水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

悪魔も知らなかったこと

 しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。
 この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。(1コリント2:6-9)

  ここで「奥義のうちにある隠された神の知恵」とは、1章30節がいうようにキリストとキリストの十字架による贖罪の業を意味している。「キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。」とあるとおりである。知恵はギリシャ語でsofiaというが、これは七十人訳聖書箴言8章に登場する「知恵sofia」(ヘブル語でホクマー)である。箴言8章を読めば、その知恵とは、万物の創造にさきだって神とともにあり、万物の創造を手伝ったお方を指している。キリストは、永遠の神の御子であり、万物の創造に携わったお方である。

 1コリントの文脈では、知恵とは「十字架につけられたキリスト」(2:2)を指している。つまり、1章18節「十字架のことばは滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」とあるように、神の知恵である神の御子イエス・キリストは、十字架に辱めの死を経験して後、よみがえられることによって、私たちに救い(義と聖めと贖い)となってくださった。

 永遠の神の御子が、十字架にかかられることによって、私たちに救いをもたらすという神のご計画・知恵は、「世界の始まる前から」のものであった。だから、この計画を知るのは、世の始まる前から存在した神のみであって、我々よりもはるかに多くの知識を持つ天使たちも知らず、堕落したみ使いであるサタンとその手下の霊たちも知らかなった。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないもの」と言われている。

 「この世の支配者たち」は、神の御子イエスが十字架にかかって私たちを罪から救い出すという知恵を知らなかったとある。「この世の支配者たち」とは、ユダヤのサンヘドリンの議員たち、そしてピラトやヘロデたちを指しているように見える。だがそれだけでなく、「この世の支配者たち」はヘロデたちの背後にいて、彼らを操ったサタンと悪しき霊たちを意味していると思われる。この世の支配者たち」という言い回しは、ヨハネ12:31、同14:30、エペソ2:2と関係、類似している。

ヨハネ12:31「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」

エペソ2:2「 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」

 たしかに悪魔とその手下どもが、もしイエスを十字架にはりつけにすることが、神が罪人を救うための方法であると知っていたなら、彼らは権力者たちを動かし、イスカリオテ・ユダを動かしてイエスを十字架に磔にすることは決してなかっただろう。十字架のことばは、滅びに至る人々、その背後の滅びる霊たちにとっては愚かなのである。 しかし、御霊を受けた者たちには、神の力であり、神の知恵なのである。

 私たちは十字架の福音を何度も聞かされ、何度も話しているために、それがサタンも知らなかった「隠されていた奥義」であることを忘れているかもしれない。しかし、万物の創造に与った知恵である神の御子が人として世に来られ、辱めをものともせずに十字架にかかって苦しみ死んで、罪人の罪を担われたというのは、実に、驚くべき神の知恵であることをもう一度思い起こし感謝したい。

 ちなみにC.S.ルイスは『ライオンと魔女』を、この1コリント書2章を背景として物語を書いている。そこには、「世の始まる前からの掟」が出てくる。「犯された罪はその償いのために死を要求する」という掟が刻まれた石舞台があり(これは律法をさす)、これは魔女も知っていた。しかし、「誰か罪なき者が罪を犯した者のために死ぬならば、復活が起こり、石舞台は割れる」というのが、「世の始まる前からの掟」である。キリストを象徴するライオン、アスランは、罪を犯したエドモンドの身代わりとなって、魔女によって石舞台で殺されたが、アスランは復活して石舞台は割れてしまったのである。

終着駅に着く前に

2020年1月26日苫小牧主日礼拝

21**,昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。**

22**,しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。**

23**,ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、**

24**,ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。**

25**,あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。**

26**,まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。(マタイ5:21-26)

 序

 イエス様が来られた1世紀のイスラエルの国は、旧約聖書の律法にもとづく神政政治を行なっていました。そうしたユダヤ社会でしたから、社会の指導者たちは律法にかんする知識をもっている人々で、律法学者たちは尊敬される務めを果たしている人々だったのです。パリサイ人というのは、そうした律法の解釈の一つの学派で、モーセの律法を厳格に守るべきであると考える人々で、伝統主義者でした。彼らは、民の中に位置していて、民の中にあって道徳的宗教的に指導をしていました。

 

1 イエス様の権威  「しかし、わたしはあなたがたに言います。

 

21、22a 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」

 ここで「殺してはならない」というのはモーセ十戒の第六番目の戒めです。モーセ十戒とは、モーセが考え出したことではなく、紀元前1400年頃、神様がモーセを通して、神の民に与えた人としての生き方です。イスラエル民族は、この神のことばである律法を土台として国家と社会を形成しました。紀元前1000年頃から400年間ほどが王国の時代で、この王国時代にイザヤ、エレミヤ、ホセア、エリヤ、エリシャなど多くの預言者が出現しましたが、預言者たちは律法と別に新しいことを告げたのではありません。旧約時代の預言者たちは、ひたすら悔い改めてモーセの律法に立ち返れと教えたのです。偶像崇拝と不道徳な社会になってしまっている君たちは、悔い改めなければ、神はこの国を滅ぼしてしまうぞ、悔い改めよと言ったのです。預言者たちは律法にまさることを教えようとしたわけではなく、そこに立ち返れと教えたのです。イスラエルの民は、しかし、預言者たちのいうことを聞かず、結局紀元前6世紀にはその国は滅ぼされてしまいました。

 イエス様が来られたころには、イスラエルは一応復興したもののローマ帝国の属国でした。律法学者たちが、旧約聖書の律法を民に教えていたのです。「『殺してはならない』という神の戒めが何を意味しているかというと、大学者のA先生はこのように教え、学者のB先生はこのように教えています。私としてはB先生の言うように解釈するのが正しいと思います。」というふうな教え方をしたようです。

 ところが、イエス様はおっしゃるのです。「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」つまり、「A先生の説はこうで、B先生の説はこうで、C先生の説はこうです。わたしはB先生を支持する」というふうに教えるのではなく、イエス様は「わたしはこう教える」とおっしゃるので、弟子たちはびっくりしたのです。マルコ伝には「人々はその教えに驚いた。イエスが律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」(マルコ1:22)とあります。主イエスは、律法の制定者である神としての権威をもって、山上の説教をなさったのです。しかもイエス様は、神としての権威をもって、福音の時代の神の民の生き方についての戒めを告げたのです。「旧約時代には、あのようにモーセを通して教えておいたが、これからの福音の時代が来たからには、わたしは、これからはこのように教えるからよく聞きなさい」とおっしゃったのです。イエス様は、律法を定め、それを更新する神の権威をお持ちなのです。

 

 2 神は、心と唇のことばを聞いて裁かれる

 

 では、イエス様の教えと、昔の人々の教えとそれを踏襲する律法学者たちの教えはどのように違うのでしょうか。
 22**,しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 律法学者たちは、実際に、行動として実際に人を殺すならば、それは殺人罪に当たるということを教えていました。今日の日本の法律でもそうです。ナイフであれ、けん銃であれ、毒殺であれ、とにかく外に現われた行動によって、人の命を奪って初めて殺人罪という罪が成立して、裁判所で裁判が行われます。パリサイ人、律法学者たちは、「心の中で人のことを憎むこと」「口で人を罵ること」は問題にしませんでした。

 ところが、イエス様は「殺してはならない」という戒めは、実際に人を殺さなくても、まず心の中で人を怒り、憎み、殺意を抱くならば、神の前では殺人を犯したことになるのだとおっしゃるのです。さらに、その唇で人に向かって「能無し」とか「ばか者」というものは、神様の前ではすでに殺人という罪を犯したのです。ここには数十人の殺人者がいるでしょう。神さまの御前に出たとき「私は人殺しなどという大それた罪はおかしていません。」と断言できる人は、この地球上に一人もいないのです。

 神さまは霊ですから、あなたが心の中のつぶやくことばを聞いていらっしゃいますし、私たちが口にする言葉も当然聞いて、記憶にとどめていらっしゃいます。

 なぜ神さまは、私たちが隣人を憎み、殺意を抱くことをこれほどまでにお怒りになるのでしょうか。それは神さまは愛であり、愛である神さまは、本来、私たち人間を憎みあうために造られたのではなく、私たちが互いに赦し合い、愛し合うために造られたからです。愛である父と子と聖霊の神さまは、わたしたちをご自分の似姿、尊い存在としてとして造ってくださいました。それは私たちが地上にあって互いに愛することによって、神さまの栄光を現すためです。ですから、私たちが憎み合うことは、神さまをたいへん悲しませ、そして怒らせることなのです。

 ところが、なんとこの地上には神さまを怒らせ、悲しませることが多いことでしょうか。

神様の目からご覧になると、私たち人間の世界は日常的に親が子を殺し、子が親を殺し、兄が弟を殺し、妹が姉を殺し、近所の人同士も表面的に取り繕いながらも、心の中では殺し合いをしているのです。恐ろしい世界です。そうして、「心の中で人を憎たらしいと思うのは自由だ」とか、「ことばで怒りをぶつけること程度は大した問題ではない」などとうそぶいたりしているわけです。しかし、心の中にあることばが口に出てくるのであり、口で罵ることばは、やがてその人を突き動かして取り返しのつかないことをしでかすことになるのです。

