝の応答として、十戒をガイドとしてこれを重んじて生きることです。私たちは律法を守らなければ呪われるのが怖いからではなく、律法の呪いから解放された者として、愛をもって律法の要求を十二分に満たして生きることが許されているのです。それはイエスを信じる者のうちに与えられる聖霊によって、可能にされているのです。

5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。

 キリスト者の義は、律法学者・パリサイ人の義よりも勝っているのです。二つの意味で優っているのです。

それは、第一に律法を守りえなかったことにかんする償いはイエス様があの十字架の贖いと復活によって、完全に満たしていてくださるからです。キリストの義を私たちは贈り物としていただいているのです。

 

 キリスト者の義が律法学者たちの義にまさっているのは、第二に私たちは律法ののろいに対する恐怖からとか、いやいやこれを行なうのではなく、神様を愛するゆえに、自発的に神様のみこころを行なおうとするからです。律法の要諦は、全身全霊をもって神を愛することと、隣人を自分のように愛することですから、いやいやながら恐怖のゆえに奴隷的根性で律法を守ることを神様はお喜びになりません。神様は、愛をもってみこころを行なうことを、喜んでくださるのです。聖霊がそれをさせてくださいます。

 私たちは偶像崇拝をすると呪われ地獄に落ちるから偶像崇拝をしないのではなく、唯一まことの神様を愛しているから、真の神様だけを礼拝します。

 私たちは主の御名をみだりに唱えると呪われるから、そうしないのではなく、私を愛し私のためにいのちまで惜しまなかったお方のお名前ですから、私たちは心からの感謝と喜びをもってイエス様の名を口にします。

 私たちは安息日を守らないと死刑になるからこれを守るのではなく、安息日に私を愛してくださった神様に兄弟姉妹と感謝の礼拝をささげたいから、これを大事にするのです。  私たちは父母を敬わないと呪われるから父母にいやいや従うのではなく、神が立てた大切な父母ですから敬います。

 私たちは人のものをただ盗まないのではなく、生活に困窮している人たちにも進んで施しをします。 嘘をいわないだけでなく、真実を語ります。 隣人のものを欲しがらないのではなく、神がくださった恵みのゆえにいつも喜び、絶えず祈り、すべてのものに感謝して満ち足りるのです。

このように二重の意味で、私たちキリスト者の義は、神様の御目から見るときに、パリサイ人たちの義に勝っているのです。すなわち、愛をもって自発的に律法にまさる行いをする点、破ってしまった場合の罪の償いは主イエスが十二分に成し遂げてくださったことです。 神様にイエス様の十字架のゆえに罪を赦されたことを感謝しながら、神様のみこころを愛をもって十二分に実行するものでありたいのです。

 

 

 

地の塩、世の光

マタイ5:13-16

2019年1月12日 苫小牧

13**,あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。**

14**,あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。**

15**,また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。**

16**,このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

 

 

1.地の塩、世の

 

 主イエスは信じ従う私たちに8つの祝福をお与えになりました。今朝も、「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え渇く者」「あわれみ深い者」「心のきよい者」「平和をつくる者」「義のために迫害されている者」としての、私たちへの祝福です。それは、新約の時代の神の国の民に与えられた祝福でした。祝福を受けた者として、神の民はこれからどういう生き方をしていくのかを、イエス様は教えてくださるのです。神の祝福をまず受けたので、その恵みにどのように答えて生きていくかという、この順番が大事なことです。

 私たちの世にあっての存在と働きを、イエス様は、地の塩、世の光と表現されました。 

スーパーにいくと「天塩」という銘柄の塩が売られていますが、天の塩でなく、地の塩だとおっしゃるのです。その意味は、主イエスの弟子というものは、確かに「私たちの国籍は天にあります」という者なのですが、その天の御国に住んでいるわけでなく、地に遣わされたものであるという意味です。イエス様はあるとき、父なる神に向かってこう祈られました。「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17:17,18)

またイエス様は、「あなたがたは天の光です」とはおっしゃらないで、「あなたがたは世の光です」とおっしゃいました。これも同じことです。「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17:17,18)とおっしゃるとおり、私たちは天國を照らす光ではなく、天国から暗いこの世に遣わされて世を照らす光なのです。天国には神様が住んでいらっしゃるから、私たちが照らす必要はありません。照らす必要があるのは、この世です。ここに天国の光をもっていきともす者として、私たちキリスト者はこの世に派遣されました。

エス様に信じ従う者は、天の御国の国民ですが、その御国から、この世に派遣されている者です。あなたは、自分がそれぞれの家庭や地域や職場や学校に、またこの現代日本と言う国にイエス様によって派遣されているのだという自覚を持っているでしょうか。この自覚がまず大事なことです。

私たちは天国人ですから、第一の忠誠は神さまに対するものでなければなりません。日本人である前に天国人なのです。この世と調子を合わせてはいけません。この世の価値観に流されてはいけません。神様と調子を合わせて生きていきます。しかし、イエス様によって、この世に証人として遣わされていることを忘れて、まるで世捨て人のように、この世は没交渉にして生きていてはいけません。遣わされた地域、職場の人々の中に入って行って、神の栄光をあらわす生き方をする必要があります。つまり、世から聖別されたという意識と、世へと派遣されたという意識の両方がたいせつです。聖別意識と派遣意識です。

実は去年の忘年会の終わりの締めの係をしてくださいと言われました。万歳とか一本締めとかなんかそういうのがありますよね。でも、参加者は「キリスト教式でどうぞ」と仰るので、一年間の感謝と、それぞれのお店の祝福、健康の祝福をお祈りしました。先週木曜日は理事会があり、そのとき肉の青山さんは、牧師室にかけてあった「みことば三十一日」をくださいとおっしゃるので差し上げました。少しずつですけれど、この地域の人たちにイエス様を証できればと願っています。

 

 地の塩

 

)うまみを引き出す

塩の働きのひとつはうまみを引き立て、うまみを引き出すことです。ほんの一つまみの塩で、たとえば味気ないおかゆがおいしい甘味を感じさせるようになります。お汁粉を作るにも、お砂糖に比べたらほんの何十分の一に過ぎない一つまみの塩で、甘味が増すのです。塩というのは、とっても素晴らしい力をもって、料理やお菓子の甘味やうまみを引き出すのです。

「あなたがたは、地の塩です」とイエス様はおっしゃいました。この世は味気ない世界です。イエス様が、終わりの時代、「愛が冷えてしまうので不法がはびこります」とおっしゃったように、この世はますます味気ない世界になっていくなあと感じないでしょうか。味気ない世界、それは愛の冷えた世界です。

世界を味気なくしてしまう現代社会の原因はなんでしょうか?そのひとつは、イエス様がおっしゃったように、カネがすべてだという拝金主義とか効率主義です。<すべてのものは金銭に換算して価値が量られる>といった見方が、この世を味気なくしてしまっています。マモニズムといえばいつも私はイスカリオテ・ユダを思い出します。イエス様がいよいよ十字架にかかるためにエルサレムに行こうとされるとき、ベタニヤのマリヤがイエス様に惜しげもなく注いだ香油について、イスカリオテ・ユダが「これは300デナリもするじゃないか。もったいない。」と値積りしました。彼にはマリアの十字架に向かおうとするイエス様への愛がわかりませんでした。ただ300デナリという金銭に換算しただけです。なんでもかんでもカネに換算する人は、すでに拝金主義の偶像崇拝者です。

「あなた変わりはないですか。日ごと寒さがつのります~♪」と恋人が一生懸命に夜なべをして手編みのセーターを作ってくれたら、「なんだこんなのシマムラに行けば、1000円もしないでもっといいの売ってるよ。」などと言う男がいたら、なんと味気ない男でしょう。こんな愚劣な男は、誰が作ったかしれないブランド物の何万円のセーターなら満足するのでしょう。カネがすべてなのです。

 イエス様は私たちキリスト者に「あなたがたは地の塩です」とおっしゃいました。日本にクリスチャンは1パーセントと言われます。でも、塩の働きということを考えると、私たちは自分が少数派であることを恥じることはありません。お汁粉に一つまみの塩で、うんと甘さが増します。少数派のクリスチャンであっても、ちゃんと祈り、ちゃんと考え、ちゃんと働くならば、無味乾燥なこの社会に味わいを引き出すことができます。神様のために素晴らしい働きができるのです。私たちが、イエス様のくださった御霊の働きによって、この世にあってイエス様のみことばにしたがって、神様の愛に生きていくとき、私たちは塩として味のある世界を作り出すことができます。効率がすべて、金儲けがすべてといった無意味で味気ないこの世界を、味のある世界とされるのです。

 

