水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

 聖書と神の力と

Mk12:18-27

                               

2017年7月1日 苫小牧主日礼拝

 

 12:18 また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。

 12:19 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がない場合には、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』

 12:20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。

 12:21 そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。

 12:22 こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。

 12:23 復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」

 12:24 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。

 12:25 人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。

 12:26 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。

 12:27 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」

  主イエスの御在世当時、ユダヤの宗教的指導者にはパリサイ派サドカイ派そしてエッセネ派というのがありました。聖書にはエッセネ派という名は見えませんが、バプテスマのヨハネがこれに属していただろうと言われています。彼等は隠遁的な宗教生活をしていました。社会に表立って出てくる指導者たちとしてはパリサイ派サドカイ派です。

 12:18 また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。

 さて、きょう登場するサドカイ派というのは、ギリシャ思想の影響を受けた人々であり、身分的には祭司階級を占めていた人々です。サドカイ派の宗教というのはいわゆるインテリ的な宗教でした。それは頭で納得いく合理主義的な宗教でした。合理主義的な考え方というのは、人間の理性をすべての基準とする考え方ということです。人間の経験にかなうことしか信じようとしない人々です。21世紀にもそういう人々はたくさんいますが、2000年まえにもそういう人々はいたのです。

 サドカイ派は、創造主である神が存在することは信じてはいましたが、天使が実在するということと、死者が終わりの日に復活するという聖書の約束は否定していました。神の住まう天界と人の住むこの世を峻別し、神はこの世に介入することができないとしました。だから、ギリシャ哲学の理性の枠組みのなかでは、死者が復活するとか、天使が実在するというのは比喩か迷信ということになったわけです。つまり、サドカイ人は神を信じているとは信じていましたが、それは私たちが住んでいるこの世界において生きて働かれる神ではなく、哲学的な観念としての神にすぎなかったのです。

 サドカイ派が影響を受けたギリシャの哲学者たちも神を信じていました。たとえばアリストテレスは、第一原因としての神ということを主張しました。ものごとには必ず原因がある。たとえば、ここに本があるとすれば、その本をここに置いた人がいる。その人がそこに存在するのは、その人を生んだ人がいるからである。こういうふうに今ある結果には何か原因があるから、原因と結果の鎖をさかのぼっていけば、ついには最初のこれ以上さかのぼれない原因に至ることになる。つまり、それが第一原因すなわち神であるというのです。哲学における上というのは人間の理屈によって証明できる神ということです。人間の理屈の枠のなかに納まる神なのです。

 

 サドカイ派の人々は、日頃から考えていた復活に関する聖書の矛盾点を指摘して、イエス様をギャフンと言わせてやろうとして来たのです。それは、結婚に関する問答です。19-23節。

 12:19 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がない場合には、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』

 12:20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。

 12:21 そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。

 12:22 こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。

 12:23 復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」

  

 彼らは、ほんとうにこの問題の答を聞きたいわけではありません。ただ死人の復活という約束を否定したかっただけです。いや、それよりも、イエスを黙らせたかっただけのことです。

 サドカイ人たちが持ちかけた議論の背景には、旧約の律法にあるレビラート婚という慣習があります。古代イスラエル人にとっては、子孫を残していくということはきわめて重要なこととされていました。それで、AさんがBさんと結婚をしたけれども、もしAさんが子孫を残すことができないまま死んでしまった場合、Aさんの弟は、Aさんの妻Bさんをめとって子どもを生ませなければならないとされました。

 このレビラート婚の定めにしたがった場合、世界の歴史の終わりの時に死者のよみがえりがあるとすれば、非常に不合理なことが起こることになります。つまり、復活した7人の誰がその女性を妻とするかが問題になってしまうではないか、というわけです。神は秩序の神であり、理にかなったことをなさるお方である。したがって、パリサイ派がいうように、終わりの時に復活があるという教えが間違っているのだというのがサドカイ人たちの主張です。 夫に次々と死なれた女性がいたとして、このような状況において、死者が復活したならば、神のおっしゃる結婚の戒めを破ってしまうことになるではないかという訳です。ということは、矛盾であるから、死者の復活というのは将来、この時間と空間のなかで現実になる約束ではなく、文学的比喩にすぎないと言いたかったのです。

 

 イエス様は、彼らの質問の本質を見抜いてズバリとサドカイ派の人々の信仰のありかたの根本的問題をずばりと指摘なさいます。24節。

 「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。」

 言いもいったりです。なにしろ相手は祭司階級の人々、つまり、聖書と神様の専門家たちです。しかし、主イエスは「あなたたちは、たくさんの微に入り細を穿って聖書知識を持っているけれども、あなたがたの聖書知識は死んだ知識だし、あなたがたの「神」は生ける神でなく、単なる哲学者の観念的ないわば括弧付きの「神」にすぎないとおっしゃるのです。あなたがたサドカイ派の神は、聖書にご自身を啓示していらっしゃる、今も生きて働かれるお方、死者をもよみがえらせることもできる神ではないのだ、とおっしゃるのです。

 

 そして、旧約聖書の一節を引用なさって、復活の証言となさるのです。26-27節。

 12:26 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。

 12:27 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。

 

 これがどうして復活があるのだという証拠聖句となるのでしょうか。旧約時代にアブラハム、イサク、ヤコブという族長と呼ばれる人々がいました。彼らの子孫となるイスラエル民族に神様は約束の地をお与えになると約束なさいました。紀元前二千年ころのことです。それから五百年ほどたってモーセに対して神様が現れたのです。それが、26節にいう燃える柴の箇所に書かれているのです。当然ながら、この時点ではすでにアブラハム、イサク、ヤコブはこの世を去っているのです。

 ところが、主なる神様は燃える柴のところでモーセに出現なさったとき、自己紹介をなさっておっしゃいました。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と。つまり、モーセからいえば四五百年ほども前にこの世を去ったアブラハム、イサク、ヤコブは過去の人ではなく、今も生きているのだということです。神の御許にあって今も生きているのです。 だから「神は死んだものの神ではありません。生きている者の神です。」ということになります。「あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」と主イエスはお嘆きになりました。神様の御前に祈り、聖書を人々に教えるべき祭司階級を占めている、あなたがたともあろう者が、なんという思い違いをしているのですか!というのがイエス様のお気持ちでしょう。

 

 彼らの問題は「聖書も神の力も知らない」ということでした。もちろん彼らは聖書を知っていたでしょう。では、どのようなものとして彼らは聖書を知らなかったのでしょうか。また聖書はどのようなものとして知るべきであると、主イエスはおっしゃるのでしょうか。

 聖書を完全無欠な真理、神のことばそのものとして知ることです。主イエス様は聖書を隅からすみまで完全無欠な神のことばであると主張なさるのです。旧約の小さな一句を根拠に死者の復活を証明なさった一事を見てもよくわかります。また主イエスは、「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。」(マタイ5:18)とおっしゃいました。サドカイ派の人々は、聖書のことばよりも自分の経験やギリシャ哲学を上に置いていたのです。そして、自分たちの理屈にかなわない奇跡の記事、復活の約束などは、勝手にはぶいて読んでいたのです。ですから、彼らはあなたがたは「聖書を知らない」と言われたのです。

 私たちは「旧新約聖書六十六巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、救い主イエス・キリストを顕し、救いの道を教え、信仰と生活の唯一絶対の規範である。」と同盟教団の信仰告白の第一条に告白しています。私たちは一点一画までも誤りのない神のことばとして、聖書を信じなければなりません。

 

 「神の力を知らない」とサドカイ派は主イエス様からしかられました。それは彼らは神様も、自然法則の下にあるかのように思っていたのです。神様の力も自然法則には及ばないと思いこんでいたのです。ですから、自然法則に反する復活や奇跡などということはありえないことと考えたのです。

 神様とはいったいどういうお方ですか。まことの神様は、無から天地万物をそのお言葉によって創造なさったお方ではありませんか。万有引力の法則も、生命法則も、すべて神様が創造なさった被造物にすぎないのです。いのちを造られたのも、いのちを取りあげられるのも神御自身です。だから、命を再びお与えになるのもまた神の力にとって当然可能なことなのです。奇跡を行なうことができないならば、それは神ではありません。それは自然法則にしばられた被造物にすぎないのです。

 まことの神は、命を造り、命を与え、命を奪い、また信じる者に再び命をお与えになることのできるお方なのです。

 

(結び)

 今日でもサドカイ派のような神学者や牧師や小説家などがいます。これは18世紀、19世紀の啓蒙主義哲学、デカルト、カント、ヘーゲルの哲学の影響を受けた自由主義キリスト教といいます。自由主義キリスト教でいう自由とは、聖書と教会の伝統から理性が自由であるということです。理性の方が聖書より上という立場です。

  1910年のアメリカ合衆国長老教会大会で、自由主義キリスト教えに対して、聖書主義に立つ5つの基本信条が確認されました。

1 聖書は誤りのない神のことばであること(Inerrancy of the Bible)

