水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

結婚

創世記2:15-25

 

2016年5月1日主日 苫小牧夕礼拝

 

2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

  2:19 神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。

 2:20 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。

 2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。

 2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。

 2:23 人は言った。

   「これこそ、今や、私の骨からの骨、

   私の肉からの肉。

   これを女と名づけよう。

   これは男から取られたのだから。」

 2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

 2:25 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

 

序 

 神様は万物と人間を造られたとき、三つの制度を定められました。一つは七日に一度の安息・礼拝ということであり、一つは労働ないし文化命令であり、一つは結婚ないし家庭建設ということです。礼拝、労働、家庭という三つが、神のもとにおける人間のもっとも基本的な営みです。注目すべきことは、国家などというものは存在していないということです。国家とは剣の権能つまり、悪を取りします警察権ですが、人間の堕落後に、人間が礼拝と労働と家庭を正常に営むことをさまたげる罪が入ってきたので、それを抑制するために必要になって造られた道具です。国家は、国家主義者が考えるように人間の生きる至高の目的ではなく、人間の、礼拝・労働・家庭が営まれるための手段にすぎません。

 さて、それはさておき、善悪の知識の木から話を始めます。

 

1.善悪の知識の木

 

  2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 

 神様は人間を造り、エデンの園に置いて、彼にこれを耕しかつ守るという任務をお与えになったとき、善悪の知識の木をお定めになって、これだけは食べるなとおっしゃいました。これは神の人間に対する主権を意味しているのでした。つまり、人間の生きかたにおける善と悪は、人間が定めるわけではなく、神がお定めになるということを意味したのです。人間は、神がお定めになった善と悪との基準の下に身を置いて生きることが、大事なのです。善悪の知識の木の実からとって食べることは、神の主権を侵害し、自分のしたいことが善であり、したくないことが悪なのだという、態度表明を意味したのです。

 「かならず死ぬ」と言われましたが、聖書において「いのち」とは神との交わりを意味し、「死」とは神との断絶を意味します。神に背くなら必然的に、死となります。

 人間の生きる上での善悪の基準は神がお定めになっています。本日、みことばから学ぼうとする結婚についても同様です。聖書はそれほどこと細かく結婚について教えるわけではありませんが、大原則を教えています。その鍵の一節は2章24節です。

 

2.幸福な家庭スタートの順序

 

「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(2:24)

 まず、幸福な結婚、家庭建設の順序についてです。第一に「父母を離れる」つまり両親から自立する、第二に「妻と結び合う」つまり結婚する、第三に、「二人は一体となる」精神的・肉体的・経済的にもひとつとなるという順序です。ところが、現代の日本では、しばしばこの順序がさかさまになってしまっています。つまり、結婚もしていないのに、一体となってしまう。そのうち子どもが出来たから、まあ、仕方ないかということで結婚をする。けれども、夫婦ともに精神的にも、経済的にも父母から自立的できていないということです。これでは、なかなか幸福な家庭の建設はむずかしいのです。

 幸福な家庭建設のスタートのためには、まず、父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となるというこの順序が大事だということをわきまえましょう。この世の風潮に惑わされず、神様が定めたのがこの順序ですから、自信を持って子どもや孫たちに教えましょう。

 

2.父母を離れる

 

 十戒は、前半と後半に分かれていて、前半は神への愛、後半は隣人愛についての戒めが記されていますが、その後半の第一番目に来るのが「あなたの父母を敬いなさい。」です。親を敬うことが人間関係、人間愛の基本であるということです。それにもかかわらず、こと結婚のためには、まず「父母を離れなさい」と命じています。父母から精神的経済的に自立しなければ、つまり、大人にならなければ、もう一つの新しい家庭を作ることは非常に困難であるからです。

 何かがあると「実家に帰らせてもらいます」という奥さんでは困り者ですし、配偶者に相談する前に、自分の親に重要なことをさきに相談するような夫も困りものです。二人はまず父母を離れるべきです。

 また、親も、子どもたちが建設し始めた家庭を、少し離れて二人を見守るということをもって、親としての愛を表現することが大事なことです。

 そうして、二人がしっかりと結び合い、よい家庭を築いて、ご両親に親孝行をしてほしいと思います。

 

3.夫婦の役割分担

 

 夫婦の役割分担についてです。男と女はともにそれぞれ神の御子の似姿として造られましたから、ともに尊い存在であることに変わりはありません。しかし、役割の上ではちがいがあります。神は最初にアダムを造り、エデンの園を耕し守るという務めを与え、食べ物に関するさだめ、善悪の知識の木のさだめを与えてから、そのふさわしい助け手として妻をお造りになりました。このことは、夫婦、その家庭において、神様は契約のかしら(代表)を夫に与えられたことを意味しています。3章にまいりますと、妻のほうが先にサタンの誘惑に破れて、夫も共犯者となってしまいますが、神様が最初に責任を問うたのは妻に対してではなく、夫に対してであったことから見ても、神様がアダムをこの最初の家庭の契約のかしらとして扱っておられることがわかります。アダムは、神の前に家庭の代表として立ち、神から受けた祝福と、善悪の知識の木の定めを妻にしっかりと伝えてリーダーシップをとる責任があったのですし、また、妻が過ちを犯したことについても、彼には相当の責任がありました。

このように神様は夫婦において、夫にリーダーシップをおゆだねになりました。妻は、そのリーダーシップを尊重することを神様から求められています。ですから、聖書は繰り返して妻に命じています。「夫に従いなさい」と。

「5:22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。 5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。 5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」(エペソ5:22-24)

「3:1 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。

 3:2 それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。

 3:3 あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、 3:4 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」(1ペテロ3:1-4)

 そもそもリーダーシップが成り立ち、機能するためには、条件があります。それは、リーダーの下にある者が、リーダーをリーダーとして認めて尊重することです。そうでなければ、リーダーシップは発揮しようが無いのです。妻が夫のリーダーシップを認める気がまったく無いのに、夫がリーダーシップを発揮しようとすれば暴君になってしまいます。そういう意味で、妻が家庭の秩序の鍵を握っているのです。妻が夫のリーダーシップを尊重すれば、夫は妻を愛し導きやすく、妻もまた、自分のもとに子どもたちを導きやすくなります。しかし、妻が夫のリーダーシップを拒否し、子どもの前でも夫のことをこき下ろすようなことをしていると、夫はリーダーシップを放棄するか暴君になってしまいます。争いの絶えない両親を見ていると、こども不安定になってしまいます。

 夫は妻をキリストが教会を愛したようにいのちをかけて愛し、妻は夫を教会がキリストに従うように従うときに、そこに家庭の調和が生まれます。

 

4.夫婦の結び合い

 

 次に夫婦が結ばれることについて。

 神様はありとあらゆるものを造って来られて、造るたびに「よしと見られた」「よしと見られた」と繰り返して来られました。ところが、最初にアダムを造られたあと、「人がひとりでいるのはよくない」と言われました。そうして、彼に「ふさわしい助け手」として妻を与えます。

 「相応しい助け手」とはどういう意味でしょうか。神様は、彼女を単に助け手とは呼ばず、「相応しい助け手」と呼ばれたのです。神様はアダムを造ったとき、彼のところにもろもろの家畜、鳥、獣たちを連れてこられました。こうした動物のなかでも、牛や馬やロバといった家畜であれば、アダムが園を耕し守るための「助け手」にはなることができました。けれども、「相応しい助け手」になることはできませんでした。

「ふさわしい」とやくされることばネゲッドは「差し向かいの」という意味のことばです。つまり、単に労働力という意味の助けではなく、人格的な交流のある助け手、語り合う助け手、ともに祈ることのできる助け手ということです。

 

このような人格的出会いとしての交わりのために、神様は彼女をアダムをあばらから造られました。そのとき、神様はアダムに眠りを下されました。

「2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。」

 神様はなぜアダムにいわば全身麻酔で眠りを下されたのでしょうか?それは、もし彼が目を覚ましていて自分のあばらから妻が造られるのを見たならば、なんだかロボットのような感じがするからでしょう。人間として完成してから、彼女はアダムの前に出現しました。それは、人格と人格の出会いがそこにあるためでした。神様は、そういう配慮をなさったのですから、夫は自分の妻を自分の道具や家畜のように考えてはなりませんし、そういう行動をしてはなりません。ずいぶんひどい言い方をあえてしましたが、かしらとして立てられている夫は、実際、そういう過ちに陥る危険があるのです。