)防腐効果

 塩の働きはまた、ものを腐らせないことです。漬物を塩で漬けるのは、うまみを引き出すと同時に保存が利くようにするためです。

 世の光放送のラジオ牧師羽鳥明先生が御自分をクリスチャンへと導いた同級生について、こんな証しをなさっていました。羽鳥先生が旧制中学生のときは日本は戦時下にありました。各学校には、配属将校が置かれていました。ある将校が来ると、教壇に立って言い放ちました。「ヤソはわが国体に反する、アメリカの宗教じゃ。ここにヤソはおるか。名乗ってみろ。俺がどうにかしてやる。」すると、一人の同級生がすくっと立ち上がって言いました。「私はクリスチャンです。イエス・キリストがわたしの罪のために、十字架で死んでよみがえられたことを信じています。」そして静かに座りました。その男は、いつも柔和でにこやかでした。そして、彼の周りには汚れたものがなく、周囲の人々をきよめる不思議な力をもっていたのです。」

 「あなたがたは地の塩です。」と主イエスはおっしゃいました。この世界は、神様に背を向けて、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢で汚れがますますひどくなってゆこうとしています。世と世の欲は滅びます。その中にクリスチャンは派遣されて、イエス様のみことばを信じてしたがって行けば、周囲が不思議にきよめられていきます。イエス様の清さが、クリスチャンを通して周りに浸透して行き、この世がソドムとゴモラのように腐りきって滅びてしまうのを防止することになります。あのとき、神様はもしソドムの町に10人の正しい人がいれば、この町を亡ぼさないとおっしゃいました。実際には10人もいなかったので、滅ぼされてしまいましたが。しかし、わずかな人数であっても神を恐れてきよく歩む者がいるならば、神はその地を滅ぼさないのです。ですから、世の人たちは何も知りませんが、クリスチャンであるあなたは、この日本の国を、

苫小牧の町を神の恐るべきさばきから守っているのです。

「あなたがたは地の塩です」と主はおっしゃいました。私たちは、味気ない世界に、うまみを引き出し味をつけ、腐りつつある世界をきよくして腐らせず、神のさばきから守るという大切な役割をになっているのです。

 

 世の光

 

 また、主イエスは私たちにおっしゃいます。

14**,あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。**

15**,また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。**

16**,このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

 

 塩も光もともにこの地上、この世界で、イエス様の弟子たちの果たす役割を表しています。両者は、どうちがうのでしょう。たぶん、塩が地味な目立たないところ、周囲に溶け込み浸透して行って働くのに対して、光の方は一目に立つ働きであるということを意味するのでしょう。塩は、見えないかたちで浸透して行って、味気ない世界に味を付けたり、腐りそうなものの腐敗を防いだりしますが、光は見えるかたちでの神の証しを意味するということができましょう。

 人目に立つために偽善的な良いわざについてイエス様は言われました。「あなたの右手のしていることを、左手に知らせるな。」けれども、人目に立つことを恐れるあまり、なすべき良いわざを行なわないとしたら、それはおかしなことになります。たとえば電車の中に空き缶が転がっているのを見つけたけれど、だれも拾おうとしない。けれど、ほうって置けば、誰かがそれを踏んで転んで大怪我をするかもしれません。そんなとき、『右の手のしていることを左の手に知らせるなとイエス様がおっしゃったから、人目に立つよいことをするのはやめよう』などと思っているうちに、誰かが空き缶を踏んで転んで大けがしたら何にもなりません。人目についても、つかなくても、善いことはするのです。

 電車でおばあさんがふらふらしていたら、さっと立ち上がって席を譲ると目立つから「右の手のしていることを左の手にしらせない」ためだと、寝たふりをしてはいけません。さっと立ち上がって、席を譲るとおばあさんも助かるし、そういうことが社会であたりまえのことになれば、もっとこの社会はお互い住みやすくなります。

 

 ところで、光というものはどれだけ大切なことでしょう。2018年9月6日、胆振東部地震で北海道全部が大停電になって、私たちは夜を暗闇の中でしばらく過ごしました。光がないというのは、まことに不便なものだと改めて知りました。光があってこそ、暗い夜も生活することができます。

また、植物は太陽から注がれる光を受けて、光合成を行ない、小さな種から大きな作物となって行きます。直径一ミリほどの種が、大きな白菜になったり、大根になったりします。降り注ぐ光の力です。光はエネルギーであって、そのエネルギーがいのちをはぐくむのですね。光がなければ、私たち地球で生きるものたちはみな食べ物を得ることができず餓死してしまいます。

 「あなたがたは世界の光です」と主イエスはおっしゃいました。イエス様が光そのものですが、私たちもまたイエス様の光を映してこの世を照らす光としての役割をになっています。光はエネルギーであって、いのちを育む力です。元気を失っている人、希望を失って悲しんでいる人のそばに寄り添って、静かに話を聞くことによって、イエス様のいのちのエネルギーをお分かちできるとしたら、そのとき、あなたも世の光です。喜ぶ者とともに喜び、なく者とともに泣くならば、あなたも世の光です。そういう共感をしてくれる人がいたら、と思っている人は今の世界にはとても多いのですね。

  「あなたがたは世の光です」と主イエスは私たちにおっしゃいます。暗闇の海の中で難破している舟のような人生を漂っている人たちにとって、クリスチャンは真理といのちに導く灯台の光です。私も、高校時代、そういう友人に出会って、牧師のもとへ、教会へ、イエス様へと導かれたのでした。ほとんどの皆さんにとっても、ご自分の人生にとって灯台の役割をしてくれた人がいたのではありませんか。小野君枝姉によってイエス様のもとへ、教会へと導かれた方たちが何人もいるとうかがいました。

「あなたがたは世界の光です」。だから、自分がキリスト者であることを隠してはいけません。人生の暗闇に迷い、沈没しそうな難破船のような状態に陥っている人が、あなたのそばにいるかもしれません。あなたという光がなければ、その人は本当に人生に絶望して沈没してしまうかもしれないのです。だから、私はクリスチャンですと、旗印を鮮明にして生きて行きましょう。

「私はクリスチャンです。私はわたしの罪のために十字架にかかって死に、よみがえってくださったイエス・キリストを信じています。」いつでも、どこでも、もし問われたならば、このようにあなたの中にある信仰と希望を告白することにしましょう。

 

結び

地の塩として人々の中に浸透して、地道に生きること。

世の光として、「私はクリスチャンです。イエス様こそ希望です。」と恥ずかしがらずに証して生きること。これらのことを大切にしてまいりましょう。

クリスチャンはとても貴重な存在なのです。

いのちと時

マルコ4章26-34節

2016年8月21日

 「神の国」とは神の支配という意味だと先にお話ししました。神の国の究極的な完成は、次の世においてですが、今の世にあっても、神様のみこころが成っていく所にはすでに神の国は来ているのです。 「神の国」は、あなたの心の中に、あなたの個人生活の中に、あなたの教会生活の中に、家庭生活の中に、職場の中に、社会生活の中に、世界に広がっていくものです。その神の国のひろがりはどういう性格を持っているのかについて、主イエスは二つのたとえばなしで話されました。一つ目は種まきの譬えです。

「4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、

 4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。

 4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。

 4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

 

1 「種」                                                  

 まず注目すべきことは、神の国が大きくなっていくことが、建物の建設や工業製品の製作ではなく、「種を蒔く」ことに譬えられているという点です。種というのは、そこにいのちがあるということです。神のご支配が広がっていくというのは、生命あるものの成長にたとえられることなのです。

 クリスチャンとして私たちが成長していくということ、キリスト教会が成長して実を実らせていくということ、福音の感化が地域社会に広がっていくということ、世界に広がっていくとくことは、生命的なことであって、工業的なことではないというのです。あるいは農業的であって、工業的でないということです。神の国は生命なのです。

 

2 「種を蒔く」

作物を期待するとき、人間の側は何をするのかといえば、まず、ともかく神の国が成長するための基本は「種をまく」ことです。種にいのちがあっても、その種を後生大事に袋の中に保存しておいては、決して芽が出る事も収穫を得ることもありません。真っ黒でフカフカの土の畑を用意しても、種を蒔かねばお話しになりません。どんなに水をまいても、草取りをしても、種を蒔いていなければ、何も始まりません。

「種」とはみことばです(4:14)。神の国はみことばが地に蒔かれ芽を出して成長するのです。どんな人間的な心理学や社会運動も、神の国の成長にはならないのです。教会がボランティア的活動を行ったりすることはありますし、牧会上人の心の理解のために心理学やカウンセリングの技術が役に立つこともあります。しかし、神のことばが語られ、その種がまかれないならば、誰一人救われて神の支配に帰する人はありません。教会は、神のことばを宣べ伝えるのです。伝道と社会的責任のふたつが教会の使命ですが、優先順位は伝道が先です。