 行動をきよくしたいならば、心の中に呟くことばを清くしなければなりません。そして、行動を正しくしたいならば口にすることばを、正しくしなければなりません。心の中、唇で話すことばが、あなたを動かすことになるのです。言葉は大きな船の舵です。小さな舵が大きな船を右に左に動かすように、あなたが心にあることば、あなたが口でいうことばが、あなたの人生を右に左に動かすのです。

 

.終着駅に着く前に

 

(1)神礼拝と隣人関係

 次に、イエス様は、そんな私たちに、神に礼拝をささげることと、隣人愛との関係は、切っても切れない関係にあるんだよと教えます。礼拝とは、神さまへの愛の表現であり、神さまへのささげ物をするということは、神さまへの愛と献身の表現です。ところが、イエス様は「あなたたちが神さまにささげ物をしようとするとき、だれか身近な者にうらまれていることを思い出すことはないか?」と問われるのです。

マタイ 5:23-24

23**,ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、24**,ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。

 

 このように命令なさったのです。「人に恨まれており、仲たがいしているような状態のまま、ささげ物をしたって、わたしはそんなささげ物は受け取らないよ」と神さまはおっしゃるわけです。なぜでしょうか?・・・神を愛することと、隣人を愛することとは密接不可分であるからです。

第一ヨハネ4章20,21節

「20**,神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。21**,神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。」

  

(2)終着駅に着く前に

 エス様はこのように神さまとの和解と隣人との和解のたいせつさをお教えになり、続いて、私たち一人一人の一生というものは、訴えられて汽車に乗っているようなものであると教えられたのです。汽車が終着駅に到着すると、「終着、聖なる裁判所前!」ということになります。

マタイ 5:25-26

25**,あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。26**,まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。

 長野県小海町で伝道していたとき、Sさんというおばあちゃんとの出会いがありました。農家のおばあちゃんで、若いときはたいへん力持ちの働き者だったそうです。でも、とっても、きつい人で、そのお嫁さんのTさん話をうかがうと、「それはたいへんだったですねえ」というほかないほどでした。Tさんは、若い日に聖書を読むようになっていたのですが、洗礼にはいたらないまま結婚をしました。でも結婚してまもなく、「私は教会に行きたい」というと、お姑のさださんに聖書を捨てられてしまったのです。それから30年後、私が小海に開拓伝道にはいって、Tさんは洗礼を受けました。

 その後、私はそのSばあちゃんの住む離れを訪問するようになりました。訪問して話をして、「賛美歌を歌ってあげましょう」というと、「実は、わたしゃ若いときには教会に通っていたことがあるだよ。だから讃美歌を知っているだよ」と、ハーモニカで「いつくしみ深き」とか「主よみもとに」など讃美歌を吹いてくれました。Sさんは隣の群馬県の富岡製紙場に十代に集団就職して働いていたことがあり、その工場の前には教会があって、女工さんたちはみんな日曜日になると教会にいって讃美歌を歌うのを楽しみにしていたのです。そこを出ると東京の文京区のあるお屋敷にお手伝いさんになったら、そのおうちがクリスチャンだったそうです。けれども、嫁いできた家が天台宗の檀家総代の家だったので、そのことは封印して数十年いらしたそうです。そして、

 何度かかよってお話をするうちに、Sばあちゃんは、1月のある日、わたしについてイエス様の名を呼ぶようになられました。「イエス様、わたしを助けてください。」とご自分で祈るようになられました。そういう祈りをされて間もない日の夜、お嫁さんであるTさんにたいせつなときを持たれたそうです。 その夜、Sさんは、お嫁さんのTさんと二人だけのとき、いろいろなことを話されたそうです。そして、「若いときは、きつくあたって悪かったなあ。」とお詫びをされたそうです。Tさんは、「そんなことないよ。ばあちゃんのおかげで、わたしはたくさんのこと教えてもらったから、感謝しているよ。ありがとう。」と応じられたそうです。

 イエス様を受け入れられたとき、聖霊様がSばあちゃんの心のうちに、新しい創造のわざをなさったのでした。聖霊が働かれると、人はかたくなな魂が打ち砕かれて自分の罪を悟り、悔い改めの実をむすぶようにしてくださるのです。平和をつくる神の子どもとしての実を結ぶように新しい創造がなされるのです。実際、Tさんと和解という平和の実をむすぶことができたのです。Sばあちゃんは、洗礼を受け、二か月後に天に召されました。その記念礼拝を前に、孫娘のYさんから手紙をいただきました。

 

水草先生
 祖母の洗礼、祖母と母の言葉少なくも豊かな交わり、安らかな死と、大きな恵み
を下さった神様を誉め讃えます。
 生前何度も訪問していただき、洗礼へ導いて下さったこと、本当にありがとうご
ざいます。母が時々様子を伝えてくれましたが、祖母は水草先生との交わりや賛
美を本当に喜んでいたとのことです。重ねて感謝します。
 18日に記念礼拝を持って下さること、嬉しく思います。
・・・・
 洗礼後の祖母は私や、特に母に会いたがり、・・・母との交わりを喜んでいたようです。昏睡に入る前も、会いたい人の名をただ「T」としか言わなかったそうです。イエス様がよくわからないらしいと聞いていたのですが、あれだけ嫌っていた母をあんなに慕うことに、祖母には本当に聖霊が注がれたのだと思いました。ぶつかったりしながらも祖母に誠実を尽くし続け、親族に辛くあたられても祝福を祈り続ける母の姿は、美しかったです。私は初めて母を心底美しいと思いました。神様はこのような姿を「礼拝」として、「生きたささげもの」として喜んで下さるのではないかと思いました。祖母の件は、母の姿から学ぶという恵みをも私に届けてくれました。
 小海での礼拝が豊かに祝福されるよう、お祈りしています。

                            S.Y」

 

むすび

 私たち一人一人の人生は、聖な法廷に向かって毎日毎日歩いている道行です。「人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることがさだまっている」と聖書にある通りです。

 私たちは、聖なる法廷に出るために二つの備えをしなければなりません。それは第一に神さまとの和解です。私たちは生まれながらに、神さまの怒りを受けるべき者たちです。神さまに造られながら、神様を無視して、自分の力で生きられると思い上がって生きています。これが根本的な罪なのです。しかし、イエスさまが和解のために来られ、私たちに代わって十字架でのろいをうけてくださいましたから、主イエス様を信じ受け容れることです。そうすれば、神さまと和解できます。

 聖なる法廷へのよき備えの第二は、隣人と和解をすることです。あなたが人生のなかで隣人の胸につきたてた言葉の刃、隣人に対して抱いた憎しみや怒りには、いろいろな理由や言い訳もあるでしょう。けれども、どんな言い訳をしたとしても、聖霊様が心に住んでおられるなら、あなたの良心に対してささやかれます。「あなたは恨まれているんじゃないのか。あなたは、あの人を傷つけた。あなたは、そのままで神の法廷に出ることができるのか?」と。

そういう御霊の示しがあったならば、へりくだって和解をすることです。私たちは、本来、憎み合い、傷つけあうためにともに暮すようにされているのではなく、互いに愛し合い、助け合うためにこそ生かされているのです。

 さだばあちゃんのクリスチャンとしての地上の生涯は短く、二ヶ月にも満たないものでした。けれども、この短い期間にさださんは、聖なる法廷にでる準備をきちんとして、召されて行かれました。私たちはどうでしょうか。今夜、主が迎えに来られたならば、あなたは聖なる法廷に出るための備えができていますか。

愛は律法を満たす

マタイ5:17-20

 

2020年1月19日 苫小牧主日礼拝

 

5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

 5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

 5:19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。

 5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。

 

 

 

1 律法と預言者

 

 17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」

「律法と預言者」という表現は、旧約聖書という意味です。当時、旧約聖書は、「律法と預言者」とか「律法と預言者詩篇」というふうに呼ばれました。主イエスの大胆な言動について、敵対する人たちも、あるいはイエス様の弟子たちの中にも、「イエスは、律法と預言者つまり旧約聖書を廃棄してしまうつもりなのではないか?」と誤解している人たちがいたので、このようにおっしゃったのです。

エス様の大胆な振舞いというのは、たとえば、イエス様は安息日に忠実に礼拝を守りましたけれど、礼拝を終えると、その場で病人をいやしてやったというようなことです。律法学者たちに言わせれば、病人を癒すという行為は彼らが解釈するところの、安息日に禁じられている「仕事」であるから、イエス安息日律法を破っていると思ったわけです。けれども、イエス様に言わせれば、これこそ最も適切な安息日の守り方だったのです。本来安息日は、神を礼拝することと、隣人愛を実践する日ですから。

