水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

キリストに属する者へーーー第二のアダム

ローマ5:12-21                 

 5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。

  5:13 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。

 5:14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。

 5:15 ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。

 5:16 また、賜物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。

 5:17 もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

  5:18 こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。

 5:19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

 5:20 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

 5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

 

 パウロの手紙は、本日の箇所ローマ書5章12節から、新しい話題に入っていきます。ここまでパウロは、ユダヤ人であれ異邦人であれひとりひとりの罪とその赦しと義認の問題を扱ってきました。ここからは、キリストの契約に属する者として生きるという新しいテーマになって8章まで続きます。

 キリストにあって義と宣言されて、すでに神との平和をもっており、将来は御国に入ることが約束されたのがクリスチャンの幸いな人生です。今度、使徒は全人類的観点から、キリストによる救いの確かさを語ろうとしてゆきます。

 この文章はおもしろい構造をしています。12節からとんで、18節へとつながっていて、その間12節後半から17節は挿入されているのです。この挿入部を省略して読んでみましょう。「同様に」という表現でつないで。

「ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死がはいり、こうして全人類に広がったのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちが与えられるのです。」

 これが、話の大筋であり、あとはそれに伴う注釈です。一人の人アダムによって罪が世界にはいり、罪によって死が入り、全人類に罪と死が広がった。それと同様に、一人の人キリストの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。

 

アダムの一つの罪・・・・・・・……全人類に、罪と死                                                                                                                      キリストの一つの義の行為・・・全人類に、義認といのち

                                                                                

 アダムとキリストはこういうわけで、人類の歴史のなかに独特の立場を占めています。二つの人類の代表がアダムとキリストです。 言い換えると、神は人類を二人の代表をもって扱われるということである。人の永遠の運命はアダムに属するか、あるいはキリストに属するかということによって決定されるのです。もっとも、アダムは個人としては罪を犯した後には悔い改めたようすがうかがえるので、彼もまた救わて神の民にはいったのだと思われますが、善悪の知識の木のテストに臨んだときのアダムは人類の代表でした。

 

1.アダム---罪と死の支配--(12-14節)

 

 古来、この世の思想家たちの考えた所によると、性善説性悪説があります。すなわち、人間の本性は善であるという思想と、人間の本性は悪であるという思想とです。

 性善説についていえば、たとえば幼子が井戸に落ちたと聞けば、どんな人でも、瞬間的にこの小さな子どもの命を助けてやりたいと思うでしょう。一生懸命に努力して、助かったとなると大喜びするでしょう。  ところが、人間の中にはもう一方で醜い感情があって、ときには自分の子どもでさえも、親のエゴイズムで苦しめたりするものです。また、自分の親を憎んでいるという人は相当たくさんいるものです。 人間の本性は善なのか悪なのか?とても不思議です。

 聖書は、人間というのは、本来善であったものが、悪に転落してしまったと告げています。すなわち、始祖アダムにあって本来善であった人類は罪を犯して悪に転落してしまったのです。だから、人は「こうありたい。こうあるべきだ」という当為の気持ちを抱くのです。パスカルが、「人間の悲惨は王座を追われた王の悲惨である」と言いましたが、まさにそのとおりです。これが人間の本性についての正確な啓示です。

 どのようにしてアダムの罪が我々の罪となったのかについて理論的な説明は難しいのですが、それは現実です。アダムと人類の連帯性は三つの面から言えます。

 

 第一はアダムが人類の代表であるということです。アダムが人類の代表であり、人類全体がアダムにあって罪を犯したということはどういうことです。一つにはアダムが最初の人であり神の御前における人類の代表であったということです。神様は堕落以前のアダムと契約を結びました。すなわち、「エデンの園の木々は君に任せた。その木々から好きなように取って食べて良い。ただ一本の木からだけはいけない。それを取ってたべると、君はかならず死ぬ。」と。

 アダムはその子孫として生まれてくる人類の代表としてこの約束を聞きました。そうして彼はこの命令に背いたのです。代表者ということは、たとえばサダム・フセインが大統領であったイラクと、ブッシュが大統領を務めていた米国が戦争になったとき、個人的にはイラク国民に何の恨みもなく、むしろ好意をもっていた少数の米国人もいたでしょう。また逆に、米国に好意をもっている少数のイラク人もいたでしょう。けれども代表者であったブッシュがイラクに宣戦布告をし、代表者であったフセインが米国にひとたび宣戦布告をすれば、好むと好まざるとにかかわらず相手国との戦争に巻き込まれるのです。それは代表者が宣戦布告したことによって、自分も相手国に宣戦布告したとみなされるからです。

 同じように、アダムのことなど昔の人のことで私は知らないといっても、アダムが事実人類の代表であすから、生まれながらの人はアダムとの連帯性のなかにあります。 だから現実として、人類のうちには例外なく罪の結果としての死が入ってきているのです。

 

 第二は、アダムと我々の連帯性は、遺伝性ということです。生まれながらの人たちは、アダムと実際に同じことをしているのです。アダムは神の命令に背きました。しかも、神によって「あなたはどこにいるのか?」と罪を追求されるろ、「あんたがくれた女のせいだ」といってその罪の責任を神と女に転嫁しました。創世記3章に記されている、最初の夫婦のふるまいを見ると、人間は少しも進歩していないなあと感じます。科学技術は進んでも、人間は道徳的側面についてはまるで進歩がないなあと感じます。

 罪の場合には、単に代表者がかってにやったとはいえない現実があります。人は、現にアダムと同じように罪を犯しているのです。12節後半にあるように、「全人類が罪を犯したからです」とある通りです。生まれながらの人は神を愛しません。できれば神なしに済ませて、自分勝手に生きてみたいものだとい考えています。人を憎む、恨む、盗む、嘘をつく。友の幸福を心から喜べず、その不幸を聞くとどこかにほっとした。若い日には、そんな自分を見て愕然とした経験があるかもしれません。多くの人はイエス様を知らずに年を取ると、そのうち愕然とさえしなくなって、人の不幸を喜ぶのは当たり前と開き直ってしまうほど良心が腐ってしまいます。

 アダムはいわば全人類の根です。根が罪に汚れたから、そこから生え出た幹も枝も枝の先の葉も花も実もみな罪に汚れているのです。人は生まれながらに堕落した罪の性質を宿しています。その証拠に罪を犯すのに教育は必要はなく、罪を犯すことに努力する必要もない。人はいかに嘘をつくなと教育されて育っても、かならず嘘をつきます。人は誰にでも親切にせよと教育されても、人を憎むようになる。なぜでしょうか? 罪の根が心のそこにあるからです。我々の内に罪が宿っているという現実があるからです。

 詩篇51篇でダビデは嘆きました。

「 51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、

  罪ある者として母は私をみごもりました。」詩篇51:5,6

 

 

 第三死の普遍性

 我々がアダムとの連帯性のうちにあることは、死がすべての人のうちに入り込んで例外がないことからもあきらかです。モーセのときに律法が啓示されて、罪がなんであるかということはあきらかになりましたが、それ以前、またユダヤ人以外のすべての人類もまた死にました。それは律法によってあきらかにされずとも、現実的に人類は一人残らず罪の中にあり、犯しているからです。

 死という現実。この世の思想家のうちには死は自然なものだという人がほとんどです。ちょうど東から上った太陽が西の山の端に沈むように、死が訪れることは当たり前の事だというのです。しかし聖書は、死は不自然なものだと教えています。自然な現象を前にして私たちは驚きません。しかし、あした太陽が西の地平線から上ってきたら、世界中は恐怖にとらわれて大騒ぎするでしょう。それが不自然だからです。死を前にして、人は恐怖を覚えます。それは、死が神の裁きであり、虚無への恐怖を引き起こすからです。

 しかし、肉体の死は聖書でいう死の一部にすぎません。死とは本質的にはいのちの源である神との分離を意味しています。神を愛し、神を礼拝すべく造られた人間が、神よりもこの世を愛し、神に背を向ける傾向を持っています。これは霊的な死です。肉体は生きているようでも、霊はすでに死んでいるのです。この現実こそが、死の現実のもっとも如実な現れなのです。

 

2.キリスト=第二のアダム

 

 アダムと人類は罪と死にあって連帯しています。これは恐ろしく、悲しむべきことです。しかし、14節末尾にアダムにちなんで、すばらしいことが書いてあるでしょう。「アダムはきたるべき方のひな形です。」と。きたるべき方とはキリストです。アダムがきたるべき方のひな形であるということは、アダムと人類は罪と死にあって連帯したが、私たちはキリストと義といのちにあって連帯することができるということを意味しているのです。

 キリストにある恵みの連帯・義の連帯・いのちの連帯。これが15節以下に展開されています。

 

 キリストというお方はどういうお方でしょうか。キリストは神の御子です。しかし、人となられたお方です。人としての性質を余す所なく帯びられたのです。ピリピ2:6-8

 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

 キリストはちょうどアダムが、人類の代表として父なる神の御前に立ったように、キリストを信じる我々の代表として父なる神の御前に立ち給うのです。神は、アダムとの連帯のうちにある者をアダムと同様に扱われます。罪に対しては死を報いるということです。