 

結び

 神様は妻をアダムのあばらから造りました。

 神は妻をアダムの頭から造らなかったのは、妻が夫を支配するために造られたのでないからです。

 又、神が妻をアダムを足から造らなかったのは、妻が夫に踏みつけられるために造られたのでないからです。

 神は妻をアダムのわき腹から造られました。それは、妻がアダムのたくましい腕によって守られ、愛され、また、アダムのハートにもっとも近くあるためでした。

 

 この夫と妻の関係は、キリストと教会の麗しい関係の型なのです。ですから、クリスチャン夫婦は、その生き方を通して、キリストと教会の麗しい関係を表現するという崇高にして重い使命があるのです。

文化命令

創世記1章26-2章17節

 

2016年4月27日 苫小牧主日夕礼拝

 

1 神の代理人として

 

1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

 1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 

 人間は、神の造られた有限な被造物という点においては、他の被造物と同じです。けれども、ただ人間だけが神の御子において神に似た存在として造られたという点においてほかの被造物と違っています。神に似た存在であるということは、どういうことを意味しているかというと、人格的なものだということだと前回は大雑把な言い方をしましたが、もう少し創世記の本文自体から見ると、「初めに神が天と地を創造した」と1節にあるように、人間にはものを造る創造力というものがあります。ただし無限の神は無から万物を創造したのであり、有限な人間は材料がなくては何も造れないという違いはあります。これは他の生き物にはない特徴です。他の生き物は、自然のなかの自然の一部ですが、人間は自然界に存在しないもの、例えば、茶碗、やかん、自動車、飛行機、書物、鉛筆、パソコンなどさまざまなものを創造してしまいます。

 また、神は「光あれ」という御言葉を発せられて、光が造られ、さまざまなものが造られました。神はことばを発せられるお方です。また、三位一体のお方として「われわれのかたちに人を造ろう」とおっしゃったように、ことばをもって人格的な交わりをなさるおかたです。「まるで神は人間みたいだな」と考えるのはさかさまで、事実は、私たち人間が神みたいなものとして造られたので、言葉を語り、言葉で人格的な交流をすることができます。神様のように完全なことばは持たないとしても、私たち人間もまたことばを話し、ことばをもって交流をもち理解しあうことができるという特徴をもっています。

 また、神はさまざまなものをお造りになるプロセスの節目節目において、「よしとされた」ということばが出てきます。満足のお気持ちを表わされたということです。万物の創造主である神は、全知全能の超スーパー・コンピューターというふうな心のないモノではなく、「よし」という満足のお気持ちを持つ、そういうお方です。神の御子にあって、神に似た者として造られた私たち人間もまた、感情というものをもっていて、「よし、これはいいなあ」という感想を持つことがあります。お料理を作っていて、下ごしらえが出来て「よし」、サシスセソの順番で味をつけて「よし」というわけです。私たちにも感情というものがあります。

 知性、意志、感情、創造力などを私たちは与えられています。これは私たちが、御子イエスにあって神の似姿であるからこそです。

 

2 文化命令・・・「支配せよ」「耕し守りなさい」

 

 こうした、特別な力を神様が私たちに与えたのには目的がありました。それは、神の被造物の支配あるいは管理をさせることでした。これは「文化命令」とか「労働命令」とか呼ばれます。文化命令は、創世記では1章と2章に記されています。1章における文化命令は次のとおり。

1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

1章の命令には「支配せよ」とあるのが、たぶん気になる人が多いのではないかと思います。人間が暴君として振舞って環境破壊することを許しているように誤解するからです。このとき、アダムは堕落していませんから、被造物に対して暴君となるわけがなかったのです。

創世記1章は、人間が神の似姿として造られたことを教えることによって、人間は単なる被造物の一部ではないから、他の被造物を拝んではならない、むしろ、正しく知恵のある王としてこれらを治めよと教えるためです。

人間は、愛と知恵と力に満ちた無限の神の似姿として造られたのですから、有限とはいえ愛と知恵と力をもって、被造物世界を治めるべきなのです。そのことは2章の文化命令を読むとよくわかってきます。

2:4 これは天と地が創造されたときの経緯である。

  神である【主】が地と天を造られたとき、 2:5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。 2:6 ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。

 2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。 2:8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。 2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。

 2:10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。 2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。 2:12 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。 2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。 2:14 第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。

2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

 

創世記2章15節は、その被造物支配の内容について教えています。

2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

 「耕す」こと、「守る」ことがその内容です。耕すと訳されていることばは、アバドと言いますが、その派生語がエベド「しもべ」ということばです。そこからわかるように、アバドというのは、日本風にいえば「畑の世話をする」という感じの意味です。主イエスが腰に手ぬぐいをぶら下げて、弟子たちの足を洗ってくださった。あのようなサーバントの心を持った支配なのです。

 神様は、私たち人間が、被造物のうちに秘められた可能性を引き出すことを期待していらっしゃいます。この箇所から2点指摘しておきます。

2:5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。

 ここは面白いですね。神が雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったから、野の潅木も草もなかったというのです。人間くらいいなくても木も草も生えるだろうといいたいとことです。この箇所がこの表現をもって言おうとしていることは、人間が土地を耕すことによって、林も野の草も生えてくるのだということです。人間には被造物のうちに秘められている可能性、力を引き出す役割があります。それが文化命令です。

 また、10節から14節のうち特に11,12節には、金、ベドラハ、シマメノウといった資源について書かれていることを見ると、神様はそういう地下資源を人間が利用することを期待していらっしゃるのだと思われます。やはり、被造物支配のありかたは、大地の中に神様が秘めておられる可能性を引き出す、そういう役割を果たすお世話をするということです。文化命令ということです。

 

「守らせた」とはどういうことでしょうか。人間は神が託された被造物世界の可能性を引き出して利用してよいのですが、それと同時に、これを保全することをしなければならないという意味です。ただ環境を破壊して欲しいものを搾り取るだけ搾り取るというやりかたの利用をしてはいけないということです。たとえば、農業という産業には、単に作物を得ることだけでなく、環境保全という重要な役割があります。水田はお米を作るだけでなく、そこに水を蓄えることによって、地下水を涵養しますし、また、一気に水が流れ出して洪水になることを防ぎます。また、農業における土壌についても同じものばかり造っていたら必ず連作障害が出てきます。神が造られた世界は多様な世界なので、その摂理と調和した農業を工夫することが必要で、輪作体系をくむとか、律法にもあるように定期的に土地を休ませることも「守る」ことです。さらに農業は景観を美しく保つという役割もあります。単に食糧生産のためにのみ農業があるという、狭い経済一本やりの了見で農業をみてはなりません。耕し、かつ、守る働きが農業にはあるのです。

 金、ベドラハ、シマメノウに限らず、石炭や石油といった地下資源を用いることも許されています。けれども、それが環境破壊にならぬようにという配慮が必要です。空気を汚し、水を汚し、土壌を汚して、もはや人間も動物もまともに生活できなくなってしまうような地下資源の利用の仕方は、神のみこころに背くことです。そういうことを考えると、原子力の利用というのは、燃料であるウラン採掘と精製の過程からして、その工程に携わる人々の健康障害と環境破壊とをもたらしますから、神のみこころにかなっているとは言いがたいと思います。

神様は文化命令において、「耕し、利用する」と同時に、「守る」ことを求められました。

 

3 善悪の知識の木・・・神の主権の下で

 

 造り主である神は、アダムをエデンの園に置き、文化命令をお与えになったときに、食べ物は園のどの木から食べても良いとおっしゃると同時に、園の中央にある善悪の知識の木からだけは食べるな、と制限をお与えになりました。

 2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 人間は善悪の知識の木を食べてはならないとは何を意味していたのでしょうか。それは、神が私たちの上に主権をもっていらっしゃるということです。私たち人間は、自分で何が善であり、何が悪であるかを決める権限をもっておらず、ことの善悪は神が主権をもってお定めになることなのだということです。

