水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

世の光

マルコ4:21-23

 

2016年8月7日 苫小牧主日礼拝

4:21 また言われた。「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。

 4:22 隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。

 4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」

 

 

1.「あかり」

 

「あかり」とはランプのことです。イエス様の時代のランプというのは、平らな素焼きの急須のようなかたちをしていました。急須でいえば、お湯を注ぎいれる口から油を入れて、お茶を注ぎだす口に灯心を差し込んで、ここに火をともして使用するものでした。

当時、イスラエルの庶民が住んだ家は日干し煉瓦を積み上げて造られたものですから、窓は小さくてお昼でも家の中はかなり暗かったのです。夜はもちろんですが、お昼でも銀貨を落としたおばさんが、ランプをもって家の隅をさがしまわらねばならなかったとルカ伝15章にあります。そんなふうに生活必需品でした。

あかりをもってきたのに、それを枡の下に隠したり、ベッドの下に隠したりしては役に立ちません。ちゃんと暗いところを照らしてこそ、明かりとしての役割を果たすことができます。当たり前のことです。

 

では、イエス様はここで「あかり(ランプ)」という譬えで何を話そうとしていらっしゃるのでしょうか。それは、イエス様を信じるあなた自身です。また、イエス様を希望として生きている苫小牧福音教会という信仰共同体のことです。イエス様をわが主と受け入れたそのときから、イエス様は、あなたたを、また、私たち教会を世の光となさいました。

ランプが生活必需品であるように、あなたという存在は、あなたの遣わされた家庭や職場や地域にあって、必需品、必須の存在なのです。また、私たち苫小牧福音教会は、自分たちではそんなふうに思えなくても、神様の目から見るならば、実はこの地域にあって必要不可欠な存在なのです。なぜ必要不可欠といえるのでしょうか。少なくとも二つの理由があります。

紀元前2000年頃、神ご自身が二人の御使いとともにアブラハムに現われたことがありました。それは、ソドムとゴモラの地の滅亡を告げるためでした。アブラハムはそこに甥のロトとその家族が住んでいることを思い、ソドムのために粘り強くとりなしの祈りをしました。その最後に、こうあります。

18:32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」

 ごくわずかであっても、そこに真の神を畏れる民がいるならば、神はその町を滅ぼすことを猶予してくださるのです。これが教会が、この苫小牧に、この日本にとって必要不可欠な理由の第一です。

 

教会が必要不可欠な第二の理由は、暗闇の中のランプとして、神様のこの町の人々、この国の人々、この世界の人々に、真理を明らかにするためです。ですから、自分が天地の創造主である真の神さまを信じていること、御子イエス・キリストを信じていることを、世の人たちに隠していてはいけません。それはランプをもってきて、枡の下に、ベッドの下に隠して置くような奇妙なことです。イエス様を信じたならば、私たちは旗印を鮮明にすることが大事なことです。

 

2.暗闇

 

(1)神奈川県相模原市

 私たちは、日本社会が闇に覆われているという現実を、先々週、恐ろしいほどに実感させられました。神奈川県相模原市の障害者施設で、「愛国心」に燃える男が、19人の入居者を殺害し、26人に怪我を負わせました。彼は「障害者のせいで税金がかかる」「障害者が減れば税金がそのぶん浮く」などと発言しています。また、植松容疑者は、衆議院議長大島理森自民党)に宛てた手紙には、自分は愛国のために、障害者470名「抹殺」できること、今回の「作戦」では2つの施設の260名を殺害するつもりであり、心神喪失による犯行として服役最長2年間にしてほしいこと、また、5億円の金銭的支援を約束して欲しい旨を記し、二回にわたって安倍晋三様に相談して欲しいと結んでいます。

http://mainichi.jp/articles/20160727/k00/00m/040/020000c

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  衆議院議長大島理森

 

 この手紙を手にとって頂き本当にありがとうございます。

 私は障害者総勢470名を抹殺することができます。

 常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為(ため)と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。

 理由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれないと考えたからです。

 私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。

 重複障害者に対する命のあり方は未(いま)だに答えが見つかっていない所だと考えました。障害者は不幸を作ることしかできません。

 今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛(つら)い決断をする時だと考えます。日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。

 世界を担う大島理森様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょうか。是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います。

 私が人類の為にできることを真剣に考えた答えでございます。

 衆議院議長大島理森様、どうか愛する日本国、全人類の為にお力添え頂けないでしょうか。何卒よろしくお願い致します。

    文責 植松 聖

 

 作戦内容

 職員の少ない夜勤に決行致します。

 重複障害者が多く在籍している2つの園を標的とします。

 見守り職員は結束バンドで見動き、外部との連絡をとれなくします。

 職員は絶体に傷つけず、速やかに作戦を実行します。

 2つの園260名を抹殺した後は自首します。

 作戦を実行するに私からはいくつかのご要望がございます。

 逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい。心神喪失による無罪。

 新しい名前(伊黒崇)本籍、運転免許証等の生活に必要な書類。

 美容整形による一般社会への擬態。

 金銭的支援5億円。

 これらを確約して頂ければと考えております。

 ご決断頂ければ、いつでも作戦を実行致します。

 日本国と世界平和の為に、何卒(なにとぞ)よろしくお願い致します。

 想像を絶する激務の中大変恐縮ではございますが、安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております。

植松聖

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(2)弱者切捨て思想と政治の責任

 植松容疑者は大麻を使用していたようですから、確かに、正常な知性でものを考えて行動したことではありません。しかし、ではこの事件は、単に一人の異常者の引き起こした異常な事件として済ませられるかと言うと、そうとは言えません。これは現在の政治と世相と深いつながりがあるからです。二つ理由があります。

第一は、植松容疑者が安倍氏首相に対して敬意と親近感をもっていることが明らかだからです。彼は手紙の中で二度までも、「是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います。」「、安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております。」と首相に言及しています。植松容疑者は、安倍政権が彼の主張と行動に賛同してくれると思い込んでいたのです。

第二は、安倍政権支持者たちが、植松容疑者の発言について共感を示す人々がネット上で発言しているからです。〈そうやってみんなすぐ植松容疑者が異常だと言い張るけど行動がよくなかっただけで言ってることは正論だと思う〉〈植松の言ってることはこれからの日本を考えるとあながち間違ってはいない〉〈穀潰しして連中に使われる予定だった税金節約して、国の役にたったよ彼は。〉彼らは、〈自民と公明が勝ってるのみるとマジでせいせいする〉〈安倍総理を応援してる自分がいる〉といって、障がい者ヘイトを垂れ流している自らが安倍政権の支持者であることを明らかにしています。彼らは第二、第三の植松容疑者となりうるのです。

 さらに、「愛国を考えるブログ―自民党ネットサポーターズクラブ会員として愛国という視点から自らの意見を論理的に述べるブログ」の中には、「重度障害者を死なせることは決して悪いことではない」という文章があります。

 自民党ネットサポーターズクラブという団体は、 麻生太郎谷垣禎一安倍晋三を最高顧問とし、小池百合子を相談役としています。このネットサポーターズクラブは、インターネット上でヘイトスピーチを繰り返して、世論を現政権に有利な方向に誘導するために運動をしていて、会員1万人です。

「こんな異常者たちの発言について自民党政府は責任がない」とは言えません。なぜなら、政府閣僚はこの種の発言をくりかえしており、かつ、それを露骨に政策に反映しているからです。麻生氏は終末期医療にふれて「さっさと死ねるようにしてもらうとか、考えないといけない。」といい、延命治療について「そのお金が政府の金でやってもらっているなんて思うと、なおさら寝覚めが悪い。」「たらたら飲んで、食べて、何もしない人(=患者)の分の金(=医療費)を何で私が払うんだ。」「90歳で老後が心配って、いつまで生きるつもりだ」と発言しています。

政策についていえば、たとえば昨年から今年精神障害者の障害者年金を1割減額して、7.9万人の人々が支給を停止されたり減額されています。植松容疑者は尊敬する首相や副首相の模範に倣ったのです。政府の弱者切捨て思想の暗闇が、庶民の良心をも覆ってしまって、人間の尊厳ということを見えなくさせてしまっています。これが、現代日本を覆っている闇です。

 

3. 人間の尊厳の根拠

 

 このような時代、私たちは世の光として、闇の中で聖書の真理を輝かせる務めがあります。聖書は人間の尊厳について、なんと教えているでしょうか?

「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」創世記1:27

また、御子イエスは、人が、神の似姿に造られた尊い存在であるからこそ、十字架で身代わりとなって命を投げ出してくださったのです。

ここに、人間の人間としての尊厳の根拠があります。どういう家柄に生まれたとか、何ができるとかできないとか、カネがかせげるかせげないとか、偏差値が高いか低いか、健康であるか病気であるかとか、兵隊になれるかなれないかとか、そういうこと以前に、あらゆる人間が神の似姿として造られたゆえに、尊いのです。私たちは、効率主義、功利主義、拝金主義、新自由主義経済、国家主義という暗闇におおわれた時代の中で、私たちは聖書が教えるこの真理を証しする世の光です。

 自閉症という障害をもって生まれた子の父親神戸金史さんという元毎日新聞記者の方が書かれた詩を紹介しておきます。

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私は、思うのです。

長男が、もし障害をもっていなければ。

あなたはもっと、普通の生活を送れていたかもしれないと。

 

私は、考えてしまうのです。

長男が、もし障害をもっていなければ。

私たちはもっと楽に暮らしていけたかもしれないと。

 

何度も夢を見ました。

「お父さん、朝だよ、起きてよ」

長男が私を揺り起こしに来るのです。

「ほら、障害なんてなかったろ。心配しすぎなんだよ」

夢の中で、私は妻に話しかけます。

 

そして目が覚めると、

いつもの通りの朝なのです。

言葉のしゃべれない長男が、騒いでいます。

何と言っているのか、私には分かりません。

 

ああ。

またこんな夢を見てしまった。

ああ。

ごめんね。

 

幼い次男は、「お兄ちゃんはしゃべれないんだよ」と言います。

いずれ「お前の兄ちゃんは馬鹿だ」と言われ、泣くんだろう。

想像すると、

私は朝食が喉を通らなくなります。

 

そんな朝を何度も過ごして、

突然気が付いたのです。

 

弟よ、お前は人にいじめられるかもしれないが、

人をいじめる人にはならないだろう。

 

生まれた時から、障害のある兄ちゃんがいた。

お前の人格は、

この兄ちゃんがいた環境で形作られたのだ。

お前は優しい、いい男に育つだろう。

 

それから、私ははたと気付いたのです。

 

あなたが生まれたことで、

私たち夫婦は悩み考え、

それまでとは違う人生を生きてきた。

 