2 イエス・キリストの処女降誕と神性(イザヤ7:14) (The virgin birth and deity of Jesus Christ)

3.キリストの代償的贖罪の教理(ヘブル9章) (The doctrine of atonement)

4.イエス・キリストの体の復活(マタイ28) (The bodily resurrection of Jesus Christ)

5.イエス・キリストの再臨 (The bodily second coming of Jesus Christ )

 自由主義キリスト教は、近現代のサドカイ派です。今日、一般の書店で手に入るキリスト教関係の書物の多くは自由主義キリスト教の影響を色濃く受けています。彼らは一流の知識人として自他共に認めるような人々です。その昔、イスラエルサドカイ派の祭司連が主イエスの時代のローマ帝国に対するユダヤ教の顔役であったのと同じです。

 しかし、主イエスは彼らにおっしゃるに違いありません。

 「あなたがたは、聖書も神の力も知らない。」                              

  私たちは、主イエスに倣って、聖書の一言一句を生ける神のことばと信じます。また、主イエスに倣って、死者をよみがえらせる力をもっていらっしゃる生ける神を信じます。それこそ主イエスの弟子にふさわしい信仰です。

いのちのことば

ヨハネの手紙第一1:1-4

                                                        

 

 1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、

 1:2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──

 1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

 1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 

 

1.いのちのことば(1、2節)

 

 ヨハネは、これから私たちに伝えようとすることは「いのちのことば(ロゴス・テース・ゾーエース)」であると言います。「いのちのことば」とは何でしょうか。

 

 古代から人間は死を恐れつつ永遠のいのちを捜してきました。それは洋の東西を問いません。中国では秦の始皇帝は不老長寿の薬を見つけ、これを飲んでいたそうですが、それが水銀だったのでかえって水銀中毒でいのちを縮めてしまったそうです。ギリシャの哲学者ソクラテスは、哲学とは死に関する学問であるとさえ言いました。それは言い換えると、永遠のいのちを望みながら、実際には死んでいかねばならない人間の不思議さを考えることが哲学であるということでしょうか。ソクラテスからしばらく後に現れた哲学者たちにストア派というのがありました。彼らは死を恐れぬものの考え方を編み出しました。「死は恐れるに足りない。なぜなら、死がやってきたとき、すでに私はそこにいないからである。」なかなかのへりくつです。しかし、こんなことを言えばいうほど、彼らがいかに死にこだわり死を恐れていたかがわかります。

 世界の理法とか人生論とか倫理とか道徳。哲学者や思想家たちはいろんなことを昔から考えてきました。それは、生きることいのちということ人生について、そして死ということについてです。使徒ヨハネが手紙を書いた相手は、ギリシャ文化の影響の下にある人たちでした。ギリシャ文化圏のストア派の哲学者たちはロゴスということばで、神が定めた宇宙の理法を意味していましたから、ギリシャ文化圏の読者たちが、ロゴスという言葉を読めば、さてヨハネ先生はどういう「ロゴス」どういう哲学を展開するのだろうかという読み方をされたのでしょう。はたして「いのちのことば」ロゴステーズゾーエースの話です。

 

  ところが、いきなり初めからヨハネは「いのちのロゴス」について、不思議なことを語ります。「いのちのロゴス」を私たちは「この耳で聞いたし、この目で見たし、じっと見つめたし、また手でさわりもしたんだよ。」というのです。「ことばlogosをこの耳で聞いた」というのはわかります。また「書物でlogosを学んだ」というものわかります。しかし、ヨハネは「ロゴスを見た、じっと見た、手でさわった」というのです。ロゴスがどうして見えましょう。ロゴスがどうして手でさわれましょう。ロゴスは宇宙の理法です。「目で見て、耳で聞いて、手でさわれる」ものは、ただ歴史の現実のなかに時間と空間のなかに現れた現実のものだけではありませんか。

 この宇宙を支配する「いのちのロゴス」とは、人となって来られ、イスラエルのガリラヤ地方を歩まれたイエス・キリストそのお方であるというのです。

 

2 グノーシス主義に対して

 

 ヨハネが「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」それが「いのちのロゴス」イエス・キリストであるという不思議な紹介をしているのには、背景があります。

 ギリシャの哲学では、真理とか善とか美というものは、観念として存在するものであって、それが一個の人格としてこの世に出現するということなど考えられないことでした。

 ギリシャ思想においては基本的に、物質ないし肉体は悪であり、精神は善であるという考え方がありました。こうしたことを背景として、イエス様についてとんでもない異端説グノーシス主義が流行しつつありました。グノーシス主義者はキリストの受肉を否定しました。なぜなら、善であるキリストが悪である肉体をもつことは論理的にありえないからです。だから、「永遠のいのちである神がこの世界に現実の人となって来られたことはなかった、幻として現れたのである。」と教えました。これを仮現説といいます。また、言いました。彼らはまた「イエスはからだをもって復活などしなかった、幻として現れたにすぎない。また、弟子たちの心の中に暖かいすばらしい思いでとして生きているのが復活のイエスである」というのです。煮詰めて言えば、彼らはキリストの受肉を否定し、肉体をもって十字架で苦しまれたことを否定したのです。こうしたグノーシス思想を背景として、ヨハネは次のように言っています。

4:2 「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」

 そこで、ヨハネは「いや、私はこの耳で人となられた神の肉声を聞き、そのお顔をこの目で見た、じっと見た。そしてこの手でイエス様にさわったよ。」というのです。

 

 ギリシャ哲学と聞くと難しくいかめしい感じがしますが、イエス様の時代に流行していた二つの哲学学派の教えを簡単に説明しましょう。その課題は「どうしたら人間は幸せになれるか?」でした。エピクロス派は考えました。「腹が減ったら飯を食うと幸せになれる。だから「人が幸せになるためには、欲を快楽によって満たすことが必要である。」と。快楽説です。  もう一方のストア派は考えました。「欲は満たしてもまたすぐにかわくものだ。欲に追い回されているから人は幸福になれないのだ。だから、欲を押さえる訓練をすれば、人は幸福になれるはずだ。」禁欲説です。

 いずれにしても、欲を満たすためになにかすべきである。いや欲をおさえるために訓練をする。「何かする」ことによって、人生は幸せになれると思ったのです。「ああすべきである」「こうすべきである」ということばです。ストレスの多い今日の日本にもいろんな道徳的な教えが花盛りです。PHP、モラロジー、成長の家、実践倫理などなどと。

 しかし、ほんとうの苦しみと無力の中にあるとき、人は「前向きになれないから」困っているのですし、「ゆとりをもって考えられない」「自分をほめられない」から困っているのです。あるいは「あれをほしがるべきではない」という道徳のことばはわかっていても、「自分の欲を押さえられない」ので救われないのです。単なる道徳とか観念とか「ことば」では、ほんとうには人は救われないのです。いきいきとした人生を生きられないのです。なぜか。そこには「ことば」はあっても現実的な「いのち」がないからです。

 

 「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわちいのちのことばについて、---このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、それをあかしし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。」

 つまり、ヨハネが伝えようとしているよい知らせ、単なることばではない。真理という観念でもない。道徳でもない。人生哲学でもない。ヨハネが伝えようとしている福音「いのちのことば」とは、今現実に生きて働かれるイエス・キリストというご人格なのです。あなたが何かをすることによって、救われるのではない。あなたが主イエスに信頼して自分をおゆだねするならば、イエスがあなたをお救いになるのです。イエスは、生きておられあなたを愛しておられるからです。

 

3.交わり

 

(1)交わりの回復者

 主イエスが「いのちのことば」と呼ばれるのはなぜでしょうか。「いのち」とはなんでしょうか。聖書によれば、いのちとは神との交わりです。たとえば、主イエスはおっしゃいました。

「わたしはぶどうの木であなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて、火に投げ込むので、それはもえてしまいます。」ヨハネ15:5、6

 私たちは、本来、創造主であるお方のもとにあって、創造主から生きる力をいただいてこそいきいきと生きられるものです。ところが、創造主に背を向け、その御許を離れ、自分勝手に歩んでいる。そこにいのちはありません。死があるだけです。枝がぶどうの木についていなければ、しばらくは青い葉っぱを付けてはいても、決して実を結ばないのと同じことです。

 創造主なる神様を離れた人生は死です。その明らかなしるしの一つは心がむなしいということです。いろんなことを一生懸命にやっても、むなしいのです。それは「自分は何のために生きているのかわからない」ということです。被造物の存在目的は、創造者が決めるものです。たとえば時計の存在目的は、人間が時を告げ知らせることであると決めたからはっきりしています。でもゴミには存在目的ないでしょう。なぜならわざわざ意図してゴミを造る人はいないからです。創造者がいなければ被造物には存在目的はありません。ですから、創造主を見失ったら、人間は自分がなんのために生きているかわからないゴミになってしまうのです。