 私たちはなぜ父母を敬わなければ成らないのか。それは神が「あなたの父母を敬え」とお命じになったからです。なぜ人を殺してはいけないのか。それは神が「殺してはならない」とお命じになったからです。なぜ姦淫をしてはいけないのか。それは神が「姦淫してはならない」とお命じになったからです。・・・・人間における基本的な善悪は、神がお定めになるもので、これを人間が論じて勝手に変えてはいけません。それは自分を神とする思い上がりです。善悪の知識の木から取って食べることは、「私には神などいらない。私が私の神なのだ」という反逆を意味したのです。

 そういうわけで、神様はすべての園の木をアダムに委ねましたが、ただ善悪の知識の木だけは食べるなと禁止されたのでした。私たちは、神様が、私たち人間を御子にあってご自身の似姿として造ってくださり、私たちが神代理としてこの被造物世界を、耕し利用して、かつ、守ることが任務として与えられていることを学んできました。私たちの信仰生活は、主の日の教会だけのことでなく、学校で勉強することも、家を掃除することも、食べることも飲むことも着る事も、趣味も、すべてにわたって、神様の前でのことなのだということを覚えましょう。私たちの生活のすべてが礼拝の生活なのです。

 「ですから、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」1コリント10:31

人間、御子の似姿

創世記1:26-2:3

コロサイ1:15,16

 

2016年4月17日 苫小牧福音主日朝礼拝

 

創世記1:26-2:3

1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

 1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。

 1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。

 1:31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

   2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。

 2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

 2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」

 

コロサイ1:15,16

「1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。 1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」

 

 

 

1 創造の六日間

 

 創造主なる神は、七日間にわけ、順序だてて世界を創造なさいました。

第一日目に光、第二目に大気と上の水と下の水、第三日目に陸地と植物

第四日目に天体、第五日目に空の鳥と海の中の生き物、第六日目に陸上動物と人間

そして第七日目は安息を宣言されました。

 この七日間をよく観察すると、第一日目の光と第四日目の天体、第二日目の大気と水と第五日目の空の鳥と海の生き物、第三日目の陸地と植物と第六日目の陸上動物と人間が対応しているのは興味深いことです。用意周到に順序立てて作られたことは確かなことです。また、早く造られたものが、後で造られるものの土台を成していることはあきらかなことです。つまり、万物のもとであるエネルギーとしての光が最初に造られたこと。また、大気や水をまず用意してから植物を造り、植物を造ったあと動物が造ったことなど、順序が逆では創造は失敗に終わったことは明らかなことです。神様は海もないのに魚を造ったり、空気もないのに人間を作ったりはなさりませんでした。人間が一番最後に造られたということは、人間はすべての被造物という環境にに最も依存して生きているものなのだということです。

 また、ある人たちはこの1日、2日という「日(ヨーム)」を地質学的な何億年という非常な長期間の区切りを意味しているのだと解釈して、現代の地質学や進化論との調和を図っています。いわゆる有神論的進化論ですが、これは非科学的です。理由は簡単で、たとえば3日目に種をもって実を結ぶ草木が造られたとあります。多くの植物は昆虫によって受粉をして花を咲かせて実を結ぶものです。ところが、その昆虫たちはいつ造られましたか?昆虫とは第6日目「はうもの」です。もし「一日」が何万年、何億年であるとすると、植物は昆虫がいないので、種を残すことができなかったはずです。

 この世界はマクロの次元から、ミクロの次元まで、人間のあさはかな知識では及びも付かない素晴らしい創造主の知恵をもって見事に組み合わされているシステムなのです。有神論的進化論者が救われていないなどというつもりはありませんが、創世記の記述と自然のありさまを観察すると、46億年もかけて偶然が偶然を生んで徐々に無秩序が秩序をなしてきたと考えることはいかにも不合理で、短い期間に被造物のシステム全体は組み上げられたと読むことが、理にかなっています。

 

2 人間と他の被造物の類似性と区別性

 

 さて、あらゆる被造物が整えられてから、一番最後に造られたのが人間です。次に人間と他の被造物との類似した面と、異なっている面とを考えましょう。

 

(1)類似性

 人間と他の被造物との類似性のひとつは、いずれも神の作品であるということです。そして、人間も他の被造物も、ともに土を材料として造られたものなのだという点においても類似しています。植物は死ねば枯れて土に帰り、動物も死ねば土に帰ります。人間もまた同じです。人間を物質的側面から見ますと、体重70キログラムの人で、水52.5キログラム、炭素12.5キログラム、カルシウム1.4キログラム、リン700グラム、イオウ175グラム、その他アルミニウム、鉄、銅など微量で、価格としては1000円程度にすぎません。あなたはいくらでしょうか。

 人間は牛や馬やネコや森の木々や鯨やホッキ貝など他の被造物と同様に、有限な被造物であって、ある時現れて、やがて土に返っていくそういう存在なのです。その意味で、人間は謙遜であるべきです。しかも、人間は最後に造られた被造物として、あらゆる被造物に依存して生きています。そういう意味で、人間は他の被造物が仲間であることを忘れてはいけません。この点を近代人は忘れて、自然界を単なる人間の都合のために好き勝手に収奪して環境破壊を引き起こしています。人間だけが神を賛美しているかのように思いあがってはいけません。他の被造物も、神の栄光を賛美しています。

詩篇148

148:3 主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。

 148:4 主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。

 148:5 彼らに【主】の名をほめたたえさせよ。

  主が命じて、彼らが造られた。

 148:6 主は彼らを、世々限りなく立てられた。主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。

 148:7 地において【主】をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。

 148:8 火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行うあらしよ。

 148:9 山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。

 148:10 獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。」

 

 また、人間は神の前に徹底的に謙遜であるべきです。他の被造物と同じように、有限であり、神が許してくださるかぎりにおいて存在しているにすぎないのですから。神は、全被造物に対して、絶対的な主権をもち、生殺与奪の権をもっていらっしゃいます。私が以前住んでいた信州小海町に世界的に著名な陶芸家池端さんという知り合いがいました。引越しの時もはなむけにマグカップのペアをくださいました。陶芸家は粘土を練り上げて、形をつくり、乾かして三日三晩、釜に入れてこれを焼き上げます。そうして焼き上げた上でこれは気に入らないと、惜しげもなく打ち壊してしまいます。創造者は、その被造物に対して絶対の主権をもっているのです。私たちは、神の前に有限な被造物です。神の前にへりくだるべきです。

 

(2)人間と他の被造物との区別性

 しかし、人間は他の被造物とは決定的に異なる点があると、聖書は同時に教えています。それは、26-28節に記されているところです。類似と区別の両方を見るということは、先週、統一性と多様性という世界の基本構造から学んだことでした。人間と他の被造物との区別性とはなんでしょうか?

1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

 1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 人間の他の被造物との決定的な区別は、人間だけが神のかたちにしたがって造られたという点です。他の被造物にしても、創造主の作品である以上、そこに創造主の影が落ちています。たとえばモナリザという絵には、ダビンチの個性が表れているというように。ローマ書が「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる」(ローマ1:20)というように、野に咲く一輪の花、夜空にめくるめく星星にも神様の影は投じられています。けれども、人格的な神のかたちにおいて造られたのは人間だけです

 

 では、「神のかたち」とは何を意味しているのでしょう。聖書はなんと教えているのでしょう。新約聖書はこの「神のかたち」は、三位一体の第二の人格である御子イエス・キリストなのだと解き明かしています。コロサイ1:15

「 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」

 だから、この創世記1章26節で神は「われわれ」とおっしゃっているわけです。父なる神は、御子と相談をなさったわけです。そうして、御子の似姿として人間を創造なさいました。人間はもともと、御子のかたちにしたがって創造され、善悪の知識の試練を経て完成され、神の国を相続するものとして造られたのでしょう。

 人間は本来、御子キリストをモデルとして造られました。そして、御子は父なる神と瓜二つですから、御子に似たものであるということは、とりもなおさず父に似た者であるということです。アダムが神様に背いて以来、その人間に刻まれた神のイメージは壊れてついてしまったのですが、それでも、人間は本来、キリストに似た者としての影を残しています。人は人を憎み続けると、目が黄色くなるのだそうです。それは人を憎むと脳に毒素が発生して、発生した毒素が肝臓にたまるので、黄疸になるからです。もし人間が悪魔に似た者として造られていたら、人を憎めば憎むほど体調がよくなるでしょう。けれど実際には、人間は人を愛し、人を赦すときに、健やかな心とからだでいることができるのです。ということは、人間は、やはり、憎むためでなく、愛するために造られているということを意味しています。人間は、愛の神、キリストの似姿として造られているのです。なんとありがたいことではありませんか。