 また、イエス様は取税人マタイを弟子にとって、素行の悪い彼の友だち、取税人仲間、遊女たち連中とも一緒に楽しそうに食事をすることがありました。またイエス様は、遊女たちにさえ神様について伝えていました。これも律法学者の先生たちは、とんでもないことであると考えました。律法学者たちは、取税人や遊女とは口も利かないし、まして同じ屋根の下にはいって食事をするなどということは宗教的なけがれにあたるとしていました。この点でも、イエスは「律法と預言者」つまり旧約聖書を廃棄しようとしていると非難したのです。しかし、律法には異邦人といっしょに食事をするなとはありませんし、主イエスに言わせれば、旧約聖書によれば、神は罪に陥ったダビデにもあわれみを注がれたお方でした。

 また、イエス様は、選民ユダヤ人だけでなく、異邦人であっても求める人には、福音を語りましたし、病で臥せっている人があればそれが異邦人であっても癒しのわざも行なわれました。ユダヤ人、格別、パリサイ人や律法学者たちは、神の恵みはただユダヤ人にのみ特別に注がれることを信じて、教えていたのに何たることかというのです。というわけで、イエスは「律法と預言者を廃棄しようとしている」と非難したのです。しかし、旧約聖書には、神はユダヤ人だけでなく異邦人をも創造し生かしておられ、異邦人もやがてまことの神を賛美する日が来ることが書かれています。詩篇67篇を開いてみましょう。

67**篇**

1**,どうか神が私たちをあわれみ祝福し御顔を私たちの上に照り輝かせてくださいますように。セラ**

2**,あなたの道が地の上で御救いがすべての国々の間で知られるために。**

3**,神よ諸国の民があなたをほめたたえ諸国の民がみなあなたをほめたたえますように。**

4**,国々の民が喜びまた喜び歌いますように。それはあなたが公平に諸国の民をさばき地の国民を導かれるからです。セラ**

5**,神よ諸国の民があなたをほめたたえ諸国の民がみなあなたをほめたたえますように。**

6**,大地はその実りを産み出しました。神が私たちの神が私たちを祝福してくださいますように。**

7**,神が私たちを祝福してくださり地の果てのすべての者が神を恐れますように。

 

 

弟子たちの中にも、イエス様が旧約聖書を廃棄しようとなさっているのだと誤解するむきがあっただろうと思います。ですから、イエス様は弟子たちを前にして、そういう誤解をしないようにと、この山上の垂訓で、キリストの弟子、キリスト者の生き方について述べてゆくまえに、新約の聖徒として、旧約聖書、特に律法をどのようにとらえるべきなのかについておっしゃるのです。

「5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」

 2千年間の教会の歴史を振り返ると、旧約聖書を破棄して新約聖書のみを神のことばだとする異端がときおり生じました。その最初はグノーシス主義とマルキオン主義というもので、旧約のユダヤ的なものを否定して、パウロ文書の一部を重んじるという異端でした。福音書の中ではパウロとゆかりの深いルカ福音書のみを彼らは評価しました。しかし、イエス様ご自身は「わたしは旧約聖書を破棄するために来たのではなく成就するために来た」とおっしゃったのです。

 20世紀に入ってからも、旧約聖書を廃棄し、キリスト教からユダヤ的なものを捨て去ろうとした人々は、ヒトラーの時代のドイツの神学者たちでした。ヒトラーユダヤ人絶滅政策を採りましたので、キリスト教からユダヤ的なものを排除しようとしたのです。しかし、これはナンセンスなことです。イエス様はまぎれもなく民族的にいえばユダヤ人でしたから。イエス様はおっしゃるのです。「5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」

 

2 イエス様が律法を成就する方法

 

 「5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」

 イエス様は律法を成就するために来たとおっしゃいます。それはどのようにしてでしょうか?律法の要求が満たされるには、二つの道があります。ひとつは、私たちがその律法が言っていることを実行することです。「殺すなかれ」という命令に対して、「殺さない」という応答をするとき、律法の要求は満たされます。「あなたは自分のために偶像を作ってはならない」という律法の要求に対して、偶像をつくらないという応答によって、律法は満たされることになります。これがひとつ。

ですが、神様は人間が律法の要求を完全には守ることができないことをご存知でしたから、「偶像を礼拝するな」「安息日をまもりなさい」「あなたの父母を敬え」「殺すな」「盗むな」などといった道徳的な律法を守れず破ってしまった場合のために、神様はもう一種類の律法を与えていました。それはいけにえに関する律法であって、律法を破ってしまった場合に定められたいけにえをささげて償いをするというものでした。イエス様は、十字架においてまことの小羊のいけにえとして御自分を犠牲とされて、私たちが律法にそむいて犯した罪の償いをしてくださり、復活してくださいました。

エス様は私たちの罪の償いを十字架でなしとげ、さらに、天にもどられて天から信じる私たちに聖霊を注いで、神様のみこころを行なう力をくださるのです。このようにして、イエス様は律法を成就なさるのです。

 

3 律法に関する二つの間違い

 

 ですが、律法の受け止め方については二つの間違いがあります。それは律法主義と無律法主義です。

(1)律法主

 律法主義というのは、数々の律法を守ることによって、神の前に点数をかせいで自分の義を立てるという考え方です。神様の前にはあなたの人生を量る天秤があって、律法を守ったら右の皿に、破ったら左の皿に分銅が置かれて行き、審判のときに右の皿が下がっていたら天国に、左が下がっていたら地獄におちるということです。この何が間違えているかというと、神様は完全なお方なので完全に守れないかぎり神様の前で義であると認められることはありえないからです。そして人間は罪があるので、人は律法を完全に守ることができないことは明白です。

ヤコブ2:10「律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。」

また、律法主義者の陥りがちな罠は、偽善と形式主義です。というのは、律法主義で完璧を目指そうとすると、いきおい律法を破ったのだけれど、守ったことにするために言葉のつじつまを合わせようとするからです。イエス様の時代にパリサイ人たちは、そういう作業を一生懸命していたようです。法律の文言のつじつま合わせというのは、国会での官僚の答弁など聞いていて、よくあることです。

 

(2)無律法主

 律法の受け止め方についての第二の間違いは、無律法主義です。自分は恵みによって救われた。だから律法などは要らないのだと思い込んで、偶像礼拝をしたり、安息日を軽んじたり、親不孝をしたり、姦淫したり、偽証をしたり、盗みを働いたりといった好き勝手な振る舞いをしても大丈夫だという考え方が無律法主義です。

 イエス様はそんなことはまったく教えませんでした。十戒は、キリスト者の義務を教えているのです。

5:19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。

 

3 キリスト者の義

 

 では、正しい律法の受け止め方とはなんでしょうか。それは、キリストがわたしのために十字架にかかってよみがえり、わたしを赦してくださいましたから、こそ神のご期待に応え、神の律法を大切にして生きていくのです。もはや律法を破ったら呪われるという恐怖からではなく、いやいやながらでなく、キリストにおいて表された神の愛に対する感謝の応答として、十戒をガイドとしてこれを重んじて生きることです。私たちは律法を守らなければ呪われるのが怖いからではなく、律法の呪いから解放された者として、愛をもって律法の要求を十二分に満たして生きることが許されているのです。それはイエスを信じる者のうちに与えられる聖霊によって、可能にされているのです。

5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。

 キリスト者の義は、律法学者・パリサイ人の義よりも勝っているのです。二つの意味で優っているのです。

それは、第一に律法を守りえなかったことにかんする償いはイエス様があの十字架の贖いと復活によって、完全に満たしていてくださるからです。キリストの義を私たちは贈り物としていただいているのです。

 

 キリスト者の義が律法学者たちの義にまさっているのは、第二に私たちは律法ののろいに対する恐怖からとか、いやいやこれを行なうのではなく、神様を愛するゆえに、自発的に神様のみこころを行なおうとするからです。律法の要諦は、全身全霊をもって神を愛することと、隣人を自分のように愛することですから、いやいやながら恐怖のゆえに奴隷的根性で律法を守ることを神様はお喜びになりません。神様は、愛をもってみこころを行なうことを、喜んでくださるのです。聖霊がそれをさせてくださいます。

 私たちは偶像崇拝をすると呪われ地獄に落ちるから偶像崇拝をしないのではなく、唯一まことの神様を愛しているから、真の神様だけを礼拝します。

 私たちは主の御名をみだりに唱えると呪われるから、そうしないのではなく、私を愛し私のためにいのちまで惜しまなかったお方のお名前ですから、私たちは心からの感謝と喜びをもってイエス様の名を口にします。

 私たちは安息日を守らないと死刑になるからこれを守るのではなく、安息日に私を愛してくださった神様に兄弟姉妹と感謝の礼拝をささげたいから、これを大事にするのです。  私たちは父母を敬わないと呪われるから父母にいやいや従うのではなく、神が立てた大切な父母ですから敬います。