 しかし、キリストとの連帯のうちにある者をキリストと同様に扱われます。すなわち、キリストの義を我々の義と見なされるのです。代表者キリストが十字架にかかって呪いを受けて地獄の苦しみをなめられまし。キリストを信じキリストとの連帯のうちにある者は、すでにおのれの罪の罰を十字架に受けて地獄の罰を受け終ったと見なされるのです。代表者キリストがこの世にあってまことに愛と正義に満ちた生涯を実践なさいました。ゆえに、キリストを信じる者はキリストのごとくに地上にあって生きた者であるかのごとく見なされるのです。また、こうしたキリストを神は死者のなかからよみがえらせられたように、代表者キリストを信じる者をも永遠のいのちへと復活させてくださいます。

 

 今や、父なる神の御前には人類からの二人の代表者が立っている。一人はアダムであり、一人はキリストです。人は人であるかぎり、いずれかに属さねばなりません。生まれながらの人は罪と死の代表であるアダムに属しています。しかし、ここにキリストという代表者が立てられました。己の罪を認め、キリストにつくことがあなたには必要です。

 

3.恵みは罪を圧倒する

 

 最後に20、21節。

 5:20 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

 5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

 

 

 20節はなんと力強いことばでしょうか。使徒パウロ自身が律法と格闘し、罪にもだえ苦しんだ末に、神の恵みを知った実体験をもってこのことばを記しているからです。人は、神の律法に真剣に取り組まねば己の罪を認識することはありません。律法をきまじめに懸命に守ろうと努力して、己の罪にもだえ苦しむ経験がなければ、主の十字架に表された神の恵みを実感することもありません。

 三浦綾子塩狩峠』の主人公永野信夫は、まじめが服を着て歩いているような鉄道員でした。そんな彼はキリストにあこがれを抱きますが、伝道者は彼に「キリストは君の罪のために十字架にかかって死なれたのだ」と告げます。永野青年は、「いいえ。私はまじめに生きてきて、そんな大それた罪を犯したことはありません。」と答えました。すると伝道者は彼に「では、聖書の中の一つでよいから、徹底的にこれを実行してごらんなさい。」と勧めます。そこで永野さんは、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」ということばを実行することを決心しました。

 ところで、永野さんの同僚に三堀という素行の悪い鉄道員がいました。彼は、同僚の給料袋を盗んだような男でした。永野さんは、この三堀を自分を愛するように愛することを決めて、ほんとうに一生懸命に、彼が更生するために自分の出世の道を捨てて、旭川に転勤をしたり、彼に助言したり、なにくれとなく親切にします。けれども、どんなに尽くしても三堀は永野に心を開きません。心を開かないどころか、永野に向かって悪態をついたのです。「おい聖人君子の永野さんよ。俺にしつこく付きまとって、旭川まで来やがって、俺が盗みを働いたことを触れ回るつもりなのか!もうあんたのご親切はうんざりだよ」というふうに。

 このとき、永野さんは、ひねくれた根性で彼の親切をとる三堀のことを憎んでしまいました。そして、気づいたのです。同僚の三堀を更生させてやろうと考えていた自分は、彼を見下していたのだということを自覚して、自分のどうにもならない傲慢という罪に驚かされたのでした。そして、この傲慢な私の罪のためにこそ、イエス・キリストは十字架にかかって苦しみ死んでくださったと悟ったのです。

 もし、キリストの十字架にあらわされた神の恵みがわからないのであれば、真剣に神の愛の戒めを徹底的に生きてみることです。聖霊が、あなたが死に定められた罪人であること、地獄の炎こそ私にとってふさわしい場所であると知るでしょう。そして、同時に聖霊はあなたにキリストの十字架に表された神の恵みがあふれていることを知らせてくださるでしょう。

5:20 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

 

 

キリストとともに・・・罪の王国から義の王国へ

ロマ6章1節から23節 

2018年5月6日

序 

 私たちが救われたのは、私たちの善い行ないに対する報酬としてではなく神の恵みによります。行ないによらず神の恵みによって救われた私たちは、キリストに結ばれ、キリストに属する者となって、どのように生きてゆくのかということが教えられています。

6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。 6:2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。

  ここで「罪」と訳されたことばは私たちが犯したあの罪、この罪ということではなく、罪の親玉ともいうべきサタンを意味しています。かつて、私たちは空中の権をもつ支配者ともこの世の神ともよばれるサタンの支配の下にあり、サタンに属する者でした。しかし、キリストの贖いのゆえに罪赦されて義と認められた今、私たちは罪の親玉であるサタンに対して死んだのです。

 そうです。神様に救われた者は、もはや罪の中にはいません。では、どのように生きていけばよいのでしょう。ここで、使徒バプテスマの意味を教えることによって、私たちキリスト者とはどういう存在であり、どのように生きるかを教えてゆきます。

 

1。バプテスマの中心意義―キリストとの結合(3、5節)

 

 バプテスマの最も中心的な意義は、キリスト者がキリストに結びつけられたことです。3節「キリスト・イエスにつくバプテスマ」5節「キリストにつぎあわされて」とある通りです。 キリスト者の祝福の一切は、キリストご自身のうちにあります。キリストを離れて、私たちはどんな祝福もいただくことはできません。私たちは、信仰によってキリストと結びつけられて、キリストから一切の恵みを頂くのです。

 主イエスはあるとき、言われました。「わたしは葡萄の木であなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15章5節)まったくそのとおりですね。枝を幹から切り取ってしまえば、どんなに枝ぶりがよくて、花芽をいっぱいつけていて花は咲かせても、実を結ぶことは決してできません。同様に、キリスト者はキリストを離れて、義とされることも、きよくされることも、神の子どもとされることも、自我に死ぬことも、愛に生きることも、復活することも決して出来ません。

 バプテスマは、信者がキリストを信じる信仰によって、いのちの源であるキリストの幹につぎ木されたことを意味しているのです。私たちの目には見えないところで現実に起こっている出来事を、目に見える形で表現しているのです。信者とキリストとの結合という出来事は、肉眼では見えませんが霊の世界で起こっている現実です。その見えないの出来事を、教会はバプテスマという儀式によって、見える形で表現するのです。それによって、その人にキリストと結びあわされたという確信を与え保証するのです。

 イエスはなぜこのようなことを命じられたのでしょう。主は、私たちの霊の目が弱いので、見えるかたちにおいて、この事実を表現することによって、余りにも弱い私たちに「私はキリストに結ばれたのだ」という確信を与えてくださるのです。

 

2。キリストとともに罪に対して死んで、キリストと共によみがえった

 

(1)キリストとともに死んだ

 では、キリストに結び付けられて、私たちはキリストと共に、何を経験したのでしょうか。それは、まず死です。まず、死について。 まず、バプテスマは死を意味しています。ですから、洗礼式はその人の葬式なのです。しかも、バプテスマの表わす死は二つあります。第一の死とは罪(サタン)に対する死です。2-3節。6節、10、11節。

 6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

 「罪に対して死んだ」というのは、あまり私たちにピンとこない表現ですが、どういう意味でしょうか。ここで「罪に対して死ぬ」というのは、の親玉、罪の卸問屋サタンを意味しています。人は生まれながらにはサタンという極悪な主人の奴隷です。この極悪な主人から解放される方法がひとつだけあります。それは死ぬ事です。しかし、どんなに極悪な主人であっても、その奴隷が死んでしまったらこれをこき使うおとはできません。だから私たちはキリストにあって罪に対して死んだのだから、罪はもはやクリスチャンを自分のためにこき使う権利がないのです。

 いわば人は、「罪」というサラ金融というところから金を借りて、サラ金地獄に陥っているようなものです。「罪」の取立人はしょっちゅう訪ねて来ては、「おい。罪を犯せ。罪を犯せ。もう犯せないとはいわせないぞ。お前の目を使って罪を犯せ。お前の唇を使って罪を犯せ。お前の手を使って罪を犯せ。」と責め立てるのです。「サラ金罪」はしつこくて、地の果てまで追いかけてきます。どうしたら逃げられるでしょう。死ぬことです。死んでしまえば罪も追いかけては来られません。

 私たちは神の御前では地獄の刑罰がふさわしい者です。しかし、キリストは私たちを愛して、その罪の代価を御自分の十字架の死によって支払ってくださいました。さて、バプテスマの中心的意義は、キリストを信じる者がキリストと結ばれるということでした。キリスト者は、バプテスマによってキリストに結びあわされているので、キリストとともにすでに死刑の執行を完了してしまったのです。かつての主人であった罪に対していうならばあなたは死んでしまったので、もはや罪という主人にこき使われる必要はなくなったのです。サラ金罪には、もはやあなたから罪を取り立てる権利はなくなりました。

 6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。 6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。

とあるとおりです。

 

(2)キリストと共によみがえった

 キリストが私たちの罪のために十字架にかかられたのには、はっきりとした目的があります。それは、私たちを罪の奴隷状態から解放し、キリストとともに新しく生まれさせることです。4-6節。

6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

 6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

 6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

 

 主イエスは姦淫の女をゆるされた時に、こう言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」キリストは、私たちを、罪の中に安住させるためではなく、罪から解放し、義を行なわせるために、十字架にかかられたのです。

 

 3 罪の奴隷から義の奴隷にすでになっている

 

 キリストの十字架にあって私たちは、法的に罪の刑罰をすでに受け終わりました。では、次に、私たちは、どのようにして実質的にサタンに支配された罪の生活から解放されるのでしょうか。ここではキリスト者としての自己認識(アイデンティティ)の重要性を取り上げています。

