水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

神の器の完成


>>
47:7 それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、パロの前に立たせた。ヤコブはパロにあいさつした。
47:8 パロはヤコブに尋ねた。「あなたの年は、幾つになりますか。」
47:9 ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」
47:10 ヤコブはパロにあいさつして、パロの前を立ち去った。
47:11 ヨセフは、パロの命じたとおりに、彼の父と兄弟たちを住ませ、彼らにエジプトの地で最も良い地、ラメセスの地を所有として与えた。
47:12 またヨセフは父や兄弟たちや父の全家族、幼い子どもに至るまで、食物を与えて養った。(創世記47:7-12)
<<


 今夕は、老ヤコブがこの世の権力者パロを祝福し、そして語った一見、単なる年寄りの愚痴とも見過ごされてしまうようことばを中心としてみことばを味わいたい。そして、陶器師でいらっしゃる主なる神様が、ついにヤコブというご自身の器を完成されたことを見たいと思うのです。


1.ヤコブはパロを祝福した

 飢饉に襲われたカナンの地からヤコブの一族が到着しました。兄弟たちはパロに引き合わされました。パロは当時の世界における最大の権力者です。そして、ヨセフの兄弟たちは自分たちが羊飼いを生業としていることを述べ、旱魃のなかでも比較的水に恵まれ牧草豊かなゴシェンの地に住まわせていただけるようにお願いしました。パロは快くゴシェンの地をヤコブ一族にゆだねました。以上が1節から6節。
 そのあと、ヨセフは父ヤコブをパロのところにつれてきます。このとき、実に、ヨセフも周囲の人々も、そしてパロもあっと息を呑み目を丸くするようなことが起こったのです。7節。「それから、ヨセフは父ヤコブを連れてきて、パロの前に立たせた。ヤコブはパロにあいさつした。」
 残念ながら新改訳では「あいさつした」と訳されているのですが、これは「祝福した」と訳したいことばバラクです。文語訳で見ますと「ヨセフまた父ヤコブを引入りパロの前に立たしむ ヤコブパロを祝す」とあり、口語訳ですと「ヤコブはパロを祝福した」とあり、「ヤコブはファラオに祝福のことばを述べた」とあります。「祝福した(バラク)」です。「天地を造られた主なる神から、パロよ、汝の上に豊かな祝福があるように。」と老ヤコブは手を上げてパロに神からの祝福を授けたのでした。
 ヨセフは「あっ、しまった。」と息を呑み、パロの家臣たちも、驚いたでしょう。というのは、当時の常識として「下位の者が上位の者から祝福される」(ヘブル7:7)からです。エジプトは当時オリエント世界において最大の国家でした。ピラミッドや巨大建造物に象徴される古代エジプト王国の文明のすばらしさは、今日もなお驚異の的です。ましてヤコブの時代にあってエジプトの栄光はどれほどだったでしょう。そして、パロはこのエジプトに君臨する祭司王です。パロは太陽神ラーの息子とされたのです。当時のオリエント世界ではパロこそは最高位の祭司です。ところが、辺境のカナンから飢饉で逃れてきた羊飼いの難民の棟梁にすぎない、一人の老人が、あろうことかパロを祝福してしまったのです。驚かないものがありましょうか。下手をすると無礼打ちになりそうなところですが、パロを含めその場にいる人々は息をのむだけでした。

 とはいえ、ヤコブは自分こそは、まことの神のしもべであると気負ってパロを祝福したわけではありません。「自分は食料もなくなった惨めな一族の族長にすぎないけれど、ぼろは着てても心の錦だ、卑屈にはなりたくない。たとえ最大の権力者パロの前でも誇り高く振舞いたいものだ。」そんな気負いをもってパロの前に出て芝居がかった祝福を祈ったわけではないのです。彼は神の器でしたから、神は自分を通して世を祝福なさることをよく知っていましたから、「パロよ、あなたに天地の主から祝福あれ」とごくごくあたりまえのこととして祈ったのです。
 若いパロは白髪の老人ヤコブの祝福の祈りに、気をのまれたようです。通常ならば、「ええい下がれ。無礼者。そちは、朕をなんと心得る。われこそは、太陽神ラーの子、パロなるぞ。そちを祝福するのが朕である。」と叫んだところでしょう。しかし、このときパロは「ご老人、お年はいくつになられますか。」とたずねただけです。静かな霊的な権威がヤコブからは感じられたのです。


2.年寄りの繰言か、神の人のことばか

 パロの質問に対して老ヤコブは答えました。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」ただの年よりの繰り言か、と私はかつて思っていました。たいていの註解格別注目してはいません。ところが、私が神学生時代、S牧師が説教のなかで、このことばについて、「いい言葉です。こんなことが話せる年寄りになりたい」とおっしゃったのです。びっくりしました。それから十数年考えて、きっとこういうことだと確信が持てるようになって、S牧師に尋ねましたら、そのとおりですとおっしゃいました。
 このことばは、それだけで読めばなんということもないのですが、前後の文脈をあわせて味わうと、なんとも味わいあることばです。もしヤコブの中に変な気負いがあって、あのパロに対する祝福をしたのだとすれば、決してこんなことばは彼の唇から出なかったでしょう。「天地の主から、あなたの上に祝福があるように。」と言っておいて、「私の齢はわずかで、ふしあわせで・・・」とはいかにも矛盾しているように感じられるでしょうから。もしヤコブが気負っていたならば、虚勢をはって、「パロさまはいかにもお若い。わしは百三十歳になります。これまでの人生は、実に神様の祝福に満ちていました。」とでも言ったにちがいありません。あるいは「この年になるまで、わたしもいろいろ苦労しましたが、私は実にしあわせでした。」とでもやせがまんでも虚勢を張ったでしょう。

 かつてのヤコブは勝てる相手だと思えば策略をめぐらして相手より優位に立とうとし、もし相手が強くて勝ち目がないとすれば、きわめて卑屈な態度をとるかのどちらかでした。ヤコブは兄エサウが自分よりもお人よしで鈍い男だと見た時には、策略をめぐらして兄を出し抜いて優位に立とうとしました。しかし、兄エサウの殺意を恐れてふるさとから遠ざかってから20年ぶりに故郷に帰ったとき、兄エサウが圧倒的に武力があるとなると兄を恐れて「私はあなたのしもべです。あなたの顔を神の御顔を見ております」などと歯の浮くようなおべっかを言ったことです。このようなヤコブの生態を見ると、今回のような場合には、かつてのヤコブならパロに対しては、まさにこういうときこそ、「しもべはあなたのお顔を神の御顔を見るように見ております。」などとおべっかを使うべきところでしょう。
 けれども、ヤコブはこのたびはあの権力者パロの前に出て、パロに天地の主からの祝福があるように静かな権威をもって祈り、また、年を聞かれるとなんのことばを飾ることもなく、「私の齢の年月は百三十年。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、先祖たちのたどった齢の年月にはおよびません。」と言いました。それが事実だったからです。
 ヤコブのたどってきた人生を、振り返ると、「ほんとうにそうだなあ。ヤコブの人生はしあわせなんてものではなかったなあ。実にふしあわせだったなあ。」とうなずいてしまいます。生まれる前から、ヤコブは争っていました。兄エサウとお母さんのおなかのなかで喧嘩していたのです。生まれ出てくるときも先を争いました。長じては兄をだまして長男の権利を奪い取り、後には父までもだまして兄への祝福を奪い取ってしまいました。このことからヤコブは兄にいのちを狙われる身となり、おじラバンのところでだまされて14年間ただ働きをさせられます。ラバンおじとの間にはかけひきや争いが満ちていました。
 家庭についてはどうか。ヤコブは四人の妻を持ち十二人の子供をもうけましたが、一夫四妻というありかたが、その家庭に不幸を招きます。妻たちの嫉妬と憎しみのなかにヤコブはずっと翻弄されつづけました。子供たちの間にも争いが満ちていました。
いよいよふるさとに帰ることになりました。ヤコブは兄エサウとの再会を恐れていました。兄エサウとは仲直りできたものの、直後最愛の妻ラケルが一人の子供を産んで死んでしまいます。 
 ヤコブラケルの忘れ形見ヨセフを猫かわいがりし、偏り愛します。その結果、兄たちはヨセフをねたみ憎むようになります。そして、兄たちはヤコブのいのちとも宝ともいうべき息子ヨセフを奴隷商人に売り飛ばし、父ヤコブに対しては野獣に八つ裂きにされたらしいとうそをいいました。ヤコブはヨセフは死んだものとばかり思い込んで、失意のどん底に晩年をすごさねばならなかったのです。
ですからヤコブが「私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで・・・」というのは、もっともなことでした。ヤコブの生涯は実際、争いと悲しみに満ちていたのです。そして、ヤコブはその事実を、たいへん率直に認めているのです。

