水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

主とくびきをともにする

マタイ11:28-30

            主とくびきをともにする

 

 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 

1 人生の重荷 

(1)生活上の重荷

 「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし 急ぐべからず」と苦労人の家康が言ったように、人生に重荷はつきものです。私たちは職場において、家庭において、あるいは学校で、地域社会において、それぞれ重荷があります。そうした荷物をしっかりとかついて歩んでいくのが人生であるというのはそのとおりでしょう。私たちにはそれぞれ自分で負うべき重荷というものがあるものです(ガラテヤ6:5)。

ですが、ここでイエス様がおっしゃる「疲れた人」はもうくたびれてしまった人、疲れ果ててしまった、燃え尽きてしまった人です。あまりにも荷が重すぎて、それに押しつぶされてしまいそうな人、押しつぶされてしまった人です。職場の人間関係が重荷で苦しんでいる人がいます。負いきれない責任を負わされて体や心を病んでしまう人がふえています。家庭内のいざこざに悩んでいて、仕事から帰っても家の窓の光が見えてくると、安心よりも恐れがわいてくるような人もいるでしょう。

世間では、赤提灯や怪しげなネオンサインは「あなたを休ませてあげるわよ」とか言ってくれて、それは一時的には重荷を忘れさせてくれるのでしょう。しかし、それはどこまでも一時的なものですし、深入りすると体を壊したり、家庭不和を助長してしまったりもします。

 イエス様は、「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とおっしゃいます。具体的にはどうすればよいのでしょう。部屋の中で、あるいは車の中で、あるいは散歩道で、一人になって声に出してイエス様に、あなたの思いのたけをことごとく、ありのままにお話しすることです。格式ばったお祈りである必要はありません。

「イエス様、きょう私は職場でこんなことがありました。上司の誰それに、こんな嫌味を言われて・・・・もうくたびれてしまいました。あなたに重荷をおゆだねします。」と、あるいは、「イエス様、学校でA君がわたしのことを・・・・」と始めればよいのです。始まりはそうであっても、祈りというのは御霊に導かれて、やがて神様を知り、みこころに迫っていき、そうすると肩の荷が軽くなるのです。 

 そのように、心を開いてありのままを声に出してお話しして、重荷を解き下ろしましょう。そうすると、魂に平安が訪れます。経験的に言って、声に出して祈るのがいいと思います。声に出さないでぶつぶつ言っていると、えてして祈っているのか、それとも単なる思い煩いに満ちた独りごとを言っているのかわからなくなってしまいがちだからです。声に出して主に向かって、格好をつけず、ありのままにお話しすることがたいせつです。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6-7)

 それがむずかしいときには、詩篇を声に出して読むといいです。詩篇には私たちの魂の祈りがあります。心にとまった一篇を声に出して読むうちに、それがあなたの祈りになっていくでしょう。そうして、不思議な平安があなたを支配するでしょう。

 

(2)罪という重荷

 私たちが気づくべきもうひとつの重荷があります。すべての人が背負っていながら、多くの場合その重荷に気づかない深刻な重荷があります。その重荷で、実は自分が苦しんでいて、周囲の人も苦しんでいるのに、そのことがわからないことさえあります。それは自分自身の罪という重荷です。

私たちは他人の罪には気付きます。妻は夫の罪に敏感ですし、夫は妻の罪に敏感です。親は子供の罪に敏感で、子供は親の罪に敏感です。しかし、私たちは自分自身の罪には、鈍感なのです。なぜでしょうか。その<自分の罪には鈍感で、ほかの人の罪については敏感であるという、自己中心の性質>、これこそが罪の根本的な性質であるからです。

 この自己中心の罪の性質は、アダムが堕落したときから人間のなかに入ってきました。サタンが「あなたは神のようになれるのですよ」と最初の人を誘惑してアダムがその誘惑に負けて以来、人はみな本来世界の中心であるべき神様を押しのけてまで、人は自己中心・利己的にものを考えるようになってしまいました。罪には、偶像崇拝に始まり、親不孝、殺人、姦通、盗み、偽証といろいろありますが、いずれの罪の場合でも、その中心には「自己中心で、自分の都合ばかり考えている」という性質があるでしょう。こうして、アダム以来、私たちはお互いを傷つけ合い、苦しめあって生きるようになってしまっています。この世の不幸のすべてではありませんが、その多くの部分は私たちの罪が原因となっています。

 罪はこの世の対人関係において私たちを苦しめるだけではありません。罪が、何よりも恐ろしいのは神との関係を破壊してしまうからです。罪を抱え、罪にしがみついているならば、私たちは神様の前で平安を失ってしまいます。「悪者は負う者もいないのに逃げる」と箴言28:1にあるように。そして最終的には、病気や貧困や仕事の失敗は人を燃えるゲヘナに陥れることはありません。しかし、罪は人をゲヘナに陥れる恐るべき致命的な重荷です。

 けれども、イエス様は、「その最も恐るべき私たちの罪の重荷をもみもとに下すがよい」とおっしゃってくださいます。「そのために、私は来たのだ」と。

あの人、この人の罪を言い立てるのをやめて、神様の前で自分自身を振り返り、ほかならぬ私が罪を背負っている事実を認めて、イエス様の前に自分の罪の重荷を下ろすのです。そうして、「イエス様、申し訳ありませんが、この私の罪を引き受けてください」と申し上げましょう。イエス様は、ほかでもない、あなたの罪を十字架で背負うために来てくださいました。主の前に、罪の重荷を下したら、神からの平安が、あなたの魂を支配するでしょう。神様は主イエスに身を避けるあなたに、「あなたを赦そう。あなたを義とした」と宣言してくださるのです。

 

2.主のくびきを負いなさい

 

 さて、主のみもとに人生の重荷、罪の重荷を下して、ああこれで楽になったで終わりではありません。その平安を持続する生き方があるのです。どういうふうに生きていくのか。

 11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

 11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 

 たましいの安らぎの秘訣は、イエス様の「くびきを負う」ことです。くびきというのは、牛や馬がくびに付ける、あの道具です。頸引きが縮まって「くびき」というようになりました。二頭の牛が並んで荷車を引こうとすれば、歩調が合っていなければなりませんから、首のところにくびきを付けるのです。主イエスが、「わたしのくびきを負いなさい」とおっしゃるのには、三つの面があります。

 

(1)人生の同伴者

エス様とくびきを共にするということばのひとつの意味は、イエス様が人生の同伴者となってくださるという約束です。「これまで君はひとりで頑張ってきただろうけれど、これからは、わたしと一緒に生きていこうではないか」とおっしゃるのです。

ひとりぼっちで頑張っているのはたいへんしんどいことです。友達がいるというのはありがたいことです。でも、どんな友だちでも夫婦でも話せないこと、話してはいけないことがあるでしょう。

ですが、もともと私たち人間をご自分の似姿として造ってくださったお方、また、世界の歴史をご支配なさっているお方、また、私たちを愛してご自分のいのちをも惜しまなかったお方、復活して永遠の生命を保証してくださっているお方が、「きみの人生の同伴者はわたしだ」と言ってくださるのです。なんとありがたく、力強い励ましでしょうか。

「イエス様、今日から私もあなたのくびきを負います、どうぞ負わせてください」と祈りましょう。

 

(2)イエス様の御心に生きる

エス様とくびきを共にするということの二つ目の意味は、キリスト者として私たちは、以前のようにもう自分の生きたいように生きるのではなく、イエス様の御心を自分の道として選びとって生きていくのだということです。世間では「自己実現」ということばが流行っていますが、「みこころの実現」のために生きてこそキリスト者です。だから、私たちは「みこころの天に成るごとく、地にもなさせたまえ」と今日も祈りました。

そして、自己実現ではなく、みこころの実現にこそ、安らぎがあるということです。そして自由もあるのです。なぜか?私たちは自分のことを知らずに暴走しますが、主イエスは私たち一人一人のことを最もよくご存じで、私たちにそれぞれに最もふさわしい道を用意していてくださるからです。

「これまで君は、自分の人生を自分のものだと思い込んで、好きな方向に進んで行っては、あっちにぶつかり、こっちにぶつかって苦しんできただろうけれど、これからはわたしとともに人生の行路を行くのだ」とおっしゃるのです。

 

(3)主の平安を分けていただく

主イエスとともに生きているならば、私たちは主の平安を分けていただくことができます。嵐のガリラヤ湖の小舟のなかでも主イエスはぐっすりと眠っていました。それは禅僧のような半分死んだ状態に自分の意識をコントロールすることによる平安ではなく、全能の父なる神の愛のなかに守られているという事実からくる平安です。私たちは主の御手のなかにあるのですから、泣くべき時に泣き、うれしい時には笑い、いかるべき時には怒ってよいのです。天の父の力強くやさしい御手のなかでのことです。

その平安があるとき、主イエスのようにやさしくへりくだっていることになります。強がる必要がないからです。

 

むすび

 人生は重き荷を負ってとおき道をゆくがごとしです。しかし、私たちは、罪の重荷を十字架の主イエスのもとに下して、自分勝手に生きた人生を捨てて、主イエスのくださったくびきを負って神のみこころの実現のために、自分の人生をたどっていくことが許され期待されています。なんと幸いなことでしょうか。それ栄光の御国につながる人生です。

十字架の意味

ローマ3:19-30                                                       

                                        十字架の意味

         2017年10月22日 苫小牧福音教会 

 

 3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

  3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

 3:26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 ( ローマ3:19-26)

 

 