 90年ほど前、インドで狼に育てられた双子の少女が発見されました。彼らは生まれて間もなく、狼に連れ去られました。その狼はおそらく生まれたばかりの自分の子をどういうことによってか失ったばかりで、子を捜していたのです。そして彼らを自分の子として育てました。この子たちが発見されたとき、狼のようにうなり、狼のように四つ足で走っていました。正真正銘の人間として生まれながら、なぜ彼らは狼のようになってしまったのでしょうか。それは、彼らが自分は狼であると思いこんでいたからです。アイデンティティの重要性はここにあります。人は自分が何者であるかと思いこんでいる、そのようになるのです。

 聖書は言います。まず、キリストを信じた私たちは新しくなった己の身分をわきまえることが大事です。そのことを示すように6節「知っています。」8節「信じます」9節「私たちは知っています」。11節「思いなさい」。とあります。

 6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます

 6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています

 6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

 6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい

 

 あなたは、現在、キリスト者とはどういう人ですかと問われたら、どう答えますか。もしかすると「罪ゆるされた罪人」でしょうか。罪という親分とキリストという親分の間を行ったり来たりしている者のように思っているかもしれません。しかし、聖書は言います。実際には、そんな中間状態のコウモリのような人はおりません。ただサタンがあなたの目をくらましているのです。キリストを信じた人は、すでに罪という親分に対しては死んでおり、神に対して生きる者となっているのです。

 この事実をよく認識することがたいせつです。人は自分の思うようになるからです。自分は狼だと思っているとオオカミのようになります。罪に対して死んだ私たちは、もはや罪の奴隷ではありません。私たちは義の奴隷です。また神の子どもです。この自分の身分をわきまえることです。ここでは、神の国の兵士という身分が与えれたと述べています。

 聖書はいいます。12節から14節。

 6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。 6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。 6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

 ここでパウロが、用いている「不義の器」とか「義の器」といっている「器」ということばは、重兵器という意味のことばです。当時でいえば、小さなナイフではなく、重い大きな剣のことでしょう。ここで、彼は二つの対立し戦争をしている国のことを思い浮かべて話しているのです。一つは罪の王国であり、国王はサタンです。もう一方は義の王国で、国王はキリストです。

 かつて私たちは、罪の王国の兵士でありその国王である罪のために戦う義務がありました。毎日毎日罪を犯し続ける任務があったのです。そうすれば、サタンにほめられるのです。しかし、キリストは十字架によって、私たちを罪の王サタンの支配から解放してくださったので、今や私たちはキリストの兵士なのです。私たちは、今やキリストのために戦うべきです。キリストを信じてバプテスマを受け、神の国民とされた私たちは、もはや罪の王国のために自分の頭、唇、手足を用いるべきではありません。神のために用いるべきです。そのために、キリストはあなたのうちに、あたらしいいのちの御霊をくださったのです。

  6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、 6:18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

 「義の奴隷となった」であって、「義の奴隷になりさない」ではありません。キリストを信じる者は、すでに義の奴隷なのです。

 

 4 義の奴隷として生きよ

 

 6:19 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。

 6:20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。

 6:21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。

 6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。

 6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 

 私たちはかつて、罪の王サタンの王国の兵士でした。その時、サタンにはあなたを支配する支配権があったのです。そして、あなたには自分の唇や目や手や足を罪を犯す兵器として、サタンという王にささげて、勤勉に罪を犯す任務がありました。頭はただ自分の損得の勘定をし、憎しみを宿し、人をねたみ、人を陥れる企みをするための武器でした。唇は、人の悪い噂を言い、人をそしるための武器でした。手は物を盗み、不品行を犯すための武器でした。

 けれども、今や、イエス・キリストは十字架によってあなたを罪の王サタンの王国の支配から、神の王国に移されたのです。ですから、主イエスの喜ぶ仕事をしましょう。その頭も、その手も、その足も、耳も、目も、主を喜ぶために用いるのです。その手で神の宮を掃除したり、その手でみことばを書き記したりしましょう。私たちの唇はかつて罪という主人のものでしたが、今や主のものです。その唇をもって神を賛美し、真理を語り、兄弟姉妹を励ますための武器です。

 

むすび 

『こどもさんびか』にこういう歌があります。

「小さい私の手はイエスさまの喜ぶ仕事をするためにある。

私のすべてはイエスさまのもの。十字架で死なれたイエスさまのもの。

小さい私の唇で主の尊いお名前ほめ歌います。

私のすべてはイエスさまのもの、十字架で死なれたイエスさまのもの。」アーメン。

 

荒野にて

Ex2:11-22             

2019年1月20日 苫小牧夕礼拝

 

2:11 こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。

 2:12 あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。

 2:13 次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに「なぜ自分の仲間を打つのか」と言った。

 2:14 するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか」と言った。そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知れたのだと思った。

 2:15 パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。彼は井戸のかたわらにすわっていた。

  2:16 ミデヤンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちが父の羊の群れに水を飲ませるために来て、水を汲み、水ぶねに満たしていたとき、

 2:17 羊飼いたちが来て、彼女たちを追い払った。すると、モーセは立ち上がり、彼女たちを救い、その羊の群れに水を飲ませた。

 2:18 彼女たちが父レウエルのところに帰ったとき、父は言った。「どうしてきょうはこんなに早く帰って来たのか。」

 2:19 彼女たちは答えた。「ひとりのエジプト人が私たちを羊飼いたちの手から救い出してくれました。そのうえその人は、私たちのために水まで汲み、羊の群れに飲ませてくれました。」

 2:20 父は娘たちに言った。「その人はどこにいるのか。どうしてその人を置いて来てしまったのか。食事をあげるためにその人を呼んで来なさい。」

 2:21 モーセは、思い切ってこの人といっしょに住むようにした。そこでその人は娘のチッポラをモーセに与えた。

 2:22 彼女は男の子を産んだ。彼はその子をゲルショムと名づけた。「私は外国にいる寄留者だ」と言ったからである。

 

 

序 神様は、ご自分の器をお用いになる前に、荒野に彼を追いやることがある。そういうことを今夕の本文を読むときに教えられます。神様は、モーセに何をなさろうとしているのでしょうか。

 

1 同胞愛の目覚め

 

 神様の不思議な摂理で、モーセはエジプトの宮廷で、前の女王の養子として育つことになりました。そこで当時の世界で最高の帝王学を身に着け、一定の権力を持ち、社会的には特権階級に位置するところで成長し、生活をする人となったのでした。

 ところが、モーセはある年齢に達したとき、にわかに同胞愛に目覚めました。いったい何があったのかは、映画などを見るとさまざま推測していますが、実際のところは謎です。モーセは自分の出生の秘密を知らないまま成長していって、相当の年齢に達して、その秘密を知るようになったという推測をする人もいますし、そうでない人もいます。事実はわかりません。しかし、とにかく、事実として、彼は相当の年齢に達したころ、自分がエジプト人ではなく奴隷として苦しみにあっているヘブル人なのだということを自覚するようになりました。そして、今自分がエジプトの王族として持っている地位や名声や安楽な生活を捨ててでも、同胞を救いたいと願ったのでした。そういう願いを持ち始めたころ、モーセがへブル人たちが苦役にあえいでいる現場で、エジプト人にひどく鞭うたれているのを見ることになったのでした。おうとしたその事柄自体はよいこと、賞賛すべきことでした。へブル人への手紙にもそのようにモーセの決断を評価しています。

 11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、

 11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。

 

 

 その決断は、確かに信仰によるものでした。また、パロの娘の子であることに伴う特権のこの世的なすばらしさを考えれば、これを神の民イスラエルのために撃ち捨てるということは、生半可な覚悟でできることでは決してありません。彼の決意は並みならぬものがあったのです。しかし、まだ神はモーセをこの段階で用いようとはなさいませんでした。恐らくモーセの行動には肉的なヒロイズムが含まれていたのだと思います。 エジプトでモーセのことを知らぬものなどいませんでした。そういう自分が、へブル人の救済のために、犠牲をいとわず立ち上がるならば、同胞へブル人たちは、感謝感激で自分をリーダーとして迎えてくれるに違いないと思っていたのです。ところが、そうではありませんでした。

2:13 次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに「なぜ自分の仲間を打つのか」と言った。

 2:14 するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか」

 

 ちょっと雰囲気を出して言い換えれば、「モーセさんよ。あんたみたいにエジプトの宮廷でぬくぬく育ってきたボンボンが、今になって、わたしは君たちの救い主だ。リーダーだ。と言ったって、誰がついていくもんかね。俺たちは奴隷だ。泥にまみれて鞭で打たれて、ひーひー這いずり回って生きているんだ。あんたなんかに、俺たちの気持ちがわかるもんかい。・・・あ、怒ったね。おいおい、また昨日のエジプト人のように、おいらも殺そうっていうのかい。あー怖い怖い。」という風な感じです。

 エジプトの宮廷を去り、へブル人にも受け入れられないモーセは行き場を失いました。そして、逃亡者となり、ミデヤンの地にまで逃れて行きます。ミデヤンとは、アカバ湾の東側のアラビア半島の地です。当時、エジプトの領土はシナイ半島をも呑み込んでいましたから、アカバ湾の東側アラビア半島にまで逃れる必要があったのでした。モーセは実に数十年にわたってこのミデヤンの荒野で過ごすことになります。