 私たちは人のものをただ盗まないのではなく、生活に困窮している人たちにも進んで施しをします。 嘘をいわないだけでなく、真実を語ります。 隣人のものを欲しがらないのではなく、神がくださった恵みのゆえにいつも喜び、絶えず祈り、すべてのものに感謝して満ち足りるのです。

このように二重の意味で、私たちキリスト者の義は、神様の御目から見るときに、パリサイ人たちの義に勝っているのです。すなわち、愛をもって自発的に律法にまさる行いをする点、破ってしまった場合の罪の償いは主イエスが十二分に成し遂げてくださったことです。 神様にイエス様の十字架のゆえに罪を赦されたことを感謝しながら、神様のみこころを愛をもって十二分に実行するものでありたいのです。

 

 

 

地の塩、世の光

マタイ5:13-16

2019年1月12日 苫小牧

13**,あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。**

14**,あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。**

15**,また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。**

16**,このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

 

 

1.地の塩、世の

 

 主イエスは信じ従う私たちに8つの祝福をお与えになりました。今朝も、「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え渇く者」「あわれみ深い者」「心のきよい者」「平和をつくる者」「義のために迫害されている者」としての、私たちへの祝福です。それは、新約の時代の神の国の民に与えられた祝福でした。祝福を受けた者として、神の民はこれからどういう生き方をしていくのかを、イエス様は教えてくださるのです。神の祝福をまず受けたので、その恵みにどのように答えて生きていくかという、この順番が大事なことです。

 私たちの世にあっての存在と働きを、イエス様は、地の塩、世の光と表現されました。 

スーパーにいくと「天塩」という銘柄の塩が売られていますが、天の塩でなく、地の塩だとおっしゃるのです。その意味は、主イエスの弟子というものは、確かに「私たちの国籍は天にあります」という者なのですが、その天の御国に住んでいるわけでなく、地に遣わされたものであるという意味です。イエス様はあるとき、父なる神に向かってこう祈られました。「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17:17,18)

またイエス様は、「あなたがたは天の光です」とはおっしゃらないで、「あなたがたは世の光です」とおっしゃいました。これも同じことです。「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17:17,18)とおっしゃるとおり、私たちは天國を照らす光ではなく、天国から暗いこの世に遣わされて世を照らす光なのです。天国には神様が住んでいらっしゃるから、私たちが照らす必要はありません。照らす必要があるのは、この世です。ここに天国の光をもっていきともす者として、私たちキリスト者はこの世に派遣されました。

エス様に信じ従う者は、天の御国の国民ですが、その御国から、この世に派遣されている者です。あなたは、自分がそれぞれの家庭や地域や職場や学校に、またこの現代日本と言う国にイエス様によって派遣されているのだという自覚を持っているでしょうか。この自覚がまず大事なことです。

私たちは天国人ですから、第一の忠誠は神さまに対するものでなければなりません。日本人である前に天国人なのです。この世と調子を合わせてはいけません。この世の価値観に流されてはいけません。神様と調子を合わせて生きていきます。しかし、イエス様によって、この世に証人として遣わされていることを忘れて、まるで世捨て人のように、この世は没交渉にして生きていてはいけません。遣わされた地域、職場の人々の中に入って行って、神の栄光をあらわす生き方をする必要があります。つまり、世から聖別されたという意識と、世へと派遣されたという意識の両方がたいせつです。聖別意識と派遣意識です。

実は去年の忘年会の終わりの締めの係をしてくださいと言われました。万歳とか一本締めとかなんかそういうのがありますよね。でも、参加者は「キリスト教式でどうぞ」と仰るので、一年間の感謝と、それぞれのお店の祝福、健康の祝福をお祈りしました。先週木曜日は理事会があり、そのとき肉の青山さんは、牧師室にかけてあった「みことば三十一日」をくださいとおっしゃるので差し上げました。少しずつですけれど、この地域の人たちにイエス様を証できればと願っています。

 

 地の塩

 

)うまみを引き出す

塩の働きのひとつはうまみを引き立て、うまみを引き出すことです。ほんの一つまみの塩で、たとえば味気ないおかゆがおいしい甘味を感じさせるようになります。お汁粉を作るにも、お砂糖に比べたらほんの何十分の一に過ぎない一つまみの塩で、甘味が増すのです。塩というのは、とっても素晴らしい力をもって、料理やお菓子の甘味やうまみを引き出すのです。

「あなたがたは、地の塩です」とイエス様はおっしゃいました。この世は味気ない世界です。イエス様が、終わりの時代、「愛が冷えてしまうので不法がはびこります」とおっしゃったように、この世はますます味気ない世界になっていくなあと感じないでしょうか。味気ない世界、それは愛の冷えた世界です。

世界を味気なくしてしまう現代社会の原因はなんでしょうか?そのひとつは、イエス様がおっしゃったように、カネがすべてだという拝金主義とか効率主義です。<すべてのものは金銭に換算して価値が量られる>といった見方が、この世を味気なくしてしまっています。マモニズムといえばいつも私はイスカリオテ・ユダを思い出します。イエス様がいよいよ十字架にかかるためにエルサレムに行こうとされるとき、ベタニヤのマリヤがイエス様に惜しげもなく注いだ香油について、イスカリオテ・ユダが「これは300デナリもするじゃないか。もったいない。」と値積りしました。彼にはマリアの十字架に向かおうとするイエス様への愛がわかりませんでした。ただ300デナリという金銭に換算しただけです。なんでもかんでもカネに換算する人は、すでに拝金主義の偶像崇拝者です。

「あなた変わりはないですか。日ごと寒さがつのります~♪」と恋人が一生懸命に夜なべをして手編みのセーターを作ってくれたら、「なんだこんなのシマムラに行けば、1000円もしないでもっといいの売ってるよ。」などと言う男がいたら、なんと味気ない男でしょう。こんな愚劣な男は、誰が作ったかしれないブランド物の何万円のセーターなら満足するのでしょう。カネがすべてなのです。

 イエス様は私たちキリスト者に「あなたがたは地の塩です」とおっしゃいました。日本にクリスチャンは1パーセントと言われます。でも、塩の働きということを考えると、私たちは自分が少数派であることを恥じることはありません。お汁粉に一つまみの塩で、うんと甘さが増します。少数派のクリスチャンであっても、ちゃんと祈り、ちゃんと考え、ちゃんと働くならば、無味乾燥なこの社会に味わいを引き出すことができます。神様のために素晴らしい働きができるのです。私たちが、イエス様のくださった御霊の働きによって、この世にあってイエス様のみことばにしたがって、神様の愛に生きていくとき、私たちは塩として味のある世界を作り出すことができます。効率がすべて、金儲けがすべてといった無意味で味気ないこの世界を、味のある世界とされるのです。

 

)防腐効果

 塩の働きはまた、ものを腐らせないことです。漬物を塩で漬けるのは、うまみを引き出すと同時に保存が利くようにするためです。

 世の光放送のラジオ牧師羽鳥明先生が御自分をクリスチャンへと導いた同級生について、こんな証しをなさっていました。羽鳥先生が旧制中学生のときは日本は戦時下にありました。各学校には、配属将校が置かれていました。ある将校が来ると、教壇に立って言い放ちました。「ヤソはわが国体に反する、アメリカの宗教じゃ。ここにヤソはおるか。名乗ってみろ。俺がどうにかしてやる。」すると、一人の同級生がすくっと立ち上がって言いました。「私はクリスチャンです。イエス・キリストがわたしの罪のために、十字架で死んでよみがえられたことを信じています。」そして静かに座りました。その男は、いつも柔和でにこやかでした。そして、彼の周りには汚れたものがなく、周囲の人々をきよめる不思議な力をもっていたのです。」

 「あなたがたは地の塩です。」と主イエスはおっしゃいました。この世界は、神様に背を向けて、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢で汚れがますますひどくなってゆこうとしています。世と世の欲は滅びます。その中にクリスチャンは派遣されて、イエス様のみことばを信じてしたがって行けば、周囲が不思議にきよめられていきます。イエス様の清さが、クリスチャンを通して周りに浸透して行き、この世がソドムとゴモラのように腐りきって滅びてしまうのを防止することになります。あのとき、神様はもしソドムの町に10人の正しい人がいれば、この町を亡ぼさないとおっしゃいました。実際には10人もいなかったので、滅ぼされてしまいましたが。しかし、わずかな人数であっても神を恐れてきよく歩む者がいるならば、神はその地を滅ぼさないのです。ですから、世の人たちは何も知りませんが、クリスチャンであるあなたは、この日本の国を、

苫小牧の町を神の恐るべきさばきから守っているのです。

「あなたがたは地の塩です」と主はおっしゃいました。私たちは、味気ない世界に、うまみを引き出し味をつけ、腐りつつある世界をきよくして腐らせず、神のさばきから守るという大切な役割をになっているのです。

 

 世の光

 