 神を離れた人生には愛がありません。なぜなら神は愛だからであり、愛は神からでているからです。たしかにクリスチャンになったからといって、簡単に敵をも愛せるようになるかというと、そうでもありません。つくづく自分には愛がないなあという反省をすることがしばしばあります。けれども、もう一度、神様を知る前の自分のことを思い出すと、それこそ愛がないなあなどという反省をすることもなく、自分のことばかり考えていた、人を踏み台にしても自分はよい道に生きたいとかばかり考えていたことを思います。そして、人生そういうものだとあきらめ高を括っていたのでした。たしかに、私の人生は変えられました。どうしてですか。いのちのことばである生けるキリストが、私とともに生きて下さるようになったからです。

 主イエスが「いのち」と呼ばれるのは、主イエスにあってこそ私たちは、この創造主である父なる神との交わりを回復されたからです。私たちは、主イエスにあって、父なる神様との人格的交わりを回復しました。

 

(2)交わり--教会

 主イエスが回復してくださるいのちの交わりとは、どういうものでしょうか。3節。「私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父及び御子イエス・キリストとの交わりです。」

 キリスト教は交わり(コイノニア)の宗教であるといわれます。それは、洞窟のなかで孤独な座禅の修業をするというのではなく、御子イエスと父とそして、御父を仰ぐ兄弟姉妹たちとの交わりのうちに生きることが、キリスト信仰の姿であるからです。神御自身が三位一体の神として、御父と御子とは聖霊にあって完全な愛の交わりのうちにいらっしゃるのです。キリストの福音が宣べ伝えられるならば、そこに教会が形成されていくのです。教会とは単なる人間集団ではありません。教会とは御父および御子との聖霊による愛の交わりなのです。

 私が教会に通い始めてまもないころ、まだ洗礼を受ける前のことでした。私は礼拝が終わるとすぐに家にかえるようにしていたのです。ところが、ある主の日のことです。S君という友人が私を引き止めて言いました。「水草、きょうは青年会に残っていけや。まじわりということも奉仕の一つなんやから。」と。そのとき、初めて私は教会で人々と会話をしたりともに祈ったりするということが、そんなに大切な奉仕なんだと知ったのです。それまで、私は自分で聖書を読み、礼拝に出て説教を聞いて、自分で神様のことを知って生活すれば、それで十分だと思っていました。頭だけ理屈だけの信仰だったわけです。けれども、その日を境にして私は教会の兄弟姉妹とともに語らい、ともに祈り、共に賛美し、ともに重荷を分かち合うということがほんとうに喜びになったのです。

 炭火が一個だけだと消えてしまうけれど、何個か集まるとかっかと燃えるように、私の信仰もかっかと喜びに燃えあがるようになったのです。クリスチャンになってつらつら考えると、私は教会生活のなかでほとんどの神様の恵みをいただいて来たのです。白石君のように戒めてくれる兄弟がいて、私は目が醒めました。多くの兄弟姉妹に祈られて私の信仰は成長しました。愛することを知らない孤独な人間だったのに、愛し愛されること、赦し赦されることを多くの体験によって学びました。

 みなさん。三位一体の神は交わりの神、愛の神です。私たちは、愛なる三位一体の神様の愛を、この苫小牧の交わりのうちに実現していくべく、召されているのです。                                                                              

  ヨハネ福音書13:34、35

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 

 

神のものは神に

マルコ12:13-17

 

2017年6月25日 苫小牧主日礼拝

 

1 背景

 

 イエス様がエルサレムに入ると、つぎつぎに宗教家たちが論争を挑んできました。イエス様に難問をふっかけて、公衆の面前で立ち往生させてやれば、イエスの人気も衰えてしまうだろうと考えていたのでしょう。今回、パリサイ人たちはヘロデ党の者たちといっしょにエスのところにやって来たとあります。パリサイ派とヘロデ党はもともと犬猿の仲でした。パリサイ派国粋主義民族主義的ですから反ローマ的でした。他方、ヘロデ党の人々は、ローマ帝国の傀儡政権であるヘロデの王家を支持していた親ローマ派でした。けれども、イエスを葬り去るということに関しては、彼らはそうした節操もなく、共謀していたというわけです。

12:13 さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。

 彼らはイエスが言い逃れをしたり、ごまかしたりしないように、あらかじめこんなことを言います。

12:14 彼らはイエスのところに来て、言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。

 彼らが用意した罠というのは、ローマ帝国皇帝カイザルに対する納税問題でした。当時のイスラエルローマ帝国の属州とされていました。属州というのはある程度自治を認められながらも、肝心なところはローマ帝国から派遣された総督に牛耳られているという体制のありかたでした。今イエス様がこられたユダヤ地方の人々は、ローマ帝国政府とユダヤ最高議会との下に置かれていて、ローマ帝国政府に対しても納税しなければならないという状況にあったわけです。

 ヘロデ党の人々は、親ローマ主義ですから、当然カイザルに税金を納めるべきであるという立場で、パリサイ派イスラエルは神の王国であるから、異邦人のローマ政府、異邦人の皇帝に税金を納めることは間違っているという主張をしていたわけです。そこでイエスがカイザルに納税すべきだというならば、パリサイ人たちがイエスをそれは律法に反することだと非難するための論陣をはるつもりで、逆に、イエスがカイザルに納税すべきではないと言ったならば、ヘロデ党はイエスローマ皇帝に反逆するものだと訴えることができると考えていたわけでしょう。

12:14後半 「ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」

 

2 イエスの答え

 

 主イエスは、彼らに貨幣を見せよとおっしゃいます。彼らは1デナリ貨幣を差し出します。5千円札か1万円札にあたる貨幣です。カイザルの肖像が刻まれています。

 12:15 イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」

12:16 彼らは持って来た。そこでイエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。

そこで、イエス様は、さらりとおっしゃいます。

 12:17「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」

 

エス様はなにをおっしゃりたいのでしょうか。「神は、あなたたちに天の国籍とこの世の国籍とを与えてくださっている。ところが、君たちは天の国籍と地上の国籍をゴチャゴチャにしているから、そういう混乱に陥っているのだ。地上の国籍にかんする義務はカイザルに対して果たせばよいし、天の国籍にかんする義務は神に対して果たすのが正しいことなのだ。」ということです。

 使徒ペテロは、きっと主イエスのことばを思い出しながら、国家権力というものは、神が立てた神のしもべですから、それなりに敬意をはらうべきであると教えています。1ペテロ2章12-15節

2:12 異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。 2:13 人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、 2:14 また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。 2:15 というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。

 また、使徒パウロは、神が国家権力に与えた務めと、私たちキリスト者の地上の国籍に関する義務について、ローマ書13章1-7節で、少し敷衍して述べています。

「13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

 13:2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。

 13:3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。

 13:4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。

 13:5 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。

 13:6 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。

 13:7 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」

 

この世の権力者に神様が託した仕事は、①警察権をもって社会の秩序を維持することと、②税金を集めて富の再分配をして貧富の格差を是正することを初めとする国民の福利です。だから、私たちが彼らに協力して税金を納めることは神のみこころにかなっているのです。

 

3 カイザルは悪魔にとりつかれると「神のもの」を欲する

 

 ですが、もう一つ大切なポイントがあります。主イエスは、「カイザルのものはカイザルに、そして、神のものは神に」とおっしゃったことの後半「神のものは神に」です。

新約聖書を見ると、えてしてこの世の権力者というものは「カイザルのもの」に満足せず、「神のもの」までも欲しがる性質があると教えられています。「カイザルのもの」とは、先ほど申しましたように、社会秩序を維持することと、富の再分配によって貧富の格差を是正することというふうに、「世俗的業務」のことです。そして、その業務に携わっている者として、それなりの敬意を国民から払ってもらうことです。しかし、聖書によればこの世の権力者はしばしば「神のもの」に手を出してきました。

 1サムエル13章1-15節をあとでごらんください。紀元前11世紀、預言者サムエルの時代、サウルという王がいました。彼は最初は謙遜そうな人物だったのですが、途中おかしくなります。ギルガルでペリシテ人との戦があったとき、戦いの前に神にいけにえをささげる儀式をしなければなりませんでした。その務めは預言者であり祭司であるサムエルが果たすことと定められていたのです。ところがサムエルの到着が遅れているので、サウル王はあせって自分がこの儀式を執り行ってしまったのです。サウル王は、これによって神の怒りを買い、結局、彼は滅ぼされてしまいます。

 もう一つ2歴代誌26章。南北朝時代、紀元前8世紀のウジヤ王も同じような過ちを犯しました。ウジヤ王は神から力と知恵を与えられて外交においても、また農業政策においても成功を収めて、国内は安定しました。そのとき国民はそのことを感謝するためにエルサレム神殿に出かけて行ったのです。ところが、王は面白くありません。彼の目には、民が感謝すべきは自分であるのに、民は祭司たちに感謝をしに行っているように見えたのでした。そこでウジヤは、自ら神殿にずかずかと入って行き、祭司にのみ許されていた神の前に香をたくということをしようとしたのです。その瞬間、神はウジヤ王を撃ちました。彼は残りの生涯、ツァラートで世間から隔離されて生活しなければなりませんでした。

