水草牧師の説教庫

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律法から解放されて

ローマ書7章 1-13節                                                                                     

2018年5月13日朝拝説教

 序 

 ローマ人への手紙は、6章では「罪からの解放」ということがテーマでした。「私はもはや罪の奴隷ではない、神の奴隷である」という自覚的な信仰が大事なことを学びました。まあ、わかりやすい話だと思います。

 ところが、7章に進むと、驚いたことに今度は「律法からの解放」ということがテーマとなります。律法とは十戒をはじめとして旧約聖書に記された、神の数々の命令のことです。「あなたにはわたしのほかにほかの神々があってはならない。」「あなたな自分のために偶像を作ってはならない。」「あなたは主の聖名をみだりに唱えてはならない。」「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」「あなたの父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証をしてはならない」「あなたのとなり人のものを欲しがってはならない」。どれもこれも当然正しい命令です。クリスチャンが律法から解放されたとはどういう意味なのでしょう?

 混乱を防ぐために先に答えを言っておきますが、<律法から解放された者として、律法の要求を十二分に満たす>というのが、クリスチャンの生き方です。クリスチャンが聖化の道を歩んでいくためには、罪からの解放だけでは十分ではありません。律法からの解放が必要です。

 

1.厳格な夫=律法

(1)たとえの説明

 6章では罪と人の関係は、主人と奴隷に例えられましたが、7章では律法と人との関係は夫と妻との関係になぞらえられます。

 花子さんは、太郎さんと結婚しました。ところが、結婚してみてわかったのですが、太郎と彼女はまるで性格が合いません。といって、太郎が悪い人であるわけではなく、いつも正しく厳格で、一つの間違いもしないのです。そして、妻にいろいろのことを要求します。しかも、その要求は横暴な要求ではなく、いちいち正当な要求なのです。けれども、妻花子さんの方は何もしないでいたい方です。夫太郎は細かい点までいちいち正確で几帳面ですが、妻の方はでたらめです。こんな夫婦がどうしてうまくいくでしょうか。

 さて、花子さんは失敗したと思って、もう一人の男三郎の妻になりたいのです。三郎がいいかげんなわけではありません。三郎が花子に求めることは、今の夫よりももっと大きいのです。でも、大きな違いがあります。それは、三郎は、自分が求めることを妻が行おうとするときに十分に優しく励ましそして助けてくれるのです。

 けれども、律法では、夫が生きている間に他の男に嫁ぐならば、姦淫を犯したことになります。では、どうすればよいでしょうか。夫が死ねば再婚しても、姦淫にはなりません(3節)。ところが、太郎は決して死にません。殺しても死なないほど頑健です。

 では、夫が死なないなら、花子さんが夫から解放されるためにはどうすれば良いでしょう。自分が死ぬことです。自分が死んでしまえば、夫との契約は終わりますから再婚しても姦淫にはなりません。死んでしまえば再婚なんかできませんが。

 いったいこの譬えは何を言っているのですか。前の夫太郎さんは律法を指しています。第二の男三郎はキリストを指しています。そして、花子さんは私たちクリスチャンのことです。

 

(2)律法は私たちに自分の罪と無力を認めさせる

 イエス様を信じてクリスチャンとしての歩みを始めた人は律法を遵守して生活して行こうとします。「あなたにはわたしのほかにほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。主の御名をみだりにとなえてはならない。安息日をおぼえてこれを聖なる日とせよ。あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。嘘をついてはならない。隣人のものを欲しがってはならない。」(出エジプト20章)

 けれども、一生懸命律法を守ろうと日々努力してみると、自分がどうしても守ることのできない律法につき当たります。パウロの場合は、十戒の第十番目でした。7節から13節。

 7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。 7:8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。

 7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。 7:10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。 7:11 それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。

 7:12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。 7:13 では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。

 