 また、主イエスは私たちにおっしゃいます。

14**,あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。**

15**,また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。**

16**,このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

 

 塩も光もともにこの地上、この世界で、イエス様の弟子たちの果たす役割を表しています。両者は、どうちがうのでしょう。たぶん、塩が地味な目立たないところ、周囲に溶け込み浸透して行って働くのに対して、光の方は一目に立つ働きであるということを意味するのでしょう。塩は、見えないかたちで浸透して行って、味気ない世界に味を付けたり、腐りそうなものの腐敗を防いだりしますが、光は見えるかたちでの神の証しを意味するということができましょう。

 人目に立つために偽善的な良いわざについてイエス様は言われました。「あなたの右手のしていることを、左手に知らせるな。」けれども、人目に立つことを恐れるあまり、なすべき良いわざを行なわないとしたら、それはおかしなことになります。たとえば電車の中に空き缶が転がっているのを見つけたけれど、だれも拾おうとしない。けれど、ほうって置けば、誰かがそれを踏んで転んで大怪我をするかもしれません。そんなとき、『右の手のしていることを左の手に知らせるなとイエス様がおっしゃったから、人目に立つよいことをするのはやめよう』などと思っているうちに、誰かが空き缶を踏んで転んで大けがしたら何にもなりません。人目についても、つかなくても、善いことはするのです。

 電車でおばあさんがふらふらしていたら、さっと立ち上がって席を譲ると目立つから「右の手のしていることを左の手にしらせない」ためだと、寝たふりをしてはいけません。さっと立ち上がって、席を譲るとおばあさんも助かるし、そういうことが社会であたりまえのことになれば、もっとこの社会はお互い住みやすくなります。

 

 ところで、光というものはどれだけ大切なことでしょう。2018年9月6日、胆振東部地震で北海道全部が大停電になって、私たちは夜を暗闇の中でしばらく過ごしました。光がないというのは、まことに不便なものだと改めて知りました。光があってこそ、暗い夜も生活することができます。

また、植物は太陽から注がれる光を受けて、光合成を行ない、小さな種から大きな作物となって行きます。直径一ミリほどの種が、大きな白菜になったり、大根になったりします。降り注ぐ光の力です。光はエネルギーであって、そのエネルギーがいのちをはぐくむのですね。光がなければ、私たち地球で生きるものたちはみな食べ物を得ることができず餓死してしまいます。

 「あなたがたは世界の光です」と主イエスはおっしゃいました。イエス様が光そのものですが、私たちもまたイエス様の光を映してこの世を照らす光としての役割をになっています。光はエネルギーであって、いのちを育む力です。元気を失っている人、希望を失って悲しんでいる人のそばに寄り添って、静かに話を聞くことによって、イエス様のいのちのエネルギーをお分かちできるとしたら、そのとき、あなたも世の光です。喜ぶ者とともに喜び、なく者とともに泣くならば、あなたも世の光です。そういう共感をしてくれる人がいたら、と思っている人は今の世界にはとても多いのですね。

  「あなたがたは世の光です」と主イエスは私たちにおっしゃいます。暗闇の海の中で難破している舟のような人生を漂っている人たちにとって、クリスチャンは真理といのちに導く灯台の光です。私も、高校時代、そういう友人に出会って、牧師のもとへ、教会へ、イエス様へと導かれたのでした。ほとんどの皆さんにとっても、ご自分の人生にとって灯台の役割をしてくれた人がいたのではありませんか。小野君枝姉によってイエス様のもとへ、教会へと導かれた方たちが何人もいるとうかがいました。

「あなたがたは世界の光です」。だから、自分がキリスト者であることを隠してはいけません。人生の暗闇に迷い、沈没しそうな難破船のような状態に陥っている人が、あなたのそばにいるかもしれません。あなたという光がなければ、その人は本当に人生に絶望して沈没してしまうかもしれないのです。だから、私はクリスチャンですと、旗印を鮮明にして生きて行きましょう。

「私はクリスチャンです。私はわたしの罪のために十字架にかかって死に、よみがえってくださったイエス・キリストを信じています。」いつでも、どこでも、もし問われたならば、このようにあなたの中にある信仰と希望を告白することにしましょう。

 

結び

地の塩として人々の中に浸透して、地道に生きること。

世の光として、「私はクリスチャンです。イエス様こそ希望です。」と恥ずかしがらずに証して生きること。これらのことを大切にしてまいりましょう。

クリスチャンはとても貴重な存在なのです。

いのちと時

マルコ4章26-34節

2016年8月21日

 「神の国」とは神の支配という意味だと先にお話ししました。神の国の究極的な完成は、次の世においてですが、今の世にあっても、神様のみこころが成っていく所にはすでに神の国は来ているのです。 「神の国」は、あなたの心の中に、あなたの個人生活の中に、あなたの教会生活の中に、家庭生活の中に、職場の中に、社会生活の中に、世界に広がっていくものです。その神の国のひろがりはどういう性格を持っているのかについて、主イエスは二つのたとえばなしで話されました。一つ目は種まきの譬えです。

「4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、

 4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。

 4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。

 4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

 

1 「種」                                                  

 まず注目すべきことは、神の国が大きくなっていくことが、建物の建設や工業製品の製作ではなく、「種を蒔く」ことに譬えられているという点です。種というのは、そこにいのちがあるということです。神のご支配が広がっていくというのは、生命あるものの成長にたとえられることなのです。

 クリスチャンとして私たちが成長していくということ、キリスト教会が成長して実を実らせていくということ、福音の感化が地域社会に広がっていくということ、世界に広がっていくとくことは、生命的なことであって、工業的なことではないというのです。あるいは農業的であって、工業的でないということです。神の国は生命なのです。

 

2 「種を蒔く」

作物を期待するとき、人間の側は何をするのかといえば、まず、ともかく神の国が成長するための基本は「種をまく」ことです。種にいのちがあっても、その種を後生大事に袋の中に保存しておいては、決して芽が出る事も収穫を得ることもありません。真っ黒でフカフカの土の畑を用意しても、種を蒔かねばお話しになりません。どんなに水をまいても、草取りをしても、種を蒔いていなければ、何も始まりません。

「種」とはみことばです(4:14)。神の国はみことばが地に蒔かれ芽を出して成長するのです。どんな人間的な心理学や社会運動も、神の国の成長にはならないのです。教会がボランティア的活動を行ったりすることはありますし、牧会上人の心の理解のために心理学やカウンセリングの技術が役に立つこともあります。しかし、神のことばが語られ、その種がまかれないならば、誰一人救われて神の支配に帰する人はありません。教会は、神のことばを宣べ伝えるのです。伝道と社会的責任のふたつが教会の使命ですが、優先順位は伝道が先です。

 私たち一人一人の霊的な成長ということにおいても、まずは、神のみことばを自分の心にまくということです。主の日ごとに、あるいは祈祷会ごとに、また、日々の聖書通読でみことばをしっかりと聞き、自分の生活に適用することです。そうするときに、あなたの人格の隅々にまで神の支配がひろがり、あなたの生活の隅々にまで、神のご支配がひろがり、やがて家庭に地域社会に、神の国が広がってゆきます。

 

3 「夜は寝て、朝は起き、そうこうするうちに」

 米作りを考えると、苗代に種を蒔き、田んぼの代掻きをし、田植えをし、猛烈に伸びる雑草を取り、水の管理をし、そして収穫ということになります。「夜は寝て、朝は起き、そうこうするうちに」というのはこのようなことが含まれます。

私たちの信仰生活にも必須のルーチンワークがあります。時々はたとえばライフラインの集いとか、わくわくデーとか、クリスマス特別プログラムなど楽しいことがありますが、多くの日々は、朝起きたら、聖書を読んで心に種まきをし、今日一日、歩むべき道を信仰を働かせてくださいと祈り、そして、夜には一日の十の恵みを数え上げて、また罪の告白をして主イエスの十字架の下で悔い改めてゆるしをいただき、また感謝を捧げて眠りにつく。こうした単調とも思えることを毎日毎日コツコツと繰り返すことが、神の国があなたの生活に広がっていく上で大事なことです。

また、教会の成長ということについても、たまに行うイベントに頼って伝道するのではなく、毎月、毎週、伝道することが基本です。私は東京で9年間宣教師と伝道をした後、長野県の山間部の南佐久郡で開拓伝道を志しました。そのとき、何人かの先輩の先生がたにお話しをうかがいに行きました。その中で一番印象に残ったのは開拓伝道の実を上げてこられたT先生の話でした。どのようにして伝道して来られたのかとうかがうと、T先生は「うちでは特別伝道集会はしないことにしている。特伝をすると、それだけで伝道しているという自己満足に陥るからです。伝道は、毎月、毎週するものです。その基本は個人伝道です。」とおっしゃいました。おっしゃることばは、私にとってまさに図星でした。