神様は130年ヤコブを取り扱ってこられました。陶器師が粘土を自分の望む器に作り上げるように、主はヤコブを長い年月をかけてご自分の器として作り上げてこられました。そして、ここに完成した姿を見るのです。かつてのヤコブは自我にとらわれた人でした。ヤコブが欲していたのは神の祝福ではありましたが、その祝福を自我の力で獲得しようとしたのです。だから彼はいつも人と争っていました。ヤコブは自我の人でしたから、いつも人との勝ち負けという観念の虜でした。勝てる相手にはひそかな優越感をいだき、勝ち目のない相手には卑屈なまでに手練手管を用いたのでした。
今、ヤコブは神の御手によって自我を徹底的に打ち砕かれました。そのとき、ヤコブは人に劣等感をいだいて卑屈になる必要がなくなりました。また人に対して優越感をいだく必要も、虚勢を張る必要もなくなりました。ヤコブには虚栄も策略も必要なくなりました。彼は神がたまわった神の祭司としての任務ゆえに、相手が誰であれ、その祝福のために手を上げて祈るのです。またヤコブは虚飾も自慢もなく「私の人生はふしあわせな人生でした。(それは神の御手があまりにも我の強い私をくだいてくださるためでした。)」と率直に語る人となったのです。

自分がふしあわせであったということを率直に認めるということは、実はなかなかできないことなのではないでしょうか。悲しみは悲しみとして受け止め、喜びは喜びとして受け止め、苦しみは苦しみとして受け止めるということ。あるがままの人生を受け入れること、こういうことが実はたいへん難しいことのように思います。そうすることができないと、どうしても生き方に無理が出てくる。
 こんな不平とも繰言ともつかないようなことばですけれど、ヤコブにとってみれば、それは自分におけるうれしかったことだけでなく悲しかったことも苦しかったことも、みんな人生を神の御手のなかにあったのだとして、受け入れたことばなのでしょう。
 自分の人生を受け入れるということ、これはたいへんたいせつなことなのです。それは、摂理者・配剤者である神をしることによってこそできます。
10節 「そして、ヤコブは再びパロを祝福してパロの前を立ち去りました。」
 ヤコブは、自分が祖父アブラハム、父イサクの約束を相続した神の器であることをはっきりと自覚していました。自分が不幸せだったとかいうことはそれとして、自分はたしかに世にあって神の器であり、神はその祝福とのろいを、自分を通して世にもたらしたまうということを認識していたのです。
 主はヤコブの祖父アブラハムにおっしゃいました。「あなたを祝福するものをわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族はあなたによって祝福される。」(創世記12:3)
 この約束をヤコブは祖父アブラハム、父イサクから受けついだのです。


結び
 私たち一人一人も小なりとはいえ神様の器です。神様の祝福の通り管として選ばれたものです。人々の祝福のために祈りたい。
 また私たちの人生は主の御手のうちにあります。うれしかったことばかりでなく、悲しかったこと苦しかったことも、主の御手のうちにあってのことです。自分が主の御手のうちにあると知れば、誰と比べることもありません。主をあがめ、主を恐れて、主のしもべとして生きるとき、私たちは人を恐れる必要もこびる必要もなく、自由な人として生きることができます。

聖徒の成熟とは

創世記45:16-46:7

2017年5月21日 夕礼拝

 

1.素晴らしい政治家とは

 16節から23節の記事を見ると、ヨセフがどれほどエジプトで信頼され愛されていたかがよくわかる。ヨセフによって進められた大規模な飢饉対策によって、地中海全域が苦しんでいるときにエジプトは問題なくすごせたし、そればかりかほかの国々の人々をも助けることができたからである。すぐれた知恵ある政治家は、自国民を救うばかりでなく、他国民をも幸せにするのである。

 

2.老いヤコブ

 

 息子たちからエジプトで愛する息子ヨセフが生きていると知らされて、ヤコブは茫然としてしまった。当然のことである。17歳の時に分かれてからすでに20年ほどたっていたから。

45:26 彼らは父に告げて言った。「ヨセフはまだ生きています。しかもエジプト全土を支配しているのは彼です。」しかし父はぼんやりしていた。彼らを信じることができなかったからである。

 いったい何を言っているのかわかりません。あまりにも出来過ぎたお話でしょう。死んだとばかり思って、父として二十年嘆いてきた息子がエジプトで生きているというのです。しかも、その子があのエジプトの総理大臣であるとは。信じられなくてあたりまえです。けれども、兄息子たちがことを詳しく話して聞かせ、ヨセフが用意してくれた車を見ると、あああの優しく気の利いたヨセフらしい配慮だとようやく納得できたのでした。そうしてにわかに元気づきました。

 45:27 彼らはヨセフが話したことを残らず話して聞かせ、彼はヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見た。すると彼らの父ヤコブは元気づいた。

 続いてヤコブの口から出ることばは、ああ、彼が年を取ったなあと思わせることばです。

 45:28 イスラエルは言った。「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。

 兄息子たちを今さら問い詰める必要もない。もう兄息子たちの顔を見れば、どれほど反省しているのかは、はっきりと見て取ることが出来ました。誰に責任を取らせるという必要はない。この二十年間、自分をだまし続けてきたのかなどと、兄息子たちをなじる必要もない。わが子ヨセフが生きているなら、それで十分だというのです。かつての強烈な自我の人ヤコブならば、そうはいかなかったでしょう。しかし、今、彼は、それで十分だというのです。

彼は、死を意識しています。息子たちを叱りつけたり、言い訳をきいたりしているような暇はないのです。生きているうちに、ヨセフに会いに行こうというのです。

私は死なないうちに彼に会いに行こう。」

 死を意識して生きることは大事なことなのでしょうね。死を意識すると、何が今優先すべきことなのか、何が二番目、三番目にしておいてよいことなのか、あるいはもう不問に付してもよいことなのかということが、すっきりとわかるのでしょう。私たちにとって、この世を去ることは主のもとに行き、主の前に出ることです。それはもう一週間ほど一か月ほど後のことだと意識したら、忘れてしまってよいこと、忘れてはならないことがはっきりとするでしょう。

 

3.ベエル・シェバで立ち止まる

 

 ヤコブは元気になって旅立った。どれほど心躍る旅だったでしょう。愛する妻ラケルの息子、最愛のヨセフと再会できるというのです。夢ならば醒めないでほしいものです。ヤコブはですから一族に大急ぎで旅支度をすることを命じました。そして、一行はエジプトとの国境もほど近いベエル・シェバまで来ました。

このとき、彼は立ち止まったのです。そして神にいけにえを捧げました。

46:1 イスラエルは、彼に属するすべてのものといっしょに出発し、ベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえをささげた。