親である私たちでさえ、

あなたが生まれなかったら、

今の私たちではないのだね。

 

ああ、息子よ。

 

誰もが、健常で生きることはできない。

誰かが、障害を持って生きていかなければならない。

 

なぜ、今まで気づかなかったのだろう。

 

私の周りにだって、

生まれる前に息絶えた子が、いたはずだ。

生まれた時から重い障害のある子が、いたはずだ。

 

交通事故に遭って、車いすで暮らす小学生が、

雷に遭って、寝たきりになった中学生が、

おかしなワクチン注射を受け、普通に暮らせなくなった高校生が、

嘱望されていたのに突然の病に倒れた大人が、

実は私の周りには、いたはずだ。

 

私は、運よく生きてきただけだった。

それは、誰かが背負ってくれたからだったのだ。

 

息子よ。

君は、弟の代わりに、

同級生の代わりに、

私の代わりに、

障害を持って生まれてきた。

 

老いて寝たきりになる人は、たくさんいる。

事故で、唐突に人生を終わる人もいる。

人生の最後は誰も動けなくなる。

 

誰もが、次第に障害を負いながら

生きていくのだね。

 

息子よ。

あなたが指し示していたのは、

私自身のことだった。

 

息子よ。

そのままで、いい。

それで、うちの子。

それが、うちの子。

 

あなたが生まれてきてくれてよかった。

私はそう思っている。

 

父より 

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神の国の奥義

マルコ4章1-20節

2016年7月31日

序 4章は1節から34節までは、神の国(天の御国)についての譬えが続いていきます。

 「天の御国」というのは、「神の国」と同義語です。国と訳されることばは、バシレイアといいますが、バシレウスというのは王様のことですから、バシレイアは王国です。王国というのは、王様が支配者として支配している国。ですから、天の王国、神の王国ということは、神の支配する国のことです。

 

1 真理を明らかにしていただける時代

 

(1)たとえ話を悟らない人々

 イエス様はこの日、多くの群衆に押し迫ってきたので、彼らみなに声が届くために、小舟に乗って腰を下ろして、小舟から岸の群衆に向かってお話をなさいました。腰を下ろして話すというのは、当時の正式な教え方です。湖面を吹き渡るそよかぜにイエス様の声が運ばれて、湖畔に立つ群衆の耳に届くように配慮されたのです。まずは、種まきのたとえです。3節から9節。

4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。

 4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。

 4:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。

 4:6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。

 4:7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。

 4:8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」

 4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

 その場にいて、この種まきの譬えを聞かされて解き明かされなかった人々は、どういう風にこれを理解したのでしょう。ある人は、「イエス様は大工さんなのに、農業指導員みたいな話をするなあ。」と思ったでしょう。ある人は「いったいイエス様は何を教えたいのだろうか?」と首をかしげながら帰ったことでしょう。いずれにしても、多くの人たちにはこの譬えの意味はすぐにはわからなかったのです。

 譬え話というと、ふつうわかりにくいことをわかりやすくするためにするものだと考えますが、この譬えだけを聞かされたとしてもいったい何をイエス様が伝えようとなさっているかはわからなかったでしょう。特に、これは神の王国の譬えですが、当時の多くのユダヤ人たちは「王国」と聴いて思い浮かべるのはかつて1000年ほど前にダビデやソロモンが王として支配していた時代のイスラエルの栄光の時代でした。ですから、彼らはイエス様に地上的な王国、憎きローマ帝国の軍隊を打ち破り、帝国のくびきからイスラエルを解放する強力な王様が出現して、繁栄する地上の王国を期待しました。

ところが、イエス様のもたらす神の王国は、そういう政治的なものではなくて、私たちの心の中に始まって生き方に神を愛し隣人を愛するという変化をもたらし、家庭が変わり、職場が変わり、地域が変わり、社会が変わるというふうに浸透していくものでした。また、それはこの世で終わるものではなく、次の世にも永遠に続くものでした。軍事的・政治的革命を期待する人々には、イエス様のたとえ話は全く意味不明でした。

十二弟子たちは不思議に思って、たとえをもって群衆にお話になるわけを、こっそりとイエス様にうかがいました(10節)。するとイエス様は、イザヤの預言を引用されて、次のように説明されました。

「4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。 4:12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」

 イザヤは、神様は心かたくなな人々には、その福音の真理を隠してしまわれるのだとおっしゃっているのです。実際、彼らのうちの多くの者たちはこれからしばらくのちに、この世の軍事的・政治的な王として立ち上がろうとせず、異邦人、ローマ人にも癒しを行ったりするイエス様に失望して、十字架にはりつけて殺してしまいます。

 

(2)真理を明らかにされる人々

 イエス様のたとえの意味する神の王国の真理を悟ることの許されることは決して当たり前のことではありません。マタイの平行記事に次のようにあります。

「 13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。 13:17 まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。」

旧約時代には、信仰の父アブラハム、偉大な預言者モーセダビデ王、イザヤ、エリヤといったたくさんの敬虔な人々がおりました。そうした人々は、メシヤを待ち望み、その約束を与えられましたが、その成就を見ることはありませんでした。レストランのショーウィンドーで美味しそうなサンプルだけ見さられて、「あのお肉はほっぺが落ちるほどうまいよ」と説明されながら、食べられないままに家に帰った人のようです。

しかし、神の御子が人となり救い主としておいでになった、今の時代の私たちは、偉大な預言者や義人たちが切望したそのメシヤを私の救い主として受け入れ味わうことができるのです。私たちはこの時代に生かされ、聖徒として召されたことはなんとありがたいことでしょうか。いくら感謝しても感謝し足りないほどです。

 

2.種まきのたとえ

 

 さて、主イエスは種まきのたとえをもって、神の国の奥義、天の王国の奥義を明らかにされます。それは、政治的・軍事的な行動によってではなく、福音の種が私たちひとりひとりのたましいに蒔かれることによって、芽を出し、花を咲かせて実を結び、さらに、私たちの周囲に広がっていくものなのです。それが神様の方法です。

「4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。 4:15 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。」

 

(1)まず種を蒔く

 種とは御国のことば、キリストの教えです。実を結ぶ秘訣は、みことばの種がまずなにより肝心だということがわかりますね。どんな土地でも、種をまかねば収穫はゼロです。ですから、みことばの種を、個人の生活において聖書を通読し続けることに励み、主の日、あるいはさまざまの集いでみことばを分かち合うことに励みましょう。種を蒔くのは良い地であるに越したことはありませんが、まずは、種を蒔くことが大事です。信州にいて、少し農業の真似事をしていたころ、お百姓さんに畑の土の造り方などを教えてくださいとお話しすると、お話の最後はかならず「とにかく、蒔いてみるだよ。」ということでした。蒔いてみるならば、出来不出来はあっても何か取れますが、理屈を言っているだけでは作物は決して出てきません。福音の種の蒔き方にもうまい下手がありましょうし、条件の違いもありますが、とにかくみことばの種を蒔くことがなにより大事なことです。

 

(2)道端

第一の種は道端に落ちました。これは神のことばにまるで無関心な人、聞く耳のない人々でしょう。つまり、神様のことばが自分に関係があることを悟らず、自分の罪を認めず、悔い改めず、イエスを信じようとしない人です。そういう人の場合には、悪魔が来て、その人の心にまかれたみことばを奪っていってしまいます。「聖書は私とは関係ない」と思っているならば、悪魔がやって来て、その人の心からみことばを奪ってしまいます。

聖書を読むとき、聖書の解き明かしを聞いているとき(今!)、このことばは神様が私に語っているのだという心構えて、心の耳をすませることが大事です。最初から、神などいるものかという選択をしていたら何も聞こえてきません。

 

先週日高バイブルキャンプに出かけまして、そこで1人の中学生と話しながら一緒に、人生における賭けということを考えて、一つの表を完成しました。

 

神を信じる

神を信じない

神がいる場合

◎(充実した人生と永遠の天国)

×(むなしい人生と永遠の地獄)

神がいない場合

○(充実した人生)

△(むなしい人生)

 というわけで、とにかく神様がいると信じて、聖書のことばに耳を傾けるのが賢明な賭けです。

 

(3)砂の薄い岩地

第二は岩地にまかれた種です。一時的・感情的タイプのことです。

「4:16 同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、 4:17 根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」

岩地というのは、1センチか5ミリは少しばかり土があるけれど、その下は岩だという地面です。つまり、イエス様の話を聞いたら、一時的な感情で「信じます」と表明するのですが、すぐに醒めてしまうのです。映画館で感動して泣いたのに、映画館から出てきたら平気で笑っていられるみたいな感じでしょうか。感情というのは、熱しやすくさめやすいものです。イエス様の十字架の愛の話を聞いて感動して信じて受け入れる。けれども、イエス様を主として信じるということは、自分の十字架を負って、イエス様の後に従っていくことなのだということをわきまえていないので、イエス様を信じることのゆえに迫害や困難があると、さっさとイエス様のもとから逃げ出してしまう人です。

実を結ぶ信徒となるためには、エス様を信じるとは、イエスを単に救い主としてでなく、わが人生の主として受け入れ、自分はイエス様の弟子となってしたがうのだということをわきまえなければなりません。「あなたがたは、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」(ピリピ1:29)

 

(4)いばらの地

第三は、いばらの地タイプの人の心です。

「4:18 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞いてはいるが、 4:19 世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」

この人の心にまかれた種は、少しは芽を成長しますが、荊の方がもっと勢いが強いので、日が当たらなくなって結局結実にいたりません。いばらとは「この世の心遣いと富の惑わし」です。知り合いの宣教師が話していたことです。彼が東京で伝道していたとき、Kさんという人が、奥さんといっしょに教会に来るようになりました。当初喜んで聖書クラスなどにも出て洗礼も受けました。ところがある日、教会の修養会があったときのことです。Kさんは宣教師に「先生は富の誘惑に気をつけなさいとおっしゃいますが、わたしは必ず金持ちになって見せます」と豪語したそうです。どうも、宣教師が礼拝説教のなかで富の問題を指摘したことが、カチンときたようです。あのバブル時代のことです。Kさんは、やがて教会から足が遠のくようになり、なにか事業を起こし一時的には羽振りも良かったようですが、やがて事業も家庭も壊れてしまったそうです。今は、どうしているのでしょうか。主のもとに帰ってきているといいのですが。

私たちは、主のために実を結ぶ人生を送りたいならば、この世の誘惑、この時代、格別マモンの誘惑に警戒しなければなりません。イエス様によれば富はえてして神の代用品、偶像になるのです。お金は、私たちの人生の手段であって人生の目的ではありません。私たちの人生の目的は、「神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶ」ことのほかありません。富の管理において神の国とその義とを第一として、主におささげした残りのものをもって生活をするようにと心掛けることです。