 

2 荒野で

 

 ミデヤンの荒野に行きますと、ここで一つの出会いがありました。祭司レウエルとその娘たち7人との出会いです。16-17節はさっそうとしたモーセの姿が彷彿とさせられる出来事でした。

2:16 ミデヤンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちが父の羊の群れに水を飲ませるために来て、水を汲み、水ぶねに満たしていたとき、

 2:17 羊飼いたちが来て、彼女たちを追い払った。すると、モーセは立ち上がり、彼女たちを救い、その羊の群れに水を飲ませた。

 

 乱暴な羊飼いたちをあっというまに追い払ったモーセをうっとりと見つめる七人の娘。なんだか映画みたいですねえ。チャールトン・ヘストンを思い出します。七人の娘たちは乙女心をときめかせながら、この出来事を父レウエルに告げます。「お父様、私たちが水場で羊に水をやっていたら、いつもの乱暴な羊飼いたちがやってきて意地悪をしたの。そうしたら、立派なエジプトの人かしら青年が来て、バッタバッタとなぎ倒して追い払ってくださったのよ。」と七人は口々に父親にその様子を接げたのでした。

 「これはお礼を申し上げなければ」、ということで父はモーセを呼びに行かせ、モーセもそのもてなしを受けます。話を聞けば行くあてもないという。そこでレウエルは、そういうことならばうちの娘と所帯をもって、いっしょにくらしませんかと勧めます。こうして、モーセは思い切って、この荒野に住むことに決意したのです。

 

 しかし、モーセのうちには期するものがあったことが、生まれた子につけた名からわかります。ゲルショム。「私は外国にいる寄留者だ」という意味でした。モーセは自分が寄留者であって、やがて時が来れば帰るべき所へと旅立つものであるということを心に刻んでいるのです。

 

 ともかく、モーセはこのミデヤンの地で羊の世話をしながら、数十年間くらすことになります。エジプトの宮廷とはおよそかけはなれた生活をすることになるのです。今まではエジプトの宮廷で仕えられ、上げ善据え膳で、かしずかれるのが当たり前という生活でしたが、今は羊たちに仕える生活をします。ほしいものはなんでも手に入るという生活をしてきましたが、これからは荒野で窮乏にも耐えながらの生活です。エジプトの宮廷で、快適な生活をしていましたが、これからは荒野で水を見つけるにも一苦労という生活をします。まるで無駄な数十年ではないかと思えます。

 けれど、小さな平凡な家庭の喜びという慰めを主はくださいました。また、荒野にはエジプトの宮廷にいたときにはなかった、後に多くの人々を連れて荒野を旅する備えとしてのさまざまの経験がありました。激しい日差し、砂嵐は、人間の計画のままには決して動かない。そこで忍耐を学び、自分を見つめ、主を見上げる生活をするのです。こうしてモーセは肉なるもの、自我が死滅して、柔和な者となります。後に、モーセは地上でもっとも柔和な人、主の用いやすい器となったのです。

 

結び

 私たちは良かれと思って、大決心をして、やる気まんまんで立ちあがったのに、その出鼻をくじかれるといった経験をすることがあります。そういうとき、私たちはがっかりしてしまいます。失意落胆してしまう。もう三十年以上も前のことですが、私自身も神学校出たての駆け出しだったとき、純粋に燃えがって、そういう苦い経験をしたことがあります。

 私たちはそういうとき、協力的でない他の人をうらんだり、状況に対して不平を言ったりしがちかもしれません。けれども、主のみこころは異なるところにあります。「お前がしようとしたことはよいことだ。しかし、お前はまだわたしのしもべとしてふさわしくなっていない。」と主がおっしゃいます。「おまえは、自分の知恵と才覚と学識でことをなそうとしているが、それはやめなさい。ただわたしのときを待ち、わたしの力にのみより頼むことができるようになるまで、きみを荒野で訓練しよう。」とおっしゃっているかもしれません。誰の賞賛もなく、収穫がなにもないように見える日々のなかで、静かに、日々の務めに励みながら、主のときを待つ。モーセはこうして神の人として練り上げられていきました。

罪の報酬、主の賜物

 

から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ローマ6:23

 

 

 

(1)本来の人間のあり方

 神様は最初、人間を造られたときに、人を特別な存在として造られました。それは、まず人は神の似姿として造られたということです。神は正しく愛に満ちた知性と感情と意志んおある無限の人格ですから、人は有限ではありますが人格的存在として造られたのです。知性と感情と意志がある者、知性をもって物事を考え、単に本能にしたがってではなく自らの意志をもって行動し、感情をもって喜びや悲しみや怒りを感じるものとして造られたのです。

 また、神はご自分に似た人格的な存在として造られた私たちに生きる目的を与えました。その目的とは、神を礼拝し、隣人を愛し、そして神のみこころに沿って被造物世界を正しく治めるということでした。そのように生きているならば、人はほんとうに幸せだったはずです。想像してみてください。神を礼拝し、隣人を愛し愛され、神のしもべとして世界を神のみこころにしたがって治めることが出来たなら、これほど素晴らしいことはありません。

 そして、神は私たち人間が神を崇め、隣人を愛し、世界を適切に管理して生きていくことができるために、私たちに必要ないっさいをいつも供給していてくださいます。太陽を昇らせ雨を降らせ、季節の収穫で私たちを生かしていてくださいます。

 

(2)罪(悪魔)

 ところが、堕落天使である悪魔が人間を誘惑し、人はこの主な生きる目的を見失ってしまいました。私は多くの人に会って、個人的に福音を語ってきましたが、そのたびに「自分の人生の主な目的はなんだと思いますか?」と質問をしました。けれども、ちゃんと答えられる人には一人も会ったことがありません。たいていは「生きる目的なんて考えたこともないなあ。」という答えですが、一人だけこう言いました。「わたしは死ぬために生きています。」と。どんなに生きていても、最後は死ぬしかないのだから、死ぬために生きているというのはなるほどです。

 ローマ書6章では、悪魔の別名であるかのように「罪」(単数)ということばが用いられています。「罪」はギリシャ語でハマルティア、ヘブライ語でハーターと言い、弓術の用語で「的外れ」を意味します。悪魔は、私たちを、神を愛し、隣人を愛し、被造物を正しく治めるという目的から外させるからです。人が、自分に今日もいのちを与えていてくださる神様を愛し、隣人を愛し、被造物を治めるという目的から外れて、ただ何を食べようか、何を着ようか、何を飲もうか、金がもうかった、損したということだけに関心をもつ生き方をしていることが、的外れなのです。人は、いわば悪魔株式会社に就職して、社長である悪魔のために、ウソをついたり、人を憎んだり、盗みをしたり、浮気をしたり、と悪いことをしている。そうすると、悪魔社長は「今日も人を憎んだか。よい忠実なしもべだ。」「今日もウソをついたな。よくやった」といって、報酬をくれる。その報酬は「死」だというわけです。

 そんな報酬欲しい人がいるでしょうか。

 

(3)現実罪

 悪魔にたぶらかされて、神に背を向けたことから派生して、さまざまの罪が出てきました。イエス様は、あるとき当時の旧約の法律の専門家たちと汚れについて議論になりました。その専門家たちは人間のけがれというのは、手を洗うというような儀式をすることできよめられる表面的なものだと思っていたようです。彼らがお上品ぶっているので、イエス様はあえて下品な口ぶりで、言われました。マルコ7:18ー23

「外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのか。そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されちまうよ。」

  また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

 不品行・姦淫・好色というのは配偶者以外の人と性的関係を結ぶことです。これは配偶者を傷つけ、子どもたちを傷つけ、家庭を破壊します。旧約聖書時代の律法では石打の刑にあたる罪です。主イエスは、「情欲をもって(妻以外)の女性を見る者は、神の前では姦淫を犯したのだ」とおっしゃいます。

 「貪欲」「ねたみ」「そしり」とはなんでしょう。貪欲とは他人の幸福や評判を欲しがることです。しかし得られないので他人を憎むことを「ねたみ」といいます。ねたみから、その人の悪評を立てることを「そしり」といい、それでも飽き足らず奪ってしまうと「盗み」です。他人が幸福になったら、一緒に「良かったね」と言えるのが、本来の人間としては正常な反応ですが、逆にねたみ、憎み、そしり、盗んでしまうのです。こういう罪を放置すればついには殺人にいたります。

 A牧師がこんな反省をしていました。ご自分がある日曜日、他の教会での働きがあって、友人のB牧師を呼んで説教をしてもらったそうです。その日の午後に務めを終えて帰って来た彼は、信徒の人たちに質問しました。「今日の午前の礼拝はどうでしたか?」すると信徒の一人が「B先生の説教は、実に素晴らしくて、本当にひさしぶりにものすごく感動しました。」 A牧師は「それは良かったですね。」と答えたそうですが、「そのとき、私の顔が引きつっているんじゃないかと心配しました。本来、すばらしいB先生のお話を兄弟姉妹が聞くことが出来たのですから、感謝すればよいものを、罪深いことに私は心穏やかではいられなかったのです。神の前に悔い改めました。」

 