はじめに

  以前、「十字架はもともと何の道具かわかりますか?」教会にまだ来たこともないカップルに質問すると、女性は「アクセサリー、胸にかざるペンダント」、また、男性は「ドラキュラ除け」とかいう答えをいただいたことがあります。でも、たしかに最近はクリスチャンでなくても、十字架のペンダントを胸につけている人や、イヤリングとして十字架をつけている人が結構いるものです。そういうアクセサリーにするといえば、普通は美しいもの、かわいらしいものでしょう。ところが、十字架というものは、本来は恐ろしいもの、忌まわしい道具でした。何しろ、十字架はローマ帝国の時代、極悪人を死刑にするための道具、処刑具でしたから。十字架は、ギロチンとか電気椅子とか絞首刑の縄というのと同じ類のものなのです。そんなものをアクセサリーにするのは、よほど悪趣味な人でしょう。

 けれども、十字架は二千年前に、イエス・キリストが十字架にかかられたとき以来、美しいもの、神が私たちに注いでいらっしゃる愛のシンボルとなりました。 2000年前、イエス・キリストエルサレムゴルゴタの丘の上で十字架刑になりました。しかし、その日から数えて三日目の未明、イエスは復活されたのです。本日は、このキリストの十字架の意味についてお話します。

 

1.律法とその役割…私たちに罪を自覚させる

 

 まず19節と20節。

 

3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

 

 

 万物の創造主である神は、法をもって世界を治めていらっしゃいます。今朝もまちがいなく太陽が昇り朝がやってきたのは、神様が宇宙を万有引力の法則や慣性の法則といった物理で支配しているからです。神様は人間の生き方についても法を定めていらっしゃいます。それを律法といいますが、エッセンスは十戒にまとめられています。

 第一「あなたにはわたしのほかにほかの神々があってはならない。」

第二「あなたは、自分のために、偶像を作ってはならない。・・・それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」創造主以外のもろもろの偶像を拝んだことが一度でもある人は、有罪です。

 第三「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりにとなえてはならない。」神様の名は恐れを愛をもって口にしなさいということです。神を馬鹿にしたようなことばを使ったことのある人は有罪です。

 第四「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。」安息日は、神様をあがめ隣人愛を表す日です。神を無視して仕事や自分の快楽のために用いたならば、有罪です。

 

 以上が、世界と人間の造り主に対する人間の義務を表した律法です。アメリカで車で左を走って警察につかまったら「そんな法律知らなかった」ではすまないでしょう。神様が造ったこの世界に住まわせてもらっていて「そんな律法知らなかった」ではすみません。・・では、後半はどうでしょうか。

 

 第五「あなたの父母を敬え。」あなたはいまだかつてお父さん、お母さんを侮辱することばを吐いたことはありませんか。一度でもあれば、あなたは神の御前に有罪です。

 第六「殺してはならない。」心の中を御覧になる神は、あなたの心の中のひそかな殺意をも殺人とみなされます。「あんな人死んでしまえばいいのに」と一度でもつぶやいたなら、あなたは神様の前では殺人者です。

 第七「姦淫してはならない。」結婚関係外で性的快楽を求めてはいけないということです。しかも心の中をご覧になる神様の前で、です。「情欲をもって女を見る者は、すでに姦淫を犯したのです。」とイエス様はおっしゃいました。

 第八「盗んではならない。」。「10万円盗んではならない」とも「100円盗んではならない」とはありません。ただ「盗んではならない」とあります。10万円でも100円でも神様の前では泥棒です。ニュースである鉄道会社の悩みを聞きました。入場券の回収率が30パーセントくらいしかないという悩みです。あとの70パーセントくらいはキセル乗車に使われているらしいというのです。

 第九「偽証してはならない。」嘘をついてはいけないことは誰でも知っています。では、生まれてこの方一度も嘘をついたことのない人は、ここにいますか?

 第十「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。」この律法は、神がただ単に外側に現れた行動だけを戒めるものではなく、心の思いを御覧になっているということを示しています。隣人の家、財産、奥さんを欲しがるとは、不当な欲望です。心の中で友達の幸福をねたむ心を起こすならば、その人は神様の前に有罪です。

 さて、いかがでしょうか。この律法に照らして、あなたは「私は無罪です」と言えるでしょうか?いないでしょう。19、20節に言う通りです。

3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

  あなた自身はどうでしょうか。

 私たちが、本日の聖書箇所から教えられる第一のポイントは、私たちは神様の基準である律法に照らすと、まちがいなく有罪であるということです。

                                                                                  

2.キリストが差し出す義(21、22節)                                        

 

 第二の点に移ります。21節です。

 

(1)贈り物としての義=キリスト

 「しかし、今は律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。」

 「今は」というのは「キリストが二千年前に来られて以降の時代は」という意味です。「律法と預言者」というのは旧約聖書の当時の呼び名です。「キリスト後の時代は、十戒とは別に、しかも旧約聖書によって予告されて、神の義が示された」というのです。

 「神の義」とは何か?といえば、それは神とあなたの間の正常な関係ということです。言い換えると、神様から「あなたは正しい。無罪だ。」と言っていただける関係です。今日、死んで、神の法廷に引き出されて「あなたは無罪放免だ」と宣言していただける確信があるでしょうか。十戒に照らすと、到底、そんな宣言は期待できないのが私たちです。

 しかし、です。今の時代、キリストの時代は、それが可能となりました。キリストが、神の義をあなたのために用意してくださいました。

22節「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」

 「与えられ」とあるでしょう。イエス様が私たちに差し出していらっしゃるのは義というのは、「キリストを信じるすべての人」に与えられる、ギフトです。あの数々の律法を自分で百パーセントまもって買い取る義ではなくて、贈り物としての義なのです。 「ただ、神の恵みにより」「価なしに」(24)とあるのはその意味です。働きがあるものが受ける祝福は、恵みではなくて報酬です。何の働きもないものが受ける祝福が恵みです。私たちは律法を守れていないのに、神様は、一方的な愛をもって祝福をくださるので、恵みなのです。「価なしに」というのは代金を払わないで、ということです。プレゼントを受け取るのに代金を支払う人はいません。

 今日の大事な点の二つ目。キリストは私たちに贈り物として、神の義をくださった。贈り物として、神様との正常な関係をあなたに「さあどうぞ。受け取りなさい。」差し出してくださっているということです。

 

 

(2)義とする根拠

 しかし、正義の審判者である神様が私たちを義と宣言するには根拠が必要です。神様は正しい裁判官でご自分た立てた法をきちんと守るお方ですから、ことをウヤムヤにして「まあいいや。俺が赦す。君は正しいよ。」なんていいかげんなことはなさいません。神様は法をもってこの宇宙を治めていらっしゃるのです。もし、神ご自身が法を好き勝手に破ったりしたら、この宇宙は壊れてしまいます。

 この世界のありさまを見ていて、「こんなに罪が放置されているのだから、神はいない。いたとしても、その神は正義の神ではない。」という風にいう人がいます。聖書の答えを言えば、それは神が忍耐しておられるのです。もし神が忍耐してくださらなければ、そのように神を非難している人自身も罪に定められ地獄に落とされるところです。

 しかし、神様はついにこの歴史の中で、ご自身の正義を証明し、同時に、キリストを信じる者を義と宣言する準備をなしとげられました。それが、イエス様の十字架と復活の出来事です。

 3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

 3:26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

  神様は、神の律法を破ることに対して正当な償いを要求されます。その要求を、神の御子イエス様が満たされたのです。それは2つの方法によります。愛の完全なご生涯と十字架の死と復活によってです。神の正しさは、宇宙全体よりも価値ある御子による償いを要求するほどに完全なものであることが、証明されました。

 イエス様はそのご生涯にわたって、神様が求められた完全な愛の生き方を実行されたことによります。イエス様はその愛のご生涯において、一度も偶像崇拝せず、一度も主の名をみだりに唱えることなく、安息日を正しく守り、父母を敬い、人に殺意を持つこともなく、みだらな思いを持つこともなく、嘘をつくこともなく、隣人をねたむこともありませんでした。かえって、神を全身全霊をもって愛し、隣人を自分自身を愛するように愛するという完全なご生涯を送られました。三年間、イエスさまと寝食をともにしたペテロは、「キリストは罪を犯したことがなく、その口になんの偽りも見いだされませんでした」と証言しています。

 イエス様が私たちのために贖い(身受け金)を用意されたもう一つの方法は、あの十字架にかかって死ぬんことによってでした。「罪から来る報酬は死である」と聖書に定められています。神様の前で、罪は死をもって償わねばならないのです。私たちは自分自身が罪がありますから、私が十字架にかかってもそれは私自身の罪の報酬にしかなりません。しかし、尊い神の御子であるお方が、ほんとうの人となって私たちの身代わりとなってあの十字架において私たちが神様の前に受けるべき罰を受けてくださいました。このことによって、イエス様は私たちのために贖いを用意してくださいました。

 イエス様はこのように、完全な愛のご生涯と十字架における罪の償いとによって、私たちを身受けする用意をしてくださったのです。律法は私たちに正しく生きる道を教えています。私たちはそれを正しく守るどころか、破ってしまいました。そこで、イエス様は、完全な愛の生涯を送り、私たちが破ったために受けなければならない罰はすべてご自分があの十字架の死において代わりに引き受けてくださいました。イエス様は、私たちが受けるべき罰を受け、かつ、私たちが実行しなければならなかった神への愛と隣人への愛の律法を完全に果たされました。

 このイエス様のうちにある義を根拠として、神様は私たちを義と認めて下さるのです。

 

 3 信仰によって受け取る(27-30節)

 

 第三点に移ります。それは、どのようにしたら私たちはイエス様の贈り物としての義をいただくことができるのでしょう。神様の前に罪ゆるされて平和なこころで生きていけるのでしょう。また、死後は地獄でなく天国に行けるのでしょう?それは、イエス様を信じる信仰という空っぽの手を差し出すことによってです。このように書いてあるからです。 

