水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

いのちのことば

ヨハネの手紙第一1:1-4

                                                        

 

 1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、

 1:2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──

 1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

 1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 

 

1.いのちのことば(1、2節)

 

 ヨハネは、これから私たちに伝えようとすることは「いのちのことば(ロゴス・テース・ゾーエース)」であると言います。「いのちのことば」とは何でしょうか。

 

 古代から人間は死を恐れつつ永遠のいのちを捜してきました。それは洋の東西を問いません。中国では秦の始皇帝は不老長寿の薬を見つけ、これを飲んでいたそうですが、それが水銀だったのでかえって水銀中毒でいのちを縮めてしまったそうです。ギリシャの哲学者ソクラテスは、哲学とは死に関する学問であるとさえ言いました。それは言い換えると、永遠のいのちを望みながら、実際には死んでいかねばならない人間の不思議さを考えることが哲学であるということでしょうか。ソクラテスからしばらく後に現れた哲学者たちにストア派というのがありました。彼らは死を恐れぬものの考え方を編み出しました。「死は恐れるに足りない。なぜなら、死がやってきたとき、すでに私はそこにいないからである。」なかなかのへりくつです。しかし、こんなことを言えばいうほど、彼らがいかに死にこだわり死を恐れていたかがわかります。

 世界の理法とか人生論とか倫理とか道徳。哲学者や思想家たちはいろんなことを昔から考えてきました。それは、生きることいのちということ人生について、そして死ということについてです。使徒ヨハネが手紙を書いた相手は、ギリシャ文化の影響の下にある人たちでした。ギリシャ文化圏のストア派の哲学者たちはロゴスということばで、神が定めた宇宙の理法を意味していましたから、ギリシャ文化圏の読者たちが、ロゴスという言葉を読めば、さてヨハネ先生はどういう「ロゴス」どういう哲学を展開するのだろうかという読み方をされたのでしょう。はたして「いのちのことば」ロゴステーズゾーエースの話です。

 

  ところが、いきなり初めからヨハネは「いのちのロゴス」について、不思議なことを語ります。「いのちのロゴス」を私たちは「この耳で聞いたし、この目で見たし、じっと見つめたし、また手でさわりもしたんだよ。」というのです。「ことばlogosをこの耳で聞いた」というのはわかります。また「書物でlogosを学んだ」というものわかります。しかし、ヨハネは「ロゴスを見た、じっと見た、手でさわった」というのです。ロゴスがどうして見えましょう。ロゴスがどうして手でさわれましょう。ロゴスは宇宙の理法です。「目で見て、耳で聞いて、手でさわれる」ものは、ただ歴史の現実のなかに時間と空間のなかに現れた現実のものだけではありませんか。

 この宇宙を支配する「いのちのロゴス」とは、人となって来られ、イスラエルのガリラヤ地方を歩まれたイエス・キリストそのお方であるというのです。

 

2 グノーシス主義に対して

 

 ヨハネが「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」それが「いのちのロゴス」イエス・キリストであるという不思議な紹介をしているのには、背景があります。

 ギリシャの哲学では、真理とか善とか美というものは、観念として存在するものであって、それが一個の人格としてこの世に出現するということなど考えられないことでした。

 ギリシャ思想においては基本的に、物質ないし肉体は悪であり、精神は善であるという考え方がありました。こうしたことを背景として、イエス様についてとんでもない異端説グノーシス主義が流行しつつありました。グノーシス主義者はキリストの受肉を否定しました。なぜなら、善であるキリストが悪である肉体をもつことは論理的にありえないからです。だから、「永遠のいのちである神がこの世界に現実の人となって来られたことはなかった、幻として現れたのである。」と教えました。これを仮現説といいます。また、言いました。彼らはまた「イエスはからだをもって復活などしなかった、幻として現れたにすぎない。また、弟子たちの心の中に暖かいすばらしい思いでとして生きているのが復活のイエスである」というのです。煮詰めて言えば、彼らはキリストの受肉を否定し、肉体をもって十字架で苦しまれたことを否定したのです。こうしたグノーシス思想を背景として、ヨハネは次のように言っています。

4:2 「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」

 そこで、ヨハネは「いや、私はこの耳で人となられた神の肉声を聞き、そのお顔をこの目で見た、じっと見た。そしてこの手でイエス様にさわったよ。」というのです。

 

 ギリシャ哲学と聞くと難しくいかめしい感じがしますが、イエス様の時代に流行していた二つの哲学学派の教えを簡単に説明しましょう。その課題は「どうしたら人間は幸せになれるか?」でした。エピクロス派は考えました。「腹が減ったら飯を食うと幸せになれる。だから「人が幸せになるためには、欲を快楽によって満たすことが必要である。」と。快楽説です。  もう一方のストア派は考えました。「欲は満たしてもまたすぐにかわくものだ。欲に追い回されているから人は幸福になれないのだ。だから、欲を押さえる訓練をすれば、人は幸福になれるはずだ。」禁欲説です。

 いずれにしても、欲を満たすためになにかすべきである。いや欲をおさえるために訓練をする。「何かする」ことによって、人生は幸せになれると思ったのです。「ああすべきである」「こうすべきである」ということばです。ストレスの多い今日の日本にもいろんな道徳的な教えが花盛りです。PHP、モラロジー、成長の家、実践倫理などなどと。