 

3 神と人との区別性

 

 とはいえ、人間は神ではありません。人間はキリストにあって神に似た者として造られましたが、区別があります。類似性とともに、区別性を認識することが肝心です。

神と人間はどこが違うでしょうか。まず、先にも言ったとおり、神は創造主であって、私たち人間はその被造物なのだということです。画家が自分の絵に対して絶対の主権をもつように、陶芸家が土を練り上げてつくった自分の作品に絶対の主権を持つように、神は私たち被造物である人間に対して絶対の主権をもっておられます。この世に私たちを生まれさせ、この世にある年数の人生を与え、御心に従ってこの世から引き上げて、私たちの人生に審判をなさる。創造主である神は、私たちに対して主権をもっていらっしゃいます。

また、神は無限ですが、人間は有限な存在です。時間的には神は永遠者であり、人間はあるとき現れてある時消え去るべきものです。空間的には、神はあまねくいずこにもいらっしゃるお方で、神はアンドロメダの星のかなたにも、この会堂にも同時に臨在なさることがお出来になります。しかし、私たち人間は苫小牧にいて、同時に札幌にいるということができません。知性ということでいえば、神はすべてをご存知つまり全知のお方ですが、私たち人間には知性はあってもそれはごく限られたことを知るにすぎません。人間はたしかにキリストにあって神に似た者として造られたのですが、有限な存在です。

真の神は無限の人格でいらっしゃいますが、私たち人間は有限の人格なのです。その人格性というところで、私たちは神様と共通していて、私たちの祈りを神は確かに聞き届けてくださいます。また、神様は私たちにみことばをもって語りかけてくださいます。しかし、私たちには神のみこころを知り尽くすことは決してできません。御国に入って後もそうです。私たちは己の分をわきまえるべきです。

まとめれば、真の神は無限の人格的創造主であり、私たちは有限な人格的被造物ということです。

 

4 安息日の目的

 

2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

 2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

 万物は6日間で造られましたが、神は世界は6日間で完成したと言わず、第七日目の安息をもって完成したと宣言なさいます。神は七日目を安息の日として定め、創造のわざを休まれました。神が七日目は休まれたので、キリストにあって神の似姿として造られた私たちもまた七日に一度を神の前に憩う日とするのです。旧約時代は週の第七日目、新約時代は週の第一日目というちがいはあるものの、七日に一度ということでは同じです。

 この日、神の前に兄弟姉妹とともに神を賛美しみことばを聞くことによって、私たちはキリストの似姿として、キリストの姿を目指して、一歩前進するのです。この安息日をないがしろにすると、私たちは神を見失い、したがって、神の似姿である自分がどういう存在であるかを見失ってしまいます。主の日に、神の御前にでるとき、私たちは本来の自分の姿がどんなものであるのかを思い出して、人間性を回復するのです。

 

むすび 

アウグスティヌスは『告白』の冒頭に有名な祈りを書いています。

「あなたは、わたしたちをあなたに向けて造られたので、わたしたちの心は、あなたのうちに安らぐまでは平安を得ないからです。」

人間は神に立ち返るときに初めて平安を得るのです。それは、神が私たちを、神のかたちである御子において、ご自分の似姿として造ってくださったからです。人は神でないものに、自分の平安の拠り所を求めようとします。それは、あからさまな偶像礼拝であったり、人間の造った宗教であったり、あるいは仕事であったり、お金であったり。けれども、創造主である神は私たちをご自分に似たものとして造られたので、私たちはまことの神のうちにのみ、平安を得ることができるのです。

私たちはキリストにあって、創造主に立ち返ることが許されたものたちです。このキリストにある創造主の交わりにある平安に生き、そして、あかししてまいりたいと思います。

また、もし創造主のうちにある平安を知らない方が、この中にいらっしゃるなら、おすすめします。次のように祈ってください。

「私はあなたにいのちをいただきながら、あなたに背を向けた人生を歩んできました。今、その罪を悟りました。この罪のために救い主イエスをくださったことを感謝して受け入れます。」

 このように心から祈るならば、この世の誰も何者も与えることの出来ない平安を、造り主があなたに与えてくださいます。

摂理をわきまえて生きる

創世記1章1-2章3節

2016年4月10日

 

 1.造り主のみを礼拝せよ

 

 私たちが聖書を釈義するときにまず求めるのは、執筆者の意図です。つまり、執筆者が読者に何を伝えたかったのかということを探ることです。そこで、聖書釈義の一つの原則は、その聖書記者が直接的な意味で読者として想定した人々に対して何を伝えようとしたのかをまずは把握することが大事です。では、聖書記者であるモーセが想定した読者とはだれでしょうか?それは、彼がエジプトから苦心惨憺の末に連れ出し、ここまで導いてきたイスラエルの民でした。イスラエルの民はヤコブの時代以来エジプトに430年間も留まっていたのですから、相当にエジプトの宗教の影響を受けていました。今から400年前と言えば江戸時代の最初期です。エジプトは、太陽、大気、ヘビ、ナイル川、カエル、犬、フンコロガシなど何でも神々として拝む生活をしていました。エジプトは当時の世界では最高水準の文明を持っていて、ピラミッドの建設など現代から見ても困難なことを成し遂げていましたが、殊に神については偶像礼拝の迷信の闇の中にいたのです。

 創世記1章が、光、大気、海、陸地、植物、天体、魚類、鳥、昆虫、犬・猫などの動物、そして、人間について教えていることの第一は、これらはすべて神の被造物であるということです。どんなに素晴らしいものも、創造主の作品であるかぎりの素晴らしさであって、これらを創造主に代わる神々に祭り上げることは大間違いの偶像崇拝という罪です。

 「造り主こそほめたたえられるべきお方です。」

 

2.被造世界の構造

 

 では、神様はこのご自分の作品である世界を配慮し、導かれます。これを神学のことばで摂理といいます。配剤、配慮、按配などと訳せることばです。創世記1章には、神ご自身と神が造られた世界の構造があきらかにされています。神のご摂理をわきまえて私たちが生きるために、これを知ることは有効なことです。3点学びたいと思います。

 

(1)御子が世界の存在を支えている

第一にわきまえるべきことは、御子がこの世界を無から創造されたということです。父なる神の御旨にしたがって、御子は万物を創造なさったのです。そして、御子が万物を支えていらっしゃいます。したがって、御子が終わりの日にさばきを行うとき、天地万物は消え去って跡形もなくなります。御子が意志するかぎりにおいて、世界は存在しているのです。このことについて、そしてコロサイ書1章15-17節が教えています。

1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。

 1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

 1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

 先も申しましたように、この世界は有限なものであって、ただ御子イエスが許しているかぎり存在しているのです。ですから、この世界の山や川や動植物を神格化して拝むことは愚かな偶像礼拝なのです。

 

(2)世界は、多様性と統一性を帯びている

 三位一体の神が造られたこの世界は、実に、多様な被造物から成っています。「種類にしたがって」と記されていますが、私の住む北海道はこれから待ちに待った春が訪れて、次々に花々が咲き始めます。フクジュソウフキノトウに始まって、オオイヌノフグリとかナズナ、ツクシ、スイセン、クロッカス、チューリップとさまざまの花が咲き乱れます。実に多様で豊かです。

 しかも、これらさまざまな被造物はバラバラに存在しているわけではなく、互いに助け合い、全体的な一致、調和をもって生きて、生かされています。先に申しましたように、一粒のイチゴができるにしても、大きくは地球の公転と自転、小さくは土の中の微生物たちの営みがあって、一粒のイチゴが実るというふうに、宇宙全体が総動員されているのです。

この多様な世界はひとつひとつが活き活きと生かされ、そして、ひとりひとりは全体との調和のために生きていくということ。

1コリント12:25-27

 多様性と統一性という意味ある豊かな存在の原則は、ありとあらゆるものに適用されるものです。例えば、お料理ひとつ取ってみても、多様な食材がそれぞれの味わい、歯ごたえ、のど越し、香り、色彩をもっていて、それらが全体として調和して一つのおいしい料理というものができるでしょう。あるいは、音楽においても、同じ音しか鳴らさなかったら、それは音楽にはならないでしょう。一つのテーマのもとに、多様な展開がなされていて、全体が調和していてよい楽曲というものが成り立つのだと思います。あるいは、一つの俳句という世界短いといわれる詩であっても、小さなことば一つ一つが、全体として調和してその作品の世界を造っています。たとえば、