 古代教会の時代にはローマ帝国は、皇帝礼拝を国民に求めるようになりました。各地に皇帝の偶像を設置して、これを拝むならよし、拝まないならば極刑に処するということでした。やはり、世俗業務のみ任されたカイザルでありながら、己が分を越えて「神のもの」までも欲しがったのです。

 黙示録13章はこうした権力者の行動の霊的背景を教えています。権力者は、サタンの影響を受け、魂を売り渡し、その代わりにサタンから力と権威と位を受けるとき、世俗的業務だけでは我慢ができなくなり、自ら聖なるものに手を出し、時には自分に対する礼拝までも求めるようになるのです。しかし、それは必ず悲惨な結果を、権力者自身だけでなく、国民にももたらすことになります。

 ですから、私たちは聖書が勧めるように、為政者がその分をわきまえて、謙遜に誠実のその務めを果たすように祈らねばなりません。

 

4 近代日本の場合

 

 近代日本ではどうでしょうか?江戸時代は幕藩体制下にあって、この列島の住民たちは「長州人」「薩摩人」という風に思っていて「日本人」という意識は、ほとんどなかったと言われます。けれども、江戸末期・明治の最初に、伊藤博文たちが世界を視察した結果、「日本列島の中でこんなにバラバラでは、インドや中国のように、この日本も植民地にされてしまう」という危機感をいだきました。そこで、なんとかしてこの列島の住民全員に「日本人」という意識をもたせなければならないと考えました。

それで伊藤博文は、キリスト教のマネをして天皇を中心とする国家神道をつくりました。それまでこの列島にはあちこちに神社や祠はあっても特定の教義も、統一した組織もありませんでした。それを伊勢神宮を頂上に置いて全国の神社を格付けし、神仏まぜこぜの神社からは仏像を廃棄して、明治23年以降は教育勅語で学校教育を通して国民の中に国家神道を浸透させました。

それで、日本人は小学校に上がる前から一旦戦争となれば、天皇のために命を捨てることこそが、最も価値ある死に方であるという教義を刷り込まれてゆきます。日清戦争日露戦争第一次世界大戦、そして満州事変(満州侵略)に始まり、原爆投下で終わる昭和15年戦争を経験してゆくわけですが、このころにはすでに日本人はみな国家神道を子どものころから刷り込まれた世代ばかりになって熱狂し、戦争に突入したのです。

戦争になると思想統制・宗教統制が厳しくされ、最初共産主義者を取り締まるためにつくられた治安維持法は、改変されてゆき、自由主義思想を持つ人々、そして、神社参拝を拒否するキリスト者も取り締まられることになりました。治安維持法で逮捕された人々は、日本本土と朝鮮半島で9万3000人以上にのぼります。194人が取調べ中の拷問・私刑によって死亡し、更に1503人が獄中で病死したといいます。そして先の戦争では、実に300万人の日本人が命を落とし、2000万のアジアの人々が犠牲となって、戦争は終わりました。

国家権力が「カイザルのものはカイザルに」ということに満足せず、「神のもの」までも自分のものとして奪い取ろうとするときに、これほど悲惨な結果を生むことになります。

敗戦の翌々年1947年発布された日本国憲法第20条に政教分離原則が明示されました。もはや、国は国家神道をもって国民を洗脳してはならないと厳格に定められています。「第三項 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」

 

「カイザルのものはカイザルに。そして神のものは神に。」政府が、この原則を厳格に守るようにとりなし祈ることはキリスト者の務めとして非常にたいせつなことです。

 

祈り

「2:1 そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。 2:2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」

ヨセフの信仰

創世記50章15節から26節

 

 

50:15 ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない」と言った。

 50:16 そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。

 50:17 『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。

 50:18 彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「私たちはあなたの奴隷です。」

 50:19 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。

 50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

 50:21 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。

  50:22 ヨセフとその父の家族とはエジプトに住み、ヨセフは百十歳まで生きた。

 50:23 ヨセフはエフライムの三代の子孫を見た。マナセの子マキルの子らも生まれて、ヨセフのひざに抱かれた。

 50:24 ヨセフは兄弟たちに言った。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」

 50:25 そうして、ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください」と言った。

 50:26 ヨセフは百十歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、棺に納めた。

 

 

1.摂理の信仰

 

 さてヤコブが死ぬと、ヨセフの兄弟たちは再び恐怖にとらわれてしまいます。

50:15 ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない」と言った。

 父ヤコブが生きている間は、弟ヨセフは父に免じて自分たちを寛容に扱ってくれたけれども、父が死んだ今となってはヨセフの復讐をとどめるものはなにもないと兄たちは考えたのです。自分たちがヨセフの立場であったなら、きっと父が死ねば復讐をするだろうと思ったからです。

 

かつて兄たちは父に依怙贔屓されている弟ヨセフをねたみ、なきものにしようとしました。兄たちはさすがに殺すのが恐ろしくなったので、ヨセフをエジプトに奴隷として売り飛ばしたのです。ヨセフは、エジプトで奴隷としてはたらき、牢獄に投じられて、たいへんな苦難を味わいました。しかし、神様は実にふしぎな導きをもって、ヨセフをエジプトの宰相としての地位に引き上げたのです。

他方、神様はカナンの地に飢饉を送りました。そのために、ヨセフの兄たちはエジプトに食料を買い付けに来て、宰相となっていた弟ヨセフと20年ぶりで再会したのです。このとき、兄たちはきっとヨセフが自分たちに復讐するにちがいないという恐怖にとらわれたのでした。しかし、あのときヨセフは兄たちを赦しました。ヨセフは言いました。45:5-8。

45:5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。

 45:6 この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。

 45:7 それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。

 45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

 

 

 ヨセフは災いも、人間の悪意さえも、善に転じたまう神様の摂理を信じて、兄たちを心の底から赦すことができたのです。しかし、兄たちは自分たちが赦されたことを確信することができなかったのです。自分たちがヨセフに対して犯した罪があまりにも大きかったので、赦されていることを信じることができないでいたのでした。

16,17節。

50:16 そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。

 50:17 『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。

 

 自分は赦しているのに、兄たちには赦していることが信じてもらえなくて、ヨセフはなきました。そうして、もう一度、心から赦したこと兄たちに告げ、やさしく語りかけたのでした。

50:19 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。

 50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

 50:21 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。

 

 私たちはここで、ヨセフの信仰をもう一度確認させられるのです。そして、それを私たち自身のものとしたいと願うのです。ヨセフの信仰は、神の摂理を堅く信じる信仰でした。ヨセフの信じる神の摂理とは20節にされています。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。」神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。

 ですから、私たちは勇気を失いません。たとえ目の前に見える状況がいかに厳しくとも、「そこで神様を愛する、神様にしたがう」という決断をするのです。そうすれば、神様はかならず難しいことも益に変えてくださいます。ヨセフは、奴隷とされ、さらに囚人となっても、神様とともに生きました。神の摂理を信じたからです。ヨセフはそうして祝福ある人生を手に入れたのでした。それは彼が総理大臣になったことがすばらしいというだけではありません。

もし彼がエジプトの宰相の地位についたとしても、彼の心の中に兄たちに対する恨みを宿しつづけているとすれば、彼はきっと生涯不幸だったでしょう。恨みや怒りや憎しみは人の骨を枯らしてしまいます。ヨセフが幸いだったのは、彼が神の摂理を信じることで、兄たちに対する恨みや怒りや復讐心から解放されたことです。そうして、赦す心、平安な人生をいただいたことです。

 

2.希望

 

 もう一点、ヨセフに学んでおきたいことがあります。お読みした箇所の後半です。

 

50:22 ヨセフとその父の家族とはエジプトに住み、ヨセフは百十歳まで生きた。

 50:23 ヨセフはエフライムの三代の子孫を見た。マナセの子マキルの子らも生まれて、ヨセフのひざに抱かれた。

 50:24 ヨセフは兄弟たちに言った。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」

 50:25 そうして、ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください」と言った。

 50:26 ヨセフは百十歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、棺に納めた。

 

ヨセフはエジプトで宰相にまで上り詰めました。名宰相ヨセフのゆえに、7年間も続く大飢饉の中でエジプトの人々は命が助かったのでした。エジプト王パロも、ヨセフを尊敬し、彼に実権を委ねていたのです。ヨセフはこの地で尊敬の的でありました。功成り名を遂げる人生というものがあるとすれば、ヨセフの人生はまさにそういう人生でした。その舞台はエジプトだったのです。しかし、ヨセフは自分が死んだ後、自分がエジプトの土になってしまうことを望みませんでした。彼は、自分の亡骸がアブラハム、イサク、ヤコブが葬られたカナンの地のマクペラの畑地の小さな洞穴に葬られることを希望しました。それは、父ヤコブと同じ信仰の告白でした。