 

(5)良い地

そして、最後に第四は良い地にまかれる種は、豊かに結実します。

「4:20 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」

良い地の心とはどういう心でしょうか。

第一に、みことばを聞いたならば、まず、私たちは、「これは私に語られる神様のおことばだ」と受け入れて聞くことです。「主よ、お語りください。しもべは聞いています。」という心で主のみことばを聞くことです。

第二に、イエスを主として受け入れ、自分はイエス様の弟子となって、自分の十字架を負ってイエス様にしたがうのだということをわきまえることです。

第三に、あくまでもイエス様を主として、富の誘惑、この世の欲の誘惑に警戒することです。富の管理において神の国とその義とを第一として、主におささげした残りのものをもって生活をするようにと心掛けることです。

こうした心がけを実践するならば、ある人は百倍、ある人は六十倍、ある人は三十倍の実をむすんで、イエス様にご栄光をお返しすることができます。「よくやった。よい忠実なしもべだ。」とかの日には、天国に迎えていただくことができます。

 

結び

私たちは人生のある時点で、神様からの呼びかけを受けます。昨年の夏、天に召された吉田廣兄弟は若い日に、近所にひとりの牧師が住んでいて交流があったそうですが、そのときは神様の呼びかけを受け入れないままにその後の人生を歩まれたそうです。

けれども、年を召されてからご夫妻で苫小牧福音教会に通われるようになり、キリストの福音を私のためであったのだと受け入れて洗礼を受けられました。毎主日、ご夫妻で忠実に礼拝に出席され、ご奉仕をなさり、豊かにささげる人生を歩まれ、その御霊の実を結ばれた穏やかなお人柄が、兄弟姉妹に良い霊的な感化を与えられたとうかがっています。病を得られてからは、酸素ボンベを携えて礼拝に来られていらしたとうかがっています。

昨年、兄弟が天に召されたその日は、美園まきばに奥様が出席し帰宅されて、廣兄弟にそのまきばのご報告をなさると、兄弟は嬉しそうに聞かれました。それから呼吸が苦しくなられて午後4時頃に主イエスが兄弟を天に迎え入れてくださいました。兄弟の地上における信仰生活は必ずしも長いものではありませんでしたが、みことばを受け入れ、豊かな御霊の実を結ばれた、主に喜ばれるものでした。いつかお目にかかれる日を、私も楽しみにしております。

 

私たちも、神様の前に豊かに実を結び、神の国、神のご支配をあなたの生活に、家族に、仕事の仕方に、地域社会、世界に広げて行きましょう。

主イエスの家族

マルコ3章20-35節

 

2016年7月24日 苫小牧主日礼拝

3:20 イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。

 3:21 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。

  3:22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

 3:23 そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。

 3:24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。

 3:25 また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。

 3:26 サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。

 3:27 確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。

 3:28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。

 3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」

 3:30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。

   3:31 さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。

 3:32 大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています」と言った。

 3:33 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」

 3:34 そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。

 3:35 神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

 

 

序 本文の構造・・・挟み込み

 本日お読みした聖書箇所は、少し珍しい書き方がされています。つまり、20節21節でイエス様の家族の者たちが、「兄ちゃんがおかしくなってしまった」と心配して迎えに来たということが語られているのですが、その話はいったん切れて、イエス様と律法学者たちの議論が挟み込まれて、31節で話が再開するのです。イエス様の律法学者との議論を聞いていた人々が、「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています」と言ったのでした。

 こういう「挟み込み」の書き方をマルコは時々しています。マルコは何を意図しているかといえば、二つの場面が同時進行していることを、この書き方でもって表わそうとしているのです。全体に共通するテーマとは、「家」ということでしょう。主イエスの肉の家、サタンの家、そして、主イエスの霊の家です。

 そこで、今日は、話をわかりやすくするために、まず、律法学者が論じていた件から、サタンの家の話、次に、聖霊をけがす罪についてお話し、最後に、イエス様の肉の家族と霊の家族についてお話します。

 

1 ベルゼブル(サタン)の家にも秩序あり

 

さて、場所はガリラヤのカペナウムあたりです。身内の人々がイエス様を連れ戻しに来たとき、イエス様のもとには、はるばるエルサレムから偉い律法学者の先生たちが来て、議論を吹っかけているところでした。律法学者たちは、イエスが数多くの人々から悪霊を追い出して、その影響力から解放していることが単なる噂ではなく、事実であるということ自体は認めざるを得ませんでした。イエス様のもとに行って、多くの人々が病気を癒され、悪霊を追い出されたという数多くの証言を確認できましたし、彼らの目の前で、そういう御業が行われていたからです。

エス様のなす数々の奇跡は「しるし」と呼ばれます。「しるし」とはサインのことで、たとえば野球で監督が三本指で頭をかくサインをすると、「次はヒットエンドランだ」とか、「次はスクイズだ」とかというメッセージを受け取るのです。イエス様の周囲に集まった多くの人々は、御子イエスの悪霊追い出しや、いやしというサインによって、「イエスは神が遣わされたお方なのだよ」という聖霊によるメッセージを受け取ったのです。

しかし、この律法学者たちは、なんとしてもイエスが神から遣わされた者であることを認めたくありませんでした。二つの理由がありました。一つは彼らの律法に関する考え方からすれば、イエスは律法をないがしろにしているように見えたからです。とくに安息日の過ごし方が問題でした。ほんとうは、イエス様こそ、安息日にもっともふさわしい愛の実践をされたのですが、彼らの目にはイエス安息日を破っていると見えました。彼らは「安息日律法を破っているような男が、神の力によって悪霊を追い出すことができるはずがない」と考えました。もう一つの理由は、「ねたみ」でした。これまで民衆は律法学者、とくにパリサイ派の律法学者を尊敬し支持していたのですが、今、急速に民衆の尊敬と人気はイエス様に移って行きつつあったからです。嫉妬というのは、真実を見る目をふさいでしまい、聖霊が与えるサインも見させなくしてしまうものなのです。

そこで、彼らはなんとしても「イエスが神から遣わされた方である」という、聖霊の語り掛けを受け入れないために、屁理屈を考えました。それは、<イエスの中には悪霊のかしらであるベルゼブル(サタンの別名)が住んでいるから、その権威でもって下級の悪霊たちを追い出しているのだ>というものでした。そして、この説を民衆に対して吹聴したのです。

 3:22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

しかし、主イエスは、律法学者たちをそばに呼んで、そんな屁理屈は通用しないと簡単にやっつけてしまいます。

 3:23 そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。 3:24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。

 3:25 また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。 3:26 サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。

 3:27 確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。

 つまりサタンの家にもちゃんと秩序があって、ボスであるサタンと、手下である悪霊たちとがいさかいを起こしたりなどしてはいないのだというのです。今、イエス様が、「強い人」であるサタンを縛り上げているからこそ、その下級の悪霊どもを追放できているのだとおっしゃるのです。

 

2 聖霊をけがす罪

 

 そして、ことのついでに、『聖霊をけがす罪』という罪について、イエス様は律法学者たちに警告なさいます。

3:28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。 3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」 3:30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。

「永遠に赦されることがない、聖霊をけがす罪」とは一体どういうことでしょうか。結論からいいます。イエス様によって赦されない罪は一つもなく、イエス様によらないで赦される罪は一つもありません。したがって、永遠に赦されない罪とは、どこまでもイエス様を拒絶することです。

エスの「しるし」を見た律法学者たちの内側には、聖霊が「イエスは神の遣わされたお方だ。イエスを信じよ。」と語りかけられました。それを拒絶して、彼らは心かたくなにして「イエスは悪霊のかしらベルゼブルに取り付かれているのだ」と主張しました。そして悔い改めのチャンスを自らつぶしたのです。彼らは永遠の滅びを選び取りました。

聖霊は人のうちに働いて罪を自覚させ悔い改めを促し、イエスが神の御子であることを示すのです。しかし、もしイエスをあくまでも拒絶するならば、もはや、その人は悔い改めて、イエスを信じることができなくなってしまい、永遠にゆるされません。そういう人は「私は聖霊をけがす罪を犯したのだろうか」ともはや悩むこともありません。ケロリとしたものです。

私たちは聖霊が、「あなたのうちに罪がある。罪を認めなさい。イエスを信じて、神に立ち返りなさい。」と迫ってくださるならば、すなおに従うべきです。さもなければ、永遠に悔い改めることもできず、赦されず、その最後は悪魔と同じくゲヘナを終の棲家とすることになってしまいます。

「主を呼び求めよ。お会いできる間に、近くにおられるうちに呼び求めよ。」とあります。私たちの人生のなかで、主が近くに迫ってくださることは、そう何度もあるわけではありません。今、主があなたに近く迫ってくださっているならば、主を呼び求めて、己の神の前における罪を認めてイエス様を信じることです。

 

3 イエスの家族

 

(1)血縁の家族

さて、次に、イエス様の身内の人々がイエス様を迎えに来た件について、お話します。

「3:20 イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。 3:21 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。」

エス様は12歳に養父ヨセフと母マリヤとエルサレム神殿に出かけたという記事がルカ福音書にありますが、その後、どうやら大工であった養親ヨセフはどうやら早く世を去ったようです。ヨセフとマリヤの間には何人かの男女が生まれて、イエス様の弟妹となっていましたから、イエス様は一家の長男として、父の代わりを務め、母も弟妹たちもイエス様を頼りにしていたのです。「たくみの家に人となりて、貧しき憂い、生くる悩みつぶさになめしこの人」でした。

ところが、やさしくて頼りがいのある、イエス兄ちゃんが30歳になったある日突然、ぷいっとナザレを出てカペナウムのほうに出かけて行きました。そして、何日も帰ってこないのです。「兄ちゃん遅いねえ」とマリヤと弟妹たちが思っていると、ガリラヤ湖のほとりカペナウムに出かけていた人がやってきて、「おい、あんたんちのイエス兄ちゃん、頭がおかしくなったみたいだぞ。カペナウムやガリラヤ湖周辺の町々で『神の国がどうのこうの』とわけのわからんこと言って回っているそうだよ。自分を預言者か何かと思い込んでいるみたいだよ。」と報せたのでした。

母マリヤをはじめ一家はびっくりして「兄ちゃんが、頭がおかしくなった。」「まあ、前から兄ちゃんはあたしがくよくよしていると、『空の鳥を見よ』なんてこの世離れしていたけれども」・・てなことを言いながら、心配して探して連れ戻しにきたのでした。母マリヤは、「いと高き方の御子があなたの胎に宿るのですよ」とかつて御使いガブリエルからの御つげを受けたわけですし、イエスが12歳のときの宮詣でのときにも不思議なことがあったのですが、それから18年もたって、すっかりあのことは忘れてしまったかのようです。