 しづかさや 岩にしみいる 蝉の声

 また、社会のあり方を考えてみると、全体主義というものがあります。これは統一性のみを偏重した社会のあり方です。一人ひとりの思想信条の自由を無視して、国家こそが全国民の生きる目的であり、いのちをささげるに値するものであるという一種の偶像崇拝です。他方、その反対が個人主義というか利己主義です。これは多様性のみを偏重して、全体のことを考えようとしない態度を意味しています。全体だけを強調すると、個の意味が失われてしまいます。個だけを強調すると世界はばらばらに断片化して、これも意味が失われてしまいます。個と全体、いいかえると、多様性と統一性、この両方があって世界は豊かな意味があるのです。三位一体の神様の造られた世界だからです。

 

3.歴史性

 

 多様にして統一的な、神の造られた多様にして統一的な世界のもう一つの知るべき特徴は、時間があるということ、その歴史性ということです。

 創世記1章は、この世界の歴史性・時間性ということについて、2つの大事なことを教えています。

 

(1)今日という日は特別の日である

 第一は世界には始まりがあり、終わりがあるという事実です。聖書を知らなかったギリシャやインドといった世界では歴史というものが意識されていませんでした。どちらも、時間を円環の永遠として考えていたといわれます。円環ですから始まりもなければ終わりもなく、同じことの繰り返しなのだというのです。円環の上には特定の点が存在しませんから、今日という日は特別な意味のある日ではないということになります。伝道者の書の冒頭に記されたソロモンのことばは、歴史を始め、これに終止符を打つ神を見失った人の「すべてがむなしい」という感慨を述べています。

1:4 一つの時代は去り、次の時代が来る。

   しかし地はいつまでも変わらない。

 1:5 日は上り、日は沈み、

   またもとの上る所に帰って行く。

 1:6 風は南に吹き、巡って北に吹く。

   巡り巡って風は吹く。

   しかし、その巡る道に風は帰る。

 1:7 川はみな海に流れ込むが、

   海は満ちることがない。

   川は流れ込む所に、また流れる。

 1:8 すべての事はものうい。

   人は語ることさえできない。

   目は見て飽きることもなく、

   耳は聞いて満ち足りることもない。

 1:9 昔あったものは、これからもあり、

   昔起こったことは、これからも起こる。

   日の下には新しいものは一つもない。

 1:10 「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。

 しかし、聖書は第一目に世界が始まったことを教えています。そして、その歴史には最後の審判があって終わりが来ると教えています。つまり、円環ではなく一つの線分としての歴史観が聖書の歴史観です。一つの線分の上では、すべての点は特定の点です。そのように線分的歴史観においては、2016年4月10日という「今日」という日は二度とやってくることのない特別な日です。創造のプロセスを観察すると、それがわかります。神はこの世界を、「世界あれ」とおっしゃって1度に造らないで、「夕があり朝があった」と繰り返して7日にわけて造られました。全能の神の力をもってすれば、もちろんこの世界を、「世界あれ」とおっしゃって一瞬のうちに造ることもおできになったのですが、神様は、1日目に光、2日目には大気と上の水と下の水つまり生み、3日目には陸地と植物、4日目には月星太陽、5日目には海の生き物と空飛ぶ生き物、そして、6日目には陸上の動物と人間を造られたのです。神様はこの記述をとおして、この世界には歴史性があるのだと教えていらっしゃるのです。

 

(2)繰り返しつつ終末に向かって前進する

 創世記1章が時について教えている第二のことは、時は始まりと終わりがあるのですが、それは単純な直線ではなくて、繰り返しつつ前進するつまり螺旋的な構造をしているということです。それは、神様が月と太陽と地球の回転を時計となさったことから来ています。

1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。 1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。

 一週間の始まりの主の日、私たちは神様の前に新しい気持ちになって、「よし今週こそ」と何か目標を立てたりします。けれども、一週間がたちまたも成果を上げることができず、しょんぼりしてしまいますが、また主の日を迎えて悔い改めて再出発するということを繰り返しつつ、前に少しずつ進んでいきます。それが一ヶ月という単位、1年という単位でもそうです。

 たしかに2016年という年は、主イエスが治めておられるこの歴史において、ただ一度しかない年です。また、今日というのもまた歴史のなかでただ一度かぎりの一日なのです。そのことを覚えれば厳しい緊張感をもって、この日を無駄にせぬように、この1年を無駄にせぬようにすごさねばという気持ちになります。あなたの人生においても、この日は、ただ一度きりです。一日一日、主イエスにお目にかかる日が近づいています。

 しかし、一日を失敗して終わってしまったとき、一晩休んで目を覚ましたとき、「いざ、もう一度」とやり直すことが許されている。悔いの多い一年であったとしても、新しい年を迎えて、今年こそとやり直すことを主は許していてくださるのです。ピリリとした厳しさとともに、失敗したなら悔い改めてやり直せばよいとおっしゃる主の慈しみを覚えます。

 

まとめと適用

 私たちは有限な人間であり、その知性も有限なものですから、神様の摂理のすべてを理解できるわけではありません。けれども、神様が教えようとしていらっしゃるところまでは知ることができますし、知るべきです。

 三位一体の神様の造られた世界そして、私たちの人生は、多様にして統一的な世界であることを学びました。私たちは多様性と統一性の両立ということのたいせつさを、教会生活でも、日常生活の営みにおいても弁えて生きてゆきたいと思います。そして、時をわきまえて生きるということです。

 しかも、この世界は歴史的世界であり、私たちの人生もまた歴史的なものです。それは始まりがあり、終わりがあるということです。今日という日は二度と来ないという緊張感、しかし、失敗したらもう一度やり直しなさいという慰めに満ちた、神のご支配の下における人生です。

 主にお仕えする人生の選択に迷うとき、三つの問いを神様の前で問うことをお勧めしたいと思います。

 第一は、私にもできることはなんでしょうか?ということです。神様が、あなたをキリストのからだのうちにお召しになった以上、あなたにも必ずできることがあります。

 第二は、私にしかできなことはなんでしょうか?ということです。神様は、一人として同じ人間をおつくりにはなりませんでした。だから、あなた特有のものがあるでしょう。

 第三に、今ならばすることができるけれど、10年後にはできなくなることはなんだろうかと考えることです。私たちは歴史的な存在です。年をとれば出来なくなることがあるのです。

 

ラケルの死、イサクの死

創世記35:16-29   

2017年3月19日 苫小牧夕拝

 

 ここには二人の親の死が記されています。ヨセフとベニヤミンの母ラケルの死と、エサウとヤコブの父イサクの死です。それぞれに親として子を思う情愛を痛切に感じさせる場面です。

 

1.ラケルの死――ベン・オニでなくベニヤミン

 

 ラケルという女性の最期を記す個所ですから、彼女の生涯を振り返って見ましょう。一言でいえばラケルは、たいへん女性らしい女性でした。ラケルはその魅力も、その短所も女性らしい女性でした。ヤコブは、そのラケルの女らしさに惹かれたのでしょう。

 ラケルの信仰という面についていえば、特筆されるような素晴らしいことは、はっきり言ってほとんど見えません。彼女はもちろん真の神を知り信じていましたが、残念ながらその信仰にはパダン・アラムの地の迷信的な部分も含まれていたようです。彼女はヤコブとともにカナンに向かう時、父親のテラフィムをくすねてきたとあります。決して誉められたことではありません。

 ラケルはヤコブとパダン・アラムの井戸で出会いました。そして、ヤコブは一目惚れして接吻し、ラケルもヤコブに好意を抱くようになりました。相思相愛の二人は七年後、結婚するのですが、こまったことに父の策略にはめられて姉レアもいっしょに結婚することになってしまいました。ラケルはヤコブに愛されましたが、それでも姉レアを激しく嫉妬しました。姉レアがヤコブの子どもを次々に生んだからです。それでラケルは結婚した当初から、ひたすらヤコブのために子どもを生むことを切実に願い、そのために涙を流したり、怒ったり、そしてついには命まで差し出したのでした。

