Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

最後の晩餐

マルコ14:12-25

 

 14:12 種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」

 14:13 そこで、イエスは、弟子のうちふたりを送って、こう言われた。「都に入りなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。

 14:14 そして、その人が入って行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる』と言いなさい。

 14:15 するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」

 14:16 弟子たちが出かけて行って、都に入ると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした。

  14:17 夕方になって、イエスは十二弟子といっしょにそこに来られた。

 14:18 そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」

 14:19 弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう」とかわるがわるイエスに言いだした。

 14:20 イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに鉢に浸している者です。

 14:21 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」

  14:22 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」

 14:23 また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。

 14:24 イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。

 14:25 まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

 

 

1.過ぎ越しの食事の備え

  

 主イエスは、ご自分が十字架にかかられる日を、過ぎ越しの祭りの中に選ばれました。その目的は、ご自分の十字架の死が、私たち罪人の救いのための犠牲であることを示すためでした。当時は、毎年、過越しの祭りには罪のきよめのために小羊がいけにえとしてほふられました。過越しの小羊の犠牲は、私たち罪人のためのまことの犠牲という本体を指差す影でした。その唯一のまことの犠牲とは、十字架のイエスにほかなりません。バプテスマのヨハネは主イエスを指差して、「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。」と叫んだでしょう。

 さて、当時、過ぎ越しの祭りには、イスラエルの人々はそれぞれの家で過ぎ越しの食事をとる習慣がありました。食事をとりながら、人々は当時から千数百年前に神が過ぎ越しのいけにえによって自分たちの罪をゆるし清めてくださり、また、エジプトの奴隷の縄目から解放してくださったことを思い起こすのでした。エジプト脱出はイスラエル民族の原点でした。

 主が弟子たちと過ぎ越しの食事をともにするためにお選びになった家は、おそらくマルコの家の二階の広間(the upper room)であったようです。マルコというのは、この福音書の記者で、ペテロと交流のあり、後に、パウロバルナバともに宣教活動をした若者でした。

 

2.裏切りの予告

 

 さて時がきて、イエスは弟子たちとともに食卓に着きます。その時、主イエスは厳しくまた悲しげな声でおっしゃいました。

 14:18 「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」

 弟子たちは動揺します。ダビンチの最後の晩餐の場面は、この瞬間を捉えたものです。弟子たちの恐怖と動揺がまるで波紋のように両側に瞬時に広がったことが表現されています。主のことばを聴いて弟子たちは口々に言うのです。

 14:19

「主よ。まさか私のことではないでしょう」

「主よ。まさか俺のことではないですよね。」

「主よ。わたしじゃないですよね。その裏切り者は。」

 弟子たちが口々にこのように言ったのはなぜでしょう。それは、彼らも「もしかしたら、自分が愛する主を裏切ってしまうのではないだろうか」と不安になったからです。今から20年ほど前、ダビンチの絵のNHK復元版が完成したとき、これを復元した人が鑑賞者たちに「この絵の中で、主イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダはどれだ?」という質問を投げかけました。すると鑑賞者たちは、「あれがユダではないか」「いや、こちらがユダではないのか」と言って、次々にユダだという人物を指差して行きました。そして、十二人すべての弟子がユダ候補となってしまったのでした。

実際、どの弟子の顔も、みなとっても人相が悪く描かれています。それがダビンチの意図したことだったのかもしれません。罪人はイスカリオテ・ユダだけではない。すべての弟子たちが主イエスを裏切る可能性のある罪人なのだ、この絵を見ているあなた自身も、というメッセージなのでしょう。

 主イエスは、おじまどう弟子たちに言われました。

 14:20 「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに鉢に浸している者です。」

 鉢に手を浸す者というのは、ユダだけを指した言葉ではなく、日本風に言えば「同じ釜の飯を食っているもの」ということでしょう。もし、そうでなければユダに対してほかの弟子たちが詰問したはずですから。当時ユダヤ人たちはパンを酢につけて食べる習慣がありましたが、特に過ぎ越しの食事では苦菜を入れた酢が鉢のなかに用意されていたのだと思われます。そして、主は深い悲しみと憤りをもって嘆きかれます。

 14:21 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」

 主のことばは、人間の理性にとっては深い謎です。主イエスが敵に引き渡されて死ななければならないのは、聖書に予告されているとおりです。それは神のお定めになった計画です。詩篇イザヤ書の預言にはメシヤが敵に引き渡され苦難にあい、死ななければならないと記されています。神のご計画が遂行されるなかで、イスカリオテ・ユダがイエス様を裏切りました。それは彼がサタンにそそのかされて選んだ行為でした。人間の理屈は、神のご計画のなかにユダが主イエスを売ると決まっていたとすれば、ユダにはどうしようもなかったではないか。けれども、確かにユダは自分の意志をもって主イエスを裏切りました。神の永遠のご計画と、人間の自由意志と責任という二つは、永久に平行しています。しかし、それがこの世界における現実です。

 

3.新しい契約

 

(1)吟味・・・ユダが出される

 さて、マタイ福音書とマルコ福音書では、ユダは罪を指摘されてどうしたかということは記録されていませんが、ヨハネ福音書によれば、ユダはその席を立って、外に出ました。「時は夜であった」(ヨハネ13:30)とあります。ユダの心の闇、悪魔の気配を感じさせる表現です。主イエスはユダを新しい契約である聖餐式から外されたのです。

 