 私たち一人一人の霊的な成長ということにおいても、まずは、神のみことばを自分の心にまくということです。主の日ごとに、あるいは祈祷会ごとに、また、日々の聖書通読でみことばをしっかりと聞き、自分の生活に適用することです。そうするときに、あなたの人格の隅々にまで神の支配がひろがり、あなたの生活の隅々にまで、神のご支配がひろがり、やがて家庭に地域社会に、神の国が広がってゆきます。

 

3 「夜は寝て、朝は起き、そうこうするうちに」

 米作りを考えると、苗代に種を蒔き、田んぼの代掻きをし、田植えをし、猛烈に伸びる雑草を取り、水の管理をし、そして収穫ということになります。「夜は寝て、朝は起き、そうこうするうちに」というのはこのようなことが含まれます。

私たちの信仰生活にも必須のルーチンワークがあります。時々はたとえばライフラインの集いとか、わくわくデーとか、クリスマス特別プログラムなど楽しいことがありますが、多くの日々は、朝起きたら、聖書を読んで心に種まきをし、今日一日、歩むべき道を信仰を働かせてくださいと祈り、そして、夜には一日の十の恵みを数え上げて、また罪の告白をして主イエスの十字架の下で悔い改めてゆるしをいただき、また感謝を捧げて眠りにつく。こうした単調とも思えることを毎日毎日コツコツと繰り返すことが、神の国があなたの生活に広がっていく上で大事なことです。

また、教会の成長ということについても、たまに行うイベントに頼って伝道するのではなく、毎月、毎週、伝道することが基本です。私は東京で9年間宣教師と伝道をした後、長野県の山間部の南佐久郡で開拓伝道を志しました。そのとき、何人かの先輩の先生がたにお話しをうかがいに行きました。その中で一番印象に残ったのは開拓伝道の実を上げてこられたT先生の話でした。どのようにして伝道して来られたのかとうかがうと、T先生は「うちでは特別伝道集会はしないことにしている。特伝をすると、それだけで伝道しているという自己満足に陥るからです。伝道は、毎月、毎週するものです。その基本は個人伝道です。」とおっしゃいました。おっしゃることばは、私にとってまさに図星でした。

それで、小海に開拓伝道に入ってから、私に毎月できる伝道を考えて、毎月「通信小海」という伝道新聞を作って南佐久郡全戸に新聞折込にして伝道をしたのです。方法はいろいろありえましょうが、毎月毎週毎日の伝道ということを実行していきたいと思います。

 

4 「初めに苗、次に穂、次に穂の中に実」

いのちには時間がかかり、段階があります。「初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫のときが来たからです。」苗ができないのに穂ができることはありません。穂がないのに、実が熟すこともありません。初めに苗、次に穂、次に穂の中に実という順番があります。成長には時間がかかり段階があるということです。種から一足飛びに花が咲くということなどないのです。だから焦らないことです。

神の国が、あなたの人格のなかで成育していくことについて、このことを考えて見ましょう。「はじめに苗」というのは、義認と「子とされること」です。<神の前に自分の罪を認めて、イエス様が私の罪からの救い主であると信じて受け入れると、神はあなたの罪を赦してくださり、かつ、ご自分の子として神の家族のうちに迎えてくださる>ことです。これが「はじめに苗」です。神様の前に自分の罪を認めて、イエス様を罪からの救い主として受け入れることなしには、キリスト者生活をスタートすることはできません。どんなに奉仕に熱心でも、どんなにたくさん献金をしても、どんなに十戒を基準として道徳的な生活に励んでみても、その人は救われていないのです。まず、自分の罪を認めて、主イエスの十字架と復活は私のためでしたと信仰をもって受け入れることです。

洗礼の準備クラスで長島茂雄選手の一塁ベース踏み忘れ事件の話をしました。一塁ベースを踏まずに二塁、三塁を回ってホームベースに帰ってきても、アウトです。イエス様の十字架が自分の罪のためであったという事実を受け入れないままに、どんなに忠実に献金をささげ、奉仕をし、毎週礼拝に来られても、最後はアウトです。「カルヴァリの十字架がわがためなり」という信仰が一塁ベースです。

その上で、「次に穂」「穂の中に実がはいり収穫」となります。これはクリスチャンの一生涯をかけて、イエス様に似た人柄に変えられていくこと、すなわち、御霊の実を結ぶことです。御霊の実とは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。みことばと祈りと教会生活をたいせつにすること、そして、試練が訪れたときには祈りつつ忍耐すること。そうすれば、こうした御霊の実が実っていきます。

 

5 成長は神の力による

                                                                                 「どのようにしてか、人は知りません」とか「地は人手によらず実をならせるもの」とあります。このことばでもって主イエスはなにをおっしゃろうとするのでしょう。それは、私たちは神の国の成長のためになすべきこととして御言葉をまくとか、水をやるとかはあるにしても成長させるのは神の力であるということです。植物を育てるとわかることは、種まきをした、水をやったからといって、みながみな同じように成長するわけではないということです。あるものの発芽は早く、あるものは遅い。あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは20倍。それぞれの種の個性があって、人間の計画通りには行きません。

 

 そのように、私たちは霊的成長のために努力しますが、ほんとうに成長させてくださるのは神様の聖霊なのです。私たちは神の協力者ですが、成長させるのは神なのです。神様にゆだねていく、あせらない、時がよくても悪くても、神様に期待して忠実に生きる。そういった姿勢がたいせつであるゆえんです。

 もうひとつの譬え言われていることはこのことです。

4:30 また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。 4:31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、 4:32 それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」

  神の国は、神の力によるものだからこそ、思い掛けないほどの成長がありえるのです。人間の常識でははかりしれないほどの成長があるのです。実際、主イエスの福音は、最初は小さなからし種ほどのものでした。世界の片隅イスラエルでした。面積は2万770平方キロメートル。北海道は8万3千450平方キロですから、北海道の四分の一ほどにすぎません。その片田舎のナザレから始まった神の国、教会は、今や全世界を覆う大木となりました。それは人間の力によるのではなく、神の力によるものであるからです。

 そして、あなた自身のこと。自分を見限ってはいけません。「自分はこの程度のものだ」とか「自分はこういう性格だから仕方ない」などと見限って、悔い改めを徹底しない人がいます。そうでなく、主が求め給うままにすなおに悔い改め、主イエスの十字架によるゆるしを素直に信じて歩むならば、神はあなたをも支配してゆくようになります。やがて、あなたの家族までも救いに導かれるでしょう。神の国からし種のようなものです。今はちっぽけであっても朝は起きて夜は寝て、そうこうしているならば、やがて大きな木になるのです。それは人の力による成長ではなく、神の力による成長であるからです。私たちは、日々御言葉にしたしみ、悔い改めつつ安んじて聖霊に信頼して神の国が教会としても、あなたの家族においても拡大して行く事を信じて歩みましょう。

 神の国は、信じる者のところを訪れるのです。

 

量るように量られる

Mk4.24,25

「4:24 また彼らに言われた。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。

 4:25 持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」

 

 主イエスの「神の国」つま、神のご支配のもとに生きる人生についての教えが続いていきます。今日は、その中で、私たちは他の人を量るように量られるという、神の国の法則ということを学びたいと思います。「量るように量られる」という法則については、聖書の中では二つの意味のひろがりがあります。

第一は、神のご支配の下に生きるクリスチャンの幸いな経済法則として私たちが他の人を「量るように量られる」ということであり、第二は、裁きにかんして私たちは他の人を「量るように量られる」ことについてです。本日はお話しの順序として、まず、神の国の経済法則として「量るように量られる」という法則について、次に、神の国のさばきの原則として「量るように量られる」ことをお話ししましょう。

 

1 神の国の経済原則

 

 神の国の経済原則といえば、旧約レビ記、マラキ書、新約ではマタイ福音書で十分の一は神のものとして十分の九で生活するところに祝福があるとありますが、主イエスは新約時代のクリスチャンには加えてもうひとつの経済原則を教えられました。それが「量るように量られる」です。イエス様がお教えになったのは、マルコ福音書4章24,25節、および、ルカ福音書6章38節です。

ルカ6:38

「6:38 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

 イギリスにいた敬虔なクリスチャン、ムーアさんというご夫妻の証を読んだことがあります。ムーアさんたちはお金であれ食べ物であれなにかが手に入ると、それはすべて自分たちに与えられたものではなくて、その一部は神様が誰か自分の周囲の乏しい人に与えるために余分にくださっているものなのだという認識をもって生活をしていました。そして、自分たちの必要はいつでも必要なものは満たされていました。

 ところがある夕食時、ムーアさん夫婦はそのときお金がなくて、食卓についてパンが変えませんでした。夫婦は祈りました。「神様。私たちが施すことをお約束したものでありならが、忘れていたものがあったのでしょうか?教えてください。」こう祈っているうちに、「あ、あれだ!」と思い出して、二人は目を開けてにっこりと笑いました。地下室に、近くの孤児院に寄付するために取り置いていた一缶のバターを持っていくのを忘れていたことに気づいたのです。そこで夫婦はそのバター缶を孤児院に持ってゆきました。夫婦が、よかったね、といいながら帰って来ると、玄関にはちゃんと誰が持ってきてくださったのか、パンが置いてありました。