 ラケルは夫ヤコブに愛されていることだけで満足できず、子を得ることでも姉レアに勝ちたいと願いましたが、不幸なことに、どうもラケルは多くの子どもを生めるほど丈夫な体質ではなかったようです。おそらく多産な姉レアは体格もがっしりとして牝牛を思わせるようなタイプで、ラケルはその名が雌羊を意味するように体格はきゃしゃだったのでしょう。

 そんなラケルでしたが、おそらく結婚後十数年もたって、ついに一人の男の子ヨセフを得ました。30:22‐24。どれほどの喜びだったことでしょう。ヨセフという名は「加える(アサフ)」という意味の名前で、「神様がもう一人の子を加えてくださるように」というラケルの願いがこめられた名前でした。つまり、ヨセフだけでなく、もう一人生まれますようにということです。

 そして、願いどおりに、さらに数年後、もう一人の子がラケルのおなかに宿りました。一族がヤコブの故郷に帰り着いて間もない頃のことでした。ラケルはもちろん喜んだでしょう。けれども、生来それほどからだの丈夫でなかったラケルのからだには、高齢出産はたいへんこたえました。しかも、ヤコブの一家は半分は遊牧の生活ですから、水場、草地をもとめてしばしば移動をしなければならないのが宿命でした。身重なラケルにとっては、それがたいへんだったようです。

 ベテルを旅立ち、エフラテに行く道の途中で激しい陣痛がラケルを襲いました。ヤコブは大慌てで仮の産屋を作り、出産となったわけです。産屋から何時間も何時間も聞こえ続けるラケルの苦しみの叫びがしても、男親であるヤコブがなすすべもなく、産屋の前を右に左にうろうろし、座り込んでは頭を抱えているありさまが目に浮かぶようです。

 たいへんな難産でした。長い長い時間がかかって、ようやく赤ん坊が出てきてオギャアと声を上げました。男の子でした。「心配なさるな。今度も男の子です。」と産婆さんが息も絶え絶えの母ラケルに声をかけました。

 赤ちゃんは生まれたけれど、ラケルのいのちが危ないことに気づいた産婆はヤコブを呼びました。「ご主人様、奥様が、奥様が!」ヤコブは慌てて産屋に入ってきます。すると、意識の薄くなっていくラケルが「ベンオニ(わたしの苦しみの子)・・・」とつぶやいて、息を引き取ってしまったのです。恋女房の死にヤコブがどれほど嘆いたことか、想像に余りありますが、聖書は沈黙しています。行間からヤコブの号泣が聞こえてきそうです。沈黙が、その嘆きの大きさをまざまざと表現しています。

 ヤコブは、生まれたばかりの我が子を抱いてヤコブは「ベンオニ」と呼びかけようとして、「いや」とかぶりをふって言いました。「いや、ベニヤミン!」と。その意味は、「幸いの子、わが右手の子」。最愛の妻ラケルがそのいのちに代えて生み出した子であり、その苦しみも嘆きも尋常でなかったのです。さればこそ、この子は母の苦しみを幸いにかえて生きて欲しいという父の願いでした。

 

 このベツレヘムの母ラケルの嘆きはこんな三節だけにすぎませんが、後々まで伝えられて預言者エレミヤも用い、そして、2000年後、ベツレヘムヘロデ大王によって三歳以下の子どもが虐殺されてしまったときにも、このラケルの嘆きが引用されています。

「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声、ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」(マタイ2:18)

 ラケルという名は聖書では、わが子を思い、わが子のために苦しみ嘆く母のイメージなのでしょう。 「もう一人の子を加えてください」という祈りに主はお答えになったのであり、この子と引き換えにラケルのいのちは召し上げられたのでした。ラケルの生涯は、妻として夫に子を設けることをもって貫かれ、そのためにいのちまでも差し出すことをもって全うされたのでした。

 

 アダムとエバが堕落したとき、神は女性に向かって一つの呪いのことばをかけられました。「わたしはあなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子をうまなければならない。」このことばは、すべての母となろうとする女性にかけられているのですが、ラケルにおいては最も典型的にこの苦しみが経験されたのでした。

 ラケルはたいへん女性らしい女性であると申しました。それは必ずしも良い意味ではありませんでした。しかし、ラケルの女性らしさは、この死の瞬間の嘆きのなかで最も輝いたともいえます。我が子を地上に生み出すために、おのれの命さえも危険にさらし、あるいはあえて差し出すという女性のみがなしえる犠牲的愛ですラケルは女性としての弱さもたくさんもった女性でしたが、子のためにいのちを犠牲とするという母の愛の典型的な姿をもあらわしたのです。

  地上において最も神の愛に近い姿をしているのが、母の愛であるといわれます。子のためであれば、自分のいのちも進んで差し出すような愛。そこに、私たち罪人のためにいのちをお捨てになったキリストの愛に似たものがあるのです。ラケルの嘆きと死は、そういう意味ではキリストの十字架の受難の型でした。

 

2.イサクは「高齢のうちに、満ち足りて」死んだ(新共同訳)

 

 27-29節.イサクは180歳にして主のもとに召されました。29節のことばは、翻訳によってやや異なる。

新改訳では「イサクは息が絶えて死んだ。彼は年老いて長寿をまっとうして自分の民に加えられた。彼の子エサウとヤコブが彼を葬った。」

口語訳では「イサクは年老い、日満ちて息絶え、死んで、その民に加えられた。その子エサウとヤコブとは、これを葬った。」

新共同訳では「イサクは息を引き取り、高齢のうちに満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子のエサウとヤコブが彼を葬った。」

 ここでは新共同訳を採りたい。「満ち足りて」と約されるサベーアということばは、満足させる、満ちたらせるということ。

 息子たちが仲たがいをしていたときには、イサクはたいそう心配したでしょう。自分の親としての至らなさが、こういう結果を生んだことを思えば、毎日毎日、慙愧の念にさいなまれたことでしょう。しかし、今や「イサクは満ち足りて死んだ」とあります。それは、二人の息子エサウとヤコブとが仲直りをし、二人で自分を見送ってくれるからです。イサクとリベカが何かをしたのではありません。彼ら夫婦は子育てについていろ失敗が多かったのです。しかし、ただ、神様がヤコブをこの地に連れ戻してくださり、ただ神様が二人を仲直りさせてくださったのです。神の恵みというほかありません。彼は神の恵みによって満ち足りていたのです。

 イサクとリベカ夫婦は、父は兄エサウをえこひいきし、母は弟ヤコブをえこひいきしました。そこに彼らの子育て、兄弟関係つくりには大きな過ちがありました。そのために息子たちが仲たがいをして、弟息子は家出同然になってしまったのです。しかし、こうした親の過ちにもかかわらず、神様は最後にこの二人の息子たちに和解を恵んでくださいました。もし二人が憎み合っているという状態のまま、イサクが世を去らねばならなかったとしたら、それはほんとうに残念なことだったでしょう。心残りだったでしょう。しかし、主がこの二人に和解を恵んでくださったので、これは父イサクにとって何よりの慰めでした。まさにイサクは満ち足りて死んだのです。

 

 親として世を去るときに、一番気がかりなのは子どもたちの行く末のことです。親孝行は人間にとって神がお与えになった義務です。親があなたのことが心配で死んでも死にきれぬようなことのないように生きることはたいせつなこと。特に親の心配の一つは、子どもたちが仲良く生きて欲しいということでしょう。親は自分が生きている間は、なんとか保たれている子どもたちであっても、自分が去った後にはどうなることかと心配で仕方ないというケースも少なくありません。

 小海で会堂を建ててくださった大工の棟梁とお話をしていたら、ご自分には二人の息子がいるけれども、弟は大工になるが、兄貴には大工は決してさせないと言われました。それは先代の家訓だそうです。兄弟が同業者となるならば、いずれ利害をめぐる醜い争いが起こりかねないからです。親はこんな風に配慮、心配をするものです。 事実、親の葬式のときに財産の相続争いを始める親不孝な子どもたちはいくらでもいます。

 「あなたの父母を敬え」と十戒の第五番目にありますが、その実践の一つは兄弟仲良くするということです。神を愛しているというならば、兄弟とけんかして親を悲しませてはいけません。キリストを信じているというならば、姉妹同士が陰口を言い合うようでは親の心はどれほど悲しむことでしょう。近くに住む兄弟もいるだろう、遠くに住む姉妹もいるかもしれない。もし恨まれるようなことが思い当たったら、先にクリスチャンになったあなたの方から和解することが義務です。これが神様から皆さんへの今週の宿題である。