聖餐式においては、パンとぶどう酒に与るに先立って、「ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになる」ということばが朗読されて、自己吟味を求められます。その心が、主に対する憎しみ、また、兄弟姉妹に対する憎しみに汚されていないかを確認することが必要です。主イエスはユダの心がご自身に対する憎しみに汚れており、ふさわしくないとご存知でしたから、彼を聖餐の席から外されたのです。

 

(2)新しい契約

さて、ユダが去ったあと、主イエスは弟子たちに、新しい契約のしるしをお与えになりました。

14:22 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」

 14:23 また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。

 14:24 イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。

 14:25 まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

 

弟子たちは、新約の教会で最初にこの主の晩餐に与ることになります。まず「契約」ということばに注目しましょう。

26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

 ルカの並行記事では「新しい契約です」ということばが用いられています。それは、主イエスが新約の時代の教会と結んでくださった契約は、モーセが神からいただいたシナイ契約に対して新しいものです。シナイ契約に対して、主イエスがくださった新しい契約はどのような点で連続しており、また、どのような点で新しいのでしょうか。いくつかポイントを列挙しておきます。

 まず、古い契約と新しい契約の連続性は、いずれも人が神様の前に義と認められるのは、イエス・キリストによる罪のあがないを根拠としているという点です。旧約時代も新約時代も恵みによらなければ、だれひとり人間は救われようはありません。

ただ新約の時代の恵みは、次の3つの点で旧約時代の恵みにはるかに勝っています。

①第一点は、旧約は約束であり新約は成就、旧約は影であり新約は本体であるという違いです。旧約時代には贖罪のわざの影としての牛や羊のいけにえをささげましたが、それは将来あらわれる本体の影でしたから、人々はそれで自分が神の前に罪ゆるされ清められたと確信し良心の不安を解消することはできませんでした。ですから、毎年いけにえがささげられることが繰り返されました。しかし、新約の時代は、尊い神のひとり子が人となって来られて、私たちの代理として罪を背負って十字架に死んでくださいましたから、私たちは自分の罪もまた償ってくださったのだと確信を得ることができ、心に平安をいただくことができます。

②二つ目の新しい点は、古い契約では神の戒め(律法)は石の板にまた羊皮紙に記されたものとして、人の心の外側にあったので、外側から人を縛るものでした。だから、それは人は不自由を感じました。これに対して新しい契約では、主の戒めは紙に記されると同時に、聖霊様によって主イエスを信じる私たちの心に刻まれます。だからイエス様にあって新しく生まれた人は、内側からこれは真理でありこれに従いたいという性質が与えられたのです。「文字は殺し、御霊は生かす」とは、そういう意味です。

③三つ目の新しい点は、古い契約はイスラエル民族に与えられましたが、新しい契約は世界中の民族国語を超えて与えられたということです。だから、復活の後、主イエスは「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」という世界宣教を命じました。

 

  • 主の晩餐に与る

 14:22 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」

 14:23 また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。

 

①食べなさい、飲みなさい

 主イエスは「取って食べなさい」「みな、この杯から飲みなさい」とおっしゃいました。食べること、飲むこと、というのがこの契約のしるしの特徴の一つです。このことは何を意味しているのでしょうか。私たちは食べたり飲んだりしなければ生きて行けません。食べること飲むことをもって、私たちは生命を維持しています。そのように、私たちはイエス様によって神様の前に永遠のいのちに与っているのだということを実感するために、イエス様は「食べなさい」「飲みなさい」とおっしゃるのです。イエス様なしでは生きてゆけないものであることを悟るためです。

②死

 この契約は主イエスにあって、神とのいのちの交わりにはいるための契約です。しかし、いのちに与るということのためには、そこに死があるのだということを認識しなければなりません。食べるということはそういうことです。おいしいおいしいといって、焼肉を食べるとき、そこには牛の死があったのです。主イエスにあって、わたしたちは神様との愛の交わりに入れていただいていることを喜ぶのですが、それは主イエスの十字架の苦しみと十字架の死という犠牲によって成立したいのちの喜びです。

③感謝と献身

 イエス様はこの契約のことばの最後にふしぎなことを付け加えました。

 14:25 まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

 再臨の後、新しい天と新しい地において、御国が完成したときまでイエス様はぶどうの実で作ったものを飲むことはなさらないと決意を示されました。旧約時代、ナジル人の誓願というものがありまして、信徒が神様に自分をささげつくして生活をしますという誓願をすることを自発的に望むとき、に彼らはぶどうで作ったものを口にしないという誓願をしました。日本にも、たとえばお母さんが自分の息子の病気が治りますようにという強い願いをもつときに、自分の好物を断つということをしたりするということがあります。卵断ち、お茶断ちとか。断つおかあさんが、そのことをもって自分の強い願いを意識するのです。主イエスが、ぶどうの実で造ったものを口にしないと決意を表されたのは、御国の到来は必ず成就させるのだ、世界のあらゆる人々に福音を宣教するという強い献身の表明です。

 

結び

 罪のしみひとつない尊い神の御子が、あなたの罪のために十字架にかかって死んでくださり、ご自分を人類の救いために挺身してくださいました。主イエスは、あなたの罪のすべてを引き受け、ご自分のいのちをあなたに与えてくださいました。

 ですから、主のおからだ、主の血潮にあずかる私たちもまた、主の前に、感謝して自分をささげますという献身を表明するのは、当然のことです。

ローマ 12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 主の晩餐に与るとき、私たちは、主の前に自分の生活、自分のとき、自分のすべてをおささげしますと表明するのです。