すなわち、ヘブル書11章13,14節「11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。 11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。」

ヨセフのミイラとなって、エジプト脱出の日まで保管されます。実際、後の日にモーセはヨセフのミイラを約束の地に携えてゆくのです。

「13:19 モーセはヨセフの遺骸を携えて来た。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせたからである。」

 ヨセフは神の約束をしっかりと握りぬいた生涯をまっとうしたのです。彼は、そういう者として非常に優秀な行政官として手腕を発揮したのでした。天にしっかりとした希望をもっている者こそ、自分の欲得でなく神の御旨にしたがうものなのでした。

 

結び

 ヤコブの信仰は、神の約束の相続者として天を見上げる信仰でした。ヨセフの信仰は日々私たちの人生に働いてくださる神の摂理を信じる信仰です。私たちも小なりとはいえ、彼らと同じ神を信じる者として、天の御国の約束をしっかりと握り、この地上の生涯を一歩一歩神様あなたを愛しますという信仰の決断とともに歩んでいきたいのです。

 

「あなたはどこにいるのか」

創世記3章8-15節

2017年6月15日 北海道聖書学院チャペルI

 

1 園を歩き回る主の声

3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。

それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

 

 

 「園を歩き回られる神である主の声」という不思議な表現に、心ひきつけられます。主なる神は天地万物の創造主であり、無限のお方であり、絶対者であり、超越者でいらっしゃいます。しかし、主なる神は、園を歩き回って人に親しく声をかけてくださるお方なのです。この表現を比喩としてとることも可能でしょうが、創世記にはアブラハムに対して旅人の姿をして現れてくださった主の姿(創世記18章1節)、ヤコブとすもうを取ってくださった主の姿(創世記32章22-30)も出てくるのですから、エデンの園を歩き回られる主の声をそのことばどおりに取るほうが妥当であると思います。

古代教父エイレナイオスは「園を歩き回られる神である主の声」は、三位一体の第二位格つまり受肉以前のロゴスを指していると理解しています。「見えない神のかたち」である御子が、啓示において私たち有限な人間にとっては見えない絶対者である父なる神を、私たちにも見えるようにしてくださる役割を担ってくださるお方であることからすれば、エデンの園において最初の夫婦と親しく交わられたお方は、三位一体の第二位格である御子だと推論することには一理あります。

というわけで、私たちは聖書の第一巻である創世記の第三章、エデンの園の記述において、すでに、後に人となって私たちの間に住まわれ、あの緑したたるガリラヤの地を歩き回られる御子の影をここに見ることができるのです。讃美歌のこんな一節を彷彿とします。

「緑も深き 若葉の里 ナザレの村よ 汝がちまたを こころきよらに行き交いつつ 育ちたまいし 人を知るや」

天地万物の主であるいとも高きお方は、同時に、御子において私たちにとっていとも近きお方なのです。アダムと妻は、神に背いてしまう前には、主なる神と親しい人格的交わりを経験していました。日中の強い日差しが去って「そよ風の吹くころ」になると、「主なる神の声」はいつも園を歩いて回られて、アダムと妻と親しい交わりのときをもたれたのでしょう。「アダムよ、女よ、今日、園の中ではどんなことがあったんだい?」と主に問われると、アダムは喜びに満ちて「主よ。今日は、あのスズカケの木の枝にかけられた小鳥の巣の卵がかえって、雛が三羽生まれました。どの子も元気です。」などと報告します。主は目を細めて、いっしょに喜んでくださる。・・・そんな平和な神と人と被造物の親しい交流が、エデンの園にはあったのでした。エデンの園というのは、神がわれらとともにいます場つまりインマヌエルが現実であった場でした。

 

2 主の御顔を避けて

 

 ところが残念なことに、今日はちがいました。主の御声が聞こえると、「人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」のです。

 禁断の木の実を食べたとたん、アダムと妻は己の裸を恥じました。前回まなんだように、特に自分でもコントロールできなくなってしまった性器を見られることを恥じるようになりました。そして、いちじくの葉をもってその裸の恥を隠そうとするようになりました。隣人に対して、自分を隠そうとするようになったのです。

 アダムにとって妻は敵になりました。妻に弱みを見せれば、そこを攻撃されるのではないかとびくびくし、妻も夫に弱みを見せまいとするようになります。イチジクの葉は、そういう恐怖の表れです。やたらと自分の経歴や門閥を誇ったり、必要以上に名刺に肩書きをずらずら書き連ねるというのは、実は、神と隣人との喜ばしい人格的交わりを失い、孤立してしまった人間が身に着けたイチジクの葉なのでしょう。

 

 そして、今度は、主が歩いて来られると、「人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木陰に身を隠」そうとしたのです。木の実を食べる前には、あれほど喜ばしかった主なる神の御顔は恐ろしいものとなりました。聖書において「主の御顔を見る」ことができるというのは、人間にとって至福felicityを意味します。

 主イエスは「心の清い者は幸いです。その人は神を見るからです。」と山上の祝福においておっしゃいました。

 使徒パウロは「 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(1コリント13:12)と言いました。

 そして、ヨハネが幻のうちに見せられた完成したエルサレムでは、「 22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、

 22:4 神の御顔を仰ぎ見る。」(黙示録22:3,4)とあります。

 しかし、アダムとその妻が神に背いて以来、人はこの至福を喪失し神の御顔を避けるようになったのです。旧約聖書には何人かの人々が、神の御顔を見たという経験をしていますが、みな「死んでしまう」と恐怖におののいています。なぜですか。それは、心が罪にけがれてしまったからです。罪に汚れた心の目には、聖なる神の御顔はただ恐ろしいものとしか映らないのです。

 人間は、本来、造り主である神との人格的交わりと、神のかたちにおいて造られた隣人との人格的交わりのうちに生きているものでしたが、神の戒めに背いたとき、孤立してしまったのです。

 

3 あなたはどこにいるのか?[1]

 

 御顔を避けて身を隠した彼、アダムに神は声をかけます。

 3:9「あなたは、どこにいるのか。」

 特にアダム夫婦の場合、神は夫であるアダムを契約のかしらとして認めていらっしゃいますから、まずアダムに責任を問われたのです。しかし、アダムは言います。

 3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

 3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」

 3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

 

 主は「あなたは」と問われたのに、アダムは「女は」と答えます。妻と神に、自分の責任を転嫁しました。「あの女が私に取ってくれたんですよ。あんな女をくれたのは、あなたではありませんか。」というのです。神の裁きの御座の前では、私たちはそれぞれ自分の行ないに応じてさばかれるのです。ほかの人の行ないに応じてではなく、自分の行ないに応じてです。ですから、私たちは裁きの御座の前では「私」にならねばなりません。しかし、神である主の御顔をさける者となって以来、「あの人が」「みんなが」というのです。

 

 夫のセリフをかたわらで聞いていた妻は、目の前が真っ暗になったでしょう。ほんの少し前、何も隠す必要がないほどに信頼していた夫が、今は、自分を聖なる審判者の前に「こいつが悪いんですよ」と突き出して、わが身を隠そうとしているのですから。

 神に背いたとき、人間に何が起こったのでしょうか?

第一に、人は自分自身をコントロールすることできなくなりました。人のうちの欲望は、彼の意志を無視してしばしば暴走するようになりました。人は自分自身との関係において、不調和をきたすようになりました。

第二に、隣人との信頼関係にもひびが入ってしまったのです。人は隣人ではなく、警戒すべき敵となってしまいました。また、愛すべき対象でなく、自分のために利用すべき対象となってしまったのです。

 

4 蛇が

 

次に神は女を追及しますが、今度は、女は蛇(サタン)に責任を転嫁します。

 3:13 そこで、神である【主】は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

 たしかに蛇が女を惑わしたのは事実です。しかし、神に対するこの答えは適切だったでしょうか。いいえ。これはまさにサタンの思う壺でした。サタンはほくそえんだに違いありません。なにしろ悪の権化であるサタンは「サタンが悪いんです」と言われたら小躍りして喜ぶでしょう。彼にとっては、悪いと言われるほど名誉なことはありませんから。また、悪魔に責任転嫁するとき、人は悪魔の仲間になってしまうからです。

 言っても詮無きことですが、もしアダムとその妻が、神の前にそれぞれに自分の非を認めたならば、サタンの計略の半分は破れたことでしょう。しかし、アダムと妻はまんまとサタンの計略にかかって、それぞれの責任を認めませんでした。

 

 教義学の項目の中に、天使論があり、そこで悪魔論が扱われ、悪魔論において、悪の起源論が扱われるのです。しかし、ベルカウアーという神学者は、悪の起源について論じることについて警告を発しています。悪の起源を論じるとき、人はちょうど最初のアダムがしたように、自分の罪の言い訳をする材料を見つけたり、罪の自覚を薄めてしまうということがありうるからです。だとすれば、それはすでに悪魔の罠に落ちているということです。