あまりにも身近すぎて、イエス様が神のみ子であることがすぐには信じがたかったのでしょう。

わかるような気がします。少し次元のちがうことですが、自分の子どもや妻や夫から、キリストの福音を知らされて悔い改めるというのは、多くの人にとってはむずかしいのかもしれませんね。照れくさいのか、面子にかかわると思うのでしょうか。そういう人間的な感情は横において、真理を真理として受け入れる謙虚さは大事なことです。

エス様の母、兄弟姉妹たちは後の日に、イエス様を受け入れるようになります。同じような境遇の人に必要なのは忍耐です。

 

(2)神の家族・・・・神のみこころを行う人々

 さてイエス様は家の中で律法学者たちと込み入った議論していらしたので、母マリヤと兄弟たちは外から人をやってイエス様を呼ばせます。恐らくここで「家」というのは、以前にもお話ししたように、広い中庭があって道路に面してアーチの入り口があり、そこから中がのぞけるような今で言うコートハウス造りになっているのです。マリヤが中庭をのぞくとイエス様がたくさんの人に取り囲まれていて近づけません。

 3:32 大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています」と言った。

 すると、イエス様は、庭の入り口のアーチのほうをちらっと見て、今度は周囲の人々を見回して、「家族、教会とはなにか」ということについて、母マリヤや兄弟たちにとっては、相当ショッキングなことばをあえて語られます。

 3:33 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」

 3:34 そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。 3:35 神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

母マリヤや兄弟たちという肉親以上に、あなたたち神の家族のほうが重要なのだと主イエスはおっしゃるのです。イエスさまは他のときにも、

10:29 「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、 10:30 その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」(マルコ10:29,30)

とおっしゃいました。聖書は「あなたの父母を敬いなさい」と命じていますし、親の恩に報いることが大事なことだと教えています。神様が世界を造ったときに定めた三つのことは、礼拝の日と家庭と仕事ですから、家庭というものは国家以上に重要なものなのです。けれども、血縁の家庭よりももっと大事な「神の家族」があります。肉の家族は、私たちが地上にある間の一時的なものですが、神の家族はこの世で終わる一時的なものではなく、次の世にあっても続く永遠のものです。肉の家族はそれぞれの家の幸福や都合で動くものでしょうが、神の家族は神のみこころを行うことをその目的としています。また、肉の家族は閉鎖的な単位ですが、神の家族はことばも民族も国語も超えて世界中にひろがっているものであり、地上だけでなくすでに天に挙げられた兄弟姉妹たちを含んでいるものです。つまり、神の家族とは聖なる公同の教会です。

エス様は、あえて、マリヤと弟や妹たち聞こえるように、おっしゃったのです。

「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」

「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

マリヤと兄弟たちは、すごい衝撃を受けたにちがいありません。特に母マリヤはおなかを痛めて生んだ子に拒絶されたのですから、ショックだったでしょう。しかし、後の日に、彼らもまた、イエス様を神の御子として信じて神の家族に入れられる日が来るのです。

 

結び

 主イエスを信じて新しい人生に入り、神の家族にはいって歩みだそうとするとき、ほとんどの場合、一時的ではあっても肉の家族との軋轢を避けることはできません。みなさんのうちの多くの方たちは、そういう経験をして来られたでしょう。今もしているかもしれません。イエス様ご自身も、同じ経験をされましたから、イエス様の家族の1人であるあなたが同じつらい経験をすることはもっともなことです。

しかし、イエス様が後に、マリヤや兄弟たちを神の家族として迎えたように、私たちもその希望をもって、まずは自分がイエス様にしたがい神のみこころを行う神の家族の一員となることが肝心なことです。そして、自分自身が神様の恵みと愛の通り管となって、神様の愛を家庭にもたらす器として用いられることが肝心なことです。やがて、ともに主を賛美するよき日が来ます。

十二人十二色

マルコ3章7-19節

2016年7月17日 苫小牧主日朝拝

 

1 ガリラヤ宣教の概要

(1)人々が集る

 7節から12節は、イエス様のガリラヤ宣教のありさまの概要です。イエス様の宣教が始まると、イスラエル全土ばかりか周辺の国々からも、続々と人が集ってきました。

3:7 それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行った。また、ユダヤから、 3:8 エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。

 まるで民族大移動みたいな動き方です。

 彼らの目当ては、病気を治してもらいたい、あるいは、悪霊を追い出してもらいたいということでした。10,11節にあるとおりです。

3:10 それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。

 3:11 また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です」と叫ぶのであった。3:12 イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた。

 現代とちがって、医療技術というものが乏しく、病院などなかった当時としては、病気が治してもらえるということは、なによりありがたいことだったのです。私が春までいた信州の佐久地方にある臼田町は、今はシャッター商店街で、人影まばらな町ですが、その臼田町の一箇所だけは毎日人だかりがしています。佐久総合病院です。県外からも患者たちがやってくるのです。どの時代も病人だけは、決してたえることがないのです。そういう病院のない時代、ガリラヤの田舎に病を治してくれる人がいるといえば、イスラエル中から人々が集ったのは至極当然のことでした。

 

(2)福音を知らせたい

 やさしいイエス様は、そうして集ってくるさまざまの病人たちを癒してやられたのですが、しかし、イエス様がほんとうに彼らに与えたいものは、病の癒しよりもはるかに大切なものでした。それは、神の国の福音です。神様との破れてしまった関係を、イエス様が直しに来られたのだということを伝えたかったのです。

 「人はたとえ全世界を手に入れてもまことのいのちを損じたら、なんの得があるでしょう。」人はたとえガンが治っても、地獄に落ちたらなんの得があるでしょう。たとえガンで死んだとしても、その行き先が神とともに生きる永遠の至福の天国であれば、ガンはたいした問題ではありません。

 しかし、イエス様がたいせつな永遠のいのちの話をしようとしても人々は病気を治してくれと押し寄せてくるので、ゆっくりと彼らに話をすることができません。そこでイエス様は一策を講じました。

 3:9 イエスは、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられた。

  これはガリラヤ湖のほとりに押し寄せてきた群衆に、じっくりと話を聞かせるための工夫です。群衆はガリラヤ湖畔の斜面にびっしりと集っています。イエス様は湖に数メートル漕ぎ出した舟から斜面の群集にむかって、神様について、人間には自分ではどうすることも出来ない罪がある現実について、しかし、その罪からの救い神の国、永遠の命を賜るためにご自身が来られたことを懇々と言って聞かせたのでした。イエス様の背後から湖面をわたるそよ風が、イエス様のことばを湖畔の斜面にいる群集に届けてくれるのです。

 

2 十二弟子任命

 

 次に13節から15節までは、主イエスの世界宣教のマスタープランについてです。

  3:13 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。

 3:14 そこでイエス十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、

 3:15 悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。

 

(1)世界宣教のマスタープラン

 イエス様は、福音宣教の働きを、ご自分ひとりではなく、弟子たちに分かつことにしました。イエス様の公生涯はわずか3年間ですが、その3年間が世界を変えました。それはイエス様が少数の弟子たちを選んで特別な訓練を施したからです。主イエスお1人で三年間の伝道活動はできたでしょうが、もしイエス様がお1人ですべてのことを行って3年間を終えてしまっていたら、今日に至るキリスト教の歴史はなかったでしょう。弟子たちを訓練していたからこそ、主のお働きは継続され、拡大されて、いまや世界に福音が伝わり、私たちのところにも伝わってきました。

 イエス様は行き当たりばったりに伝道したのではないのです。イエス様の頭の中にはマスタープランがありました。その中の優先事項は、後継者の養成でした。三年たったら自分は天の父の元に帰るのだから、ご自分の働きの後継者を養成しておかなければならないと心に決めておられて、それを実行なさったのです。

 

 今日の私たちの教会あるいは教団に適用して考えると、たとえば、ある程度の規模の教会になると、牧師と牧師夫人がなにもかもしていたら、まだイエス様のことを知らない方たちに伝道することはできなくなります。教会を初めて訪ねてくださった方たちに教会のこと、イエス様のことを紹介する係りを牧師や牧師の妻だけがするのでなく、基本的な聖書の教育を終えた兄弟姉妹たちがしてくださるというのは、多くの方たちに福音をあかしするために、とても大事なことです。苫小牧福音教会ではそういうご奉仕の出来るように学びをすませた兄弟姉妹が数名いらっしゃるとうかがいました。すばらしいことです。今度からお願いしようと思います。

 また、教団全体について、適用すれば、明日の牧師・伝道者の養成もまた、福音宣教の前進のために非常に重要なことです。私たちの教団には一つのスローガンがあります。「明日の伝道者は、全教会で育てる」です。そうして、明日の伝道者育成献金というものをしていて、神学生・神学教師となるために学んでいる教師たちのための奨学金を支出しています。また苫小牧福音教会が、北海道聖書学院、東京基督教大学の支援をしていることは、神様に喜ばれていることですし、私を神学校教師として送り出していてくださることもそうした主へのご奉仕です。

 

3 12人12色

 

さて、イエス様は、十二人の弟子をお選びになりました。12というのはイスラエル12部族にちなんだものです。

 3:16 こうして、イエスは十二弟子を任命された。そして、シモンにはペテロという名をつけ、

 3:17 ゼベダイの子ヤコブヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。

 3:18 次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、

 3:19 イスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。

(1)3人が特別に

 マルコ福音書における12弟子リストアップの仕方に特徴があります。12人のうち、シモンとヤコブヨハネを最初に挙げているという点です。12人はイエス様が特別に選んだ弟子たちですが、その中でもこの3人はさらに特に訓練をほどこした者たちであり、初代教会のリーダーとなるべき人々でした。変貌の山につれて登ったのもこの3人、ゲツセマネの園に連れて行ったのもこの3人です。中核となる彼らを訓練し、そして12人、そして、ルカ伝を見ると70人の弟子たちということも記されています。

 これは何を意味しているのかを考えてみると、牧師・伝道者の養成には、大量生産のようなマスプロ教育では無理で、14節に記されているように「そばに置く」ことが必要なんだということです。福音の伝達は、単なる知識の切り売りや情報の伝達ではなく、人格から人格へと伝えられるものです。ことばはきわめて重要ですが、ことばは生き方が裏打ちされて伝えられていかねばならないということです。イエス様でさえ、特に直接に養育したのは3人であり、12人でした。神学校で伝道者・牧師養成には少人数でなされ、寮生活が求められるのは、そういうことがあるからでしょう。

 

