水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

   活かされて生きる-いのちの御霊の法則― 

Rom7:7-8:11

 

1.肉が問題である・・・肉が問題であることに気づかないことが多い

 

 本日の本文には、「肉」とか「肉的」ということばが何度も出てきます。8章5、6,8節

5,肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。

6,肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。

7,なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。

8,肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。

 

 肉の問題と言っても、ダイエットの話ではありません。聖書では「肉」ということばは肉体、人間を意味している場合もありますが、ローマ書8章とガラテヤ書5章で「肉」は、聖霊(御霊)と対立的に用いられています。このように聖霊と対立的に用いられる文脈においては「肉」(σαρξ)とは「罪の奴隷としての人間のあり方」を意味しているのです。信仰生活における成長・聖化の一つの面は、この「罪の奴隷としての自分のあり方=肉」を克服するということです。

 まず、肝心なことは信仰生活の問題の中核は、この自分の肉にあることを認識することです。私たちは、自分の信仰生活がうまくいかないのは、あの人が悪いからだ、この人がわるいからだ、この環境が悪いからだなどというふうに考えがちです。そして、自分の「肉」に問題があることが見えないのです。このような性質は初めの人アダム以来、人間に入ってきました。

 最初の人アダムは、善悪の知識の木の実を食べてしまった時、神様からそれを追及されました。その時、彼は言いました。「あなたが私にくださったこの女が、私にくれたので、私は食べたのです。」アダムは、「妻が悪い。妻が私が神様にしたがうことの妨害をしたのであります」といったのです。それどころか、「私にこんな変な妻をくれたのは、神様あなたではありませんか。あなたがこんな女を妻にくれたものだから、食べたんです。」と言ったのです。そして、最初の女も言いました。「へびが私を誘惑したのです。へびが悪いのです。」この時、悪魔はヒヒヒと喜んだでしょう。自分の肉に問題があるのに、ほかの者に責任を転嫁して、自分の肉にこそ問題があることに気がつかない、これこそ悪魔の巧妙な罠です。確かに悪魔は誘惑します。環境も困難かもしれません。しかし、私たちがその問題を人のせいにし、悪魔のせいにし、環境のせいにし、はては神様のせいにするとき、私たちはすでに的をはずしてしまっているのです。

 もしあのとき、アダムが「はい。私が悪かったのです。」と申し上げたら、悪魔ははぎしりしたでしょうに。私たちは問題があるときに、相手の問題、状況の悪さに目を向けることが多く、罪を犯している自分自身に光を当てることをしないことが多いのです。それではサタンの思うつぼです。まず、私たちは、信仰生活の問題の中核は、自分の肉にあるということに気づかねばなりません。

 

2.「肉」に対して律法で戦うなら勝ち目なし

 6章でキリスト者は罪に死んで義の奴隷となった者だと自覚せよという話がありました。では、罪に死に、キリストにあって義の奴隷として神に対して生きている私たちは、どのようにしてその義の道に歩むことができるでしょうか。

 7章でパウロが語っていることの第一点は、律法を頑張って守ろうとするならば、肉に対する勝ち目はないということです。 7節から20節では、もし律法によって「肉」と戦い、正しい道を歩もうとするならば、どのような結果に至るかがパウロの体験が記されています。パウロは御存じのようにもともとパリサイ人であり、たいへんまじめな人でした。それで彼としては述懐の第一番目から第九番目までは、守り通すことができたと思っていました。偶像崇拝などはしたことがないし、主の御名をみだりに唱えたこともない、安息日は厳守している、父母に不敬なこともしたことはない、殺し、姦淫、盗み、偽証などしたことはない。まじめ人間パウロは大丈夫でした。けれども、十戒の第十番目の戒め「むさぼってはならない」という禁止命令をパウロが真剣に受け止めて、実行しようとすればするほど、律法は彼のからだの中にあるむさぼりの罪を引き起こしたというのです。「むさぼってはならない」「むさぼってはならない」と自分に言い聞かせて彼は「むさぼり」という自分の肉と勝負したのです。勝負の結果はどうだったでしょうか。惨憺たるものでした。「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ罪は死んだものです。」

