水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

いちじくの木  に学べ

マルコ13:28-37、ルカ21:24、ローマ11:25

                               

13:28 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。

 13:29 そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。

 13:30 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。

 13:31 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

 13:32 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

  13:33 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。

 13:34 それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。

 13:35 だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。

 13:36 主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。

 13:37 わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」

 

 

 1.いちじくの木から(28-31節)

 

 日本のシンボルとしての植物といえば、桜でしょうか。古文で花といえば、桜を意味したほどです。では、イスラエルを象徴する植物といえば、オリーブとイチジクとブドウです。ローマ書9章から11章ではイスラエルオリーブの木に譬えられています。他方、いちじくはイスラエルでもっともよく見られる木です。たとえば主イエス自身も先に学んだマルコ11:13で、葉ばかり茂って実がならないいちじくの木を枯らしてしまわれたことがありましたが、それは当時の神殿の建て物や儀式ばかりデラックスでも、悔い改めと信仰のないイスラエルの国の滅亡を意味していました。

 いちじくの木は、枝が柔らかくなり、葉が出てくると、夏の近いことがわかるそうです。枝が柔らかくなり、葉が出てくることが夏の前兆であるように、主イエスがお話しになったもろもろの前兆が起こってきたならば、主イエスの再臨が戸口まで来ていると知るべきです。再臨の前兆について前回学びましたが、復習しておきましょう。「生みの苦しみの初め」と呼ばれる一般的な前兆は、6-8節。

a.自称キリストが現れる。

b.戦争・民族紛争の頻発。

c.方々に地震飢饉が起こる。

 このようなしるしは、陣痛のように寄せては返す波のように現れてきました。そのたびに敬虔なキリスト者たちは、主の再臨が近いと意識したものです。現代でもそうで、状況は甚だしくなりつつあります。格別、人口爆発飢饉はまさに人類が直面している危機です。国連の統計では2025年には世界人口は83億に達すると言われ、その半数以上が飢饉に苦しむことになると予測されています。

 次に、教会と福音宣教に関する前兆は、9-13節。

d.教会は権力から迫害を受ける。そのために、多くの人が主に背いてしまう。

e.福音はすべての民族に宣べ伝えられる。

 

 そして、ここからが今日話題になっている「イチジクの枝が柔らかくなったら」ということに関してです。イチジクの枝が柔らかくなり葉っぱが出て茂り始めるということは、滅んだかと思われたイスラエルの国が復興するということであり、また、彼らがナザレのイエス・キリストに立ち返るということです。これについては聖書の二か所、ルカ21:24とローマ11:25,26を記憶してください。

 「異邦の時」が終わるまで、つまり異邦人伝道が完成するまでエルサレムは異邦人に踏み荒らされます(ルカ21:24)、

「21:24 人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」

最後にイスラエルの回復が起こると告げられています(ロ-マ11:25、26)。

11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、

 11:26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。」

 

 

 というわけで、世界のあらゆる民族に福音が宣伝えられて「異邦人の時」が終わるならば、イスラエルがキリストのもとに立ち返ることになります。今、事実、そのようなしるしが現れつつあるところです。

 1948年イスラエルはまず政治的に国家として回復しました。エルサレムが実質的にイスラエルのものとなったのは、1967年のことです。そしてこの67年以降、ユダヤ人のうちに聖霊イエス・キリストが彼らの待ち望んできたメシアであることを表し始めています。今や、世界に散っているユダヤ人のうち10万人、イスラエル国内に約1万人がナザレのイエスを、彼らが先祖アブラハム以来待ち望んだメシヤと信じるようになっているそうです。そのためイスラエル政府は、「反宣教法」によってこれを取り締まっているのです。

 枯れて死んでしまったかと見えていたイスラエルは枝が柔らかくなってきています。夏が近づいています。

 

 というわけで、このあとに残されている再臨の前兆は、先週お話しましたが、「荒らす憎むべき者」あるいは「滅びの子」「不法の人」と聖書が呼ぶ反キリスト的権力者が出現し、他の一切の宗教を禁じ、自らを神と名乗り、神殿の聖所に自分の座を設けて、自分こそ神であると宣言するということです。

 しかし、「滅びの子」が得意の絶頂にあるとき、主イエスはついに再臨されて、彼を滅ぼしてしまいます。 そして、主イエスは世界の神の民を、ご自分のみもとに集めてくださるのです。そして、最後の審判を行い、新しい天と新しい地に神の民を住まわせてくださるのです。黙示録22章。

 