 そういえば、かつて私も似たような経験をしたことがあります。多くのクリスチャンは、ムーアさんだけでなく、そういう経験をしているのかもしれません。

 神様が私たちクリスチャンに何かをくださるときには、あらかじめ余分をつけてくださるのです。乏しい人に与えて、そこに愛の交わりが実現するために託してくださったのですから、収入があったとき全部自分だけで消費してはいけません。箴言22章2節に「富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは【主】である。」とあります。 パウロはこんな勧めもしています。エペソ4:28「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」私たちに健康が与えられて仕事ができているのは、神様の恵みです。その恵みを通じて、私たちが仕事をして収入を得るとき、神様は私たちが困っている人たちに施しをするぶんも余分につけていてくださるのです。そして、そこに愛の交わりが生じ、また、神を経験することがあるのです。(ペイフォワード)

 あるとき、東京渋谷にある教団事務所に、月曜日にある委員会にまいりましたら、委員長の石川弘司先生がご自分が遅刻したお詫びとかいって、ご自分が好きなアンパンを買ってきてくださいました。私は「ああ、こずえはアンパンが大好きだがら、もって帰ってやろう。」と私はかばんに入れました。仕事が終わって、翌火曜日午前11時頃、信州の自宅についたら家内がお茶を出してくれました。そこでかばんを開けて、「昨日は石川先生がアンパンを買ってきてくれたんだ。はいお土産。」と言いました。そしてお茶を飲みながら、昨日あったあのこと、このことをお互い報告していたのですが、こずえの目の前で、無意識にそのアンパンを全部たべてしまいました。こずえは目をまん丸にしていました。・・・こいうのはよくない例です。

 神様がなにかくださったとき、余分を付けてくださっているんだということを忘れないで憶えておきましょう。

 

2 神の国のさばきの原則

 

 次に神の国のさばきの原則としての「量るように量り返される」という法則について、です。神様が私たちひとりひとりをさばくにあたっての裁きの物差しについてです。まずマタイ7章1-5節

 7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。

 7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

 7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。

 7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。

 7:5 偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

 イエス様が、私たちをご覧になると、「あなたがたはたいへん不公正な人間だねえ。他の人を量る物差しと、自分を量る物差しが違うではないか」と呆れていらっしゃるのです。人を量る物差しはたいへん厳格であるくせに、自分を量る物差しはやたらと広やかでいい加減ではないか、と。人の目のなかのおが屑が気になって仕方がないくせ、自分の目には大きな丸太棒が入っていても平気で一向気づかないじゃないか、というのです。大体、自分の目に丸太棒が入っていたら目など見えないでしょう。そうだ、あなたがたは自分の欠点、自分の失敗については、やたら寛容なくせに、他人の失敗や欠陥については、やたら情け知らずなのです。

 人のほっぺについているご飯粒はすぐ見えますが、自分のほっぺについているご飯粒には気が付かないでしょう。

 ですから、こうして人を指差すとき、自分のほうを三本の指が指していることを意識しましょう。

 

3 あわれみ深くあること

 

 ルカ6章36-37節

あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。

 神様は私たちと違ってたいへん公正なお方なので、その裁きは公正です。私たちは、えてして他人を量る物差しは厳格で、自分を計る物差しは緩やかですが、神様があなたをさばくときには、あなたが他人を量ったその物差しによって、あなたをも量るのです。だから、自分に対する神様のさばきの基準はいわば自己申告制なのです。私たちは人をさばくときに、神様の前に、私をこの基準でさばいてくださいと申し出ているのです。

もし神様からきびしく取り扱っていただきたいならば、他の人とくに兄弟姉妹に厳しく非難することです。神様はその基準であなたを取り扱ってくださいます。しかし、もし、あなたが神様から寛容に取り扱っていただくことを望むならば、あなたの隣人、特に兄弟姉妹に対して寛容であることです。神様はおっしゃいます。「おまえは、彼をずいぶん厳しく非難しているけれど、その基準で、わたしはあなた自身をも非難するが、あなたはそれで大丈夫なのだな。」とおっしゃるのです。これが神の国におけるさばきの法則です。

 ある書物で読んだ話です。中国のある地域の牧師たちの集いの中で、1人の牧師の息子が不道徳な罪を犯したことをとてもがっかりして報告しました。そして「祈って欲しい」と。そのとき、一人の正義感の強い別の牧師が手厳しく、その牧師を非難しました。

「聖書には、『自分自身の家を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話することができるでしょう。』(1テモテ3:5)と、牧師・長老の資格について教えられています。あなたは自分の息子をちゃんと指導できていないのに、牧師の資格があるのですか?」・・・たしかに正論です。しかし、正論を吐く前に、その同労者がどれほどその件で苦しんでいるかを思いやる憐れみが必要だったでしょう。・・・その後しばらく経って、あの正義感の強い牧師の子どもが甚だしい罪を犯したそうです。・・・彼は他人を量ったように量られたのでした。

 神は公正なお方です。私たちは自分に甘く、他人に辛い物差しを当てますが、神は私たちが他人をさばいたその基準で、私たちに量り返されます。

 

 私たちは今朝も主の祈りを祈りました。主の祈りの中に、文語訳では「われらに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」とあります。新改訳では「私たちの負い目をおゆるしください。私たちも私たちに負い目のある人たちをゆるしました。」とあります。文語で「ごとく」と訳されたことばは、ギリシャ語でホースというのですが、「比例して」という意味のことばです。「私たちが私たちに負い目のある人たちを赦すのと比例して、私たちの負い目を赦してください。」と私たちは祈るのです。「私たちが私たちに負い目のある人たちを赦さないのに比例して、私たちの負い目を赦さないでください。」と祈っているのです。

 これはクリスチャンに対する永遠のさばきに関することではありません。永遠のさばきについていうならば、神様はイエス・キリストにあって、私たちを絶対的にゆるしてくださいました。ここで言っているのは、神の神の民クリスチャンに対するお取り扱いについていっているのです。クリスチャンは誰かを赦さないでいるとしても、神様はその他人を直ちにクリスチャンではない地獄行きだなどとはおっしゃいません。キリストの十字架のゆえに、そのクリスチャンの罪は赦されたのです。しかし、だからと言って誰かのことを「私は決して赦さない」という心でい続けるならば、その人は自分が神から赦されたという喜びと平安を失ってしまいます。神様は、自分が罪ゆるされたことがどれほど大きな神の愛と犠牲によるのかを教えるために、その不寛容なクリスチャンを厳格に取り扱われるのです。

 お父さんと二人の息子がいたとします。ある日、兄息子が父親が大事にしていたものを壊してしまいましたが、『ごめんなさい、お父さん』というので赦してやりました。ところが、弟が兄の大事にしていたものを壊してしまいました。すると兄は弟がどんなに謝っても赦してやりません。そこで、父親は「お前がお父さんの大事なものを壊したとき赦してやったではないか。そんなことなら、お父さんはお前のことを赦さない。」と言うでしょう。その父親は長男にゆるしを学ばせるために、一時的に長男を懲らしめるのです。

そのように、もしあなたが兄弟を赦さないでいると、神様は、あなたから神様に赦されたという平安を奪ってしまいす。ですから、私たちにとって大切なことは兄弟姉妹に対して、あわれみ深くあることです。

ヤコブ2章3節

2:13 あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。

 

結び 

 パウロは、愛の章である第一コリント書13章で、愛について教えるにあたって、まず「愛は寛容であり・・・」と語っています。神様が、私たちを赦してくださったように赦すものでありましょう。また、神様が私たちに気前よく測ってくださるように、兄弟姉妹に気前よく測るものとなりましょう。

世の光

マルコ4:21-23

 

2016年8月7日 苫小牧主日礼拝

4:21 また言われた。「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。

 4:22 隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。

 4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」

 

 

1.「あかり」

 

「あかり」とはランプのことです。イエス様の時代のランプというのは、平らな素焼きの急須のようなかたちをしていました。急須でいえば、お湯を注ぎいれる口から油を入れて、お茶を注ぎだす口に灯心を差し込んで、ここに火をともして使用するものでした。

当時、イスラエルの庶民が住んだ家は日干し煉瓦を積み上げて造られたものですから、窓は小さくてお昼でも家の中はかなり暗かったのです。夜はもちろんですが、お昼でも銀貨を落としたおばさんが、ランプをもって家の隅をさがしまわらねばならなかったとルカ伝15章にあります。そんなふうに生活必需品でした。