それで、小海に開拓伝道に入ってから、私に毎月できる伝道を考えて、毎月「通信小海」という伝道新聞を作って南佐久郡全戸に新聞折込にして伝道をしたのです。方法はいろいろありえましょうが、毎月毎週毎日の伝道ということを実行していきたいと思います。

 

4 「初めに苗、次に穂、次に穂の中に実」

いのちには時間がかかり、段階があります。「初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫のときが来たからです。」苗ができないのに穂ができることはありません。穂がないのに、実が熟すこともありません。初めに苗、次に穂、次に穂の中に実という順番があります。成長には時間がかかり段階があるということです。種から一足飛びに花が咲くということなどないのです。だから焦らないことです。

神の国が、あなたの人格のなかで成育していくことについて、このことを考えて見ましょう。「はじめに苗」というのは、義認と「子とされること」です。<神の前に自分の罪を認めて、イエス様が私の罪からの救い主であると信じて受け入れると、神はあなたの罪を赦してくださり、かつ、ご自分の子として神の家族のうちに迎えてくださる>ことです。これが「はじめに苗」です。神様の前に自分の罪を認めて、イエス様を罪からの救い主として受け入れることなしには、キリスト者生活をスタートすることはできません。どんなに奉仕に熱心でも、どんなにたくさん献金をしても、どんなに十戒を基準として道徳的な生活に励んでみても、その人は救われていないのです。まず、自分の罪を認めて、主イエスの十字架と復活は私のためでしたと信仰をもって受け入れることです。

洗礼の準備クラスで長島茂雄選手の一塁ベース踏み忘れ事件の話をしました。一塁ベースを踏まずに二塁、三塁を回ってホームベースに帰ってきても、アウトです。イエス様の十字架が自分の罪のためであったという事実を受け入れないままに、どんなに忠実に献金をささげ、奉仕をし、毎週礼拝に来られても、最後はアウトです。「カルヴァリの十字架がわがためなり」という信仰が一塁ベースです。

その上で、「次に穂」「穂の中に実がはいり収穫」となります。これはクリスチャンの一生涯をかけて、イエス様に似た人柄に変えられていくこと、すなわち、御霊の実を結ぶことです。御霊の実とは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。みことばと祈りと教会生活をたいせつにすること、そして、試練が訪れたときには祈りつつ忍耐すること。そうすれば、こうした御霊の実が実っていきます。

 

5 成長は神の力による

                                                                                 「どのようにしてか、人は知りません」とか「地は人手によらず実をならせるもの」とあります。このことばでもって主イエスはなにをおっしゃろうとするのでしょう。それは、私たちは神の国の成長のためになすべきこととして御言葉をまくとか、水をやるとかはあるにしても成長させるのは神の力であるということです。植物を育てるとわかることは、種まきをした、水をやったからといって、みながみな同じように成長するわけではないということです。あるものの発芽は早く、あるものは遅い。あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは20倍。それぞれの種の個性があって、人間の計画通りには行きません。

 

 そのように、私たちは霊的成長のために努力しますが、ほんとうに成長させてくださるのは神様の聖霊なのです。私たちは神の協力者ですが、成長させるのは神なのです。神様にゆだねていく、あせらない、時がよくても悪くても、神様に期待して忠実に生きる。そういった姿勢がたいせつであるゆえんです。

 もうひとつの譬え言われていることはこのことです。

4:30 また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。 4:31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、 4:32 それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」

  神の国は、神の力によるものだからこそ、思い掛けないほどの成長がありえるのです。人間の常識でははかりしれないほどの成長があるのです。実際、主イエスの福音は、最初は小さなからし種ほどのものでした。世界の片隅イスラエルでした。面積は2万770平方キロメートル。北海道は8万3千450平方キロですから、北海道の四分の一ほどにすぎません。その片田舎のナザレから始まった神の国、教会は、今や全世界を覆う大木となりました。それは人間の力によるのではなく、神の力によるものであるからです。

 そして、あなた自身のこと。自分を見限ってはいけません。「自分はこの程度のものだ」とか「自分はこういう性格だから仕方ない」などと見限って、悔い改めを徹底しない人がいます。そうでなく、主が求め給うままにすなおに悔い改め、主イエスの十字架によるゆるしを素直に信じて歩むならば、神はあなたをも支配してゆくようになります。やがて、あなたの家族までも救いに導かれるでしょう。神の国からし種のようなものです。今はちっぽけであっても朝は起きて夜は寝て、そうこうしているならば、やがて大きな木になるのです。それは人の力による成長ではなく、神の力による成長であるからです。私たちは、日々御言葉にしたしみ、悔い改めつつ安んじて聖霊に信頼して神の国が教会としても、あなたの家族においても拡大して行く事を信じて歩みましょう。

 神の国は、信じる者のところを訪れるのです。

 

量るように量られる

Mk4.24,25

「4:24 また彼らに言われた。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。

 4:25 持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」

 

 主イエスの「神の国」つま、神のご支配のもとに生きる人生についての教えが続いていきます。今日は、その中で、私たちは他の人を量るように量られるという、神の国の法則ということを学びたいと思います。「量るように量られる」という法則については、聖書の中では二つの意味のひろがりがあります。

第一は、神のご支配の下に生きるクリスチャンの幸いな経済法則として私たちが他の人を「量るように量られる」ということであり、第二は、裁きにかんして私たちは他の人を「量るように量られる」ことについてです。本日はお話しの順序として、まず、神の国の経済法則として「量るように量られる」という法則について、次に、神の国のさばきの原則として「量るように量られる」ことをお話ししましょう。

 

1 神の国の経済原則

 

 神の国の経済原則といえば、旧約レビ記、マラキ書、新約ではマタイ福音書で十分の一は神のものとして十分の九で生活するところに祝福があるとありますが、主イエスは新約時代のクリスチャンには加えてもうひとつの経済原則を教えられました。それが「量るように量られる」です。イエス様がお教えになったのは、マルコ福音書4章24,25節、および、ルカ福音書6章38節です。

ルカ6:38

「6:38 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

 イギリスにいた敬虔なクリスチャン、ムーアさんというご夫妻の証を読んだことがあります。ムーアさんたちはお金であれ食べ物であれなにかが手に入ると、それはすべて自分たちに与えられたものではなくて、その一部は神様が誰か自分の周囲の乏しい人に与えるために余分にくださっているものなのだという認識をもって生活をしていました。そして、自分たちの必要はいつでも必要なものは満たされていました。

 ところがある夕食時、ムーアさん夫婦はそのときお金がなくて、食卓についてパンが変えませんでした。夫婦は祈りました。「神様。私たちが施すことをお約束したものでありならが、忘れていたものがあったのでしょうか?教えてください。」こう祈っているうちに、「あ、あれだ!」と思い出して、二人は目を開けてにっこりと笑いました。地下室に、近くの孤児院に寄付するために取り置いていた一缶のバターを持っていくのを忘れていたことに気づいたのです。そこで夫婦はそのバター缶を孤児院に持ってゆきました。夫婦が、よかったね、といいながら帰って来ると、玄関にはちゃんと誰が持ってきてくださったのか、パンが置いてありました。

 そういえば、かつて私も似たような経験をしたことがあります。多くのクリスチャンは、ムーアさんだけでなく、そういう経験をしているのかもしれません。

 神様が私たちクリスチャンに何かをくださるときには、あらかじめ余分をつけてくださるのです。乏しい人に与えて、そこに愛の交わりが実現するために託してくださったのですから、収入があったとき全部自分だけで消費してはいけません。箴言22章2節に「富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは【主】である。」とあります。 パウロはこんな勧めもしています。エペソ4:28「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」私たちに健康が与えられて仕事ができているのは、神様の恵みです。その恵みを通じて、私たちが仕事をして収入を得るとき、神様は私たちが困っている人たちに施しをするぶんも余分につけていてくださるのです。そして、そこに愛の交わりが生じ、また、神を経験することがあるのです。(ペイフォワード)

 あるとき、東京渋谷にある教団事務所に、月曜日にある委員会にまいりましたら、委員長の石川弘司先生がご自分が遅刻したお詫びとかいって、ご自分が好きなアンパンを買ってきてくださいました。私は「ああ、こずえはアンパンが大好きだがら、もって帰ってやろう。」と私はかばんに入れました。仕事が終わって、翌火曜日午前11時頃、信州の自宅についたら家内がお茶を出してくれました。そこでかばんを開けて、「昨日は石川先生がアンパンを買ってきてくれたんだ。はいお土産。」と言いました。そしてお茶を飲みながら、昨日あったあのこと、このことをお互い報告していたのですが、こずえの目の前で、無意識にそのアンパンを全部たべてしまいました。こずえは目をまん丸にしていました。・・・こいうのはよくない例です。

 神様がなにかくださったとき、余分を付けてくださっているんだということを忘れないで憶えておきましょう。

 

2 神の国のさばきの原則

 

 次に神の国のさばきの原則としての「量るように量り返される」という法則について、です。神様が私たちひとりひとりをさばくにあたっての裁きの物差しについてです。まずマタイ7章1-5節