 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 「ただ信ぜよ。ただ信ぜよ。信じる者はたれも皆救われん。」です。私はかつてクリスチャンになる前にこの歌を聞いて、「なんという無責任な歌だろう」と腹立たしく思ったものでした。実際、この言葉は、救われる者には恵みの言葉ですが、滅びに至る人には抵抗を感じさせることばなのです。なぜでしょう。「信じるだけで救われる」ということばは、人間としてのの誇りやプライドを傷つけるからです。それは「お前は乞食だ。自分じゃなにもできないよ。乞食なら、乞食らしく、『神様お恵み下さい。神様あわれんでください。』と言いなさい。」と聞こえるからです。

 実際、聞こえるだけではなく、事実、そう言っているのです。「そんなみじめったらしいことできるか!私には私の正義がある、私には私の生き方がある。私には私のプライドがある。」と反発するのです。

 しかし、神様の御前にあっては、人は感謝し、へりくだって生きることこそふさわしいのです。神様の御前には、私たちは乞食です。いったい、私たちの持っているもので、神様にもらわなかったものがなにかひとつでもあるというのでしょうか。私たちが何か善い行いをできたとしたら、それはすべて神様からいただいたものです。神にもらわなかったものは罪だけです。・・・ならば、どうして誇るのでしょうか。

 神様はこの誇りを打ち砕くために、律法の行いにはよらず信仰による、恵みの救いを用意なさったのです。律法を行うことによって獲得しようとする義は、この誇りという壁にぶち当たるのです。律法を行うことによって義を得ようとすると、人は「私はこんなに立派な人間になった。」と思います。そのような思い上がりこそ、実は、神様の最も忌み嫌われる罪です。ですから、神様はこの救いを、ただ恵みによって、無代無償で与えようとおっしゃいます。

 私の父は、洗礼準備をしているとき、私に言いました。「お父ちゃんは、もうちょっと正しく生きられるようになってから、洗礼受けようかなと思う。」と。私は聞きました。「じゃあ、いつになったら正しい生き方ができるようになるの?」そうしたら、「そやなあ。そんなこと言っていたら、いつまでも洗礼は受けられへんな。」そして父と母はそろって洗礼を受けました。父が50歳、母は49歳でした。

  行いによらずただ信仰によって義とされるという真理は、自分は弱い罪人であると自覚する人にとっては希望です。それと同時に、信仰義認の真理は、「神なしでも自分なりに立派に生きていける」という誇りを持つ人間には狭き門なのです。

 

結び

  あなたは、神様の律法に照らしたとき、自分には罪があるなあ、自分は罪人だなあということを認めるようになりましたか。

 イエス様は、完全な愛の生涯と、十字架における罪の償いを根拠として、私たちに、神様の前の赦し、義の宣告をプレゼントしてくださいました。私たちがこのプレゼントを受け取るために必要なことは、二つです。第一に「神様、私はあなたの御前に罪人です。」と認めること、第二に「イエス様を信じます。」と告白することです。

 

 「神へのいけにえは砕かれた心、砕かれた悔いた魂。

神よ。あなたはそれをさげすまれません。」詩編51編20節                                                    

 

 

二つの法廷

Mk14:53-72

 

 

 14:53 彼らがイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来た。

 14:54 ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まで入って行った。そして、役人たちといっしょにすわって、火にあたっていた。

 

14:55 さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。

 14:56 イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのである。

 14:57 すると、数人が立ち上がって、イエスに対する偽証をして、次のように言った。

 14:58 「私たちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる』と言うのを聞きました。」

 14:59 しかし、この点でも証言は一致しなかった。

 14:60 そこで大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出てイエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」

 14:61 しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」

 14:62 そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」

 14:63 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。

 14:64 あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。

 14:65 そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ。「言い当ててみろ」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。

 

 14:66 ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、

 14:67 ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」

 14:68 しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない」と言って、出口のほうへと出て行った。

 14:69 すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です」と言いだした。

14:70 しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」

 14:71 しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」と言った。

 14:72 するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。

 

 

 ゲツセマネの園で逮捕された主イエスは、後ろ手に縛り上げられて、深夜大祭司カヤパの官邸の庭に連行されました。大祭司カヤパは、深夜三時ころに最高議会サンヒドリンを緊急に召集しました。祭司長、長老、律法学者たちが、カヤパ官邸に集まってきたのです。

 文字通りこれは暗黒裁判でした。まず、当時のユダヤの法律では刑事事件における裁判は、夜行なってはいけないとされていたからです。さらに、刑事裁判は過越しの期間中は行なえないとされていたのです。そして、裁判の場所も神殿の境内の切り石の門という場所と定められていたのです。ところが、ここはカヤパの官邸です。

 彼らがこんな夜中に、場所もわきまえず、非合法な裁判を行なったのは、イエスを支持する群衆の反対や暴動を恐れたからです。闇から闇へと主イエスを葬り去りたかったのです。55節に「祭司長たちと全議会はイエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めた」とあるように、裁判の意図ははっきりしています。彼らの目的はイエスを抹殺することにすぎないのに、いかにも形だけは裁判として整えようとする彼等の得意の偽善です。

 この官邸の庭には、主イエスの弟子ペテロもこっそりと入り込んでいました。そして、裁判の様子をそれとなくうかがっていたのです。そこにはたき火がされていてペテロの顔も炎のなかに浮かび上がっていました。

 ここではマルコは「挟み込み」という書き方をしています。53,54節でペテロのいる庭の描写があって、ついでイエスの裁きの描写が55-65節まで、そして、66節から再びペテロの描写です。この挟み込みによって、二つの法廷が同時進行しているようすが生き生きと表現されています。一つは被告は主イエスで、裁判長は大祭司カヤパです。もう一つは大祭司の屋敷の庭で、被告はペテロで、裁判長はニワトリです。

 

1.カヤパの法廷―エスは誰なのか?

 

 さて裁判官カヤパは、イエスの犯罪の証拠はいくらでもあるから、簡単に方がつけられるだろうと思っていました。ぞろぞろ証言者が出てきて、いろいろな訴えがなされました。安息日なのにイエスは病人をいやした。取税人たちとご飯をいっしょに食べた。ところが、意外なことに、実際にはイエスがなさったことで、律法に照らして、非合法であると訴えうる理由は結局なにも見つからなかったのです。ある律法学者からすれば気にくわないけれど、非合法とはいえないことばかりでした。イエスがなさったさまざまな癒しの御業や奇跡は、みな神の不思議な愛のわざでした。

 最後に、数人の証人が立ち上がりました。57-59節。

 14:57 すると、数人が立ち上がって、イエスに対する偽証をして、次のように言った。

 14:58 「私たちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる』と言うのを聞きました。」

 14:59 しかし、この点でも証言は一致しなかった。

 

 この件はヨハネ伝2章に記されています。

2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」

 2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」

 2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

 

 本来、ここでいう神殿とは主イエスのからだの復活を意味していました。そもそも神殿とは何かといえば、それは神と人とが出会う場です。人は、神と会見するために神殿に礼拝に行くものです。旧約時代はエルサレム神殿に神が臨在を現わされたので、ここで神の民は礼拝をささげてきました。けれども、新約時代には神が人となられたイエス・キリストが十字架と復活の業を成し遂げられ、ご自身が神と人との仲介者となられたのです。それで、エルサレム神殿は歴史的遺物として以上の意味はなくなりました。今、私たちは、世界中どこにいても、月に行っても、イエス・キリストにあって神と出会うことができます。

 

「 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」(ヨハネ14:6,7)

 しかし、主イエスが「この神殿をこわしてみなさい」といわれたことの意味は、当時の人たちにとっては謎めいていて、イエスを処刑するに値する証言とはなりえなかったのでした。

 結局、ユダヤの法廷においても主イエスが律法を破ったとは判決をくだすことができませんでした。そうです。主イエス御自身、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりするものは、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」(マタイ5:17-19)

 おそらく大祭司の印象では、イエスが律法を破っていることを立証することはたやすいことだったのでしょう。けれども、イエスが語ったこと行なったことについての一つ一つの証言をきちんと調べていくと、主イエスは律法を破ったことがないことが判明してきたのです。むしろ、律法の根本精神である「神への愛と隣人愛」を教えこれを徹頭徹尾実行なさったことばかりがあきらかになったのです。そして、かえって主イエスによって祭司連中の偽善ばかりが、暴露されるというありさまでした。

 「どいつもこいつも役立たずの証人どもめ」とカヤパは舌打ちして、今度はイエスに反論してはどうかと進めます。反論させて、しっぽをつかもうとしたのでしょう。

 14:60 そこで大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出てイエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」

  しかし、主イエスはあくまでも静かでした。まもなく朝が来ます。カヤパは焦っていました。そこで、カヤパはもはや、やぶれかぶれでイエスに尋ねます。

61節「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」

 実は、これが一番のそして唯一の問題だったのです。イエスは石打になりかけたという噂は届いていました。「アブラハムが生まれる前からわたしはいる」と言って石打にされそうになったことがあるとか、「わたしと天の父なる神はひとつです」と言ったというのです。しかし、イエスがこの法廷で「はい。私は神の御子です」と答えるわけがありません。なぜなら人間が「あなたは神の御子ですか」と尋ねられて「はい。そうです。」と答えるということは、ユダヤでは間違いなく、死刑にあたる、神への冒瀆罪であったからです。

 ところが、驚いたことにそれまで沈黙を守っていたイエスが口を開きました。62節「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」

 一瞬、法廷はシーンと静まり返りました。イエスが、御自分が神の子、キリストであると証言したからです。イエスはこのためにこそ、この法廷に臨んでいらしたのです。

 カヤパは衣を引き裂いて、叫びます。63、64節。

 14:63 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。 14:64 あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。

 

 ユダヤの法廷によれば、イエスの罪状は結局、一点でした。それはイエスが自分のことを「ほむべき方の御子、キリストである」と証言したことです。主イエスが死刑になった理由は、御自分のことを神の御子キリストであると証言したことによるのです。

 イエスはだれなのか?という問いに対して、19世の学者さんたちは「愛の道徳の教師である」と言うのが流行っていましたし、20世紀になるとむしろ「ユダヤの革命家である」などと答えるのが流行しました。けれども、この裁判における証言を読むならば、そんな説がまったくナンセンスな答であることが判明します。新約聖書が告げるイエス様はどう見ても「人となられた神」以外ではありえないのです。

  しかし、残念なことに、この証言を聞いても大祭司カヤパは悟りませんでした。そして勝ち誇ったように言うのです。

14:63 「これでもまだ、証人が必要でしょうか。 14:64 あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」

 こうして、ついにイエスを死刑に定めることができた、と。そして、人々は神の御子につばきをはきかけ、顔を覆ってこぶしで殴りつけたのです。主イエスは沈黙され、右を打つ者に左のほほを向けていらしたのです。

 

2.もう一つの法廷---ペテロは何者か?