 今日、黙示文学研究の影響で、罪を聖なる神の前における個人の責任というとらえ方をせず、悪魔や悪霊どもの力としてとらえる向きが聖書神学の中に流行しつつあります。たしかにヨハネ黙示録などを見ると、悪魔・国家権力・偽預言者・大バビロンといった悪の勢力が現れていますから、これらをきちんと認識し、悪魔の計略にとりこまれないように警戒することも大切なことです。しかし、聖なる審判者の前に一人立つとき、悪魔論を論じても何の役にも立ちません。

 悪魔は誘惑はするでしょう。しかし、悪魔はあなたを罪に強制はしません。誘惑されたにしても、悪を犯すと決めたのはあなた自身の責任なのです。ですから、神は「あなたはどこにいるのか?」と問うてくださるのです。ですから、「あなたはどこにいるのか?」と問われるならば、私たちは「私は、この悲しみに満ちた世界におります。ああ、私は罪人のかしらです。」と答えるほかありません。その時、悪魔の計略は破れ、福音の扉が開かれるのです。

 

5・希望

 

罪と悲しみに満ちた世界に住む人間に、神様は一つの約束を、ヘビに対するのろいの中で告げてくださいました。すなわち、女の子孫がサタンに対して勝利を収める日が来るのだという約束です。これは、メシヤつまりキリストの到来を告げる聖書中最初の預言で、原福音と呼ばれます。

3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

 

 サタンは来るべき救い主キリストのかかとに噛み付いた瞬間、ニヤリと笑うのですが、その次の瞬間、キリストのかかとによって頭を踏み砕かれるのです。これは何を意味しているのでしょうか。サタンがイスカリオテ・ユダの心に入り、ユダが人々をけしかけてキリストを十字架につけたとき、サタンは快哉の叫びを上げたのですが、三日目の復活によって、その出来事が人類を罪の呪いから救い出すためのわざであったことが明らかにされた、あの出来事を暗示しているようです。

 人間は罪に陥りました。善悪の知識の木からとって食べるという、神の主権を拒否する決定的な罪を犯したのです。しかし、人間には取り返しがつかなくとも、神はただちに救いのために手を打ってくださいました。今、私たちは長らく待望された救い主を私たちの救い主として与えられています。

 神の前に、「あの人が」「悪魔が」という言い訳をするのはやめましょう。「私はここにおります。私が罪を犯しました。」と告白しましょう。神は、キリスト・イエスの十字架の死と復活に免じて、あなたの罪を赦し、悪魔の束縛から、あなたを解放してくださいます。キリストにあって、神の御顔はもはや恐怖ではありません。園を歩き回られる主の御声は、私たちにとって慕わしく喜ばしいものとなったのです。

 

[1] ただし、ヘブル語本文には人称代名詞としての「あなたは」はない。コメントをいただいたので、説明を修正しました。。

神のぶどう園

マルコ12:1-12

 

2017年6月11日 苫小牧

 「何の権威でもって、あなたはこんなことをしているのか?」エルサレムに入城し、イエス様が宮きよめをし、宮の中で民を教えていることに対して、宮の管理責任者である祭司長・長老たちは抗議をしました。主は、彼らが真理を聴く耳もないことをご存知でしたから、彼らにご自分が神の御子としてこれらのことをしているのだということを、明白には話そうとなさいませんでした。しかし、ぶどう園の譬えによって、事柄の意味を暗示なさいます。 今、私たちは、この譬えが何を意味するのかを明白に知ることができます。まず、このたとえ話の登場人物が誰をさしているかを申し上げます。

 ぶどう園は神の国

ぶどう園の主人は、父なる神。

農夫たちは、イスラエルの指導者である祭司、長老たち。

主人が遣わしたしもべたちは、神がイスラエルに遣わした預言者たち、イザヤ、エレミヤ、エリヤといった人々、最近ではバプテスマのヨハネ

主人の息子は、御子イエス

主人がぶどう園を委ねる「ほかの人たち」は、ユダヤ人・異邦人を含めた新約の時代の教会を指しています。

 

 というわけで、このたとえはぶどう園の歴史、つまり、旧新約聖書にわたる神の民の歴史、救いの計画を教えています。

 

1.シナイ契約

12:1 それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。

  「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。

 

 父なる神は、アブラハムの子孫であるイスラエルの民をお選びになりました。それは、彼らが祭司の王国、聖なる国民として世界の万民に、主の恵みとまことをあかしするためです。そのため、彼らに真の神を礼拝し、互いに愛しあう公正な社会をつくるための律法を授けられたのでした。具体的に言えば、十戒。<①あなたにはわたしのほかに他の神々があってはならない。②あなたは自分のために偶像を作ってはならない。③あなたは主の御名をみだりに唱えてはならない。④安息日をおぼえてこれを聖なる日とせよ。⑤あなたの父母を敬え。⑥殺してはならない。⑦姦淫してはならない。⑧盗んではならない。⑨偽証してはならない。⑩あなたはあなたの隣人のものを欲しがってはならない。

 それから、もうひとつ紹介しておきたいのは、神の定めた経済・福祉政策です。神様は貧富の格差拡大を防止するために、神様はイスラエルに対してヨベルの年という制度を設けて、50年ごとに地境をもとに戻し、奴隷は解放すると定めておられました。一握りの大土地所有者と、大多数の貧乏人・奴隷という格差社会になることを主は嫌われたのです。神様は公平な国を建てるためのガイドラインイスラエルにその建国の最初にお与えになっていたのです。その内容は出エジプト20章以降とレビ記に記されています。

以上のことが、「ぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸した」ということばの意味することです。神様からイスラエル国を託された指導者たちはこの国を、神のみこころが行われる社会として営むべきでした。それでこそ、イスラエルが「祭司の王国、聖なる国民」として世界の万民に、まことの神をあかしすることができます。

 

2.イスラエルの罪と預言者たちの派遣

 

 けれども、その後のイスラエルの歴史を見ますと、残念なことに、彼らは神の前に二つの罪を犯しました。第一は、偶像礼拝です。ソロモンの後、イスラエルの国は南北に分裂し、エルサレム神殿のない北イスラエル王国では、代わりに金の子牛礼拝が行われるようになります。南ユダ王国エルサレム神殿がありましたから、主なる神への礼拝は途絶えることはなかったものの、この神殿の中にバアルとかアシュタロテといったカナン人たちの神々や、王がした政略結婚の相手の妃たちが持ってきた偶像を持ち込んで、主なる神と並べて偽りの神々を拝むという罪を犯したのでした。

 イスラエルの第二の罪は、「みなしご、やもめ、在留異国人」といった貧しい人々の訴えが取り上げられない不公正な社会、貧富の格差の甚だしい社会を来たらせてしまったということでした。あのヨベルの年の定めは、実行されなかったので、富む者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなって、巨億の富を蓄えて贅沢三昧するほんの一握りの階級と、明日の食べ物も心配で飢えに瀕している大多数の庶民とに分かれてしまったのです。不公正、不公平な社会となってしまったのです。

 

 そこで、神様は悔い改めを促すために、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、ホセア、アモス・・・といった預言者たちを派遣なさいました。それが、たとえ話の34節に言われていることです。

12:2 季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。

 神様から派遣された預言者たちはなにをイスラエルに告げたのでしょうか。彼らは悔い改めをうながしました。悔い改めて「祭司の王国、聖なる国民」として実をみのらせなければ、遠くから恐ろしく強い国を攻め寄せさせて滅ぼしてしまうぞ、という警告です。 預言者イザヤは、彼らの偶像の宮と化したデラックスな神殿礼拝を責めました。また、イスラエルがみなしご、やもめ、在留異国人といった貧しい人々を虐げて、金持ちをのみ偏り優遇している不公正を非難しました。

1:13 もう、むなしいささげ物を携えて来るな。

   香の煙──それもわたしの忌みきらうもの。

   新月の祭りと安息日──会合の召集、不義と、きよめの集会、

   これにわたしは耐えられない。

 1:14 あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。

   それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。

 1:15 あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。

   どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。

   あなたがたの手は血まみれだ。

 1:16 洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。

   悪事を働くのをやめよ。

 1:17 善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、

   みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」

 

 ところが、王、祭司、長老たちは悔い改めるどころか、預言者たちを迫害します。イザヤの最期はのこぎり引きの刑であったと伝えられますし、エレミヤもエリヤも弾圧されました。旧約最後の預言者は、あのバプテスマのヨハネでした。彼もまた、王の不正を責めた結果、投獄され斬首されてしまいました。これが主イエスが3-5節でおっしゃっていることです。

12:3 ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。 12:4 そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。 12:5 また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。

 

3.御子の派遣と殺害

 

 預言者たちを何人送ってもイスラエルは悔い改めないので、父なる神は最後に尊いひとり子イエス様を人間として派遣なさいました。

12:6 その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、最後にその息子を遣わした。

 「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方ははじめに神とともにおられた。・・・・ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」とあるとおりです。御子は御父と瓜二つのお方なので、御子を見た者は父を見るのです。御子イエスの言葉を聞き、生き方を見ると、私たちは父なる神のことば、ご人格を見ることができます。