 7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。

 7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

 7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。

 7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。

 7:5 偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

 イエス様が、私たちをご覧になると、「あなたがたはたいへん不公正な人間だねえ。他の人を量る物差しと、自分を量る物差しが違うではないか」と呆れていらっしゃるのです。人を量る物差しはたいへん厳格であるくせに、自分を量る物差しはやたらと広やかでいい加減ではないか、と。人の目のなかのおが屑が気になって仕方がないくせ、自分の目には大きな丸太棒が入っていても平気で一向気づかないじゃないか、というのです。大体、自分の目に丸太棒が入っていたら目など見えないでしょう。そうだ、あなたがたは自分の欠点、自分の失敗については、やたら寛容なくせに、他人の失敗や欠陥については、やたら情け知らずなのです。

 人のほっぺについているご飯粒はすぐ見えますが、自分のほっぺについているご飯粒には気が付かないでしょう。

 ですから、こうして人を指差すとき、自分のほうを三本の指が指していることを意識しましょう。

 

3 あわれみ深くあること

 

 ルカ6章36-37節

あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。

 神様は私たちと違ってたいへん公正なお方なので、その裁きは公正です。私たちは、えてして他人を量る物差しは厳格で、自分を計る物差しは緩やかですが、神様があなたをさばくときには、あなたが他人を量ったその物差しによって、あなたをも量るのです。だから、自分に対する神様のさばきの基準はいわば自己申告制なのです。私たちは人をさばくときに、神様の前に、私をこの基準でさばいてくださいと申し出ているのです。

もし神様からきびしく取り扱っていただきたいならば、他の人とくに兄弟姉妹に厳しく非難することです。神様はその基準であなたを取り扱ってくださいます。しかし、もし、あなたが神様から寛容に取り扱っていただくことを望むならば、あなたの隣人、特に兄弟姉妹に対して寛容であることです。神様はおっしゃいます。「おまえは、彼をずいぶん厳しく非難しているけれど、その基準で、わたしはあなた自身をも非難するが、あなたはそれで大丈夫なのだな。」とおっしゃるのです。これが神の国におけるさばきの法則です。

 ある書物で読んだ話です。中国のある地域の牧師たちの集いの中で、1人の牧師の息子が不道徳な罪を犯したことをとてもがっかりして報告しました。そして「祈って欲しい」と。そのとき、一人の正義感の強い別の牧師が手厳しく、その牧師を非難しました。

「聖書には、『自分自身の家を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話することができるでしょう。』(1テモテ3:5)と、牧師・長老の資格について教えられています。あなたは自分の息子をちゃんと指導できていないのに、牧師の資格があるのですか?」・・・たしかに正論です。しかし、正論を吐く前に、その同労者がどれほどその件で苦しんでいるかを思いやる憐れみが必要だったでしょう。・・・その後しばらく経って、あの正義感の強い牧師の子どもが甚だしい罪を犯したそうです。・・・彼は他人を量ったように量られたのでした。

 神は公正なお方です。私たちは自分に甘く、他人に辛い物差しを当てますが、神は私たちが他人をさばいたその基準で、私たちに量り返されます。

 

 私たちは今朝も主の祈りを祈りました。主の祈りの中に、文語訳では「われらに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」とあります。新改訳では「私たちの負い目をおゆるしください。私たちも私たちに負い目のある人たちをゆるしました。」とあります。文語で「ごとく」と訳されたことばは、ギリシャ語でホースというのですが、「比例して」という意味のことばです。「私たちが私たちに負い目のある人たちを赦すのと比例して、私たちの負い目を赦してください。」と私たちは祈るのです。「私たちが私たちに負い目のある人たちを赦さないのに比例して、私たちの負い目を赦さないでください。」と祈っているのです。

 これはクリスチャンに対する永遠のさばきに関することではありません。永遠のさばきについていうならば、神様はイエス・キリストにあって、私たちを絶対的にゆるしてくださいました。ここで言っているのは、神の神の民クリスチャンに対するお取り扱いについていっているのです。クリスチャンは誰かを赦さないでいるとしても、神様はその他人を直ちにクリスチャンではない地獄行きだなどとはおっしゃいません。キリストの十字架のゆえに、そのクリスチャンの罪は赦されたのです。しかし、だからと言って誰かのことを「私は決して赦さない」という心でい続けるならば、その人は自分が神から赦されたという喜びと平安を失ってしまいます。神様は、自分が罪ゆるされたことがどれほど大きな神の愛と犠牲によるのかを教えるために、その不寛容なクリスチャンを厳格に取り扱われるのです。

 お父さんと二人の息子がいたとします。ある日、兄息子が父親が大事にしていたものを壊してしまいましたが、『ごめんなさい、お父さん』というので赦してやりました。ところが、弟が兄の大事にしていたものを壊してしまいました。すると兄は弟がどんなに謝っても赦してやりません。そこで、父親は「お前がお父さんの大事なものを壊したとき赦してやったではないか。そんなことなら、お父さんはお前のことを赦さない。」と言うでしょう。その父親は長男にゆるしを学ばせるために、一時的に長男を懲らしめるのです。

そのように、もしあなたが兄弟を赦さないでいると、神様は、あなたから神様に赦されたという平安を奪ってしまいす。ですから、私たちにとって大切なことは兄弟姉妹に対して、あわれみ深くあることです。

ヤコブ2章3節

2:13 あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。

 

結び 

 パウロは、愛の章である第一コリント書13章で、愛について教えるにあたって、まず「愛は寛容であり・・・」と語っています。神様が、私たちを赦してくださったように赦すものでありましょう。また、神様が私たちに気前よく測ってくださるように、兄弟姉妹に気前よく測るものとなりましょう。

世の光

マルコ4:21-23

 

2016年8月7日 苫小牧主日礼拝

4:21 また言われた。「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。

 4:22 隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。

 4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」

 

 

1.「あかり」

 

「あかり」とはランプのことです。イエス様の時代のランプというのは、平らな素焼きの急須のようなかたちをしていました。急須でいえば、お湯を注ぎいれる口から油を入れて、お茶を注ぎだす口に灯心を差し込んで、ここに火をともして使用するものでした。

当時、イスラエルの庶民が住んだ家は日干し煉瓦を積み上げて造られたものですから、窓は小さくてお昼でも家の中はかなり暗かったのです。夜はもちろんですが、お昼でも銀貨を落としたおばさんが、ランプをもって家の隅をさがしまわらねばならなかったとルカ伝15章にあります。そんなふうに生活必需品でした。

あかりをもってきたのに、それを枡の下に隠したり、ベッドの下に隠したりしては役に立ちません。ちゃんと暗いところを照らしてこそ、明かりとしての役割を果たすことができます。当たり前のことです。

 

では、イエス様はここで「あかり(ランプ)」という譬えで何を話そうとしていらっしゃるのでしょうか。それは、イエス様を信じるあなた自身です。また、イエス様を希望として生きている苫小牧福音教会という信仰共同体のことです。イエス様をわが主と受け入れたそのときから、イエス様は、あなたたを、また、私たち教会を世の光となさいました。

ランプが生活必需品であるように、あなたという存在は、あなたの遣わされた家庭や職場や地域にあって、必需品、必須の存在なのです。また、私たち苫小牧福音教会は、自分たちではそんなふうに思えなくても、神様の目から見るならば、実はこの地域にあって必要不可欠な存在なのです。なぜ必要不可欠といえるのでしょうか。少なくとも二つの理由があります。

紀元前2000年頃、神ご自身が二人の御使いとともにアブラハムに現われたことがありました。それは、ソドムとゴモラの地の滅亡を告げるためでした。アブラハムはそこに甥のロトとその家族が住んでいることを思い、ソドムのために粘り強くとりなしの祈りをしました。その最後に、こうあります。

18:32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」

 ごくわずかであっても、そこに真の神を畏れる民がいるならば、神はその町を滅ぼすことを猶予してくださるのです。これが教会が、この苫小牧に、この日本にとって必要不可欠な理由の第一です。

 

教会が必要不可欠な第二の理由は、暗闇の中のランプとして、神様のこの町の人々、この国の人々、この世界の人々に、真理を明らかにするためです。ですから、自分が天地の創造主である真の神さまを信じていること、御子イエス・キリストを信じていることを、世の人たちに隠していてはいけません。それはランプをもってきて、枡の下に、ベッドの下に隠して置くような奇妙なことです。イエス様を信じたならば、私たちは旗印を鮮明にすることが大事なことです。

 

2.暗闇

 