 

 さて、イエスの尋問の最中、もう一つの法廷が開かれていました。被告人はペテロです。カヤパの法廷では、イエスはだれなのかということが尋問されたのですが、ここではペテロはだれなのかが問われるのです。

 ペテロは大祭司の官邸に中庭で、たき火にあたりながら、裁判をそれとなく見ていました。と、大祭司の女中がペテロを尋問します。

67節。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」するとペテロは「何ば言いよっとか?わからん。見当もつかんばい。」としどろもどろにガリラヤなまりでしゃべくって、ビクビクと出口のほうへと場所を移します。

 すると女中は、そばの人たちに向かって「この人はあのイエスの仲間です。」と言いたて始めます。しかし、ペテロはそれをまたまたガリラヤなまりで打ち消します。ところが、ペテロのガリラヤなまりを聞いて、人々は「たしかに、おまえはイエスの仲間だ。ガリラヤなまりですぐわかる。」と。ペテロが懸命にガリラヤ弁で打ち消すほど、馬脚が現れます。大祭司の前でいろいろ不利な証言を聞かされながらも、静かにしていらっしゃるイエスとなん対照的ではありませんか。

 するとペテロは三度目に呪いをかけて誓い始めました。「わしは、あんたたちの話しちょる人のことなど知らん。もしうそじゃったら、わしは地獄に落ちてもよか。」

 すると、すぐにニワトリが二度鳴きました。「コケコッコー、コケコッコー」

 こちらの法廷では、ニワトリがペテロの有罪を宣告した裁判官でありました。ペテロ有罪だ。ペテロは、エスを裏切った臆病者だ。卑怯者だ。罪人だ。」とニワトリが宣告したのです。

 あの最後の晩餐の時、主イエスが言ったことばのとおりでした。「にわとりが二度なく前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」ペテロは「たとえほかの連中がみんな裏切っても、この私はあなたを知らないなどとは申しません。」と胸を張ったのです。「私は義人です。」と言ったのです。けれども、この法廷でペテロは「シモン・ペテロ。あなたは、卑怯な裏切り者である。」と宣告を受けなければならなかったのです。

 

 あなたも、もしかしたら、このような法廷に突然立たせられることがあります。「あなたはクリスチャンじゃないのか」「あなたは、イエスを信じているんじゃないのか」と問われたことがあるのではないでしょうか。そのときには、どんなに困難な状況であったとしても、たといそれが死を意味する場合でも、「はい。私はイエス様を信じています。私はクリスチャンです。」と告白できるものでありたいと思います。

 私が高校三年生のとき、世界史でずいぶんキリスト教会の過去におかした十字軍、魔女狩りといった罪について熱心に教えてくださる先生がいました。そのころ、別の授業であったかと思いますが、「クリスチャンの人はいますか」と先生がどういう文脈であったか問うたことがありました。すると、Hさんが「はい」といって手を挙げました。そして、「どういうことを信じているんですか」と問われると、立ち上がって「私はイエスさまが、私の救い主であることを信じています。」と答えました。当時、欠席がちで病弱なんだなあという印象をもっていたのですが、その証はしっかりしたものだったので、印象深かったことです。

 主イエスはおっしゃいました。

「 10:32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。 10:33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ10:32,33)

 

 

 ペテロは、鶏の声を聞いて、「泣き出した」とあります。慙愧の涙でした。 

 ところで、ルカ福音書の平行記事には、ペテロの三度目の否認の瞬間、「主が振り向いてペテロを見つめられた。」(22:61)と記されています。そのまなざしはどんなまなざしだったでしょうか。それは、賛美歌作家のいうとおり、弱いペテロをいつくしむまなざしであったろうと思います。

「ああ、主の瞳、まなざしよ。

 三度 わが主をいなみたる 弱きペテロを顧みて

 赦すはたれぞ 主ならずや」

「ペテロ、君は自分が強いと思っていた。自分は正しいと言っていた。けれど、ほんとうは君は弱く、君は罪深い者だ。その君を、わたしは赦そう。君を赦すためにこそ、わたしは今辱めを受け、君をゆるすためにこそ十字架にかかるのだ。」とそのまなざしは告げていたのです。

 その主イエスのまなざしに触れた時、彼は声を上げて泣き出しました。自分の罪を目の当たりに知らされ、その罪を悔いる涙でした。

 私たちは、どこまでも主にしたがって行きたいと思います。主イエスがあの十字架でいのちまで惜しまず捨ててくださったのですから、したがって行くのは人間として、主の弟子として当然のことです。けれども、私たちはときに自分の罪と弱さのゆえに、つまずき倒れることがあります。情けないことです。しかし、主はそういう情けない私たちの罪の償いのためにこそ、あの十字架への道を歩んで行かれたのです。 

  

むすび

 主イエスはまぎれもなくほむべき方の御子キリストでいらっしゃいます。天地万物を造り、これを支えている神の御子が、救い主キリストとして、罪に満ちたこの世界に来なければならなかったのは誰のためでしょうか。きよい神の御子が、辱めを受け、苦しみのきわみである十字架に向かって進んでいかねばならなかったのは、誰のためだったでしょうか。

 それは、ほかでもない弱く罪深い私のため、あなたのためでありました。私たちは安全地帯にいるときには、結構、自分は正しく、ほどほどに愛もあり、誠実な人間であるかのように思い上がっているものです。そして「あの連中よりは、自分はよほどましな上の人間である」などというふうにひそかに思っていることもあるかもしれません。けれども、現実に悪魔の誘惑や危険にさらされる時、思いもかけない自分という人間の醜い実態を見せつけられることがあるのです。そのとき初めて、「自分には愛などなかったのだ。自分はこんなにも卑怯な人間だったのか。」と愕然とするのです。

 しかし、主イエスは、私たちのその弱さ、醜くさをすべてご承知の上だからこそ、私たちが神の前で赦されるために十字架にかかってくださったのです。私たちは主にしたがって行きたい。けれども、もし、つまずき倒れてしまったならば、子供のように、ペテロのようにごめんなさいと悔い改めて主の前に泣くほかないのです。

 

 「キリスト・イエスは罪人を救うために、この世に来られた。ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」 1テモテ1:15

 

羊は散らされた

マルコ14:43-52

 

1 ユダの裏切り・・・悪魔の影

 

 ゲツセマネのオリーブの林には、満月の光が煌々と満ちていました。主イエスは三時間にもわたる激しい祈りが終わり、苦き杯を飲めという父のみこころを確信なさり、眠っている弟子たちを起こしました。と、主イエスの目に、オリーブの木々の黒い影の向こうから多くのたいまつが近づいてくるのが映りました。主イエスを逮捕するために、祭司長が遣わした者たちです。主イエスは落ち着いていらっしゃいますが、眠い目をこすっていた三人の弟子たちは、電流に撃たれたようになりました。祭司長の手の者たちは、剣や棍棒をもって近づきます。見ると、その先頭に暗い表情のユダが立っています。ユダは、大祭司の手の者たちを手引きして来たのです。

 14:43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現れた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。

 満月とはいっても夜は夜、イエスをほかの弟子と取り違えて逃がしてはならないということで、ユダは祭司長の手の者たちと打合せをして合図を決めていました。その合図は接吻でした。これは、当時のユダヤ社会で、弟子が師に対する格別な親愛を示す表現でした。

 14:44 イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」

 14:45 それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生」と言って、口づけした。 14:46 すると人々は、イエスに手をかけて捕らえた。

 

 まだしも、「こいつがイエスだ。捕まえろ」と指さし叫ぶならば、わかりやすいのですが、ユダは、「先生お元気で」とにっこりして接吻をして、イエスを敵に渡したのでした。師に対する尊敬、親愛を表現する口づけを、あえて裏切りの合図に選んだユダに、イエスに対する深い悪意と憎しみを感じます。悪魔の影がのぞいています。不気味です。

 

 イスカリオテ・ユダの心の闇の深さに私たちは戦慄を覚えます。ユダがなぜイエスを裏切ったのかという謎については、昔から皆がいろいろな推測をしています。近代になってからは特に人間主義の影響で、ユダに同情的な解釈がされる傾向があり、キリスト伝の小説や映画などでされるのが流行のようになっています。ユダはイエスダビデのような英雄として立つべきなのに、もたもたしているから、決起を促すためにこうしたのだという説。ユダは、イエスを愛の教師と思っていたが、自分に対するマリヤのむだな香油注ぎについては受け入れた自己愛の矛盾に腹を立てたのだという説などいろいろと、あります。