 第十戒とは「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち、隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人の者を、欲しがってはならない。」です。パウロは朝に夕にこの戒めを繰り返して生活を正そうとしました。けれども、そうすればするほど「むさぼり」が彼を捕らえたのです。律法は私たちに罪を自覚させ、自力ではきよくは生きられないことを教えるのです。

 

3.原理を発見する

 

 彼はその己の現実のなかから驚くべき「原理」を発見するのです。

 7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

 7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、

 7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

 7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

 7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

 

 ここに原理と訳されていることばはノモスと申しまして、法則とも律法とも訳されます。アルキメデスの原理とか万有引力の法則とかいうように、法則とは何度試してみても同じ結果が現れることです。りんごが枝を百回離れると百回とも地面に落ちる。一万回枝をはなれても一万回たしかに地面に落ちる。だから法則です。

 パウロが発見した法原理とはつまり、心に善をしたいと願っている私の内に悪(罪の法則)が宿っていて、善をしたいにもかかわらずしたくない悪をしてしまうということなのです。これは法則ですから、くつがえすことはできません。たとえば、万有引力の法則というのがあります。手を上げて下さい。はい、上がりますね。けれども、一時間上げたままでいてくださいと言っても、みなさん手が下がってしまうでしょう。そうです。万有引力の法則がありますから、さがってしまいます。つまり、法則に対して私たちはしばらくは自分の力で抵抗することができます。けれども、それはしばらくの間だけなのです。そして何度やっても同じ結果になります。

 私たちは罪の力に対してしばらくは抵抗できるでしょう。一時間、二時間、一日、三日・・・と。しかし、また同じ罪を犯してしまうのです。人によって弱点は違うでしょう。「怒っちゃいけない」とか「悪口言っちゃいけない」とか「むさぼってはならない」と思って何日かがんばっていても、また気がつくと同じ罪を犯しているのです。なぜですか。からだの中に罪の法則のせいです。それは法則です。何回やっても同じことです。それは法則であり原理ですから、肉に対しては私たちは「すべきだ」「・・してはいけない」と自分に言い聞かせて自分で戦おうと努力しても勝ち目はないのです。

 大事なことは、自分の罪をはっきりと曇りなく認識することです。そして、「私はあの人を憎んでいます。」とか「あの人を心の中で殺してしまいました。」とか率直に神に向かって告白することが大事なのです。自分自身に決定的に挫折したとき、神の働きが始まります。

 

.いのちの御霊の法則によって(8章)

 

 パウロはこの律法による罪の自覚によって、二つの認識に追いやられます。

 

(1)キリストにある義認の恵み、肉の支配からの解放を再確認する。 

 「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を罪のために、罪深い肉とおなじような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」(8章3節)

 救われる以前、人はみな「肉」の支配下にあります。つまり罪の奴隷です。肉の命令の言いなりにならねばなりませんでした。 人間が罪の奴隷となってしまったために、律法は人間を神の御前に義とできなくなりました。そこで神は、御自分の御子イエスを人間として派遣なさり、人間として罪の罰を受けさせたのです。そこで、私たちは原理的にすでに肉の支配から解放されたのです。

 このように信仰によって、神から義と宣言されたという事実は、聖化の途上で己の罪の現実に目覚めた聖徒を支え、肉から解放されたのだということを自覚させるのです。律法は、こうしてもう一度キリスト者をキリストの恵みの原点に連れ戻すのです。私たちは弱いのです。けれども、私たちはキリストにあってすでに肉から解放されたものだということを、まず確認することです。あなたの罪は、あの主の十字架の上で死んでしまったのです。肉の支配も終わったのです。主イエスを信じる者は、すでにキリストとともに死刑になり、そして、キリストとともに葬式も終わってしまったのです。

 

(2)いのちの御霊の法則で生きる

 パウロが「罪と死の法則」を自覚させられて至ったもうひとつの所は、「いのちの御霊の法則」の認識です。2節。「罪と死の法則」に勝つには、「「・・・しなければならない」という律法で生きることではなく、もう一つのより強力な法則によるほかないのです。すなわち、罪と死の法則にまさるもう一つの法則によってのみ勝利を得ることができます。