あかりをもってきたのに、それを枡の下に隠したり、ベッドの下に隠したりしては役に立ちません。ちゃんと暗いところを照らしてこそ、明かりとしての役割を果たすことができます。当たり前のことです。

 

では、イエス様はここで「あかり(ランプ)」という譬えで何を話そうとしていらっしゃるのでしょうか。それは、イエス様を信じるあなた自身です。また、イエス様を希望として生きている苫小牧福音教会という信仰共同体のことです。イエス様をわが主と受け入れたそのときから、イエス様は、あなたたを、また、私たち教会を世の光となさいました。

ランプが生活必需品であるように、あなたという存在は、あなたの遣わされた家庭や職場や地域にあって、必需品、必須の存在なのです。また、私たち苫小牧福音教会は、自分たちではそんなふうに思えなくても、神様の目から見るならば、実はこの地域にあって必要不可欠な存在なのです。なぜ必要不可欠といえるのでしょうか。少なくとも二つの理由があります。

紀元前2000年頃、神ご自身が二人の御使いとともにアブラハムに現われたことがありました。それは、ソドムとゴモラの地の滅亡を告げるためでした。アブラハムはそこに甥のロトとその家族が住んでいることを思い、ソドムのために粘り強くとりなしの祈りをしました。その最後に、こうあります。

18:32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」

 ごくわずかであっても、そこに真の神を畏れる民がいるならば、神はその町を滅ぼすことを猶予してくださるのです。これが教会が、この苫小牧に、この日本にとって必要不可欠な理由の第一です。

 

教会が必要不可欠な第二の理由は、暗闇の中のランプとして、神様のこの町の人々、この国の人々、この世界の人々に、真理を明らかにするためです。ですから、自分が天地の創造主である真の神さまを信じていること、御子イエス・キリストを信じていることを、世の人たちに隠していてはいけません。それはランプをもってきて、枡の下に、ベッドの下に隠して置くような奇妙なことです。イエス様を信じたならば、私たちは旗印を鮮明にすることが大事なことです。

 

2.暗闇

 

(1)神奈川県相模原市

 私たちは、日本社会が闇に覆われているという現実を、先々週、恐ろしいほどに実感させられました。神奈川県相模原市の障害者施設で、「愛国心」に燃える男が、19人の入居者を殺害し、26人に怪我を負わせました。彼は「障害者のせいで税金がかかる」「障害者が減れば税金がそのぶん浮く」などと発言しています。また、植松容疑者は、衆議院議長大島理森自民党)に宛てた手紙には、自分は愛国のために、障害者470名「抹殺」できること、今回の「作戦」では2つの施設の260名を殺害するつもりであり、心神喪失による犯行として服役最長2年間にしてほしいこと、また、5億円の金銭的支援を約束して欲しい旨を記し、二回にわたって安倍晋三様に相談して欲しいと結んでいます。

http://mainichi.jp/articles/20160727/k00/00m/040/020000c

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  衆議院議長大島理森

 

 この手紙を手にとって頂き本当にありがとうございます。

 私は障害者総勢470名を抹殺することができます。

 常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為(ため)と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。

 理由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれないと考えたからです。

 私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。

 重複障害者に対する命のあり方は未(いま)だに答えが見つかっていない所だと考えました。障害者は不幸を作ることしかできません。

 今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛(つら)い決断をする時だと考えます。日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。

 世界を担う大島理森様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょうか。是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います。

 私が人類の為にできることを真剣に考えた答えでございます。

 衆議院議長大島理森様、どうか愛する日本国、全人類の為にお力添え頂けないでしょうか。何卒よろしくお願い致します。

    文責 植松 聖

 

 作戦内容

 職員の少ない夜勤に決行致します。

 重複障害者が多く在籍している2つの園を標的とします。

 見守り職員は結束バンドで見動き、外部との連絡をとれなくします。

 職員は絶体に傷つけず、速やかに作戦を実行します。

 2つの園260名を抹殺した後は自首します。

 作戦を実行するに私からはいくつかのご要望がございます。

 逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい。心神喪失による無罪。

 新しい名前(伊黒崇)本籍、運転免許証等の生活に必要な書類。

 美容整形による一般社会への擬態。

 金銭的支援5億円。

 これらを確約して頂ければと考えております。

 ご決断頂ければ、いつでも作戦を実行致します。

 日本国と世界平和の為に、何卒(なにとぞ)よろしくお願い致します。

 想像を絶する激務の中大変恐縮ではございますが、安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております。

植松聖

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(2)弱者切捨て思想と政治の責任

 植松容疑者は大麻を使用していたようですから、確かに、正常な知性でものを考えて行動したことではありません。しかし、ではこの事件は、単に一人の異常者の引き起こした異常な事件として済ませられるかと言うと、そうとは言えません。これは現在の政治と世相と深いつながりがあるからです。二つ理由があります。

第一は、植松容疑者が安倍氏首相に対して敬意と親近感をもっていることが明らかだからです。彼は手紙の中で二度までも、「是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います。」「、安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております。」と首相に言及しています。植松容疑者は、安倍政権が彼の主張と行動に賛同してくれると思い込んでいたのです。

第二は、安倍政権支持者たちが、植松容疑者の発言について共感を示す人々がネット上で発言しているからです。〈そうやってみんなすぐ植松容疑者が異常だと言い張るけど行動がよくなかっただけで言ってることは正論だと思う〉〈植松の言ってることはこれからの日本を考えるとあながち間違ってはいない〉〈穀潰しして連中に使われる予定だった税金節約して、国の役にたったよ彼は。〉彼らは、〈自民と公明が勝ってるのみるとマジでせいせいする〉〈安倍総理を応援してる自分がいる〉といって、障がい者ヘイトを垂れ流している自らが安倍政権の支持者であることを明らかにしています。彼らは第二、第三の植松容疑者となりうるのです。

 さらに、「愛国を考えるブログ―自民党ネットサポーターズクラブ会員として愛国という視点から自らの意見を論理的に述べるブログ」の中には、「重度障害者を死なせることは決して悪いことではない」という文章があります。

 自民党ネットサポーターズクラブという団体は、 麻生太郎谷垣禎一安倍晋三を最高顧問とし、小池百合子を相談役としています。このネットサポーターズクラブは、インターネット上でヘイトスピーチを繰り返して、世論を現政権に有利な方向に誘導するために運動をしていて、会員1万人です。

「こんな異常者たちの発言について自民党政府は責任がない」とは言えません。なぜなら、政府閣僚はこの種の発言をくりかえしており、かつ、それを露骨に政策に反映しているからです。麻生氏は終末期医療にふれて「さっさと死ねるようにしてもらうとか、考えないといけない。」といい、延命治療について「そのお金が政府の金でやってもらっているなんて思うと、なおさら寝覚めが悪い。」「たらたら飲んで、食べて、何もしない人(=患者)の分の金(=医療費)を何で私が払うんだ。」「90歳で老後が心配って、いつまで生きるつもりだ」と発言しています。

政策についていえば、たとえば昨年から今年精神障害者の障害者年金を1割減額して、7.9万人の人々が支給を停止されたり減額されています。植松容疑者は尊敬する首相や副首相の模範に倣ったのです。政府の弱者切捨て思想の暗闇が、庶民の良心をも覆ってしまって、人間の尊厳ということを見えなくさせてしまっています。これが、現代日本を覆っている闇です。

 

3. 人間の尊厳の根拠

 

 このような時代、私たちは世の光として、闇の中で聖書の真理を輝かせる務めがあります。聖書は人間の尊厳について、なんと教えているでしょうか?