 しかし、聖書自体はユダの裏切りについて同情的なことを述べてはいません。ユダは弟子団のお金を着服していた。マリヤの主へのささげものについて「ああもったいない」と非難したとか、主イエスを銀貨30枚で売ったとか、イエスを裏切るときには口付けをもってしたとか、最後には悔い改めることもせずに首をくくって死んだとか、その死体は落ちてはらわたが飛び出てしまったいう具合です。 私たちとしては、人間に取り入るような流行の解釈に耳を傾けるよりも、聖書が語ることに耳傾けるのが賢明です。ユダの裏切りいんは、なにか高尚な理由があったとは教えていません。ユダには金銭のむさぼりの問題があり、それを見透かされた腹いせなのか、敵に主イエスを銀貨30枚で売ったというだけです。

 並行記事には、そんなユダに、主イエスは「友よ。何をしに来たのか。」と声をおかけになったと記されています。最後の悔い改めの機会を、主イエスはユダに与えたのです。しかし、ユダが固く心閉ざしたままでした。そのあと、後悔はしながらも悔い改めることなく、こころ閉ざしたまま首をくくって自殺してしまいました。悲惨です。

 

 私たちは妙にユダに同情するのでなく、神の前に恐れおののきつつ、「どうぞ私が生涯イエス様を憎んだり、裏切ったりすることがないように、私の心を悪魔から守ってください」と祈るのが賢明です。

 

2 聖書のことばが実現するために

 

 さて、ユダの合図にしたがって、大祭司のしもべがイエスに手をかけるや否や、イエスのそばに立っていた弟子のひとりが、剣(マカイラ)を抜いてしもべの脳天に振り下ろしました。しかし、しもべがさっとよけたので、ズバッと耳が切り落とされてしまいます。

 14:47 そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。

 なぜ弟子は剣など持っていたのでしょう。ここで剣と訳されているマカイラというものは野宿などで用いるナイフ・小刀のことです。戦争に用いられる長い剣はロムファイアと呼ばれる別ものです。弟子団は折々は野宿もしなければならなかったので、マカイラを持ち合わせていました。「ナイフならここに二丁ありますよ」と報告した記事があります。

 ヨハネによる並行記事によれば、斬りかかったのはペテロ、耳を切り落とされたのは大祭司のしもべマルコスでした。いかにも血気にはやるペテロらしい。大祭司のしもべにすぎないマルコスの名が特筆されているのは、おそらく後日、彼が初代教会のメンバーになったからでしょう。「あの夜中、俺は祭司長のしもべでイエス様をとっつかまえに行ったんだけれど、あんときはペテロさんに耳を切り落とされちまった。そりゃあ痛いのなんのって。でも、すぐにイエス様は俺の耳をさわって、新しく耳をつくってくださっただよ。」と証言したのでしょう。ペテロは「やあ、おれは気が短くってねえ。」と頭をかいたでしょう。

 ペテロは、ここで主イエスといっしょに討ち死にすればよいと脳天に血が上りました。ペテロだけではありません。ほかの弟子たちにだって、こういう勇ましいかたちでならば、主イエスのために命を捨てる覚悟はできていたでしょう。けれども、主イエスは慌てず騒がずにおっしゃったのです。

 14:48 「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。 14:49 わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」

 大事なことばは最後の一節「しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」

です。主イエスは、自分が、暗黒裁判にかけられ、鞭うたれ、裸にされて十字架にくぎ付けにされ、辱めと怒号のうちに処刑されるために、今、こうして祭司長の手の者に捕縛されるのは、旧約聖書に預言されていることなのだ。父なる神のご計画が、今ここに成就しようとしているのだというのです。

 三時間ほど前には「できることなら、この杯をわたしからとりのけてください。しかし、わたしの願いでなく、あなたのおこころの通りをなさってください」と祈られた主イエスでした。そして、ご自分が受難の道、十字架への道を歩むことは、罪ある人間たちの救いのためであり、それが父のみこころであるということがはっきりとわかって、主イエスは祈りの場から立ち上がったのです。だから、慌てることはない。「みこころの天になるごとく、地にもならせたまえ」だ、ということです。父の心が地に成ることこそ、御子イエスの望みです。父の意志と、ご自分の意志とがピタリと一つになっているので、イエスはもはや揺るぐことがありません。御心を悟り、御心に生きる者のみが知るたましいの平安です。

 

 神のみこころをよそにおいて、自分の願いに固執しているかぎり、私たちは決してたましいの平安を得ることができません。自分のたましいを注ぎだして祈り、そして、自分の握りしめている手を神の前に開いておゆだねするときに、私たちは主が経験されたのと同じ平安を得ます。

 

  • 裸の青年

 

 イエスが剣を振り上げて戦うおつもりはないことを知った弟子たちは、イエスを見捨てて逃げてしまいます。

 14:50 すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。

 ペテロ、ヤコブヨハネは、勇ましく名誉の討ち死にをする程度の熱情はあったと思います。しかし、おめおめと逮捕されて、犯罪人として辱めの十字架にかけられてしまうような死に方はできなかったのでしょう。こうして、ほんの3,4時間まえ、彼らは自分が主イエスを裏切ることなどありえないと断言しましたが、主イエスが「羊は散り散りになる」とおっしゃったとおりになってしまったのでした。

 そして、マルコ伝には彼らと同じように主イエスを見捨てて裸で逃げてしまった一人の青年にかんする特ダネ記事が収められています。これは聖書記者マルコ自身のことであると考えられます。こんな出来事が実はゲツセマネの夜にあったことを知っているのは、この青年自身しかいませんから。

  14:51 ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。14:52 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。

 過ぎ越しの祭りのとき、主イエスが弟子たちとともに食事をするために選んだのが、大きな二階部屋のある屋敷でした。この二階部屋はペンテコステの時に120名の人々が集まって祈っていた場所でもあるようです。この屋敷のボンボンが青年マルコでした。イエス様はこの屋敷の主人、マルコの父親と交流があったので、この二階部屋を借りたのでした。青年マルコは、主イエスと十二弟子たちが過ぎ越しの食事をしているのを知っていました。やがて、主イエスたちは詩篇のエジプトのハレルを歌い終わると、屋敷を出ていきました。マルコは「きっといつものように、オリーブ山のゲツセマネの園に行かれたのだろう」と思っていたでしょう。

 そのあと、マルコは水浴びでもしていたのでしょうか、それとも裸で寝る習慣だったのかもしれません、とにかく裸でおりますと、玄関の方にどやどやと人々が押し掛けてきました。しもべたち、そして父か玄関で応対しています。客は「イエスはどこにいる。ここで過ぎ越しの食事をとったことはわかっているのだ。」と怒鳴っています。やがて、ここにいないことがわかると、「きっとゲツセマネにいるはずです。イエスは毎晩、そこで祈るので」という声がします。ユダの声です。すると、人々は「ゲツセマネに行くぞ」と言って去っていきました。

 青年マルコは、着物を身に着けるいとまもなく、そこにあった亜麻布を身にまとって、ゲツセマネの園へと走ります。できれば、先についてイエス様に逃げるようにと告げるつもりだったのでしょう。しかし、到着してみると、時すでに遅く、人々はイエス様を取り囲んでいます。弟子たちは逃げてしまいました。やがてイエス様の手には縄がかけられて、連れてゆかれます。そこで、マルコは一人恐る恐るイエス様をとらえた人々の後を、暗がりに身を隠しながらついて行きました。しかし、振り返った連中に「お前はイエスの仲間だろう!」と見つけられ、亜麻布をつかまれてしまったので、それを捨ててすっ裸で逃げ出したのでした。

 

 こんな恥ずかしいことを、マルコは、あえて自分が記す福音書の中に書きとどめたのです。なぜでしょうか?

 主イエスに従おうと願っても従えず、主のためにいのちをささげますと申し上げながら、いざとなったら逃げ出してしまったような、情けない自分だけれど、主イエスは、この罪ある者をも赦してくださいました。主イエスは罪人の友です、ということを証言したかったからにほかならないでしょう。

 

結び

 「あなたとご一緒なら命も捨てます」と行った弟子たちもみな主イエスを置いて逃げてしまいました。弟子たちは、このあと、官憲が自分たちをも逮捕するのではないかと家で戸を閉め切って震えていたのです。この青年マルコも逃げ出してしまいました。

 彼らを評論家のように評論し、批難するのは簡単です。情けない人たちだ、と。けれども、自分自身が彼ら弟子たちの立場、あるいは、青年マルコの立場に置き換えてみると、「では、あなたは大丈夫なのか?」と問われていると思わざるを得ません。

 何としてもイエス様にしたがって行きたい、そう思います。そう思いますが、自信はありません。自分はペテロよりも勇敢だろうか?自分はあの青年よりも勇敢だろうか?と人間的な問いを自分に向けると、自信はありません。

 しかし、このように弱かった弟子たちも、後の日には復活の主イエスに出会って、変えられ、強くされ、それぞれ主のために命をささげて行きました。それは人間的な力ではなく、復活の主の力によったからです。自分の弱さ、臆病さ、情けなさの現実を神様の前に知ったなら、ユダのように心かたくなにしてはなりません。むしろ、「こんな弱い私ですが、それでもあなたに従って行きたいのです。どうぞ私が生涯、イエス様から離れてしまうことがないように助けてください」と祈りましょう。

 

 

 

 

最後の晩餐

マルコ14:12-25

 

 14:12 種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」

 14:13 そこで、イエスは、弟子のうちふたりを送って、こう言われた。「都に入りなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。

 14:14 そして、その人が入って行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる』と言いなさい。

 14:15 するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」

 14:16 弟子たちが出かけて行って、都に入ると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした。

  14:17 夕方になって、イエスは十二弟子といっしょにそこに来られた。

 14:18 そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」

 14:19 弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう」とかわるがわるイエスに言いだした。

 14:20 イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに鉢に浸している者です。

 14:21 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」

  14:22 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」

 14:23 また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。

 14:24 イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。

 14:25 まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

 

 

1.過ぎ越しの食事の備え

  