このとき、実は、ヤコブは恐れをかんじていました。3節の主のことばは、大事なことを告げています。

 46:2 神は、夜の幻の中でイスラエルに、「ヤコブよ、ヤコブよ」と言って呼ばれた。彼は答えた。「はい。ここにいます。」

 46:3 すると仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。

 46:4 わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」

「エジプトへ下ることを恐れるな」となぜ神はおっしゃったのでしょうか。それは、ヤコブはベエル・シェバに来て恐れていたからにほかなりません。「このままエジプトにくだってよいのだろうか?」と。というのは、約束の地を後にして祖父アブラハムは過ちを犯したことがあったとヤコブは聞いています(創世記12章)。父イサクも同じような過ちを犯したことがありました。

「主よ、私は、若い日から今日まで、いつも主のみこころを尋ねるよりも自分のしたいことをして間違いを犯してきた。今回も、ヨセフに会えるならば、と飛び出してきてしまった。約束の地を去るという、重大な事柄であるのに、またも、自分は感情にまかせて飛び出して行ってしまいそうでした。」自分は考えが足りなかったとヤコブは反省し、恐れたのです。ここを見ると、ヤコブという人物が、霊的に成長成熟したのだなあと感じる。

 しかし、主はこのたびのエジプトくだりは特別に主がゆるし、主が計画したことであるから、安心して行けとおっしゃったのです。

46:3わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。

 46:4 わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」

 

結び

 世間的な価値観の中では、人が成長し成熟するということは、自分の力、自分の判断がまちがいなく迷いなくずばりずばりとできるような人となることなのかもしれません。ヤコブは若い日、そのような人でした。彼は有能で、押しが強くて、自分のビジョンは自分の腕でもぎとってでも成し遂げようとする人でした。

けれども、聖書に於いて、聖徒の成長とは、自分でなんでもできるという実力と自信を持つことではありません。そうではなく、恐れをもって主のみこころは何かを謙虚に尋ね、主のみこころにしたがうことです。

天地創造

5月7日はこどもの日礼拝で、創世記1章1節から2章3節の天地創造を学びました。

「はじめに神が天と地を創造した。」とあります。神様が天地を造られる前、何があったのでしょう。ときどき、暗闇があって、そこに光あれと神様がおっしゃったのだから、暗闇があったという人がいますが、よく考えるとちがいますね。暗闇も神様が造らなければなかったでしょうから。神様が天地を造られる前に存在したのは、父と子と聖霊の三位一体なる神様だけで、愛の交わりをもっていらしたのです。

 

神様は7日に分けて万物を創造なさいました。暗闇と大水と光が第一日、大気と上の水と下の水が第二日、陸地と植物が第三日に造られました。第四日には、太陽と月と星にカレンダーの役割が与えられ、第五日には海の生き物と鳥、第六日は陸の生き物で最後に人間が造られました。そして、第七日目は神様が安息なさって安息日

この創造の記事を見ると、神様が大変な知恵と力があるお方であることがわかります。また、神様の数々の作品を見ると、神様はすばらしい芸術家でいらっしゃることもわかりますね。

最後に人が神様のかたちである御子に似た者として造られました。だから私たち人間は有限ではあるけれども、知恵があり、創造力があり、美しいものに感動する心があるのです。

人間はなぜ最後に造られたのでしょう。それは、一つには、人間がほかの被造物なしには生きていけないものだからです。光がなくては人間は生きられませんし、空気と水がなくては生きていけませんし、陸地と植物がなくては人間は生きられませんし、太陽や月や星がなくて人間は生きられませんし、鳥やお魚がいなかったり、ほかの動物たちがいなければ人間は生きていけないのです。ですから、これらを造って用意してから、神様は人間をおつくりになりました。

 そういうわけですから、

1.神の似姿として被造物世界を治める役割を与えられた人間は、どんな被造物をも神として拝んではなりません。太陽や月や大木や大きな岩や山や動物や人間はみんな神様の作品なので、大事にすべきですが、拝んではいけません。

2.しかし、被造物世界なしには私たちは生きられないのですから、これらを治めるにあたっては、知恵とやさしい心をもって治めることが大事です。空気や水をたいせつにし、大地を汚さないように注意し、植物や動物といった神様の作品を絶滅させないように管理することが神様のみこころです。

力ある祈りとその妨げ

マルコ11:20-25

2017年4月30日 苫小牧

 

11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。

 11:21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

 11:22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。

 11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

 11:24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

 11:25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」

 

 

 主イエスがイスラエルの象徴である、実の無いいちじくの木を呪って枯らしてしまったとき、ペテロはまだその意味を理解することはできなかったでしょう。その意味が明らかになったのは、この時から40年後、紀元70年のエルサレム滅亡のときです。そんなわけで、ペテロは、ただイエス様が呪ったいちじくが枯れたということについてびっくり仰天しただけです。イエス様の祈りには、こんな力があるのだと改めて驚いたわけです。まあ、これまでもペテロは嵐のガリラヤ湖をおことば一つで静まらせたことをから始まって、さまざまな主イエスの奇跡を見てきましたから、今さら驚くこともないんじゃないかと思うのですが、呪いの奇跡というのは、主イエスの公生涯の中でただこの一度だけでしたから、その点、ペテロが驚いたのかもしれません。

 それはさておき、主イエスは、ペテロが驚いていることにちなんで、信仰の祈り、力強い祈りについて教えられました。

 

1 聖書における普通の祈り  人格と人格

 

 まず、聖書における祈りについてお話します。というのは、この世のおまじないとの違いを確認しておきたいからです。イエス様は主の祈りを弟子たちに教える前に、こんなふうに話されました。マタイ6章7,8節

「6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。 6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」

 異邦人の祈りというのは、一種の呪文です。回数をなるべく多く、念を入れて唱えたら、願い事がかなうという風に考えるわけです。それは、ナンミョウホウレンゲキョウというのを毎朝100回100日唱えたら、ほしい車が手に入るとかいう新興宗教のたぐいのことです。そのことばの魔力とか念力とかいうことを考えるのでしょう。呪文によって宇宙のエネルギーの流れになにか影響を与えるほどの念力を出せるというふうな教えです。しかし、イエス様は、そういう真似をしてはいけないとおっしゃいます。

 なぜでしょうか。それは、真の神様は生ける人格である父なる神でいらっしゃるからです。あなたが、たとえば自転車が欲しいとき、お父さんに毎朝毎夕百回、百日間「自転車買ってちょうだい。自転車買ってちょうだい。自転車買ってちょうだい。自転車買ってちょうだい。自転車買ってちょうだい。自転車買ってちょうだい。・・・」と訴え続けたら、どうなりますか?お父さんはきっと『うるさい』と言って聞いてくれないでしょう。聖書を通して私たちに語りかけてくださっているお方は、生きた人格、あなたがたの父なのだから、お祈りにおいては、ただ意味もなく呪文を繰り返してはいけない、ちゃんとお話ししなさいというのです。

 要するに、本当の祈りとは、生ける人格である天の父上との会話なのです。一方的にしゃべりまくるのでなく、聖書を読んで、神様のご性格、神様の力、神様の知恵、神様のご計画、神様のみこころを学んでいくことで、適切な会話の仕方も身についてくるものです。そして、祈りでは色々と自分が神様にお話したら、しばらく沈黙して、心に神様の御旨を思いめぐらすときも大切です。一方的にしゃべりまくったのでは、会話が成り立ちませんからね。 詩篇の中の多くの祈りは、そうした神様とのやり取りの記録されたものが多いことです。

 

2 信じた通りに

 

 祈りの中には、単にみこころを尋ねるやりとりではなく、神様にある特定のことをお願いする祈願があります。その場合、基本的に大事なことは、神様に信頼しきって祈るという点です。主イエスは本日の箇所で、第一にそのことを教えていらっしゃいます。

11:22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。

 11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

 11:24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

 「神を信じる」ということが祈りにおいてまずとても重要なことです。それは、神が生ける人格であるからです。人格とのかかわりに於いて、一番大事なことは、信頼するということでしょう。あなたは子供が「お父さんのことなんか、全く信用していないよ。だけど、一応、頼んでおくけどね・・・」などと言われたら、答える気がしないでしょう。人間の父親は信頼に足りないかもしれませんが、それでも信頼してほしいでしょう。神様ほど信実なお方はいないのに、あなたのこと信じていないよというような態度で祈るならば、そんな祈りには答えてもらえるわけはありません。きわめて失礼で、冒涜的なことですから。

 主イエスは「神を信じなさい」とおっしゃいました。神様に信頼しきって祈ることです。

 言い換えると、神様のご性格を知り、その愛、その力、その真実、その優しさ、その厳しさといったことを知って行った上で、信頼しきって祈るのです。

 

3.「山」とは?