 しかし、ほんとうの苦しみと無力の中にあるとき、人は「前向きになれないから」困っているのですし、「ゆとりをもって考えられない」「自分をほめられない」から困っているのです。あるいは「あれをほしがるべきではない」という道徳のことばはわかっていても、「自分の欲を押さえられない」ので救われないのです。単なる道徳とか観念とか「ことば」では、ほんとうには人は救われないのです。いきいきとした人生を生きられないのです。なぜか。そこには「ことば」はあっても現実的な「いのち」がないからです。

 

 「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわちいのちのことばについて、---このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、それをあかしし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。」

 つまり、ヨハネが伝えようとしているよい知らせ、単なることばではない。真理という観念でもない。道徳でもない。人生哲学でもない。ヨハネが伝えようとしている福音「いのちのことば」とは、今現実に生きて働かれるイエス・キリストというご人格なのです。あなたが何かをすることによって、救われるのではない。あなたが主イエスに信頼して自分をおゆだねするならば、イエスがあなたをお救いになるのです。イエスは、生きておられあなたを愛しておられるからです。

 

3.交わり

 

(1)交わりの回復者

 主イエスが「いのちのことば」と呼ばれるのはなぜでしょうか。「いのち」とはなんでしょうか。聖書によれば、いのちとは神との交わりです。たとえば、主イエスはおっしゃいました。

「わたしはぶどうの木であなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて、火に投げ込むので、それはもえてしまいます。」ヨハネ15:5、6

 私たちは、本来、創造主であるお方のもとにあって、創造主から生きる力をいただいてこそいきいきと生きられるものです。ところが、創造主に背を向け、その御許を離れ、自分勝手に歩んでいる。そこにいのちはありません。死があるだけです。枝がぶどうの木についていなければ、しばらくは青い葉っぱを付けてはいても、決して実を結ばないのと同じことです。

 創造主なる神様を離れた人生は死です。その明らかなしるしの一つは心がむなしいということです。いろんなことを一生懸命にやっても、むなしいのです。それは「自分は何のために生きているのかわからない」ということです。被造物の存在目的は、創造者が決めるものです。たとえば時計の存在目的は、人間が時を告げ知らせることであると決めたからはっきりしています。でもゴミには存在目的ないでしょう。なぜならわざわざ意図してゴミを造る人はいないからです。創造者がいなければ被造物には存在目的はありません。ですから、創造主を見失ったら、人間は自分がなんのために生きているかわからないゴミになってしまうのです。

 神を離れた人生には愛がありません。なぜなら神は愛だからであり、愛は神からでているからです。たしかにクリスチャンになったからといって、簡単に敵をも愛せるようになるかというと、そうでもありません。つくづく自分には愛がないなあという反省をすることがしばしばあります。けれども、もう一度、神様を知る前の自分のことを思い出すと、それこそ愛がないなあなどという反省をすることもなく、自分のことばかり考えていた、人を踏み台にしても自分はよい道に生きたいとかばかり考えていたことを思います。そして、人生そういうものだとあきらめ高を括っていたのでした。たしかに、私の人生は変えられました。どうしてですか。いのちのことばである生けるキリストが、私とともに生きて下さるようになったからです。

 主イエスが「いのち」と呼ばれるのは、主イエスにあってこそ私たちは、この創造主である父なる神との交わりを回復されたからです。私たちは、主イエスにあって、父なる神様との人格的交わりを回復しました。

 

(2)交わり--教会

 主イエスが回復してくださるいのちの交わりとは、どういうものでしょうか。3節。「私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父及び御子イエス・キリストとの交わりです。」

 キリスト教は交わり(コイノニア)の宗教であるといわれます。それは、洞窟のなかで孤独な座禅の修業をするというのではなく、御子イエスと父とそして、御父を仰ぐ兄弟姉妹たちとの交わりのうちに生きることが、キリスト信仰の姿であるからです。神御自身が三位一体の神として、御父と御子とは聖霊にあって完全な愛の交わりのうちにいらっしゃるのです。キリストの福音が宣べ伝えられるならば、そこに教会が形成されていくのです。教会とは単なる人間集団ではありません。教会とは御父および御子との聖霊による愛の交わりなのです。

 私が教会に通い始めてまもないころ、まだ洗礼を受ける前のことでした。私は礼拝が終わるとすぐに家にかえるようにしていたのです。ところが、ある主の日のことです。S君という友人が私を引き止めて言いました。「水草、きょうは青年会に残っていけや。まじわりということも奉仕の一つなんやから。」と。そのとき、初めて私は教会で人々と会話をしたりともに祈ったりするということが、そんなに大切な奉仕なんだと知ったのです。それまで、私は自分で聖書を読み、礼拝に出て説教を聞いて、自分で神様のことを知って生活すれば、それで十分だと思っていました。頭だけ理屈だけの信仰だったわけです。けれども、その日を境にして私は教会の兄弟姉妹とともに語らい、ともに祈り、共に賛美し、ともに重荷を分かち合うということがほんとうに喜びになったのです。

 炭火が一個だけだと消えてしまうけれど、何個か集まるとかっかと燃えるように、私の信仰もかっかと喜びに燃えあがるようになったのです。クリスチャンになってつらつら考えると、私は教会生活のなかでほとんどの神様の恵みをいただいて来たのです。白石君のように戒めてくれる兄弟がいて、私は目が醒めました。多くの兄弟姉妹に祈られて私の信仰は成長しました。愛することを知らない孤独な人間だったのに、愛し愛されること、赦し赦されることを多くの体験によって学びました。

 みなさん。三位一体の神は交わりの神、愛の神です。私たちは、愛なる三位一体の神様の愛を、この苫小牧の交わりのうちに実現していくべく、召されているのです。                                                                              

  ヨハネ福音書13:34、35

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」