(2)十二人十二色

 そして弟子たちを見ると、実に、いろいろな性格・いろいろなバックグラウンドの人が選ばれています。

 まずシモン・ペテロです。もともと職業はガリラヤ湖の漁師でした。性格は単純率直、直情径行でおっちょこちょいな人です。でも、筆頭の弟子としての印象が強い人です。ですが、強いようでもろいところがある人物でした。

  アンデレは、シモン・ペテロの弟です。たぶん人の良さそうなぼんやりしたところがある人でした。5000人の群集を前にして、イエス様から「あなたがたで彼らを食べさせてやりなさい」と言われて、「この少年が五つのパンと二匹の魚を持っています」とうれしそうに連れてきて、みんなからあきれられたようなのんきな人物。

 ヤコブヨハネは兄弟も漁師でした。イエス様が名づけたボアネルゲ、雷の子たちという意味ですから、彼らは瞬間湯沸かし器のような、熱しやすい、激しい気性をもった兄弟であったのでしょう。実際、イエス様に味方しない町には天から火を降らせてしまいましょうなどとひどいことを言った場面が福音書にはあります。そんなヨハネは後に、愛の使徒と呼ばれる人として変えられています。

また、ヨハネは、それほど高度な学問は教わっていないと思うのですが、「はじめに、ことばがあった。ことばは神とともにおられた。ことばは神であった。」と始まる、哲学的な雰囲気のあるヨハネ福音書を後に記すことになります。彼は霊的な洞察力のある人で、たとえば復活の朝、イエス様の墓にシモン・ペテロと一緒に出かけてみると、そこには亡骸はありませんでした。そのとき、ペテロは何がなんだかわかりませんでしたが、ヨハネは見て、主イエスの復活を悟りました。ガリラヤ湖で、朝もや岸辺に立った人がイエス様だと最初に気づいたのもヨハネでした。

 ピリポ、バルトロマイ、アルパヨの子ヤコブとタダイはよくわかりません。

 トマスは、生真面目な人でした。ある時は「私たちも主といっしょに死のうではないか」と口走るような、深刻な性格で、殉教志願者っぽいところのある人です。しかし、主イエスが復活した日、どこかに出かけていて、ほかの十人の弟子のところに復活の主がこられたのに、彼ひとりいなかったという間の悪い人です。そして、「この指をイエス様の手に差込み、この手をイエス様のわきばらの槍跡に入れなければ信じない」と叫んだ人でした。そういう懐疑主義者という面もあるのです。

 それから驚くべきは、マタイと熱心党員シモンの両方が十二弟子にいたことです。マタイは当時の社会では守銭奴にして売国奴であった取税人をしていた人物です。他方、熱心党員シモンとありますが、熱心党員は国粋主義テロリスト団員ということです。こういう犬猿の中であるような人たちが同じ主イエスの弟子だったということです。主イエスのもとにあっては、いろんな背景の人々、いろんな性格の人々が一つとなって行ったのですね。

 そして、一つの謎はイスカリオテ・ユダです。ユダについてはイエス様を裏切った人ということだけです。(3:19)。ユダは弟子団の中で会計係をしている人でした。どうもユダはその弟子団の財布から着服していたということが記録されています。

 

 主イエスに選ばれた十二人の弟子たち。背景も性格もみな違っている十二人十二色ですが、イエス様に従って一つの弟子団としての歩みをしてゆくことになります。これは、教会のあり方の一つの型です。私たちは互いに違っているのですが、それはひとりひとりが人間の工場で造られた画一的な製品でなく、神様のかけがえのない芸術作品であるからです。苫小牧福音教会の私たちも、ひとりとして同じ人はいません。年齢も、育った環境も、性別も、国籍もなにもかもがいろいろです。ですが、ともに主イエスに結ばれて、互いを受け入れあってともに御国の前進のために生きてまいりましょう。

 

ルールは何のために?

マルコ3:1-6

2016年7月10日 苫小牧主日

3:1 イエスはまた会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。

 3:2 彼らは、イエス安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。

 3:3 イエスは手のなえたその人に「立って真ん中に出なさい」と言われた。

 3:4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。

 3:5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。

 3:6 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。

 

 

1 安息日の守り方をめぐって

 

3:1 イエスはまた会堂に入られた。

 主イエスと弟子たちは、安息日礼拝のレギュラーメンバーでした。イエス様の時代、人々は安息日をとても大事にしていたのですが、その大事にする仕方がおかしくなっていることに気づきました。特に民にとって指導的な立場にあったパリサイ派の人々の安息日観がおかしかったので、イエス様は、安息日その安息日の守り方をめぐって、パリサイ派の人々を戒めたのです。

 福音書によると、当時のイスラエルの指導的立場の党派には、パリサイ派サドカイ派、ヘロデ党という人々がいました。

サドカイ派は、ローマ帝国やヘロデ政権と妥協しながら、神殿経営をうまくやっていこうという祭司階級のエリートでした。神殿経営は大繁盛していて、祭りともなると地中海世界のあちこちから大量の人々が神殿礼拝に押し寄せていました。サドカイ派のものの考え方はギリシャの合理主義の影響を受けて、天使の存在を否定し、終わりの日の復活も否定していました。旧約聖書の中ではトーラーつまりモーセ五書は重んじるけれども、他の書は重んじない人々でした。

ヘロデ党というものの実態はよくわからないのですが、ヘロデ王権の政治的支持者たちということでしょう。ヘロデ家というのはイスラエル人でなく、エサウの子孫であるイドマヤ人でした。イスラエル民族にとって仲の悪い親戚のような民族なので、ローマ帝国は属州を統治するにあたって、わざわざイスラエルにとって仲の悪い親戚であるイドマヤ人の王を立てたのです。イスラエル内部で対立が起こってギクシャクしていれば、一致して支配者ローマに刃を向かってこないだろうという政策です。ヘロデ党は当然親ローマ主義で享楽的な人々でした。

親ローマ主義のサドカイ派、ヘロデ党に対して、パリサイ派イスラエル国粋主義・反ローマ主義の人々でした。彼らは、手工業に携わる庶民階級から出た人々であり、民衆に近いところにいて、民衆の支持を集めていました。パリサイ派旧約聖書に固く立って、天使の存在、死者の復活といったことがあると信じていました。そういう意味でイエス様の活動なさったフィールドと重なっていたので、パリサイ派の人々はイエス様としばしば衝突しました。

当然、ヘロデ党・サドカイ派パリサイ派は鋭く対立していました。合理主義者と超自然主義者、親ローマ主義者とイスラエル国粋主義者ですから、犬猿の仲です。

 

2.片手のなえた人

 

 さて、主イエスと弟子たちが会堂の礼拝に出席し、主イエスは会堂で旧約聖書を解き明かしました。と、会堂の隅に一人の人が座っていることに主イエスが気づきました。主イエスは、神様ですから、彼を見て、彼が片手が萎えてしまっている人であること、彼がどういう事情であり、どういう人生をたどってきたのかがわかりました。彼は隅の人目になるべくつかぬ場所を自分の場所と決めていたようです。だからこの男に向かってイエスは「立って、真ん中に出なさい。」とおっしゃいました。

 片手がなえているというのはどういう障害でしょうか。両手両足なえているというのとはちがう、その障害の意味とは。両手両足がなえているというならば、何もすることができない。なんでも人にやってもらうしかない。そういう生活をせざるを得ません。誰が見ても障害者です。しかし、片手がなえているということは、一見すると、なんともないように見えます。腕が隠れてしまう着物をまとえば、健常者となんらかわりません。だから、本人もそれを人に悟られまいとするような、そういう障害でしょう。けれども、実際には人と同じように仕事ができるかといえば、そうではありません。スポーツをしようというとどうにもなりません。日本でいえば、小さな時から、友達に「いっしょに鉄棒しよう」などといわれるまえに、隅のほうにうずくまっている。そういう消極的な生き方が習い性になってしまった、そういう人生をたどってきたのでしょうね。

 「立って、真ん中に出なさい」。主イエスのこのことばは、この人目につかない会堂の片隅にいたこの男の耳にはなんと響いたでしょうか。恥ずかしいと思ったでしょう。驚いたでしょう。しかし、彼は主イエスのことばに力を感じて、気が付くともう彼は立ち上がって、衆人環視のなかを歩いておずおずの主イエスの前に出てきます。自分でも意外なこと、いつもならできないようなことでした。しかし、「立って、真ん中にでなさい」とおっしゃる主イエスのことばには逆らい難い力がありました。主イエスのおことばは、無から万物を造りだした力あることばなのです。

 片手がなえ、いつも人目につかない隅の方に自分の居場所を求める人。必ずしも、からだに障害がなくても、この男のような人生をたどっている人がいます。そういう人は、なにかあると「どうせ自分には無理・・・」とつぶやくことが習慣となってしまっているのです。消極的で否定的な人生を生きているのです。

 しかし、そんな人に向かって「立って、真ん中にでなさい」と主イエスはお命じになります。そして主の命令には、人を動かす力です。どんな消極的な人生をたどってきたとしても、主イエスの命令をたましいの底に受け止めるならば、その人生は変えられます。

 信州安曇野の1人の女性牧師とその夫君から興味深い話を聞いたことがあります。彼女は一度天国に行って帰ってきたという(夢を見たという)のです。ある朝、夫君がいつものように出勤して、彼女は庭仕事をしていると、急にひどく頭痛がしたので家にもどったのですが玄関の廊下で意識を失い倒れてしまいました。脳出血でした。夕方五時をまわって、ご主人がもどってこられたのですが、家に明かりが灯っていません。ご主人は不思議に思いながら、暗い玄関に入って奥さんを見つけて、脳の病院に救急搬送しました。医者には、「状況から見て、倒れてから相当時間がたっているので生命が助かる見込みは少なく、幸い生命をとりとめたとしても、相当の重い障害が残ることを覚悟してください。」と言われてしまいました。ご主人はとにかく一生懸命に主に祈りました。

 その間、奥さんは、天国に入っていた夢を見ていたそうです。天国には虹がかかっていて、川が流れていたそうです。彼女のおっしゃるところでは、「都会で華々しく伝道をしていらっしゃる先生方と自分を引き比べて、自分は劣等感を抱いていました。天国に入れてもらえたときには、自分はきっとその隅のほうで小さくなっていなければならないのだろうなあ。」と思っていたそうです。ところが、天国に行ってみると、驚いたことに彼女は主イエスの足元に置かれていたのです。彼女は嬉しくて、「ばんざい。ばんざい。」と子どものようにはねました。そして周囲を見てみると一抱えもあるような、さまざまの宝石があり、自分自身もそういう宝石の一つであることに気づいたというのです。「片隅にいることはない。わたしの目の前に出ておいで。わたしの目にあなたは高価で尊い。」と、主が自分にもおっしゃっていることが彼女にわかりました。

