水草牧師の説教庫

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主のために生きよ-灰色問題―  

ローマ14章                                        

2019年1月13日 苫小牧

 

序 恵みによった救われた私たちはローマ書12章から、クリスチャンとしての生活の規準について学び続けています。クリスチャン生活のアクセルは、神への愛と隣人への愛を実践せよということです。ブレーキは、十戒のうちに啓示されています。すなわち、「あなたには私のほかにほかの神々があってはならない」「あなたは自分のために偶像を造ってはいけない。」「主の御名をみだりに唱えてはならない。」「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」「あなたの父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」「あなたの隣人のものを欲しがってはならない」(出エ20)。

 今、十戒をはじめとする律法はブレーキと言ったように善悪の基準であり、これを逸脱したら罪であると定めるものです。つまり、白黒をはっきりとつけるのが律法の役割です。しかし、私たちの生活のすべてのことに白黒がはっきりしているわけではなく、あるクリスチャンには黒っぽく見えるけれども、あるクリスチャンには白く見えるということがあります。つまり、道徳律法に明白には禁じられていないことで、あるクリスチャンにとっては罪と感じられ、あるクリスチャンにとっては罪と感じれられないことです。これをギリシャ語でアディアフォラといいます。

 

1.アディアフォラ

 

(1)初代教会で

 初代教会でアディアフォラとして問題になっていたのは、特に食べ物と日に関することでした。2-6節。

14:2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。

14:3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

14:4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。

14:5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

14:6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

 

 旧約時代においては食べ物について規定がありました。肉については、反芻し、しかも蹄の割れた動物の肉以外は食べてはならないということでした。つまり羊、やぎ、牛はOKだが、豚は蹄は割れてますが反芻しませんし、馬は反芻しますが蹄は割れていないのでいけないということでした。魚肉については、うろこのある魚だけOKということで、うろこの無いウナギやナマズは食べてはいけないということでした。これらは祭儀律法に属することですが、ユダヤ人たちは幼いころからの生活習慣に、それがしみ込んでいました。

 さて、ユダヤ人たちは紀元前六世紀ころから地中海世界に散らばって、あちらこちらの町に住むようになっていたわけですが、各地でユダヤ教の会堂を造って旧約の律法にしたがって生活していました。パウロたちによってイエス様の福音が各地で宣べ伝えられると、ユダヤ人からもイエス様を信じる人々が起こってきました。また、異邦人からもクリスチャンが誕生しました。ローマの教会でもユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの両方を含んでいたのです。

 原則からいえば、新約時代にあっては、何を食べようともそれ自体は罪ではないのです。14節「主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。」けれども、ユダヤ人のなかには小さな時から、ウナギ、豚肉・馬肉などを食べるのは罪だとかいう生活習慣がしみついていますから、頭では納得できたとしても心がついてこないということがありました。

 また、異邦人のなかにも食べ物で問題を感じる人がいました。というのは、当時の地中海世界の町町の肉屋の多くは、地元の偶像の神々たとえば女神アルテミスとかビーナスとかゼウスとかの神社に肉を捧げるという儀式を行ってから、その祭壇から下げてきた肉を食肉として販売する店が多かったからです。そこで、かつて偶像礼拝の習慣のなかに生活していた人々で、今はクリスチャンになっているという人々のなかには、偶像に捧げた肉を食べるとなんだか偶像崇拝をしてしまったことになるんじゃないかと、良心のとがめを感じる人もいたのです。ある人々は、「肉は肉だ、偶像の神々なんてどうせ実在しないのだから、どうってことない」と割り切れたのですが、ある人々は「偶像の神々に捧げた肉を食べることは偶像礼拝に当たるのではないか」と良心を悩ませたのです。

 客観的に言えば、偶像礼拝自体は罪ですが、偶像に捧げた肉を食べること自体は罪ではありません。しかし、良心のとがめを感じる人もいたのです。

 また、旧約時代にはいろいろな記念日、祭りの日がありました。過越しの祭り、仮庵の祭り、刈り入れの祭りなど。こうした日を守るかどうかということについても、ユダヤ人クリスチャンのうちには、食べ物に関するのと同じような問題があったのです。ある人たちは祭りの日の規定は過ぎ去った旧約時代のことだから、そんなものに捕らわれる必要はないと思えたのです。これを「信仰の強い人」と聖書は呼びます。パウロもそうでした。一方、食物の規定事項とか日を守ることを守らないと良心にとがめを感じる人がいます。これを「信仰の弱い人」と呼びます。むしろデリケートな信仰者、「繊細な神経の信仰者という意味です。「信仰の強い人」というのは、「神経の太いクリスチャン」です。