 主イエスは、ご自分が十字架にかかられる日を、過ぎ越しの祭りの中に選ばれました。その目的は、ご自分の十字架の死が、私たち罪人の救いのための犠牲であることを示すためでした。当時は、毎年、過越しの祭りには罪のきよめのために小羊がいけにえとしてほふられました。過越しの小羊の犠牲は、私たち罪人のためのまことの犠牲という本体を指差す影でした。その唯一のまことの犠牲とは、十字架のイエスにほかなりません。バプテスマのヨハネは主イエスを指差して、「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。」と叫んだでしょう。

 さて、当時、過ぎ越しの祭りには、イスラエルの人々はそれぞれの家で過ぎ越しの食事をとる習慣がありました。食事をとりながら、人々は当時から千数百年前に神が過ぎ越しのいけにえによって自分たちの罪をゆるし清めてくださり、また、エジプトの奴隷の縄目から解放してくださったことを思い起こすのでした。エジプト脱出はイスラエル民族の原点でした。

 主が弟子たちと過ぎ越しの食事をともにするためにお選びになった家は、おそらくマルコの家の二階の広間(the upper room)であったようです。マルコというのは、この福音書の記者で、ペテロと交流のあり、後に、パウロバルナバともに宣教活動をした若者でした。

 

2.裏切りの予告

 

 さて時がきて、イエスは弟子たちとともに食卓に着きます。その時、主イエスは厳しくまた悲しげな声でおっしゃいました。

 14:18 「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」

 弟子たちは動揺します。ダビンチの最後の晩餐の場面は、この瞬間を捉えたものです。弟子たちの恐怖と動揺がまるで波紋のように両側に瞬時に広がったことが表現されています。主のことばを聴いて弟子たちは口々に言うのです。

 14:19

「主よ。まさか私のことではないでしょう」

「主よ。まさか俺のことではないですよね。」

「主よ。わたしじゃないですよね。その裏切り者は。」

 弟子たちが口々にこのように言ったのはなぜでしょう。それは、彼らも「もしかしたら、自分が愛する主を裏切ってしまうのではないだろうか」と不安になったからです。今から20年ほど前、ダビンチの絵のNHK復元版が完成したとき、これを復元した人が鑑賞者たちに「この絵の中で、主イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダはどれだ?」という質問を投げかけました。すると鑑賞者たちは、「あれがユダではないか」「いや、こちらがユダではないのか」と言って、次々にユダだという人物を指差して行きました。そして、十二人すべての弟子がユダ候補となってしまったのでした。

実際、どの弟子の顔も、みなとっても人相が悪く描かれています。それがダビンチの意図したことだったのかもしれません。罪人はイスカリオテ・ユダだけではない。すべての弟子たちが主イエスを裏切る可能性のある罪人なのだ、この絵を見ているあなた自身も、というメッセージなのでしょう。

 主イエスは、おじまどう弟子たちに言われました。

 14:20 「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに鉢に浸している者です。」

 鉢に手を浸す者というのは、ユダだけを指した言葉ではなく、日本風に言えば「同じ釜の飯を食っているもの」ということでしょう。もし、そうでなければユダに対してほかの弟子たちが詰問したはずですから。当時ユダヤ人たちはパンを酢につけて食べる習慣がありましたが、特に過ぎ越しの食事では苦菜を入れた酢が鉢のなかに用意されていたのだと思われます。そして、主は深い悲しみと憤りをもって嘆きかれます。

 14:21 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」

 主のことばは、人間の理性にとっては深い謎です。主イエスが敵に引き渡されて死ななければならないのは、聖書に予告されているとおりです。それは神のお定めになった計画です。詩篇イザヤ書の預言にはメシヤが敵に引き渡され苦難にあい、死ななければならないと記されています。神のご計画が遂行されるなかで、イスカリオテ・ユダがイエス様を裏切りました。それは彼がサタンにそそのかされて選んだ行為でした。人間の理屈は、神のご計画のなかにユダが主イエスを売ると決まっていたとすれば、ユダにはどうしようもなかったではないか。けれども、確かにユダは自分の意志をもって主イエスを裏切りました。神の永遠のご計画と、人間の自由意志と責任という二つは、永久に平行しています。しかし、それがこの世界における現実です。

 

3.新しい契約

 

(1)吟味・・・ユダが出される

 さて、マタイ福音書とマルコ福音書では、ユダは罪を指摘されてどうしたかということは記録されていませんが、ヨハネ福音書によれば、ユダはその席を立って、外に出ました。「時は夜であった」(ヨハネ13:30)とあります。ユダの心の闇、悪魔の気配を感じさせる表現です。主イエスはユダを新しい契約である聖餐式から外されたのです。

 

聖餐式においては、パンとぶどう酒に与るに先立って、「ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになる」ということばが朗読されて、自己吟味を求められます。その心が、主に対する憎しみ、また、兄弟姉妹に対する憎しみに汚されていないかを確認することが必要です。主イエスはユダの心がご自身に対する憎しみに汚れており、ふさわしくないとご存知でしたから、彼を聖餐の席から外されたのです。

 

(2)新しい契約

さて、ユダが去ったあと、主イエスは弟子たちに、新しい契約のしるしをお与えになりました。

14:22 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」

 14:23 また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。

 14:24 イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。

 14:25 まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

 

弟子たちは、新約の教会で最初にこの主の晩餐に与ることになります。まず「契約」ということばに注目しましょう。

26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

 ルカの並行記事では「新しい契約です」ということばが用いられています。それは、主イエスが新約の時代の教会と結んでくださった契約は、モーセが神からいただいたシナイ契約に対して新しいものです。シナイ契約に対して、主イエスがくださった新しい契約はどのような点で連続しており、また、どのような点で新しいのでしょうか。いくつかポイントを列挙しておきます。

 まず、古い契約と新しい契約の連続性は、いずれも人が神様の前に義と認められるのは、イエス・キリストによる罪のあがないを根拠としているという点です。旧約時代も新約時代も恵みによらなければ、だれひとり人間は救われようはありません。

ただ新約の時代の恵みは、次の3つの点で旧約時代の恵みにはるかに勝っています。

①第一点は、旧約は約束であり新約は成就、旧約は影であり新約は本体であるという違いです。旧約時代には贖罪のわざの影としての牛や羊のいけにえをささげましたが、それは将来あらわれる本体の影でしたから、人々はそれで自分が神の前に罪ゆるされ清められたと確信し良心の不安を解消することはできませんでした。ですから、毎年いけにえがささげられることが繰り返されました。しかし、新約の時代は、尊い神のひとり子が人となって来られて、私たちの代理として罪を背負って十字架に死んでくださいましたから、私たちは自分の罪もまた償ってくださったのだと確信を得ることができ、心に平安をいただくことができます。

②二つ目の新しい点は、古い契約では神の戒め(律法)は石の板にまた羊皮紙に記されたものとして、人の心の外側にあったので、外側から人を縛るものでした。だから、それは人は不自由を感じました。これに対して新しい契約では、主の戒めは紙に記されると同時に、聖霊様によって主イエスを信じる私たちの心に刻まれます。だからイエス様にあって新しく生まれた人は、内側からこれは真理でありこれに従いたいという性質が与えられたのです。「文字は殺し、御霊は生かす」とは、そういう意味です。

③三つ目の新しい点は、古い契約はイスラエル民族に与えられましたが、新しい契約は世界中の民族国語を超えて与えられたということです。だから、復活の後、主イエスは「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」という世界宣教を命じました。

 

  • 主の晩餐に与る

 14:22 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」

 14:23 また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。

 

①食べなさい、飲みなさい

 主イエスは「取って食べなさい」「みな、この杯から飲みなさい」とおっしゃいました。食べること、飲むこと、というのがこの契約のしるしの特徴の一つです。このことは何を意味しているのでしょうか。私たちは食べたり飲んだりしなければ生きて行けません。食べること飲むことをもって、私たちは生命を維持しています。そのように、私たちはイエス様によって神様の前に永遠のいのちに与っているのだということを実感するために、イエス様は「食べなさい」「飲みなさい」とおっしゃるのです。イエス様なしでは生きてゆけないものであることを悟るためです。

②死

 この契約は主イエスにあって、神とのいのちの交わりにはいるための契約です。しかし、いのちに与るということのためには、そこに死があるのだということを認識しなければなりません。食べるということはそういうことです。おいしいおいしいといって、焼肉を食べるとき、そこには牛の死があったのです。主イエスにあって、わたしたちは神様との愛の交わりに入れていただいていることを喜ぶのですが、それは主イエスの十字架の苦しみと十字架の死という犠牲によって成立したいのちの喜びです。

③感謝と献身

 イエス様はこの契約のことばの最後にふしぎなことを付け加えました。

 14:25 まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

 再臨の後、新しい天と新しい地において、御国が完成したときまでイエス様はぶどうの実で作ったものを飲むことはなさらないと決意を示されました。旧約時代、ナジル人の誓願というものがありまして、信徒が神様に自分をささげつくして生活をしますという誓願をすることを自発的に望むとき、に彼らはぶどうで作ったものを口にしないという誓願をしました。日本にも、たとえばお母さんが自分の息子の病気が治りますようにという強い願いをもつときに、自分の好物を断つということをしたりするということがあります。卵断ち、お茶断ちとか。断つおかあさんが、そのことをもって自分の強い願いを意識するのです。主イエスが、ぶどうの実で造ったものを口にしないと決意を表されたのは、御国の到来は必ず成就させるのだ、世界のあらゆる人々に福音を宣教するという強い献身の表明です。

 

結び

 罪のしみひとつない尊い神の御子が、あなたの罪のために十字架にかかって死んでくださり、ご自分を人類の救いために挺身してくださいました。主イエスは、あなたの罪のすべてを引き受け、ご自分のいのちをあなたに与えてくださいました。

