水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

いのちと時

マルコ4章26-34節

2016年8月21日

 「神の国」とは神の支配という意味だと先にお話ししました。神の国の究極的な完成は、次の世においてですが、今の世にあっても、神様のみこころが成っていく所にはすでに神の国は来ているのです。 「神の国」は、あなたの心の中に、あなたの個人生活の中に、あなたの教会生活の中に、家庭生活の中に、職場の中に、社会生活の中に、世界に広がっていくものです。その神の国のひろがりはどういう性格を持っているのかについて、主イエスは二つのたとえばなしで話されました。一つ目は種まきの譬えです。

「4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、

 4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。

 4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。

 4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

 

1 「種」                                                  

 まず注目すべきことは、神の国が大きくなっていくことが、建物の建設や工業製品の製作ではなく、「種を蒔く」ことに譬えられているという点です。種というのは、そこにいのちがあるということです。神のご支配が広がっていくというのは、生命あるものの成長にたとえられることなのです。

 クリスチャンとして私たちが成長していくということ、キリスト教会が成長して実を実らせていくということ、福音の感化が地域社会に広がっていくということ、世界に広がっていくとくことは、生命的なことであって、工業的なことではないというのです。あるいは農業的であって、工業的でないということです。神の国は生命なのです。

 

2 「種を蒔く」

作物を期待するとき、人間の側は何をするのかといえば、まず、ともかく神の国が成長するための基本は「種をまく」ことです。種にいのちがあっても、その種を後生大事に袋の中に保存しておいては、決して芽が出る事も収穫を得ることもありません。真っ黒でフカフカの土の畑を用意しても、種を蒔かねばお話しになりません。どんなに水をまいても、草取りをしても、種を蒔いていなければ、何も始まりません。

「種」とはみことばです(4:14)。神の国はみことばが地に蒔かれ芽を出して成長するのです。どんな人間的な心理学や社会運動も、神の国の成長にはならないのです。教会がボランティア的活動を行ったりすることはありますし、牧会上人の心の理解のために心理学やカウンセリングの技術が役に立つこともあります。しかし、神のことばが語られ、その種がまかれないならば、誰一人救われて神の支配に帰する人はありません。教会は、神のことばを宣べ伝えるのです。伝道と社会的責任のふたつが教会の使命ですが、優先順位は伝道が先です。

 私たち一人一人の霊的な成長ということにおいても、まずは、神のみことばを自分の心にまくということです。主の日ごとに、あるいは祈祷会ごとに、また、日々の聖書通読でみことばをしっかりと聞き、自分の生活に適用することです。そうするときに、あなたの人格の隅々にまで神の支配がひろがり、あなたの生活の隅々にまで、神のご支配がひろがり、やがて家庭に地域社会に、神の国が広がってゆきます。

 

3 「夜は寝て、朝は起き、そうこうするうちに」

 米作りを考えると、苗代に種を蒔き、田んぼの代掻きをし、田植えをし、猛烈に伸びる雑草を取り、水の管理をし、そして収穫ということになります。「夜は寝て、朝は起き、そうこうするうちに」というのはこのようなことが含まれます。

私たちの信仰生活にも必須のルーチンワークがあります。時々はたとえばライフラインの集いとか、わくわくデーとか、クリスマス特別プログラムなど楽しいことがありますが、多くの日々は、朝起きたら、聖書を読んで心に種まきをし、今日一日、歩むべき道を信仰を働かせてくださいと祈り、そして、夜には一日の十の恵みを数え上げて、また罪の告白をして主イエスの十字架の下で悔い改めてゆるしをいただき、また感謝を捧げて眠りにつく。こうした単調とも思えることを毎日毎日コツコツと繰り返すことが、神の国があなたの生活に広がっていく上で大事なことです。

また、教会の成長ということについても、たまに行うイベントに頼って伝道するのではなく、毎月、毎週、伝道することが基本です。私は東京で9年間宣教師と伝道をした後、長野県の山間部の南佐久郡で開拓伝道を志しました。そのとき、何人かの先輩の先生がたにお話しをうかがいに行きました。その中で一番印象に残ったのは開拓伝道の実を上げてこられたT先生の話でした。どのようにして伝道して来られたのかとうかがうと、T先生は「うちでは特別伝道集会はしないことにしている。特伝をすると、それだけで伝道しているという自己満足に陥るからです。伝道は、毎月、毎週するものです。その基本は個人伝道です。」とおっしゃいました。おっしゃることばは、私にとってまさに図星でした。

それで、小海に開拓伝道に入ってから、私に毎月できる伝道を考えて、毎月「通信小海」という伝道新聞を作って南佐久郡全戸に新聞折込にして伝道をしたのです。方法はいろいろありえましょうが、毎月毎週毎日の伝道ということを実行していきたいと思います。