 しかし、御子イエスの恵みと真実に満ちた生き方と言葉は、当時のイスラエルの指導者たちの欺瞞に対する痛烈に批判となりました。当時のイスラエルは、国家としてはローマ帝国に主権を奪われていたものの、神殿礼拝は空前絶後の経済的物質的繁栄を見せていました。けれども、神の御子が現に来られて彼らをごらんになると、そこには欺瞞、偽善だらけだったのです。異邦人の庭では特別値段の吊り上げられたいけにえ用の動物が売られ、両替商がおり、その上前を神殿経営者たちがはねていたのです。主イエスが恵みを説き、真理の道を歩まれると、彼らの偽りがあからさまにされてしまい、群衆はイエスのもとに集まったのでした。指導者たちは、妬みにかられて御子イエスに対して怒りを燃やし、殺害することに決めてしまうのです。 12:7 すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』

 12:8 そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。

 御子イエスは数日後には、イスカリオテ・ユダによって祭司長・長老たちの手の者に渡されてしまいます。たとえ話に「ぶどう園の外に」とあるのは、ご自分がエルサレム城外のゴルゴタの丘の上で、十字架にかけられて殺されてしまうことをイエス様はあらかじめ知っておられたからです。このように、主イエスはこのたとえ話によって、まもなくわが身に起ころうとしていることを正確に予告なさったのです。

 そして、主イエスは続けます。

12:9 ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。

 悪い農夫どもは祭司長、長老たちです。ローマ帝国軍はイスラエルを滅ぼしエルサレムの神殿を破壊してしまいます。そして神の国は彼らから取り上げられて、「ほかの人たち」つまり、民族の垣根を取り払った新約の時代の教会に渡されることになるのです。

 

4.石・・・御子イエス

 

 そして、主イエス旧約聖書詩篇118篇22節のみことばを引用なさって、ご自分と彼ら祭司長・長老たちに数日後に起ころうとしていることを予告なさいます。

12:10 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。

   『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。

 12:11 これは主のなさったことだ。

   私たちの目には、不思議なことである。』」

 

 石を積み上げて神殿を建設していくとき、この石はあちらの場所に、あの石はこちらの場所に、と適材適所を考えながら積み上げていきます。ところが、家を建てる者たちが、「この石はどこにも使えないな」という石が出ると、その石を捨ててしまいます。そのことを頭に描いてください。

さて、「家を建てる者たち」とは、神殿礼拝を司る祭司長・長老たちのことをさしています。家とは、神の家つまり神殿を意味しています。祭司長長老たちのところに神の御子イエスが来られて、真理のみことばを説いたのですが、彼らは、自分たちが作り上げた神殿宗教のありかたに合わない、危険思想であるといって捨ててしまいました。つまり、彼らは策略をめぐらして主イエスを十字架にかけて殺してしまうのです。

 しかし、その祭司長、長老たちに捨てられた石であるイエスが世界に広がる新約の時代の神の家すなわち教会の礎の石となられたのです。今も、イエス・キリストをかしらとする神の家は世界に拡大し続けています。不思議なことです。人間の思いはかりを超えた、神のわざ、神の知恵です。

 

 この譬えを最後まで聞いて祭司長たちは、ようやくその譬え話が自分たちをさして言われたことに気づきました。「ぶどう園の悪党ども」とは自分たちのことを指しており、また、あの「石」はイエスのことだから、イエスにつまずいている自分たちは、いずれうち滅ぼされてしまうのだとイエスが話したことに気づいたのです。彼らは腹を立てて、もう黙ってはいられない、イエスを逮捕して殺してしまいたいと思いましたが、群衆が怖くてイエス様に手出しできなかったのでした。

12:12 彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去った。

 

 

結び・適用

主イエス詩篇を引用して話されたこの捨てられた石のことは弟子たちにとって印象深いことでしたから、ペテロの手紙第一2章4-8節にも取り上げられています。特にペテロの手紙第一2章4-6節には次のようにあります。

「2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。 2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。 2:6 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」」

霊の家とは教会、聖なる公同の教会のことです。石造りの礼拝堂がイメージされています。スペインのバルセロナにあるサグラ・ダ・ファミリア教会をご存知でしょう。1882年に建築が始まり、今も建築途上で、2026年に完成予定だそうです。その礎の石はイエス様です。そして、初代教会の時代から何百億、何千億という聖徒たちが一人また一人と、生ける石としてこの壮大な神殿を築き上げてきました。今、その神殿は完成に近づいています。私たちもその聖なる公同の教会一部をなしています。あなたも生ける石です。この聖なる公同の教会はついに完成するときに、主イエスが再臨なさるのです。その日の幻を胸に、主の教会、霊の家に築き上げられてゆきましょう。

 そのために、私たちはこの譬えから学んだ教訓を確認しておきましょう。イスラエルの民は馬鹿だなあと言っていてはいけません。反面教師とし、自らを戒めることが大事です。まず、まことの神を礼拝し偶像崇拝という罠に陥らないことです。また、弱い立場の人々に配慮する教会であるようにということです。

 

 

 

 

聖霊に満たされよ

エペソ5:15-21

2017年6月4日 苫小牧ペンテコステ主日礼拝

はじめに

  ペンテコステとは五旬節つまり五十日目の収穫祭りです。旧約時代にはイスラエルの中にとどめられていた神の国が、この日から世界に拡大します。世界という畑でのたましいの収穫が始まったのです。

 イエス様は十字架にかかり、復活されてから、四十日目に弟子たちの見ている前で天の父のもとに戻って行かれました。そのときに、イエス様は「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」と、助け主として聖霊を送ることを約束なさいました。そして、事実、五旬節に、120名ほどの弟子たちがともに祈っているところに聖霊が降られたのです。

 聖霊(御霊)というお方は、三位一体なる神様の第三のご人格です。たんなる力ではなく、力あるご人格です。父なる神が救いを計画・主宰され、御子イエスがその計画を実行するために人として地上に下り、十字架にかかってよみがえられて私たちのために救いを勝ち取られました。そして、御霊は主イエスの勝ちとられた救いを、世々の教会の宣教のわざによって、神の民のうちに適用してくださるのです。私たちが二千年前のイエスの死がこの私の罪ためであったと悟ることができるのは、聖霊のお働きによるのです。また、私たちが生涯、主を信じて実りある人生を送ることは聖霊のお助けによるのです。

 

1.「御霊に満たされる」とは?

(1)あらゆるクリスチャン生活の秘訣

さて15節から21節で筆者が一番言いたいことは、18節にある「御霊に満たされなさい」ということです。そして、文脈を見ると、この御霊に満たされるということを前提にして、19節以降の御霊に満たされた夫婦関係、さらに次の章の御霊に満たされた親子関係、御霊に満たされた職場の人間関係が語られていきます。御霊に満たされることが、狭い意味の信仰生活だけでなく、あらゆる家庭生活・社会生活の秘訣なのです。

 

(2)聖霊に繰り返し満たされよ

すべてのクリスチャンは聖霊を受けています。聖霊を受けなければ、人は神様の前に自分の罪を認め、イエス様を主と告白することはできませんから、クリスチャンはみな聖霊を受けているのです。けれども、クリスチャンがいつも聖霊に満たされているとはかぎりません。聖書には「御霊を悲しませてはいけません」とか「御霊を消してはいけません」と警告されています。聖霊を受けているけれど、聖霊のお働きを拒んだり邪魔したりして、ほとんどこの世の人々と変わらないような思いや感情に支配されてしまっていることも残念ながらあると聖書は教えています。クリスチャンだけれど、心の王座にイエス様を迎えておらず、自分中心に生きている状態です。それをキリストに属する幼稚な人とパウロは呼んでいます。

「御霊に満たされなさい」というのは、丁寧に訳すと、ギリシャ語の現在形なので、「御霊に満たされ続けなさい」「御霊に繰り返し満たされなさい」ということになります。そうです。一回御霊を受けたということだけでなく、御霊に繰り返し満たしていただかねばなりません。

 

(3)御霊に満たされることと知性

 まず、15節と18節を見ると、「御霊に満たされる」ということは「どういうことでなく、どういうことであるか」ということがわかります。15節からは、御霊に満たされることは、「賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩む」ことです。また16節に進めば、御霊に満たされるとは「愚かにならないで、主の御心は何であるかをよく悟る」ことです。また17節に進めば、御霊に満たされるとは、「酒に酔って放蕩に走らない」ことです。

 このように見てくると、「御霊に満たされる」とは、霊にとりつかれ陶酔して知性が麻痺した愚かな状態になることのように誤解する人がいるようです。しかし、聖書は、御霊に満たされるとは、賢く歩むことであり、主の御心を悟ることだと教えます。つまり「御霊に満たされる」なら、むしろ知性は覚醒するのです。御霊に満たされると、その人の知性の働きはすばらしくなり、御心を悟るようになるのです。