 数日の意識不明の後、彼女は目がさめ、奇跡的な回復をとげて障害も残らずに退院し、天国の希望を語る使命が自分たち夫婦に与えられたことを確信して、あちらこちらでこの不思議な経験を証言してまわっていらっしゃるのです。

 「隅にいることはない。立って、わたしの前に出ていらっしゃい。君が、そこにいることばすばらしいことなんだから。」こうおっしゃる主イエスの御声を聞くならば、人はいきいきと生きることができます。

 

3 安息日にすべきこと

 

 さて、パリサイ人たちは、安息日なので当然、会堂に集っていました。しかし、彼らは神を賛美し、みことばに耳を傾けて礼拝することも忘れて、ひたすらイエスのあらさがしをしていたのです。「じっと見ていた」とあるでしょう。もちろん、主イエスが「安息日にしてはならない」こととして彼らが作り出した1521個の「仕事」と見なされる禁止条項に反することをやるならば、すぐに摘発してやろうと、監視していたのです。

ところが、主イエスは、片手のなえた人を会堂の真ん中に呼び出し、みなの目の前で彼の手をいやされました。そして、イエスはぐるりと見回して質問します。

安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか。それとも殺すことなのか。」

しかし、パリサイ人たちはきょとんとしています。なぜでしょう?恐らく彼らにはわからなかったのです。そんなこと考えたこともなかったから。パリサイ人たちにとって、安息日に肝心なことは、ただひたすらに「仕事」と見なされることを「しないこと」だったから、今まで「安息日にしてよいこと」については考えたこともなかったのです。

 パリサイ人とイエスの着眼点のちがいはなんでしょう?それは、パリサイ人たちは「してはならないこと」ばかりを追求していたのに対し、主イエスは「すべきことはなにか?」とおっしゃったことです。安息日の本来の目的に立ち返るということが大事です。安息日、それは先週学んだとおり、霊とまことをもって礼拝をささげることによって神を愛し、隣人を自分自身のように愛するという目的のために設けられた日です。その目的を果たすためにこそ、通常の仕事も娯楽もやめて過ごすのです。

 とするならば、主イエスがこの暗い人生を世間の片隅にうずくまるように過ごしてきた人の片手だけでなく、その人生そのものをいやされたということは、安息日にすることとしてもっともふさわしいことでした。

 

<適用> 安息日にかぎらず、私たちが生活している社会にはいろんな習慣、いろんなルールがあります。ルールや習慣は、もともとその社会が円滑に動くために作られたものです。たとえば交通ルールがなければ、車社会は機能しないでしょうからルールは大事なものです。

ところが、ルールがいつのまにか人を縛って、お互い不自由をしているということがあります。信州で開拓伝道をして驚いたのは、葬式の習慣でした。葬式のあと、「はいよせ」と呼ばれる大規模な200人も300人も集めて行う会食をしなければならないという習慣があるのです。そのために何百万円もの葬式費用がかかってしまうのです。みんなたいへんだたいへんだと思いながらも、それをしないと「けちだ」と呼ばれるので、遺族は借金をしてでも「はいよせ」をするのです。かりに働き手を失った遺族であれば、彼らに借金をさせるなどということは、本当に愛に欠けたことです。

人間社会のルールのすべては、本来的には、神を愛し、神がくださった隣人を愛するためにあるものです。信号機の「赤は止まれ」「青は進め」というルールも、横断歩道で赤信号ならば、神様がくださった自分の命と隣人の命の安全のために、通常停まるべきです。仮に車が来ていなくても、それを見ている子どもがいたなら、その子が赤信号では停まらないといけないという習慣を身につけるためにも、停まるべきです。

しかし、人命にかかわる一分一秒を争う緊急事態では、左右の安全をしっかりと確かめたうえで赤信号でも前進することが正しいのです。ですから、救急車は赤信号であっても、人の生命を救うために、注意深く赤信号を無視して行くでしょう。すべての生活ルールは、神を愛し、神のくださった隣人を愛するためにあるのです。この観点から、私たちはときどき見直すべきルールは見直すことが賢明です。それも、この世に遣わされたクリスチャンの地の塩としての役割のひとつです。

 

3.パリサイ人の矛盾・・・安息日に人殺しの相談

 

 しかし、ルール中毒(律法主義)に陥っていたパリサイ人たちには、主イエスがおっしゃる大事な真理がわかりませんでした。彼らは安息日に「病の癒し」という仕事をしたイエスが決してゆるせませんでした。安息日ルールを公然と破るとは何事だと怒り、憎しみに燃えました。自分たちの民衆に対する面子は丸つぶれにされたと怒ったのです。彼らはなにをしたでしょう。

 3:6 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。

 「安息日を憶えてこれを聖なる日とせよ」という律法を死ぬほど大事にしていた彼らは、なんとその聖なる日に、人殺しの相談を始めたのです。彼らが編み出した安息日にしてはならない仕事、千数百のリストの中に「人殺しの相談」は入っていなかったのでしょうか。これほどの皮肉・矛盾はありません。

しかも、彼らは日ごろはけがれた連中だと軽蔑し、話をすることも避けているヘロデ党の連中とその相談をしたというのです。ヘロデ党の連中を使えば、権力者ヘロデを動かして、イエスを逮捕させ処刑できることができると踏んだのです。

 

結び 本日は二点、心に留めておきましょう。第一点は、神様はあなたのことを高価な宝石のように見ていらっしゃるという事実です。自分のようなものは・・・などと片隅にうずくまっていることはありません。主の慈しみは、あなたにも注がれています。

 

第二点は、ルールについての考え方です。三浦綾子さんの小学校代用教員をしていた頃の自伝に『石ころの歌』というのがあります。その中に、毎日のように遅刻してくる男の子が登場します。遅刻をしてはいけない。時間を守るということは、集団生活をするための基本的ルールとして大事なことです。ところが、その子が毎日のように遅刻をするので、熱血先生である綾子さんは厳しく指導するのですが、遅刻するのです。ところが、ある日、その男の子の家を訪問したところ、お母さんが病身であり、お母さんに代わってその子が家事をしてから出てくるので、どうしても朝の学校の時間に間に合わないのだということを綾子さんは知りました。そして、彼女は自らを恥じました。私たちの人生の究極の目的は神への愛と隣人愛の実現であり、ルールはその手段ですから、時に手段が適切でないときには柔軟な扱いをする必要があります。また、手段であるルールが目的である、神への愛と隣人への愛に相応しくないときには、改良したり廃止したりすべきです。

  「安息日の主」

MK2:23-28                                                 

                        

2016年7月3日 苫小牧主日朝礼拝

 

2:23 ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。

 2:24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」

 2:25 イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。

 2:26 アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家に入って、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」

 2:27 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。

 2:28 人の子は安息日にも主です。」

 序 

 あるクリスチャンホームのこどもが、母親に「ねえどうして、僕達は七日にいっぺん必ず教会に行くの?イエスさまは教会に礼拝に言ったの?」と質問したそうです。母親はハタと困ってしまったそうです。けれども、なにも困ることはありません。主イエスも弟子たちも、忠実な公同礼拝のメンバーでした。当時の安息日は週の終わりの日であり、主イエスの復活の後は週の第一日が安息日に移されたという違いはありますが、確かに、イエスと弟子たちは、忠実な安息日の公同礼拝のレギュラー・メンバーでした。

 さて、本日の聖書箇所は、主イエスと弟子たちが、ある安息日に礼拝堂に向かわれる道での出来事と、礼拝堂での出来事を記録しています。このところから私たちは、安息日の意義とその守り方を学びます。また、安息日は「聖日」とも呼ばれます。聖書に「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」とあるからです。聖なるものとは、神の所有されるもの、聖日とは、神の所有される日という意味です。

 ここには、当時のパリサイ人たちの安息日律法の誤解と対照して、安息日の正しい目的と守り方が明かにされていますが、私たち異邦人が聖なるものについてバランスよく理解するためには、もうひとつのコントラストを知らねばなりません。それはヘロデのパン種とのコントラストです。イエス様は、ほかの日に「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種に注意せよ」と言われました。パン種とは、ほんの少しでも全体に腐敗をもたらすものという意味です。主イエスが「パリサイ人のパン種と、ヘロデのパン種に気を付けなさい」と言われるのは、これらのパン種によって、私たちの信仰生活と教会全体にカビが生えてしまうからです。 パリサイ人のパン種とは律法主義のことであり、ヘロデのパン種とは逆に世俗主義のことです。私たちは、このふたつのパン種に注意して、安息日、聖なるものの扱いを学ばねばなりません。

 

1 パリサイ人の形式主義

 

 ある安息日、主と弟子一行は礼拝堂に向かう途中、麦畑を通りました。麦の実りはイスラエルの五月です。見渡せば、黄金色の穂が、薫風にさわさわとなびいているという景色です。天の父の、地上に生きる者たちへの慈しみを深く思わせる景色です。弟子たちは、麦畑のかおりに誘われて、「ひもじくなったので」畑のなかに入って、穂を摘んで食べ始めました。口に含んで食べるとほのかに甘さが広がります。イエス様も、弟子たちのそうした様子を、慈しみ深いまなざしで見ておられます。

 ユダヤ安息日は喜びの日とされていましたから、多くの人々はごちそうを前日に作ってお祝いをするものだそうですが、イエスと貧しい弟子たちにはそれもかなわないことであったのでしょう。グーグーとおなかがなって、ひもじくてならなかったのです。そこで、天の父は彼らに黄金の麦を朝食として恵んでくださったのです。

 ところが、そこに、パリサイ人たちがイエスに言いました。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」(2:24)パリサイ人は、弟子たちが他人の畑で麦を拝借したということを責めているのではありません。申命記にはこうあるからです。「隣人の畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでも良い。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」(申命記23:25)貧しい人々にとっては、実にあわれみに満ちた律法ではありませんか。こうしたあわれみ深い神の律法によって、イスラエルでは、どれほど多くの貧しい人々が飢えをしのいだでしょう。ルツとナオミも、こうした神のあわれみの律法によって、生きのびることが出来ました。 パリサイ人たちは、律法の専門家ですから、もちろん、申命記の定めは知っていました。では、なにを責めているのでしょう。それは、<弟子たちが安息日に労働をした>と言って責めているのです。確かに、安息日には通常許されている労働から自分もはなれ、使用人にも離れさせ休ませなさいというのが、十戒の第四番目、安息日の戒めにあります。では、弟子たちがこの時どんな労働をしたというのでしょう。それは、「刈り入れ」と「脱穀」という労働です。まず、手で穂を摘んだということが刈り入れ。そして、それを手でこすって穂の中の実を出したことが脱穀であるというのです。