「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」創世記1:27

また、御子イエスは、人が、神の似姿に造られた尊い存在であるからこそ、十字架で身代わりとなって命を投げ出してくださったのです。

ここに、人間の人間としての尊厳の根拠があります。どういう家柄に生まれたとか、何ができるとかできないとか、カネがかせげるかせげないとか、偏差値が高いか低いか、健康であるか病気であるかとか、兵隊になれるかなれないかとか、そういうこと以前に、あらゆる人間が神の似姿として造られたゆえに、尊いのです。私たちは、効率主義、功利主義、拝金主義、新自由主義経済、国家主義という暗闇におおわれた時代の中で、私たちは聖書が教えるこの真理を証しする世の光です。

 自閉症という障害をもって生まれた子の父親神戸金史さんという元毎日新聞記者の方が書かれた詩を紹介しておきます。

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私は、思うのです。

長男が、もし障害をもっていなければ。

あなたはもっと、普通の生活を送れていたかもしれないと。

 

私は、考えてしまうのです。

長男が、もし障害をもっていなければ。

私たちはもっと楽に暮らしていけたかもしれないと。

 

何度も夢を見ました。

「お父さん、朝だよ、起きてよ」

長男が私を揺り起こしに来るのです。

「ほら、障害なんてなかったろ。心配しすぎなんだよ」

夢の中で、私は妻に話しかけます。

 

そして目が覚めると、

いつもの通りの朝なのです。

言葉のしゃべれない長男が、騒いでいます。

何と言っているのか、私には分かりません。

 

ああ。

またこんな夢を見てしまった。

ああ。

ごめんね。

 

幼い次男は、「お兄ちゃんはしゃべれないんだよ」と言います。

いずれ「お前の兄ちゃんは馬鹿だ」と言われ、泣くんだろう。

想像すると、

私は朝食が喉を通らなくなります。

 

そんな朝を何度も過ごして、

突然気が付いたのです。

 

弟よ、お前は人にいじめられるかもしれないが、

人をいじめる人にはならないだろう。

 

生まれた時から、障害のある兄ちゃんがいた。

お前の人格は、

この兄ちゃんがいた環境で形作られたのだ。

お前は優しい、いい男に育つだろう。

 

それから、私ははたと気付いたのです。

 

あなたが生まれたことで、

私たち夫婦は悩み考え、

それまでとは違う人生を生きてきた。

 

親である私たちでさえ、

あなたが生まれなかったら、

今の私たちではないのだね。

 

ああ、息子よ。

 

誰もが、健常で生きることはできない。

誰かが、障害を持って生きていかなければならない。

 

なぜ、今まで気づかなかったのだろう。

 

私の周りにだって、

生まれる前に息絶えた子が、いたはずだ。

生まれた時から重い障害のある子が、いたはずだ。

 

交通事故に遭って、車いすで暮らす小学生が、

雷に遭って、寝たきりになった中学生が、

おかしなワクチン注射を受け、普通に暮らせなくなった高校生が、

嘱望されていたのに突然の病に倒れた大人が、

実は私の周りには、いたはずだ。

 

私は、運よく生きてきただけだった。

それは、誰かが背負ってくれたからだったのだ。

 

息子よ。

君は、弟の代わりに、

同級生の代わりに、

私の代わりに、

障害を持って生まれてきた。

 

老いて寝たきりになる人は、たくさんいる。

事故で、唐突に人生を終わる人もいる。

人生の最後は誰も動けなくなる。

 

誰もが、次第に障害を負いながら

生きていくのだね。

 

息子よ。

あなたが指し示していたのは、

私自身のことだった。

 

息子よ。

そのままで、いい。

それで、うちの子。

それが、うちの子。

 

あなたが生まれてきてくれてよかった。

私はそう思っている。

 

父より 

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神の国の奥義

マルコ4章1-20節

2016年7月31日

序 4章は1節から34節までは、神の国(天の御国)についての譬えが続いていきます。

 「天の御国」というのは、「神の国」と同義語です。国と訳されることばは、バシレイアといいますが、バシレウスというのは王様のことですから、バシレイアは王国です。王国というのは、王様が支配者として支配している国。ですから、天の王国、神の王国ということは、神の支配する国のことです。

 

1 真理を明らかにしていただける時代

 

(1)たとえ話を悟らない人々

 イエス様はこの日、多くの群衆に押し迫ってきたので、彼らみなに声が届くために、小舟に乗って腰を下ろして、小舟から岸の群衆に向かってお話をなさいました。腰を下ろして話すというのは、当時の正式な教え方です。湖面を吹き渡るそよかぜにイエス様の声が運ばれて、湖畔に立つ群衆の耳に届くように配慮されたのです。まずは、種まきのたとえです。3節から9節。

4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。

 4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。

 4:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。

 4:6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。

 4:7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。

 4:8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」

 4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

 その場にいて、この種まきの譬えを聞かされて解き明かされなかった人々は、どういう風にこれを理解したのでしょう。ある人は、「イエス様は大工さんなのに、農業指導員みたいな話をするなあ。」と思ったでしょう。ある人は「いったいイエス様は何を教えたいのだろうか?」と首をかしげながら帰ったことでしょう。いずれにしても、多くの人たちにはこの譬えの意味はすぐにはわからなかったのです。

 譬え話というと、ふつうわかりにくいことをわかりやすくするためにするものだと考えますが、この譬えだけを聞かされたとしてもいったい何をイエス様が伝えようとなさっているかはわからなかったでしょう。特に、これは神の王国の譬えですが、当時の多くのユダヤ人たちは「王国」と聴いて思い浮かべるのはかつて1000年ほど前にダビデやソロモンが王として支配していた時代のイスラエルの栄光の時代でした。ですから、彼らはイエス様に地上的な王国、憎きローマ帝国の軍隊を打ち破り、帝国のくびきからイスラエルを解放する強力な王様が出現して、繁栄する地上の王国を期待しました。

ところが、イエス様のもたらす神の王国は、そういう政治的なものではなくて、私たちの心の中に始まって生き方に神を愛し隣人を愛するという変化をもたらし、家庭が変わり、職場が変わり、地域が変わり、社会が変わるというふうに浸透していくものでした。また、それはこの世で終わるものではなく、次の世にも永遠に続くものでした。軍事的・政治的革命を期待する人々には、イエス様のたとえ話は全く意味不明でした。

十二弟子たちは不思議に思って、たとえをもって群衆にお話になるわけを、こっそりとイエス様にうかがいました(10節)。するとイエス様は、イザヤの預言を引用されて、次のように説明されました。

「4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。 4:12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」

 イザヤは、神様は心かたくなな人々には、その福音の真理を隠してしまわれるのだとおっしゃっているのです。実際、彼らのうちの多くの者たちはこれからしばらくのちに、この世の軍事的・政治的な王として立ち上がろうとせず、異邦人、ローマ人にも癒しを行ったりするイエス様に失望して、十字架にはりつけて殺してしまいます。

 

(2)真理を明らかにされる人々

 イエス様のたとえの意味する神の王国の真理を悟ることの許されることは決して当たり前のことではありません。マタイの平行記事に次のようにあります。

「 13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。 13:17 まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。」

旧約時代には、信仰の父アブラハム、偉大な預言者モーセダビデ王、イザヤ、エリヤといったたくさんの敬虔な人々がおりました。そうした人々は、メシヤを待ち望み、その約束を与えられましたが、その成就を見ることはありませんでした。レストランのショーウィンドーで美味しそうなサンプルだけ見さられて、「あのお肉はほっぺが落ちるほどうまいよ」と説明されながら、食べられないままに家に帰った人のようです。

しかし、神の御子が人となり救い主としておいでになった、今の時代の私たちは、偉大な預言者や義人たちが切望したそのメシヤを私の救い主として受け入れ味わうことができるのです。私たちはこの時代に生かされ、聖徒として召されたことはなんとありがたいことでしょうか。いくら感謝しても感謝し足りないほどです。

 

2.種まきのたとえ

 

 さて、主イエスは種まきのたとえをもって、神の国の奥義、天の王国の奥義を明らかにされます。それは、政治的・軍事的な行動によってではなく、福音の種が私たちひとりひとりのたましいに蒔かれることによって、芽を出し、花を咲かせて実を結び、さらに、私たちの周囲に広がっていくものなのです。それが神様の方法です。

「4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。 4:15 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。」

 

(1)まず種を蒔く

 種とは御国のことば、キリストの教えです。実を結ぶ秘訣は、みことばの種がまずなにより肝心だということがわかりますね。どんな土地でも、種をまかねば収穫はゼロです。ですから、みことばの種を、個人の生活において聖書を通読し続けることに励み、主の日、あるいはさまざまの集いでみことばを分かち合うことに励みましょう。種を蒔くのは良い地であるに越したことはありませんが、まずは、種を蒔くことが大事です。信州にいて、少し農業の真似事をしていたころ、お百姓さんに畑の土の造り方などを教えてくださいとお話しすると、お話の最後はかならず「とにかく、蒔いてみるだよ。」ということでした。蒔いてみるならば、出来不出来はあっても何か取れますが、理屈を言っているだけでは作物は決して出てきません。福音の種の蒔き方にもうまい下手がありましょうし、条件の違いもありますが、とにかくみことばの種を蒔くことがなにより大事なことです。

 

(2)道端

第一の種は道端に落ちました。これは神のことばにまるで無関心な人、聞く耳のない人々でしょう。つまり、神様のことばが自分に関係があることを悟らず、自分の罪を認めず、悔い改めず、イエスを信じようとしない人です。そういう人の場合には、悪魔が来て、その人の心にまかれたみことばを奪っていってしまいます。「聖書は私とは関係ない」と思っているならば、悪魔がやって来て、その人の心からみことばを奪ってしまいます。

聖書を読むとき、聖書の解き明かしを聞いているとき(今!)、このことばは神様が私に語っているのだという心構えて、心の耳をすませることが大事です。最初から、神などいるものかという選択をしていたら何も聞こえてきません。

 

先週日高バイブルキャンプに出かけまして、そこで1人の中学生と話しながら一緒に、人生における賭けということを考えて、一つの表を完成しました。

 