 どうでしょうか。いちじくの枝はやわらかくなり、葉が出てきているでしょうか。たしかに枝が柔らかくなっていますか。夏は近いでしょうか。戦争と戦争の噂が聞こえます。飢饉地震もあります。世界各地で教会の弾圧もあります。そんな中で、あらゆる民族国語に福音が伝えられています。イスラエル国家は復興し、ユダヤ人の中にキリストに立ち返る人々が起こっています。たしかに、枝はやわらかくなり、今や葉までも見え始めています。主イエスは戸口まで近づいているのです。私たちが生きている時代は、歴史の中でも大変ユニークな時代なのです。

 

 さまざまに不安な要素のある時代の中で、私たちはどのように平安をもって揺るがないあゆみができるでしょうか。揺るぐものを土台とせず、揺るがないものを土台とする生き方をすることです。

31節「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」

 どんな偉大な文明も、永久に続くと思われる政権も滅びてきました。永遠のローマと呼ばれたローマも滅びました。その繁栄は過ぎ去ることがないといわれた唐の国の長安の都も滅びました。今は絶対と思われているアメリカもロシアも日本という国も、いずれは滅び去ります。すべてが滅びても、滅びることのないのは、神である主イエス・キリストの御言葉以外にはありません。移りゆく世にあって、揺るぐことのない主の御言葉にしっかりと人生の土台を据えている者は幸いです。あなたの人生の土台は揺るがない主の御言葉に据えられているでしょうか。それとも、この世の移りゆくものに土台を据えているのだろうか。ならば悔い改めて主の御言葉を土台とすることである。

「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」 

 

2.いつ主は来られるのか

 

 「いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」と弟子たちが尋ねたことに対して、主はまず「前兆」について話されました。そして、次に「いつ」についてです。32節から37節

 

 32節が答である。

「13:32 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」

主イエスの再臨が何年何月何日であるということは、ただ父なる神だけが知っていらっしゃるのです。だから、消極的には「世界の終わりは何年だ何月だ何日だ」などと教える人々にあおられたり、彼らについて行ったりしてはならない。彼らは偽預言者たちです。「にせキリスト、偽預言者たちが現れて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。」(マルコ13:22)とあるとおりです。

 

 では、主の再臨が何年何月何日とわからない私たちは積極的にはどうすればよいのでしょうか。33節。「気をつけなさい。目を覚まし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。」いつ主が戻られてもよい生活をすることです。それは、34節に記されています。

 「旅立つ人」とは主イエスのこと。「しもべ」とはあなたのことです。主は私たちにそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせて、天に行かれました。あなたは、今、自分が主から割り当てられた仕事を自覚し、これに忠実に励んでいるかということが主に問われているのです。主人から1タラント与かったしもべ、2タラントあずかったしもべ、5タラントあずかったしもべ、みなさんそれぞれでしょう。いずれにせよ、主を愛し、それをただしく活用することが大事です。

 教会とすべてのクリスチャンには二つの使命があります。

一つは福音宣教の使命であり、

もう一つは社会的責任という使命です。

みなさんが、置かれた持ち場、立場は違っており、働きも違っているでしょうが、それぞれの持ち場と立場において、私たちは福音をあかしする使命と社会的な責任を果たすことです。ご自分の口で福音が伝えられないならば、文書で伝えることもできます。今月も「苫小牧通信」を出しました。そうしていれば、いつ主がお戻りになっても、よくお出で下さいましたとお迎えできるでしょう。ほかの人と比べる必要はありません。自分の持ち場、立場において主にいただいた使命を果たすべきです。

しかし、もし、福音を伝えることもせずにいたら、1タラントのしもべのように土の中にうずめてあるのと同じです。主のお叱りを受けることになってしまいます。ちゃんと伝えましょう。

 

 またあなたの持ち場において、与えられた社会的職務はなんでしょうか。主婦であればその務めを、学生であればその務めを、農業者であればその務めを、会社員であればその務めを主からいただいた職務として自覚し、主に喜んでいただけるように励むことです。「主にお仕えするように」職業をもってしても、これに励むことです。お料理を作るなら、イエス様に食べていただくつもりで作り、自動車を作るならイエス様に乗っていただくつもりで安全にしっかりと作り、おもてなしするなら主イエスをもてなすつもりで、仕事をするのです。病床にあっても、教会のため家族の祝福のために、とりなし祈ることはできます。

もし、そのように励んでいたら、主が来られたときに御前に進んで出ることができるでしょう。あるいは家庭人としては夫として妻として子どもとしてそれぞれの立場において、クリスチャンとしてふさわしく励んでいるならば、主を喜んでお迎えできるのです。

 

 今や、いちじくの枝は柔らかくなり、葉も出始めています。主が再びもどられる日を待ち望みつつ、「勤勉で怠らず、霊に燃え主にお仕えしよう。」