 私たちから見ると、屁理屈みたいで滑稽ですが、彼らユダヤ人律法学者はまじめにそう考えていたのです。パリサイ人たちの欠陥は総じて、神の律法の根本精神やその目的を見失って、外に現われる行動、形にのみ着目することです。本質を見失った形式主義です。

 

2 安息日律法の二つの目的

 

 まず、安息日の律法そのものに立ち返って見ましょう。申命記5章12-15節。

「5:12 安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、【主】が命じられたとおりに。

 5:13 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。

 5:14 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も──そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。

 5:15 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。」

 

この箇所から安息日には二つの目的があることが分かります。

 一つは、「6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。」という命令に応答してまことの神を礼拝することです。そのために、「安息日を聖なる日と」するのです。「聖とする」とは、分ける、区別するという意味のことばです。神の所有として、別に取っておくという意味です。つまり、安息日を「神が特別に所有しておられる日として、取り分けよ」ということです。ですから、旧約聖書レビ記のなかで安息日を破った者に対する罰とこれを贖ういけにえは、窃盗罪に適用される場合と同じでした。つまり、神が所有しておられるものを盗んだからです。旧約聖書には、安息日をあなどったかどで罰せられた例が七つあります。荷物を負わせたこと、薪を運んだこと、商売をしたこと、刈り入れをしたことなどです。これらの仕事を離れてる目的は、神を愛する愛の表現として礼拝をすることです。

安息日のもう一つの目的は、「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」という命令に答えることです。つまり、隣人にあわれみのわざを実践することです。14、15節に、子どもも奴隷も家畜も安息日には休ませてやりなさいと命じられています。古代オリエント社会においては、奴隷に休日を与えるなどということは、ほかの国々では考えられませんでした。しかし、神はイスラエルが奴隷であった時に、彼らにあわれみを示して下さいました。だから、安息日には自分が神からあわれみを受けたことを覚えて、自分の隣人にもあわれみを示しなさいというのです。

  つまり、本来、神が聖書に定められた安息日は、神が私たちを愛してくださったその愛を覚えて、神への愛の表現として礼拝をささげ、かつ、隣人に愛を表わすという目的のためにもうけられました。この目的のために、通常は許されている仕事や娯楽から離れる日なのです。旧約聖書に記録されている、安息日を破ったために神の怒りを買った七つばかりの例は、神礼拝をあなどり、隣人愛をおろそかにしたことに対する神の怒りの現われでした。

 

 けれども、パリサイ人たちは、その安息日の精神と目的を忘れて、とにかく「どんな仕事もしてはならない」ということばに着目して、「仕事」の定義を立てて、してはならないことをこと細かく定めました。律法の精神を忘れて、表面の行動だけに執着するというのがパリサイ的な聖書解釈の欠陥でした。そこで、まず三十九の禁止条項を作り、これを親としてさらにそれぞれの三十九の子の禁止条項を作って、合計三十九掛ける三十九、つまり、千五百二十一個の禁止条項としての「仕事」をリストアップしました。こうして彼らは、安息日を窒息日としたのです。こういうわけで、彼らによれば、主イエスの弟子たちは、三十九の親の第一の禁止条項に属する刈り入れと脱穀という労働をしたと責めたのです。なんとバカげた議論でしょう。

 

3 主イエスの応答

 

 イエス様の答えは神のことば旧約聖書に根ざしていて、鋭く、パリサイ人たちを沈黙させます。イエス様の反論の方法は、聖書そのものの根本精神に立ち返って、正しくその意味を示すことでした。イエスは律法を廃棄するためではなく、成就するために来られたのだからです。

 第一に主イエスが取り上げたのは、ダビデの記事でした。第一サムエル21章1節から6節。

「21:1 ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに行った。アヒメレクはダビデを迎え、恐る恐る彼に言った。「なぜ、おひとりで、だれもお供がいないのですか。」

 21:2 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、ある事を命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じた事については、何事も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。

 21:3 ところで、今、お手もとに何かあったら、五つのパンでも、何か、ある物を私に下さい。」

 21:4 祭司はダビデに答えて言った。「普通のパンは手もとにありません。ですが、もし若い者たちが女から遠ざかっているなら、聖別されたパンがあります。」

 21:5 ダビデは祭司に答えて言った。「確かにこれまでのように、私が出かけて以来、私たちは女を遠ざけています。それで若い者たちは汚れていません。普通の旅でもそうですから、ましてきょうは確かに汚れていません。」

 21:6 そこで祭司は彼に聖別されたパンを与えた。そこには、その日、あたたかいパンと置きかえられて、【主】の前から取り下げられた供えのパンしかなかったからである。」

イスラエル初代の王サウルは初めは良い王であったのですが、後に神をないがしろにしましたから、神は彼を王位から退けて、代わりにダビデを王として立てることにしました。サウルはそのことを知って、ダビデのいのちを狙うようになりました。そこで、ダビデは取るものの取りあえず宮廷を逃げ出すのです。ダビデの後には、彼の部下たちが付いてきました。けれども、彼らは食料もありません、武器もありません。そこで、ダビデは宮に身を寄せました。

 祭司はダビデと部下たちを気の毒に思って何か食べ物をあげたいと思いましたが、あいにくありません。そこで、主の前にささげてさげたばかりのパン12個があったので、これをダビデたちに与えました。ところで、主の前にささげたパンは、祭司と祭司の子ども以外は食べてはならないとレビ記24章5-9節に定められています。

「これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、主への日による捧げ物の内から、彼の受け取る永遠の分け前である。」

ところが祭司アヒメレクは、この供え物のパンを食べるようにダビデに与えました。これは確かに祭司の行動の表面だけ見れば、律法違反です。しかし、神はダビデや部下、また祭司を罰するようなことはなさいませんでした。「パリサイ人たちよ、これはどういうわけですか。」とイエスは問い返されたのです。パリサイ人たちは、ぐうの音も出ませんでした。

 どうして神は、一見すると神聖な儀式の律法を破ったように見える、ダビデたちを罰しなかったのでしょうか。もし、祭司が、神をあなどるような安易な気持で、ほかに食べ物があるのに、祭司のほか食べてはならない供えのパンをダビデに提供したならば、神は間違いなく祭司を罰したに違いありません。旧約聖書には、聖なるものをあなどった祭司や王が、神の怒りをかって火に焼かれたり(アロンの子供)、神に打たれたり(ウザ)、らいびょうに犯されたり(ウジヤ)したという例があります。しかし、ダビデは窮地に陥り飢えている部下を見て、ただ神のあわれみにすがりついたのであり、祭司アヒメレクもそのことを受け留めて、行動したのでした。ですから、神はダビデとその一行を哀れんでくださったのです。

 イエス様は、ご自分をダビデになぞらえ、弟子たちを部下になぞらえておられます。神は、ダビデとその部下たちがよりによって祭司しか食べてはならないとされた供えのパンを食べることさえ、その飢えている者たちをあわれんでよしとされたのです。ましてや、福音のために労して食べるものがない主イエスの弟子たちが、畑の麦の穂を二つ三つつまんで脱穀しすりつぶしたからということでどうして、罪とされるでしょう。

 

4 適用

 

  これを私たちに適用しましょう。ここには聖別されたものについての教えがあります。

「ヘロデのパン種に気を付けなさい。」世俗主義は言います。富にせよ時間にせよ、すべては、自分の所有なのだから、自分の都合で好きなように使えば良いじゃないか。私たちはこのようなヘロデのパン種に気を付けなければなりません。聖書は言います。神に聖別されたものとは、神の所有物です。これに手を付けることは神からの盗みです。聖書は、安息日にせよ、十分の一の捧げ物にせよ、聖なるもの、つまり、神の所有に手を付けることは、盗みであり、そのような罪に対しては神の呪いがあると言います。反対に、聖なるものを尊ぶ者は、神を尊ぶものであるから、そのような信者には神からの祝福と喜びがあるとされています。たとえば、マラキ三章八から一二節を参照。

 

 他方、聖なるものについて、パリサイ人のパン種があります。彼らは言います。「安息日に大事なことは、どんな仕事もしないことによって、神の前の善行を積むことである。たとい道端に病人が倒れていても、わき目もふらずに礼拝堂に来ることが大切である。あなたがたは、子どもを飢死させても、十分の一はささげなければならない。」

 聖なるものを尊ぶことは大切です。しかし、主イエスは神のあわれみゆえの例外があることを教えられました。例えば、本当に困窮して食べるものがないという時に、神のあわれみにすがって神への捧げ物から、頂き物をするということは許されるのです。そのような飢えている子供に、父なる神は喜んでご自分のものから、わけて下さいます。

 

 安息日の意味を明かにされてから、イエスは、このように教える自分がどのようなお方であるかを明かにされます。

 礼拝のあり方、安息日の守り方を定めるのは、イエスご自身です。「人の子は、安息日の主です。」主イエスは、宮より偉大な者であり、安息日律法をも正しく意義付ける権威をもたれるおかたです。パリサイ人たちが、なんと言おうと宮よりも偉大である方が、安息日の本来のあり方守り方を、明かにされたのです。

 安息日の意味、目的、その守り方を決定する権威を持つお方とは誰でしょう。いうまでもなく、安息日を定めた神ご自身にほかなりません。ここでも、主イエスはご自分を父なる神と等しい権威を持つ者として、明らかにされたのです。

 

 

結び)本日は、主イエス安息日をどのように守られたかというところから、聖なるものをどのように理解し、私たちがどのように聖日や捧げ物を用いるべきかを学びました。二千年の時代を隔てても、今日まで共通しているサタンの誘惑は、パリサイ人の律法主義というパン種と、ヘロデの世俗主義というパン種です。私たちは、神を恐れ愛しつつ、安息日にせよ十分の一捧げ物にせよ、聖なるものを尊びましょう。しかし、律法主義からでなく、そこに神のあわれみへの感謝の実として、礼拝と隣人への愛を豊かに表わして参りたいと願います。                                                                  

 

 

福音的ライフスタイル

マルコ2:18-22

2016年6月26日 苫小牧福音教会主日

2:18 ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」 2:19 イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。

 2:20 しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。

 2:21 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。

 2:22 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」

  

1 ヨハネの弟子とパリサイ人

 

 今日の箇所には、断食をめぐって三つのグループが出てきます。一つはヨハネの弟子たち、一つはパリサイ人たち、一つは、主イエスの弟子たちです。まず、ヨハネの弟子とパリサイ派の人々は断食を定期的にしているのに、イエス様の弟子たちは断食をせず楽しそうにしているのが、彼らには気に食わなかった。不真面目に見えたのでした。そこで、彼らはイエス様に質問をしにきたのです。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」

 ヨハネの弟子たちと、パリサイ人はともに断食しましたが、その意味は違うので、まずそのことを説明しましょう。

 

