水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

   永遠の信頼

詩編16編                     

 

  ダビデのミクタム

1,神よ私をお守りください。私はあなたに身を避けています。

2,私は主に申し上げます。「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。」

3,地にある聖徒たちには威厳があり私の喜びはすべて彼らの中にあります。

4,ほかの神に走った者の痛みは増し加わります。私は彼らが献げる血の酒を注がずその名を口にいたしません。

 

5,主は私への割り当て分また杯。あなたは私の受ける分を堅く保たれます。

6,割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい私へのゆずりの地です。

7,私はほめたたえます。助言を下さる主を。実に夜ごとに内なる思いが私を教えます。

8,私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。

9,それゆえ私の心は喜び私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。

 

10,あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

11,あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。

 

 

 「神を礼拝する者は、聖霊と真理によって礼拝しなければなりません。」 4月から礼拝について学んでまいりまして、その中で、賛美歌は音楽をともなう祈りであることを学びました。ですから、祈りにおいて意味のないことばを繰り返してはいけないように、賛美においても歌詞をよく理解して歌うことが大事であることを確認しました。それで、私たちの教会では詩篇歌をもちいていますから、詩篇歌の歌詞を学ぶために、前回から詩篇歌を味わい始めました。本日は詩篇16です。歌の方では、7節以降に曲がつけられています。「われ常に主をほめまつらん。なれは諭しを授けたもう。・・・・」です。

あとで歌います。

 

1、主への信頼(1-4節)                                                                              

0 表題

 表題に「ダビデのミクタム」とあります。ミクタムということばは意味不明なことばですが、刻まれた歌、黄金の歌、贖いの詩と言った解釈があります。作者はダビデです。

 

(1)戦いの人生で、神、主に信頼する 1、2節。                                  

1**,よ私をお守りください。私はあなたに身を避けています。**

2**,私はに申し上げます。「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。」**

 

ダビデは、神に守りを求めます。1節。そして、信頼を表明します。2節。その呼びかけが1節では「神エル」であり、2節では太字の主YHWHです。エルは神の力強さ、YHWHは神の親しさを表現します。力強い神に「お守りください、身を避けます」といい、そのお方は親しくやさしい「主」です。このお方のもとに身を避けるものは幸いです。 力強く、かつ、やさしいお方を、わが神とすることの幸いです。

ダビデの生涯は、戦いにつぐ戦いの生涯でした。羊飼いをしていたときには、羊たちを守るために、ライオンや狼と戦っていました。 ペリシテ人ゴリヤテとの戦い以降、サウル王の部下となってからは、外国の軍隊との戦いでした。それで華々しい戦果を挙げたので、国民はあげてサウルは千人を打ち、ダビデは万人を打ったとほめそやしました。

そのために、サウル王の妬みを受けて、今度はサウル王の軍隊につけねらわれることになり、安心して枕するところもなくなってしまいました。王というのは、統治者であり裁判官であり警察なのです。本来、神は、国民が安心して生活をすることができるために、王を立てたのです。王は剣をもって敵方民を守り、社会秩序を維持し、また、徴税をして富の再分配をして、国民生活の安定をもたらすのです。ところが、サウル王がおかしくなると、ダビデは王の軍隊ににいのちをつけ狙われる立場になったのです。裁判官も警察も悪党になってしまいました。ダビデはもはや安心して眠ることもできない立場です。そういう経験をしたことがあるでしょうか。

地上に守ってくれる存在がいなくなって、ダビデは神を避難所とし、主にのみわが幸いはあります、と信仰の告白をしています。

1,よ私をお守りください。私はあなたに身を避けています。

2,私はに申し上げます。「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。」

 

 

(2)聖徒の交わりの幸い  3~4節   

                                                      

 次に詩人は、主なる神を見上げた向けた視線を地に移します。

3**,地にある聖徒たちには威厳があり私の喜びはすべて彼らの中にあります。

 その目に映るのは、地にある聖徒たちです。ともに真の神をあおぐ兄弟たちです。サウル王に追いかけまわされているときの状況でいうならば、ダビデに従ってきた部下たちを意味するのでしょう。ほとんどの人々は、サウル王に憎まれるダビデを見捨てました。先日まで、飛ぶ鳥を落とす勢いだったダビデ王にくっついていた多くの人たちは、今は、ダビデを見捨てました。しかし、たとえ損であっても、神を畏れるダビデに忠誠を尽くすべきだと考えた部下たちは、わが身の危険を顧みず、ダビデについてきました。彼らは、主が立てたものとしてダビデを信頼して、ついてきたのです。「地にある聖徒たちには威厳があり私の喜びはすべて彼らの中にあります」とダビデが言うのはもっともです。ダビデの周りにいるのは、目先圧倒的に不利な状況の中にあるダビデに、なおもついてきた勇者たちです。威厳ある者たちです。世の富や出世や保身のためでなく、神の義に生きようとする威厳ある聖徒です。ダビデは、よくぞついてきてくれたと喜びがあふれます。

キリスト者となったとき、見回せば、尊敬すべき主にある兄弟姉妹たちとともに生きることができる幸いは、なんと素晴らしいことでしょうか。教会生活に慣れてくると、これが当たり前のように思われるかもしれませんが、神の民、教会の中にあって生きられることは実は素晴らしいことです。

クリスチャンになる前、中学生そして高校生になって生意気盛りになっていたころ、学校の教師たちのうちに尊敬できる人を見いだせず、親を見てもがっかりし・・・といった状態でした。自分をわきまえない高慢だったのです。19歳の夏、増永俊雄牧師に出会いました。神の前に自らの罪を認め、そのうえで「私は神の栄光のために生きています」と先生はおっしゃいました。こんな大人がいるんだと驚きました。