 不品行・姦淫・好色・殺人という罪も、貪欲・妬み・そしりという罪も、神の住まわれる聖なる天国にはふさわしくないことはおわかりでしょう。そんな罪が天国にいっても一杯あったら、そこは天国でなく地獄です。これらの罪は、悪魔の住まう汚れた地獄にふさわしいものです。こうしたさまざまの罪は、あの「的外れ」の罪が原因なのです。人間の目的は、いのちをくださった神様を礼拝し、隣人を愛し、被造物を治めることなのに、神に背を向けていると、こうした諸々の罪が出てくるのです。

   

2 報酬としての死

 

 「罪から来る報酬は死です」。悪魔は、私たちが神を忘れ、感謝もせず、隣人の幸福を妬み、親不孝をし、盗んだり、殺したり、浮気したり、嘘をついたり、という色々な罪を日々犯していると給料をくれるのです。その給料とは死です。「死」とはなんでしょうか?聖書は3つの死があると教えています。

 

  第一は霊的な死、言い換えると、神なき人生です。黙示録に「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」とあるように、肉体的には生きていてからだは動き頭も働くのですが、神との関係が断絶している状態です。神なき人生が霊的死です。まことの神との交わりのない人生です。神との生きた交わりが断絶した状態です。神さまはきよいいのちの泉です。そのきよいいのちの泉から離れてしまっているので、人はきよい心と、きよい唇と、きよい行動をもって生きられなくなっています。

 

 第二の死は肉体的死です。肉体が死ぬと、霊は肉体を離れて、それぞれ生前の行いに相応しいところへと、行くのです。

 

 第三番目の死とは、永遠の滅び、ゲヘナです。

 人には一度肉体的に死ぬことと、肉体の死後にさばきを受けることが定まっていますが、そのとき、神さまは私たちが体にあったときに、心の中で思ったこと、口にしたことば、手で行ったことなどあらゆることをご存知ですから、その行いにしたがって公正な裁きを行なわれます。

 天国は神様の住まいです。神さまに背を向けて、神などいない、いらないという人は、望み通りに神のいない所に永遠に住むことになります。これを聖書は永遠の死と呼びます。そこには悪魔も落とされています。

 罪から来る報酬は死です。神の前に罪の問題が解決されていなければ、人は今の世にあって、その心の思いと、ことばと、手足でもって、いろいろな罪を犯しながら、神さまを無視し、的を外れたむなしい人生を歩み、最後には永遠の滅びに陥ってしまいます。

 

 永遠のいのち

 

 しかし、聖書は言います。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」永遠のほろびではなく、永遠のいのちに入る道があるのです。永遠のいのちとはなんでしょうか?いのちとは、死とは反対のことを意味しています。

 聖書のいう「死」とは、第一に、神なき人生、第二に、からだの死、第三に永遠の滅びを意味していました。永遠のいのちとはその反対すなわち、第一に神とともに生きる人生、第二に、からだの復活、第三に永遠の祝福です。

 

 私自身、かつて、神などいるはずがないと思って生きていた時代がありました。ところが、19歳の時イエス様を信じて、神とともに生きる人生を歩むようになりました。何が変わったでしょうか?

 ①まず、人生の主な目的がわかりました。それまでは、「結局死んでしまうだけなら、人生はむなしいなあ」と感じていましたが、神様が私を造り、私に世にあって、神の栄光を顕す人生を歩むことを期待していてくださることがわかりました。生きる甲斐のある人生となりました。

 ②次に、イエス様を信じて、また教会における神の家族を与えられました。今朝もこうしてともに賛美をささげ、礼拝がささげられること、苦楽をともにできる神の家族がいることは、なんと素晴らしいことでしょう。世の人たちの多くは孤独の中にいます。

 ③第三に、罪をゆるされた平安です。イエス様を信じて、イエス様の十字架と復活によって、神様の前の罪が赦されたことがわかったので、神との平和を得ました。

 ④第四に、永遠の祝福。新しい天地、天国の希望です。やがて最後の審判で、主の前に出るならば、イエス様が「あなたの罪の呪いは、すべてわたしが十字架で背負ってしまいました。」とおっしゃり、無罪放免が告げられます。無罪放免どころではありません。天の御国は想像を絶するすばらしい住まいを用意していてくださいます。父なる神と御子イエス様が王座に着き、その御座から永遠のいのちである聖霊が流れ出て都全体をうるおしています。そこには、悲しみも、叫びも、苦しみも、罪も、恐怖もありません。みなが謙遜で互いを愛し合い、仕えあい、喜びと感謝と感動と平安とがあふれています。

 

  イエス様にあって神に愛されていることを知って生活するうちに、まるで不十分であることを認めますが、私のような人間さえも少しずつ変えられて愛ということを知るようになりました。今60歳です。イエス様を信じて41年間、ほんとうによかったなあと思います。この先、この世に何年住まうかは、神のみこころのままですが、行く先が愛の神の永遠の住まいであることは、ほんとうに安心です。

 あなたは、天国とゲヘナとどちらを永遠の住まいとしたいでしょうか。

 

結び 報酬と賜物の違い

 

 では、どのようにして私たちは永遠のいのち、すなわち、①生きる甲斐のある人生、②神と共にある素晴らしい人生と、③罪ゆるされた平安と、④永遠の祝福を受け取るのでしょうか。

 永遠の死の受け取り方と、永遠のいのちの受け取り方は違います。死は罪に対する報酬ですから、悪魔が神に背を向け罪を犯した者には与えられます。

 他方、永遠のいのちは賜物、ギフトです。贈り物はどのようにして受け取るのでしょうか。遠慮しないで、ただ相手の自分に対する善意を信頼して、「ありがとうございます」と言って受け取るのです。私たちが、キリスト・イエスにある永遠のいのちを受け取るのも同じです。「わたしは聖なる神さまの前には罪あるものです。ごめんなさい。」とまず認めます。「でも、こんな私を愛して、私を赦すためにイエス様が来てくださったことを感謝します。」と言って受け取ります。

 

<追記>

新約聖書学において、パウロ神学の中にも黙示文学的要素があるというのが、わりと近年の研究なのだそうですが、研究者でなくても普通に読めばそういう部分は読み取れます。ローマ書5章11節までに問題とされる罪は、私たちが犯す罪を意味していますが、6章に出てくる「罪」は「罪に対して死ぬ」(2節)、「私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなる」(6節)「死んでしまった者は罪から解放されている」(7節)「あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません」(12節)といった表現を読むと、「罪」(単数)がある人格的な存在つまり悪魔を指していると読めば、恐らく一番無理なく読めるところです。
 パウロはエペソ書2章でも、「空中の権をもつ支配者」について語っていますし、同6章11節以降もそうです。

 

 

モーセ誕生と神の配剤

出エジプト1:22-2:10

 (エジプト脱出の時期を15世紀頃とする前期説に基づいてお話します。)

 

1 歴史的背景

 

 紀元前15世紀半ば、イスラエルの民は奴隷とされていたエジプトから脱出を果たします。その指導者モーセはどのようにして誕生し、育てられたのでしょうか。

 時代背景を簡単に復習します。エジプトがセム人による征服王朝の時代、ヤコブと一族はエジプトにくだりました。ヤコブの息子ヨセフが宰相だったので、彼らは平穏無事に暮らしました。しかし、やがて王朝が交代し、エジプト人による新王国時代が始まると、その王たちは国粋主義的で、増え続けるイスラエル民族を弾圧しました。トトメス3世はイスラエルに生まれた男児ナイル川に捨てよと命令をくだしました。このトトメス3世は古代エジプトヒトラーのような王で、対外的には侵略戦争を展開して、北はユーフラテス川の上流域、シリア、パレスチナ、南はエチオピアまで支配下に収め、国内においては異民族であるイスラエルを弾圧したのでした。

 ところが、本日の箇所を見ると、こうした暴君の支配下にあったエジプトであったにもかかわらず、「パロの娘」と呼ばれる女性が登場して、赤ん坊のモーセを助けます。エジプト第18王朝の系図をよく調べると、これには背景があったことがわかります。

 

<エジプト第18王朝 出エジプト記1,2章関連系図

正妃――――①イアフメノス1世

      |

 ②アメンホテプ1世―――側室

           |

正妃―――――③トトメス1世―――側室

     |          |

⑤正妃ハトシェプスト――④トトメス2世―――側室

    「パロの娘」          |

           正妃―――⑥トトメス3世

              |

            ⑦アメンホテプ2世

 

 系図を見ると、二代目以降、王の名としてトトメスとアメンホテプの二種類があることに気づきます。アメンホテプというのは正妃から生まれた子が王となった場合に付けられる名ですが、トトメスは側室から生まれた子が王となった場合に付けられる名でした。側室から生まれた男児は、正妃から生まれた血統証付の皇女と結婚することで、王と名乗ることができるという御后に頭が上がらない立場でした。

 もうひとつ、王位継承については古代エジプトでは王は男子がなるものと決められていました。ところが、トトメス1世は正妃からは娘ハトシェプストしか得ることができず、側室から男子を得ました。こうして生まれた男子は正式の王位継承権のある異母姉ハトシェプストと結婚してトトメス2世となりました。

 ところがトトメス2世も正妃ハトシェプストとの間には子を得ることができず、側室との間に男子を得ました。これが後のトトメス3世です。彼は実母を早く失い、ハトシェプストが継母となります。しかも、父トトメス2世も息子3世が6歳のときに死んでしまいます。父トトメス2世は息子が王となるようにと遺言して死んだのですが、6歳で政治をとることは無理だということで、トトメス2世の妻であり、3世の継母となったハトシェプストが女王となるのです。トトメス3世も共同統治にあたる王でしたが、実権はハトシェプストが長く握って国を治めました。その間、ハトシェプストは対外的な戦争はひとつも行わない平和外交を展開しました。