(1)神奈川県相模原市

 私たちは、日本社会が闇に覆われているという現実を、先々週、恐ろしいほどに実感させられました。神奈川県相模原市の障害者施設で、「愛国心」に燃える男が、19人の入居者を殺害し、26人に怪我を負わせました。彼は「障害者のせいで税金がかかる」「障害者が減れば税金がそのぶん浮く」などと発言しています。また、植松容疑者は、衆議院議長大島理森自民党)に宛てた手紙には、自分は愛国のために、障害者470名「抹殺」できること、今回の「作戦」では2つの施設の260名を殺害するつもりであり、心神喪失による犯行として服役最長2年間にしてほしいこと、また、5億円の金銭的支援を約束して欲しい旨を記し、二回にわたって安倍晋三様に相談して欲しいと結んでいます。

http://mainichi.jp/articles/20160727/k00/00m/040/020000c

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  衆議院議長大島理森

 

 この手紙を手にとって頂き本当にありがとうございます。

 私は障害者総勢470名を抹殺することができます。

 常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為(ため)と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。

 理由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれないと考えたからです。

 私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。

 重複障害者に対する命のあり方は未(いま)だに答えが見つかっていない所だと考えました。障害者は不幸を作ることしかできません。

 今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛(つら)い決断をする時だと考えます。日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。

 世界を担う大島理森様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょうか。是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います。

 私が人類の為にできることを真剣に考えた答えでございます。

 衆議院議長大島理森様、どうか愛する日本国、全人類の為にお力添え頂けないでしょうか。何卒よろしくお願い致します。

    文責 植松 聖

 

 作戦内容

 職員の少ない夜勤に決行致します。

 重複障害者が多く在籍している2つの園を標的とします。

 見守り職員は結束バンドで見動き、外部との連絡をとれなくします。

 職員は絶体に傷つけず、速やかに作戦を実行します。

 2つの園260名を抹殺した後は自首します。

 作戦を実行するに私からはいくつかのご要望がございます。

 逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい。心神喪失による無罪。

 新しい名前(伊黒崇)本籍、運転免許証等の生活に必要な書類。

 美容整形による一般社会への擬態。

 金銭的支援5億円。

 これらを確約して頂ければと考えております。

 ご決断頂ければ、いつでも作戦を実行致します。

 日本国と世界平和の為に、何卒(なにとぞ)よろしくお願い致します。

 想像を絶する激務の中大変恐縮ではございますが、安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております。

植松聖

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(2)弱者切捨て思想と政治の責任

 植松容疑者は大麻を使用していたようですから、確かに、正常な知性でものを考えて行動したことではありません。しかし、ではこの事件は、単に一人の異常者の引き起こした異常な事件として済ませられるかと言うと、そうとは言えません。これは現在の政治と世相と深いつながりがあるからです。二つ理由があります。

第一は、植松容疑者が安倍氏首相に対して敬意と親近感をもっていることが明らかだからです。彼は手紙の中で二度までも、「是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います。」「、安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております。」と首相に言及しています。植松容疑者は、安倍政権が彼の主張と行動に賛同してくれると思い込んでいたのです。

第二は、安倍政権支持者たちが、植松容疑者の発言について共感を示す人々がネット上で発言しているからです。〈そうやってみんなすぐ植松容疑者が異常だと言い張るけど行動がよくなかっただけで言ってることは正論だと思う〉〈植松の言ってることはこれからの日本を考えるとあながち間違ってはいない〉〈穀潰しして連中に使われる予定だった税金節約して、国の役にたったよ彼は。〉彼らは、〈自民と公明が勝ってるのみるとマジでせいせいする〉〈安倍総理を応援してる自分がいる〉といって、障がい者ヘイトを垂れ流している自らが安倍政権の支持者であることを明らかにしています。彼らは第二、第三の植松容疑者となりうるのです。

 さらに、「愛国を考えるブログ―自民党ネットサポーターズクラブ会員として愛国という視点から自らの意見を論理的に述べるブログ」の中には、「重度障害者を死なせることは決して悪いことではない」という文章があります。

 自民党ネットサポーターズクラブという団体は、 麻生太郎谷垣禎一安倍晋三を最高顧問とし、小池百合子を相談役としています。このネットサポーターズクラブは、インターネット上でヘイトスピーチを繰り返して、世論を現政権に有利な方向に誘導するために運動をしていて、会員1万人です。

「こんな異常者たちの発言について自民党政府は責任がない」とは言えません。なぜなら、政府閣僚はこの種の発言をくりかえしており、かつ、それを露骨に政策に反映しているからです。麻生氏は終末期医療にふれて「さっさと死ねるようにしてもらうとか、考えないといけない。」といい、延命治療について「そのお金が政府の金でやってもらっているなんて思うと、なおさら寝覚めが悪い。」「たらたら飲んで、食べて、何もしない人(=患者)の分の金(=医療費)を何で私が払うんだ。」「90歳で老後が心配って、いつまで生きるつもりだ」と発言しています。

政策についていえば、たとえば昨年から今年精神障害者の障害者年金を1割減額して、7.9万人の人々が支給を停止されたり減額されています。植松容疑者は尊敬する首相や副首相の模範に倣ったのです。政府の弱者切捨て思想の暗闇が、庶民の良心をも覆ってしまって、人間の尊厳ということを見えなくさせてしまっています。これが、現代日本を覆っている闇です。

 

3. 人間の尊厳の根拠

 

 このような時代、私たちは世の光として、闇の中で聖書の真理を輝かせる務めがあります。聖書は人間の尊厳について、なんと教えているでしょうか?

「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」創世記1:27

また、御子イエスは、人が、神の似姿に造られた尊い存在であるからこそ、十字架で身代わりとなって命を投げ出してくださったのです。

ここに、人間の人間としての尊厳の根拠があります。どういう家柄に生まれたとか、何ができるとかできないとか、カネがかせげるかせげないとか、偏差値が高いか低いか、健康であるか病気であるかとか、兵隊になれるかなれないかとか、そういうこと以前に、あらゆる人間が神の似姿として造られたゆえに、尊いのです。私たちは、効率主義、功利主義、拝金主義、新自由主義経済、国家主義という暗闇におおわれた時代の中で、私たちは聖書が教えるこの真理を証しする世の光です。

 自閉症という障害をもって生まれた子の父親神戸金史さんという元毎日新聞記者の方が書かれた詩を紹介しておきます。

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私は、思うのです。

長男が、もし障害をもっていなければ。

あなたはもっと、普通の生活を送れていたかもしれないと。

 

私は、考えてしまうのです。

長男が、もし障害をもっていなければ。

私たちはもっと楽に暮らしていけたかもしれないと。

 

何度も夢を見ました。

「お父さん、朝だよ、起きてよ」

長男が私を揺り起こしに来るのです。

「ほら、障害なんてなかったろ。心配しすぎなんだよ」

夢の中で、私は妻に話しかけます。

 

そして目が覚めると、

いつもの通りの朝なのです。

言葉のしゃべれない長男が、騒いでいます。

何と言っているのか、私には分かりません。

 

ああ。

またこんな夢を見てしまった。

ああ。

ごめんね。

 

幼い次男は、「お兄ちゃんはしゃべれないんだよ」と言います。

いずれ「お前の兄ちゃんは馬鹿だ」と言われ、泣くんだろう。

想像すると、

私は朝食が喉を通らなくなります。

 

そんな朝を何度も過ごして、

突然気が付いたのです。

 

弟よ、お前は人にいじめられるかもしれないが、

人をいじめる人にはならないだろう。

 

生まれた時から、障害のある兄ちゃんがいた。

お前の人格は、

この兄ちゃんがいた環境で形作られたのだ。

お前は優しい、いい男に育つだろう。

 

それから、私ははたと気付いたのです。

 

あなたが生まれたことで、

私たち夫婦は悩み考え、

それまでとは違う人生を生きてきた。

 

親である私たちでさえ、

あなたが生まれなかったら、

今の私たちではないのだね。

 

ああ、息子よ。

 

誰もが、健常で生きることはできない。

誰かが、障害を持って生きていかなければならない。

 

なぜ、今まで気づかなかったのだろう。

 

私の周りにだって、

生まれる前に息絶えた子が、いたはずだ。

生まれた時から重い障害のある子が、いたはずだ。

 

交通事故に遭って、車いすで暮らす小学生が、

雷に遭って、寝たきりになった中学生が、

おかしなワクチン注射を受け、普通に暮らせなくなった高校生が、

嘱望されていたのに突然の病に倒れた大人が、

実は私の周りには、いたはずだ。

 

私は、運よく生きてきただけだった。

それは、誰かが背負ってくれたからだったのだ。

 

息子よ。

君は、弟の代わりに、

同級生の代わりに、

私の代わりに、

障害を持って生まれてきた。

 

老いて寝たきりになる人は、たくさんいる。

事故で、唐突に人生を終わる人もいる。

人生の最後は誰も動けなくなる。

 

誰もが、次第に障害を負いながら

生きていくのだね。

 

息子よ。

あなたが指し示していたのは、

私自身のことだった。

 

息子よ。

そのままで、いい。

それで、うちの子。

それが、うちの子。

 

あなたが生まれてきてくれてよかった。

私はそう思っている。

 

父より 

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