神を信じる

神を信じない

神がいる場合

◎(充実した人生と永遠の天国)

×(むなしい人生と永遠の地獄)

神がいない場合

○(充実した人生)

△(むなしい人生)

 というわけで、とにかく神様がいると信じて、聖書のことばに耳を傾けるのが賢明な賭けです。

 

(3)砂の薄い岩地

第二は岩地にまかれた種です。一時的・感情的タイプのことです。

「4:16 同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、 4:17 根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」

岩地というのは、1センチか5ミリは少しばかり土があるけれど、その下は岩だという地面です。つまり、イエス様の話を聞いたら、一時的な感情で「信じます」と表明するのですが、すぐに醒めてしまうのです。映画館で感動して泣いたのに、映画館から出てきたら平気で笑っていられるみたいな感じでしょうか。感情というのは、熱しやすくさめやすいものです。イエス様の十字架の愛の話を聞いて感動して信じて受け入れる。けれども、イエス様を主として信じるということは、自分の十字架を負って、イエス様の後に従っていくことなのだということをわきまえていないので、イエス様を信じることのゆえに迫害や困難があると、さっさとイエス様のもとから逃げ出してしまう人です。

実を結ぶ信徒となるためには、エス様を信じるとは、イエスを単に救い主としてでなく、わが人生の主として受け入れ、自分はイエス様の弟子となってしたがうのだということをわきまえなければなりません。「あなたがたは、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」(ピリピ1:29)

 

(4)いばらの地

第三は、いばらの地タイプの人の心です。

「4:18 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞いてはいるが、 4:19 世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」

この人の心にまかれた種は、少しは芽を成長しますが、荊の方がもっと勢いが強いので、日が当たらなくなって結局結実にいたりません。いばらとは「この世の心遣いと富の惑わし」です。知り合いの宣教師が話していたことです。彼が東京で伝道していたとき、Kさんという人が、奥さんといっしょに教会に来るようになりました。当初喜んで聖書クラスなどにも出て洗礼も受けました。ところがある日、教会の修養会があったときのことです。Kさんは宣教師に「先生は富の誘惑に気をつけなさいとおっしゃいますが、わたしは必ず金持ちになって見せます」と豪語したそうです。どうも、宣教師が礼拝説教のなかで富の問題を指摘したことが、カチンときたようです。あのバブル時代のことです。Kさんは、やがて教会から足が遠のくようになり、なにか事業を起こし一時的には羽振りも良かったようですが、やがて事業も家庭も壊れてしまったそうです。今は、どうしているのでしょうか。主のもとに帰ってきているといいのですが。

私たちは、主のために実を結ぶ人生を送りたいならば、この世の誘惑、この時代、格別マモンの誘惑に警戒しなければなりません。イエス様によれば富はえてして神の代用品、偶像になるのです。お金は、私たちの人生の手段であって人生の目的ではありません。私たちの人生の目的は、「神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶ」ことのほかありません。富の管理において神の国とその義とを第一として、主におささげした残りのものをもって生活をするようにと心掛けることです。

 

(5)良い地

そして、最後に第四は良い地にまかれる種は、豊かに結実します。

「4:20 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」

良い地の心とはどういう心でしょうか。

第一に、みことばを聞いたならば、まず、私たちは、「これは私に語られる神様のおことばだ」と受け入れて聞くことです。「主よ、お語りください。しもべは聞いています。」という心で主のみことばを聞くことです。

第二に、イエスを主として受け入れ、自分はイエス様の弟子となって、自分の十字架を負ってイエス様にしたがうのだということをわきまえることです。

第三に、あくまでもイエス様を主として、富の誘惑、この世の欲の誘惑に警戒することです。富の管理において神の国とその義とを第一として、主におささげした残りのものをもって生活をするようにと心掛けることです。

こうした心がけを実践するならば、ある人は百倍、ある人は六十倍、ある人は三十倍の実をむすんで、イエス様にご栄光をお返しすることができます。「よくやった。よい忠実なしもべだ。」とかの日には、天国に迎えていただくことができます。

 

結び

私たちは人生のある時点で、神様からの呼びかけを受けます。昨年の夏、天に召された吉田廣兄弟は若い日に、近所にひとりの牧師が住んでいて交流があったそうですが、そのときは神様の呼びかけを受け入れないままにその後の人生を歩まれたそうです。

けれども、年を召されてからご夫妻で苫小牧福音教会に通われるようになり、キリストの福音を私のためであったのだと受け入れて洗礼を受けられました。毎主日、ご夫妻で忠実に礼拝に出席され、ご奉仕をなさり、豊かにささげる人生を歩まれ、その御霊の実を結ばれた穏やかなお人柄が、兄弟姉妹に良い霊的な感化を与えられたとうかがっています。病を得られてからは、酸素ボンベを携えて礼拝に来られていらしたとうかがっています。

昨年、兄弟が天に召されたその日は、美園まきばに奥様が出席し帰宅されて、廣兄弟にそのまきばのご報告をなさると、兄弟は嬉しそうに聞かれました。それから呼吸が苦しくなられて午後4時頃に主イエスが兄弟を天に迎え入れてくださいました。兄弟の地上における信仰生活は必ずしも長いものではありませんでしたが、みことばを受け入れ、豊かな御霊の実を結ばれた、主に喜ばれるものでした。いつかお目にかかれる日を、私も楽しみにしております。

 

私たちも、神様の前に豊かに実を結び、神の国、神のご支配をあなたの生活に、家族に、仕事の仕方に、地域社会、世界に広げて行きましょう。

主イエスの家族

マルコ3章20-35節

 

2016年7月24日 苫小牧主日礼拝

3:20 イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。

 3:21 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。

  3:22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

 3:23 そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。

 3:24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。

 3:25 また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。

 3:26 サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。

 3:27 確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。

 3:28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。

 3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」

 3:30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。

   3:31 さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。

 3:32 大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています」と言った。

 3:33 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」

 3:34 そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。

 3:35 神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

 

 

序 本文の構造・・・挟み込み

 本日お読みした聖書箇所は、少し珍しい書き方がされています。つまり、20節21節でイエス様の家族の者たちが、「兄ちゃんがおかしくなってしまった」と心配して迎えに来たということが語られているのですが、その話はいったん切れて、イエス様と律法学者たちの議論が挟み込まれて、31節で話が再開するのです。イエス様の律法学者との議論を聞いていた人々が、「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています」と言ったのでした。

 こういう「挟み込み」の書き方をマルコは時々しています。マルコは何を意図しているかといえば、二つの場面が同時進行していることを、この書き方でもって表わそうとしているのです。全体に共通するテーマとは、「家」ということでしょう。主イエスの肉の家、サタンの家、そして、主イエスの霊の家です。

 そこで、今日は、話をわかりやすくするために、まず、律法学者が論じていた件から、サタンの家の話、次に、聖霊をけがす罪についてお話し、最後に、イエス様の肉の家族と霊の家族についてお話します。

 

1 ベルゼブル(サタン)の家にも秩序あり

 

さて、場所はガリラヤのカペナウムあたりです。身内の人々がイエス様を連れ戻しに来たとき、イエス様のもとには、はるばるエルサレムから偉い律法学者の先生たちが来て、議論を吹っかけているところでした。律法学者たちは、イエスが数多くの人々から悪霊を追い出して、その影響力から解放していることが単なる噂ではなく、事実であるということ自体は認めざるを得ませんでした。イエス様のもとに行って、多くの人々が病気を癒され、悪霊を追い出されたという数多くの証言を確認できましたし、彼らの目の前で、そういう御業が行われていたからです。

エス様のなす数々の奇跡は「しるし」と呼ばれます。「しるし」とはサインのことで、たとえば野球で監督が三本指で頭をかくサインをすると、「次はヒットエンドランだ」とか、「次はスクイズだ」とかというメッセージを受け取るのです。イエス様の周囲に集まった多くの人々は、御子イエスの悪霊追い出しや、いやしというサインによって、「イエスは神が遣わされたお方なのだよ」という聖霊によるメッセージを受け取ったのです。

しかし、この律法学者たちは、なんとしてもイエスが神から遣わされた者であることを認めたくありませんでした。二つの理由がありました。一つは彼らの律法に関する考え方からすれば、イエスは律法をないがしろにしているように見えたからです。とくに安息日の過ごし方が問題でした。ほんとうは、イエス様こそ、安息日にもっともふさわしい愛の実践をされたのですが、彼らの目にはイエス安息日を破っていると見えました。彼らは「安息日律法を破っているような男が、神の力によって悪霊を追い出すことができるはずがない」と考えました。もう一つの理由は、「ねたみ」でした。これまで民衆は律法学者、とくにパリサイ派の律法学者を尊敬し支持していたのですが、今、急速に民衆の尊敬と人気はイエス様に移って行きつつあったからです。嫉妬というのは、真実を見る目をふさいでしまい、聖霊が与えるサインも見させなくしてしまうものなのです。