 

結び

 幼い頃から仲の悪かった息子たちの数十年ぶりの和解をみて、心満ち足りて世を去ったイサクの幸いな最期。自分のいのちと引き換えに、我が子を生み出したラケルの壮絶な最期。一見すると、ずいぶん異なる二つの死の姿ですが、子を思う親の死の姿として尊いものだと思います。そして、いずれにもそこには父なる神が、子としてくださった私たちに対して注いでくださっている愛の姿の影がほのみえるのです。

 「愛は神から出ているのです。」とありますから、すべての愛は神の賜物なのです。もちろん人間の愛は、不完全で小さく罪のしみさえもこびりついているようなものにすぎませんが、それでも神の愛の影なのです。

 我が子のためにいのちを投げ出した母ラケルの愛は、神から注がれている愛の影を見るのです。私たちのために十字架にいのちを投げ出してくださった御子イエス様の愛を。

 不完全な父イサクは、我が子たちの仲たがいに晩年心痛め続け、ついに恩寵によって子たちの和解をみて満ち足りて世をさりました。子どもたちが互いに愛し合って生きることを切望する父なる神の愛を思わされます。

いきいきと生きる

ヨハネ福音書4:1-26

2017年3月 苫小牧伝道礼拝

序 

昨年まで私が暮らしていた信州は、日本一の長寿県でした。理由は、きれいな空気、労働、そしてきれいな水だろうといいます。アルプスの森に注いだ雨が地下にもぐって湧き出してくる豊かな水です。苫小牧も引っ越してきて、おいしい水だなと思いました。豊かな森に恵まれているからですね。人間のからだの6割から7割は水でできているそうですから、水は私たちにとって、必要不可欠です。朝、起き抜けに水を一杯飲むという習慣だけで健康を回復したなどという人もあるくらいです。

 イエス様は、この必要不可欠な水のたとえをもって、意義深い人生について語られました。きょうはこの個所からみことばに学びます。

 「しかし、サマリヤを通っていかなければならなかった」とあります。まずこのことばに着目。 イエス様はユダヤ地方からガリラヤ地方へと弟子たちと旅をしていらっしゃいました。イスラエルの国は当時、一番南部がユダヤ、中部がサマリヤ、そして北部がガリラヤとなっておりました。ですから、普通に考えるとユダヤからガリラヤに行こうとすれば、サマリヤを通っていくということになるでしょう。けれども、ユダヤ人たちはユダヤからガリラヤに行くのにわざわざヨルダン川を渡りまして、東に迂回してペレヤ地方をとおりサマリヤを通らないでガリラヤに行くのが普通であったそうです。ですから、イエス様が「サマリヤを通っていかねばならなかった」というのは、地理的にそうであったということではありません。

 では、どういう意味でイエス様は「サマリヤを通ってかなければならなかった」のでしょうか。その理由はただ一つ。ここに登場する一人の女性に会うという、そのことのためにイエス様はサマリヤを通っていかなければならなかったのです。もちろん、この女と神様の御子であるイエス様は初対面です。しかし、イエス様の側ではこのサマリヤの女のことをよくご存知だったのです。この人に神様のくださる永遠のいのちを伝えるために、どうしてもイエスさまはサマリヤを通っていかなければなりませんでした。

 サマリヤの女というのは、決して身分の高い女性でも、道徳的に立派で名の通った人でもありません。むしろ、名もない一人の女性にすぎません。あえて名があるといえば、悪名高いという意味で近所の人たちにその名は知られていました。彼女は道徳的に問題のあったのです。けれども、イエス様はこの一人の女に会うためにサマリヤを通っていかねばならなかったのです。宗教とは人が神を探し求めることだとすれば、福音は宗教の廃棄です。神様が人間を捜し求めて来られたのです。

 

1.時は正午――女の素性

 

 さて、イエス様はサマリヤに入られるとスカルのヤコブの井戸の傍に腰をおろされました。乾燥地帯では井戸を中心に町が形成されるわけで、このヤコブの井戸も1800年ばかり水を出し続けてここに町が営まれていました。時は6時頃とありますが、現代でいえば12時、正午です。太陽が頭の真上にあって、暑い盛りでした。イエス様が井戸のかたわらにおりますと、そこに一人の女が頭に甕を載せて水を汲みにやってきました。

 井戸の水を使う生活をしたことのある方はいらっしゃるでしょうか。私の母は戦時中、父親の仕事の関係で壱岐の島に住んでおりまして、井戸水で生活したそうです。長女でしたから、一番厳しく育てられました。母に与えられた朝一番の仕事は水汲みです。井戸と台所の間を何度も行き来して水を大きなかめに入れ、これを一日の生活用水とするのです。

ところが、この女性は昼日中に井戸に出てきました。彼女は、誰にも会わないですむときを見計らって水を汲みに出てきたのでした。彼女は、後を見れば分かるように5人の男を遍歴し、今は、六人目と同棲しているという不身持な女でした。イスラエルでは純潔ということが尊ばれましたから、こういう素性の女性は軽蔑されました。それで彼女としては、人目をはばかって、真昼間に井戸にやってきたのでした。

 すると、今日に限って井戸の傍らに見知らぬユダヤ人の男が、腰をおろしています。そして、言いました。「水を飲ませてください。」そこで彼女は言いました。「あんたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤ人の女のあたいに飲み水をくださいなんていうのさ?」ユダヤ人はサマリヤ人とは付き合いをしなかったのです。この女の化粧とか髪の結い上げ方とか身なりを見れば、問題ありげであることは、明白でした。

「あんたたちが嫌っているサマリヤ人、しかも、その中でも、きたならしいものでもみるようにいつもあたしのことなんか鼻にもかけないくせに、どうして声をかけるのさ?」と彼女は言うわけです。

 

2.飲んでも渇く水

 

 するとイエス様は不思議なことをおっしゃいました。10節。

「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

ついさっき、「水をくれ」と言いながら、「わたしは水を持っているよ、求めるならばあげようか。」とおっしゃるのです。しかも、その水は「生ける水」であるというのです。

 でも、この女はイエス様のいう「生ける水」というのがただの物質的な水のことだと思い込んでいるので、とんちんかんなことを言います。11,12節。

4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。

 4:12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」

 

 そこでイエス様は、「生ける水」とは、物質的な水のことを言っているのではないことを明らかにされます。13節14節。

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。

 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 

 イエス様は物質としての水をきっかけとし、そこから飛躍して、ご自分が与えようとしている神とともに生きる聖霊に満たされた人生のすばらしさ、意義深さについて話していらっしゃるのです。いのちの水とは、イエスを信じる者に与えられる聖霊を意味しています。他方、「この水を飲むものはだれでも渇きます。」とイエス様がおっしゃるのは、ちょうどサマリヤの女があの男、この男と渡り歩いてきたそのむなしい人生を象徴しているようです。

 彼女は「この人ならば、あたしのことを幸せにしてくれるにちがいない。」と甘い夢を抱いて最初の結婚をしました。けれども、現実の結婚生活はそんなに甘いものではありませんでした。半年が経ち一年も経つと、「こんな人じゃあたしは幸せにしてもらえない」と、わかれてしまいました。   けれども、しばらく一人でいると、また心の渇きを感じます。「誰かあたいをかわいがってくれないかしら。」と思っていると、今度こそ素敵な男を見つけました。「前の男はだめだったけれど、今度はあたしのことをかわいがってくれるにちがいないわ。」と彼女は、二人目の男といっしょに暮らし始めるのです。けれども、二カ月、三ヶ月、半年たつと、「こんな男なら、前の人のほうがましだったわ。」と思い始めます。そして、また別れてしまいました。  もう男はこりごりだと思ってしばらくいるのですが、またしばらくすると所在無く、「誰かあたいのことを愛してくれないかしら。」と渇きを覚えるようになるのです。・・・・こんなことを繰り返しているうちに、今は六人目の男と暮らしているのです。