 家内の小学生時代のある日、学校でどんぐりを材料に工作をすることになりました。子供たちはどんぐりを十個ずつ持参することになっていました。「みなさん、机の上に自分のどんぐりを出してください。」と先生がおっしゃいました。「はーい」と皆がそれぞれ机の上にどんぐりを出しました。すると先生がおっしゃいました。「先生は職員室に忘れ物をしたので取りに行って来ます。でも、注意しておきますが、どんぐりを決して鼻の穴に入れてはいけません。」先生が教室を出て行かれました。ところが、クラスの中に大久保ひろし君という男の子がいました。この子は「ドングリを鼻の孔に入れちゃいけないんだ」とつぶやきながら、鼻の穴にはめました。他の子がゲラゲラ笑います。ひろし君も笑った瞬間、つい息を吸い込んだのでドングリが鼻の奥に入ってしまったのです。さあたいへん。大騒ぎになって病院に連れていかれました。  

 パウロ十戒の第十番目「むさぼってはならない。」という律法に捕まえられたのです。ユダヤ教徒のまじめな家庭に育ったパウロは9つの戒めは守っているつもりでした。第十番目の律法を本気で実行しようとしはじめるまでは、パウロは自分は正しい人間であると思っていました。けれども、本気で律法を実行しようとしはじめたときに、彼は自分がどんなに罪人であるかがわかりました。「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、その男奴隷、女奴隷・・・あるいは、その所有のいっさい。」パウロは、毎日毎日、律法の第十番目の戒めを唱えながら、一所懸命に「むさぼりの心」を起こすまいとしますが、そうすればするほど、むさぼりの思いが湧きあがってくるのをやめることができないことに気づきました。

 けれども、律法が悪いのではありません。律法を行うことができない私たち人間のうちに巣食っている罪が悪いのです。あの厳格な夫が悪いのではなく、グウタラな妻が悪いのと同様です。(12、13節)

 パウロにも、ついに律法を守ることによってクリスチャン生活を続けて行くことはできないと気づく日がきました。「ああ私は、ほんとうに惨めな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」 同様に、私たちもクリスチャンとして生活していくにあたって、自分の力で律法を守って生きようとするならば、ついに挫折するでしょう。また挫折しなければ、ほんとうにイエス様のたすけを求めようとしないほど、私たちはかたくなです。この「私は正しい」と主張してやまない自我を打ち砕き、キリストに「助けてください」と呼ばせるのです。そのために、律法が働きました。この「私は正しい」と主張してやまない自我こそ罪の根っこです。

 

(3)クリスチャンは死んだので、すでに律法からの解放されている

 では、どうしたら律法から解放され、キリストにあって生きることができるでしょう。夫が死んでほしいと思っても死なないように、律法から解放されたいと思っても、律法は永遠のものです。「この天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画も決してすたれることはありません。」(マタイ5:18)と言われる通りです。

 では、律法から解放されるためにどうすればいいのか。ここが大事です。私たちが死んでしまえば、律法の要求から解放されます。そして、実はキリストを信じキリストに結ばれた人はすでに死んでいるのです。したがって、私たちはキリストを信じたとき以来、律法の要求から解放されているのです。「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。」(7章4節a)。バプテスマ(洗礼)を受けた人は、もうお葬式も終わっているのです。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」(6:4)。

 律法は「あれをしてはならない。これをしなさい。」と要求します。そして、その要求に答えない者は罪に定められ、罪は、死を要求します。しかし、キリストはすでに私たちの罪に対する律法の要求にしたがって、死なれました。キリストを信じる私たち自身もまた死刑になってしまいました。律法に対して死んでしまったのです。死んだ者に対してはもはや、律法はなにも要求できません。私たちの葬式は終わりました。律法はもう私たちに要求できません。このように、私たちはキリストを信じてバプテスマを受けたことによって、罪に対してだけでなく律法に対しても死んだので、すでに律法から解放されているのです。

 

2.キリストに結ばれて実を結ぶ

 