 

4 「初めに苗、次に穂、次に穂の中に実」

いのちには時間がかかり、段階があります。「初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫のときが来たからです。」苗ができないのに穂ができることはありません。穂がないのに、実が熟すこともありません。初めに苗、次に穂、次に穂の中に実という順番があります。成長には時間がかかり段階があるということです。種から一足飛びに花が咲くということなどないのです。だから焦らないことです。

神の国が、あなたの人格のなかで成育していくことについて、このことを考えて見ましょう。「はじめに苗」というのは、義認と「子とされること」です。<神の前に自分の罪を認めて、イエス様が私の罪からの救い主であると信じて受け入れると、神はあなたの罪を赦してくださり、かつ、ご自分の子として神の家族のうちに迎えてくださる>ことです。これが「はじめに苗」です。神様の前に自分の罪を認めて、イエス様を罪からの救い主として受け入れることなしには、キリスト者生活をスタートすることはできません。どんなに奉仕に熱心でも、どんなにたくさん献金をしても、どんなに十戒を基準として道徳的な生活に励んでみても、その人は救われていないのです。まず、自分の罪を認めて、主イエスの十字架と復活は私のためでしたと信仰をもって受け入れることです。

洗礼の準備クラスで長島茂雄選手の一塁ベース踏み忘れ事件の話をしました。一塁ベースを踏まずに二塁、三塁を回ってホームベースに帰ってきても、アウトです。イエス様の十字架が自分の罪のためであったという事実を受け入れないままに、どんなに忠実に献金をささげ、奉仕をし、毎週礼拝に来られても、最後はアウトです。「カルヴァリの十字架がわがためなり」という信仰が一塁ベースです。

その上で、「次に穂」「穂の中に実がはいり収穫」となります。これはクリスチャンの一生涯をかけて、イエス様に似た人柄に変えられていくこと、すなわち、御霊の実を結ぶことです。御霊の実とは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。みことばと祈りと教会生活をたいせつにすること、そして、試練が訪れたときには祈りつつ忍耐すること。そうすれば、こうした御霊の実が実っていきます。

 

5 成長は神の力による

                                                                                 「どのようにしてか、人は知りません」とか「地は人手によらず実をならせるもの」とあります。このことばでもって主イエスはなにをおっしゃろうとするのでしょう。それは、私たちは神の国の成長のためになすべきこととして御言葉をまくとか、水をやるとかはあるにしても成長させるのは神の力であるということです。植物を育てるとわかることは、種まきをした、水をやったからといって、みながみな同じように成長するわけではないということです。あるものの発芽は早く、あるものは遅い。あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは20倍。それぞれの種の個性があって、人間の計画通りには行きません。

 

 そのように、私たちは霊的成長のために努力しますが、ほんとうに成長させてくださるのは神様の聖霊なのです。私たちは神の協力者ですが、成長させるのは神なのです。神様にゆだねていく、あせらない、時がよくても悪くても、神様に期待して忠実に生きる。そういった姿勢がたいせつであるゆえんです。

 もうひとつの譬え言われていることはこのことです。

4:30 また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。 4:31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、 4:32 それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」

  神の国は、神の力によるものだからこそ、思い掛けないほどの成長がありえるのです。人間の常識でははかりしれないほどの成長があるのです。実際、主イエスの福音は、最初は小さなからし種ほどのものでした。世界の片隅イスラエルでした。面積は2万770平方キロメートル。北海道は8万3千450平方キロですから、北海道の四分の一ほどにすぎません。その片田舎のナザレから始まった神の国、教会は、今や全世界を覆う大木となりました。それは人間の力によるのではなく、神の力によるものであるからです。

 そして、あなた自身のこと。自分を見限ってはいけません。「自分はこの程度のものだ」とか「自分はこういう性格だから仕方ない」などと見限って、悔い改めを徹底しない人がいます。そうでなく、主が求め給うままにすなおに悔い改め、主イエスの十字架によるゆるしを素直に信じて歩むならば、神はあなたをも支配してゆくようになります。やがて、あなたの家族までも救いに導かれるでしょう。神の国からし種のようなものです。今はちっぽけであっても朝は起きて夜は寝て、そうこうしているならば、やがて大きな木になるのです。それは人の力による成長ではなく、神の力による成長であるからです。私たちは、日々御言葉にしたしみ、悔い改めつつ安んじて聖霊に信頼して神の国が教会としても、あなたの家族においても拡大して行く事を信じて歩みましょう。

 神の国は、信じる者のところを訪れるのです。