 心の法則は神の律法に従いたいと願うものです。それは神が心に律法の命じる行いを記しておられるからです。それはいわゆる良心です(ローマ2:15)。道徳的な人は良心によって「あれは善、これは悪」と判断して道徳的な生き方をします。 けれども、からだの中には罪と死の法則があり、これは神の律法に反逆するものであり、かつ、心の法則よりも強力なため、からだは罪の法則にしたがってしまうのです。道徳的な人は、「あれは善、これは悪」と判断しながら、自分自身が悪と判断することをしてしまうのです。道徳的な人は、他人を見て非難しながら、自分も同じことをしてしまうのです。

 「心の法則」によっては「罪と死の法則」に対する勝ち目はありません。「罪と死の法則」から解放されるためには、「罪と死の法則」よりも強力な法則をもってしなければなりません。罪と死の法則よりも強力な法則とは、いのちの御霊の法則です。

 これを図解すると下の通りです。

 

心の法則 < 罪と死の法則  < いのちの御霊の法則

(律法に賛成) (律法に反逆)  (律法から解放され律法を十二分に満たす)

 

 ですから、私たちは「むさぼってはならない」という律法に固執することによってではなく、「いのちの御霊の法則」によってこそ勝利の生活をすることができるのです。「いのちの御霊の法則」によって生きるとはどういうことでしょうか。それは、自分の理屈であれは善、これは悪という判断をしている生き方でなく、「主のおことばですから従います。」という生き方をすることです。それはキリストが私のかわりに生きて下さるということなのです。

 このことについて、主イエスの「あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。」(マタイ5:41)ということです。当時、ユダヤローマ帝国の属州とされており、ローマ人は任意に被支配者であるユダヤ人を1ミリオン使役することができました。ひどい話です。堪え難い屈辱です。けれども、主は2ミリオン行けと言われるのです。この世でもっともひどい人も1ミリオン行けというのが限界です。しかし、主イエスは2ミリオン行きなさいと命じます。主イエスはローマの法律よりもひどい律法で私たちを縛ろうというのでしょうか。いいえ。逆です。1ミリオン行く人は、肉の力でいやいや苦痛の中で行くでしょう。しかし、2ミリオン行く人は、喜んで行くのです。彼はもはや律法に縛られているのではなく、敵をも愛する愛によって自発的に行くからです。2ミリオン行きなさいという命令は、私たちを縛るのではなく、むしろ内に与えて下さった御霊のいのちを引き出すものなのです。これは、律法と新約的な命令との違いに適用されるものです。

 律法は「偽証してはならない」と言いましたが、新約の命令は「偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。」と言います。律法は「盗むな」と言いますが、新約の命令は「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」です。律法は「主の御名をみだりに唱えてはならない。」と言いますが、新約の命令は「悪いことばをいっさい口から出してはなりません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つ言葉を話し、聞く人に恵みを与えなさい。」です。神の聖霊を悲しませてはいけません(エペソ4:25-30)。

 主イエスを信じているあなたは、すでに、いのちの御霊を受けているのです。この世には悲しみながら不平を言いながら1ミリオン行くクリスチャンと、喜んで2ミリオン行くクリスチャンがいます。キリストを信じる私たちには、愛をもって2ミリオン行くいのちが与えられています。ここに聖化における信仰の重要性があります。私は、義の奴隷となったと信じると同時に、私のうちにはいのちの御霊がおられ、2ミリオンを行くいのちがある事実を信じるのです。ただ形式的にとらえてはなりません。聖霊の内なる促しに信仰をもって自由に従うことです。

 「あなたの敵をも愛せよ」と言われる主に単純に従うことです。理屈をいえば、「ムリ!」でしょう。しかし、主イエスを見上げるのです。十字架において、あなたを愛された主イエスを見るのです。そうすると、あなたの内に生きる主イエスの御霊が、愛させてくださるのです。私たちクリスチャンは、自力でがんばって生きるのではなく、キリストの御霊によって生かされて生きるのです。