 こうして私たちは、新しい夫であるキリストに結ばれて、御霊を注がれて神様のために実を結ぶ者となるのです。

「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」(4節)

 

(1)新しい夫、キリストの要求

 主イエスは私たちに、「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしの所にきなさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいにやすらぎがきます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)イエス様にあって罪の重荷、律法の重荷を降ろしたのち、私たちは主イエスとくびきを共にして、主イエスのくださる荷を担って人生を歩んで行くのです。

 では、主イエスが私たちにくださる「負いやすいくびき」「軽い荷」とはなんでしょ  う。それは、主のご命令です。たとえば、

「『目には目で、歯には歯で』と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとするような者には、上着もやりなさい。・・・『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ  5:38-44)

 これがどうして背負いやすく軽いくびきでしょうか。律法よりも、もっと要求水準が高いのです。律法が「奪うな」というならキリストは「与えよ」と言います。律法が「殺すな」というなら、主イエスは「愛せよ」と言うのです。

 

(2)新しい御霊によって仕える

 新しい夫であるキリストは、律法の水準ではなく、私たちに山上の説教(マタイ伝5章から7章)の水準を求めます。善悪を論じることでなく、十字架を負ってついて来ることを求めます。しかし、律法と決定的に違うことは、キリストは私たちに要求されると同時に、もし私たちが信仰をもって答えるならば、私たちのうちにあって、それを実行して下さることです。

 「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」このようにお求めになるとき、ある人は「こんなことは人間にはできないことですよ。」と言います。その人は敵を愛することはできません。けれども、信仰をもって「はい。私にはできませんが、おことばですから、あの人を愛します。」と答える人には、同時に主イエスは敵を愛する愛、敵のために祈る愛を注いで下さいます。あなたの信じる通りになるように。

 「あなたは施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。」主の御霊があなたの心にあって、このようにお求めになる時、信仰をもって「ハイ」とお答えするならば、主は同時に私たちが人の目の前にではなく、父なる神様の前に奉仕をする喜びを与えて下さいます。あなたの信じた通りになります。

 「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、傷物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。」このことばを聞いても「お金が大事です。やっぱり地上のことがすべてです。」と主のことばに反抗する人は、クリスチャンでありながら生涯地上の金銭に思いわずらって生きて行かねばなりません。しかし、主の命令に「ハイ」と信仰をを働かせて応答する者には、主イエスは天国の銀行がどんなにたしかですばらしいところであるかを見る目を開いて下さいます。そして、地上で富をも支配する自由な王として生きることができます。あなたの信じた通りになります。

 「さばいてはいけません。さばかれないためです。・・なぜあなたは、兄弟の目の中のちりには目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」このことばを聞いても「でも、あの人は」と非難を続ける人は、神様に量り返されるのです。ですが、「はい」と人をさばく唇をとざして、主イエスのご命令に従う信仰の決意をする者の心から、主は裁く心を取り去って赦す心を恵んで下さいます。

 「しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」

 

 結び 

   主イエスを信じ、キリストに結ばれた私たちは、罪という主人に対して死んだだけでなく、律法に対しても死んだのです。したがって、律法は私たちに、「ああしろ・こうするな」と要求することはできません。もはや律法の呪いに対する恐怖は終わりました。

   キリストは私たちに、旧約の律法よりも高水準の要求をなさいます。旧約が「嘘をつくな」と言えば、新約は「真実を語れ」と求めます。旧約が「盗むな」と言えば、新約は「貧しい人に施すために働け」と言います。旧約が「殺すな」といえば、新約は「生かせ」と求めるのです。

   今は、キリストに結ばれて、内側に聖霊をいただいて、聖霊の力によって、キリストのこれらのご命令にしたがって生きていくのです。律法に縛られて正しく生きるのではなく、キリストの愛に迫られて、新しい御霊によって主に仕える。それがクリスチャンの人生です。