 「この水を飲むものは誰でもまた渇きます。」と主イエスがおっしゃる通りでした。

 イエス様が井戸水にたとえておっしゃろうとするのは、世の与える満足です。この女性は男の愛によって満足を得ようとしましたが、決して満たされることはありませんでした。・・・わたしは本日の聖書の箇所を思いめぐらしていたら、明け方にふと頭のなかに「こんな女に誰がした・・・」という終戦直後に流行った、あの歌の一節が浮かんできました。あの歌には悲惨な時代の背景があってのことなのですから、簡単に片づけられるとは思っていませんが、とにかく自分がこんな女になってしまったのは、あの男のせいだ、この戦争のせいだ、あの親のせいだ、あの先生のせいだ・・・とみな人のせいにしていると、そのひとは自分の責任はとらなくてよいので気楽かもしれませんが、結局、依存的で奴隷的な生き方をしていくほかないことになってしまいます。他人に過度に期待し、依存するから、相手にうるさがられてしまう。そして裏切られたと思って失望し恨み続けるという生き方なのです。これは恋愛にかぎらないことで、あの人のせいで自分はこうなった、この社会のせいで自分はこうなたと、「こんな女に、こんな男にだれがした」と嘆き続ける奴隷的な不自由な生き方になってしまいます。

 神様は私たち人間を自由な存在として造られました。ほんとうは、同じ出来事に出くわしても、ある人は右の道を選び、ある人は左の道を選ぶ自由があるのです。

 

3.生ける水

 

 この女性に対して、イエス様は「生ける水」(いのちの水)である聖霊を与えようとおっしゃるのです。イエス様のくださる聖霊にはいくつかの特徴があります。

(1)聖霊を受けるものは決して渇くことがない

 この女性は、男性に依存しました。人間はどんなに良い人でも限界があり、罪があります。人間に期待しすぎると、きっとがっかりさせられる日が来ます。お互い、罪ある限界のあるものであることをわきまえ、受け入れあって生きることが大切です。ほんとうに私たちを満たすのは永遠のお方だけなのです。

 人間とは、とても不思議な存在です。人間のからだは有限な物質からできています。ところが有限なものの塊にすぎないはずの人間は、絶対、無限、永遠へのあこがれを持っているのです。ソロモンはまた言っています。「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」

「永遠への思い」というのは、言い換えると変わることのない人生の意義を求めて渇いているということです。しかし、この世にあるどんなものに永遠のものを求めても、それは必ず空しくなるのです。なぜなら、この世にあるものはどれもこれも有限で、永遠不滅のものではないからです。男女の愛はうつろいます。親の愛さえも有限です。人間の手がける事業もやがて壊れます。子どもも巣立つ日が来ます。

けれども、主イエスはおっしゃいました。

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。

 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 

主イエスが与える水は、渇くことのない人生を与えるのです。むなしくならない、永遠に意義ある人生を与えようと主イエスはあなたにおっしゃるのです。

 

(2)聖霊は泉となってあふれる

 主イエスが与えるという聖霊のもう一つの特徴は、その人のうちで泉となりあふれて、周囲の人々を潤すことです。イスラエルには、二つの湖があります。北にあるのがガリラヤ湖で、レバノン山脈に降った雨が地下水となってこんこんと湧き出ています。魚が豊富なので漁業は ガリラヤ地域の基幹産業となっています。このガリラヤ湖の水があふれてヨルダン川を南へ南へと下ってゆき、そしてユダヤ地方の死海に注ぎます。この死海は、海抜マイナス405メートルという世界で最も海抜の低いところにある湖です。当然のことながら水は注ぎ込むばかりです。結果、この湖にはヨルダン川をはじめとするいくつかの川が運んでくる塩分が蓄積して、塩分30パーセントの塩水になっています。海水は3パーセントですから、どれほど濃いかわかりますね。当然、魚もなにも住むことはできない死の湖になってしまっています。

 これはサマリヤの女を象徴するようです。サマリヤの女は、飲んでも渇き、そして常に「誰かが私を愛してくれないかしら」「だれか私を幸せにしてくれないかしら」という常に求めるものでした。サマリヤの女は、愛されることばかり考えていました。いったん不幸になると「これはあの人がけちだから」とか「あいつが乱暴だから」という風に被害者意識のなかに暮らすことになるのです。

 しかし、イエス様のくださる永遠のいのちの水は、その人のうちでこんこんと湧き出す泉となります。それはちょうど底が抜けてしまった池の下に突然水脈が開けて、こんこんと湧き出すようなものです。そのように神様を知り、神様と人格的な交わりを持つことができるようになると、あなたの人生はこんこんと湧き出す泉のようになります

  イエス様を信じると、その人の内側、その一番深いところに泉が開けます。そして、愛されることばかり求めていた人が、むしろ愛することを望むようになります。被害者意識に縛られて奴隷のようにしていた人が、むしろ主体的に責任をもって自由人として生きていくことができるようになります。それは責任ある自由人の誕生ということもできます。環境に心縛られ、人に心縛られていた人が自分で自分の人生に勇気をもって進もうとするようになるのです。

 

4.生ける水(聖霊)を受けるには

 

(1)自分の罪を認める

 さて、サマリヤの女はイエス様がおっしゃる生ける水が欲しくなりました。飲んだら二度と渇くことのない水、あふれて周囲の人々までも潤す水、そのいのちの水がほしくなりました。彼女の中では、イエス様のおっしゃることが半分わかり、半分は単に物質的な水のことと思われるようなあいまいさですが、ともかく彼女は「その水をください」(15)と言ったのです。

 そうしますと、イエス様は「さあ、どうぞ。飲みなさい。」とおっしゃったかというとそうではありませんでした。イエス様は何をおっしゃったか。「あなたの夫をここに呼んできなさい。」(16)とおっしゃったのです。彼女が隠しておきたい人生の恥部、その罪を指摘なさったのです。彼女はしどろもどろに「私には夫はありません」と言いましたが、イエス様は全部ご存知で、彼女がしてきたことをおっしゃいました。

 

 イエス様がくださる生ける水は実にすばらしい水です。聖霊です。それは飲めばほんとうにたましいを潤し、もはや渇くことがないのです。もうあれやこれやむなしいものを求める必要はありません。それどころか、この水を飲めば周囲をも潤すような人生を送ることができるのです。 けれども、それをいただくには準備をしなければならないとJesus様はおっしゃっているのです。準備とは、主の御前に自分の罪を認めて告白することです。あの人が、この人が、というのは横において、「神様の前で私の罪は」と考えるのです。

 あなたにはこのサマリヤの女のような問題は、あるいはないかもしれません。けれども、人には誰にも言えない、自分でも認めたくないような罪や弱さがあるものです。それをイエス様の所にもってくることです。

 

(2)イエス様を救い主、神の御子と信じて受け入れる

 このあと礼拝の場所をめぐってのちょっと面倒な問答があります。ユダヤ人はエルサレム神殿で礼拝を捧げるのが正統であるといい、サマリヤ人はゲリジム山で礼拝をささげると言ってきた。今日はくわしく立ち入って説明することはしません。

肝心な点だけ申しますと、エス様の時代、新約時代が来たからには、地球上の特定の場所ではなく、世界中で、霊とまことによる礼拝がささげられるのだとおっしゃるのです。

つまり、エス様が来られ、世界中の民族が肌の色や言葉や国籍を超えて、真の神様を礼拝する時代が来たのだとおっしゃっているのです

 その宣言があまりにもすごい内容なので、こんなことを宣言する権限があるのは、数千年待ち望まれた救い主キリストだけだろうと女は思いました。25節。するとイエス様はこともなげに「あなたと話しているこのわたしがそれです。」とおっしゃったのです。私がその救い主キリストであるとおっしゃるのです。

 まことの神は、万物の創造主でありますから、日本の神、アメリカの神、イタリヤの神、インドの神がいるわけではありません。すべての民族国語を超えて、すべての民族をおつくりになったお方が、真の神であり、世界中の人々がこのお方にこそ礼拝するときが来ているのです。イエス様は、そのことを宣言する救い主です。

 

むすび

 イエス様から聖霊をいただくために必要なことは、結局、己の罪を認めて、イエス様こそ救い主キリストであると信じることにほかなりません。イエスさまは神様の前に「ごめんなさい」という人のために十字架にかかって償いをしてくださり、その償いが成し遂げられたことの証拠として三日目に復活されました。神様の前にごめんなさいと頭をさげ、イエス様という救い主をありがとうございますと受け取るならば、あなたも、永遠のいのちへの水が、腹の底から湧き上がってくる素晴らしい人生に入ることができます。