 数か月のち、教会に通うようになり、クリスチャンの人たちを見ました。教会には、誠実に生きようと励み、他者には極力寛容でやさしく、かつ自分には厳しく生きようとしている人たちがいました。社会的には相当の地位にありながら、教会ではしもべのように仕えている兄弟たちもいました。神の前では、どこまでも自らの罪を認めているへりくだった人たちでした。・・・この世は虚飾と虚栄に満ちています。教会のような世界は、それまで見たことがありませんでした。・・・「地にある聖徒たちには威厳があり」というのはそういうことです。自分のようなものが神の民の中に加えられているのは、なんと光栄なことでしょう。

また、30歳過ぎたころ、宣教師のかたたちとの交わりの機会が結構多かったのですが、ぼんやりと「外国人はいい人ばかりだなあ」とぼんやりと思っていたのです。ところが、あるとき気づいたのです。私の知り合いのアメリカ人、カナダ人、韓国人、スウェーデン人たちが、特別の人たちなのだ、ということに。私の知り合いの外国人というのは、みなクリスチャンで宣教師たちでした。大戦後、神様の召しを受けて、故国を後にして、日本人たちの救いのために人生をささげた人たちだったのです。 30歳のころ、私は朴ヨンギ先生の引率で韓国にツアーで出かけました。これが初めての朴先生との出会いでした。朴先生が日本宣教にきた当時は、韓国人でありながら、日本に宣教に来るということは到底、理解されない時代でした。先の戦争で、国を奪い、民族の誇りを奪い、教会を激しく弾圧したのが大日本帝国でしたから、かの国では親日派イコール売国奴とされた時代です。その困難を乗り越えて、日本の救いのために朴先生は召しを受けて来られたのでした。

私の知る外国人というのは、そういう特別な人たちだったのです。この世の栄誉を捨てるどころか、この世の人々から軽蔑されても、なお神の福音宣教の使命、神の愛に生きようと決断した「威厳ある聖徒たち」でした。地にある聖徒たちには威厳があり私の喜びはすべて彼らの中にあります。

 

 力強く、やさしい主なる神を見上げ、その幸いを思い、威厳をもって神の前に共に生きる兄弟姉妹とともに生きる喜びを味わえば味わうほど、これを捨てて去った人々の悲惨を思わないではいられません。

4**,ほかの神に走った者の痛みは増し加わります。

私は彼らが献げる血の酒を注がず その名を口にいたしません。

 

 「血の酒」を注ぐというのは、カナンの地に昔から蔓延していた人身御供をともなうモレクという偶像神への礼拝を意味しています。まことの神を捨て、偶像の神々に走るものは結局滅びてしまいます。カナンの地の習俗にそまって滅びた人々をダビデは思い起こしているのでしょう。日本における最大の偶像はマモンです。警戒しましょう。

 

 主が相続地である

 

(1)地上の祝福・・・主はわがゆずりであ 5~8節

 そして、詩人ダビデは、まことの神に信頼する民があずかる祝福を語ります。まず5-9節ではこの世での祝福です。

5**,主は私への割り当て分また杯。あなたは私の受ける分を堅く保たれます。

6**,割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい私へのゆずりの地です。

 

イスラエルの11の部族は、約束の地カナンで、それぞれの相続地を得ました。けれども、12部族の中でレビ族だけには相続地がありませんでした。なぜか?それは彼らにとって主ご自身が、ゆずりの地であったからです。彼らは神殿礼拝の奉仕者となるために、相続地をもたなかったのです。いや、実はすべての聖徒にとって、まことの相続地は主ご自身なのであり、地上の相続はそのシンボルにすぎないことをレビ族は示したのです。その理解が、このダビデのミクタムには表れています。主は私への割り当て分また杯。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するから。」と主イエスがおっしゃいました。

主を相続としていただいているということは、主が昼でも夜でも、どんな所にいたとしても、ともにいてくださるという事実です。そして、聖書のことばをもって私たちに助言を与えてくださいます。主の日ごとの説教によって、あるいは日々の聖書通読の中で御霊が語ってくださいます。

7**,私はほめたたえます。助言を下さる主を。実に夜ごとに内なる思いが私を教えます。

8**,私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。

9**,それゆえ私の心は喜び私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。

 

  私たちがつらい春の野を行くようなときも、嵐の海を渡るようなときも、元気なときも、病気のときも、死ぬ時であっても、主がともにいてくださるのです。天地の主であるお方が、私たちの味方であるなら、何を恐れる必要があるでしょうか。だから、心は喜び、たましいは楽しみ、体も安らかです。

 

(2)永遠の祝福 10~11節

 9節まではこの世における主の祝福が語られましたが、結びである10節、11節で、主の祝福はこの世では終わらない、永遠のものであることが語られます。

10**,あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

11**,あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。

  使徒の2章31節には、このみことばがイエス・キリストの復活において成就したと語られています

29**,兄弟たち。父祖ダビデについては、あなたがたに確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。**

30**,彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。

31**,それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。**

32**,このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。

 

 

 復活、それはキリストに連なる聖徒たちにおいても同じようになります。キリストは初穂であり、私たちはそれに続く者たちですから。キリストは長子であり、私たちはその兄弟姉妹ですから。「我は、聖霊を信じる。聖なる公同の教会、聖徒のまじわり、罪の赦し、からだのよみがえりを信じる」です。

 

結び

 この地上の生涯を、威厳ある聖徒たちの中で、主なる神を見上げて生き抜くならば、この地上の生涯を終えて死を迎えることもまた幸いなことです。主に望みを抱く私たちにとって、死は永遠のいのちへの門であるからです。

 その時、神は私たちを御子イエスとともにその右に着座させてくださいます。地上の祝福ばかりか、永遠の祝福までも用意されたるキリスト者の人生の幸いよ!