 他方、トトメス3世は、やがて自分は力があるのだぞと思うような年齢になると、継母であるハトシェプストを深く恨むようになったようです。彼がどれほどハトシェプストを恨んでいたかということは、ハトシェプストのルクソール葬祭宮殿にあった彼女の名とレリーフを削り取ったということから明らかです。また、ハトシェプストの死後、彼女のミイラを王のミイラを安置すべき場所から他に移してしまったようで、3500年間ずっと行方不明になっていました。

 2007年6月、エジプト考古学庁が、ツタンカーメン発掘以来の重大な発見について発表しました。王家の谷にあるKV60と呼ばれる小さな墓で発見された身元不明だったミイラのDNA鑑定をしたところ、それがエジプト新王国時代の第五代の女王ハトシェプストのミイラであることが判明したのです。トトメス3世は養母ハトシェプストの死後、その葬祭宮殿のレリーフを破壊しました。彼女のミイラを片隅に移したのはトトメス3世か、あるいは、彼女の遺徳をしのぶ人々なのかは定かでありません。

 トトメス3世は若い日、政権の中枢から遠ざけられて、平和外交をしつつ軍事畑を歩まされましたが、やがて長じるとハトシェプストから実権を奪います。そして彼はハトシェプストとは正反対の政策をとることにしました。対外遠征を17度も行い、エジプトの勢力をユーフラテス川上流からエチオピア方面にまで拡張しました。そして、国内では異民族イスラエルの民を弾圧しました。前王であり温和な政策をとったハトシェプストがそういうトトメス3世の政策に心を痛めていたことは想像に難くありません。出エジプト記1章後半から2章の出来事には、そういう背景があったと考えられます。

 系図をごらんください。私たちは「パロの娘」という呼び名から、うら若い女性を想像してしまいがちですが、王位継承権をもつ正しい血統を受け継いだ女性という意味で、「パロの娘」と呼ばれていたと理解すべきでしょう。年齢は四十代半ば。王としての実権はトトメス3世に移っていたころだったと思われます。彼女は1483年ころに死んでいます。

 

2 モーセの母と姉と王女

 

 イスラエルに生まれた男児を虐殺させようとして、助産婦に命令したパロでしたが、彼女たちの知恵ある抵抗にあって、あての外れたパロは、今度は、男の赤ん坊はナイル川に捨てよという命令をくだします。

1:22 また、パロは自分のすべての民に命じて言った。「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」

 こうした危機的な状況のもとで、エジプト脱出の指導者となるモーセは生まれてきたのでした。

2:1 さて、レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。 2:2 女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた。 2:3 しかしもう隠しきれなくなったので、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。

 2:4 その子の姉が、その子がどうなるかを知ろうとして、遠く離れて立っていたとき、

 2:5 パロの娘が水浴びをしようとナイルに降りて来た。彼女の侍女たちはナイルの川辺を歩いていた。彼女は葦の茂みにかごがあるのを見、はしためをやって、それを取って来させた。 2:6 それをあけると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をあわれに思い、「これはきっとヘブル人の子どもです」と言った。

 

 赤ん坊が産まれたけれど、ナイル川に捨てることなどできなかった親は、三ヶ月は隠したのですが、泣き声は大きくなってもう隠し切れなくなりました。母親は泣きながら神様に祈りました。祈るうちに、ふとひらめくものがありました。それは、この赤ん坊を、前のやさしい女王様の手にゆだねてはどうだろうかということです。女王様がいつも水浴びに来られる場所を母は知っていました。そこで、決して、水が入ってこないように防水処理をした葦のかごに赤ちゃんを入れて、ナイルの川べりの葦の茂みに置くことにしたのです。

 そして、前の女王「パロの娘」ハトシェプストさまが来られて、どういうことになるかを娘のミリヤムに監視させたのです。実際、パロの娘、先の女王さまがいつもの場所に水浴びに来られると、侍女たちが葦の茂みの中のかごの中から赤ん坊の声を聞きました。かごを開いてみるとかわいい生後三ヶ月ばかりの男の子です。はたしてパロの娘は、かわいそうに思い、これはヘブル人の子どもだと察知しました。トトメス3世のヘブル人に対する民族浄化政策に対して、平和的なハトシェプストは心痛めていました。ですから、彼女はヘブル人の赤ん坊を救いだし、養子として育てたのです。暴君の命令に背いて、ヘブル人の子どもを救いだし育てることができたのは、彼女はパロの継母であり前王であったからこそ、パロさえも手を出すことができなかったからでしょう。

 そして、彼女が赤ん坊を見つけて抱き上げるようすを見ると、隠れて赤ん坊を見守っていた赤ん坊の姉ミリヤムはお母さんに言われていたとおりに飛び出して、言いました。

2:7「あなたに代わって、その子に乳を飲ませるため、私が行って、ヘブル女のうばを呼んでまいりましょうか。」

 その様子を見て、王女はすべてを悟って言いました。2:8 「そうしておくれ」。王女はこの赤ん坊がヘブル人の男の子であり、この娘がその姉であり、これから連れて来ようとしている「ヘブル人のうば」というのは、この子たちの母親にちがいないと悟ったのです。悟りましたが口に出さないところが、賢いところです。

 こうして赤ん坊の母親が連れて来られました。王女は彼女に養育費まで払って赤ん坊を返してやるのです。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私があなたの賃金を払いましょう。」やがて赤ん坊は大きくなって王女の息子モーセとなって、エジプトの最高の学問を授けられて、遠い将来、エジプト脱出という難事業を成し遂げるために必要な知恵・訓練を授けられることになります。

 

 モーセの母と姉とエジプトの王女が口には出しませんが、すべてを理解し合って、このひとつの命を何とかして救い出そうとして協力して、そして成し遂げたのでした。身分も民族もあまりにも違うお互いですが、一人の赤ん坊を助けるためにいのちがけで協働をして、のちに出エジプトの指導者となるモーセの生きる道がそなえられたのでした。

 すべては神の摂理の御手でなされたことです。しかし、神はその摂理を、勇気ある、そして赤ん坊の命を助けたいという愛情に満ちた女たちを用いて実行なさったのでした。

 

結び 本日の箇所から三つのポイント

第一に、神は歴史の中に働かれ、御心を遂行してゆかれるお方です。ですから、歴史を探るときに、聖書の語っていることが見えてくることがあります。聖書は、いわゆる宗教書とちがって、歴史の事実を裏づけのあるものなのです。二十世紀になってオリエントの考古学が急速に発達することによって、ますます聖書の確かさ、その意味が明らかにされてきています。

 

第二に、神様は、後のリーダー、モーセを救うために、女性たちをお用いになったことからの教訓です。モーセを生んだ母、その娘、そして立場はまったく違うのですが、エジプトの娘おそらくハトシェプストをもちいて、モーセを守り育てられたのでした。女性には、こどもの命を守りたいという「すべていのちあるものの母」(創世記3章20節)という特異な任務が神様から与えられているということを覚えたいと思います。女性は男性にくらべていのちに対する繊細な感覚をもっているのだと思います。男と女はそれぞれに賜物の違いがありますから、お互いにそれを尊重して家庭や社会を築いていくことが、神様のみこころにかなったことです。

 

第三に、神様は、後にエジプト脱出という難事業を行うリーダーとなり、さらに、モーセ五書という偉大な書物を記させるために、モーセを準備なさっていたということです。

 まず彼の命を救い、次に彼がエジプトの宗教に染まりきってしまわないように、実母のもとで育てられるようにと配慮されたことでした。さらに、彼はエジプトの宮廷で、当時、世界一の教育を受けることになったことです。モーセは文学も政治学法律学軍事学も学ぶことになりました。このように、神様は広い視野、長い計画をもって、用意周到にモーセの準備をされたのでした。こうした神の支配、導きを摂理とか配剤といいます。

 私たちは小さな者ですが、神様の愛を受けて、神様の配剤の下に生かされているものです。そのことをおぼえて、あわてず騒がず、しかし、勇気をもって主のみこころをこの地上でなしてまいりましょう。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」(ローマ8章28節)

 

主のために生きよ-灰色問題―  

ローマ14章                                        

2019年1月13日 苫小牧

 

序 恵みによった救われた私たちはローマ書12章から、クリスチャンとしての生活の規準について学び続けています。クリスチャン生活のアクセルは、神への愛と隣人への愛を実践せよということです。ブレーキは、十戒のうちに啓示されています。すなわち、「あなたには私のほかにほかの神々があってはならない」「あなたは自分のために偶像を造ってはいけない。」「主の御名をみだりに唱えてはならない。」「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」「あなたの父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」「あなたの隣人のものを欲しがってはならない」(出エ20)。

 今、十戒をはじめとする律法はブレーキと言ったように善悪の基準であり、これを逸脱したら罪であると定めるものです。つまり、白黒をはっきりとつけるのが律法の役割です。しかし、私たちの生活のすべてのことに白黒がはっきりしているわけではなく、あるクリスチャンには黒っぽく見えるけれども、あるクリスチャンには白く見えるということがあります。つまり、道徳律法に明白には禁じられていないことで、あるクリスチャンにとっては罪と感じられ、あるクリスチャンにとっては罪と感じれられないことです。これをギリシャ語でアディアフォラといいます。