そこで、彼らはなんとしても「イエスが神から遣わされた方である」という、聖霊の語り掛けを受け入れないために、屁理屈を考えました。それは、<イエスの中には悪霊のかしらであるベルゼブル(サタンの別名)が住んでいるから、その権威でもって下級の悪霊たちを追い出しているのだ>というものでした。そして、この説を民衆に対して吹聴したのです。

 3:22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

しかし、主イエスは、律法学者たちをそばに呼んで、そんな屁理屈は通用しないと簡単にやっつけてしまいます。

 3:23 そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。 3:24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。

 3:25 また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。 3:26 サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。

 3:27 確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。

 つまりサタンの家にもちゃんと秩序があって、ボスであるサタンと、手下である悪霊たちとがいさかいを起こしたりなどしてはいないのだというのです。今、イエス様が、「強い人」であるサタンを縛り上げているからこそ、その下級の悪霊どもを追放できているのだとおっしゃるのです。

 

2 聖霊をけがす罪

 

 そして、ことのついでに、『聖霊をけがす罪』という罪について、イエス様は律法学者たちに警告なさいます。

3:28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。 3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」 3:30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。

「永遠に赦されることがない、聖霊をけがす罪」とは一体どういうことでしょうか。結論からいいます。イエス様によって赦されない罪は一つもなく、イエス様によらないで赦される罪は一つもありません。したがって、永遠に赦されない罪とは、どこまでもイエス様を拒絶することです。

エスの「しるし」を見た律法学者たちの内側には、聖霊が「イエスは神の遣わされたお方だ。イエスを信じよ。」と語りかけられました。それを拒絶して、彼らは心かたくなにして「イエスは悪霊のかしらベルゼブルに取り付かれているのだ」と主張しました。そして悔い改めのチャンスを自らつぶしたのです。彼らは永遠の滅びを選び取りました。

聖霊は人のうちに働いて罪を自覚させ悔い改めを促し、イエスが神の御子であることを示すのです。しかし、もしイエスをあくまでも拒絶するならば、もはや、その人は悔い改めて、イエスを信じることができなくなってしまい、永遠にゆるされません。そういう人は「私は聖霊をけがす罪を犯したのだろうか」ともはや悩むこともありません。ケロリとしたものです。

私たちは聖霊が、「あなたのうちに罪がある。罪を認めなさい。イエスを信じて、神に立ち返りなさい。」と迫ってくださるならば、すなおに従うべきです。さもなければ、永遠に悔い改めることもできず、赦されず、その最後は悪魔と同じくゲヘナを終の棲家とすることになってしまいます。

「主を呼び求めよ。お会いできる間に、近くにおられるうちに呼び求めよ。」とあります。私たちの人生のなかで、主が近くに迫ってくださることは、そう何度もあるわけではありません。今、主があなたに近く迫ってくださっているならば、主を呼び求めて、己の神の前における罪を認めてイエス様を信じることです。

 

3 イエスの家族

 

(1)血縁の家族

さて、次に、イエス様の身内の人々がイエス様を迎えに来た件について、お話します。

「3:20 イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。 3:21 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。」

エス様は12歳に養父ヨセフと母マリヤとエルサレム神殿に出かけたという記事がルカ福音書にありますが、その後、どうやら大工であった養親ヨセフはどうやら早く世を去ったようです。ヨセフとマリヤの間には何人かの男女が生まれて、イエス様の弟妹となっていましたから、イエス様は一家の長男として、父の代わりを務め、母も弟妹たちもイエス様を頼りにしていたのです。「たくみの家に人となりて、貧しき憂い、生くる悩みつぶさになめしこの人」でした。

ところが、やさしくて頼りがいのある、イエス兄ちゃんが30歳になったある日突然、ぷいっとナザレを出てカペナウムのほうに出かけて行きました。そして、何日も帰ってこないのです。「兄ちゃん遅いねえ」とマリヤと弟妹たちが思っていると、ガリラヤ湖のほとりカペナウムに出かけていた人がやってきて、「おい、あんたんちのイエス兄ちゃん、頭がおかしくなったみたいだぞ。カペナウムやガリラヤ湖周辺の町々で『神の国がどうのこうの』とわけのわからんこと言って回っているそうだよ。自分を預言者か何かと思い込んでいるみたいだよ。」と報せたのでした。

母マリヤをはじめ一家はびっくりして「兄ちゃんが、頭がおかしくなった。」「まあ、前から兄ちゃんはあたしがくよくよしていると、『空の鳥を見よ』なんてこの世離れしていたけれども」・・てなことを言いながら、心配して探して連れ戻しにきたのでした。母マリヤは、「いと高き方の御子があなたの胎に宿るのですよ」とかつて御使いガブリエルからの御つげを受けたわけですし、イエスが12歳のときの宮詣でのときにも不思議なことがあったのですが、それから18年もたって、すっかりあのことは忘れてしまったかのようです。

あまりにも身近すぎて、イエス様が神のみ子であることがすぐには信じがたかったのでしょう。

わかるような気がします。少し次元のちがうことですが、自分の子どもや妻や夫から、キリストの福音を知らされて悔い改めるというのは、多くの人にとってはむずかしいのかもしれませんね。照れくさいのか、面子にかかわると思うのでしょうか。そういう人間的な感情は横において、真理を真理として受け入れる謙虚さは大事なことです。

エス様の母、兄弟姉妹たちは後の日に、イエス様を受け入れるようになります。同じような境遇の人に必要なのは忍耐です。

 

(2)神の家族・・・・神のみこころを行う人々

 さてイエス様は家の中で律法学者たちと込み入った議論していらしたので、母マリヤと兄弟たちは外から人をやってイエス様を呼ばせます。恐らくここで「家」というのは、以前にもお話ししたように、広い中庭があって道路に面してアーチの入り口があり、そこから中がのぞけるような今で言うコートハウス造りになっているのです。マリヤが中庭をのぞくとイエス様がたくさんの人に取り囲まれていて近づけません。

 3:32 大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています」と言った。

 すると、イエス様は、庭の入り口のアーチのほうをちらっと見て、今度は周囲の人々を見回して、「家族、教会とはなにか」ということについて、母マリヤや兄弟たちにとっては、相当ショッキングなことばをあえて語られます。

 3:33 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」

 3:34 そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。 3:35 神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

母マリヤや兄弟たちという肉親以上に、あなたたち神の家族のほうが重要なのだと主イエスはおっしゃるのです。イエスさまは他のときにも、

10:29 「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、 10:30 その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」(マルコ10:29,30)

とおっしゃいました。聖書は「あなたの父母を敬いなさい」と命じていますし、親の恩に報いることが大事なことだと教えています。神様が世界を造ったときに定めた三つのことは、礼拝の日と家庭と仕事ですから、家庭というものは国家以上に重要なものなのです。けれども、血縁の家庭よりももっと大事な「神の家族」があります。肉の家族は、私たちが地上にある間の一時的なものですが、神の家族はこの世で終わる一時的なものではなく、次の世にあっても続く永遠のものです。肉の家族はそれぞれの家の幸福や都合で動くものでしょうが、神の家族は神のみこころを行うことをその目的としています。また、肉の家族は閉鎖的な単位ですが、神の家族はことばも民族も国語も超えて世界中にひろがっているものであり、地上だけでなくすでに天に挙げられた兄弟姉妹たちを含んでいるものです。つまり、神の家族とは聖なる公同の教会です。

エス様は、あえて、マリヤと弟や妹たち聞こえるように、おっしゃったのです。

「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」

「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

マリヤと兄弟たちは、すごい衝撃を受けたにちがいありません。特に母マリヤはおなかを痛めて生んだ子に拒絶されたのですから、ショックだったでしょう。しかし、後の日に、彼らもまた、イエス様を神の御子として信じて神の家族に入れられる日が来るのです。

 

結び

 主イエスを信じて新しい人生に入り、神の家族にはいって歩みだそうとするとき、ほとんどの場合、一時的ではあっても肉の家族との軋轢を避けることはできません。みなさんのうちの多くの方たちは、そういう経験をして来られたでしょう。今もしているかもしれません。イエス様ご自身も、同じ経験をされましたから、イエス様の家族の1人であるあなたが同じつらい経験をすることはもっともなことです。

しかし、イエス様が後に、マリヤや兄弟たちを神の家族として迎えたように、私たちもその希望をもって、まずは自分がイエス様にしたがい神のみこころを行う神の家族の一員となることが肝心なことです。そして、自分自身が神様の恵みと愛の通り管となって、神様の愛を家庭にもたらす器として用いられることが肝心なことです。やがて、ともに主を賛美するよき日が来ます。