 

 では、イエス様は「この山に向かって、『動いて、海に入れ』」という話をなさったから、「樽前山よ、動いて海に入れ」と祈るべきでしょうか?

もちろん無から万物を造られた神様の全能性からすれば、樽前山だろうと富士山だろうとエベレストだろうと、それを動かして海に入れることはたやすいことです。けれども、それは神様の誠実、真実、愛、優しさといったご性格にはかなわない願いであることがわかるでしょう。もし文字通りに樽前山を今動かすならば、たくさんの死傷者も出てしまいますし、環境破壊もひどいことになってしまいます。そうしたことを気まぐれでなさることは、誠実で愛に満ちた正義の神様のお望みにならないことですから、答えてくださるわけがありません。

では、イエス様が「山」ということばでおっしゃろうとしたものとはなんでしょうか?それは、神様のみこころに従って前進してゆこうとするときに、前に立ちはだかる障害物といえばよいでしょう。

私たちクリスチャン、神様の子どもの人生の目的とは何でしょう?ウェストミンスター小教理問答は第一問答で「私たちの人生の主な目的は、神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことである」と答えています。神様の栄光をあらわすというのは、神様をあがめることです。そして神様を喜ぶことです。ですから、神様をあがめるため、神様を喜ぶための障害となっている山があるとすれば、その山を動かして取り除いてくださいと祈るならば、それは御心にかなう祈りです。そういう御心にかなう祈りであれば、神様はもっともよい時にその「山」を動かしてくださいます。

また、主イエスは私たちにとっても最も大事な戒めは、全身全霊を尽くしてあなたの神である主を愛せよということと、あなたの隣人を自分自身のように愛せよということだと教えてくださいましたから、その目的に向かって前進しようとするとき、そこに立ちはだかる山を海に動かしてくださいと祈ることは、神のみこころにかなうことです。神のみこころにかなうことを願うならば、その願いはすでに聞かれたものです。

みこころにかなった祈りをささげるならば、神様の御霊はわたしたちのうちに平安を与えてくださいます。目の前にまだ山が見えたとしても、すでに約束に於いて山は動いたのですから、そのように生きていくことができます。神様の時がくれば必ず山は動くのです。

 

4 祈りの妨げ

 

 しかし、こうした祈りの力を削ぐものがあると、主イエスは教えてくださいました。特に主イエスが取り上げたのはどういう障害でしょうか。

11:25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」

それは、「だれかに対して恨み事がある」ことです。誰かを恨んでいるということは、誰かを赦していないということです。誰かを赦していないときには、神様も私たちを赦してくださいません。主の祈りにおいて、私たちは今日も祈りました。「私たちの負い目をお赦し下さい。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しました。」と。以前もお話したように、この箇所は文語訳の祈りでは「われらに罪をおかす者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」でした。口語訳では「6:12わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」とあります。

 文語訳には「ごとく」、口語訳には「ように」ということばが入っていますが、新改訳にはありません。新改訳聖書は、原語のテキストが透けて見えるように忠実に訳されているのが特徴ですが、この箇所については残念ながら、むしろ文語訳・口語訳・新共同訳のほうが原文に忠実です。原文には、「ごとく」「ように」にあたることばホースがあるのです。ホースとは、比例を表現することばです。つまり、「私たちに罪を犯す人を私たちが赦すのに比例して、私たちの罪をも赦してください」ということです。言い換えれば、「私たちに罪をおかす人を私たちがゆるさないのに比例して、私たちをゆるさないでください」ということです。

 隣人との関係において恨みがあり、ゆるせない心があると、神との関係もおかしくなってしまうのです。隣人を恨んでいるならば、神様は私たちをお赦しにならず、したがって、私たちとの交わりには障害が生じて、私たちの祈りに耳を傾けてくださらないのです。

 この原則は、神様にささげものをするというときにも通じることです。

 5:23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、 5:24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5:23,24)

 私たちの隣人愛、格別、主にある兄弟姉妹を愛することと、神を愛することとは、たいへん密接に関係していて切り離すことができないのです。「彼のことは赦しませんが、私のことは赦してください」という祈りを神様は決して聞いてくださいません。

 ですから、神様に祈り願うことがあるならば、自分の心を顧みて、そこに誰かに対する恨みとか怒りがないものかを吟味して、もしそういうものが見つかったら、仲直りして神様の前にごめんなさいと申し上げることが不可欠です。それから、祈り願うことです。

 

結び

  信仰の祈りを主イエスは教えてくださいました。

 第一に、真実の祈りとは、生ける神様との人格的交わりですから、一方的にお願いごとをするのでなく、聖書を読んで神様がどのようなお方であるかということを知り、神様のご計画に学ぶことが必要です。

第二に、生ける天の父に信頼しきって祈ることです。神様の誠実、真実、愛、やさしさ、厳格さ、神様のご計画などを知って、信頼して祈るのです。

 第三に、「山」とは、私たちが神を愛し隣人を愛するという人生の目的を妨げるものです。そういうものを取り除けてくださいと祈ることはみこころにかなう祈りです。

 第四に、力ある祈りの妨げは、人を恨む心です。悔い改めて赦して、そうして生涯を取り除いてから祈りましょう。

主の御前に出る

創世記42:1-25

2017年4月23日 苫小牧

 

1.神の摂理の確かさ――啓示の実現――(1節から9節)

 

 エジプトの宰相となったヨセフはもう二度と故郷の父や兄弟たちに会うことはあるまいと思っていました。けれども神様の御摂理は不思議です。七年間の豊作の後にやってきた地中海世界全体をおおう大飢饉によって、ヨセフの兄たちはエジプトにやってくるのです。その顛末が42章1節から4節に記されています。

42:1 ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「あなたがたは、なぜ互いに顔を見合っているのか。」

 42:2 そして言った。「今、私はエジプトに穀物があるということを聞いた。あなたがたは、そこへ下って行き、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生きながらえ、死なないだろう。」

 42:3 そこで、ヨセフの十人の兄弟はエジプトで穀物を買うために、下って行った。

 42:4 しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちといっしょにやらなかった。わざわいが彼にふりかかるといけないと思ったからである。

 

ここにはヤコブがヨセフなきあと、今度はベニヤミンを最愛の妻ラケルの忘れ形見として偏愛していることがわかります。

 さて、こうして兄たちは父ヤコブに命じられて、エジプトに食料を求めてやってきました。一方ヨセフはエジプトにあって飛ぶ鳥を落とす勢いの宰相となっていました。ヨセフは兄たちを見て、すぐにそれとわかりましたが、兄たちはまさか自分たちのエジプトの宰相であることに気づきません。