 

 2   3つの勧め

 

 こうしたことを背景として、使徒3つのことを勧めます。

 (1)まず、本人自身について。それぞれ確信をもって、主に感謝して、食べたり食べなかったりすればよいということです。

  14:5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい

 14:6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

 14:7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。

 14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

 14:9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。5-9節、

 

14:14 主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。

 

14:22 あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。

 14:23 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

  つまり、アディアフォラの事がらについては、「これを食べることは主が喜ばれない」と良心のとがめを感じる人ならば、食べてはいけません。「信仰から出ていないことはみな罪」だからです。しかし、「これは主がくださった食物だから感謝して食べよう」と思える人ならば、感謝して食べればよいのです。いずれにしても、確信をもって主に感謝して行動することができるならば、それでよいのです。

 聖書が十戒において罪であるとはっきりと啓示していない灰色の事がらについては、みな同じ原則が適用されます。自分として、主イエスが今私を御覧になっていて喜んで下さると確信をもてることをすればよいのです。

 

)お互いに裁くな

 第二に勧められることは、アディアフォラの事がらについて兄弟姉妹をさばくなということです。3、4、10節

14:3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

 14:4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。

14:10 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

  偶像にささげた肉について言えば、食べることが罪であると感じる人は、食べる人を偶像にささげた肉を食べるとはけしからんと非難してはならないというわけです。また、逆に、自分はこの肉は主がくださった食べ物だと感謝して食べることができる人は、食べない人々のことを「あなたは窮屈だよ、律法的だよ、心が狭いよ」とかいって、非難しさばいてはいけないのです。アディアフォラについてはそれぞれ自分の確信するところにしたがって、感謝して行動すればよいのです。

 

)主にある兄弟への愛の配慮のためには自分の権利を制限すること

 

 三つ目の原則は、食物などのことで良心にとがめを感じない人、つまり、神経の図太いクリスチャンへの勧めです。自分は食べても平気でも、デリケートな、つまずきやすい兄弟姉妹をつまずかせるような場合には、食べるのを控えなさいということです。13節。

 14:13 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。

 「いや、それ以上に」(13節)とあるように、これは、何が正しいか以上のことがら、もう一歩先の兄弟愛の実践に関することです。自分の神様の御前における良心については何の疑いもないとしても、もしかりに、あなたの行動が良心の敏感なデリケートな感性を持つ人をつまづかせるようならば、あなたは自分の権利を制限しなさいというのです(1コリント8:9-13参照)。もしある兄弟が肉を食べることで良心のとがめを感じるならば、あなた自身は平気でも、その兄弟がつまずかないために、肉を食べないようにしなさいといっているのです。

 クリスチャンの生き方は、正しいというだけでは不十分です。正しいことは大事ですが、その上に、愛の配慮・愛の自己犠牲があってこそ、クリスチャンとして相応しい生き方です。自分は、神の前に問題ないとしても、兄弟姉妹はどうだろう?という愛の配慮をするのです。

 ただし、パウロがいう「信仰の弱い人」つまりデリケートな良心を持つクリスチャンへの配慮を強調しすぎると、第一点、第二点の「アディアフォラについては、それぞれの確信に従って行動し、たがいにさばくな」という大原則が意味がなくなってしまいますから、デリケートな神経のクリスチャンもまた、図太い神経のクリスチャンに対する配慮をしてさばかないことも大事です。

  

3 現代日本の私たち

 

 私たちが生きている現代日本で、クリスチャンにとってアディアフォラ(灰色)に当たることはなんでしょうか?