 

1.アディアフォラ

 

(1)初代教会で

 初代教会でアディアフォラとして問題になっていたのは、特に食べ物と日に関することでした。2-6節。

14:2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。

14:3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

14:4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。

14:5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

14:6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

 

 旧約時代においては食べ物について規定がありました。肉については、反芻し、しかも蹄の割れた動物の肉以外は食べてはならないということでした。つまり羊、やぎ、牛はOKだが、豚は蹄は割れてますが反芻しませんし、馬は反芻しますが蹄は割れていないのでいけないということでした。魚肉については、うろこのある魚だけOKということで、うろこの無いウナギやナマズは食べてはいけないということでした。これらは祭儀律法に属することですが、ユダヤ人たちは幼いころからの生活習慣に、それがしみ込んでいました。

 さて、ユダヤ人たちは紀元前六世紀ころから地中海世界に散らばって、あちらこちらの町に住むようになっていたわけですが、各地でユダヤ教の会堂を造って旧約の律法にしたがって生活していました。パウロたちによってイエス様の福音が各地で宣べ伝えられると、ユダヤ人からもイエス様を信じる人々が起こってきました。また、異邦人からもクリスチャンが誕生しました。ローマの教会でもユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの両方を含んでいたのです。

 原則からいえば、新約時代にあっては、何を食べようともそれ自体は罪ではないのです。14節「主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。」けれども、ユダヤ人のなかには小さな時から、ウナギ、豚肉・馬肉などを食べるのは罪だとかいう生活習慣がしみついていますから、頭では納得できたとしても心がついてこないということがありました。

 また、異邦人のなかにも食べ物で問題を感じる人がいました。というのは、当時の地中海世界の町町の肉屋の多くは、地元の偶像の神々たとえば女神アルテミスとかビーナスとかゼウスとかの神社に肉を捧げるという儀式を行ってから、その祭壇から下げてきた肉を食肉として販売する店が多かったからです。そこで、かつて偶像礼拝の習慣のなかに生活していた人々で、今はクリスチャンになっているという人々のなかには、偶像に捧げた肉を食べるとなんだか偶像崇拝をしてしまったことになるんじゃないかと、良心のとがめを感じる人もいたのです。ある人々は、「肉は肉だ、偶像の神々なんてどうせ実在しないのだから、どうってことない」と割り切れたのですが、ある人々は「偶像の神々に捧げた肉を食べることは偶像礼拝に当たるのではないか」と良心を悩ませたのです。

 客観的に言えば、偶像礼拝自体は罪ですが、偶像に捧げた肉を食べること自体は罪ではありません。しかし、良心のとがめを感じる人もいたのです。

 また、旧約時代にはいろいろな記念日、祭りの日がありました。過越しの祭り、仮庵の祭り、刈り入れの祭りなど。こうした日を守るかどうかということについても、ユダヤ人クリスチャンのうちには、食べ物に関するのと同じような問題があったのです。ある人たちは祭りの日の規定は過ぎ去った旧約時代のことだから、そんなものに捕らわれる必要はないと思えたのです。これを「信仰の強い人」と聖書は呼びます。パウロもそうでした。一方、食物の規定事項とか日を守ることを守らないと良心にとがめを感じる人がいます。これを「信仰の弱い人」と呼びます。むしろデリケートな信仰者、「繊細な神経の信仰者という意味です。「信仰の強い人」というのは、「神経の太いクリスチャン」です。

 

 2   3つの勧め

 

 こうしたことを背景として、使徒3つのことを勧めます。

 (1)まず、本人自身について。それぞれ確信をもって、主に感謝して、食べたり食べなかったりすればよいということです。

  14:5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい

 14:6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

 14:7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。

 14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

 14:9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。5-9節、

 

14:14 主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。

 

14:22 あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。

 14:23 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

  つまり、アディアフォラの事がらについては、「これを食べることは主が喜ばれない」と良心のとがめを感じる人ならば、食べてはいけません。「信仰から出ていないことはみな罪」だからです。しかし、「これは主がくださった食物だから感謝して食べよう」と思える人ならば、感謝して食べればよいのです。いずれにしても、確信をもって主に感謝して行動することができるならば、それでよいのです。

 聖書が十戒において罪であるとはっきりと啓示していない灰色の事がらについては、みな同じ原則が適用されます。自分として、主イエスが今私を御覧になっていて喜んで下さると確信をもてることをすればよいのです。

 

)お互いに裁くな

 第二に勧められることは、アディアフォラの事がらについて兄弟姉妹をさばくなということです。3、4、10節

14:3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

 14:4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。

14:10 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

  偶像にささげた肉について言えば、食べることが罪であると感じる人は、食べる人を偶像にささげた肉を食べるとはけしからんと非難してはならないというわけです。また、逆に、自分はこの肉は主がくださった食べ物だと感謝して食べることができる人は、食べない人々のことを「あなたは窮屈だよ、律法的だよ、心が狭いよ」とかいって、非難しさばいてはいけないのです。アディアフォラについてはそれぞれ自分の確信するところにしたがって、感謝して行動すればよいのです。

 

)主にある兄弟への愛の配慮のためには自分の権利を制限すること

 

 三つ目の原則は、食物などのことで良心にとがめを感じない人、つまり、神経の図太いクリスチャンへの勧めです。自分は食べても平気でも、デリケートな、つまずきやすい兄弟姉妹をつまずかせるような場合には、食べるのを控えなさいということです。13節。

 14:13 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。

 「いや、それ以上に」(13節)とあるように、これは、何が正しいか以上のことがら、もう一歩先の兄弟愛の実践に関することです。自分の神様の御前における良心については何の疑いもないとしても、もしかりに、あなたの行動が良心の敏感なデリケートな感性を持つ人をつまづかせるようならば、あなたは自分の権利を制限しなさいというのです(1コリント8:9-13参照)。もしある兄弟が肉を食べることで良心のとがめを感じるならば、あなた自身は平気でも、その兄弟がつまずかないために、肉を食べないようにしなさいといっているのです。

 クリスチャンの生き方は、正しいというだけでは不十分です。正しいことは大事ですが、その上に、愛の配慮・愛の自己犠牲があってこそ、クリスチャンとして相応しい生き方です。自分は、神の前に問題ないとしても、兄弟姉妹はどうだろう?という愛の配慮をするのです。

 ただし、パウロがいう「信仰の弱い人」つまりデリケートな良心を持つクリスチャンへの配慮を強調しすぎると、第一点、第二点の「アディアフォラについては、それぞれの確信に従って行動し、たがいにさばくな」という大原則が意味がなくなってしまいますから、デリケートな神経のクリスチャンもまた、図太い神経のクリスチャンに対する配慮をしてさばかないことも大事です。

  

3 現代日本の私たち

 

 私たちが生きている現代日本で、クリスチャンにとってアディアフォラ(灰色)に当たることはなんでしょうか?

 神社で柏手を打ったり、仏像を拝んだとしたら、それは明白な偶像崇拝で、十戒の第一の戒めに反しています。樽前神社を見学・散歩するのはどうでしょう?多くの人は平気でしょうが、ある宣教師は神社仏閣に行くと気持ちが悪くなると話していました。つまりアディアフォラです。では、誰かのお家を訪問してお土産にお饅頭を持っていったら、そのお饅頭をその家の人が、まず神棚に置いてパンパンと手を打って、それを神棚から下げて「さあ食べましょう」と言ったら、どうでしょう。あるクリスチャンは良心の呵責を感じ、あるクリスチャンは全然気にせずに食べられるでしょう。

 日の丸への敬礼についても同じように言えるでしょう。江戸時代末期、日の丸はもともと外国船と日本船を区別するために薩摩藩がつけたマークであり、偶像ではありません。しかし、先の戦前・戦中の一時期、日の丸は天照大神を表すのだと教えられたことがありました。本来偶像でない者が、一時期偶像的に扱われたという意味で、偶像にささげられた肉に似ています。日の丸に敬礼することに関してはどうでしょうか。オリンピックの時、万国旗の中に日の丸がはためいているときには、偶像と感じる人は少ないでしょう。我が国のマークだと思う人が多いはずです。けれども、学校の卒業式などで正面に一つ日の丸が掲げられ、最敬礼を求められたら、たぶん抵抗を感じる人が相当数出てくるのはあたりまえです。先の戦争のとき、学校で奉安殿が開かれ、天皇御真影の前に最敬礼を求められ、白手袋をした校長先生が教育勅語奉読しことを思い出し、「日の丸は天照大神の象徴です」と国定教科書で教わったことがある人、あるいはそうした歴史を学んだ人は、心穏やかではいられないでしょう。しかし、一方で「時代は変わったんだ。日の丸が天照大神の偶像だなんて何の根拠もない。諸国の国旗と同じ、日本のマークだよ。」とまったく割り切れる人もいます。こうしてみると、日の丸もアディアフォラでしょう。文脈によって変わってくることです。

 ほかにもアディアフォラは、食べ物、服装、社会生活上のこといろいろありましょう。食べ物についてはあまり関係なさそうですが。お酒はどうでしょうか。コーヒーはどうでしょうか。タバコはどうでしょう。また服装についてはどうでしょう。