 そうして、神様はもう二十年以上も前にご自分がヨセフに見せた夢を実現なさいます。すなわち、ヨセフが17歳の時に見たあの麦束の夢です。兄弟たちの束ねている麦の束が、ヨセフが束ねていた麦束を取り囲んでおじぎをしたというあの夢です。神からの啓示でした。神様は、悪魔や人間のいろいろな妨害があっても、その摂理をもって、ご自分が計画されたことを必ず実現させたまうお方です

 あの時、兄たちは生意気な弟ヨセフが自分たちの上に立つことなど、絶対に出来ないようにしてやると思って、ヨセフをなきものにすることを企てました。そして実際、殺すことこそしませんでしたが、弟を奴隷商人に売り飛ばして、闇に葬って、自分たちは金を受け取って、ことはすんだと思っていたのです。けれども、神様はすべての悪者の働きさえもその手綱でもってコントロールして、みこころを実現させたまうのです。たとえ悪魔が神様に反抗して悪事を行なったとしても、神様はすべてのことを働かせて、その計画されたことを実現にいたらせるのです

 神の摂理について、今までハイデルベルク信仰問答、ウェストミンスター小教理問答を紹介しましたが、今度は、これらの信仰問答の源流となったカルヴァンの「ジュネーヴ教会信仰問答」から紹介しましょう。

問い28

 悪魔や悪しき人々も、やはり神の主権に服しますか。

答え

 神は彼らを聖霊をもってはお導きになりませんけれども、神が彼らに許された限度でなければ、彼らは活動することができないように、神はその手綱を握っておられるのです。その上に、たとえ彼らの意図や決意に反してでも、みこころを実行するように彼らを強制されるのであります。

 

問い29

 それを知ることは、あなたに何か益がありますか。

答え 多くの益があります。なぜならば、もし悪魔どもや不義な人々が神の意志に反して何事か行なう力があるとするならば、非常に災いであります。そしてまた、彼らからおびやかされている限りは、われわれは決して心に安らぎを得ることはできないでありましょう。しかし神が彼らの手綱を引き締めて、神の許しに寄らなければ、何事もできないようにしておられることをわれわれが知るとき、そのことによって、われわれは心を休め喜ぶことが出来るのであります。それは神がわれわれの保護者であり、またわれわれを守ってくださることを約束しておられるからであります。

 

 

2.神を恐れる者として(42:18)

 

 さて、今や兄たちの命はヨセフの手中にありました。彼らを煮て食おうと焼いて食おうと自由という状況です。奴隷にして売り飛ばしましょうか。それとも・・・ここでヨセフの兄たちに対する痛快な復讐劇が始まるというのが、世間の小説なのかもしれませんが、現実はそうは展開しなかったのです。しかし、まずはヨセフは兄たちにスパイとしての嫌疑をかけて、激しいことばを投げつけて、弟ベニヤミンを連れてくるように言うのです。13節。彼らは言った。「しもべどもは十二人の兄弟で、カナンの地にいるひとりの人の子でございます。末の弟は今、父といっしょにいますが、もうひとりはいなくなりました。」

 ヨセフは兄の一人が言った「末の弟は今、父といっしょにいますが、もうひとりはいなくなりました。」ということばにカチンときました。「なにが『もうひとりはいなくなった』だ!おまえたちが、実の弟であるこの私を奴隷に売り飛ばしたのではないか!」とヨセフは、兄たちに向かって叫びたい衝動を抑えるのに苦労したでしょう。

 しかし、ヨセフにはすぐに叫んでしまえないわけがありました。ヨセフはベニヤミンのことを心配していたのです。ヨセフは、同じ母ラケルから生まれた弟ベニヤミンもまた、兄たちによってひどい目に合わされたり、奴隷として売られたり、あるいは殺されたりしてしまったのではないかという心配をしていたのです。特に、兄たちが10人でやってきてベニヤミンを連れてきていないのですから、「父といっしょにいます」などということばも本当かどうかわかりません。疑わしいことです。ヨセフとしては、あの弟ベニヤミンをこの危険な兄たちから救い出さねばならないと思いました。

 そこで、15節16節にあるように、彼らを監禁し一人の者だけが帰国してベニヤミンを連れてくるように命じたのです。

42:15 このことで、あなたがたをためそう。パロのいのちにかけて言うが、あなたがたの末の弟がここに来ないかぎり、決してここから出ることはできない。

 42:16 あなたがたのうちのひとりをやって、弟を連れて来なさい。それまであなたがたを監禁しておく。あなたがたに誠実があるかどうか、あなたがたの言ったことをためすためだ。もしそうでなかったら、パロのいのちにかけて言うが、あなたがたはやっぱり間者だ。」

 

(ここで「パロの命にかけていうが」というのはおもしろいですね。勝手にいのちをかけられたパロもたいへん。勿論、当時の慣用句にすぎません。)

 

 さて三日がたちました。この三日のうちにヨセフの心境に変化が生じました。18-20節。

42:18 ヨセフは三日目に彼らに言った。「次のようにして、生きよ。私も神を恐れる者だから。 42:19 もし、あなたがたが正直者なら、あなたがたの兄弟のひとりを監禁所に監禁しておいて、あなたがたは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。 42:20 そして、あなたがたの末の弟を私のところに連れて来なさい。そうすれば、あなたがたのことばがほんとうだということになり、あなたがたは死ぬことはない。」そこで彼らはそのようにした。

「次のようにして生きよ。私も神を恐れる者だから。」ということばに、ヨセフが三日間をどうすごしたかが暗示されています。ヨセフは兄たちを久しぶりに見た時、憤りを抑えがたかったのですが、一人神の前に静まって考えてみると、兄たちのうち一人だけ帰国させるというのは理不尽なやり方であることに気づいたのです。父ヤコブの一族が飢えたから、兄たちは食糧を求めてきたのです。もしただ一人しか帰さなければ故郷の父親や一族郎党は飢えて死んでしまうでしょう。弟ベニヤミンの安否を確かめるためだけならば、そうまですることはない。一人だけ人質にして他の者は食料を持たせて帰してやろうと考えたのです。それが「次のようにして生きよ」でした。

 ヨセフがこのように考え直すことができたのは、三日間待ったからでした。三日間、神の御前に静まったからということも出来ましょう。たいせつな決断をしなければならないとき、決して激した感情のなかで決断してはならないということを教えられます。落ち着いて、神様の御前に静かな心になって、そして神のみこころを求めることです。箴言にはこうした知恵にかんすることばがたくさんあります。

 

箴言14:29「怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。」

箴言16:32「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」

箴言19:11「人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は背きを赦すことである。」

 

3. 隠されているもので露わにされないものはない。

 

 この三日間は兄たちにとっても自らの神様の御前に清算されていない過去を振り返るときとなりました。21節、22節。

42:21 彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」

 42:22 ルベンが彼らに答えて言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」

 

ヨセフのことはずっと彼らの心の中にわだかまっていたのでしょう。けれども、お互い共犯者として口に出すことも出来ないで過ごした二十数年間でした。しかし、ここにいたって彼らは自分たちの犯した罪の大きさに恐れおののいているのです。罪は一時はいかに隠しおおせたと思っていても、神からの報いを受けるべきときがあるのでした。

 

 前回、ヨセフはキリストの型、予型であるという見かたが伝統的に教会において行なわれてきたということを申し上げました。この場面でも、もしヨセフをキリストの型と見るならば、兄たちは最後の審判においてキリストのみ前に引き出される人間の姿をあらわしていると読むことができます。

 兄たちはまさか目の前にいるのが、弟ヨセフであるとは思いも寄りませんが、審判者であるヨセフの側は兄たちのことを知っているのです。彼らが犯したおそるべき罪のこともこの審判者はだれよりもよく知っているのです。