 神社で柏手を打ったり、仏像を拝んだとしたら、それは明白な偶像崇拝で、十戒の第一の戒めに反しています。樽前神社を見学・散歩するのはどうでしょう?多くの人は平気でしょうが、ある宣教師は神社仏閣に行くと気持ちが悪くなると話していました。つまりアディアフォラです。では、誰かのお家を訪問してお土産にお饅頭を持っていったら、そのお饅頭をその家の人が、まず神棚に置いてパンパンと手を打って、それを神棚から下げて「さあ食べましょう」と言ったら、どうでしょう。あるクリスチャンは良心の呵責を感じ、あるクリスチャンは全然気にせずに食べられるでしょう。

 日の丸への敬礼についても同じように言えるでしょう。江戸時代末期、日の丸はもともと外国船と日本船を区別するために薩摩藩がつけたマークであり、偶像ではありません。しかし、先の戦前・戦中の一時期、日の丸は天照大神を表すのだと教えられたことがありました。本来偶像でない者が、一時期偶像的に扱われたという意味で、偶像にささげられた肉に似ています。日の丸に敬礼することに関してはどうでしょうか。オリンピックの時、万国旗の中に日の丸がはためいているときには、偶像と感じる人は少ないでしょう。我が国のマークだと思う人が多いはずです。けれども、学校の卒業式などで正面に一つ日の丸が掲げられ、最敬礼を求められたら、たぶん抵抗を感じる人が相当数出てくるのはあたりまえです。先の戦争のとき、学校で奉安殿が開かれ、天皇御真影の前に最敬礼を求められ、白手袋をした校長先生が教育勅語奉読しことを思い出し、「日の丸は天照大神の象徴です」と国定教科書で教わったことがある人、あるいはそうした歴史を学んだ人は、心穏やかではいられないでしょう。しかし、一方で「時代は変わったんだ。日の丸が天照大神の偶像だなんて何の根拠もない。諸国の国旗と同じ、日本のマークだよ。」とまったく割り切れる人もいます。こうしてみると、日の丸もアディアフォラでしょう。文脈によって変わってくることです。

 ほかにもアディアフォラは、食べ物、服装、社会生活上のこといろいろありましょう。食べ物についてはあまり関係なさそうですが。お酒はどうでしょうか。コーヒーはどうでしょうか。タバコはどうでしょう。また服装についてはどうでしょう。

 酒の問題について、聖書はなんと言っているでしょうか。エペソ5:18「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」と述べています。もう一方で、2テモテ5:23「これからは水ばかり飲まないで、いのために、また、たびたび起こる病気のためににも、少量のぶどう酒を用いなさい。」とあります。要するに、養命酒のような、あるいは肉食の消化を助けるワインのような軽い食前酒のような用い方はよいけれど、酔っぱらい理性をマヒさせ遊興・酩酊・放蕩などという罪につながり、聖霊の宮であるからだを壊すような飲酒は禁じているのです。しかし、私自身はお酒は飲まないことにしています。まず日本は森が豊かなので、水道水が平気で飲めるという恵まれた環境だからです。そして、アルコール依存症体質の人にとっては、牧師が飲酒することはきっとつまずきになるからです。教会にそうした病気から回復してきた人が加わった時に、その兄弟のつまずきになってはならないと思うので、聖餐式の葡萄汁はノンアルコールにしています。

 服装はどうでしょう。もし水草牧師がモヒカン刈りをしていたらどうでしょう。これらは文化の問題です。私がモヒカン族に派遣されたならば、モヒカン刈りにするかもしれません。けれど、日本ではかりにモヒカン刈りが自分の好みでも主にある兄弟姉妹をつまずかせる場合の方が多いでしょうからしません。 

 いずれにせよ、律法に罪と定められていないかぎり、私たちは自由に確信をもって行動すればよいのです。けれども、その時に兄弟姉妹・求道者の方たちがイエス様に近づくのにマイナスになりそうなことならば、愛の配慮として自分の自由を放棄する自由をも私たちは主からいただいているのです。

 

むすび

 そういうわけで、アディアフォラについては三つの原則を学びました。

第一に、アディアフォラについて、自分としては神様の御前に、確信と感謝をもって生活すること。

第二に、アディアフォラについて判断が自分と違う兄弟姉妹をも受け容れることです。神経の太いクリスチャンは、繊細なクリスチャンを馬鹿にしない。繊細なクリスチャンは神経の太いクリスチャンを裁かない。

第三に、兄弟姉妹への愛の配慮として、自分の自由を制限することです。「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」