 ですから、主のおからだ、主の血潮にあずかる私たちもまた、主の前に、感謝して自分をささげますという献身を表明するのは、当然のことです。

ローマ 12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 主の晩餐に与るとき、私たちは、主の前に自分の生活、自分のとき、自分のすべてをおささげしますと表明するのです。

ナルドの香油

Mk14:1-11

 

 

14:1 さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。

 14:2 彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから」と話していた。

  14:3 イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。

 14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。

 14:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。

 14:6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。

 14:7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。

 14:8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。

 14:9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

  14:10 ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。

 14:11 彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。

 

 

 「ナルドの壺ならねど、ささげまつるわが愛」という讃美歌があります。十字架を目前にした主イエスに、ベタニヤのマリヤが惜しみなく注いだナルドの香油の出来事を歌った歌です。主イエスが、14:9 「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」とおっしゃったとおりに、確かにマリヤの記念とされて来たのです。主のみことばは成就しました。

 ところで、本日読んだ、この本文は少し珍しい構造をしています。つまり、1、2節の内容は10、11節へとつながり、3節から9節がはさみ込まれているということです。祭司長・律法学者たちがイエスを無きものにしようとして相談をしている場面がまず描き出され、次にナルドの香油の事件が記され、最後にもう一度祭司長・律法学者たちがイエス暗殺の相談をしているところへ、ユダが走ったことがしるされるわけです。

 これを挟み込み構造といいます・・・と勝手に私が命名しただけなんですが、マルコはときどきこういう書き方をします。マルコ3:20-25、14:53-72

 これは何を意味しているのでしょうか。挟み込み構造は二つの場面が同時進行していることを表す場合がありますが、ここでは、むしろこのナルドの香油の事件が、ユダが敵にイエスを売り渡したことの決定的な引き金になったということを意味しているようです。

 

1.マリヤの捧げもの

 

 ベタニヤはエルサレム郊外の小さな村でした。ここにらい病人(ツァラトに冒された人)シモンの家があります。その家族はマルタ、マリヤそしてラザロです。母親は早くなくなったのでしょう。らい病人シモンというのは、彼らの父親でしょう。らい病は当時イスラエルでは大変恐れられ、また宗教的に呪わしい病気とされ、隔離されましたから、父はもう同居していないと思われます。でも、三人の住む家は「らい病人シモンの家」と呼ばれましたから、「あの家は恐ろしいライ病人を出した家だよ」ということで、誰一人訪問などしてくれはしなかったのです。格別、律法学者や祭司といった立場の人々は、らい病人を差別する筆頭に立っていたのです。

 ところが、主イエスはこのらい病人シモンの家族を愛され、しばしばこの家族を訪れています。そしてヨハネ福音書の平行記事によれば、今回の事件の直前に、ラザロのよみがえりという奇跡を主イエスはなしてくださったのです。自分たちのような世間から見捨てられてしまったと家族、また神にも呪われていると思っていた家族のところに主イエスが訪れて、神の祝福は心貧しい者、悲しむ者とともにあるのだよと教えてくださったということは、彼らにとってこの上もないよろこびでした。

 さらに弟のラザロにいたっては、墓に埋葬されてすでに三日もたって臭くなっていたのがよみがえらされたのです。その姉たちとしては、主に感謝しないではいられないではありませんか。

 「主に感謝を表すのにどんなものがふさわしいかしら?」とマリヤは考えました。お姉さんのマルタはやり手でお料理が上手で人をもてなすのも得意ですが、マリヤはそういうことが苦手でぼんやり夢見がちな女性でした。そんなマリヤは、「私にとって一番たいせつなものとは何だろうか。私の宝物とはなにか」と祈って考えてみたのです。最高最善のもは何かと考えたのです。そして、彼女は「そうだあれだわ」と捧げる決心をしたのがナルドの香油でした。これはたいへんに高価なものでした。あとで弟子たちが値積もりしていますが、壷一本で二百万ないし三百万円というところでしょう。

 彼女がなんでこんなものを持っていたのかというと、ユダヤの習慣として花嫁道具の一つだったのであろうと言われます。母親が「マリヤ、お前も結婚の日が来たなら、このナルド油をもってお嫁に行くのですよ。」とでも遺言したのではないでしょうか。マリヤは、主イエスへの感謝と愛とをあらわすには、そのほかのどんなものよりもたいせつなナルド油こそふさわしいと思ったのです。

 主イエスに捧げるにふさわしいもの、それは感謝と愛にあふれた最高最善のものです。それ以外はふさわしくありません。私たちは、マリヤにこのことを学びます。

 

2.ユダによる捧げものの評価

 

 ナルド油が惜し気もなく注がれて部屋中がそおかぐわしい香りでいっぱいになったとき、弟子たちはうっとりしていました。ところが、弟子たちが、「ああなんという無駄づかいをするんだ。それを売れば300デナリほどにもなって貧しい人々にほどこしができるのに」と、文句をつけました。

マルコ14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。

ここには「何人かの者が」とありますが、実はヨハネ福音書の平行記事を見ると(ヨハネ12:4、5)、最初にこのように言い出したのはユダであったことがわかります。

 12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。 12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

4、5節の理屈はなるほどと思えたので、ほかの弟子たちもユダに遅れをとるまいと「そうだ、そうだ無駄づかいだ」と同調したのです。けれども、イスカリオテのユダの考えは間違っています。

 第一の間違いは、ユダはすぐにマリヤのささげたものを「300デナリ」とお金に換算したことです。彼は会計係をしていたというので、お金の計算にはたけていたのでしょう。しかし、物事はなんでもかんでもお金に換算できるわけではないのです。ベタニヤのマリヤの主イエスに対する涙の出るような感謝と愛とを、どうして300デナリなどと換算できるでしょうか。なんでもかんでもお金に換算して価値がわかったような気持ちになるというのは、貨幣経済社会に住む者たちの陥りがちなわなです。金額のはるものには価値があり、金額のはらないものには価値がないということになってしまいます。

 ヨハネ伝によれば、ユダは盗みをしていたとあります。金のとりこになってしまっていたから、すぐに金に換算するくせがついていたのでしょう。なんでもお金に換算する人は、ものごとの本当の価値がわからなくなってしまいます。これは警戒すべきことです。

 

 ユダの第二の過ちは、主イエスにお捧げするのにもったいないなどと思ったことです。主イエスへの捧げものとして、どんなものがもったいないといえるでしょうか?神の御子である主イエスは私たちのために天国の王座をさえ惜しまないで、人となってくださったのです。そして、主イエスは私たちのために、その尊いいのちまでも惜しまずに投げだして下さったのです。これこそもったいないことではありませんか。主イエスにお捧げするのにもったいないものなど何がありましょうか。

 主がこんなにも私たちを愛して下さったのに、私たちが捧げ物について物や金や時を惜しんでいるとすれば、これこそ異様なこと、恥ずべき事ではないでしょうか。そのような人は、主イエスが神の御子であることも、主イエスの十字架の尊い犠牲の意味もまるでわかっていないのです。

 

 そしてユダの罪の第三は偽善です。彼は「貧しい人々に施しができたのに」などと心にもないことを言いましたが、それはほんとうに貧しい人々を心にかけていたのではないとヨハネは注釈を加えています。彼は自分のもっともらしい理屈を擁護するために、心にも無いことを口走ったのです。自分の心の貪欲を、慈善の包装紙で覆い隠そうとしたのです。彼は慈善家ではなくただの偽善家にすぎませんでした。恥ずべきことです。

 

 ユダはナルドの香油という捧げものについて、「もったいない」などと評価することによって、自分自身がどれほど心汚れたものであるかということを暴露してしまったのでした。主イエスのことを何もわかっていないことを暴露してしまったのです。

 

3.主イエスによるナルドの香油の評価(6-9節)

 

 主イエスは、弟子たちから寄ってたかって責められて小さくなっているマリヤを弁護なさいます。「わたしのためにりっぱなことをしてくれた。」と評価なさるのです。そして続けます。7節。

 

貧しい人々への奉仕をユダが偽善的にも言い立てたので、この件について触れられます。「彼らはいつもあなたがたとともにいるのだから、いつでも親切にしてやればよい。しかし、わたしはいつまでもあなたがたとともにはいない。」と。つまり、主は御自分の死が間近であることにふれられるのです。主はすでにこれまでに三度、御自分が十字架にかからなければならないことを弟子たちに予告なさっているのです。けれども、弟子たちはこれを理解せず心にも留めていませんでした。ただ、弟子たちにくらべればずっと知識も少ないマリヤだけが、主イエスの迫り来る死と心中の悲しみを察したのでした。

 14:8 「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」

 どうしてこのマリヤだけが主イエスの思いを理解したのでしょう。ほかの弟子たちはどうしていたのでしょう。弟子たちは主がこれからなそうしてしておられる事がら、計画についてはたいへん関心がありました。しかし、あえていえば弟子たちは、主御自身に対する愛も関心も薄かったのではないでしょうか。だから主のみこころがわかりませんでした。他方、マリヤはどうして主イエスの思いを悟ったのでしょうか。一言で言えば、このマリヤが主イエスを愛していたからです。弟子たちは「ユダヤ教の総本山エルサレムに行ってあれをしよう、これをしよう」と、これからの事業計画にのみ熱心ではありましたが、主イエスの御心については鈍感でした。主のおっしゃるエルサレムでの死についてなど、聞きたくもなかったのです。しかし、マリヤは主そのお方をよく知っていました。マリヤは主を愛していたのです。だから自分にとって最高のものをお捧げしないではいられなかったのです。

 

 私たちは、主に助けていただきたいと思う。主に愛していただきたいと思う。それはよい。けれども、主はあなたに尋ねられるのです。「あなたは、わたしを愛しますか。私のために犠牲を進んで払ってくれますか。」