 「人には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」と聖書は宣言しています。私たちは、死後、主のみ前に引き出され、自分が生きてきたこの地上の生涯のいっさいについて主の御前に申し開きをしなければなりません。恐ろしいことです。罪とは、主が嫌われることを、思ったこと、主が嫌われることを言ったこと、主が嫌われることをしたことです。その一つ一つについて、私たちはひとりひとり量られるのです。私は自らを振り返れば赦されがたい罪人です。こんな罪人が聖なる神の御前に引き出されるということを考えると、本当に恐ろしいことです。

 ただ、私たちのさばき主としてこられるお方は、主イエスご自身であることはなんという慰めでしょうか。ヨセフが兄たちが自らを省みて過去に犯した罪を悔いているのを聞いてひそかに涙を流したとあります。42章21節

「 ヨセフは彼らから離れて、泣いた。」

 そのように、主はこの上なく公正な審判者でいらっしゃいますが、同時に、私たちの弱さを知っていて涙をも流して下さるお方です。主は罪は犯されませんでしたが、人となられて私たちと同じ苦しみや試みを経験されたお方であるからです。

 

 主の御前に引き出されるその日を思いつつ、主イエスの十字架の贖いを感謝して日々を過ごしたいと思います。

呪われたいちじく

Mk11:12-20

11:12 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。 11:13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。 11:14 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。

  11:15 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、 11:16 また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。 11:17 そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」 11:18 祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。

  11:19 夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。 11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。

 

 

1 イエス様の不思議な言葉

 

今日、改めて説教題を眺めて、怖い説教題だなあと思いました。主イエスの言葉や行動には私たちには理解できないことが時々あります。きょうの箇所はその代表的なところと言えましょう。主イエスが実のなっていないいちじくを呪い、その後、神殿に行かれてそこにいた商売人たちを厳しく非難なさいました。いわゆる宮浄めの出来事です。

 

12-14節

 「翌日」つまりイエス様がエルサレムに入城された日曜日の翌日の月曜日のことです。イエス様たち一行はベタニヤを出ました。ベタニヤはエルサレムの東オリーブ山の麓にあり、マルタ、マリヤ、ラザロの三人兄弟が暮らしていました。ここがエルサレム伝道の拠点です。イエス様は日中はエルサレムの町で伝道をし、日が沈むとオリーブ山のゲツセマネの園で祈り、夜にはベタニヤに泊まられたようです。

 ベタニヤを出るとイエス様はおなかがすきました。朝ごはんを十分食べなかったのでしょうか。すると、青々と葉の茂った立派ないちじくの木が見えました。一見、盛んで美しいいちじくの木です。しかし、近づいてみると、一個の実もついてはいなかったのです。 いやいちじくのなる季節ではなかったというのですから、実を捜してもないのも当たり前でした。しかし、奇妙なことにイエス様はこの木に対して呪いの言葉をおっしゃいました。

「今後、いつまでも、だれもお前の実を食べることのないように。」

ひどいなと感じてしまいます。いったいどういう意味でイエス様は、このイチジクの木を呪われたのでしょう。何か意味があるはずです。読み進んでまいりましょう。

 

2.宮浄め 15-19節

 

 エルサレムに到着したイエス様はどこに出かけられたでしょうか? 王の宮殿ではなく、市民の広場でもなく、神殿です。神殿とは、神と人とが出会う場であり、エルサレムのハートであり、イスラエルの民のハートです。旧約時代から、神殿礼拝のありかたこそが、王国の民の生活の中心であり、民族の運命を決したのです。旧約時代には、敬虔な王たちは、偶像崇拝を排してこの神殿における礼拝を重んじましたが、悪い王たちはカナンの地の習俗であったバアル、アシュタロテの偶像をこの神殿に持ち込んで、まことの神と並べて礼拝するようなことをあえてしました。その結果、神はバビロン軍にソロモンが築いた神殿を滅ぼさせ、民をバビロンに捕囚させ、国は滅亡したのでした。

 捕囚の地で苦しみの中で悔い改めたイスラエルを神はあわれんでくださいまして、解放の時が来て、エルサレム神殿を再建したのです。その記録は旧約聖書のネヘミヤ記、エズラ記に記されています。バビロン捕囚から帰ってからは、イスラエルの民はさすがに反省して、あからさまな異教の神々の礼拝をエルサレムですることはなくなりました。

 その後、400年間イスラエルは、ペルシャ帝国、次にシリヤ帝国に、そして、ローマ帝国に支配され苦しいところを通らされました。主イエスが来られた当時、イスラエルローマ帝国支配下にあり、エルサレム神殿は、あの幼いイエス様を取り殺そうとしたヘロデ大王が造ったものです。ヘロデ大王はローマの傀儡政権でした。神を恐れないヘロデ大王が何のために神殿を築いたかといえば、一つには己の権力をユダヤ人に対してPRするためで、巨大で豪壮なものでした。もう一つの狙いは、デラックスな神殿を造ることによってユダヤ人たちの歓心を買うことでした。

 

ところで、エルサレム神殿には、礼拝する場所が一番奥の至聖所に近いとことろから祭司の庭、イスラエル男子の庭、イスラエル女子の庭、そして、異邦人の庭と区別されていました。それぞれの人々は、それぞれの名で呼ばれる庭で礼拝をしたのです。

一番外側にある「異邦人の庭」に来る異邦人というのは、ローマ帝国諸州のさまざまの偶像の神々を捨ててイスラエルに啓示された創造主なるまことの神に改宗した人々のことです。意外なことかもしれませんが、当時、ユダヤ教特にパリサイ人たちは、異邦人伝道に熱心でした。マタイ23:15。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回っ」たのです。その甲斐あって、当時、エルサレムでの神殿礼拝は大変盛んになっておりまして、先日も申し上げたように、三大祭ともなれば通常の人口の3倍にもなってしまうので、多くの巡礼たちをエルサレムの城壁内に収容することができず、城壁の外には巡礼たちがテントをはってキャンプをしたのです。祭司階級のサドカイ人たちの神殿宗教経営は、経済的に大成功を収めていることを誇らしく思っていたにちがいありません。

ユダヤ教の国外宣教によって、石や木で刻まれた偶像の神々は偽りのものにすぎないことに気づき、まことの創造主こそまこと唯一の神であると信じた各地の異邦人たちは、アポロン神殿とかゼウス神殿に礼拝することを勇気をもってやめて、真の神のみを礼拝するようになりました。彼らにとっては、はるか遠いエルサレムの神殿は憧れの聖地となりました。そこで苦労して旅費をためて、過越しの祭りにはるばるエルサレムにまで巡礼をしたのです。聖なる思いを抱いてはるばるやって来たに違いありません。もちろん彼らは「異邦人の庭」までしか入ることは許されませんでした。ところが、この異邦人の庭に入ってみると、「おいおい兄さん、こっちの牛はいいよ。安くしとくよ。」とか、「牛が買えないなら、羊はどうだい。」とか、「貧乏なんだね、しかたない、鳩もあるよ。安くしとくよ。」などと、いけにえ用の牛・羊・鳩を売る商売人たちが声を張り上げていたのです。また、神殿ではローマの貨幣は神への捧げ物にならないといって、神殿用のお金に両替をしても受けている両替商たちもいました。勿論、彼らがこんな商売をすることができたのは、神殿経営をしていたサドカイ派の祭司たちが彼らに金を払わせて許可を与えていたからにちがいありません。

 異邦人改宗者たちはこんなところで聖なる神様に落ち着いて祈ることができるでしょうか。彼らはどう感じたのでしょう。自分がかつて参拝していたゼウスやアポロンやその他の神々が祀られた神社のようすとほとんど変わりがないのです。そうして、「エルサレム神殿といっても、あーあ、やっぱりこんなものか。けっきょく金儲けじゃないか。」と考えて帰っていったでしょう。「改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。」とイエス様がおっしゃるのは、そういう意味です。