 ただし、その知性というのは、神様に背を向けた無神論的知性ではなく、神様を畏れ、神様を愛し、神様に栄光をお返しする知性です。箴言に、「主を畏れることは知識のはじめである。」とあります。神を畏れない知性は、一見、賢そうにみえますが、実は、肝心かなめのことが欠けています。世間では、さまざまな出来事を理解し説明するにあたって、神抜きで自己中心・人間中心に考えるのが、賢い科学的なことだと思われています。そういう意味で、現代日本の無神論を前提としたような学校教育は、愚かな状態にあります。聖書は言います。「愚か者は神はいないと言っている、彼らは腐っておりいまわしいことを行なっている。」膨大な知識を詰め込んでも、肝心かなめである「神を畏れること」を教えていないので、その知識は「よく生きる」ことに役立たず、逆に、多くの知識がその人の人生と社会を破壊する結果を生んでいるという面があります。

 

しかし、聖霊に導かれた知性は、あらゆる出来事について神様をあがめ、神様の御心を悟り、神様に栄光をお返しするように、神様中心に考えます。私たちはイエス様を信じるときに聖霊を受けますが、クリスチャンであっても、聖霊に満たされないでいると、自分の欲や世間体やテレビが流す情報を基準にして愚かな判断と行動をして、人生をボロボロにしてしまいます。けれども、聖霊に満たされるならば、私たちは神様のみこころを悟って、賢く豊かな人生を歩むことができるようになります。ですから、聖霊に満たされることはたいへん重要なのです。

 

2.聖霊に満たされるならば

 

 御霊に満たされ、神の御心を悟り賢くなったキリスト者は、その結果、まず信仰生活においてはどのような歩みをするでしょうか。18節から20節は原文を見ますと、中心のことばは「御霊に満たされなさい」という一言です。そして、御霊に満たされると、「詩と賛美と霊の歌とをもって互いに語り」、「主に向かって心から歌い、また賛美し」、「いつでもすべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝する」ようになるというのです。そして、21節「キリストを恐れ尊んで、互いにしたがう」のです。これらは御霊に満たされたキリスト者の教会における交わりの姿です。四つの特徴があります。

 

(1)御霊に満たされたなら主にある交わりを大切にする

 第一の特徴は、御霊に満たされたキリスト者は孤立しておらず、交わりがあるということです。「信仰というのは神と私との関係であって、教会にゆく必要などない」という人がいます。そういう人の信仰のイメージは、座禅の坊さんみたいなものなのかもしれません。けれども、イエス様は、「心を尽くし力を尽くし知性を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」という命令と、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という命令をワンセットでお教えになりました。そもそも聖書の神様は、父と子と聖霊の愛の交わりの神様ですから、御霊に満たされたキリスト者はひとりぼっちでなく、主にある交わりのうちに置かれるのです。

 

(2)御霊に満たされた交わりはキリスト中心である

 第二の特徴は、御霊に満たされたキリスト者の交わりは、人間中心ではなく、みながそれぞれに主キリストに向かっており、主キリスト中心であることです。主に向かって心から歌い、また賛美し」、「いつでもすべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝する」ようになるというのです。「キリストを恐れ尊んで、互いにしたがう」とあるでしょう。

「交わり」というと、もしかするといっしょにお茶を飲むとか、何か話をぺちゃくちゃするとか、あるいはゲームをするとか、人間同士のことだけを思い浮かべるかもしれません。お茶も、おしゃべりも、ゲームもよいのですが、肝心要は、交わりの中心にキリストがいらっしゃることです。キリストのご臨在がないならば、それはこの世の人々の交わりと変わりません。世のサラリーマンの赤のれんの交わりといえば、上司の悪口による憂さ晴らし、女性たちの井戸端会議も誰かを陥れる噂話だそうです。そこにはキリストはいません。もし、そこに見えない誰かいるとしたら、それは悪魔でしょう。

けれども、御霊に満たされた交わりでは、みなの心がキリストに向かっているのです。御霊に満たされた交わりのうちには主イエス・キリストのご臨在があります。D.ボンヘッファーは名著『ともに生きる生活』のなかで次のように述べています。キリスト者の交わりは、イエス・キリストを通しての、またイエス・キリストにある交わりである。キリスト者の交わりは、それ以上のものでもなく、またそれ以下のものでもない。短い一度だけの出会いから、長年にわたる日ごとの交わりにいたるまで、キリスト者の交わりはただこれのみである。われわれは、ただイエス・キリストを通して、イエス・キリストにあってのみ、お互いに結び付けられているのである。」

 

(3)御霊に満たされた交わりには神への感謝と賛美がある

御霊に満たされた交わりの第三の特徴は、不平不満でなく、神様への感謝と賛美に満ちていることです。「詩と賛美と霊の歌とをもって互いに語り」、「主に向かって心から歌い、また賛美し」、「いつでもすべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝する」とある通りです。

もちろん人生にはうれしいことばかりではありません。悲しいことも、憤らないではいられないこともあります。奇麗事だけ言っているようなのはうわべの形式だけの交わりにしかならないといわれるかもしれません。しかし、もし御霊に満たされキリストのご臨在があるならば、たとえそういうことが話題になることがあっても、他人や環境へに非難や失望に終わる後味の悪いものに終わることは決してありません。キリストを中心としているならば、私たちは必ず他人の罪よりも自分の罪が見えてきますから、「あの人が、この人が」ではなく、「私は神様の前でどうなのだろう」ということを意識します。

ですから、主にある交わりには神様に対する悔い改めと、赦しと、希望と、主への感謝と賛美が現われてくるものです。世の交わりが暗い怒りや失望や空しさに終わることが多いのに対して、主キリストにある交わりはなんとさわやかで暖かいものでしょうか。

 

(4)御霊に満たされると互いに謙虚になる

そして第四に、御霊に満たされた交わりの特徴として、「キリストを畏れ尊んで互いに従う」ということがあります。聖霊のご人格の特徴は、ご自分を表すのでなくイエスさまと父なる神様を表す謙遜ということですから、御霊に満たされた人は謙遜になるのです。

「互いに従う」というのは不思議な表現ですね。普通、「従う」というと、従う側と従わせる側は固定していて、子どもが親に従うとか、妻が夫にしたがう、主人にしもべが従うということになるでしょう。ところが、ここには「互いに従う」とあります。ここには、キリスト者としてのたいせつな人間関係のありかたがよく表現されています。たしかに神様がお立てになった社会の秩序はあります。権威は重んじるべきです。しかし、同時に、キリストを恐れ尊んでいる者どうしであれば、親であっても子がキリストにあって戒めてくれるときには従うべきときには従い、主人もしもべに従うべきときには従い、夫も妻に従うべきときには従うのです。

 私たちはキリストにあって、戒め合う交わりを真実な交わりを経験しているでしょうか。忍耐強く聞くこと受け入れることはもちろん大切なことであり大前提ですが、「それは間違っているよ。あなたが悔い改めるべきだよ。」と戒める愛の勇気がありますか。また、そのように戒めてくれる主にある友を持っているでしょうか。また、私たちは、誰かに戒めを受けた時に、「裁かれた」という風にしか取れないようなかたくなな心ではなく、謙虚に耳傾ける聞くことのできる心を持ちたいものです。そうでないと、あなたの周りには真実な友はいなくなり、ご機嫌取りをしてくれるイエスマンしかいなくなってしまいます。みっともない裸の王様です。御霊に満たされて、兄弟姉妹の助言に対して謙虚に聞く者となりましょう。「キリストを恐れ尊んで互いにしたがいなさい。」

  

むすび  みこころにかなう祈りによって聖霊に満たされる

  聖霊様に満たされるならば、私たちは愚かでかたくなな自己中心の病から解放され、世間体ばかり恐れてこの世といっしょに滅びてしまうことから救われます。そして、キリストを中心とした主にある兄弟姉妹の交わりのうちに感謝と賛美に満ちて生きることができるようになります。なんとすばらしいことでしょう。

初めに話したようにクリスチャンはすでに聖霊様を受けていても、いつも聖霊様に満たされているとはかぎりません。聖霊に満たされる方法を教えましょう。霊的呼吸といいます。

呼吸するためには、まず古い汚れた空気を吐かなければなりません。そのように聖霊様に満たされるためには、まず、聖霊さまが満ちたくなるように、聖霊様を悲しませるものを吐き出すことです。「神の聖霊を悲しませてはいけません。・・・・無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」(エペソ4:30,31抜粋)

心の掃除が終わったら、次に、みこころにかなう祈りをささげることによって、私たちは聖霊に満たしていただくことができます。聖書には、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる」という約束があります(Ⅰヨハネ5:14)では、「聖霊様わたしのうちに満ちてください」という願いは、神のみこころにかなう願いでしょうか。もちろんです。ですから、「私を御霊に満たしてください」と祈る祈りは、すでに聞かれたとわかります。