 あなたはどれほど主を愛しているでしょうか。主イエスの弟子は、主イエスを信じて得をしたといっているだけではいけないのです。主イエスのために損をすべきです。主のために捨てたものがあるべきです。キリスト信仰とはつまるところ、キリストを愛することなのでした。主がどれほど自分を愛して下さったということを知るならば、私たちもまた主を愛さないではいられない。主のために犠牲を喜んではらわないではいられないのです。

 

「主を愛さないものは呪われよ。主よ。来てください。主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」1コリント16:22、23                              

 

 

いちじくの木  に学べ

マルコ13:28-37、ルカ21:24、ローマ11:25

                               

13:28 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。

 13:29 そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。

 13:30 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。

 13:31 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

 13:32 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

  13:33 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。

 13:34 それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。

 13:35 だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。

 13:36 主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。

 13:37 わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」

 

 

 1.いちじくの木から(28-31節)

 

 日本のシンボルとしての植物といえば、桜でしょうか。古文で花といえば、桜を意味したほどです。では、イスラエルを象徴する植物といえば、オリーブとイチジクとブドウです。ローマ書9章から11章ではイスラエルオリーブの木に譬えられています。他方、いちじくはイスラエルでもっともよく見られる木です。たとえば主イエス自身も先に学んだマルコ11:13で、葉ばかり茂って実がならないいちじくの木を枯らしてしまわれたことがありましたが、それは当時の神殿の建て物や儀式ばかりデラックスでも、悔い改めと信仰のないイスラエルの国の滅亡を意味していました。

 いちじくの木は、枝が柔らかくなり、葉が出てくると、夏の近いことがわかるそうです。枝が柔らかくなり、葉が出てくることが夏の前兆であるように、主イエスがお話しになったもろもろの前兆が起こってきたならば、主イエスの再臨が戸口まで来ていると知るべきです。再臨の前兆について前回学びましたが、復習しておきましょう。「生みの苦しみの初め」と呼ばれる一般的な前兆は、6-8節。

a.自称キリストが現れる。

b.戦争・民族紛争の頻発。

c.方々に地震飢饉が起こる。

 このようなしるしは、陣痛のように寄せては返す波のように現れてきました。そのたびに敬虔なキリスト者たちは、主の再臨が近いと意識したものです。現代でもそうで、状況は甚だしくなりつつあります。格別、人口爆発飢饉はまさに人類が直面している危機です。国連の統計では2025年には世界人口は83億に達すると言われ、その半数以上が飢饉に苦しむことになると予測されています。

 次に、教会と福音宣教に関する前兆は、9-13節。

d.教会は権力から迫害を受ける。そのために、多くの人が主に背いてしまう。

e.福音はすべての民族に宣べ伝えられる。

 

 そして、ここからが今日話題になっている「イチジクの枝が柔らかくなったら」ということに関してです。イチジクの枝が柔らかくなり葉っぱが出て茂り始めるということは、滅んだかと思われたイスラエルの国が復興するということであり、また、彼らがナザレのイエス・キリストに立ち返るということです。これについては聖書の二か所、ルカ21:24とローマ11:25,26を記憶してください。

 「異邦の時」が終わるまで、つまり異邦人伝道が完成するまでエルサレムは異邦人に踏み荒らされます(ルカ21:24)、

「21:24 人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」

最後にイスラエルの回復が起こると告げられています(ロ-マ11:25、26)。

11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、

 11:26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。」

 

 

 というわけで、世界のあらゆる民族に福音が宣伝えられて「異邦人の時」が終わるならば、イスラエルがキリストのもとに立ち返ることになります。今、事実、そのようなしるしが現れつつあるところです。

 1948年イスラエルはまず政治的に国家として回復しました。エルサレムが実質的にイスラエルのものとなったのは、1967年のことです。そしてこの67年以降、ユダヤ人のうちに聖霊イエス・キリストが彼らの待ち望んできたメシアであることを表し始めています。今や、世界に散っているユダヤ人のうち10万人、イスラエル国内に約1万人がナザレのイエスを、彼らが先祖アブラハム以来待ち望んだメシヤと信じるようになっているそうです。そのためイスラエル政府は、「反宣教法」によってこれを取り締まっているのです。

 枯れて死んでしまったかと見えていたイスラエルは枝が柔らかくなってきています。夏が近づいています。

 

 というわけで、このあとに残されている再臨の前兆は、先週お話しましたが、「荒らす憎むべき者」あるいは「滅びの子」「不法の人」と聖書が呼ぶ反キリスト的権力者が出現し、他の一切の宗教を禁じ、自らを神と名乗り、神殿の聖所に自分の座を設けて、自分こそ神であると宣言するということです。

 しかし、「滅びの子」が得意の絶頂にあるとき、主イエスはついに再臨されて、彼を滅ぼしてしまいます。 そして、主イエスは世界の神の民を、ご自分のみもとに集めてくださるのです。そして、最後の審判を行い、新しい天と新しい地に神の民を住まわせてくださるのです。黙示録22章。

 

 どうでしょうか。いちじくの枝はやわらかくなり、葉が出てきているでしょうか。たしかに枝が柔らかくなっていますか。夏は近いでしょうか。戦争と戦争の噂が聞こえます。飢饉地震もあります。世界各地で教会の弾圧もあります。そんな中で、あらゆる民族国語に福音が伝えられています。イスラエル国家は復興し、ユダヤ人の中にキリストに立ち返る人々が起こっています。たしかに、枝はやわらかくなり、今や葉までも見え始めています。主イエスは戸口まで近づいているのです。私たちが生きている時代は、歴史の中でも大変ユニークな時代なのです。

 

 さまざまに不安な要素のある時代の中で、私たちはどのように平安をもって揺るがないあゆみができるでしょうか。揺るぐものを土台とせず、揺るがないものを土台とする生き方をすることです。

31節「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」

 どんな偉大な文明も、永久に続くと思われる政権も滅びてきました。永遠のローマと呼ばれたローマも滅びました。その繁栄は過ぎ去ることがないといわれた唐の国の長安の都も滅びました。今は絶対と思われているアメリカもロシアも日本という国も、いずれは滅び去ります。すべてが滅びても、滅びることのないのは、神である主イエス・キリストの御言葉以外にはありません。移りゆく世にあって、揺るぐことのない主の御言葉にしっかりと人生の土台を据えている者は幸いです。あなたの人生の土台は揺るがない主の御言葉に据えられているでしょうか。それとも、この世の移りゆくものに土台を据えているのだろうか。ならば悔い改めて主の御言葉を土台とすることである。

「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」 

 

2.いつ主は来られるのか

 

 「いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」と弟子たちが尋ねたことに対して、主はまず「前兆」について話されました。そして、次に「いつ」についてです。32節から37節

 

 32節が答である。

「13:32 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」

主イエスの再臨が何年何月何日であるということは、ただ父なる神だけが知っていらっしゃるのです。だから、消極的には「世界の終わりは何年だ何月だ何日だ」などと教える人々にあおられたり、彼らについて行ったりしてはならない。彼らは偽預言者たちです。「にせキリスト、偽預言者たちが現れて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。」(マルコ13:22)とあるとおりです。

 

 では、主の再臨が何年何月何日とわからない私たちは積極的にはどうすればよいのでしょうか。33節。「気をつけなさい。目を覚まし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。」いつ主が戻られてもよい生活をすることです。それは、34節に記されています。

 「旅立つ人」とは主イエスのこと。「しもべ」とはあなたのことです。主は私たちにそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせて、天に行かれました。あなたは、今、自分が主から割り当てられた仕事を自覚し、これに忠実に励んでいるかということが主に問われているのです。主人から1タラント与かったしもべ、2タラントあずかったしもべ、5タラントあずかったしもべ、みなさんそれぞれでしょう。いずれにせよ、主を愛し、それをただしく活用することが大事です。

 教会とすべてのクリスチャンには二つの使命があります。

一つは福音宣教の使命であり、

もう一つは社会的責任という使命です。

みなさんが、置かれた持ち場、立場は違っており、働きも違っているでしょうが、それぞれの持ち場と立場において、私たちは福音をあかしする使命と社会的な責任を果たすことです。ご自分の口で福音が伝えられないならば、文書で伝えることもできます。今月も「苫小牧通信」を出しました。そうしていれば、いつ主がお戻りになっても、よくお出で下さいましたとお迎えできるでしょう。ほかの人と比べる必要はありません。自分の持ち場、立場において主にいただいた使命を果たすべきです。

しかし、もし、福音を伝えることもせずにいたら、1タラントのしもべのように土の中にうずめてあるのと同じです。主のお叱りを受けることになってしまいます。ちゃんと伝えましょう。

 

 またあなたの持ち場において、与えられた社会的職務はなんでしょうか。主婦であればその務めを、学生であればその務めを、農業者であればその務めを、会社員であればその務めを主からいただいた職務として自覚し、主に喜んでいただけるように励むことです。「主にお仕えするように」職業をもってしても、これに励むことです。お料理を作るなら、イエス様に食べていただくつもりで作り、自動車を作るならイエス様に乗っていただくつもりで安全にしっかりと作り、おもてなしするなら主イエスをもてなすつもりで、仕事をするのです。病床にあっても、教会のため家族の祝福のために、とりなし祈ることはできます。

もし、そのように励んでいたら、主が来られたときに御前に進んで出ることができるでしょう。あるいは家庭人としては夫として妻として子どもとしてそれぞれの立場において、クリスチャンとしてふさわしく励んでいるならば、主を喜んでお迎えできるのです。

 

 今や、いちじくの枝は柔らかくなり、葉も出始めています。主が再びもどられる日を待ち望みつつ、「勤勉で怠らず、霊に燃え主にお仕えしよう。」