(1)ヨハネの弟子たち・・・悔い改めの断食

 ヨハネの弟子たちの師はバプテスマのヨハネです。荒野でいなごと野蜜を食べ物として、らくだの毛衣を着て、民に「悔い改めよ」と叫んだヨハネは、旧約時代最後の預言者でした。彼は律法を正しく理解していました。

旧約時代の宗教とは、一言で言えば「悔い改めとメシヤ待望」ということです。旧約聖書には、神が与えた十戒をはじめとする律法が記されています。その律法に誠実に向き合うならば、人は己の罪を認めざるを得ません。律法はいっさいの偶像礼拝を禁じ、主の御名をみだりに唱えることを禁じ、安息日をまもることを求め、父母を敬え、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽証してはならない、隣人のものを欲しがってはならないと命じています。・・・律法の命じることは、ごく当たり前のことですが、その当たり前のことすら実行できないのが人間の現実です。その惨めな自分の罪の現実を認めて、神の前に罪を告白して「罪深い私をゆるしてください。」と悔い改めるのです。律法は人を罪に定め、悔い改めへと導き、メシヤを待望させます。旧約の宗教とは、悔い改めとメシア待望の宗教です。

そこでバプテスマのヨハネヨルダン川で「悔い改めなさい。メシヤが来られる。」と告げたのです。ヨハネと彼の弟子たちにとって、断食とは、己の罪を深く悲しむ表現としてのものでした。実は、旧約の律法のなかには断食についての定めはありません。しかし、己の罪を嘆き悲しんで、断食したという記事はあちらこちらにあります。ヨハネの弟子団の中では、断食が習慣化されていたようです。

 

(2)パリサイ人・・・自己義認・虚栄の断食

 次に、パリサイ人たちはどういう人々であったのでしょうか。彼らは、自分たちこそ旧約の預言者たちの正しい継承者だと自負していたようです。しかし、イエス様の目から見ると、パリサイ人たちは旧約の律法、その宗教を根本的に誤解した人々でした。

 パリサイ人たちは、律法を守ることに一生懸命で、その律法の行いによって、神の前に自分の義を立てることができると教えていたようです。たとえば、審判のとき、神の前には天秤があって、律法にしたがって善を行うと右の皿に分銅が一つ載せられ、律法に背く悪をなすと左のお皿に分銅が一つ載せられます。そして、生涯を終えたとき、天秤の右の皿が下がっていたらその人は祝福に入れられ、左の皿が下がっていたらのろいを受けることになるというのです。

 律法をまもることに熱心なのはよいことですが、それを点数稼ぎのように考えて神の前に自分の義を立てて、神の法廷で勝利を得られるというのは、大きな誤解です。

 

神様はそもそも律法をお与えになったとき、人間にはこれを完全には守れないことをご存知でしたから、道徳律法と同時に罪の償いとしていけにえの儀式も同時にお定めになっていたのです。つまり、神がイスラエルに律法を与えた本来の意図は、①神の前にきよい生活をいとなむ基準を示すこと。②神の前の罪を自覚させ、悔い改めて神の前のいけにえ(キリスト)を待望させることだったのです。

パリサイ人は、律法の役目を根本的にとりちがえていました。その結果、パリサイ人の宗教は悔い改めの宗教でなく、自己義認の偽善の宗教になっていました。彼らも断食をしていましたが、それは己の罪を悔いる悲しみの表現としての断食ではなく、「私はこれほど敬虔な人間なのですよ」と誇るための偽善的な行いになってしまっていたようです。

私も断食してみた経験があるのですが、心の中にムラムラと、「実は、今断食して祈っていることがあるんです。」と自己宣伝したいという衝動にかられました。

 

こういうわけで、ヨハネの弟子たちは悔い改めの断食をし、パリサイ人たちは自己義認・偽善の断食というふうに、両者の動機はまるでさかさまでした。しかし、少なくとも断食をするという点では共通していました。ところが、主イエスの弟子たちは、なんだか全然雰囲気が異なっていて、なんだかやたら楽しそうで、驚いたことに取税人や遊女までいっしょにわいわいとご飯を食べているのです。彼らの目には、主イエスの弟子たちの生活ぶりは、不謹慎に映ったのでした。そこで、彼らはイエスに質問をしにやってきたのでした。

2:18 ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」

 

2 主イエスの弟子たち・・・福音的ライフスタイル

 

(1)旧約との連続性

まず、主イエスヨハネの連続性とついて説明します。主イエスとその弟子たちは、バプテスマのヨハネと同じように旧約の預言者の伝統を正しく引いていました。つまり、主イエスはご自分の弟子たちに対して、パリサイ派たちのような自力主義でなく偽善でなく、誠実に神の戒めを守って生きることを要求なさいました。いや、ヨハネが求めた以上に誠実であることを求められました。

マタイ5:20 「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」

パリサイ人が「殺すな」と命じるならば、主イエスは、「君たちは兄弟に向かってばか者というだけでもいけない」というのです。パリサイ人が「姦淫するな」というなら、主イエスは「情欲をもって女を見るだけでも姦淫だ」というのです。パリサイ人が「同胞は愛し、ローマ人は憎め」というのなら、主イエスは「君たちは敵をも愛しなさい。」というのです。

「律法というものは、表に出た行動面だけ守ればよいわけではない。律法の根本精神は、神への愛と隣人への愛なのだ」というのが新約時代の主イエスの弟子の生きる道です。これは、旧約の預言者以来の教えであり、それをさらに徹底した教えでした。

 

(2)旧約に対する新しさ

けれども、主イエスがもたらされた信仰には、旧約時代に属するヨハネの教えに対して、新しい点があります。それは、今日の箇所でいうならば、主イエスの弟子の生き方には、喜びと自由があり柔軟だという点です。旧約の預言者ヨハネは、悔い改めと悲しみを基調として堅苦しいところがありましたが、主イエスのもたらした福音の世界には、悔い改めと同時に喜びと自由が満ちているのです。

なぜでしょうか。それは、ついに預言が成就して待ちに待ったメシヤが現に来られたからです。旧約の預言者たちは、メシヤを待望する者でしたが、メシヤにある新約時代の救いの喜びを得たわけではありませんでした。これに対して、主イエスの弟子たちは、現に、メシヤつまりキリストにある救いの喜びを与えられたのです。この喜びを、主イエスは、ご自分を花婿にたとえ、弟子たちを花婿の友人にたとえて表現なさいました。

2:19 イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。

 これは当時のユダヤにおける結婚式の祝いの習慣を背景としたことばです。当時の結婚式ではそのお祝いは数日間続いて、その間中は、通常の断食もしてはならないことになっていたそうです。結婚というのは、それほど喜ばしい出来事だからです。結婚は、メシヤと神の民との愛の交流の型であるからです。そんなめでたいときに、悲しみの表現である断食はふさわしくないものです。今で言えば、結婚式に黒いネクタイを締めて参加するほど失礼にあたります。

 今、神の遣わされたメシヤつまりキリストがこの世の来られたのですから、その弟子たちがキリストと交わっている最中に悲しみの断食をすることは、ふさわしいことではないのだということになります。

 

 しかし、主イエスは闇雲に断食を否定したのではありません。

 2:20 しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。

エス様が敵に逮捕され、十字架にかけられるときには、弟子たちは悲しみのあまり食事がのどを通らないようになって、断食をすることになるのだというのです。つまり、新約の時代においては、断食という行為は、形式化したものではなく、神の御前における内なる悲しみの発露としてのものであるというのです。

主イエスの十字架の死は、私たちの神の前における罪の罰を背負うための死でした。私たちの罪ののろいを身代わりに受けて、私たちを救うための死だったのです。そうして三日目に主イエスは、私たちの罪ののろいを引き受け終わったことの証として死者のなかからよみがえってくださいました。

ですから、神の前における自分の罪を認め、主イエスを救い主として信じて受け入れる人は一人残らず、神の前に罪を赦していただくことができます。そればかりか、その心のうちに聖霊の注ぎをいただいて、神を愛し隣人を愛するという本来の人間としての目的にかなった素晴らしい人生を歩みだすことができるのです。クリスチャンの人生は、①御子キリストの贖いのゆえに神との間に与えられた平和のなかで、②神を愛し隣人を愛することも人生の目的として生きていくことが許された人生なのです。かつては良心の呵責に悩まされ、神を見失い、何のために生きているのかさっぱりわからず、「ああ、なんと人生はむなしいのだろう」とつぶやいていた人が、神を愛し、隣人を愛するという目的のうちに歩んで生きて行けるようになったのです。これほど素晴らしいことはありません。

 

3 新しいぶどう酒は新しい皮袋に

2:21 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。

 2:22 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」

 イスラエルでは水やぶどう酒などを保管するのに、羊のような動物の皮を用いました。新しい葡萄液は発酵して旺盛に炭酸ガスを発生させますから、それを入れた皮袋は内側からパンパンに膨らみます。皮袋が古くて硬いとはじけてぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しい生命力あるぶどう酒は、新しい柔軟な皮袋に入れれば、ちゃんと保管することができます。

 主イエスが来られてもたらされた新約時代のキリストの弟子の生き方は、キリストがもたらされた救いにふさわしいものであるべきだとおっしゃるわけです。では、新約の時代は旧約の時代の信者たちとどのような点で違っているでしょう。旧約時代の人々は、繰り返しいけにえをささげましたが、罪を赦されきよめられませんでしたが、新約の時代は神の御子がいけにえとなられたので神に罪を赦されたという確信と平安をもつことが許されているのです。

 また、新約の時代のもう一つの大いなる特徴は、よみがえられた御子が天の父のもとに行かれて、父のもとから聖霊をすべての信者に注いでくださったことです。かつて石の板に刻まれた戒めは、今は心の板にしるされましたから、私たちは内側から自発的に主を喜び従う者です。御霊は子とする御霊です。私たちは、主イエスを兄とし、神を「おとうさん」と呼んで、恐怖でなく、愛と喜びをもって神に仕えます。そこには、御霊の自由があるのです。 罪赦された確信をもち、御霊の自由の中で、私たちはキリストにあって神に愛されている子どもたちとして、愛に生きることが許されているのです。使徒パウロは旧約と新約のライフスタイルの違いを端的にこう言いました。

 「他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。 13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。 13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」(ローマ13:8b-10)

 「これはしてはいけないだろうか?」と消極的に考えるのでなく、むしろ積極的に、これは愛することだろうかと祈り考えて、そうだと思えるならば実行する。ただ私たちの会いは肉的になりがちなので、キルケゴールのことばをガイドにしています。「人を愛するとは、その人が神を愛することができるように助けることであり、愛されるとはそのように助けられることである」。そういう積極的な愛の生き方が、新しいぶどう酒にふさわしい新しい皮袋、福音の時代の新しいライフスタイルなのです。