こうした状況を見ると当時ユダヤ教徒たちは、積極的に宣教はしていましたが、それは神を愛し、異邦人もまた真の神を愛しうやまう礼拝者となるようにと願っていたわけではなかったと言わざるをえません。単なる教勢拡大を図っていただけのことです。神殿礼拝も絢爛豪華に行われていました。しかし、肝心の礼拝の場はガヤガヤと商店街のようなありさまでした。欺瞞の極みでした。

 だから、イエス様はお怒りになったのです。「わたしの家は、すべての民の祈りの家を呼ばれる」と。平行記事では「それをあなたがたは強盗の家にした」とも記されています。

確かに、当時は、旧約時代の悪い王たちのいた時代のように、神殿にあからさまな偶像が立ち並んでいたわけではありません。しかし、目に見えない偶像が聖なる宮に祭られていました。それは何でしょうか?マモニズム、経済第一主義という偶像崇拝がここでは行われていたのです。祭司階級のサドカイ人たちがこの神殿経営をして、千客万来商売繁盛というありさまで、両替商やいけにえ動物商人から場所代をとっていたのでした。また、異邦人の庭があんなありさまだったのは、祭司たちが心には「どうせ犬に等しい異邦人たち礼拝の場なのだから、少々うるさくっても構うまい。」と思っていたからです。神と並べてマモンをあがめるという罪を彼らは犯していたのです。主イエスは、金儲けのために、天の父をダシにしていることに対してお怒りになったのです。

 

2. いちじくが枯れた

 

 イエス様はこの宮浄めをなさると、城門をくぐってゲツセマネの園で祈り、おそらくベタニヤ村のマルタ、マリヤ、ラザロの家に泊まり、翌日、またエルサレムに向かわれ、また、あのいちじくの木を見ました。主イエスが昨日のろったいちじくの木です。木は根っこまで枯れていました。(20節)ペテロはびっくりしました。「先生。ごらんなさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

実は、いちじくというのは、ぶどうと並んでイスラエル民族を象徴する植物の一つでした。当時のイスラエル民族の神殿礼拝のあり方が葉ばかり茂って、実りがないということを象徴的行動をもって主イエスはおっしゃっているのです。ヘロデが権力と財力にもの言わせて建てた豪壮な神殿があり、国外宣教もさかんで、世界中から巡礼たちがぞろぞろやって来ています。神殿経営は経済的には空前絶後の繁栄ぶりと見えました。

けれども、ほんとうのところでは、祭司たちは神様を恐れていませんでした。神を愛してはいませんでした。異邦人の改宗者のたましいを軽んじていたのです。「心を尽くし思いを尽くし力を尽くして神である主を愛せよ。」また「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ。」という、神のご命令の本筋からはずれて、デラックスな神殿、教勢拡大、荘厳な儀式という宗教的な装飾ばかり茂っている状態だったのでした。葉ばかり青々と茂っていたのです。しかし、そこには、悔い改めの実も、誠実の実も、愛の実も実ってはいませんでした。それを主イエスは憤られました。そして、実のないいちじくが枯らされるように、このイスラエルの神殿はやがて神によって滅ぼされることを、預言なさったのです。その預言は紀元70年、ローマ帝国軍によって成就されることになります。エルサレム神殿は滅び、イスラエルは亡国の民となって世界に散らされてしまうのです。

 

適用 新約の時代の神殿とは

 

 今の時代、つまり、新約の時代、神殿はどこにあるのでしょうか。主イエスがサマリヤの女におっしゃったことばを思い出してください。

4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:21-24)

主イエスが十字架にかかって三日目に復活し、天の父なる神の右の御座に着座されてから、聖霊を私たち神の民、教会に送ってくださいました。主イエスを信じる者に、聖霊を与えてくださいます。新約の時代、キリストを信じる者世界中の礼拝共同体である教会、そして、あなたのからだが聖霊の神殿なのです。

1コリント3:16

 「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」

1コリント6章19,20節

「 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」

ですから、第一に、私たちの教会の歩みにおいて、神を愛し、神をあがめる礼拝が常に中心であることに心してまいりましょう。教会の目的がまことの神を愛することなのだということを肝に銘じましょう。教会は一生懸命伝道し、奉仕をし、ささげものをし、また、愛餐会や遠足など楽しい交わりをします。それらはよいことです。しかし、さまざまな行事も儀式も全ては、誠実に神様を礼拝し、神様への応答として隣人を愛することのためにこそあります。

 

第二に、私たちのからだが聖霊の宮であるということは、私たちの生活の中心に、まことの神がおられ、このお方が崇められるべきであるということを意味しています。生活の隅っこのほうに神様を押しのけていてはいけません。心の王座だけが、主にふさわしいのです。あなたのからだという神殿に主イエスが訪ねてこられるというなら、あなたは喜んで主イエスをその王座にお迎えできるでしょうか。自分のからだの中に、神を恐れない両替人やいけにえの鳩を売っている商売人はいないでしょうか。

個人礼拝、日々聖書を読み祈りの時を大切にしましょう。あなたの生活の中心に、この世の欲、俗悪な趣味などが占めていないでしょうか。そしてイエス様は端っこに押しやられていないでしょうか?もし示されるところがあれば、「イエス様ごめんなさい」と申し上げて、悔い改めて、主に王座に座っていただきましょう。

キリストの影

創世記41章

 

はじめに

 旧約は新約の影であり、新約は旧約の本体である、また、旧約は新約の預言であり新約は旧約の成就であると言われます。私たちが続けて味わっておりますヨセフという人物の生涯が、キリストの生涯の影であり預言であると言われることです。ヨセフは兄弟たちの妬みを受けて、奴隷として売られ、さらに罠にかけられて監獄に囚人としてすごすことになりました。ところが、今日お読みしたところでは神様の御摂理のなかで時いたってヨセフは監獄から出されたばかりか、王の右の座につく宰相の地位にまで上り詰めることになりました。このことが、キリストの生涯の型であるというわけです。

 つまり、主イエス様は救い主として二千年前地上に下られ三十歳の時伝道生涯にはいられたわけですが、ユダヤの指導者たちの妬みを受けてみなに捨てられた十字架に処刑されてよみにおくだりになりました。けれども、父なる神様はイエス様を死者のうちには止めおかないで、復活させ、さらに天に引き上げてご自分の右の座(力の座)に着座させられました。そして、今やイエス様は「天においても地においても一切の権威を」授けられていらっしゃるのです。このキリストの低くされた状態から、高く引き上げられた状態にいたるご生涯が、ヨセフの生涯と二重写しになっているという解釈です。

 私たちを罪と滅びから救い出すために地上に下り、さらに黄泉にまでくだってくださった主に感謝しましょう。また、私たちの罪のための償いを成し遂げられて復活し、今も世界をすべおさめたまう主イエス・キリストを賛美しましょう。

 

1.「それから二年後」

 

 ヨセフが献酌官の夢を解いてやって、その夢のとおりにことが成就して、献酌官がもとの地位に復したという知らせをヨセフも耳にしました、献酌官によって、無実の罪が晴れて、牢獄から出られる日が今日にもくるか明日にもくるかとまちわびていましたが、待てど暮らせど無罪放免の知らせは来ませんでした。そうして待ちわびるうちに二年の歳月がたちました。

 「待つことは忍耐であり、待つことは成長である」。この忙しい時代、私たちは何かをするということが積極的で、ことを進めることになるのであると考えがちです。実際、積極的にことを行なうということは大切なことです。けれども、同時に「待つ」ということもまた実はとてもたいせつなことなのです。「待つことは忍耐であり、待つことは成長である。」