 酒の問題について、聖書はなんと言っているでしょうか。エペソ5:18「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」と述べています。もう一方で、2テモテ5:23「これからは水ばかり飲まないで、いのために、また、たびたび起こる病気のためににも、少量のぶどう酒を用いなさい。」とあります。要するに、養命酒のような、あるいは肉食の消化を助けるワインのような軽い食前酒のような用い方はよいけれど、酔っぱらい理性をマヒさせ遊興・酩酊・放蕩などという罪につながり、聖霊の宮であるからだを壊すような飲酒は禁じているのです。しかし、私自身はお酒は飲まないことにしています。まず日本は森が豊かなので、水道水が平気で飲めるという恵まれた環境だからです。そして、アルコール依存症体質の人にとっては、牧師が飲酒することはきっとつまずきになるからです。教会にそうした病気から回復してきた人が加わった時に、その兄弟のつまずきになってはならないと思うので、聖餐式の葡萄汁はノンアルコールにしています。

 服装はどうでしょう。もし水草牧師がモヒカン刈りをしていたらどうでしょう。これらは文化の問題です。私がモヒカン族に派遣されたならば、モヒカン刈りにするかもしれません。けれど、日本ではかりにモヒカン刈りが自分の好みでも主にある兄弟姉妹をつまずかせる場合の方が多いでしょうからしません。 

 いずれにせよ、律法に罪と定められていないかぎり、私たちは自由に確信をもって行動すればよいのです。けれども、その時に兄弟姉妹・求道者の方たちがイエス様に近づくのにマイナスになりそうなことならば、愛の配慮として自分の自由を放棄する自由をも私たちは主からいただいているのです。

 

むすび

 そういうわけで、アディアフォラについては三つの原則を学びました。

第一に、アディアフォラについて、自分としては神様の御前に、確信と感謝をもって生活すること。

第二に、アディアフォラについて判断が自分と違う兄弟姉妹をも受け容れることです。神経の太いクリスチャンは、繊細なクリスチャンを馬鹿にしない。繊細なクリスチャンは神経の太いクリスチャンを裁かない。

第三に、兄弟姉妹への愛の配慮として、自分の自由を制限することです。「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」                                                    

 

神を畏れて生きよ

出エジプト記1章1-22節

 

1.へブル人の危機

 

 本日から出エジプト記を味わいます。アブラハムがおよそ紀元前2000年の人で、その息子イサク、孫ヤコブと続き、ヤコブの時代に一族はエジプトへと下ります。それが1800年頃のことです。その時代からおよそ400年後が、本日から読み始める出エジプト記の出来事です。イスラエルの民のエジプト脱出の時期は、紀元前15世紀または14世紀の出来事でした。まず、出エジプト記は、モーセ誕生という出来事の歴史的背景を、1章1節から22節はていねいに記しています。

 「さて、ヤコブといっしょに、それぞれ自分の家族を連れて、エジプトへ行ったイスラエルの子たちの名は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ。 1:3 イッサカル、ゼブルンと、ベニヤミン。ダンとナフタリ。ガドとアシェル。 1:5 ヤコブから生まれた者の総数は七十人であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。」(1:1-5)

 アブラハムの孫ヤコブが、紀元前1800年頃一族を連れてエジプトの地にくだったのは、数年にわたって彼らが住んでいたカナンの地が雨が一滴もふらない飢饉のゆえでした。そんなときにも、エジプトにはアフリカの奥地のジャングルに降る雨水を集めた大ナイル川があり、水が確保されていました。それに、ヨセフが不思議な導きでヤコブの12人の息子のうち下から二番目の息子ヨセフがエジプトの宰相となってエジプト国内に莫大な食料を蓄えていて、父ヤコブと兄弟たちを迎えたてくれたからです。

 ヨセフがエジプトに連れられて行った時、エジプトの王は第16王朝のアペピ2世だったと考えられています。この王は1800年頃、第16王朝というのはヒクソス人というセム騎馬民族征服王朝で、エジプト土着の人々の王朝ではありませんでした。自分の右腕としてエジプト統治を助けてくれるヨセフ、そして、ヤコブ一族はセム系ですから親近感もあったのでしょう。王はイスラエルを厚遇したのです。それでしばらくの間イスラエル人たちは、エジプトに安住していました。やがて、「そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死」んでいきます(6節)。そして、「その子孫たちは、多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた」のです(7節)。

 

 ところが、時代がくだって社会情勢が変化してきます。「ヨセフを知らない新しい王がエジプトに起こった」(8節)とあるとおりです。王朝が交代したのです。それは、エジプトに昔から住んでいた民族が異民族のヒクソク人たちを追い出して、自分たちの王朝を復興したのです。これをエジプト新王国時代といいます。このエジプト新王国時代、エジプトは領土を拡張して世界帝国にした好戦的な王たちが起こりました。新王国時代は、異民族を追放したという民族主義的な王朝でしたから、かつてヒクソス王朝に優遇されていたイスラエルの民は、冷遇・弾圧されることになります。モーセが生まれたのは、このエジプト新王国時代、寄留するイスラエルにとっては苦難の時代のことだったのです。

 出エジプト記1章に出てくる王は、考古学者によればラメセス2世かトゥトメス3世という二つの説があり、それぞれに相当の根拠はあるのですが、私は総合的に判断してトゥトメス3世(1500BC)とするのが適切であろうと思います。王はイスラエルの民は労働力として生かしておかねばならないが、強くなりすぎると王朝にとっては危険であると考えました。とくにイスラエル人は人口が急激に増えていましたので、王の目には脅威として映ったのでした。

 「彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くといけないから。」

 そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、 1:14 粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。」(1:9-13)

 

 2 神を畏れる女たち

  しかし、このような暴君の時代にも勇気ある人たちがいました。しかも、それは屈強な男たちではなく、ヘブル人の名もなき女性たちでした。彼女たちは、神がこの世に生まれさせようとするいのちを産ませることこそ自分たちの使命であると認識していました。生まれてくる赤ん坊のいのちを奪い取ることは神に背く恐るべき罪であると認識していましたので、絶対君主の命令に背いてまでもヘブル人の赤ん坊を取り上げたのでした。

 「また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに言った。そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。

  彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」

  しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。

  そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼び寄せて言った。「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」

   助産婦たちはパロに答えた。「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」

   神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった。 助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。」(1:15-21)

 業を煮やした王は、エジプト人たちに命令しました。「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」(22節)実に鬼のような王です。

 先ほど、私は「名もなきヘブル人の女性たち」と申し上げましたが、神様はエジプトのファラオの名は伏せておいて、産婆さんたちの名をここに特筆して残させました。「シフラとプア」という名でした。シフラは日本風に言えば好ましい子と書いて、好子さん、プアは語源不明です。歴史家の目には特段価値のない名でしょうが、神の御目には特段価値ある名なのです。

 

3 『生ましめんかな』

 

 この二人の産婆さんの記事を読むと、私は必ず栗原貞子さんの詩を思い出します。

 

「生ましめんかな」

こわれたビルディングの地下室の夜だった。

原子爆弾の負傷者たちは

ローソク1本ない暗い地下室を

うずめて、いっぱいだった。

生ぐさい血の匂い、死臭。

汗くさい人いきれ、うめきごえ

その中から不思議な声が聞こえて来た。

「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。

この地獄の底のような地下室で

今、若い女が産気づいているのだ。

 

マッチ1本ないくらがりで

どうしたらいいのだろう

人々は自分の痛みを忘れて気づかった。

と、「私が産婆です。私が生ませましょう」

と言ったのは

さっきまでうめいていた重傷者だ。

かくてくらがりの地獄の底で

新しい生命は生まれた。

かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。

生ましめんかな

生ましめんかな

己が命捨つとも

 

 

 最初の女性の名をエバ、すべていのちあるものの母という名でした。女性は、男よりもいのちを尊ぶ性質があるのです。子を産むこと、育てること、家族のいのちを守る食事を用意すること。こうしたことに必要な、いのちを大切にしたいという性質を神様は女性にお与えになったのでしょう。己が命を捨てても、子どものいのちを守りたいという情熱を神は女性に授けられました。

 

結び

 歴史家たちが注目する、歴史の表舞台に立ち、歴史に名を残すのはたいてい男であり、モーセはそういう英雄の一人です。けれども、モーセが歴史の舞台に立つためには、その蔭でこのような神を畏れる勇気ある二人の産婆さんがいたのです。名もない産婆さんです。でも、神様は彼女たちの名前が聖書に残ることを望まれました。シフラそしてプアという産婆です。

 面白いことに、出エジプト記には当時の世界の最高権力者エジプトのファラオの名は記録せず、二人の産婆さんの名が記録されているのです。歴史家たちが目を付けるところと、神が目を止められるところは違うのですね。

 モーセを歴史に登場させ、イスラエルを救出し、旧約の啓示を与えるのは確かに神様のご計画でした。しかし、神のご計画はどのようにして実現していくのか。神は、ご自分の計画を遂行されるにあたって、神を畏れる者に期待し、お用いになるのです。神の計画は、それは神を信じる者たちの、信仰の行動によって実現していくものなのでした。それも神の摂理の御手のなかにあることなのです。私たちは歴史に名を残すような大きな者ではなく、小さな道端の石ころのようなものかもしれません。けれども、そんな路傍の石ころでも神を信じる勇気をもって生きるなら、神はその名を憶えていてくださいます。