 たとえばジャガイモの収穫を私たちはどのようにして得るのでしょうか。畑を耕し肥料を施して、種芋を半分に切って埋める。そして、ときどき草取りをする。人はたしかにこうした営みはするのですが、一番長い時間を要するのは、待つことです。収穫までのほとんどの時間は待っているのです。ジャガイモを埋めて翌日でかけて、掘り出して「まだだなあ」といって埋めもどし、また翌日でかけて畑を掘り返してじゃがいもを掘り出して「まだまだだなあ」といって埋め戻すようなことをしていたら、ジャガイモはだめになってしまうでしょう。なすべき基本的なことをしたら、あとは待つことが収穫のためにたいせつなことです。

 マルコ4:26-29に主イエスがおっしゃった神の国のたとえに在る通りです。

4:26「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、 4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。 4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。 4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

 ヨセフにとって待たされた二年間は、一見無意味に見える二年間です。しかし、その二年間の忍耐が後の大いなる収穫のために必要なのでした。

 

 あなたも今、なにか人生のたいせつなことがらを待たされているかもしれません。「待つことは忍耐であり、待つことが成長である」このことを覚えましょう。

 

2.主は世界の支配者

 

 二年がたったとき、神様はエジプトの王に不思議な夢を見せます。それは七頭の牛を七頭のやせた牛が食べてしまうという夢と、七つのよく実った穂を七つのやせ細った穂が飲み込んでしまうという薄気味悪い夢でした。夢とはいえ、あまりにもリアルで印象深く王の心に残ってしまいました。これは、単なる夢ではなく、なにか意味のある啓示であると王は悟ったのでした。そこで王は国中の知恵者にこの夢の意味を解き明かさせようとしましたが、だれもできません。考えれば考えるほど不吉な夢ですから、王はさらに八方手を尽くしてこの夢の意味を知りたいと願ったのです。

  まず私たちにとって意外なことは、エジプトの王が神からの啓示を受けたということではないでしょうか。ヨセフが夢を見た、ヤコブが夢を見たというならばわかります。彼らは真の神を信じているのですから。しかし、真の神を信じてもいないエジプトの王が夢で神の啓示を受けたというのは不思議なことです。しかし、さらによくよく考えてみればこの世界を創造し支配しておられる神は唯一のお方です。このお方を信じておらず、太陽神の息子を名乗るエジプト王にとっても、創造主が真の神なのです。真の神は、このエジプトの国の歴史をも、支配しておられるのです。

 当時、エジプトにおいて真の神を信じていたのは、ヨセフただ一人でした。他の何十万人というエジプト人はさまざまな偶像の神々に仕えていたのです。しかし、このエジプトの将来を左右するのは、それらの神々ではなく、ヨセフ一人の信じる神でした。

 私たちキリスト者はこの日本という国において少数派です。しかし、この国の将来を支配するのは、八百万の神々ではありません。この国の将来を支配したまうのは聖書にご自身を啓示しておられる万物の創造主、歴史の支配者なる神です。ですから、私たちがこの国のために祭司としてとりなし祈ることはとてもたいせつなことなのです。キリスト者以外に、この国の将来のために祈ることが許されているものはいないのです。私たちにはこの国の為政者のため、世界の上に立つ人々のためにとりなし祈る責任があります。現在、北朝鮮核兵器実験をめぐって米軍韓国軍との一触即発の緊張状態があります。指導者たちが頭を冷やして振り上げたこぶしを下ろし、平和を作るように私たちは祈るべきです。

  さて、エジプトの王は夢のことで悩んでいました。それを見ていたのが、あの献酌官でした。献酌官は王にヨセフのことを申し出ました。二年前、牢獄で出会った男ヨセフが自分の夢を寸分あやまることなく解き明かしたことがありましたというわけです。9節から13節。

 こうしてヨセフは王の召しをうけて監獄から引き出されました。そして、王の夢を詳しく聞き取り、それを説き明かします。たいせつなポイントの一つは15節と16節。 ヨセフは王から君が夢を解き明かすということだが、といわれると即座に「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」と答えます。かつて17歳の時のヨセフとはずいぶん変わりました。かつてヨセフは自分の見た夢をぺらぺらと兄たちまた親に向かって得意げに話しました。ところが、今色々な苦節を経て30歳になっているヨセフは、自分が夢を解けるのは神様が教えてくださるのである、自分はその取次ぎ手にすぎないといいます。13年の歳月のなかで、主に取り扱われたヨセフは自分のすべての働きは神の業であるということを、身にしみて自覚するようになっていたのです。

 私の力が、私の知恵が、私の意見、私の確信、私の考え、私のプライド・・・というところから解放されたのです。人間はアダムの堕落以来、この「私病」にかかっているのです。主のしもべはこの「私病」から解放されなければなりません。そうしなければ、どんなに才能があってもどんなに頑張っても、主の栄光をあらわす奉仕はできません。

 「艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」とローマ書にあります。忍耐は練られた品性を生み出すのです。

  ヨセフのことばの中でもう一つの大切なことばは32節です。「夢が二度繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神がすみやかにこれをなさるからです。」ここにヨセフの力強く平安な歩みの秘訣となる信仰告白が現れています。「神によって定められ、神がすみやかにこれをなさる。」それは神が世界の、一国の、そして一人の人の歴史の支配者であられて、神が聖なる計画を持ってこれを遂行なさるという信仰、神のご摂理に対する信仰でした。結局、私たちはヨセフの生涯を通じて学ばせられる信仰は、人は摂理の神を信じているならば、どれほど厳しい試練にあったとしても、力強く、平安で、謙遜・着実な歩みをすることが出来るかということにほかなりません。

 逆境においても忍耐強く、順境にあっても思い上がることなく着実・謙遜に歩む秘訣は、摂理の神に対する信仰であります。

 

ハイデルベルク信仰問答 問い28

神の創造と摂理を知ると、どのような利益がわれわれにあるのでしょうか。

答え

 われわれは、あらゆる不遇の中にも忍耐深く、幸福の中には、感謝し、未来のことについては、われらの寄り頼むべき父に、よく信頼するようになり、もはや、いかなる被造物も、われわれを、神の愛から離れさせることはできないようになるのであります。それは、すべての被造物は、全く御手の中にあるのですから、みこころによらないでは、揺るぐことも動くこともできないからであります。

 3.キリストの影

  しかし、摂理の信仰というのは、いわゆる運命論とは違います。運命論というのは、人間がどうすることもできない冷たい定めに対する諦観、あきらめの態度です。仏教における悟りというのは、そういう運命論です。他方、摂理の神に対する信仰とは、私たちの人生を治めてくださる生きている父なる神に対する人格的な信頼と責任ある服従としての信仰です。

  こうして父なる神の御手にゆだねきった生き方ということを思うとき、私たちはやはりヨセフという聖徒の姿に、主イエス様の影を見ないではいられません。嵐のガリラヤ湖で小舟が転覆しそうな時にも、安心しきって熟睡しておられたイエス様。イエス様にとっては、木の葉のように並にもまれる小舟は父なる神のゆりかごのようでした。また十字架を目前にしたゲツセマネの園で、イエス様は父なる神の胸をたたく子どものような祈りをされました。しかし、十字架にかかって死ぬことこそ父のみこころとはっきりわかった後には、勇敢に十字架に向かってひるむことなく進んで行かれました。

 そして、十字架で私たちの罪のために苦しまれた後に、死に勝利を収めて復活し、父なる神の右に着座されました。今、イエス様は父なる神から一切の権能を委ねられて私たちの人生を摂理していてくださいます。私たちも、主イエスの足跡をたどりつつ、御父に信頼してこの人生を忍耐強く、謙遜に歩んでまいりたいと思います。